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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 茂平の偉人・松浦岩蔵さん

    岩蔵さんの銅像は無い。世に偉人でない人の銅像も多いし、銅像が無い偉人も多い。・・・父の話・2001年5月1日まだこの辺(茂平、それに茂平と並んだ果物どころ今立など)にブドウがないときに岩蔵さんはつくった。岩蔵さんは国繁の平地に甲州ブドウ、山側にも甲州ブドウを植えとった。おじいちゃん、(オヤジ)といっしょに国繁の岩蔵さんのところに作り方を聞きに行っていた。(岩蔵さんが先駆者だと、いう感謝のような、そんな語りくちだった)・・・・・岡山文庫「岡山の果物」(昭和43年初版)松浦岩蔵氏は明治2年2月25日城見村大宣に生まれ、日清戦争除隊後全家を携えて転居。松浦氏は尋常小学校を卒業後農業を手伝っていたが、明治19年18歳の時発心して、無縁の孤島に等しい国繁の不毛の地に移り開拓に着手した。氏は日清・北清・日露の三役に従...茂平の偉人・松浦岩蔵さん

  • GWイベントに行く②内海アートフェス

    日時・2023年4月28日場所・広島県福山市内海町(田島・横島)田島・横島は燧灘に浮かぶのどかな瀬戸内海の島だが、今は内海大橋によって陸続きになっている。その田島・横島で「内海アートフェス」が開催されているので、島見物も兼ねてアートを見に行った。7つの展示会場で、約60作品が屋内・屋外に展示されていた。予想を超えた力作が多く、感動や満足感があった。備後(広島県東部)や備中(岡山県西部)にお住いの人には、是非ともお勧めしたいと思う。・・・イベント名・内海アートフェス2023場所・広島県福山市内海町(7ヶ所)時間・10:00~17:00期間・2023.4.21~5.14の金・土・日・祝日料金・無料・・・GWイベントに行く②内海アートフェス

  • GWイベントに行く①めん祭

    日時・2023年4月29日場所・岡山県浅口郡鴨方町鴨方は、戦前から農閑期の副業として麺作りが盛んだった。今は原料は購入、麺づくりは機械化され、工場で年中製造されている。管理人は自称ソーメン道一級の素麺好きだが、買うのはいつも、鴨方の麺だ。4月29日は小雨の中、麺の愛好家でにぎわっていた。GWイベントに行く①めん祭

  • 果物

    明治維新後に、日本人が肉食や洋食や果物や野菜を食べ始めたが、なぜか教科書では果物と野菜が抜けている。主食ではないからだろうか?戦時中には栽培を制限もされた。現代では誰もが食べている、大切な果物と野菜の歴史を、教科書や史書にも載せてほしいものだ。・・「物語・食の文化」北岡正三郎中公新書2011年発行果物わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、キイチゴ(木苺)などだけで、弥生時代になって、モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。現代ではデザートとしての食事の一部分を...果物

  • 茂平の磯で食べれるもの

    茂平の子どもが磯で遊ぶことは多かったけど、「食べれるもの」を獲るというのは、あまりなかった。アサリ、タイラギ、つぶ、夏限定でトコロテンのテングサ。城見漁協も磯の漁業権はなく、誰でも自由に入って、遊んだり、獲ったりしていた。・・・・(父の話)海で捕るものあさりとつぶくれぃじゃ。ところてんは拾いにいきょうた。毎年できるゆうもんじゃあ、無かった。藻の先にできる。まちごうて他のを採ったりする。たべるものがないのでそれでも食びょうた。2000・12・24たいらげ三角形のような。ねべぃ所におった。砂のあるところにゃぁおらん。つぶつぶはなんぼうでもどこでも。石があるとこ。蟹こおまい蟹がおった。そりょを獲ってたいてたびょうた。ちいとの時はたかん。なんぼかようけい獲った時にじゃ。親指くれいじゃ。おいしかった。漁師が「こりょ...茂平の磯で食べれるもの

  • 北木島の流し雛(笠岡市指定重要無形民俗文化財)

