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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • ニワトリが産んだ卵がほしい

    戦後大相撲が一番人気があったのは、まちがいなく「栃若時代」だろうと思う。学校帰りの散髪屋の窓ガラス越しに、テレビの相撲をのぞき見していた。テレビはチャンネルをまわしても、全放送局が相撲をしていた。その栃若のライバルの大関朝汐(後に横綱朝潮)は、ニワトリを追いかける相撲と呼ばれていた。農家では庭で飼うニワトリを夕方、小屋に追い込むが、それは子供の仕事(手伝い)で、その姿は朝汐が相手力士が動きをふうじ、土俵際に追い詰める相撲に、よく似ていた。ニワトリが生んだ卵は、家族の口には入らなかった。たった日に2個程度の卵だが、それをためては売っていた。食べるのは、運動会の弁当にゆで卵を半分に切ったものが入っていた。遠足のときも半分あった。一個まるごとほしいもんじゃ。一個一人で食べてみたいもんじゃ、と思っていた。その願いは小学...ニワトリが産んだ卵がほしい

  • 牡蠣を食べたら、殻はニワトリが食べる

    今も昔も、牡蠣は美味しいが、その殻は大きい。しかも、へたに手にすればケガをする。子供の頃は牡蠣殻は資源だった。どこの農家も縁側の下や庭先でニワトリを4~5羽ほど飼っていた。そのニワトリの餌になっていた。ニワトリは子供が世話をすることが、どこの家でも多かった。餌は米ぬかや野菜のきれっぱし、野草を使っていた。それに卵の殻に必要な成分だと牡蠣殻を混ぜていた。牡蠣殻は木槌で粉々になるまで叩いて砕いた。その砕いた殻を糠に混ぜていた。牡蠣は年中食べる物でもなく、足らずは子供が海辺に行って牡蠣の殻を拾っていた。砕くのは(親や子どもでなく)じいさん・ばあさんが多かったような気がする。牡蠣を食べたら、殻はニワトリが食べる

  • アサリを食べたら、殻は道に捨てる

    母はアサリ掘り(潮干狩り)が得意だった。名人とも呼べる腕前で、畑の仕事が済んで、家に帰るとき決まったように「ちょっと待っとって」と言って、砂浜で貝を掘った。すぐにホボロに1/3から半分ほど採った。そのアサリは一晩砂を吐かせて翌朝の味噌汁の具になっていた。我が家の「アサリ汁」は、おかずのアサリと、普通の味噌汁を兼ねていた。高校を卒業して家を出てから、味噌汁に入れるアサリは量が少ない方が、汁としてはおいしいことを知った。大量のアサリの、食べた後の殻は道に捨てた。道には窪みがあり、雨のときに水たまりができる。そのくぼんだところに捨てていた。それは茂平だけの習慣でなく、義兄の家でも、道に捨てていたそうだ。町も田舎も、(東京・大阪以外は)日本全国どこでもそうだったんだろう。アサリを食べたら、殻は道に捨てる

  • 修学旅行の「汁かけ」

    高校のとき、修学旅行の旅館での朝食。畳の大広間に何十人もの男女の高校生がべべちゃんこに座った。全員の前に、お膳が据えてあった。お膳には単純な料理が並んでいた。番頭さんか、女中さんかが「おしんこは、・・・・」「おみおつけは、・・・・」と言った、・・・・が。おしんこも、おみおつけも無かった。しかし、話を聞いていると、どうも、「おしんこ」とは「こうこ」のことであるようで、「おみおつけ」とは「味噌汁」を言っているようだった。心の中で、静かに、遅ればせながら、「おしんこ」と「おみおつけ」の意味を知りました。食事が始まった。私は家では、毎朝「汁かけ」を食べていた。それは父の真似だった。父は兵隊のときの名残か、時間倹約のためか、「早飯」が習慣だった。だが、大広間の高校生は誰一人、汁かけをしなかった。それを前に、横に見ながら、...修学旅行の「汁かけ」

