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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 赦す・・・・・

    渡辺錠太郎大将が、もし国の指導者であったなら、戦争はふせげたのではないか、という史家は少なくない。母はよく、「昭和11~12年頃がいちばんよかった」と話していたが、それは母個人の思いの他に、経済や暮らしの指標が有史以来頂点を示していることでもよくわかる。その昭和11年2月に「2.26事件」は起こった。翌年、昭和12年には「日中戦争」が始まった。渡辺大将が斃れたのは国家の悲劇のはじまりとなった。遺子・和子さんの人生テーマは「赦す」ことになった。(2.26事件)・・・・・雑誌「文藝春秋」2022年新年特別号「100年の100人」渡辺和子皇道派の親玉は赦さない保坂正康私が当時88才の渡辺さんに会ったのは2016年1月初め。著作『置かれた場所で咲きなさい』がベストセラーになっていた。父親の渡辺錠太郎(陸軍の教育総...赦す・・・・・

  • 彼の天井は見えない

    大リーグ・エンジェルスの大谷選手は、投げて・打って、日本とアメリアの両国の野球ファンを楽しませている。プロ野球の名監督とは、下位から上位の強豪チームにしたとか、優勝何回した、という監督に冠している。プロ野球100年で画期的な”二刀流”をファンの前に実行した栗山監督には、どういう称号がつくのだろう?10年ほど前、日本ハムが大谷選手を二刀流でプロ野球、次のステージのメジャーリーグを目指す方針を決めた瞬間から、マスメディアの非難と疑問の報道は、その一切が栗山監督に向かった。(2022.6.18山陽新聞)・・・・・雑誌「文藝春秋」2022年新年特別号「100年の100人」大谷翔平彼の天井は見えない栗山英樹元日本ハムファイターズ監督翔平とは二度と一緒に野球をやりたくない----。それが僕の今の正直な気持ちです。僕は...彼の天井は見えない

  • 箕作阮甫(みつくりげんぽ)

    場所・岡山県津山市西新町”重伝建・城東町並み”地区(箕作阮甫先生像)「街道をゆく36」司馬遼太郎朝日新聞社1992年発行作州津山(岡山県)に、箕作(みつくり)というめずらしい姓の家があり、代々秀才を出したことで知られる。稀姓ながら、たいていの百科事典に、すくなくともつぎの代表的な5人の名は出ている。年代順にならべると、箕作阮甫1799~1863箕作秋坪1825~86箕作麟祥(りんしょう)1846~97箕作佳吉1857~199箕作元八1862~1919その源流は作州津山藩の藩医箕作丈庵という人にあったようで、その子阮甫から名声が大いにあがった。阮甫は蘭学を学び、医家としての著作も少なくない。時代がなお啓蒙機だったから、手引書のような著作である。が、時代は阮甫の医学より語学の方を必要とした。天保10年(183...箕作阮甫(みつくりげんぽ)

  • 聖ディエゴ喜斎

    場所・岡山市北区天神町「土光敏夫先生記念苑」の向かい側に「聖ディエゴ喜斎記念聖堂」がある。聖堂前に石像が建つ。聖ディエゴ喜斎。(Wikipedia)ディエゴ喜斎(ディエゴきさい)現・岡山市北区生まれ。安土桃山時代の日本の商人、キリシタン。イエズス会員。日本二十六聖人の一人として磔刑に処せられて殉教、死後に聖人。俗名(日本名・本名)を市川喜佐衛門、ヤコボ喜斎と称される。三原市の三原城に「聖トマス小崎像」という殉教者の銅像があるが、同じ”二十六聖人”で、豊臣秀吉の命令で長崎まで道中引っ張られたのち磔となった。撮影日・2022年5月28日聖ディエゴ喜斎

  • 雷電為右衛門、象潟をゆく

    文化元年(1804)10月、雷電は滄桑之変を目の当たりにし、驚きながらも淡々と記している。その起伏の少ない文章は、象潟大地震の一級資料として、今も地震・津波の研究者、歴史学者、好角家等の役に立っている。小野竹喬「奥の細道句抄絵」~象潟や雨に西施がねぶの花~・・・・「雷電日記」小島貞二編ベースボールマガジン社1999年発行「雷電日記」による雷電の足跡は、現在の都道府県でいうならば、北海道と四国の愛媛・徳島・高知、九州の熊本・大分・宮崎・鹿児島をのぞいた全土におよんでいる。歩け歩けの江戸時代の旅。おどろくべき広範囲にわたる。文化元年(1804)文化元年2月、上州湯川に湯治を願いでたところお許しがでたので、2月19日江戸を出立した。途中、上州藤岡に巡業相撲に出向き、3月1日に場所を終えた。同国板鼻の宿では、3日...雷電為右衛門、象潟をゆく

