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意志による楽観主義のための読書日記 https://blog.goo.ne.jp/tetsu814-august

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ム

意志による楽観主義のための読書日記
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2015/07/14

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  • 飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明 市大樹 ***

    古代史と言えば、『日本書紀』『古事記』そして中国に残された史書の記述を頼りに事実を類推するのが関の山だったが、1990年代後半以降、3万点以上の飛鳥時代の木簡の出土が相次ぎ、古代史に関する新たな解明が進み始めた。発掘された木簡が使われたのは7世紀中ごろから8世紀中ごろまでの飛鳥時代から奈良時代初頭にかけてで、発掘場所は飛鳥浄御原宮跡から飛鳥京跡、藤原宮跡あたり。日本のこの時代の文字使用では紙が筆写材料として普及したころであり、木簡は何らかの意思伝達手段である「文書木簡」、物品管理用の「荷札木簡」、その他として文字の練習用として使われた「習書木簡」と考えられている。3は藤原宮跡からの出土品で役人の自画像のようであり、「渥」というサインが入っている。その下は「大」「夫」「干」のような文字が見られ人物が描かれる...飛鳥の木簡ー古代史の新たな解明市大樹***

  • 相続の日本史 安藤優一郎

    平成天皇時代には生前退位が話題になった天皇位。古代では終身在位が慣例で、40歳くらいの立派な成人になっていることが皇位継承の前提となっていた。そのため、崇峻が暗殺されたときにはまだ成人していなかった厩戸皇子は即位できないため、敏達の后だった額田部皇女が推古となり女帝として初めて即位した。また兄弟がいる場合には兄弟継承という基本ルールもあったが、天智天皇は大海人皇子ではなく直系の子孫である大友皇子に継がせようとする動きが生まれることで壬申の乱のような争乱が続発し始める。天武天皇没後、長男の高市皇子は筑紫豪族の娘との子だったため、鸕野讚良(持統)との間の次男草壁皇子、大田皇女との間の三男大津皇子が後継者候補となる。しかし草壁皇子は28歳で早世、大津皇子は謀反の罪をかけられ死去、鸕野讚良が即位して持統天皇となる...相続の日本史安藤優一郎

  • 「阿修羅像」の真実 長部日出雄 ***

     2009年、東京国立博物館で開かれた「国宝阿修羅展」に訪れた方は多いと思う。天平時代に作られた国宝八部衆像と国宝十大弟子立像の現存する14体が、鎌倉時代に作られた薬王、薬上両菩薩像、四天王像などの重要文化財とともに興福寺を出て、東京と九州の国立博物館で記録的な165万人という入場者を集めた。あの印象的な表情を持つ阿修羅像を興福寺でのようにガラスケース越しではなく直接像を拝観できるスタイルだった。本書は、本尊釈迦如来像を護衛する八部衆の中でスーパースター的な役割を与えられている修羅像のモデルはいるのかという問いへの一つの回答、それは聖武天皇の皇后、光明皇后ではないかというものである。飛鳥から奈良時代にかけては、厩戸皇子が推進した仏教導入、大陸文化重視の制震を受け継いだ中大兄皇子、唐風一辺倒に楔を打ちながら...「阿修羅像」の真実長部日出雄***

  • 宣教師ニコライと明治日本 中村健之介 ***

    駿河台に建つニコライ堂の名前や建物自体を知っている人は多いと思う。テレビや映画、文学作品にもよく登場するために、その建物や名前は東京の風景に溶け込んでいて、周りのビルに挟まれても、何かしら風格のようなものを漂わせている。1891年に竣工した建物の高さは35メートルで、平屋が多かった当時ならば、文明開化を迎えて多くの文明を受け入れ始めていた時代の人々でもをさぞ驚かせただろう。日本に正教会の教えをもたらしたロシア人司祭のニコライにちなんで建てられたのでそう呼ばれているが、この日本ハリストス正教会復活大聖堂をつくった大主教・ニコライ自身は、このお堂ほど一般には知られていない。本書の筆者はロシア文学の研究者、ドストエフスキーとニコライのかかわりを辿るうち、サンクトペテルブルクの歴史古文書館で大主教の日記を発見した...宣教師ニコライと明治日本中村健之介***

