昔、南ドイツに住んでいたことがあります。スイスにはよく遊びに行きました。そしてアルプスの山々と花畑を眺めたmぽのです、アルプスの山々と花畑の写真をお送り致します。写真は、「スイスのアルプスの花畑の写真」を検索してインターンットからお借りしました。「スイスのアルプスの山々と花畑の写真」
佛教とキリスト教は私の好きなものです。私の考え方に大きな影響を与えています。今日はに日本人と仏教の関係と欧米人とキリスト教の関係を書いてみたいと思います。そして宗教と関係の無い人間性の共通性、同一性を強調したいと思います。さて日本人は無意識のうちに仏教や神道の影響を受けています。日本人の考えかたや感じ方は仏教の無常の教えの影響を下敷きにしています。日本に仏教が伝来したのは日本書記によると552年、欽明天皇の時、百済から伝わったということになっています。それ以来、仏教は日本人の考え方や感性に深い影響を与えてきました。室町時代に明文化され形造られた日本人特有の『侘び寂び』の感じ方は仏教の無常感とつながっています。お釈迦様のすべては空(くう)ですという教えにつながっています。このような感性は欧米人にはありません...「日本人と仏教、欧米人とキリスト教」
「ヨットと山林の小屋の趣味を教えてくれたのはスウェーデンのエケトルプ先生」
ヨットと山林の小屋の趣味を私に教えてくれたのはスウェーデンのエケトルプ先生でした。エケトルプ教授は1974年に私を招待してくれたのです。エケトルプ教授はヨットの趣味と古民家を復元する趣味を持っていたのです。古民家を復元する趣味として中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。ストックホルムの郊外に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで似てい...「ヨットと山林の小屋の趣味を教えてくれたのはスウェーデンのエケトルプ先生」
もう一つの私の趣味は山林の中に小屋に建て泊りに行くことでした。建てた年から泊って楽しんできました。小屋は山梨県にあります。甲斐駒岳や八ヶ岳が見えます。今日は山林を安く買って小屋を建て心豊かに暮らす方法を書きたいと思います。山林は驚くほど安いのです。まず小屋の近辺の山林の様子を3枚の写真で示します。山梨県北杜市の山林です。写真で示しような山林100坪を、80万円で1974年に買いました。早速、6畳と5畳の小屋を鉄筋コンクリートで建てました。それ以来、毎月2,3回は家内と泊りに行っていたのです。小屋の窓から庭の小川や焚火の煙が林の中を流れる様子が見え楽しいのです。そんな様子の写真をお送り致します。小屋は標高900mの寒冷地にあります。そこで北海道から簡素な薪ストーブを買って来て入れました。7番目の写真のような...「もう一つの趣味は山林の中に建てた小屋」
私は50歳で江の島の小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。佐藤さんは優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。ヨットをあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真はその時の様子です。1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。霞ヶ浦で10年間乗った「あけび号」を群馬県のカヤシマさんという方へ売りま...「25年間のヨットの趣味を振り返って」
老境は思い出を楽しむためにあるようです。我が人生には悲しいこともありましたが楽しいことも沢山ありました。特にヨットの趣味で東京湾、相模湾、駿河湾を帆走したことは実に楽しい思い出です。ヨットの趣味は49歳から75歳まででした。今日は東京の真ん中の銀座にあるヨットマリーナをご紹介して海上から見た東京の夜景の写真を掲載しようと思います。さて銀座にあるヨットマリーナは銀座7丁目にあります。銀座7丁目に隣接した運河にあります。そこは浜離宮と築地魚市場の間にある運河で、その端はJR新橋駅の方向に入り込んでいます。築地川という運河です。そこが昔からヨットやモーターボートの静かなマリーナになっていたのです。1番目の写真は銀座7丁目にあるヨットやモーターボートのマリーナの写真です。暗い森は浜離宮の森です。左の奥の方へ出て行...「銀座にあるヨットの港と海上から見た東京の夜景」