  • 2021年10月26日 真子内親王の結婚

    今日は真子内親王の結婚日。皇室の結婚は何かと騒がれる。大正時代には、皇太子(後の昭和天皇)の”宮中某重大事件”があり、結婚を反対した元老・山縣有朋は失脚して、失意のまま死んだ。今回の真子内親王は、”二人の合意”を拒否の報道を週刊誌が行い、結婚が今日まで延期されていた。昭和48年に児玉隆也の皇太子の記事がある。皇室に求められるものは、多すぎて、大きすぎて、同情したくなる。児玉が生きていれば、真子さまの結婚をどのように言うだろう。皇太子への憂鬱「この30年の日本人」児玉隆也「現代」昭和48年9月号書きたいのは、40歳をこえた皇太子への憂鬱である。やがて、彼を”象徴”と呼ぶ日の憂鬱を友人に語ると笑われた。「それはお前がまだ関心がある証拠だ。いまやおれたちには、彼にそんなものを感じることもない。無関心でいろ。その方が気...2021年10月26日真子内親王の結婚

  • 「わが愛を星に祈りて」

    「愛と死をみつめて」の後追いで出版され、歌われ、映画化された。歌は梶光夫・高田美和のデュエットでヒットした。映画は福山の船町の映画館で見たが、上演冒頭で起きたことが忘れられない。それは、スクリーンに題名と主題曲が始まるやいなや、”うえ~~ん”と観客が鳴きだした。暗い館内は、観客の半数が、まだ主人公も登場しないうちから涙と泣き声の世界となった。こういう経験は後にも先にも、無い。やはり見ている途中に泣くか、見終わって泣くのが、普通。〽ちいさな肩をうしろから抱きしめたい日もあったっけ雪どけ道で声かけて甘えてみたい日もあったのに愛を愛とも知らないでたゞみつめてた僕許しておくれあゝいまはひとりで空にいる君が淋しくないようにわが愛をわが愛を星に祈ろう〽雪割草の花びらに願いをかけた日もあったのにこの手の指がふれたなら泣き出し...「わが愛を星に祈りて」

  • テレビドラマ「太陽にほえろ」

    テレビを付けたら”太陽にほえろ”を放送していた。2021年10月24日日曜日午後0:00頃(神戸の)サンテレビなつかしいので番組が終わるまで見た。このドラマは独身の頃、たしか金曜日の午後8時から1時間番組だった。毎週見ていた。石原裕次郎がテレビドラマ初主演で話題だった。裕ちゃんは、テレビの出演料を、映画製作に充てるという報道だった。番組は裕ちゃん人気の他に、マカロニ刑事=萩原ショーケンや、ジーパン刑事=松田優作で人気が更に増した。毎週出演する脇役も魅力的だった。山さん=露口茂ゴリさん=竜雷太殿下=小野寺昭長さん=下川辰平。今日のドラマはゴリさんが主役で、青春ドラマ「これが青春だ」を彷彿させる活躍ぶりだった。主題歌はなかったが、主題曲があった。これもヒットしたし、番組に欠かせなかった。井上堯之バンドが演奏。今日、...テレビドラマ「太陽にほえろ」

  • 池田筑後守長発

    場所・岡山県井原市井原町井原小学校池田長発ほど気の毒な交渉役はない。日露戦争後の小村寿太郎に似た役だが,小村よりも条件がさらに悪い。小村は名を残したが、長発は井原市以外では忘れ去られている。稀に報道されるのは、刀を差した侍がエジプトのスフィンクスでの記念写真だけ。この時、わずか27歳で遣欧使節の代表を務めた。池田筑後守長発パリに燃ゆ文久元年(1861)の第一回遣欧使節に続き、文久3年(1863)第二回が派遣された。この時、34名の使節団の正使をつとめたのは、旗本で外国奉行をつとめる井原の殿様・池田筑後守長発、当時27歳であった。幕府の意図は、横浜を鎖港すべく、まずその突破口としてナポレオン三世に会見して同意を得、次に他の諸国を歴訪しようとしたものであった。一行は12月29日横浜を出港し、香港・シンガポール・カイ...池田筑後守長発