  • 金印偽造事件 「漢委奴國王」のまぼろし 三浦佑之 ***

    学校時代に習った「漢委奴國王」金印は本物なのか、その疑問について追及した一冊。決定的な証拠はないが、偽物と主張できる状況証拠は大いにある、という主張。X線による金属組成分析を行うことにより、同時代とされる中国にて発見された金印と比較可能であり、今後真偽に決定的な証拠が提出される可能性もある。本書調査時点では金成分95.1%の23Kであり、同時代の中国出土金印と同程度で、真贋論争に決着はついていない。疑問点は以下の通り。1.鋳造持ち手の部分の作りが稚拙であり、蛇を形どって鋳造しようとしたが蝋型が鋳造過程でつぶれてしまい鎌首と尻尾が胴体にくっついてしまったのではないかと疑われる。2.篆刻漢時代の篆刻は彫りあとは、本金印のようにV字型になるような薬研彫りではないはず。志賀島で発見された金印はきれいに彫り込まれて...金印偽造事件「漢委奴國王」のまぼろし三浦佑之***

  • 大江戸 武士の作法 監修 小和田哲男 ***

    図解が分かりやすい江戸時代の将軍、旗本・御家人たちの暮らし、作法、行事、仕事、軍事警備、専門職などについて解説した一冊。楽しみながら読める。一章暮らしの作法下級藩士の基本給は1日あたり玄米5合朝顔栽培や金魚の養殖は下級武士の収入源藩士たちの住む家は4畳半の極狭物件毎朝、髪を結ってくれる出張サービスが存在した他二章武術の作法剣術の流派の数は700以上あった多くの武士は刀だけでなく素手でも強かった甲冑の着方を知らない武士はたくさんいたかなり奇抜で個性的!和洋折衷な幕末の軍装他三章行事の作法元日の朝、家の主人が真っ先に向かうのは井戸!将軍自ら家臣にお菓子を渡す厄除けの行事8月1日は武士にとって正月の次に重要な日鬼は外!福は内!豆をまくのは12月他四章仕事の作法弱小大名でも将軍並みに偉くなれた出勤は朝5時!勘定奉...大江戸武士の作法監修小和田哲男***

  • 和姓に井真成を奪回せよ 越境の会 ***

    2004年、中国の西北大学歴史博物館から、唐時代の日本人・井真成の墓誌についての発表があった。西安の工事現場から発見された墓誌銘は、蓋と墓誌の二枚の石からなっていた。そこには、開元22年(734年)に36歳で遠く日本から遣唐使一員として渡来し勉学に励んでてきた若者、井真成が思いがけず亡くなったことが記されていた。その死を悼んだ当時の唐皇帝・玄宗は井真成に「尚衣奉御」という従五品上という官位を授けたという。当時の新聞報道では、遣唐使では唐代の名前に名字、名前を変える事が多かったとの考察より、井真成は河内の国紀郡井於郷出身の日本名は葛井(ふじい)、井上、白猪(しらい)との推論を発表した。本書は、その推論に疑念を持ち、「井」という和姓が現存し、そのまま唐でも名乗っていたのではないかという主張をしている。2005...和姓に井真成を奪回せよ越境の会***

