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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「ドイツ原産のドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギクなどの写真」

    ドイツは多くの美しい花が自生しており、ガーデニングにも人気があります。特に、ドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギクなどが有名です。ドイツスズランの南限の自生地は阿蘇市波野です。北海道や本州中部以北の高原にしかないといわれるスズランが自生しているのです。波野の公園には5月中旬頃になると、可憐な5万株のスズランの花が咲き、高原一帯は、甘い香りに包まれるます。4枚の写真にドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギク、阿蘇の波野の公園の写真をお送り致します。「ドイツ原産のドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギクなどの写真」

  • 「幼稚園発祥の国、ドイツの幼稚園と日本との違い」

    娘はドイツの小学校、息子は幼稚園に行っていました。そこでドイツの幼稚園と日本の幼稚園との違いをお送り致します。参考にした資料は下記です。https://www.shinga-farm.com/parenting/germany_kindergarten/さてドイツの教育者フリードリヒ・フレーベル氏は1840年に、最初の「一般的なドイツの幼稚園」をブランケンブルクの緑広がる庭のなかにつくりました。それまでにも「託児」の施設はありましたが、幼児教育を目的とする施設はこれが初めてで、その後現在の幼稚園の形になったのです。フレーベル氏は幼稚園が「子どもの楽園」であるべきとし、「子ども=Kinder」と「庭(楽園)=Garten」を合わせてキンダーガーデンと名付け、その名称は現在も使われています。そして幼稚園の園庭...「幼稚園発祥の国、ドイツの幼稚園と日本との違い」

  • 「遥かな南ドイヅの思い出、私の南ドイツよ!」

    老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくづく思います。6月13日に「遥かなオハイオの思い出、私のアメリカ」という記事を書きました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のとき南ドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。今日は「遥かな南ドイヅの思い出」として二つの思い出を書いてみます。ローテンブルグとシュツットガルトの思い出です。まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真をご紹介しましょう。1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。写真の出典は、https://beautiful-photo.net/medieval-tow...「遥かな南ドイヅの思い出、私の南ドイツよ!」

  • 「仏教を生んだインドの凄すぎる日常風景の写真」

    仏教は日本文化に深い影響を与えました。その仏教を教えたのはインドの釈迦です。ですから私は長い間インドに強い関心を持っていました。アメリカやドイツで知り合ったインド人は限りなく優しい人でした。私はインド人が好きです。尊敬しています。しかしインドには行ったことがありません。そこで今日はインドの日常風景の写真を見てみたいと思います。写真の出典は、写真家の鈴木圭さんの、「インド人の日常風景が凄すぎる」です。鈴木圭さんはイタリア・ミラノ在住のフリーライターです。彼はインドについて次のように言っています。「ハマる人は何度でも行きたくなる、ダメな人は二度と行きたくないと言う」鈴木圭さんは以下に示す写真には一切の説明をしていません。写真に添えた説明は私自身の勝手な想像です。皆様もご想像しながらご覧ください。1番目の写真は...「仏教を生んだインドの凄すぎる日常風景の写真」

  • 「写真で見る古都、西安と玄奘三蔵法師」

    古い都の西安は阿倍仲麻呂が訪問しました。日本人にとっては懐かしい町です。私も行ったことのある懐かしい所です。今日は古都、西安の風景と玄奘三蔵法師にまつわる風景を写真でご紹介いたします。写真は「西安の風景」と「玄奘三蔵法師」を検索して、出て来た数多くの写真から鮮明なものを選びました。1番目の写真は現在の西安に残っている古い城門です。2番目の写真も西安に残っている古い城門の正面です。3番目の写真は西安の旧市街の様子です。4番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から密教の教義を学びました。インド、中国、日本と広い地域に流れた悠久の時を考えています。人間の想念は時空を越えるのです。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げ...「写真で見る古都、西安と玄奘三蔵法師」

  • 「中国、韓国、日本の人々が尊敬する玄奘三蔵法師のインドへの旅」

    玄奘三蔵法師のことを書いていると元気が出てきます。玄奘三蔵法師はアジア諸国の誇りです。そこで今日もこの三蔵法師のことを書きたいと思います。考えてみると、中国、台湾、韓国そして日本の文化は仏教と儒教の文化です。この佛教をインドから持って来たのが鳩摩羅什(くまらじゅう、344年-413年)と玄奘三蔵法師でした。今日は中国、韓国、日本の人々が共通に尊敬している玄奘三蔵法師の偉業を簡単にご紹介したいと思います。私自身はカトリックですが特に玄奘三蔵法師と弘法大師を敬っています。さて玄奘三蔵法師は唐時代にはるばるインドへ旅をして仏教の全ての教えを持って帰って来たのです。現在、中国、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をその...「中国、韓国、日本の人々が尊敬する玄奘三蔵法師のインドへの旅」

  • 「インドでの仏教の成立と日本への導入」

    仏教のことを書きます。日本人なら誰でも知っていることです。しかし以下に順序だてで書かせて下さい。(1)釈迦の誕生と菩提樹の下で悟りを開いた経緯佛教の開祖は釈迦です。生没年は正確には分かっていません。前565年生まれ、前486年に亡くなったという説と、前465年生まれ、前386年に亡くなったとう説などが有力とされています。釈迦は北インドの一部族の名でした。俗姓をゴータマ、名をシッダルタといい、現在のネパール南部のターライ盆地にあったカピラバスツー城で、シュッドーダナ(浄飯)王を父、マヤ(摩耶)夫人を母として生まれたといいます。国王になるための教育を文武両面で受け、16歳でヤショダラ(耶修陀羅)という女と結婚し、ラーフラという子をもうけましたが、29歳(19歳説も)で出家します。出家した後、11年間にわたって...「インドでの仏教の成立と日本への導入」

  • 「マザーテレサのインドでの国葬」

    マザーテレサは1910年に生まれ、1997年に亡くなりました。日本にも2度来たことがあります。彼女は異なる宗教の壁を超えて、国境を超えて、全ての貧しい人々を慈くしみ、愛したのです。その崇高さは全ての人類に尊敬されています。今日はマザーテレサをヒンズー教のインドが国葬にしたことの意味を考えたいと思います。マザーテレサはカルカッタの路上で死んで行くインド人を死者の家へ連れて来て、大切に世話をして送ったのです。インド人が恩義に思い国葬にしたのです。インドでは国葬は前代未聞で、唯一回だけの国葬でした。葬儀の行列には路上生活者が何十万人と集まって見送ったと言います。そして没後10年目の追悼式ではヒンズー教徒やイスラム教徒、そして路上生活者が同じようにマザーのお墓の周りに集まって心からの感謝の祈りを捧げました。「マザ...「マザーテレサのインドでの国葬」

  • 「忘れ得ぬインド人、フェルナンデス君のことなど」

    アジアと西洋の間にインドがあります。行ったことはありませんが、アメリカやドイツで会ったインド人は親切で、私の面倒をよくみてくれました。宗教はヒンズー教が多いようです。日本人の仏教は大ざっぱに言えばヒンズー教の一派となるのか、非常に親しげにいろいろ面倒を見てくれます。長年にわたりインドを植民地として過酷に支配してきた大英帝国へ対して、日本は戦争をしました。その戦争はインドの完全独立に貢献したことは歴史的事実です。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯全員の無罪を主張したのはインド人裁判官ただ独りであった事は忘れられません。その後、ネール首相が愛娘の名をつけたインド象を送ってくれ、敗戦で打ち沈む日本人の心を慰めてくれたのです。インド人のことを教養のあるアメリカ人は尊敬しています。忠誠心や責任感が強く、頭脳明晰な人が...「忘れ得ぬインド人、フェルナンデス君のことなど」

  • 「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日の散歩は都立武蔵野公園まででした、写真機を忘れたのでインターネットからお借りした武蔵野公園の風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://withbaby.jp/archives/16679です。「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「中国で最も印象深かった頤和園の風景」