    豪華な雛人形を飾ったり、見せたり、見物したりして楽しむ。それが今の雛祭り。しかし、ほんの数十年まえ迄の日本は、(長者を除き)藁や紙の雛人形で節句を祝っていた。・・・ひな祭りの源流昭和33年3月3日~天声人語~荒垣秀雄ひな祭りは元は流しびなという戸外の行事だった。人間には罪の自覚や穢れの意識がある。その罪の罪や穢れを去って、清らかになりたいとの願いやあこがれがある。昔の人はそれを素朴な形で表現した。人間の姿に似せて人形をつくる。それを形代として、わが身の身代わりに罪や穢れを背負ってもらい、川や海に流す。ひなを流したあと、身も心もきれいになったと、せいせいした気持ちで、また精出して働く。いかにも原始的な宗教心のようだが、一年のうちにはそうした折り目を正しては、また明日から心も新たに出直そうとする。われらの古き...北木島の流し雛(笠岡市指定重要無形民俗文化財)

  • 鶏肉のスキヤキ、牛肉のスキヤキ

    年に数回スキヤキを食べることがあった。肉といえばクジラ肉だったのでスキヤキは美味しかった。スキヤキの肉は庭で飼っているニワトリだった。弱ったり、卵を産まなくなったニワトリを処分して、肉から内臓まで父が上手に料理していた。空腹を満たすのが三度の食事だったので、スキヤキは農家にとって、年に何度かのご馳走だった。夏休みの日、福山のおじの家に行くと夕食(※1)にスキヤキが出た。それはニワトリでなく、牛の肉。牛肉。色は赤くて、嚙み心地がやわらかだった。牛肉のスキヤキ以上にびっくりしたのが、生卵が小さなお椀に一個ついていたこと。生卵一個があこがれの食べもので、それにスキヤキがつく。驚き桃の木山椒の木!田舎の生活と、町の生活の格差に驚いた。生前、両親は「吉田から馬の肉を売りにきていた。あれはうまかった」と話していた。ク...鶏肉のスキヤキ、牛肉のスキヤキ

  • 野菜を買う

    家で食べる野菜・果物を買うことはなかった。ただ、来客用に買うことは年に何度かあった。(年数回)それは、バナナやリンゴ。野菜はない。・・・(父の話)(買う野菜?)ねかった。みなつくったものを食びょうた。談・2001年7月23日・・・・・「矢掛町史」農産物の変遷野菜は、多種の作物が栽培されていたが生鮮野菜類は、各地区とも一町歩未満の植付け面積で自給的生産の濃厚なものであった。・・・「金光町史」金光町平成10年発行野菜・芋類どこの家でも自家用野菜や芋類を栽培する畑を家の近くに持っていた。一年中畑を遊ばさせることなく、四季折々の野菜が計画的に栽培された。・・・「福山市引野町誌」引野町昭和61年発行おかず自分の家で栽培した野菜が中心だった。しかし海岸線を持っていた当地方では貝類、カキ、カニ、シャコ、雑漁などの漁をす...野菜を買う

  • ザクロの実

    毎年秋になると、浜のTちゃんの家から道側に、ザクロの実が倒れ掛かるように実をつけていた。あの実がほしい。あれを食べてみたい。それが少年の夢の一つだった。小学校の6年のとき、家を建て替えた。その時、庭に親がザクロの木を一本植えてくれた。翌年の夏、花が咲き、秋になると実になった。毎日が楽しみで、実が割れて、熟れてくるのと、食べごろになるのを待った。ある日、熟れて実は透明色で、これ以上はない大きさ・色になった。そして、ついに、長年のあこがれれであったザクロの実を木からちぎった。一口、くちにいれると、すっぱくて、味は無かった。半分食べても、すっぱさを感じるだけだった。一個食べ終わるころ、もう二個目を食べようという気はまったくしなかった。そのザクロは今は、古木になったが毎年、花を咲かせ,実もついている。実を食べたの...ザクロの実