  • 映画「燃えよ剣」③榎本武揚が登場しないので

    映画館の帰り道、榎本武揚の父の生家に寄ってみた。場所・広島県福山市神辺町箱田日時・2021年10月22日12:00頃榎本武揚は本人も父も、たいへん優れた頭脳であって、日本という国家に貢献度が高い親子。映画には登場しなかったが、限られた上映時間があるので、その方がよかったような気もする。榎本武揚の父とは、生家前の石碑文を写す。箱田良助略歴良助は寛政2年(1790)箱田村庄屋細川園右衛門の次男として生まれた。のち細川家は箱田姓を名乗った。文化4年(1807)6月、17歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。九州第一次、第二次測量に参加したのち忠敬の筆頭内弟子として測量及び地図作成に尽力し、文政4年(1821)の大日本沿海興地全図完成に大きく寄与した。文政5年(1822)榎本家に入り、榎本園兵衛と改名、御...映画「燃えよ剣」③榎本武揚が登場しないので

  • 映画「燃えよ剣」②岡山県が登場した

    映画には岡山県内が何度も登場した。知っていれば、ロケ見物に行ったんだけどな?吉備津神社回廊。雨月物語の舞台になる「吉備津の釜」の前で、剣術の訓練シーンも多かった。吹屋町並みと、広兼邸頼久寺・・・・ネットによれば、他にも勝山の町並み、津山城が登場していたようだ。わからなかった。・・・・他県では、吹屋のように重伝建の町、奈良県今井町や大阪府富田林。観光地では、奈良県の長谷寺が出ていた。映画「燃えよ剣」②岡山県が登場した

  • 映画「燃えよ剣」①映画を見に行った

    2021年10月22日「燃えよ剣」を見に行った。映画は、小説と史実に丁寧に作られていたように思った。「戊辰物語」東京日日新聞社編岩波文庫1983年発行土方歳三は若い時、石田村から出て来て上野のいとう松坂屋に奉公したという話がある。色白の小さな男で、なかなかおしゃれであったが、いつの間にか食事係の方の女中と関係を結んで追い出された。近藤の門下になってから、試合に出る時などは、真っ赤な面紐を後ろへ長く垂らして朱塗りの皮胴で悠々とやるので、土方を知らぬ人間などは、うっかり油断してひどい目に逢わされた。諸手突きがうまかったとの話である。村で出来る「石田薬」というのが傷によく利くといって、新選組同志一同には常備薬としてこれを持たせていた。要するに新選組は、文久三年から慶応三年に到る京都滞在の五年間、ほとんど暗殺謀殺、剣戟...映画「燃えよ剣」①映画を見に行った

  • 東郷平八郎

    場所・岡山県倉敷市船穂町「軍国日本の興亡」猪木正道中央新書1995年発行日本海海戦ロジェストヴィンスキー提督ひきいる第二太平洋艦隊は、極東で日本の連合艦隊と決戦する前に、過酷としか形容しようのない1万5.000マイルの航海をやりとげねばならなかった。タンジールで艦隊を二分し、喜望峰経由と、旧式艦をスエズ運河経由させ、仏領マダガスカルで合流させることとした。その間、旅順港が陥落したニュースも届いた。食糧事情が悪化し、病人も増え、艦隊内の士気が低下した。仮装巡洋艦の日本郵船信濃丸から、「敵艦隊見ゆ」の電報が届いた。ロシア艦隊のウラジヴォストークへの逃走を防ぐため、東郷大将は有名なT字戦法をとり、ロシア艦隊の頭を抑えた。バルチック艦隊のうち12隻の戦艦のうち8隻が撃沈され、4隻は捕獲された。ロシア艦隊の人的損害は溺死...東郷平八郎

  • 佐々木小次郎

    場所・山口県岩国市吉香公園櫂の木剣が、ぶんと上がったのである。六尺近い武蔵の体が、地を離れると、その姿は宙のものだった。巌流は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。・・・然し、その瞬間に、巌流の頭蓋は、櫂の木剣の下に、小砂利のように砕けていた。吉川英治「宮本武蔵」巌流ゆかりの柳佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負に敗れましたが、小次郎の『つばめ返し』の剣法は天下無双であったということです。吉川英治氏は小説『宮本武蔵』のなかで、岩国で生まれた小次郎は、母から家伝の長刀(一名物干し竿)を授かり、この辺りの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に『つばめ返しの術を編み出したと記しています。↑この錦帯橋北詰にある説明看板は「岩国市」とか記名無しで、名無しの権兵衛の説明文。巌流島での決闘以外、小次郎に関する信憑性のある...佐々木小次郎

