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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • たじり杏まつり2023

    場所・広島県福山市田尻町田尻の「杏まつり」が4年ぶりに開催された。鞆街道の田尻の手前の水呑(みのみ)では、同じく4年ぶりに「ふくやまマラソン」も重なって開催された。「たじり杏まつり」は、なんといっても地域住民によるイベントという雰囲気が好きだ。企業や行政のにおいがほとんどしない。そこが魅力で、晴れた日の「杏まつり」には参加している。今年は快晴の春の日で、4年ぶりのイベントを堪能することができた。「たじり杏まつり」リーフレット田尻町の杏は、現在長野県の千曲市に次いで日本第二位の位置を占めて、西日本はおろか関東のほうにまで名を馳せています。この杏は一朝一夕に出来たものではありません。天和元年(1681)北九州の大分県から円明寺住職が入村の時、杏の種を持ってこられ、寺の墓地に植え付けられたのが始まりとしています...たじり杏まつり2023

  • 「石の島」北木島

    あらゆる企業は、造る製品や製造方法が50年前と一変している。北木島の石材産業は、50年間に採石→採石+加工→輸入材加工→石材製品バイヤー?その間セメントの普及で石材需要が大幅に減った。墓石へのシフトや、工場の本土移転があった。懸命な企業努力は新聞等で報道される。今後はどのように変貌していくのだろうか。(猫岩・重ね岩)(大浦)・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行北木島岡山県笠岡市沖の北木島。海べりの村上石材を訪ねると、海面下75mの石切り場(丁場)に案内してくれた。鉄のはしごを下りかけると足がすくんだ。75mといえばビルでいうと25階建てである。4トンの石をウインチで巻き上げるところだった。地上のモニターで地底の様子を映し出しながら操作する。深くなりすぎて地底が見えなくなったのだ。石が建築材に使...「石の島」北木島

  • 笠岡の大仙様

    笠岡の大仙様はずいぶんにぎわっていた。それは昭和40年代までで、昭和50年代から次第にお参りの人が減っていった。画像・笠岡市笠岡・大仙院2023年3月15日・・・笠岡の大仙様「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行大仙参り葬儀のあくる日(翌日)、シアゲのあとに笠岡市の大仙院に参る。経木に戒名を書いてもらい水向け供養をし、線香を立てて拝む。また死者の着物を棚に供える。(胡麻屋)笠岡の大仙様は毎月旧24日が縁日で、市が立つが、お参りして、苗やタネを買う。縁日にはお参りの人々で賑やかだが、ことに正月と盆には、お参りする人々で溢れる。盆月には、ご本尊の手に結んだ善の綱が、本堂内さらに、水向け地蔵まで張り渡される。お参りの人々は、死者への小遣い銭を捻り銭として、この綱に結び付ける。この銭が死者に届くという。以前には...笠岡の大仙様

  • 「石の島」小与島

    JR瀬戸大橋線の車窓から小与島を見ると、切り残した花崗岩が海の中に突き出ている。遺跡の島の様相だ。瀬戸大橋の工事期間中、与島・小与島はレジャー・観光産業で新聞テレビの注目を浴び続けた。・・・瀬戸内の風土と歴史谷口・後藤・石田共著山川出版社昭和53年発行島にはいくつかの類型がある。第一のタイプ比較的水田耕作の盛んな島である。淡路島、周防大島の西部。第二のタイプ畑地とともにいくらかの水田をもつ島。あるいは畑のみの島。忽那島や生口島。第三のタイプ農耕の島に純漁村の付加している島。周防大島の安下庄や因島の箱崎。第四のタイプ帆船の船着場として賑わい、造船技術や水夫(かこ)が多い。安芸鹿老渡・御手洗・伊予安居島・岩城島・弓削島・備後田島・備前日比・牛窓・大多府等。第五のタイプ採石の島。防波堤・石垣の築造が各地でおこっ...「石の島」小与島