ドイツの冬は日本より寒く暗く厳しい季節です。懐かしいです。ドイツの冬の写真をお送り致します。出典は、https://note.com/haribo_germany/n/n0599c2c7befdなどです。「ドイツの冬景色」
1971年に出版された東山魁夷のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。私の心に焼き付いている旅の随筆集です。昔、スケッチをした街角に立って風景を描いているときの気持ちを思い出しているのです。1970年前後に何度か行ったドイツや北欧で馬車に乗ったようです。ゆっくり石畳を走る蹄鉄や車輪の音が若い時のベルリン留学の回想を誘ったのです。ベルリンの冬は毎日雲が低くたれこんで暗く寒いのです。その風景が、そしてそこで学んだ宗教学や哲学が東山魁夷の絵画の精神性を深くしています。1番目の写真は「緑のハイデルベルグ」、1971年です。ライン河の支流ネッカー河のほとりに位置するハイデルベルク。初夏の緑に覆われた山腹の古城はドイツ・ルネサンスの重厚な面影と典雅な趣をあわ...「心に残る東山魁夷の「『馬車よ、ゆっくり走れ』」
旧懐の情とは不思議なもので若い頃留学したドイツの暗い寒い冬のことが人生の折々に思い出されます。そしてドイツの中世の「遍歴徒弟の文化」を想像します。留学は遍歴しながら学問を身につける旅なのです。ドイツ語でシュティデーエン・ライゼと言いますが、その言葉はロマンと修行の厳しさ、そしてドイツの暗い冬の寒さを連想させます。ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。50年前に留学したドイツにはそのような雰囲気が残っていたのです。当時、住んでいたたシュツットガルトやローテンブルグやクラウルシュタールの名前を思い出しただけで旧懐の情で胸が熱くなります。そし...「寒く暗い冬のドイツの思い出」
何度も訪れた上高地です。上高地は神々しい別世界です。険しい山々をバスで根気よく登り、最後の長いトンネルを抜けると、いきなり眼前に穂高の連峰が広がり、大正池と梓川が夢幻のように美し盆地を作っているのです。家内が撮った写真で上高地をご紹介しましょう。1番目の写真は上高地の梓川と河童橋から見た穂高岳です。この河童橋は上高地の中心付近にあります。2番目の写真は上高地の入り口にある大正池です。奥に見えるのは穂高岳です。この写真の左側には焼岳があります。学生の頃の1959年に行ったときは立ち枯れの木が林立していましたがその木々も朽ち果てて、ほんの数本が残っている状態になりました。風景も年を取って変わって行くのです。3番目の写真は田代橋から河童橋の中間にある中の瀬から見た穂高と明神岳です。明神岳は右の色の暗い山です。真...「上高地の夢幻の美」
山梨県と長野県の境にある山林の中に小屋を作ったので斐駒岳の写真を長い間撮ってきました。1974年にささやかな小屋を作って以来、そこに行く度に撮り続けています。こんなに長い間写真を撮っていても一向に飽きないのです。それは写真を撮る度に山の様子が違うからなのです。太陽の光の加減、雲の様子、山肌の色合い、周囲の森のたたずまいと、色彩の変化などなどが微妙に違い、毎回写真の様子が異なってくるのです。ここで山の写真を示します。上の写真は大武川をまたいでいる国道20号線の鉄橋の向こう聳える甲斐駒岳です。山の大きさを鉄橋の小ささで強調したつもりです。その上、垂直に見える山の絶壁が麓の建物や鉄橋を押し潰すように立っています。人間の営みの小ささと儚さを感じます。2番目の写真は甲斐駒岳の山頂をズームで撮りました。人間を寄せ付け...「四季おりおりの甲斐駒岳の風景」
山梨の甲斐駒の麓に小さな山の家を作りました。1974年に作りました。もう50余年通った小屋です。色々な出来事が走馬灯のように蘇ります。山小屋のおかげで知り合った人を思い出します。多くの知り合った人が旅立ってしまいました。残ったのは残雪が輝く甲斐駒岳だけです。自然の風景は変わらないのです。今日は山小屋のおかげで出来た友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の雑木林の中で一緒に遊んだ人々の思い出です。その雑木林の中で「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。、25人くらいのメンバーでした。毎年、夏に懇親会をしていたのです。1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。「柳沢清流園管理組合」のある場所は麓の深い森の中です。森が少し平らになっている場所です。木を伐採して別荘地にしたのです。この山林の中ではいろ...「山林の中の友人たちの思い出」