  • 倉敷で労研饅頭(ろうまん)が蘇る

    明日・明後日、G7労働雇用相会合が倉敷の「倉敷アイビースクエア」で開催される。それに合わせ、岡山木村屋が倉敷ほか岡山県下で「労研饅頭」を復活販売するそうだ。ろうまん誕生の地、倉敷で復活はよろこばしい。(ろうまん・松山市)・・・・「倉敷市史6・資料編」大原孫三郎が労働理想主義を具体化するため「倉敷労働科学研究所」を設立した。大正14年、集団栄養を取り上げ、紡績労働者の所要カロリー決定による給食炊事の献立改善に寄与した。労研饅頭の開発もこの研究の産物であった。労研饅頭は主食代用品としての栄養価値がきわめて高く、日本人に親しみのある一種の「蒸しパン」で蛋白質・脂質・含水炭素が高かった。昭和6年、時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)の一環として労研饅頭普及運動が始まった。食糧問題解決の国家事業として指定組...倉敷で労研饅頭(ろうまん)が蘇る

  • お茶を飲む

    お茶は、ご飯を食べて茶瓶から・・・湯吞み茶碗でなく・・・ご飯を食べた、その空の茶碗についで呑んでいた。茶瓶も時代劇に出るような立派なものでなく、鋳掛屋が何度も修理しつくした茶瓶だった。お茶の味は不味かったが、学校の先生が「昔はさ湯を吞んでいた。病気の時だけお茶を飲んだ」と話していたので、家のお茶は不味かったが、飲めるだけ贅沢なのだと思っていた。小学生は水筒を持って行くのは、遠足の日だけだった。昼の弁当は、お茶なしで食べていたのだろうか?思い出せない。(中学生の時は、アルミ弁当のフタに当番がヤカンからついでいた。それは麦茶だったように思う)・・・(父の話)お茶うつろの畑でつくりょうた。葉っぱ。若い葉っぱ。これをうむしょうた。もちをつくときうむす、あわあな感じでうむしょうた。くどで。ホトンドが番茶じゃ。何ぼか...お茶を飲む

  • スイカを食べる

    冷えたスイカを食べる時があった。冷えたスイカは美味しかった。それはお盆の時。盆の来客用にスイカを一個か二個、井戸で冷やしていた。タライに井戸水とスイカを入れて1晩以上かけて冷やしていた。客が揃った頃を見計らい、母が包丁で真っ二つに切る。この時、見る方も少し緊張する。そのわけは、稀に熟れていない、または逆に盛りが過ぎてスカスカの場合があるから。更に等分に小さく切って盆にもって客に出す。そのスイカを食べる。冷えたスイカはうまい。うまかった。(スイカを食べる・松竹映画「馬鹿っちょ出船」都はるみ)・・・・普段は冷えてないスイカ、というより熱いスイカを食べていた。形の悪いスイカを、おやつ代わりで食べていた。水よりは少し腹が太るし、それに甘みもある。スイカの種はカドに向かって吹き飛ばし、食べくさしは牛のエサ箱にほうり...スイカを食べる

  • カブトガニの味 ~腹が減ったらドンガメを食べる~

    夏休みのことを、ヒトコトで言えば「海で遊ぶ」ことだった。海は楽しかった。面白かった。飽きなかった。足の裏には、いつも切り傷があった。朝、目が覚めると、「汁かけ」を食べて海へ行っていた。海に行けば、必ずどこかで子供が遊んでいた。満潮では泳ぎ、干潮では磯遊び。ほっとけば朝から暗くなるまで、海にいるのだが、途中で腹が減る。腹が減るので帰る。家の柱時計を見ると、昼飯時間は12時から午後2時半の間の、日変わりだった。食べたら昼寝をした。親も昼寝をしていた。しかし、遊びをやめられず、家に帰らずに海で遊ぶ日があった。その時はドンガメを食べていた。海辺で、木の葉、紙、木切れ、の薪燃料を集める。石ころで、くどを作る。猟師の船からドンガメを一匹失敬する。ドンガメを焼く。焼き始めると、強烈な臭いが、まわりに漂う。鼻をつまんで、...カブトガニの味~腹が減ったらドンガメを食べる~