    1980年代は日中友好の時代でした。親しい中国人の友人が出来て何度も中国に行きました。中国は懐かしい国です。いろいろ思い出します。一例として印象深かった頤和園の風景の写真をお送り致します。頤和園は北京都心より北西に約15kmにある万寿山とその南に広がる昆明湖の総称です。12世紀半ばの金代の離宮跡が起源で、荒れ果てたこの地を1750年に、第6代の皇帝乾隆帝(在位1735-1796年)が崇慶皇太后の還暦のお祝いに創建されました。「中国で最も印象深かった頤和園の風景」

  • 「北京の故宮、天壇、大鐘寺、明の13陵、万里の長城などの写真」

    北京の故宮は中国を代表する世界遺産です。「故宮」はかつて「紫禁城」と呼ばれていました。世界最大の宮殿です。建設開始は明の時代の1421年に南京から北京へと遷都して作られましました。20世紀の清朝滅亡まで歴代皇帝が暮らす宮殿です。その建築群は「外朝」と「内廷」の2つに分けられます。乾清門を境に南は外朝で北の方は内廷です。太和殿、中和殿、保和殿の3大宮殿を中心にして内廷に乾清宮、交泰殿、坤寧宮などがあります。それでは故宮の写真をお送り致します。写真はインターネット上にある多数の写真から美しい写真を選びました。1番目の写真は北京の中心にある故宮の全体の写真です。2番目の写真は故宮の入口をくぐるとすぐに見える太和門です。太和殿、中和殿、保和殿などは規模壮大で圧倒されます。3番目の写真は故宮の隅櫓です。故宮の中を歩...「北京の故宮、天壇、大鐘寺、明の13陵、万里の長城などの写真」

  • 「中国の瀋陽の金応培先生の思い出」

    中国の瀋陽訪問の直後の1981年に、東北工学院の金応培先生を東京の私の研究室へ招んだのです。一年間の研究留学です。金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身の朝鮮族でした。日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し中国の東北地区へ移住したのです。新しい農村に少し落ち着いたら、今度は満州帝国建国で再び悲劇が起きたのです。日本の武装開拓団が金さん一家の農地を強制的に安く買い上げたのです。戦後は暫くは旧満州の奥地に住んでいましたが、その後は瀋陽に引っ越しました。私が瀋陽の東北工学院を訪問したとき、金さんはその大学で助教授をしていました。私は金応培さんの案内で瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。丁度その年にヨハネ・パウロ2世が長崎へ巡礼に来たのです。文化大革命で破壊された教会がまだ復興して...「中国の瀋陽の金応培先生の思い出」

  • 「驚異的な周口店の北京原人遺跡」

    周口店の北京原人遺跡訪問して感動しました。人間は20万年前から火を使って料理していたのです。周口店の北京原人遺跡は北京から南西に50キロほど離れた周口店村の竜骨山の上に、「北京原人遺跡」はあります。1920年代、考古学の世界に激震が走りました。この地で約70万年前から20万年前のものと推定される頭蓋骨が発見されたのです。この発見により、類人猿とは異なる原始人類の存在が明らかとなり、その頭蓋骨は北京原人と名付けられました。また、後に原人の使った石器および火を使った跡も次々と発見されました。北京原人遺跡は人類進化の鍵です。北京原人化石は全部で頭蓋骨6個、骨の砕片12片、下顎骨15個、歯157枚および割れた大腿骨、脛骨、上腕骨などが出土。これらの骨は老若男女約40体のもの。このほか、石器材料10万点、及び火を使...「驚異的な周口店の北京原人遺跡」

  • 「何故かよく思い出す北海公園の長い回廊と仿膳飯荘」

    中國との付き合いは1981年に始まりました。北京鋼鉄大学の周栄章さんと瀋陽の東北学院大学の金応培さんと親しくなりました。1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をよく思い出します。今日は海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。1981年に周栄章さんと2人だけで北京の北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htmです。歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。学長さん達に感謝の言葉を述べました。すると学長さんは「あなたは中国を自由に楽...「何故かよく思い出す北海公園の長い回廊と仿膳飯荘」

  • 「今日の都立小金井公園の風景」

    今日の都立小金井公園の風景です。快晴でした。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の都立小金井公園の風景」

  • 「昔の武蔵野の森の風景」

    昔の武蔵野の森の風景は「武蔵野の森公園」にあります。武蔵野の森公園は2000年4月に開園した新しい公園で、調布飛行場を北と南から挟み込む形で出来ています。公園は北側の地域と南側の地域に分れていて、両地域を結ぶプロムナードと呼ぶ細長い散策路が飛行場の西側にあります。北側地域では子供が遊べる遊びの広場や大芝生広場があり、展望の丘や故郷の丘に上ると広々とした飛行場の滑走路が見渡せます。南側地域には、子供のための野球場やサッカー場などがありスポーツを楽しむ事が出来ます。広々とした気持ちの良い公園です。府中市朝日町・調布市西町・三鷹市大沢にあります。「昔の武蔵野の森の風景」

  • 「日本一美しい八千穂高原の白樺林」

    軽井沢から小諸の懐古園を訪れて、八ヶ岳の清春へ向かってドライブしたのは2015年の5月8日のことでした。雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。実はその北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっていたのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ま...「日本一美しい八千穂高原の白樺林」

  • 「ドイツのシュバルトバルト(黒い森)の写真」

    昔、シュツットガルト市に住んでいました。郊外に出るとシュバルトバルト(黒い森)が広がっていました。森の中に散歩道がどこまでも続いていました。よく家族とともに歩いたものです。そのシュバルトバルト(黒い森)の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「ドイツのシュバルトバルト(黒い森)の写真」

  • 「樹木の美しさに魅了される」

    戦前、戦後に仙台の郊外に育った私は山林の中で一人遊びをしていました。雑木林を抜けると亭々と聳える赤松の林があり、何故かいつもトンビが舞っていたのです。その鳴き声が今でも耳に残っています。私は樹木に憧れ、樹木を友にし、樹木を尊敬していたのです。中年になって少し心の余裕が出来たころ、山林の中に小さな小屋を建てました。山梨県北杜市の甲斐駒岳の山麓に広がる深い、深い森の中です。どんなに深い森かを示すために写真にその小屋の窓から撮った森の写真を示します。1番目の写真は私の山小屋の窓の西側の林の風景です。東側には庭があり小川が流れています。西側の窓の外の自然林を眺めながらビールをゆっくり飲みます。夕方から次第に暮れて行く山林の呼吸を感じます。鬱蒼とした自然林の奥には鹿や猪や猿が静かに棲んでいるのです。次の日の朝、小屋...「樹木の美しさに魅了される」

  • 「故郷、仙台の評定河原と隠れキリシタンたち」

    生まれ育った仙台に評定河原という広い場所があります。広瀬川の岸で青葉城跡の下です。私の家があった向山から近いのでよく遊びに行った場所でした。その評定河原は江戸時代に裁判や処刑に使われた河原です。現在は球場と広い陸上競技場になっています。それらの前は、早川智寛(元仙台市長)が作った早川牧場でした。1940年、旧制二高の主催で旧制高校の全国大会が仙台で行われた際には、主要会場になりました。しかし仙台藩の初期には隠れキリシタンも裁判を受け近くの川岸で処刑されました。その後評定所内の処刑場は寛文6年(1666年)に、広瀬河原に近い米ヶ袋的場付近に移り、処刑場は七北田に移りました。現在の七北田橋の南方県道筋の丘の上です。評定河原の写真をお送り致します。1番目の写真は評定河原から見た青葉城跡の山です。左手の山は伊達政...「故郷、仙台の評定河原と隠れキリシタンたち」