以前に明るい陽光に誘われ湘南の海の写真を撮って来ました。小金井から中央高速で八王子ジャンクションで圏央道に入り茅ケ崎海岸まで約80Kmです。撮って来た茅ケ崎海岸の波の写真をお送りします。湘南海岸は1950年代後半から太陽族が集まって賑わっていました。70歳代、80歳代の人々はご記憶のことと存じます。この太陽族という言葉は石原慎太郎の小説の『太陽の季節』に由来します。この小説に出て来る若者達は葉山で遊びましたが、鎌倉、茅ケ崎、大磯、小田原にかけた湘南海岸を太陽族の海と呼ぶのが普通です。そして湘南海岸は太陽族の海として人気が高まりました。『太陽の季節』は1956年(昭和31年)に、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞しました。この作品は石原の出世作です。ストーリーが倫理性に欠けることで、発表されるや文壇の...「湘南の海の写真」
写真で見る鎌倉の風景をお送り致します。鎌倉は妻が生まれ育った町です。そこで鎌倉の風景を写真でお送り致します。「写真で見る鎌倉の風景」
誰でも自分が生まれた頃の故郷の風景が懐かしいと思います。幼いながら心に焼き付いている光景も沢山あるのが普通です。皆様はそのような昔の故郷の風景をご覧になりたいとお思いではありませんか?幸い最近はインターネットが発達して昔の日本各地の風景が数多く記録されています。ですから根気よく検索して行くと自分が幼少だった昔の風景が見つかるのです。私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。今日は仙台を例にして仙台の戦前、戦後の風景を写真で見たいと思います。昭和という時代は大きな戦争に明け暮れました。そして徹底的な敗戦、続いてアメリカ軍による占領がありました。外国軍による日本全土の占領は歴史上はじめての一大事件です。故郷の仙台に私は昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。ですから仙台は...「写真で見る我が故郷、仙台の戦前、戦後の風景」
「写真で比較する130年前と現在の東京、箱根、江の島、そして農村の風景」
130年前の東京、箱根、江の島、そして農村の風景を写真で比較しました。130年前の写真はエドワード・モースが撮影したものです。彼は大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。その風景写真を編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。1番目の写真は明治時代の都心の遠景です。2番目の写真は現在の都心の遠景です。3番目の写真は芦...「写真で比較する130年前と現在の東京、箱根、江の島、そして農村の風景」
今日のミサの風景の写真です。聖イグナチオ教会のミサの写真をお送り致します。「今日のミサの風景の写真」
聖イグナチオ教会の今日のミサの動画配信は下記にあります。https://ignatius.gr.jp/news/streaming.html〒102-0083東京都千代田区麹町6-5-1中央線(麹町出口)/東京メトロ丸の内線・南北線(赤坂出口)四ツ谷駅下車(徒歩1分上智大学手前)写真は福江島を代表する教会の水ノ浦教会です。鉄川与助による、最大規模の木造教会です。小高い丘の上に建つ荘厳な白亜の聖堂です。「今日のミサの動画配信」
アジア唯一のカトリック教国で、国民の約93%がキリスト教徒であるフィリピンには、スペイン植民地時代に建てられたカトリック教会や大聖堂などが点在しています。1番目の写真はサンアグスチン教会です。マニラで唯一の世界遺産に登録されている歴史的建造物です。1599~1606年に建てられたフィリピン初のスペイン建築様式の教会で、石造りの教会としてはフィリピン最古です2番目の写真はサント・ニーニョ教会です。1565年にスペインの植民者レガスピとウルダネタによって建てられたフィリピン最古の教会です。3番目写真はモロ教会です。モロ教会は、1831年スペイン統治時代に建てられたゴシック様式の美しい教会で、イロイロ市で最も賑わうモロ広場に隣接しています。ピラミッド型をした二つの赤い尖塔がシンボルで、セメントがなかった時代に造...「アジアで唯一のカトリック教国のフィリピン」
「ブログリーダー」を活用して、後藤和弘のブログさんをフォローしませんか?