  • 鳥獣の肉

    いちばん多かったのは、卵を産まなくなった鶏の肉。他に、羊家で飼っていた羊が死んだとき、何日間も羊の肉を食べた。雀空気銃を持っていた人が雀を撃って、それを焼いて食べたが、中身は少なく炭を食べているようなものだった。馬父母や姉は食べたようだが、自分はない。犬戦後すぐの日本や、戦時中の外地で野犬を食べていたそうだ。(父の体験談)豚戦時中の外地(中国)で、民家の豚を横取りして食べていたそうだ(父の体験談)・・・「成羽町史民俗編」成羽町平成3年発行鳥獣の肉農家は家畜として牛を大切にしたため、普通これを食べなかった。兎・鶏・猪等の肉も食べるようになったが、一般の農家が食べるようになったのは、そんなに古くからではない。・・・・・・「矢掛町史民俗編」矢掛町昭和55年発行獣肉廃鶏を食べる程度であった。・・・「岡山の食風俗」...鳥獣の肉

  • 「誘蛾灯」は、初めて見た蛍光灯

    6月の楽しみは蛍狩りだった。暗くなると、竹ぼうきを持って田んぼ方面に出かけた。かまんどうの南側、砂川土手ふきんに蛍は多かった。砂川の”しんやん”の近くに誘蛾灯があった。ぼっけぃ明るかった。電球とは輝く光がちがった。白く光っていた。蛍光灯の下には四角形の器に水・薬品・油が混ざって、その中に蛾をはじめ昆虫や虫の死体が浮かんでいた。独特の匂いがしていた。茂平ではもう一ヶ所、西ノ谷にも誘蛾灯があったような気がする。中学生になって、父が勉強机に置く蛍光灯スタンドを買ってくれた。それが、我が家では蛍光灯の第一号だった。・・・「福山市引野町誌」ぎょうせい昭和61年発行メイ虫昭和15年農村電化の誘蛾灯(蛍光灯)が普及した。山峡のカンテラで、二化メイ虫(=ドウ虫=蛾)を駆除した。・・・「北川の民俗」北川の昔を訪ねる会202...「誘蛾灯」は、初めて見た蛍光灯

  • 麦飯

    ご飯とか、晩飯、朝飯という言葉は、イコール「麦飯」だった。茂平は農業・漁業の家で9割を占めていた。米のご飯を食べていた家は1~2軒あるか、ないかだったように思う。・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行麦ご飯農家でご飯といえば麦飯が当たり前であった。どこの農家でも裸麦と小麦を栽培していた。食用の裸麦はコピンという品種で、ヤハズは麦稈真田用の裸麦で、この実は主に家畜の餌になった。米も麦も家で唐臼を踏んで、五分から七分程度まで搗いた。雨が降ると唐臼踏んで、子供も学校から帰ると臼を踏んだ。大正前後までは丸麦だったが、大正の後半から「ひしゃぎ麦」にと呼ばれる,押し麦が使われるようになった。昭和30年ごろまでに米飯が主体となった。・・・「美星町史」美星町昭和51年発行主食水田がかなりある地区でも、米を常食とする...麦飯

  • 美星高校

    場所・岡山県井原市美星町三山無くなった日・昭和61年分校廃止撮影日・2019年10月27日(美星ふるさと祭)”美星高校”は、自分の記憶にないので、どういう歴史の学校だったのだろう?と思っていたが「美星町史」に載っていたので転記する。・・・「美星町史」美星町昭和51年発行昭和18年青年学校が、現在の矢掛高校美星分校の地に設立され、昭和23年4月1日に岡山県立第一矢掛高等学校美星分校として衣替えし、農業、家庭の二課程をおく職業課程の高等学校として再発足した。その後、地域農業との結びつきを強めたこともあって、進学者は年々増加し、昭和27年10月には「美星高校」として独立した。さらに昭和29年6月1日、美星町の誕生に伴い「町立」となり、町民の教育優先の思想に支えられて、校舎等諸施設の整備が新町発足時の重点施策とし...美星高校