  • 斎藤別当実盛

    場所・石川県小松市上本折町多太神社「平家物語」世界文化社1976年発行実盛武蔵の国の住人斎藤別当実盛は、味方の軍勢はすべて逃げていったが、ただ一騎、引き返しては戦い、引き返しては防ぎ、戦いしていた。木曽方からは手塚太郎光盛、よい敵と目をつけ「やあやあ、ただ一騎残って闘われるのか。さてもゆかしき武者ぶりよ、名乗らせたまえ」と声をかける。「おうよい敵にあった。寄れ、組もう、手塚」・・駆けつけてきた家来に、手塚は実盛の首をとらせ、義仲の前に駆け付けた。「おお、あっぱれ、これはたぶん、斎藤別当実盛ではないか。幼目に見たことがあるから覚えているが、その時もうごま塩頭であった。今はさだめて白髪になっているはずなのに、この首は鬢髭の黒いのは解せぬ。樋口次郎は、年来親しくつきあっていたから見知っておろう。樋口を呼べ」という、樋...斎藤別当実盛

  • 真備町「岡田更生館事件」その4・・・「鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児」から

    岡田更生館があった当時の日本は、両親がいる子は、ぎりぎりの食事ができた。片親の子は欠食がち、孤児は、働くか、かすめとるか、その日暮らし。生存権以前。戦災孤児が主役のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、国民的人気となり映画化され、主題曲は今でも童謡として歌われている。(昭和23年「鐘の鳴る丘」主演・佐田啓二)「この30年の日本人」児玉隆也新潮社昭和50年発行鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児”緑の丘の赤い屋根”に38歳の医師品川房二は東京からやってきた、「あれから25年か」。25年前の少年は、浮浪児と呼ばれていた。5人の少年が、1人の復員兵と暮らした丘である。そして”トンガリ帽子の時計台”は、その後700人を超える孤児たちの人生に時を刻んだ。品川房二は、元の名を斎藤房二といった。菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』がまだ「...真備町「岡田更生館事件」その4・・・「鐘の鳴る丘、25年めの戦災孤児」から

  • リンゴ村から ~りんご発達史~

    子どもの頃、昼飯と晩飯の間に腹にとおすものといえば、ふかし芋やあられのような自給品を戸棚から出して食べていた。”おやつ”とは町の子が3時ごろに食べるお菓子のようなものを想像していた。ある時、母に「皇太子(←今の上皇)が食べるおやつはどんなものかなあ?」と聞くと、「リンゴやこじゃろうなあ」リンゴは、現物を見たことはなかった。絵本で見て桃のような形で赤い果物だった。皇太子は一つのリンゴを兄弟で等分して食べるのではなくて、一個まるごと一人で食べるんだろうな、と子ども心にうらやましく思ったりもした。(長野県小布施町にて2017.9.26)「リンゴ村から」作詞:矢野亮,作曲:林伊佐緒、歌:三橋美智也〽リンゴ村から覚えているかい故郷の村をたよりもとだえて幾年(いくとせ)過ぎた都へ積み出すまっかなリンゴ見るたびつらいよ俺(お...リンゴ村から~りんご発達史~

  • 星野仙一記念館

    場所・岡山県倉敷市阿知倉敷美観地区無くなった日・2021年11月30日撮影日・2010年2月6日今日(2021.10.15)星野仙一記念館の閉鎖が決まった報道があった。報道によれば、記念館は2008年に開館し14年間続いたそうだ。その間、2013年に星野氏が死去した。展示品は、「記念館に展示されたユニホームや記念球などの1000点以上の思い出の品々は、閉館後に倉敷市へ寄贈される。今後は市や関係者と相談したうえで展示方法などを決めていく予定だ」(サンスポWeb)。マニアの蒐集物に、行政の関与は、けっこう難しい問題。市が全部引き取っていいんだろうか?倉敷市民はどんな意見なのだろう。星野仙一記念館