昔、南ドイツに住んでいたことがあります。スイスにはよく遊びに行きました。そしてアルプスの山々と花畑を眺めたmぽのです、アルプスの山々と花畑の写真をお送り致します。写真は、「スイスのアルプスの花畑の写真」を検索してインターンットからお借りしました。「スイスのアルプスの山々と花畑の写真」
蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。仙台で生まれ育った私は何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしたことがあります。当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋に逗留するのです。ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。あれから茫々60年以上も経ちました。毎年、懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。今日は皆様に蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたいと思います。お送りする写真は「山形蔵王の樹氷写真集」、http://www...「我が青春の山、蔵王山の樹氷の写真」
南アルプスの主峰3つは北岳(富士山の次に高い3193M)、間ノ岳、農鳥岳(白峰三山)です。その前山は甲斐駒、地蔵、観音、薬師です。このうち離れている甲斐駒を除き、地蔵、観音、薬師を鳳凰三山と言います。学生時代、北の穂高、大キレット、槍、常念、と縦走し、南アルプスの甲斐駒、地蔵、観音、薬師に登りました。その後、仕事が忙しくなり、南アルプスの主峰連山(上写真)に登れなくなりました。年をとり体力が衰え、もう登れません。1番目の写真は地蔵、観音、薬師の鳳凰三山です。撮影場所:中央高速道路の釈迦堂サービスエイリア(下り)裏の階段より、西方角を撮る。2番目の写真は甲斐駒岳です。「南アルプスの鳳凰三山の写真」
夏になると若い頃の北アルプス縦走を思い出します。その北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし私は当時写真機を持っていなかったので、インターネットからお借りしました。さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程は全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。1番目の写真は中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。3番目の写真は大天井岳の肩を回りこみ近くなった槍ガ岳です。4番目の...「夏の北アルプス縦走の写真」
月日の流れは早いものです。私の青春は1960年代1970年代でした。今朝はその頃のことを思い出しています。谷川岳の一ノ倉沢の岩登りが若者の胸を熱くした時代でした。今日は1960年代1970年代のことを書きたいと思います。その頃は谷川岳が流行っていました。谷川岳の一ノ倉沢の岩肌を命がけで登っている人がいる一方、街には安保闘争のデモが渦巻いていました。デモは学生の情熱でした。若者が燃えていた時代でした。そんな時代の空気が懐かしいです。あの空気は二度と来ません。その頃、ある山の遭難記事を掲載しましたところその時代の空気をまざまざと思い出させるコメントを2人の方から頂きました。非常に活き活きした文章なのでそのまま転載致します。(1)すけろくさんから2018年10月06日に頂いたコメント若い頃は毎週のように谷川岳東...「懐かしい谷川岳がはやり安保闘争デモの時代」
外国の火祭りは聖ヨハネの前夜祭です。洗礼者ヨハネの誕生日とされる「聖ヨハネの日」に世界の各地でキリスト教徒が祝う火祭りです。キリスト教と関係ない各地の夏至祭と結びつき、火祭りとして祝われる例も多いようです。「外国の火祭り」
吉田の火祭りの写真と全国の火祭りの一覧表です。吉田の火祭り(鎮火祭)は北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭りで、毎年8月26日、27日に行われます。450年以上の歴史を持ち、日本3奇祭、日本10大火祭りにもなっております。全国の火祭りの一覧表オロチョンの火祭り-北海道網走市青森ねぶた-青森県青森市竿燈-秋田県秋田市松明あかし-福島県須賀川市大日向の火とぼし-群馬県南牧村愛宕社の火祭り-富山県魚津市、魚津神社滑川のネブタ流し-富山県滑川市向田の火祭り-石川県七尾市能登島、伊夜比咩神社鬼ヶ嶽火祭り-福井県越前市、大虫神社左義長まつり-福井県勝山市吉田の火祭-山梨県富士吉田市、北口本宮冨士浅間神社・諏訪神社(境内社)南部の火祭り-山梨県南巨摩郡南部町中里の火の花祭-東京都清瀬市中里、中里の富士塚秋葉の火ま...「吉田の火祭りの写真と全国の火祭りの一覧表」