  • ”無類力士”雷電為右衛門

    その相撲取りだけ禁止された技がある、というのは天下無双の力士であったことを証明している。でも江戸時代に想いをすれば、その時代の男性日本人の平均体格は(自分の推測だが)、身長155cm前後で体重50kg程度、力士は身長170cm前後で体重100kg弱程度に対し、雷電は身長197cmで体重160~170kg。これでは力士は大きな山を相手に相撲をとるようなものだ。この雷電は、巨人ではあるが、”大男総身に知恵が回り”、相撲とれば無敵、お殿様にはお気に入り、地方巡業は勧進元や会計まで手掛けた。最強力士でありながら、なぜか『横綱』の名簿には入っていない。作家・小島貞二さんによれば、横綱以上だったので横綱でない、ということのようだ。・・・・・「雷電日記」小島貞二編ベースボールマガジン社1999年発行史上最強の力士であり...”無類力士”雷電為右衛門

  • 「街道をゆく」占守島

    元帝国陸軍戦車兵の作家司馬遼太郎氏が、秋田空港から象潟へ向かって乗ったタクシーの運転手さんは、元・占守島の兵士だった。「街道をゆく29」司馬遼太郎朝日新聞社昭和62年発行秋田県散歩・占守島(しゅむすとう)空港で乗った個人タクシーの矢倉氏は、温厚で、えもいえぬ含羞がある。大正10年うまれで、私より二年先輩である。この年代はよく死んだ。「よく生き残りましたね」「はい」おだやかな表情である。「敗戦までおられたのは、どこですか」「占守島でございました」その島名をきいて、鼻の奥に硝煙がにおいたつ思いがした。「大へんなところにおられましたね」「はい」占守島というのは、日本領だった。戦前は千島国占守郡とよばれていた島である。このひらたい島は、カムチャッカ半島からかぞえると、千島列島第一島である。第二島が幌筵島である。「...「街道をゆく」占守島

  • 「悠久の大義」

    なぜ無謀な策が誕生したのか?どうして止められなかったのか?雑誌「歴史人」2022年6月号沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと「悠久の大義」昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊はレイテ島沖で5空母に大きな被害を与えた。特攻隊員との約束通りに、ただちに天皇陛下に報告された。天皇はびっくりしつつも、「かくまでやらせねばならぬということは、まことに遺憾であるが、しかしながら、よくやった」と言った。指揮官の大西瀧治郎中将としては、「もうやめよ」という言葉を期待していたようだが、「よくやった」といわれたら、体当たり特攻をやめるわけにはいかなくなった。特攻はその後、普通の攻撃法となっていくのである。・・戦争は殺し合いだが、運がなくて戦死することと、最初から死ぬために出撃することは違う。爆弾を命...「悠久の大義」

  • 沖縄戦

    雑誌「歴史人」2022年6月号沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと沖縄戦航空機による特攻は、その数なんと2.500を数えたという。人間魚雷の回天も沖縄戦に投入された。さらに人間ロケット桜花も使用された。こうした特攻攻撃で撃沈された船は、わずかに駆逐艦9隻。戦艦や空母などには、かすり傷しか与えることはできなかったが、アメリカ兵に対する精神的動揺は、相当なものがあったと考えてよいだろう。連合艦隊の超弩級戦艦大和もこのとき、海上特攻攻撃に使用されている。片道燃料だけを積んで、徳山湾を出港し沖縄へ向かった。海岸に乗り上げさせた後、あらんかぎりの砲弾を敵艦隊にお見舞いし、大打撃を与えようとする計画だった。だが、すでに制空・制海権を完全ににぎられていたため、計画自体が無謀なもので、九州の坊ノ岬...沖縄戦