  • 音戸渡船

    場所・広島県呉市音戸の瀬戸無くなった日・2021年7月より運休→10月2日に呉市が休止決定撮影日・2009年3月12日呉市を代表する観光名所である”音戸の瀬戸”は、本土の警固屋と倉橋島の音戸間、120mを結ぶ渡船があり、いい風情があった。貨物船や旅客船が激しく通る過ぎる、わずかな時間を、潮や波にも気を付けながら安全に渡していた。乗船料は100円、手を挙げれば船は対岸から来たり、出発していた。今年の夏ごろから、中国新聞に音戸渡船の記事がよく載るようになり、運航の継続が懸念された。船の故障や乗客減で、船頭さんが廃業を決めた。呉市は休止扱いにして、もし新しい船頭さんがいれば、今後再開もあるそうだ。(この写真のみ2021年4月26日・第二音戸大橋から見る音戸渡船)音戸渡船

  • ”里庄町の山男” 徴兵忌避で逃避12年

    里庄の山中に12年間、ドロボーしながら隠れ住んだ人がいたとは・・・今日まで、まったく知らなかった。(里庄町・椿の丘公園から見る”竜王山”2020.7.27)「週刊朝日」の昭和史・第二巻朝日新聞社1989年発行徴兵忌避で逃避12年岡山県の片田舎の農家に盗みに入り捕まった”山男”の話。---39才のこの男、小さい時から大の兵隊嫌い。召集令状の赤紙が来た。しかし、どうしても軍隊に入る気にはなれず、山にこもる。それから12年。「山男が出る」といううわさが、岡山県浅口郡里庄村の村民たちの間で、いつのころからか話題になっていた。ある家では、十数回も米や、塩や干物が盗まれる。村のはずれの竜王山の山裾の民家は、かたっぱしから被害を受けた。盗難届の書類は厚さ10センチ余りも積み重なってくる。これは、流れ者のルンペンの仕業だろうと...”里庄町の山男”徴兵忌避で逃避12年

  • 9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した

    7~8年前ある旅行会社のツアーで3日間同じだった、広島市の方(中年女性)から”私の特技”的な自慢話を聞いたことがある。彼女の自慢は「NHKのど自慢」に出場するのが特技だというのである。出場するためには”秘訣”がある。まず書類応募の際、歌う”曲選び”の秘訣、その曲を歌う理由の秘訣。予選では客受けする衣装や踊りパフォーマンスの秘訣、話題の秘訣。それができれば、ほぼ本番出場はOKであるそうだ。今から76年前、NHKのど自慢が始まり、その年の秋9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した。・・・「週刊朝日」の昭和史・第二巻朝日新聞社1989年発行観客席には、復員服の男や、モンペ姿の女たちが、ぎっしりひしめき合っていた。そこは、横浜市伊勢佐木町に近い焼けビルの二階で、場末の映画館を思わせる部屋の正面には、急ごしらえの、粗削り...9歳の美空ひばりは「のど自慢」に出場した

  • 昭和21年 私の”死の行進”日記 本間雅晴

    「週刊朝日」の昭和史・第二巻朝日新聞社1989年発行昭和21年私の”死の行進”日記本間雅晴昭和17年4月9日、飢えとマラリアに悩む米比混成軍76.000人が捕虜となった。炎天下88キロを歩いえ後方基地に収納されたのは54.000人。”バターン死の行進”である。この時のフィリピン方面第14軍最高司令官が本間雅晴中将。戦犯に指定され、9月15日出頭。昭和20年9月18日今のところ、私の罪名はバターンの俘虜7万余名を飲食を与えず炎天に遠い収容所まで行軍せしめ、そのため多数の死者を出したというのである我が軍の総兵力に匹敵する俘虜を歓待し又は自動車で輸送することは不可能で、これ以外手がなかったのだ。9月28日私の罪は指揮官として部下の行為に対する責任である。この間発表された比島における暴虐(昭和17年8月以降の日本軍の暴...昭和21年私の”死の行進”日記本間雅晴