北海道は空気が澄んでいるので花々が生き生きと咲いています。北海道の夏の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://prezo.jp/column/2837です。1番目の写真は大通公園のライラックです。2番目の写真は網走郡大空町の芝桜公園です。3番目の写真は紋別郡遠軽町丸瀬布水谷町のまるせっぷ藤園です。4番目の写真は北海道のシンボルフラワーはハマナスです。「夏の北海道の生き生きとした花の写真」
山梨の甲斐駒の麓に小さな山の家を作りました。1974年に作りました。その小屋を中心としたて上高地や軽井沢や白馬などへ旅行を楽しみました。今日は白馬山麓の白馬東急ホテルと周囲の美しい風景をご紹介いたしたいと思います。1番目の写真は白馬東急ホテルです。後ろの山々は白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などです。2番目の写真はホテルの庭から見た客室です。3番目の写真は泊った客室の写真です。バルコニーに出て庭の向こうの山々を見ながらビールを何度も飲んだものです。家内の両親と一緒に泊ったこともありました。4番目の写真は八方尾根に上がるゴンドラです。このゴンドラの終点は標高が1400mと高く、その大きな展望台からは北に戸隠山や飯綱山まで見えます。5番目の写真はゴンドラの終点、標高1400mの展望台です。残雪に輝く白馬鑓...「白馬東急ホテルと周囲の美しい風景」
関東の山々ではとっくに散ってしまいましたが、白馬山の麓では大雪渓から下る水が冷温で、松川のそばだけ季節が遅れているようです。白馬山の麓に咲く小さな花の写真をお楽しみ下さい。・「白馬山の麓に咲く小さな花の写真」
以前によくドライブしていた頃は諏訪湖から登る白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原へはよく行きました。風景が雄大で可憐な草花が咲いているのです。標高2000m位の高原の連なりには白いシシウド、ギボシ、青いツリガネニンジン、ピンクのヤナギラン、オレンジのキスゲ、オニユリ、そしてフジバカマ、アザミ、などなどの花の群れが咲いています。写真を撮っていると乾いた涼風が吹き渡り花々が揺れています。都会の暑さが嘘のようです。涼しい風をご想像されながら写真の花々をお楽しみ下さい。今日は2008年8月に撮影した写真をお送りいたします。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「夏の白樺湖高原、車山高原、霧ケ峰高原の草花の群れ」
旧友の馬場駿さんから『岩礁』33号が送られてきました。詩や小説などの文芸作品がぎっしり詰まっています。数編読みました。完成度の高い作品です。馬場駿さんとは甲斐駒岳の麓の山林の中で知り合いました。情熱的な文学青年でした。その後『岩礁』を創刊し33号まで続けてきたのです。立派な人生です。文学のお好きな方へお勧めします。購入申し込みは;電話とFax共通で、0558-76-5582へ。会員は主に伊東市なので挿絵代わりの写真は伊東マリーナの風景写真をお送りいたします。「総合文芸誌、『岩礁』33号のご紹介」
小金井市にも夏祭りがあります。多くの家族連れがワイワイ楽しそうにしています。そして全国のは各地に賑やかな夏祭りがあります。末尾に全国のお祭りの8月の一覧表を示します。ご覧下さい。全国の8月の表ですから非常に数多くあります。私はその数の多さに吃驚しました。小金井市のような小さな納涼祭りはこの一覧表には入っていません。従って小さな夏祭りの数まで含めると全国には数百の夏祭りがあるのではないでしょうか?この数の多さは日本だけかも知れません。私は祭りに関しては素人ですが、欧米の祭りはそんなに数多くは無いように思っています。狭い経験ですが自分が住んだオハイオ州ではStateFair(州の農産物市場)という大規模なイベントが年に一回あり、それには数多くの出店や見世物小屋が並んで日本の夏祭りのようです。そして南ドイツでは...「全国の夏祭り一覧表と日本の祭り文化」
夏祭りの印象深い一つの例を示します。能登半島の津々浦々のキリコ祭りです。ご紹介致します。キリコ祭りは能登地方の住民にとって最も重要な祭りです。能登地方で生まれて東京や大阪などに出て行っている人たちが、自分の町でキリコ祭りがある時には戻ってきて、祭りに参加するのです。祖父母に孫たちを会わせ家族全員でキリコ祭りを楽しむのです。キリコは巨大な灯籠のことです。背が高い直方体で、前面中央部には漢字3文字で表した「キリコ吉祥文字」と呼ばれる地区ごとの願いや祈りを込めた文字が書かれています。写真に七尾市で行われる石崎奉燈祭(キリコ祭り)の様子を示します。写真は「七尾市、石崎奉燈祭の写真」を検索して鮮明な写真を選んで転載させて頂きました。若い人でも賢い人は祭りを大切にしています。重要だと思っています。老境に至って全国の地...「夏の風物詩、能登地方のキリコ祭り」