  • 「進水式」のこと

    小学校の2年生の時だったと思うが、親戚に海運業の人がいて、進水式に招待された。茂平の漁船(1~2トン)しか知らないので、とてつもない巨大船に驚いた。茂平の船には飛び乗るが、この新造船にはハシゴを登って船に乗った。その時は、船から餅投げをした。気持ちがよかった。後にも先にも、船からの餅投げは、この時以来見たことすらない。造船所は「引野」にあり、その当時福山市引野町だったのか、深安郡引野村だったかわからない。「引野」は昔も今も、みんな「ひきの」としか呼ばない(町を付けないで呼ぶ)。造船所やアサリで有名だったが、今では、その場所を推測するのが不可能なほど変貌している。・・・・・撮影日・2017年12月18日場所・広島県尾道市瀬戸田町沢内海造船(株)瀬戸田工場名称・8.600総トン型旅客船兼自動車航送船「シルバー...「進水式」のこと

  • 農民の食べもの、お殿様のご飯

    農村では、腹いっぱいに食えるようになったのは昭和35年(1960)前後のように思う。それまでは腹に通ればなんでもよかった。江戸時代の農民が食べたものと、たいして変わらないような気がする。・・・・・・農民の食べもの農民たちは土地にしばりつけられ、生産した米の半分以上は、年貢として藩へおさめ、残った米はほとんど換金や物々交換のために用いた。したがって平常は麦と雑穀が主食であった。『盆がきたなら、麦に米混ぜて、それにささげをぱらぱらと』という歌のように、ひきわり麦やよまし麦の麦飯を食べていた。副食物は香の物・にぼし・もろみ・大根・豆等の他、自家製の野菜であった。魚は干物・塩魚がおもで”ブエンモノ”とよばれる鮮魚は村祭りの食膳にのぼるくらいであった。川魚や貝類では、川や池のふな・どじょう・しじみ・からす貝などが食...農民の食べもの、お殿様のご飯

  • 犬養木堂⑥5.15事件後の国政

    (岡山市吉備津)木堂翁が亡くなって、軍国主義は歯止めが効かなくなった面がある一方木堂翁が軍人に阿て政権を取ったので、その付けが回った要因も大きい。清廉潔白な政治家で、多くの人々に慕われたのは間違いない。(笠岡市今井公民館)・・・・「日本の歴史20」岩波書店1976年発行斎藤内閣が成立し、この頃から「非常時」という言葉が一般化した。はじめは平時と戦時の中間とか、満州に戦時状態が存続する間とかの意味に用いられ、のちしだいにエスカレートしてゆく。概して軍部が、軍備を拡張するため、危機意識を高揚する必要上、ことさら喧伝したとみるべく、挙国一致内閣の出現を合理化し、軍部に軍拡とその予算先取権の口実を与え、インフレ財政を余儀なくさせ、無謀な「自主外交」を賛美し、侵略をも「暴支膺懲」の名の下に美化するにいたった。荒木陸...犬養木堂⑥5.15事件後の国政

  • 木堂翁の銅像出陣

    「目でみる岡山の昭和」蓬郷巌日本文教出版昭和62年発行金属類の非常回収昭和18年5月からは徹底的な非常回収が行われ、小さな物では鉄瓶、文鎮、金ボタンも供出が要請された。岡山県から供出された主なものは次の通り。警鐘台約1.200基銅像130基金属仏像25体梵鐘は数量不明。『木堂翁の銅像出陣一切をあげて敵米英に勝たんと迎えた19年の初めをかざり、吉備郡真金町吉備津神社神苑、岡山県が誇る憲政の偉人元首相木堂犬養毅氏の銅像もいよいよ敵撃滅の決戦へ応召することに決定した。この銅像は木堂顕彰会が彫塑会の泰斗朝倉文夫氏に依頼、昭和9年同所に建設し、そのまま吉備津神社へ寄付したものである。米英の野望をくじかんとアジアの一大防砦を唱えた先覚者もいよいよ巨弾となり敵米英に出陣することになったわけだ。「いやこれが犬養さんの心で...木堂翁の銅像出陣

  • お城の石垣

    石材と大坂城秀吉は、天下統一のため天正11年に、海陸交通の便利な大坂の地に居城を築こうと考えて大坂城の築城に着手した。秀吉は、まず西国30余国の大名に命じて、大きな石を運搬させようとしたので、日夜3万の人夫が使役されたと伝えられる。「大坂城誌」には、「普請の石材は御影・加茂・小豆島より殊に数多く取り寄せた」とある。天守閣や大手門の大石は小豆郡土庄町小瀬より採掘し、運んだものである。この採掘にあたり加藤清正・片桐且元・黒田孝高らが砕石奉行として来島した。大筏を組み、これを載せて大坂に運んだ。これらの石材を採ったあとの残石は、現在でも海岸近くの山中や、海辺に累々と横たわっていて、当時の壮観をしのぶことができる。当時、採石を運搬するには、大木のロクロをすえ、そのうえに採石をのせ、海岸に引きだしたという。(岡山市...お城の石垣