  • 立ち小便する「東京」

    「京女立ってするのが玉に疵」祖母は、夏にアッパッパを着ることはあったが、下着は襦袢の一生だった。とうぜん家でも畑でも、”立って”していたが、京女には程遠い農山漁村の貧しい農婦だった。「もはや戦後ではない」(昭和31年)といわれた時代でも、その後でも、田舎の明治生まれの女性は、皆そうだったように思う。「週刊朝日」の昭和史・第二巻朝日新聞社1989年発行立ち小便する「東京」渡辺伸一郎(←NHK「私の秘密」の人・管理人)今の東京は衣食住の三難に加えて、交通の第四難がある。省線(JR)も昔のような正確無比、快適を誇っていたのとは事違い焼け残りの少ない車を無理に酷使、修繕もせぬ。椅子のビロードが剥がれて中のバネや馬の毛みないな腸まではみ出していて、これがことごとく発疹チフスのシラミの巣窟。こうした車に、どっとばかりに押し...立ち小便する「東京」

  • 福山城令和の大普請

    福山城は今、「令和の大普請」と呼ぶ天守閣の再再建工事を実施中。すっぽり覆われた天守閣を見に行った。場所・広島県福山市丸之内「福山城公園」撮影日・2021年10月5日右・筋鉄御門(すじがねごもん)と左・伏見櫓。本丸にあった楠木や松の大木を多く伐採していて、空間が広くなっていてびっくり。二之丸の阿部正弘公銅像と、伏見櫓と鐘櫓。ここから見ても空間の広さを感じる。これが工事中の、備後福山城天守閣。完成は2022年8月28日。それで、なにが変わるのか?といえば、昭和20年8月8日の空襲で焼失するまで現存してた天守閣の姿に戻す、というしまりのない理由。他に耐震性に問題があったので、補強のためらしいが、それとて戦後の鉄筋コンクリートの建物で、あんまりほめられた話ではない。福山城令和の大普請

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・広島県立歴史博物館の秋の企画展「~近世・海の旅と憧れのまち~」

    元・福山城三之丸にある「ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)」では、令和3年10月1日~11月23日まで、秋の企画展・「京江戸長崎~近世・海の旅と憧れのまち~」を開催中。10月5日に見に行った。特別展なので料金は1.000円。・・・・館内の展示品。長崎の唐人屋敷の様子。長崎から江戸への絵図。これは九州北部、熊本城・柳川城・久留米城が見える。瀬戸内海の「地乗り航路」と「沖航路」。沖航路は地乗り航路からとって変わったのでなく、両航路は使い分けされていたように思う。弥二さん喜多さんの道中。他にも興味深い展示品が多くがあり、いい時間を過ごすことができた。勉強にもなった。「江戸参府旅行日記」番外編・広島県立歴史博物館の秋の企画展「~近世・海の旅と憧れのまち~」

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトが来た時の鞆

    文政9年(1826)にシーボルトが鞆に来た時、あったものとなかったもの。撮影日・2021年10月2日この眺めは、江戸時代も今も変わらない。「大波止」は、寛政3年(1791)に出来た。文化8年に大規模修理と延長が完成。「船番所」は、場所は今と変わらないが、残っているのは石段だけだそうだ。シーボルトが日記に書き残した、医王寺。鞆の「常夜灯」。残念ながらシーボルトが帰国した後の、安政6年(1859)年に寄進されたもの。雁木は文化8年(1811)に完成している。朝鮮通信使が”日東第一形勝”と賞嘆したのは1711年、禅福寺「対潮楼」は、元禄年間にできたそうだ。鞆の町並みは魅力的で国の重伝建に指定されている。潮待ちの湊として、”1000年に及ぶ繁栄”が昭和初期までつづいた。※福山市教育委員会「鞆町並みの魅力」一部引用「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトが来た時の鞆