盆踊りの季節になりました。いろいろな盆踊りを思い出します。故郷の仙台の盆踊りや旅先の盆踊りを懐かしく思い出します。特に印象が深かったのは「郡上八幡の盆踊り」でした。今日は郡上市の盆踊りをご紹介いたいと思います。岐阜県の郡上市の「郡上八幡の盆踊り」を見ったのは15年ほど前でした。人がいっぱい楽し気に踊っている光景に圧倒されました。郡上の市役所の女性が駒下駄をカラカラと響かせて踊っています。観光客も加わって踊っています。賑やかで楽しい盆踊りです。木曽の谷間に盆踊りの唄が木霊しています。その上、踊りの振り付けが洒脱で軽妙です。曲も楽しいのです。例えば「春駒」という踊りはいかにも可憐で躍動感に満ちて居ます。ほかにも「ヤッチク」「げんげんばらばら」など歌詞も曲も面白いものです。郡上八幡に住んでいる人々の創意工夫が溢...「懐かしい郡上八幡の盆踊り」
中国の瀋陽訪問の直後の1981年に、東北工学院の金応培先生を東京の私の研究室へ招んだのです。一年間の研究留学です。金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身の朝鮮族でした。日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し中国の東北地区へ移住したのです。新しい農村に少し落ち着いたら、今度は満州帝国建国で再び悲劇が起きたのです。日本の武装開拓団が金さん一家の農地を強制的に安く買い上げたのです。戦後は暫くは旧満州の奥地に住んでいましたが、その後は瀋陽に引っ越しました。私が瀋陽の東北工学院を訪問したとき、金さんはその大学で助教授をしていました。私は金応培さんの案内で瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。金応培さんは瀋陽のいろいろな所へ私を観光に連れて行ってくれました。瀋陽は何と言っても、清朝の発祥...「中国の瀋陽の金応培先生の思い出」
筆者を1980年から何度も北京へ招待してくれたのは北京鋼鉄学院の周教授でありました。もう故人になってしまいましたが友情の深い、年上の男でした。1945年頃には既に天津の北洋大学の学生だったそうです。学生共産党員として天津を国民党の軍隊から解放する作戦へ参加し、解放後は天津市の行政に参加した時期もあったと話していました。善い共産党員の見本のような人で、何時も北京の貧しい人々への同情を話していました。よく私を庶民的な北京ダック専門店へ招待してくれました。そして北京ダックの美味しい店は少し汚くて、観光客の来ない所ですと教えてくれます。彼は北京鴨が自慢なのです。縦長の白い顔は眉が太く、昔の中国の大人の風貌です。いつも静かな微笑みを浮かべ、ゆっくりした英語で話し合いました。以下は1980年代の終わりころ、残留孤児が...「北京ダックと周栄章さんの思い出」
中国は古い歴史があります。しかも現在の中国は世界2位の経済大国なのです。その事実を以下に示します。世界の名目GDP(USドル)ランキングです。出典は、https://ecodb.net/ranking/imf_ngdpd.html#CNです。1位アメリカ29,184.90-北米2位中国18,748.01-アジア3位ドイツ4,658.53-ヨーロッパ4位日本4,026.21-アジア5位インド3,909.10-アジア6位イギリス3,644.64-ヨーロッパ7位フランス3,162.02-ヨーロッパ8位イタリア2,372.06-ヨーロッパ9位カナダ2,241.25+1北米10位ブラジル2,171.34-1中南米11位ロシア2,161.21-ヨーロッパ12位韓国1,869.71-アジア13位メキシコ1,852.72...「そして現在の中国は世界2位の経済大国になった」
西安の近くには紀元前246年に作られ始めた秦の始皇帝陵と兵馬俑があります。私は1982年に西安に泊り郊外の秦の始皇帝陵と兵馬俑を訪れ非常に感動しました。特に兵馬俑坑にある武人像の表情が千差万別で活き活きとしていることに感動したのです。始皇帝陵と兵馬俑の写真を示します。写真は「秦の始皇帝陵」と「兵馬俑」を検索して出て来た数多くの写真から鮮明な写真を選びました。1番目の写真は西安から約30Kmにある秦の始皇帝陵です。陵の小山にはわけなく登れました。頂上には幾つかの石像が祀られていました。眺めが良かったです。2番目の写真は始皇帝陵から1Kmはなれた兵馬俑坑です。巨大な覆いの屋根がかけてあります。武士俑は等身大の素焼きで8000体あるそうです。3番目の写真は軍馬と武人の像です。馬の手綱まで精巧に出来ています。4番...「秦の始皇帝陵と兵馬俑の写真」
近くに始皇帝陵墓と兵馬俑がある西安の風景写真をお送り致します。始皇帝陵墓と兵馬俑は西安の北東30kmの驪山北側にあります。以前に西安に旅して4番目の写真にある塔に登ったことを懐かしく思い出します。西安の風景写真と塔の写真をお送り致します。「近くに始皇帝陵墓と兵馬俑がある西安の風景を懐かしく思う」