  • 「東北地方で広がるキリスト教」

    東北の雄として勢力伸長めざましい伊達政宗は1610年に江戸屋敷でスペイン人、ルイス・ソテロに会見、ソテロに仙台藩内でのキリスト教布教を認めるとともに、南蛮との通商を計画します。1620年に遣欧使節団として旅に出ていた支倉常長はローマより帰国しますが帰国するなり棄教を命じられます。そしてこの頃より伊達政宗はキリシタンへの寛容政策を改め、領内のキリシタン弾圧を始めます。伊達政宗にも仕え、現在も農業用水として胆沢平野を潤している「寿庵堰」を造った後藤寿庵は転宗を拒み南部藩に身をかくします。同年には秋田城外の久保田刑場にて男性21人、女性11人が火刑に処され、その後も同刑場にて雄勝郡のキリシタン15人を斬首、同じく秋田藩、仙北郡のキリシタン19人(うち子供が4人)を斬首、盛岡では2名が惨殺、1627年には会津藩で...「東北地方で広がるキリスト教」

  • 「伊達政宗に仕えたクリスチャン武将、後藤寿庵」

    岩手県奥州市にはクリスチャン武将、後藤寿庵(1577?~1638?)ゆかりの「キリシタンの里」があります。以下にhttps://www.christianpress.jp/sendai-shirayuri-womens-college-christian-pilgrimage-bus-excursion/から後藤寿庵の活躍をご紹介致します。1番目の写真は後藤寿庵ゆかりの里の説明看板です。(写真:仙台白百合女子大学提供)寿庵は洗礼名で、洗礼者ヨハネの意です。長崎でキリシタンとなり、1611年、仙台藩主・伊達政宗の家臣となり、見分村(現岩手県奥州市水沢区福原)に1200石を給されました。開墾するため「寿庵堰」と呼ばれる大規模な用水路を造りました。現在もその跡が残っているそうです。一方、熱心なキリシタン領主であ...「伊達政宗に仕えたクリスチャン武将、後藤寿庵」

  • 「今日の都立武蔵野公園の風景」

    午後の散歩は都立武蔵野公園まででした。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の都立武蔵野公園の風景」

  • 「仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出」

    昔はテレビも無く娯楽と言えばハイキングや海水浴だけでした。そこで海水浴の思い出を書いてみようと思います。戦前戦後の貧しかった時代の夏の楽しみは近くの浜で海水浴をすることだったのです。私の幼い頃は仙台でしたので海水浴と言えば仙台から近い荒浜か菖蒲田浜でした。とにかく夏になると何度も行きました。少し遠方では松島湾の桂島や宮古島へ行ったこともあります。足が焼けるような砂浜を歩いて波打ち際に立つと冷たい透明な海水が足を洗い、心地良いものでした。夏の日の楽しい思い出は人それぞれ沢山あると思います。夏は子供にとっては天国です。夏休みが長いうえに、親たちもお盆のころ休暇をとり、よく家族旅行に行きます。田舎の祖父母の家へ帰省するのが嬉しかったものです。夜になると、現在は無くなりましたが蚊帳というものを吊ります。蚊帳に入っ...「仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出」

  • 「『青葉城恋い歌』の仙台の懐かしい写真」

    皆様は、無性に故郷のことが懐かしくなることがありませんか?私は時々そうなります。それで我が故郷、仙台の思い出を書きたいと思います。まず仙台の写真を示します。私は仙台で昭和11年に生まれ24歳で離れる迄住んでいました。私が昔よく遊んだ八木山や青葉城跡の写真を示します。懐かしい場所の風景写真です。1番目の写真は青葉城跡の高台から見た現在の仙台です。2番目の写真は仙台の開祖の伊達政宗の騎馬像でしす。青葉城を作り終生そこに住み仙台藩を統治していました。3番目の写真は青葉城の裏にある吊り橋です。仙台の観光名所です。この吊り橋を渡った先は八木山になります。そこにはむ昔、八木山球場がありベーブ・ルースが来てホームランを打った歴史があります。昭和9年11月9日のことです。ベーブ・ルースやルー・ゲーリックをまじえた米大リー...「『青葉城恋い歌』の仙台の懐かしい写真」

  • 「老境にいたって遥かに思い出すのは松島の風景」

    老境にいたって遥かに思い出すのは松島の風景です。その松島は生まれ育った仙台のそばなので何度も遊びに行きました。松島は日本三景の一つで風景が美しい海に松が生えている島々が点在しているのです、この松島の海で仙台一高に通っていた頃に、カッターやスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。私にとって懐かしい松島の風景の写真をお送り致します。写真は、「松島の風景の写真」を検索してネット上からお借りしました。松島湾は仙台湾の中央にあります。多島海です。このうち松島湾南西部は塩竈湾です。松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸です。沈降地形で谷に海水が入り込んで出来たのえです。そのうち松...「老境にいたって遥かに思い出すのは松島の風景」

  • 「今日は広島のカトリック曙町教会のミサにあずかりました」

    今日はインターネットを通して広島のカトリック曙町教会のミサにあずかりました。ミサの風景写真をお送りいたします。「今日は広島のカトリック曙町教会のミサにあずかりました」

  • 「心惹かれる平林寺の中にある戴渓堂の写真」

    戴渓堂(たいけいどう)には日本に書法・篆刻を伝えた独立性易禅師を祀っています。独立禅師は、隠元隆琦禅師と共に第4代将軍徳川家綱謁見のため、長崎から江戸に随行しました。当時の老中松平信綱は独立禅師を厚遇しました。戴渓堂の写真をお送り致します。「心惹かれる平林寺の中にある戴渓堂の写真」

  • 「平林寺がある武蔵野の野火止の風景」

    平林寺は埼玉県の新座市にあります。平林寺は埼玉県、新座市の市役所の向かい側にあります。その付近の風景をご紹介いたします。1番目の写真は平林寺の付近にある武蔵野の森です。農地が広がり、その向こうに森があるのです。野火止用水のある平林寺界隈には昔ながらの武蔵野の森があちこちにあります。2番目の写真は平林寺の表門です。道の左右には巨大なケヤキが繁っています。3番目の写真は平林寺の東側にある南北の道路です。道の両側が森になっています。この通リの右奥に新座市の市役所があります。4番目の写真葉は平林寺の仏堂です。平林寺は南北朝の時代の1375年に大田備中守によって同じ埼玉県の岩槻に創建されました。そして1663年に松平伊豆守信綱の遺児、輝綱によって現在地へ移築されたお寺です。この平林寺は禅の修業で有名なのです。その境...「平林寺がある武蔵野の野火止の風景」

  • 「平林寺の新緑の雑木林の中を歩く」

    以前に平林寺の新緑の雑木林の中を散歩したことがあります。その折に家内が撮った写真をお送り致します。「平林寺の新緑の雑木林の中を歩く」

  • 「禅僧の無縁仏の墓のあるお寺の風景」

    祖父は兵庫県のお寺の住職でした。毎年そのお寺へ泊りに行きました。そんな思い出があるので私はお寺の中を散歩するのが大好きです。仏教のお寺が好きなのです。お寺へ行くと必ず山門の前の説明版を丁寧に読みます。その文章を読むと心地良いのです。寺の謂れ因縁が分かります。境内を散歩しながら本堂のご本尊さまへ遠くから合掌します。そして墓地の方を見ます。そのお寺の仏教に対する考え方がそこはかとなく分かるのです。お釈迦様は死んだら遺骨を野に捨てよと言って亡くなりました。お墓を作ってはいけないのです。しかし弱い人間はお墓を作ってしまいます。その墓の作り方や保存の仕方でお寺の仏教に対する精神が判かるのです。有名な権力者のお墓が沢山あるお寺はいけません。無名の人々の無縁仏の墓を大切にしているお寺が大好きです。幸せな気分になります。...「禅僧の無縁仏の墓のあるお寺の風景」