  • 「石の島」伊予大島

    しまなみ海道の「大島大橋」を伯方島から越智大島へ向かうと、正面に見えるのがカレイ山。カレイ山は標高が231mで、その山頂近くまで断続的に石切り場を見ることが出来る。(大島大橋=伯方島・越智大島2007.12.9)・・・一般財団法人今治地域地場産業振興センター伊予の銘石大島石大島石の採掘が本格的に始まったのは明治初期といわれており、江戸時代から美しく堅牢な石として知られていましたが、当時の採石技術の未熟さ、搬出の難しさなどから、一部の人のみが知る名石でした。しかし、昭和30年以降墓石用に需要が急増したのに伴い、搬出用、機械や採掘用の削岩機、ジェットバーナー(切削機)などの設備が導入され、生産は大きく増加しました。大島石の特徴(青磁の輝き、100年品質)石材の最高級とされる大島石は、花崗岩特有の雲母、石英、長...「石の島」伊予大島

  • 「石の島」犬島

    犬島は変遷が激しい島だ。最初、阪神築港への石の供給で栄え、次に、帯江銅山の精錬所で栄え、今は、ベネッセのアートで栄えている。(岡山市東区犬島2022.9.26)・・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行「石の島」犬島花崗岩地帯の瀬戸内海には「石の島」と形容される島が数多い。古くは島の段々畑から巨城の石垣、近代には建物や橋に瀬戸内海の石が求められた。犬島1899(明治32)年、大坂築港の採石ピーク時に、どこよりも早く削岩機が導入されていた。銅精錬所も活況にあふれ、港には劇場、料亭、旅館が並んだ。人口は五、六千人でにぎわった。丁場が海べり、大阪までの距離が近い。現在の丁場は一つ、作業員は三人。大坂城の石垣復元に犬島産が使用されている。「コンクリの時代になり、おまけに輸入ものが増えりゃあ、役目は済んだ」...「石の島」犬島

  • 緒方郁蔵(研堂)

    井原や芳井の人からも忘れ去られた偉人。場所・岡山県井原市芳井町・・・・「芳井町史」井原市史編纂室平成20年発行緒方郁蔵へ位階追贈後月郡簗瀬村出身で、緒方洪庵と義兄弟の盟約を結んだ医師緒方郁蔵は、明治4年7月9日病死した(享年58才)。大正7年になり郁蔵の遺族が2年後の7月に没後50年祭を計画するが、これを知った大阪府知事は、内務・文部両大臣宛てに大正7年9月23日付で「位階追贈」の内申を行った。この結果、翌8年11月15日「従五位」の追贈が決定した。両大臣宛ての「内申」には、郁蔵について次のような評価が記述されている。洋学を修め、医術を究めもって新式の治療を施し、あるいは諸生を教導し、各種の著述をなす等、学界に貢献せし」・・・・・・「岡山人じゃが2011」岡山ペンクラブ吉備人出版2011年発行井原生まれ、...緒方郁蔵(研堂)

  • 「石の島」黒髪島

    黒髪島は住民ゼロのため定期船はない。採石場で仕事をする人たちは、専用船で通勤しているようだ。黒髪島の南側には”回天”で有名な大津島がある。(Wikipedia)黒髪島山口県周南市の徳山港から南西方向に1.2kmの沖合いにある島。徳山港から船で渡ると、細長い仙島の南にほぼ円形のかたちで横たわっている。周囲が約16km。黒髪島は、「徳山みかげ」と呼ばれる御影石の採石で知られ、明治の当初から採石事業が行われ、1917年の国会議事堂の建設に当たっては、議事堂の腰部、中庭の外装、空堀の周辺などに使用されている。この事業は、黒髪石材が一手に行っている。島自体は、国有地である。(徳山→大津島航路から見る黒髪島2014.7.12)・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行黒髪島黒髪島の石も、倉橋島とともに国会議事堂...「石の島」黒髪島

  • 「石の島」倉橋島

    倉橋島はずいぶん大きな島で、音戸町と倉橋島町の二町から成っている。現在は呉市だが、呉の人も音戸町や江田島市への往来はあろうが、倉橋島町への機会は数ないと思える。しかし、そのぶん知られていない魅力の倉橋町が多いような気がする。・・・議院石(Wikipedia)議院石(ぎいんせき)は、広島県呉市倉橋島町納地区で産出される赤色や桜色系統の色彩の花崗岩。大正時代に国会議事堂の外装に使用されたことから「議院石」と称される。(呉市倉橋島町尾上2013.1.15)「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行石の島倉橋島国会議事堂は瀬戸内海の石からなる。外装の石垣は、広島県の倉橋島、山口県徳山沖の黒髪島。二階以上の外壁と衆参両院の玄関の大きな柱が倉橋島の「桜みかげ」と呼ばれる花崗岩。『議員石』というブランドで衆参両院議員会...「石の島」倉橋島