アジサイはドイツでも咲いています。アジサイはドイツ語でHortensie(ホルテンジエ)と言い、英語ではHydrangea(ハイドランジア)と言います。日本だけでなく欧州でも広く普及してます。いろいろな派生種があります。水が酸性かアルカリ性かによって、花の色が変わるのは、有名な話ですね。示した写真の出典は、https://minkara.carview.co.jp/userid/314846/blog/44079793/です。「アジサイはドイツでも咲いています」
アジサイの原産地は日本で、その元はガクアジサイです。アジサイは日本から中国にわたり、シルクロードを伝わってヨーロッパへと伝わっていき、イギリスなどで東洋の花として人気が出て、品種改良が進んだのです。写真はアジサイの原産地、日本のガクアジサイです。「アジサイの原産地は日本」
鎌倉は古都で魅力ある場所です。そのうえ家内が生まれ育った所なので何度も訪れました。アジサイが美しい古都です。鎌倉のアジサイの花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/amazing/ajisai-kamakuraです。写真は順に長寿寺、円覚寺、成就院、長谷寺のアジサイです。「鎌倉にはアジサイがあちこちに咲いている」
この季節はアジサイが静かに美しく咲ています。私の家の庭にも咲いています。梅雨が降りかかり一層あざやか色です。日本の梅雨の季節の美しい風物詩です。今日は美しいアジサイの写真をお送り致します。1番目の写真は美しい古刹として知られる鎌倉の長谷寺のアジサイです。写真の出典は、https://clubtravelerjapan.com/article/spot/9430/です。まったく余談ですが家内はこの近所で生まれ育ちました。2番目の写真は山里の梅雨の季節の霧の中のアジサイです。写真の出典は、https://ganref.jp/m/tkrphoto/portfolios/photo_detail/2156726です。3番目の写真は滋賀県長浜市のお寺の山門とアジサイです。出典は、https://www.excite...「日本の梅雨とアジサイの詩的な風景」
仙台で生まれ育ったので松島の瑞巌寺へは何度か行きました。松島の瑞巌寺は国宝で伊達家の菩提寺です。懐かしいので写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。写真は順に、本堂、庫裏,総門、お寺の前の杉並木です。「平安時代に創建された松島の瑞巌寺の写真」
『人間国宝美術館』とは変な名前の美術館です。怪しい作品が展示してあるのではないかと恐る恐る訪れました。ところが重要無形文化財保持者(人間国宝)が創った絵画や焼き物の展示に感動しました。これらの美術品を蒐集した館主の山口伸廣さんの審美眼にと収集品の確かさに感動したのです。展示品の数も多く4階にわたる展示室も充分です。写真撮影が自由にできるのも嬉しいものです。最後に有名陶芸家の作品の中から自分の好きな茶碗を選んで、その茶碗で抹茶を楽しめるサービスに感心しました。心憎い気配りです。ホームページ(http://www.nikobi.com/cont/about.html#02)も良く出来ています。館長矢部良明さんの「ごあいさつ」をそのホームページから下に示します。「高級な美に触れて快い、時間を過ごすことは、多忙な...「箱根の麓の湯河原温泉にある「人間国宝美術館」のご紹介」
幕末から明治にかけての箱根の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「幕末から明治にかけての箱根の風景」
箱根の芦ノ湖の風景の写真をお送り致します。芦ノ湖は奈川県南西部にある県内最大の湖です。水源の大部分が湖底からの湧き水です仙石原から流れ出る早川の水源です。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E7%AE%B1%E6%A0%B9です。「箱根の芦ノ湖の風景」
箱根は昔から温泉として有名でした。江戸時代には関所が置かれていました。現在は車だけでなく小田急ロマンスカーや箱根登山電車などで気軽に行けます。私どもも何十回も訪れました。今日は私どもが撮った写真にしたがって箱根をご紹介したいと思います。1番目の写真は箱根観光の中心的な芦の湖です。奥に富士山が写っています。2番目の写真は旧東海道の杉並木です200m位よく保存されています。3番目の写真は復元されている江戸時代の箱根の関所です。4番目の写真は元箱根にある成川美術館です。日本画の収集が抜群でした。5番目の写真は芦の湖の畔に立つ「山のホテル」です。1963年に新婚の妻と一緒に泊まりました。当時は木造の小さなホテルでした。箱根へ行くと泊まる定宿のようなホテルでした。6番目の写真は強羅公園です。「山のホテル」の他に強羅...「魅力溢れる箱根を巡る旅」
美しい竹林の写真を撮りに行って来ました。小金井には規模が小さいながらも美しい竹林があります。武蔵野公園の近くです。先程その写真を撮って来ました。「美しい竹林の写真を撮りに行く」