  • 「今日の小金井公園の風景」

    曇りで肌寒い風が吹いていました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」

  • 「今日の小金井公園の風景」

    曇りで肌寒い風が吹いていました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」

  • 「山林の中に棲む野生たちに会った時の写真」

    都会に住んでいると野生動物には滅多に会いません。しかし山に行くといろいろな野生動物に会います。そして私は山梨の山林の中の小屋に何十年も通っているのでいろいろな野生動物に会っています。キツネ、シカ、サル、カモシカなどに会っています。今日は折にふれて会ったろいろな野生動物たちをご紹介したいと思います。それは日本には豊かな自然がある証です。山々には野生動物がたくさん棲んでいるのです。私の甲斐駒山麓の山林の中の小屋には野生の狐、鹿、猿が時々やって来ます。人を怖がらず少し遊んでから山林の中へ帰っていきます。まずそんな野生の狐、鹿、猿、カモシカの写真をお送り致します。自分で撮った写真です。1番目の写真は山林の中の小屋に遊びに来たキツネです。人間が珍しいのか私のそばに寄って来て私をしげしげ観察して林の中へ帰って行きまし...「山林の中に棲む野生たちに会った時の写真」

  • 「モリアオガエルと木内正夫さんの思い出」

    甲斐駒岳の麓の山林の中に独りで何十年も住んでいる友人がいました。木内正夫さんという方です。視力が弱くなる眼病になってインターネットへの書き込みが出来なくなりました。そのせいで10年以上毎日のように更新してきたブログを止めることにしました。彼の最後の記事です。・・・「さようなら」眼の状態が思わしくなく、ブログの記事さえ満足に読めなくなり皆様のブログにも訪問がむずかしくなりました。本日をもって終わりにします。・・・今まで応援していただき感謝しています。コメント欄は開けておきますが返信は出来ません。ブログは人生の記録として残しておきます。さようなら。・・・・詳しくは、http://sizen068.blog95.fc2.com/にあります。このブログは今でも見ることが出来ます。1番目の写真は木内正夫さんです。今...「モリアオガエルと木内正夫さんの思い出」

  • 「今日の都立小金井公園の風景です」

    曇り日で写真は鮮明ではありませんが撮ってきた写真をお送り致します。「今日の都立小金井公園の風景です」

  • 「ヨットの趣味を楽しく思い出す」

    日常生活から完全に離れた世界に遊ぶ趣味の一つにヨットの趣味があります。この趣味の世界に入った場所が三浦半島の相模湾沿いにある葉山マリーナでした。懐かしくなりそのマリーナを訪れてヨットの写真を撮りました。それが下にある2枚の写真です。この写真はヨットの舵を下から見上げたものです。この形を見て私の胸が早鐘を打つように鳴るのです。この舵をグイと切ってヨットが急旋回している時の体感を思い出して興奮するのです。大きな舵は海の中に深く伸びています。少しでも重心を低くして、ヨットの姿勢を良く保つために考え抜いた形になっています。機能美です。これはヨットの船尾から見上げた写真です。船尾からマストの天辺に張ったバック・ステイの傾きに合わせて船尾を切っています。ですから美しく見えます。ついでに船体の右舷からマストの天辺に張ら...「ヨットの趣味を楽しく思い出す」

  • 「烈風の駿河湾での豪快なセイリングの写真」

    2009年の5月2日のセイリングです。東京ベイヨットクラブのハンスクリスチャン43、Bambino号でHoota船長指揮のもと、若い女性2名を含めた総勢6人で4時間程、烈風の中を豪快なセイリングを楽しんで来ました。その時の写真です。「烈風の駿河湾での豪快なセイリングの写真」

  • 「ヨットの友人へ送る惜別の手紙」

    2011年の10月29日にTadnobleという方へ愛艇を譲りわたし、いさぎよくヨットを止めました。26年間にわたりヨットの趣味を楽しみました。その間、本当にいろいろな方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無く終える事が出来たのです。ヨットを通しての友人達と、もうお会いすることもありません。お別れの手紙を送りたいと思いますが、今日はある一人の方への手紙を書きました。Hootaさんという方です。3年ほど前に彼の艇を訪問し、一晩ビールを飲みました。それから駿河湾で素晴らしい帆走に誘ってくれた方です。Hootaさんは、北欧風の大型艇、Bambinoで東京湾や伊豆七島周辺を帆走している方です。そのBambino号は千葉県の保田港を母港にしていました。遠路を車で行き、やっとたどり着きました。春の暖か...「ヨットの友人へ送る惜別の手紙」

  • 「25年間のヨットの趣味を振り返って」

    私は50歳で江の島の小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。ヨットをあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真はその時霞ヶ浦に浮かべたヤマハ19という中古のクルーザーの様子です。2番目の写真は陸揚げした「あけび号」です。この「あけび号」は霞ヶ浦で10年間乗りま...「25年間のヨットの趣味を振り返って」

  • 「生涯の良い思い出は山林の中の小屋のこと」

    私の人生はかなり貧乏でした。しかしたった一つだけ少し贅沢な趣味を持っていました。それは山林の中に小屋を作り泊りに行く趣味でした。山林の中には人がいません。雑念がわきません。あるのは林をかける風の音だけです。気持ちが純粋になるのです。素晴らしい趣味でした。車の運転免許を返上したのでもう行けません。時々懐かしく思い出すだけです。今日も思い出したので山林の中の小屋の写真をお送り致します。「生涯の良い思い出は山林の中の小屋のこと」

  • 「はじめてアメリカでスーパーを見た時の驚きと感動」

    スーパーマーケットを始めて見たのは1960年のアメリカででした。当時の日本ではスーパーマーケットが無かったのです。貧しげな小売店しか無かったのです。1960年にオハイオに留学したら近所にビッグ・ベアという大きなスーパーマーケットがあったのす。美しい商品がところ狭しと豪華に並んでいるのです。店内は広々として美しいのです。写真はアメリカのスーパーマーケットの一例です。ビッグ・ベアの豪華さを見て考えこみました。こんな豊かな国と戦争をして」勝てるわけがありません。真珠湾攻撃は無謀でした。負けるために戦争をしたようなものです。当時の日本の指導者達は無謀でした。留学さきのオハイオの大学の教育にも驚きました。高度なことでなく金属工学の必要不可欠のことを徹底的に教えるのです。その為に数多くの宿題と試験があるのです。数多く...「はじめてアメリカでスーパーを見た時の驚きと感動」

  • 「楽しい思い出のある紀伊國屋」

    紀伊國屋には楽しい思い出が沢山あります。何度も行ったのが新宿の書籍専門店や小金井と国立の食品スーパーなどです。商品がしゃれていて店の雰囲気がチョット高級なのです。良い商店は文化です。その国の文化を高く支えているのです。日本のスーパーを観察すると日本の文化レベルが分かります。終戦直後の店に比べると日本の店が清潔で綺麗になったことに感動します。写真はスーパーの紀伊國屋の一例です。「楽しい思い出のある紀伊國屋」

  • 「時代はドンドン変わる、年を取ると年月の流れが一層早くなる」

    年を取ると年月の流れが一層早くなります。そして時代はドンドン変って行きます。いろいろな変化で実感します。昨日はスーパーマーケットへ行って買い物をしました。その規模が大きいのです。品物が美しく並んでいます。床がピカピカ輝いています。思い返すとこんなスーパーは昔ありませんでした。1962年に仙台を出て留学するまではスーパーマーケットというものは知りませんでした。アメリカで初めてスーパーマーケットを見て驚いたことを思い出しました。アメリカの豊さを実感しました。これでは戦争に負けるとつくずく思いました。こんな国と戦争をする愚かさに心が暗くなりました。昨日撮ったスーパーマーケットの写真をお送り致します。昨日は日本のスーパーマーケットに感動しました。そこでスーパーマーケットの歴史を調べました。日本へは何時頃出来たかを...「時代はドンドン変わる、年を取ると年月の流れが一層早くなる」

  • 「クラーク博士とBoys, be ambitious like this old man」

    「この老いた私のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味です。札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。写真はさっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク像です。「クラーク博士とBoys,beambitiouslikethisoldman」