  • 除虫菊

    瀬戸内海の海辺りの地方では、昭和30年代まで盛んだった除虫菊。瀬戸内のどこでも見れた除虫菊も今では因島まで行かないと、その花を見ることはできない。(2011.5.13因島)・・・・・「瀬戸内海を歩く」中国新聞社1998年発行花咲く島々白いじゅうたん広島県因島市重井町五、六歳の頃、朝は五時起きで、乾燥作業を手伝った。こぎ落した花部分を、広げたムシロに敷き詰める。乾燥を早めるため、途中で花を裏返す。一家総出の仕事である。五月から六月の数週間は殺気立っていた。乾燥しすぎると、花が黒ずみ,等級が下がり買いたたかれた。麻袋に大きな農家では五、六十俵出した。ピークは1962(昭和37)年。当時の換金作物の代表格。天気次第で作柄が変わり、相場商品だった。化学合成されはじめると、メーカーは除虫菊をあてにしなくなった。19...除虫菊

  • 北条早雲

    場所・岡山県井原市東江原町井原鉄道「早雲の里荏原駅」戦国時代、屈指の長寿の武将として知られる北条早雲。後北条氏の初代・北条早雲の生誕地である備中高越城の、いちばん近い駅でる”早雲の里江原駅”の駅前に、早雲の石像が建っている。(像の碑文)戦国の魁北条早雲は、永享4(1432)年、高越城主伊勢新九郎盛定の子として生まれ、新九郎と名乗った。備中伊勢氏は室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏の分流である。新九郎は青年期を荏原荘で過ごし武芸と学問を菩提寺法泉寺の古潤仁泉に学び、三十三歳で京に上り伊勢貞道の養子となり足利義視に仕え応仁の乱で伊勢に下る。その後妹の嫁ぎ先、駿河の守護今川家の内紛を収めた功によって駿河興国寺城主となった。その後堀越御所に足利茶々丸を攻め、またたく間に伊豆一国を平定、さらに版図を相模に拡...北条早雲

  • 青春歌謡映画は楽しい「わが愛を星に祈りて」

    昭和41年松竹「わが愛を星に祈りて」、映画は福山市船町の映画館で見た。上映開始と同時に、館内はうえーーーーんと泣き声の大合唱にはびっくりした。あんな経験は、その一度しかない。青春歌謡映画は楽しい「わが愛を星に祈りて」

  • 田植え唄

    農業をしていた両親は、昭和44年に最後の田植えと稲刈りをした。それ以降、農家でありながら米を作らなくなった。手植えから、機械化へ相当悩んだ・・・のでなく、いくらか悩んだようだ。機械化するほどには田んぼを所有していなかった。米あまり、米の自由化が叫ばれていた。で稲作を止めた。その田んぼは、イチゴとイチジク畑に変わった。・・・小学校では「田植え休み」が3日間あった。休みはうれしいが、そのぶん夏休みが少なかった。田植えは、子どもにとってはんぶん祭りきぶんだった。三軒共同で田植えをし、終わったら輪番で「しろみて」をしていた。ヒールにかまれる(平均日に2~3匹)のが嫌いだった。みんな、そうだろうけど。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行田植え唄美星町暑や苦しや手拭いほしやさまの浴衣の袖ほしや田植え時には子供...田植え唄

  • 臼挽き唄

    子供の頃、どこの家にも既に使用されなくなった石臼を、軒下や縁側や土間に保管していた。小学生の時、母方の祖父母宅で、祖母が「そば粉」を作って、蕎麦を作って食べさせてくれた。それが自分が見た、最後の臼挽きだった。・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行唐臼挽き唄唐臼挽きは夜なべ仕事で、娘がいる家には村の若衆たちが手伝いにきた。夜食には団子または大根飯が必ず出た。各地〽臼の軽さよ拍手のよさよ愛てかわすな明日の夜もわしとお前は臼ひき女ひいて回せば子ができる・・粉挽き唄石臼で屑米・麦・そば・豆など粉にしてよく食べた。とくに団子がよく用いられた。思い石臼をゴロリ、ゴロリと挽きながら、ゆっくりと歌うのである。笠岡市臼よ回え回えきりりとしゃんとここは道端ひとが聞く・・・米搗き唄米搗きは、はね杵を踏んで精米をした。一...臼挽き唄