鰻は美味しい魚なのでアジア諸国だけでなくイギリス、ベルギー、イタリア、オランダ、スウェーデン、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどではよく食べられています。昔ドイツに居た頃は生き鰻を売っていました。買って蒲焼きにしました。欧米人はウナギを燻製にして食べます。そして、ぶつ切りにしてスープにして食べます。蒲焼きは面倒なのでしません。欧米人がよく食べるウナギの燻製とウナギ入りのスープの写真をお送り致します。写真はインターンネットからお借りしました。「ドイツのウナギ料理の写真」
先程、駅前のウナギ専門店に行って撮ってきました。「ウナギの蒲焼きいろいろな写真」
今年の夏の土用の丑の日は2日あり、2024年7月24日(水)と8月5日(月)です。夏の土用の丑の日は立秋前に訪れ、毎年日付は変わります。季節の変わり目で体調を崩しやすい時期に、うなぎなど栄養のある食べ物を食べて英気を養いましょう。うなぎ以外にも、「うどん」「梅干し」「瓜科の野菜」「牛肉」など「う」のつく食べ物を食べて、健康を願いながら土用の丑の日を過ごします。土用丑の日にウナギを食べる習慣の発祥には江戸時代の平賀源内説や春木屋善兵衛説や蜀山人説があります。現在のように蒲焼にして食べる風習は江戸時代に広く普及したことには間違いありません。しかし夏痩せを防ぐためにウナギを食べる風習は万葉集の出来た時代にもあったのです。痩(や)す痩すも生けらばあらむを将(はた)やはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると河に流れな大伴家持...「間もなく土用丑の日、ウナギも蒲焼きにまつわる話」
小金井の金蔵院の蓮の花は毎年必ず咲きます。先程今年の蓮の花の写真を撮ってきました。美しい色合いをお楽しみ下さい。「今年も咲きました蓮の花」
エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。その風景写真を編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。今日は、昔の箱根の風景、江の島の風景、そして農村の人々の写真を7枚お送りします。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。1番目の写真は現在の関所跡から北方面へ伸びる町並の風景写真です。手前の左近辺には現在、遊覧船の桟橋があり車の駐車場が広がっ...「明治時代の箱根の風景、江の島の風景、そして農村」
今日はインターネットを通して東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました。カトリック松原教会にのミサの風景写真をお送り致します。「今日は東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました」
五島列島のカトリック教会の風景写真です。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は楠原教会の写真です。リブ・ヴォールト天井で、レンガ造りのゴシック様式。下五島に現存する教会としては、堂崎教会に次ぐ2番目に古い教会です。2番目の写真は堂崎教会です。五島のシンボル的教会。県指定有形文化財です。3番目の写真は水の浦教会です。ロマネスク、ゴシック、和風建築が混合した白亜の美しい教会です。4番目の写真は江上天主堂の写真です。世界文化遺産「奈留島の江上集落」構成資産。国指定重要文化財です。「五島列島のカトリック教会の風景」
人間はだれでも高齢になると病気がちになります。退職して年金生活をしているのでお金の心配もあります。体力が無くなるのでスポ-ツなどの趣味は出来なくなります。ですから一生の間で一番不幸な時期と考える人がいても不思議ではありません。しかし老境ほど一番はなやかで幸せなときは無いという人もいます。私自身もそのように思います。私だけでなくこのような記事にコメントを下さる方々は皆元気溌剌で幸せそうです。その上毎週一回通っているリハリビ施設で会う15人位の80歳、90歳の高齢者も意識の上では若々しいのです。これらの高齢者を毎週一年以上仔細に観察しました。そうしたら男女にかかわらず達観の境地にあるようです。勿論、達観していると言っても人間なので迷いもあり愚痴もこぼします。しかし全体的に観察していると高齢者ほど達観の境地に近...「老境の幸せと達観の境地の具体的な説明」
何度通っても飽きない野川沿いの散歩道です。不思議に思います。そんな散歩道の写真をお送り致します。「何度通っても飽きない散歩道」
武蔵野公園への散歩道に人が死に絶えて門だけが残った屋敷跡があります。建物は朽ちて消えてしまい鬱蒼とした森になっています。立派な門だけがムジナ坂の下にあります。その門の前を通るたびに人の世のはかなさを感じます。そんな風景の写真を撮って来たのでお送り致します。「人が死に絶えて門だけが残った」