  • 「北海道の広い平原と緑の牧場」

    北海道の魅力は本州に無い広々とした平原の風景です。緑の牧場です。そこで今日はそんな風景をご紹介したいと思います。まず写真をお送り致します。1番目の写真は長万部町の静狩の牧草地の平原の風景です。丸加高原を入り口付近から見た風景です。ここの平原には「牛」「馬」「羊」が放牧されているそうです。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htmです。2番目の写真は北海道の稲作地の平原です。北海道は現在日本一の米の産地です。水田の背景に平原が美しく広がっています。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htmです。3番目の写真は北海道の牧場です。ホルシュタイン種の牛がのんびりと草を食んでいます。4番目の写真は平原に咲...「北海道の広い平原と緑の牧場」

  • 「北海道の標津川の鮭の遡上」

    昔から私は鮭が川を遡上する光景に憧れていました。その光景を想像するとロマンティックな気になります。鮭の遡上の光景を見たいという夢は北海道への旅でかないました。北海道の東部の中標津町の「サーモン科学館」で鮭の遡上を見たのです。今日は北海道のサーモン科学館をご紹介したいと思います。北海道の東の中標津空港から国道を真っ直ぐ東へ走って、太平洋に抜けたところに標津町という町があります。その町に流れる標津川は毎年30万匹の鮭や鱒が遡上することで有名です。その量は日本一とも言われています。標津町は鮭漁からの収入で立派な「サーモン科学館」を作り、遡上する鮭や鱒を観光客へそのまま見せる魚道を作りました。標津川から魚道を「サーモン科学館」の中へ導き、そしてその側面をガラスにした施設です。お客はその日に海から標津川へ遡上してし...「北海道の標津川の鮭の遡上」

  • 「はるか遠くへのトドワラやナラワラを辿る旅」

    仕事をしていた間は外国に憧れて、住んでいたこともありました。しかし引退してからは外国へ行かなくなりました。そして国内のいろいろな所へ行きました。その中から特に印象深かった辺境の地への旅日記をお送り致したいと思います。今日は北海道の東の端の野付湾を囲む細い半島への旅日記です。その細い半島の内側にトドマツやナラの木々が立ち枯れになっている風景があるのです。あまり観光客も行かない辺境の地です。北海道東部の川湯に連泊しながら、レンタカーを根気良く運転しての2012年9月に行きました。その川湯から50kmくらい東へ行くと、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南30kmくらいの所に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。そ...「はるか遠くへのトドワラやナラワラを辿る旅」

  • 「春の鎌倉の海と砂浜の輝き」

    最近は毎日太陽が明るく輝いています。春なのです。以前は鎌倉へもよく行きました。今日は鎌倉の海岸に出てのんびりと海を眺めて過ごしたことを思い出しました。鎌倉は家内が生まれ育った地です。砂浜は由比ヶ浜と材木座の浜が続いていて相模湾へ向かって大きく広がっています。春の鎌倉です。波が陽の光に輝いています。時折、沖の方をウインド・サーフィンを楽しむ若者がゆっくり横切って行きます。陽光が射す昼間は鎌倉の海は意外に暖かいのです。時間がゆっくり流れ、老境の静かな一日が過ごせます。その浜辺の風景を撮った写真を示します。もう一枚の写真に砂浜を眺めをお送り致します。後ろ姿は走っている家内です。昔は鎌倉から江の島までは文字通り白砂青松だけの砂浜が続いていたそうです。そんなことを思い出しながら今日も老境の一日が静かに流れて行きます...「春の鎌倉の海と砂浜の輝き」

  • 「鎌倉時代の仏教改革と鎌倉五山とは?」

    写真は鎌倉の報国寺の竹林です。飛鳥時代や奈良時代に日本に入って来た仏教は天皇や貴族のための佛教であり、「護国安泰」の目的で保護されました。従って一般民衆の救済は重要視されていません。ただ空海、すなはち弘法大師だけは天皇、貴族だけでなく民衆の救済のための行脚をしたことで有名です。しかし鎌倉時代になると仏教は武士や民衆の魂の救済を重視するようになります。教義も非常に簡単になり、例えば南無阿弥陀佛と念仏を唱えるだけで極楽に行けるという宗派も出てきたのです。この新しい仏教への変革を鎌倉時代の仏教改革と言います。このような仏教改革を受けて、鎌倉のお寺は建長寺と円覚寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。天皇や貴族の保護を受けた京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。私は...「鎌倉時代の仏教改革と鎌倉五山とは?」

  • 「鎌倉で妻が通った小学校とお寺の写真」

    鎌倉はいろいろな意味で確かに魅力ある町です。観光客が絶えません。しかし私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあ...「鎌倉で妻が通った小学校とお寺の写真」

  • 「秦の始皇帝陵と兵馬俑を見た時の驚き」

    中国に行って驚くことは古い歴史的なものが昔のままに保存されていることです。例えば古都、西安の近くには紀元前246年に作られ始めた秦の始皇帝陵と兵馬俑があります。私は1982年に西安に泊り郊外の秦の始皇帝陵と兵馬俑を訪れ非常に感動しました。特に兵馬俑坑にある武人像の表情が千差万別で活き活きとしていることに感動したのです。さっそく始皇帝陵と兵馬俑の写真を示します。写真は「秦の始皇帝陵」と「兵馬俑」を検索して出て来た数多くの写真から鮮明な写真を選びました。1番目の写真は西安から約30Kmにある秦の始皇帝陵です。陵の小山にはわけなく登れました。頂上には幾つかの石像が祀られていました。眺めが良かったです。2番目の写真は始皇帝陵から1Kmはなれた兵馬俑坑です。巨大な覆いの屋根がかけてあります。武士俑は等身大の素焼きで...「秦の始皇帝陵と兵馬俑を見た時の驚き」

  • 「淋しい独り旅」3,石垣島からゆく離島めぐり

    離れ島への憧れ、沖縄周辺に散在する離島への旅です。沖縄ぼ周辺には実に数多くの離島が散在しています。ある離島愛好家それらの沖縄の離島を訪問した旅日記の抜粋をご紹介致します。詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561をご覧下さい。=========================「石垣島からゆく離島めぐり!9島紹介&体験レポ」沖縄をとことん満喫したいなら、離島トリップが最適です。「これぞ沖縄!琉球!」という町並みや、夢のような美しさの海・緑・星空が楽しめます。石垣島離島ターミナルからは毎日何便もの離島往復船がでていて、手軽に離島めぐりが楽しめます。<目次>【1】3分でわかる離島めぐりの基本【1-1】行けるのは八重山諸島の9...「淋しい独り旅」3,石垣島からゆく離島めぐり

  • 「淋しい独り旅」2,ローテンブルグ、バンベルク、レグニッツ川への旅

    私の独り旅はアメリカ留学からはじまりました。留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学しました。ドイツの文化にも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。今日はドイツのローテンブルグ、バンベルク、レグニッツ川の風景をご紹介いたします。まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。そしてレグニッツ川もご紹介します。1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。写真の出典は、https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-…です。2番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp...「淋しい独り旅」2,ローテンブルグ、バンベルク、レグニッツ川への旅

  • 「淋しい独り旅」1,蝦夷地、松前藩への旅

    仕事を止めてから私はよく独り旅に出ました。時々は家内も一緒しましたが家内には両親の介護があたったのです。独り旅は寂しいものです。しかし訪問先の町や人々に深い思いが残るものです。印象深い旅になるのです。今日からそんな独り旅の思い出の記事をいくつか書いていきたいと思います。第一回目は蝦夷地、松前藩への旅について書きたいと思います。松前は北海道の南の端の部分です。此処だけへは和人が移住し松前藩を作っていました。残りの北海道はアイヌ民族が栄えていました。従って松前藩の和人はアイヌ人と戦いや和睦をしながら彼等と物々交換の交易をし鮭や昆布を手に入れていました。松前の和人は他民族と交流しながら生活をしていたのです。私は松前に2度行きました。そこで今日は他の藩とは違った松前の歴史をご紹介したいと思います。それは興味深い歴...「淋しい独り旅」1,蝦夷地、松前藩への旅