  • シーボルト「江戸参府旅行日記」大坂から長崎への帰り旅・鞆

    「江戸参府紀行」シーボルト東洋文庫昭和42年発行十一・大坂から長崎への帰り旅鞆1826年(文政6)6月23日(旧5月18日)(鞆グリーンラインから)朝、引き舟にひかれて鞆の港にはいる。正午ごろ上陸。(鞆港の雁木)たいへんきれいな町並みで、船の出入りがあり活気にあふれた町である。たくさんの小売店があるが、大部分は船員用の品物や蓆・網・帽子・草履などの藁製品である。(鞆の町)東北の側にある港は、概して小さい日本船には都合の良い停泊地で、北側にはたいへん頑丈な堤防、西南の側は町と高い山があって港を守っている。港外は三尋の深さであるが、港内はもっと浅い。けれども約半マイル離れた所に好条件で錨を降ろすことができる。(鞆港・いろは丸記念館前)町の長さは15町で、手入れの行き届いた住居は裕福なことを物語っている。住民は数千に...シーボルト「江戸参府旅行日記」大坂から長崎への帰り旅・鞆

  • シーボルト「江戸参府旅行日記」大坂から長崎への帰り旅・御手洗

    「江戸参府紀行」シーボルト東洋文庫昭和42年発行十一・大坂から長崎への帰り旅(広島県大崎下島・御手洗港)6月25日(旧5月20日)御手洗の町から数人の患者が来て、私の診察を求める。患者の中には17歳の少女がいた。(広島県大崎下島・御手洗港)母親の申し立てによると、ときどき色情狂の発作を起こしたという。私は母親に、食餌と心理学的な処置とともに、娘をはやく結婚させるよう忠告した。(広島県大崎下島・御手洗港)この話を娘はうれしそうな笑いを浮かべて聞いていた。精神病の症状に国民的の風習が現れるのは、注目に値するものである。たとえばこの少女は、病気の発作が起こると、歯を黒く染めるが、こうするのは日本では既婚の婦人の一般的な印なのである。(広島県大崎下島・御手洗港)シーボルト「江戸参府旅行日記」大坂から長崎への帰り旅・御手洗

  • シーボルト「江戸参府旅行日記」下関から室津への旅(日比~室津~大坂)

    シーボルト「江戸参府旅行日記」三下関から室への旅(日比~室津~大坂)(日比港)3月6日(旧1月28日)早朝上陸(日比五丁目)日比と向日比をコンパス観測。向日比の前方で大槌島の東南端に、大きな砂州が広がっている。(渋川から見る大槌島)スチュレル大佐は一行は鉱物を採集し、その他地質学上の調査を行った。(玉野市日比、御崎神社の秋祭り)われわれは日比と向日比の間の海岸に沿っている塩田の方にでかけた。村々にはナンテンがたくさん植えてあった。小さな庭には背の低い竹垣がめぐらせてあった。ソテツとシュロはまれな植物である。日比の塩田は非常に注目すべきものである。海の塩はこのあたりでは太陽で蒸発させる方法で塩水から精製される。これは日本における唯一の、一般に行われている製塩の方法である。ヨーロッパと比べ完全度がはるかに高い。それ...シーボルト「江戸参府旅行日記」下関から室津への旅(日比~室津~大坂)

  • シーボルト「江戸参府旅行日記」下関から室津への旅(下関~日比)

    「江戸参府紀行」シーボルト東洋文庫昭和42年発行三下関から室への旅(下関~日比)3月2日(旧1月24日)8時ごろ、西風を受けて出帆し、潮流に助けられ正午ごろ太陽の高度を計った。それによると北緯33度5分にいた。ここは多数の大小の島々が散在する内海で、豊予海峡、紀淡海峡の間の広々とした多島海を三つの海域に分けている。周防灘、播磨灘、水島灘。水島というのは甘い水(淡水)の出る島の意味である。この海域を形成している海岸の地形ははなはだ不規則で、外国船にとってはこの迷路を通って危険な航海をすることは今日まで不可能であった。けれども日本の船乗りはこの水路に精通しているので、すっかり任せておいても安心である。内海の東端にはこの国最大の商業都市大坂が位する。(周防大島)向島(防府市)野島・笠戸島のかたわらを過ぎ、夕方に上関と...シーボルト「江戸参府旅行日記」下関から室津への旅(下関~日比)