  • 山間部の人は魚を食べる機会が少ない、という本を見ることが多いが農山漁村に生まれ育った管理人が思うに、山村も漁村も大差はなかったと感じる。漁師は魚を売って生活するので、獲った魚は食べないで売る。管理人が食べていた魚は、雑魚の代表であるママカリ、(漁師の隣家からザルにいっぱい)母が行商の魚屋からたまに買うサバ、サンマくらい。山村の人よりも雑魚のママカリが多かった程度だ。(と思う)・・・「矢掛町史民俗編」矢掛町昭和55年発行魚正月ぶり、春のサワラ、イカ、秋祭りに食べるぐらい。間では月に二、三回程度であった。・・・・・・「成羽町史民俗編」成羽町平成3年発行魚肉のおかず海魚海魚では春は鰆の季節、山間部でも何軒かは鰆を買って、刺身や吸物にして、平素手伝ってもらう人をねぎらう風習もあり、鰆振舞と言った。祭りには、刺身の...魚

  • 米の飯

    米の飯を食べるのは年に2~3回で、麦の入っていないご飯に強いあこがれがあった。高校に入学する頃、やっと、家では麦飯から米の飯になった。米の飯はうれしかったが、いったん慣れてしまうと、あこがれていた程には美味しく感じなかった。高校卒業後、寮の食堂が外米(長い米)だった。食費は安かったけど、あれは美味くなかった。タイかどこか、東南アジアから輸入しているということだった。・・・米飯米の飯を食べたのは「正月三日に盆・祭り」それに節供や冠婚葬祭のときであった。「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行・・・・・・「岡山の食風俗」鶴藤鹿忠岡山文庫昭和52年発行米飯米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。米麦飯庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていた...米の飯

  • 美星町八日市

    場所・岡山県井原市美星町黒忠訪問日・2023.4.16美星町の八日市は山々がひろがる美星町に、突然のような商店街が出現する。江戸時代から三歳市で町並みを形成していたようだ。・・・・「岡山県史・自然風土」岡山県山陽新聞社昭和58年発行黒忠八日市黒忠八日市は、毎月八日、十八日、二十八日に市が立つ三歳市として、近郊農村の中心として栄えた。特に七月八日の盆市と、十二月十八日の暮の市とはともに大市であった。川上郡・小田郡・後月郡の境界にあたり、近くの村々はもちろんのこと、成羽・地頭・井原・矢掛など各方面からの交通路が早くから通じ、明治中期まで三斎市が立っていたのである。笠岡や西浜(ようすな)からは魚や塩、成羽・領家からアユ、井原から酒と餅などが搬入され、八日市は主として食べ物を扱い、市には、民家のおもてを借りて商い...美星町八日市

  • 高山市(こうやまいち)

    場所・岡山県高梁市川上町と井原市芳井町訪問日・2023年4月16日(日)”弥高つつじ祭り”が4年ぶりに開催された。つつじを見たあと、高山市(こうやまいち)を歩いた。地図を見るとわかるけど、高山市は「備中」「備後」二か国の、ほぼ中央に位置している。岡山県新見や、広島県東城の物資は高山市を中継地として繁栄した。吉備高原の山間部にあるこの町は、備後に接し、町内は川上郡・後月郡に分断され現在も岡山県高梁市と井原市に行政が分かれている。・・・「岡山県史・自然風土」岡山県山陽新聞社昭和58年発行高山市高山市には毎月己の日には市が立ち、特に春秋二度ずつの市は大にぎわいだった。牛市・魚市・藍市・煙草市が立ち、新見あたりでも「魚がほしけりゃ高山へ行け」と言われていたという。成羽川と小田川の分水嶺にあり、もとの高山市と三原村...高山市(こうやまいち)

  • 斎藤の「中華そば」

    父はたまに笠岡に行くことがあった。その時は”ふうまん”(=ふーまん・夫婦饅頭・大判焼)を土産に買って帰ってきた。既にふうまんは冷えていたが、小豆のあんこがなんとも美味かった。そして必ずのように「斎藤で支那そばを食べてきた」と言っていた。父の笠岡行は、子ども心に「ふうまん」と「斎藤の支邦そば」がセットになっていた。しかし「ふうまん」はわかるが、「支邦そば」はわからない。なんだろう「支邦そば」?、蕎麦、うどん、???何年か経つうちに「支邦そば」は「中華そば」と呼び名が変わってきた。「即席ラーメン」という商品が田舎でも見聞きしだした。その「ラーメン」という言葉は「中華そば」を意味することのようだった。麺の色が黄色らしい。高校生になって、クラスで笠岡の人がこっそりと、「昨日斎藤が保健所に、△△したので営業停止され...斎藤の「中華そば」