  • 「カトリック」と「プロテスタント」の違いの明解な説明

    「カトリック」と「プロテスタント」の違いの明解な説明を見つけましました。感動したので転写致します。上馬キリスト教会ツイッター、https://diamond.jp/articles/-/305015よりの転写です。「カトリック」と「プロテスタント」の違い「キリスト教」には、じつに多くの「教派」があります。最も多くの方が知っている教派は、何といっても「プロテスタント」と「カトリック」でしょう(もう一つ、日本ではあまり知られていませんが「正教会」という大きな教派もあります)。「教派」はこうして分かれていった始まりは、イエス様とその弟子たちがつくった「キリスト教」です。後にキリスト教はローマ帝国の国教になりましたが、このローマ帝国が東西に分裂。そのため、教会も東西に分かれることになりました。やがて東西の教会は別...「カトリック」と「プロテスタント」の違いの明解な説明

  • 「ベトナムのカトリック教会の写真」

    ベトナムのサイゴンの町の中心にある聖マリア大聖堂の写真と混雑している町の写真をお送り致します。聖マリア大聖堂はサイゴン大教会とも呼ばれています。詳しくは下記をご覧ください。https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20130624/1372063636「ベトナムのカトリック教会の写真」

  • 「今日の 復活節第5主日のミサの風景の寫眞」

    今日の復活節第5主日のミサの風景の寫眞をお送りいたします。「今日の復活節第5主日のミサの風景の寫眞」

  • 「長崎のカトリック教会の写真」

    長崎にはカトリック教会がたくさんあります。幾つかの教会の写真をお送り致します。1番目の写真は大浦天主堂です。大浦天主堂は、幕末の開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設された中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。聖堂内を飾るステンドグラスの中には、約100年前のものもあります。2番目の写真は平戸ザビエル記念聖堂です。禁教が解けて信徒が住むようになり1931年、大天使聖ミカエルに捧げた教会が建てられ、献堂40年にザビエル像を建て、「平戸ザビエル記念聖堂」とよばれるようになった。3番目の写真は出津教会堂です。1879年に潜伏キリシタンが多かった外海の出津・黒崎地区に赴任し生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を...「長崎のカトリック教会の写真」

  • 「今日の 復活節第5主日のミサの動画配信」

    今日のミサの動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/live/ji4DEtlg5nM【本日の聖書朗読箇所】第1朗読使徒たちの宣教(使徒言行録14:21b-27)第2朗読ヨハネの黙示(黙示録21:1-5a)福音朗読ヨハネによる福音(ヨハネ13:31-33a,34-35)カトリック麹町聖イグナチオ教会102-0083〒東京都千代田区麹町6-5-1電話:03-3263-4584「今日の復活節第5主日のミサの動画配信」

  • 「感動的だった旅の思い出」(4)南米、カラカスと闘牛場でのミサ」

    ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国。首都、カラカスに2週間ほど滞在した。1976年の事だった。裕福な人々は平地の街中に住み、貧しい人々は街を囲む山の斜面に手造りの家々を作り密集して住んでいる。熱帯特有の、あくまでも濃いコバルトブルーの空の下、人々は陽気で、明るく生きている。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさに、胸が痛くなる。こんな風景は南米以外には無い。ベネズエラへの人々への追憶は何故か悲しさに満ちている。ホテルの受付で、「キリスト教のミサに行きたいが何処かに教会があるか?」と聞いてみた。受付机のボーイが、「それなら裏にある闘牛場へ、朝7時に行け」と言う。翌朝、早起きをして行ってみた。荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしている。街の背後の山の貧民街から来た人々であるという。...「感動的だった旅の思い出」(4)南米、カラカスと闘牛場でのミサ」

  • 「感動的だった旅の思い出」(3)ナイアガラの滝の写真

    感動的だった旅の思い出の一つにナイアガラの滝への旅があります。若い頃にオハイオ州立大学に留学していた折りに見に行きました。オハイオから比較的に近いのです。滝の写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「感動的だった旅の思い出」(3)ナイアガラの滝の写真

  • 「感動的だった旅の思い出」(2)鹿児島の開聞岳と麓に広がる池田湖

    鹿児島の開聞岳の麓に広がる広がる池田湖の風景写真をお送りいたします。池田湖は地質学的に興味深い湖なので少し説明しておきます。1番目の写真は池田湖です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B9%96です。池田湖は周囲15kmで最大水深は233mもある湖です。九州最大のカルデラ湖です。大鰻が棲んでいることで有名です。池田湖の湖面の標高は66mで深さは233もあり最深部は海底より低く海抜-167mです。湖底には直径約800m湖底からの高さ約150mの湖底火山があることが珍しいのです。約6,400年前に現在の池田湖付近から激しい水蒸気噴火が始まり大規模な火砕流の噴出と続き、現在の池田カルデラが形成されました。池田湖にはコイ、ワカサギ...「感動的だった旅の思い出」(2)鹿児島の開聞岳と麓に広がる池田湖

  • 「感動的だった旅の思い出」(1)海に向かって並ぶ伊根の舟屋への旅

    老境に至って人生を振り返るといろいろな旅の思い出が蘇ってきます。旅は私の人生を豊かにしてくれました。そこで「感動的だった旅の思い出」という連載記事を書いてもようと思います。記事を書いているともう一度旅をしているような気分になります。書きながら昔行った所へ旅するのです。鮮烈に記憶が蘇ります。今日は1990年前後に3度訪れた伊根の舟屋をご紹介致したいと思います。「伊根の舟屋」は本当に美しい風景です。日本三景の天の橋立のすぐそばです。伊根の舟屋は京都府の日本海側の与謝郡、伊根町の海沿い立ち並ぶ家です。1階にある舟の収納場所の上の2階に人が住んでいます。これは独特な伝統的建造物です。舟屋は江戸時代中期頃から作られました。現在、240軒ほどあります。この地区は「伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統...「感動的だった旅の思い出」(1)海に向かって並ぶ伊根の舟屋への旅

  • 「今日の散歩道の風景」

    今日の散歩道の風景の写真をお送り致します。都立武蔵野公園武蔵まで行ってきました。「今日の散歩道の風景」

  • 「ポーランドの聖なる木造教会の写真」

    ポーランドには木造教会がたくさんあります。写真はセンコヴェにある1520年に創建された木造教会です。その他たくさんの木造教会は下記の紹介されています。、https://madamefigaro.jp/.../travel/231003-wooden-church.html外観の特徴は、緩やかなカーブを描くこけら葺きの大きな屋根だ。なんとも美しい!よく見ると、建物の内部の周りをぐるりと囲むように庇の下(軒下)に広い空間が設けられている。これは「土曜日(ソボタ)」と呼ばれている。その理由は、日曜日に遠方からミサへやってくる人々が土曜日の夜に泊まるスペースだったそうで、その名が付けられたという。モミの木を使い、釘を1本も使わずに建てられている。「ポーランドの聖なる木造教会の写真」

  • 「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その3

    「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」のその3としてロシアとの関係の歴史を書こうと思っていました。しかしウクライナとロシアの関係での一番重大な事件が最近あったのです。ロシア兵によるウクライナ人の婦女子に対する暴行や虐殺です。規模の広汎な暴行と虐殺です。世界が震かんした歴史上稀な残虐行為です。ウクライナとロシアの将来の関係に最悪の影響が残る歴史的な事件でした。ロシアは過去に輝かしい文化を持っていた国でした。しかし今回のことで全てが無に帰しました。プーチン大統領は自国のロシアを破滅させたのです。以下にこれに関するロイターの報道を転載致します。「ロシアの「戦争犯罪」糾弾、民間人多数殺害で和平交渉困難」https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-idJ...「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その3