  • 山東直砥 明治を駆けぬけた紀州人 中井けやき ***

    1840年生、明治維新後に教育、出版、薔薇輸入などで活躍した民間人で、紀州生れ、同郷の陸奥宗光の懐刀ともいわれたという。参議院議員の山東昭子の曽祖父。若くしては尊王攘夷思想に感化され、蝦夷地情勢を背景に北方防衛の必要性を感じて箱館裁判所に勤務。京にあっては、坂本龍馬、後藤象二郎、松本奎堂、松本良順などとも交わった。三河出身の松本奎堂は昌平黌の俊才として知られ私塾双松岡塾を開き山東と行動をともにしたが天誅組の変で自刃。土佐出身の坂本龍馬に山東は蝦夷地防衛の重要性を訴え共感を得たという。後藤象二郎には坂本龍馬とともに出会ったが、その後事業で困窮した後藤を山東が度々援助した。紀州出身の陸奥宗光と山東は、坂本龍馬とともに乗船した夕顔丸で出会う。下関条約締結時の外相を務めた陸奥と懇意だった山東は陸奥の懐刀と呼ばれた...山東直砥明治を駆けぬけた紀州人中井けやき***

  • 「地図感覚」から都市を読み解く 今和泉隆行 ***

    現在ではWebで見る地図が自宅においては最も便利で、出先でもスマホで確認が可能。出先で車移動するときにはナビがある、という状況が一般的。仕事や観光で未知の町に行くときでも、Googleで経路検索をして利用する交通手段を選ぶことができる。紙の地図の出番はあるのか、それは一覧性、2つ以上の情報参照などによる全体感把握。本書では、デジタル、アナログを問わず、地図を読むための感覚を研ぎ澄ますための情報を集めている。本書で言う「地図感覚」とは、1.距離感をつかむ2.道路や周辺環境より街の新旧を想像する3.主要施設の分布から街の発展過程、集客力を想像するそのために最初に、航空写真、地形図、昭文社地図とGoogleMap、Yahoo!地図、マピオン地図など様々な地図の特性に馴染むことを推奨する。そのうえで、身近な場所の...「地図感覚」から都市を読み解く今和泉隆行***

  • 秀吉を討て 松尾千歳 ****

    家康は海外交易に熱心だった。中国、東南アジアに赴く朱印船貿易にも力を入れ、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスとの貿易も奨励した。特に朝鮮出兵でずたずたになった明・朝鮮との関係修復に力を注いだが、明との強い結びつきを持つ島津氏に頼ることが必要だった。秀吉の死後、慶長の役から帰国した島津義弘が連れてきた明の軍将は義弘の引合せで家康に謁見し、家康は日明勘合貿易の復活を希望する書状を託し帰国させた。明国はこの書状を受け入れて慶長6年(1601年)福建から2隻の船が派遣されたが硫黄島沖で堺の商人に襲撃され船は沈められてしまい、この事件で勘合貿易の賦活は頓挫した。こうした事態の修復のためには島津による協力が不可欠、関ヶ原合戦後の島津氏処分が他の西軍大名に比べて遥かに軽微、というより全くお咎めがなかった理由はここ...秀吉を討て松尾千歳****

  • 日本人のルーツ探索マップ 道方しのぶ ***

    本書では日本人ルーツの探し方として次のポイントを上げている。1.なるべく多種多様の資料(遺跡データ、人骨、DNA、古気候、環境変化)に目を配る。2.特定の資料に過大な重みを付け初めに結論ありきで突っ走らない。3.分析結果の意外性や矛盾を切り捨てないでその原因も探る。そこで、時代を次の3つに分類して日本人の祖先となる候補地を探ってみたのが本書。最初に日本列島に渡った旧石器人のルーツとしては①南の島々のロードを遡る東南アジアの人々②狩人たちがサバイバル戦略として移住してきた南シベリアから中国北部の人々。③ローカルな多島海を挟んだ韓半島からロシア沿海州などの人々その後の縄文時代を支えた縄文人としては④大型ピアスのルーツを持つロシア沿海州南部から遼河流域の人々⑤縄文イネと木の匠のルーツでもある長江下流域の人々⑥漁...日本人のルーツ探索マップ道方しのぶ***

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