  • 庭歌

    母の話2005・2・5みしろも今はいらんようになった。稲や麦や除虫菊や。干しつきょうた。何回も干すとこを変ようた。陽の照るトコと照らんトコと。うちらでもかみざのくちはじきかげるけえ、ひどいときゃ日にさんべんぐれい向きを変ようた。・・・「鴨方町史・民俗編」鴨方町昭和60年発行前庭前庭はカドと呼んでいる。カドには、籾など五穀を筵にひろげて干す。筵干しとかカド干しという。干しあがると、脱穀・調整作業をする。カドは筵干しの場であり、作業場・牛繋ぎ場・まき割り場・子供の遊び場である。また、苗床・温床をつくることもあった。昭和30年ごろから乾燥機で干すようになり、カドは庭園化して行く。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行麦打ち唄(唐竿で叩いて実を落とす作業)笠岡市唐竿叩きゃすりゃお手に豆ょ七つヨー夜は殿さに寝...庭歌

  • 青春歌謡映画は楽しい「十七歳のこの胸に」

    昭和39年東映「十七歳のこの胸に」。去年西郷輝彦さんが亡くなってすぐ、追悼の意を込めて作ったが、今でも淋しさを感じている。青春歌謡映画は楽しい「十七歳のこの胸に」

  • 吉舎(きさ)までユキワリイチゲを見にいった、その帰り道

    吉舎は遠いけど、一度その花を見たかったので遠征した。車で1時間40分くらいの距離。初めてみるユキワリイチゲは、思っていた通りの可憐で、春を感じる清楚な花だった。(吉舎)花の形を実際に目で見て知ったので、笠岡の手前の井原まで帰ってきたとき、井原でも咲くといわれる場所に寄ってみた。すると、吉舎よりも多くのユキワリイチゲが咲いていた。わざわざ遠くまで行かなくても、近くに、より多くのユキワリイチゲがあった。(井原)日時・2023年3月7日場所・広島県吉舎町安田・岡山県井原市芳井吉舎(きさ)までユキワリイチゲを見にいった、その帰り道

  • さなだ組みの唄

    真田組みは、老女と子供の手仕事であったように思う。家では祖母が真田を組んでいた。母は一度も真田をしていない。←真田をする暇がなかった。仲買人が大冝からと、吉浜から来ていた。管理人が高校生になるころ、真田は無くなったような気がする。・・・・父の話・2000・6・17裸麦の穂をそろようた。先は先で取り、中は中でとりょうた。上の細いとこと、真中辺を切る。麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。今はだれもしょうらん。麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。(笠岡市立城見小...さなだ組みの唄

  • 三郎島の話

    三郎島の峠で、農夫の方がひと休みしていた。三郎島の話を聞いた。日時・2023年3月3日浅口市寄島町三郎・・・・イノシシはまだおらんけど、タヌキがいる。タヌキは何でも食べる。芋もダイコンも食べられてしまう。イノシシは柵を飛び越えるが、タヌキは柵の下をとおてくる。(防護柵が別ということと、島の畑にその費用はあわない)仕事は朝する、誰ぁれも昼からはしない。そしたら、それを知っとる外国人が一人でなく集団で来てミカンを盗ってしまう。見つけた人が言うと、「オカネナラハラウヨ」と言う。何んも悪いことをしょうると思うておらん。人がおってもなめとるなあ。ここらは山じゃあなく、全部畑だった。しだいに畑をせんようになってあの桜のまわりも手入れがまわらんようになってきている。通学船(学校船)ワシが小学生の頃は、干たら歩いて行きょ...三郎島の話

  • 山唄・柴刈り唄

    桃太郎さんのお話で有名な、”おじいさんは山へ柴刈りに・・・”子どもの頃は、よく山へ行った。松葉集め・やくべ木集め・柴刈り、その三つの記憶が混在して区別できない。薪にしたのか肥料にしたのか牛のエサだったのかも、遠い昔となってよくわからない。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行山唄・柴刈り唄秋の彼岸になると柴刈りが始まる。柴は牛の厩に入れられて敷き草にされ、それが厩肥になる。また堆肥にされたり、そのまま切って田に入れて肥料になる。金肥は魚肥か菜種粕ぐらいでわずかなものであり、肥料の中心は柴(堆肥・厩肥)と人糞尿・灰であった。反当り200肥は入れた方がよいとされ、五反百姓では少なくとも、延べ20日間の柴刈りをしなければならない。柴刈りは朝から晩までの仕事なので弁当持ちで行き、鎌はすぐに切れなくなるので、...山唄・柴刈り唄