  • 「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その2

    ベラルーシという新しい国が出来たのは1991年です。日本人に馴染めのない名前です。ロシアの西部地方です。この地域には白ロシアという国がありまました。しかしウクライナ地域のように独立運動は起きなかったので日本人はロシアの一地方と理解していたのです。現在でもロシアと親密です。ウクライナへ軍事侵攻したロシア軍の一部はベラルーシにある基地からウクライナへ軍事侵攻したくらいです。荒っぽく言うとベラルーシはロシアに隷属した半独立国なのです。この点はウクライナと非常に違う点です。ロシアと一体化していたので1941年からナチス・ドイツに占領されたベラルーシは壊滅的な打撃を受けたのです。これは大きな悲劇です。第2次世界大戦中、ベラルーシは人口の約25%をナチス・ドイツに殺されたのです。ベラルーシの当時の人口900万人でした...「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その2

  • 「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その1

    今回のロシアによるウクライナへの武力侵攻は何故起きたのだろうか。ロシアの暴虐な侵攻は世界に衝撃を与えています。あまりにも理不尽です。そこでこの侵攻の背景を調べて見ました。それにはウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係の歴史を調べる必要があります。今日は「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」のその1としてウクライナの歴史を書きます。まずその前にウクライナ、べラルーシ、ロシアの3国の関係を簡略に書きます。重要なことはこの3国はソ連時代に団結してソ連を支えアメリカ陣営に対抗した歴史です。しかし歴史的にはウクライナでは独立運動が続いたのです。これに対照的にべラルーシは「白ロシア」とも呼ばれロシアと友好関係が強かったのです。まぎらわしいのですが「白ロシア」と「白系ロシア人」とは違います。「白系ロシア人」...「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その1

  • 「昭和の仙台の繫華街,東一番町と大町の通りの写真」

    仙台の繫華街は東一番町と大町の通りです。私は昭和11年生まれで戦後の昭和30年前後に繫華街の繫華街,東一番町と大町の通りによく遊びに行ったものです。1番目の写真は懐かしい繫華街,東一番町と大町の通りのです交差点です。左はひらつか菓子で、右手前は森天祐堂、パンと洋菓子の信用堂などが並んでいた。2番目の写真は一番町通りと青葉通りの角です。写真の中のパンのひらつかは青葉通り(平行に見える通り)の北側と一番町通り(上下に通っている狭い方)の西側に位置しています。一番町を挟んだ向かい側には以前は森裕天堂という画材屋さんです。一番町という名称は以前藩政時代からの名称の一番丁(町ではなく)と言いました。正確には東が付いて、東一番丁、東二番丁、東三番丁、となりました。同様に北一番今もその名称は使われていると思います。ちな...「昭和の仙台の繫華街,東一番町と大町の通りの写真」

  • 「アラスカ の絶景、山と水と森が織りなす壮大なパノラマ」

    アラスカはアメリカ最大で日本の4倍の広さがあります。最大の都市アンカレジや第二の都市フェアバンクスを中心におよそ70万人の人々が暮しています。アメリカでもっとも人口密度が低い場所です。森林や氷河、フィヨルドが総面積の95%以上を占めています。アメリカ大陸を代表する“大自然の楽園”として多くの人々に愛されています。(https://ontrip.jal.co.jp/ame/17314360)「アラスカの絶景、山と水と森が織りなす壮大なパノラマ」

  • 「遥かなカムチャッカ半島の咲く花の写真」

    カムチャッカ半島は極寒の地です。標高の低い場所に、日本の高山帯の植物の花が咲いています。日本の高山植物のルーツのようです。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=441です。「遥かなカムチャッカ半島の咲く花の写真」

  • 「遥かな北のカムチャッカ半島やアリューシャン列島などの地図」

    この前の記事で日本の北に住んでいたアリュート族などをご紹介しました。その地域の地図を示します。日本の北方の千島列島、樺太、カムチャッカ半島、アリューシャン列島などの地図です。日本の北方には太古にアフリカから移住して来た原住民のアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族が住んでいました。千島と樺太には北方アイヌ民族が住んでいました。現在、カムチャッカ半島はロシアの領有地です。アラスカとアリューシャン列島はアメリカ領です。このカムチャッカ半島やアリューシャン列島そしてアラスカの地図をご紹介いたします。1番目の写真は日本の北方地域の地図です。その後、ロシア正教の宣教師が派遣されカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカにはロシア正教の教会が建てられたのです。しかし1867年にロシア皇帝はアリューシャン列島...「遥かな北のカムチャッカ半島やアリューシャン列島などの地図」

  • 「遥かなアリューシャン列島とカムチャッカの先住民の文化」

    白崎謙太郎さんが海洋冒険小説の本をごく最近、出版しました。「明治・海・2人」という本です。内容を簡単に言うと、2つの部分に分けられます。一つはアリュート族の青年のニコライがカヌーでアリューシャン列島、カムチャッカ半島、そして千島列島へと単独航海する話です。そして2つ目は横浜在住のイギリス人、スノーがスクーナー帆船で何度も千島列島へラッコ猟に行く話です。どちらも明治維新前後の話です。この本はあくまでも小説ですが、アリューシャン列島とカムチャッカ半島の史実が書いてあるのです。そこで今日はこの地域の文化をご紹介いたしたいと思います。さらにアラスカまでを何故、ロシアが領有したかを説明したいと思います。そしてアリュート族やカムチャッカ半島の先住民について簡単な説明をしたいと思います。さて初代ロシア皇帝、ピョートル1...「遥かなアリューシャン列島とカムチャッカの先住民の文化」

  • 「今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日も晴れでした。午後の散歩は都立武蔵野公園まででした。「今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「八丈島の魅力」、その3「荒れる冬の海と八丈島」

    写真を撮っている私の顔に冬の烈風が冷たい針のように刺さります。風の音がヒューッと耳もとで鳴っています。荒れ狂う恐ろしい波音が体に響きます。寒さと豪音で骨まで震えます。本人は冬の強風に荒れる海の様子を必死で写しているのです。しかし出来上った写真は沸き立つ波の迫力を描きだしていません。怖がっていないでもっと波のそばへ近寄って撮影すべきだったと反省しています。200い9年2月28日から31日にかけて船の欠航の間に八丈島で写した写真7枚をおおくり致します。(終わり)「八丈島の魅力」、その3「荒れる冬の海と八丈島」

  • 「八丈島の魅力」、その2「 團伊玖磨の『パイプのけむり』」

    私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。着いてみると八丈島は想像以上に大きな島です。島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。島の周囲は60Kmです。1番目の写真は2009年1月に撮った写真です。東の三原山の中腹から西の八丈富士を撮った写真です。レンタカーを借りて江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。そして八丈島には音楽家として昭和時代に活躍した有名な團伊玖磨(だんいくま)の別荘があるのです。八...「八丈島の魅力」、その2「團伊玖磨の『パイプのけむり』」

  • 「八丈島の魅力」、その1

    八丈島は東京都ですが太平洋のかなたの孤島です。私の憧れの地なので船に乗って訪れました。美しい別世界でした。その八丈島の魅力を連載記事でご紹介したいと思います。まずはじめは八丈島のフリージア祭りです。毎年、3月の下旬に開催されます。八丈島フリージア祭りは春を告げる季節の風物詩です。そこで八丈島のフリージア畑の風景の写真をお送り致します。1番目の写真は八丈富士の麓に広がっているフリージア畑です。2番目の写真はフリージア畑に観光客が自由に入っている様子です。3番目の写真は観光客が自由にフリージアの花を摘み取っている様子です。フリージアの花は無料です。自由に摘み取って持ち帰って良いのです。詳しくは、http://www.infiorata88.com/freesia2016/をご覧ください。この八丈島に私は200...「八丈島の魅力」、その1