  • サツマイモ

    農家の母屋の床下に芋穴があった。スクモの中にサツマイモを入れていて、それを年中食べていた。ふかし芋は大人の間食、子供のおやつを代表するものだった。ふかし芋は戸棚に必ずあるもので、三食以外の腹の足しにしていた。焼き芋・天ぷら・あんころ・切り干し・混ぜ飯等でも食べた。笠岡には江戸時代”芋”代官がいて、昭和に”芋”博物館もあった。・・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行サツマイモサツマイモは大切なご飯の足しであった。納屋や下の間の下に穴を掘って芋床を作り、芋を山のように入れて、間にすくもを入れて保存した。特に戦時中にはサツマイモ、ジャガイモ、南瓜は人々の命を支えた大切な主食であった。「金光町史民俗編」金光町平成10年発行・・・・・「矢掛町史民俗編」矢掛町昭和55年発行サツマイモ米の代用によく食べた。また第...サツマイモ

  • おやつ・間食

    「おやつ」でまっ先に思い浮かべるのは、「ふかし芋」。家にあるおやつ。ふかし芋・はったいこ・炒り豆・吊るし柿・干しイチジク・あられ餅・柿・子供が自給するもの。びーびー・しーしー・ぽんぽん・ゆすらうめ・なつめ・ニッキ(にっけい)・どんがめ・さるきん・蜂の子・食用カエル・買う物飴玉・キャラメル・行商パンパン菓子・アイスキャンデー・・・・・・「金光町史民俗編」金光町平成10年発行おやつ飴玉大きな飴玉は二銭した。お菓子を買って食べることはまれであった。大豆やソラ豆を煎ったもの氷餅を焼くアラレを煎るグミ、ユスラ、イタドリそら豆の塩ゆで・・・・「福山市引野町誌」引野町昭和61年発行間食ふかしいも焼き芋そらまめ、えんどう、など豆類を炒ったもの吊るし柿果物・・・「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行子供の間食春にはグイビや...おやつ・間食

  • パンと昭和

    パンは「アンパン」しか知らなかった。小学校の3~4年生のころ、「完全給食」と呼ばれる学校給食が始まってから「コッペパン」というパンを知った。給食がある日にはコッペパンを食べていた。人造バターでコッペパンを食べていたが、時折、小さく切ったほんとのバターが付いていた。バターは美味かった。中学2年生の時、何かの授業中「家で朝、パン食の人はいるか?」の問いに3人(クラスの生徒数57~58人中)が手を挙げた。日本人は家では「麦めし」か「米のめし」しか思ってなかったので、パン食の家がある事にびっくりした。3人のうち、1人は城見小学校の人だった。城見にもパン食がいることにまた驚いた。3人は「食パン」というものを焼いて食べているということだった。・・・「パンと昭和」小泉和子河出書房新社2017年発行終戦後の混乱期の学校給...パンと昭和

  • ハレの日の食べもの

    食べもの限定で「ハレの日」といえば、秋祭り、しか思い浮かばない。正月はハレの日であるが雑煮と重箱(おせち)で、ご馳走といった感じはしなかった。食べものに限れば、「ハレの日」は年に一度の秋祭りの一日だけだったように思う。ご馳走は、田植え時の「しろみて」もあったが、ハレの日とは言わない。運動会や遠足や学芸会の日は巻き寿司やキツネ寿司があった。結婚式(嫁どり)や棟上げは「ハレの日」だが、そのそも何十年に一・二度しかない。・・・・ハレの日・ハレの食事鮨県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。赤飯赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。餅正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用い...ハレの日の食べもの

  • 2023年岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市他の桜

    2023年3月20日~4月8日岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市広島県福山市の桜。今年は遠出をしなかったぶん、多くの花見ができた。2023年岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市他の桜

  • 2023年岡山県笠岡市の桜

    2023年3月24日~4月8日、笠岡市の桜を見た。今年は晴れの日が多く、よく花見ができた。2023年岡山県笠岡市の桜

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