  • ジーボルト「江戸参府紀行」序文

    ジーボルト「江戸参府紀行」斎藤信・訳平凡社昭和42年発行1826年の江戸参府紀行の序この国の地理・住民の言語・彼らの風俗・習慣を、私は教養ある日本人との交際を通じて調べておいた。私自身の小旅行は長崎の近郊を越えて程度に過ぎなかった。遠い国々の事情に通じている医師たちが私にその地方の天産物を教えてくれた。彼らは自然科学や医学について私の講義を受けようとして、日本の各地からやってきて博物標本や動植物の書物などを贈った。数百名の患者は、珍しい博物標本を差し出した。数人の猟師を鳥や獣を捕えるために雇い入れていたし、昆虫採集の目的で他の人々を仕込んでおいた。出島では植物園を造ったが、私の多方面にわたる友好関係のおかげで、約千種の日本と支那の植物を数えるにいたった。また蝦夷や千島についてもある高貴な日本人を通じて、博物学お...ジーボルト「江戸参府紀行」序文

  • 「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトの日本派遣

    「ケンペルとシーボルト」松井洋子著山川出版社2010年発行シーボルトの日本派遣シーボルトはドイツで生まれた。祖父も父も医者の医者一家。1815年大学に入学し、医学に加え化学・解剖学・薬学・物理学・植物学・人類学などを学んだという。1822年「軍医としてオランダで勤務に就き、東インド会社の植民地へ行く」決心をする。その理由は、「博物学研究の特別な愛好心、この偏愛こそ小生を他大陸へ遠征させる決心をさせた」と語っている。当初ブラジルへ赴く、という交渉も受けており、どこであれ学問的に未知の土地で研究を行うことが目的だったと思われる。1822年7月ハーグへ到着。オランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任じられた。26歳の医師には破格の待遇であった。1823年2月バタビアに到着した。4月日本勤務を命じられた。1823年8月11...「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトの日本派遣

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第四章 駅舎・旅館・料理屋・茶店

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第四章駅舎・旅館・料理屋・茶店街道に沿った町や村には、旅行者のために領主が設けた駅舎があり、そこでたくさんの馬や荷物運搬人が配達人など、いつでも一定の賃金で雇うことができる。九州の小さな街道では旅館としての家屋でなく、厩舎として建てられたもので、馬をとりかえる際に街道をふさがないようにするためである。街道筋には旅館がありかなり整っている。毎年江戸に行き来する大名たちが宿をとる「本陣」は、すべて整った設備をもっている。(矢掛宿・本陣)ほかの立派な家屋と同様に一階建てであるが、もしもう一階あっても二階は頭がつかえそうで、そのうえ結構なにおいが漂っている。奥行きの長さは時には40間もあり、後ろに坪庭がある。(矢掛宿・本陣)調理場には煙突...ケンペル「江戸参府旅行日記」第四章駅舎・旅館・料理屋・茶店

  • ケンペル「江戸参府旅行日記」第六章・オランダ人参府旅行の経験と待遇

    ケンペル「江戸参府旅行日記」訳者・斎藤信東洋文庫昭和52年発行1691年(元禄4)第六章・オランダ人参府旅行の経験と待遇日本暦の1月15日または16日が、毎年出発の日となっている。出発の朝早く、江戸城まで護衛の人々が姿を現す。やがて二人の長崎奉行が盛装して、われわれに祝詞を述べる。島を出て、一歩を踏み出す。およそ午前9時と決められている。奉行と公使(商館長)は籠に乗り、他の人たちは駄馬に乗る。従者たちは歩いていく。長崎から小倉までの陸路は、大名が約100名の護衛の家来を、海上の船旅では、水夫の数が加わる。東海道では約150人(船での荷物が加わるので)に達することがある。荷物は、普通1時間先に送られ、宿の主人にしてみれば、それによってわれわれがじきに到着することがわかるようになっている。一日の旅程はかなり長く、早...ケンペル「江戸参府旅行日記」第六章・オランダ人参府旅行の経験と待遇

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