  • 金毘羅大権現は金刀比羅宮になった

    (金刀比羅宮=旧称・金毘羅大権現)「香川県の歴史」市原・山本共著山川出版社昭和46年発行明治元年、新政府は神仏混淆を禁止した。以後、廃仏毀釈の運動が全国におこるようになった。仲多度郡琴平の金毘羅大権現は金比羅宮と改められ、別当寺の金光院松尾寺の、その末寺とともに廃寺となった。金光院住職の名を改め社務職となり、社地を管理した。そして祭神を大物主神とし、すべての境内の仏式を廃し、神社として再出発した。白峯寺も危うく廃寺となるところであった。(白峯寺)神道もさかんになり、教派神道では天理教・金光教・黒住教・大社教などがさかえた。外国公使の強い抗議があり、明治6年政府は信教の自由を認めた。金毘羅大権現は金刀比羅宮になった

  • あれはサーカスだ

    子供の頃、サーカスを二度目たことある。4月の「福山とんど祭り」で二度見た、木下サーカスと三好サーカスだった。その頃、芝居の劇団よりは規模が大きな見世物小屋といった感じでみていた。木下サーカスはオートバイが地球儀の中で爆音を鳴らすので鼓膜が破れそうだった。三好サーカスは分福茶釜と同じ綱渡りの曲芸をよく覚えている。その芸は、自分と同じくらいの年齢の少女がしていた。あの子は学校に行っているのだろうか?人さらいに遭って、サーカスに連れてこさされたのだろうか?そのころ、茂平には時刻を知らせる放送塔ができて、その時々の流行歌を流していた。3ヶ月が半年ほど、マヒナスターズが歌う「番頭はんと丁稚どん」で、大村崑ちゃんの台詞がはいっていた。~おっ母ぁ、わてはお店をしくじって、サーカスにはいりました~社会の底辺を感じさせる悲...あれはサーカスだ

  • 四国遍路

    岡山県玉野や児島から、四国の屋島の背後に険しい連山が見える。それが、五剣山。あの山にいつか登りたいと思っていたが、今回琴平に行く便があったので登ってみた。五剣山は一つが崩落し、現在は”四剣山”の状態で、四国霊場の「八栗寺」より上は登山禁止になっていた。八栗寺のお遍路さんは、みな絵になるような服装と持物をバシッと決めてのお参りだったが、自家用車か観光バスで来て、そこからはケーブルカーで上り・下り。それが今風の巡礼なんだろうが、本来の修行というよりは、娯楽のように見えた。弘法大師は僧名を空海といい、774年善通寺市で生まれたと伝えられている。のち遣唐使に随行して入唐し、長安で研鑽につとめ、806年帰朝し真言宗を伝えた。八栗寺は、昔、大師がここにきて、焼き栗を八つ植えたところ、それがみな芽を出したので八栗寺の名...四国遍路

  • 高松城・丸亀城・岡山城・備中松山城・福山城の今

    日本100名城の、高松城・丸亀城・岡山城・備中松山城・福山城の現在。・・・・・・・・・高松城場所・香川県高松市訪問日・2022.5.29変化なし。香川県と高松市が天守閣復元を計画しているが、まだ文化庁の許可がでていない。・・・・・・・・・丸亀城場所・香川県丸亀市訪問日・2022.5.28西日本豪雨などが原因で、南西部の石垣が大規模に崩落した。現在復旧作業中。石垣工事の修復工事は2025年完了の予定。・・・・・・・・・岡山城場所・岡山県岡山市訪問日・2022.5.28「令和の大改修」工事中。公園の全域が立入禁止。「令和4年11月リニューアルオープンを予定しています」そうだ。”大改修”とは、耐震化、展示の一新、底壁の塗りなおし、を行っている。・・・・・・・・・備中松山城場所・岡山県高梁市訪問日・2022.5....高松城・丸亀城・岡山城・備中松山城・福山城の今

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