  • 笠岡の「しめ縄」

    一年ほど前、幼なじみのHくんから、お宮の”しめ縄”の伝承で苦慮している話を聞いた。それで笠岡市内の神社のしめ縄を見て歩いた。各地区で共通しているのが、村祭りの2週間ほど前に、しめ縄を作ること。共通してないのが、しめ縄の形状。ほかに、地域人口の減少等で、しめ縄が無い神社、化繊のしめ縄の神社もあった。笠岡の「しめ縄」

  • 三月三日 雛祭り

    子どもの頃、女の子の家で「ひな祭り」を祝うことはあったかもしれないが、雛人形がある家は、城見にはどの家にもなかった。管理人の家では行事も何もなかった。念のため、姉に確認した。「家では何もしていない。よその家の雛飾りも一度も見たことはない」しかし、楽しかった思い出はある。城見保育所では、先生(保母さん)が千代紙でお雛様を折って壁に飾っていた。そして小学校と合同の学芸会で”今日は楽しいひな祭り・・”を歌っていた。それだけで、じゅうぶん楽しい「ひな祭り」だった。・・・・・・雛祭り「岡山県史」春の節供は雛祭り・女の節供・桃の節供などと呼び、旧暦三月三日の行事である。古くは上巳の節供といって、三月の初めの己の日に、厄難を人形に負わせて、川や海に流し送る水辺の行事であった。後にはもとの意味が忘れられて、人形を飾って、...三月三日雛祭り

  • 「奥の細道」を行く

    笠岡市名誉市民の小野竹喬画伯の代表作の一つに、“奥の細道句抄絵”があり、何年か前に「竹喬美術館」で特別展があった。その時、作品に大きな感動を受け、自分も一度、画伯のように芭蕉の場所に行ってみたいと思った。芭蕉の道を、何回かにわけてまわった。今回その写真を整理してみた。「奥の細道」を行く

  • 白石踊り

    「白石踊り」は笠岡市を代表する文化財であり、最大の観光資源でもあったが、残念ながら行政が長期間、全くの無力だった。過疎化や少子化で、踊りが絶えることを危惧してやっと行政も(守ることに)腰をあげた。高校生や有志の市民が積極的に参加している。そもそも「白石踊り」は、阿波の徳島の「阿波踊り」に負けない魅せる力があると、いつも思っている。昨年はユネスコの文化遺産委に登録された。・・・リーフレット「おいでよ白石島」白石踊源平水島合戦で戦死した人々の霊を慰めるために始まったと伝えられる白石踊。8月14日から16日にかけて月明かりの下、深夜まで踊ります。一つの音頭と大太鼓の音に合わせて、男踊・女踊・娘踊・奴踊など十数種類の異なる踊りを同時に踊ります。一つの輪の中で混然一体となって雄壮活発・豪華絢爛に踊られる姿は、優雅で...白石踊り

  • 糸引き唄

    綿花を近年よく見る。趣味で家庭菜園で栽培し、白い綿を観賞したり、それを手芸に使ったり、そして糸車で糸を紡いだりしている。明治頃までの農家は、畑で綿花を栽培する。収穫する。糸を紡ぐ。機織りで布にする。着物に編む。紺屋に出す以外は、そのすべてを自作していた。・・・・「岡山県史民俗1」岡山県昭和58年発行糸引き車で(糸車)で撚りをかけながら糸に引いた。右手で車を回し、左手でシノから糸を引きだし撚りをかけて糸にした。夜なべでアンドンの下で毎夜糸引きをしたものという。手引きは普通は太くて不揃いだった。織るとゴツゴツした厚地の手織り木綿になった。糸引きは根気のいる仕事で夜なべは眠いから娘たちは糸車とシノを持ち娘宿に集まって糸紡ぎ唄を歌って糸引きをした。・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行製糸唄機織りは昭和初...糸引き唄

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