  • 「ヘルシンキの美しい風景」

    1972年にストックホルム工科大学のエケトルプ教授に招待されて4ケ月滞在していた折に北欧への旅もしました。ヘルシンキ工科大学のハイキンハイモ先生を訪問しました。寂しい北国への独り旅でした。冷えた私を温かく迎えてくれたのがハイキンハイモ先生でした。先生は私を自宅での夕食にも招待してくれました。思い出すのは、その国の美しい風景です。そこでヘルシンキの美しい風景の写真をお送り致します。夏の快晴の風景です。美しい街ですね。「ヘルシンキの美しい風景」

  • 「「楽しいホテルの思い出(12)諏訪レイクサイドホテル」

    10年前までは時々、車で一泊旅行へ行きました。格調の高いクラシックホテルも安くて良い施設の旅館やホテルもいろいろ調べて行きました。選び方が良いと感動的な所に泊ることができます。以前、家内と泊った諏訪レイクサイドホテルは、2食つき一泊8000円でした。その写真を示します。このホテル部屋からの眺めが良かったのです。建物は新しくはありませんが清潔です。食事は土地の豚肉、サーモン、ワカサギ、野菜などを工夫して調理しています。その上、サービスが感動的でした。もう少し具体的に書きます。従業員の数が多くて皆が家庭的な態度で親切にしてくれます。そのサービスの態度に努力臭さが無くて、のびのびしています。あまり努力されるとこちらまでが窮屈になるのです。このホテルの従業員は皆心がなごやかです。夕食の世話をしてくれたのがウクライ...「「楽しいホテルの思い出(12)諏訪レイクサイドホテル」

  • 「楽しいホテルの思い出(11)白馬東急ホテルと遥かな八方尾根」

    白馬東急ホテルは何度も泊まったことがありました。あれは子供がまだ小さかった60年以上前のことだったでしょうか。そのホテルは信濃大町の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の八方尾根や白馬連峰の下の高原にありました。当時の古いホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。庭には芝生が広がり、その向こうは森になっています。古いヨーロッパのホテルの雰囲気でした。その森を抜けると白馬連峰が見渡せるのです。近くのゴンドラに乗ると八方池まで登れたのです。そこからは八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などがパノラマのように見えたものです。その初めての旅は私ども家族にとっては非常に印象深い旅でした。その思い出があるので、その後も数...「楽しいホテルの思い出(11)白馬東急ホテルと遥かな八方尾根」

  • 「八ヶ岳の清泉寮と若かった妻の思い出」

    八ヶ岳の麓の清春に清泉寮があります。新婚の頃若かった妻が目を輝かせて清泉寮の素晴らしさを話していました。学生時代に泊まって感動したと話していました。そのせいで私も何度も泊りに行きました。八ヶ岳の麓の清泉寮かいわいの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。1番目の写真は八ヶ岳です。2番目の写真は清里の清泉寮です。清泉寮の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを販売しています。3番目の写真は清泉寮の前に広がる牧場です。4番目の写真は八ヶ岳の麓を走るJr小海線です。「八ヶ岳の清泉寮と若かった妻の思い出」

  • 「楽しいホテルの思い出(10)日光の金谷ホテルと中禅寺湖、竜頭の滝の紅葉など」

    今日は日光の金谷ホテルをご紹介して、続いて中禅寺湖、竜頭の滝などの紅葉風景を示したいと思います。1番目の写真は日光の金谷ホテルです。このホテルは現存する最古のリゾートホテルで国の登録有形文化財です。3度ほど泊りましたがサービスの質が高いのに驚きました。箱根の宮の下の富士屋ホテルと同じ雰囲気です。階段の手すりに擬宝珠がついていたり、部屋のバスタブは猫足だったりして明治の香りが漂っています。夕食に出た鱒のムニエル等も当時の料理法かクラシックは感じでした。雅楽の「笙」の奏者であった金谷善一郎がアメリカ人のヘボンを自宅に招き入れたのがホテルの始まりでした。ヘボンは医師でありヘボン式ローマ字の考案者としても知られています。明治4年のことでした。写真の出典は、https://www.smbc-card.com/mem...「楽しいホテルの思い出(10)日光の金谷ホテルと中禅寺湖、竜頭の滝の紅葉など」

  • 「楽しいホテルの思い出(9)軽井沢の万平ホテルや三笠ホテルなど」

    明治維新で西洋の文化が日本に入って来ました。ホテルも入って来ました。それは西洋文化の発信基地でした。多くの外国人が日本に来るようになり、ホテルが必要になったのです。以前の日本には旅館や宿屋といった宿泊施設は存在しておりました。現存する世界最古の宿は西暦705年(飛鳥時代)に創業した、山梨県の慶雲館という旅館でギネスにも認定されているそうです。私は昔から西洋文化に憧れていました。ですから旅行に行くとホテルに泊ります。いろいろなホテルの思い出があります。今日は軽井沢の万平ホテルと「ゆとりろ軽井沢ホテル」と三笠ホテルをご紹介致します。何度か行った軽井沢で泊まったり訪問したホテルです。軽井沢には明治27年創業の万平ホテルがあります。そして明治39年創業の三笠ホテルも現在は廃業していますが、その建物は国の重要文化財...「楽しいホテルの思い出(9)軽井沢の万平ホテルや三笠ホテルなど」

  • 「思い出の温泉、秋保温泉、酸ケ湯、乳頭温泉、鳴子温泉、鬼首温泉、裏見ケ滝温泉、」

    今日は懐かしい温泉の写真をお送り致します。少し説明をつけます。昭和11年生まれ、24歳になるまで仙台に住んでいたました。近くには作並温泉や秋保温泉、鳴子温泉などがあります。当時は他にあまり楽しみが無いのでよく温泉へ行ったのです。そして東北地方にある数々の温泉へも行きました。東北の人はよく温泉に行きます。温泉文化の地なのです。東北地方の温泉では農閑期や冬には湯治が普通で、旅館には湯治客専門の部屋と共同炊事場があり調理器具、食器を貸してくれます。他にすることが無いので朝、昼、夜と数回、温泉につかります。これを数日繰り返すと体の疲れがすっかり取れ、爽快な健康体になるのです。温泉は万病に効くとはこのことです。東北地方では温泉はつかるものであり、体は洗わないのです。ですから洗い場が無いのです。自分が入った温泉で印象...「思い出の温泉、秋保温泉、酸ケ湯、乳頭温泉、鳴子温泉、鬼首温泉、裏見ケ滝温泉、」

  • 「楽しいホテルの思い出(8)ホテル「KKRかわゆ」に3泊し荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾へ」

    長い人生でいろいろな所へ旅をしました。印象深い旅もありました。感動的だった旅は北海道の東の端にある荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾への旅です。それは北海道の東部を巡る旅でした。川湯のホテルの「KKRかわゆ」に3泊し、トドワラ、ナラワラ、野付湾、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖などを訪れました。「KKRかわゆ」は国家公務員共済組合連合会の川湯保養で質素な宿でした。1番目の写真は3泊した「KKRかわゆ」です。トドワラや摩周湖やサーモンセンターをそれぞれ訪問しました。道東には広大な大地が広がり、牧場がえんえんと続いています。その先にトドワラ、ナラワラ、野付湾、があるのです。2012年9月17日から20日のことでした。野付半島は巨大な砂州で出来た半島です。下の写真のように野付湾を囲んでいるのです。2番目の写真は野付湾の...「楽しいホテルの思い出(8)ホテル「KKRかわゆ」に3泊し荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾へ」

  • 「楽しいホテルの思い出(7)北海道のホテル・ピアノ」

    感動したホテルをご紹介致します。大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノです。日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かホテル・ピアノに泊りました。キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を写真で示します。まず2010年の6月の新緑の頃に撮った2枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を2枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.c...「楽しいホテルの思い出(7)北海道のホテル・ピアノ」

  • 「楽しいホテルの思い出(6)上高地帝国ホテルと穂高連峰」

    よく泊った上高地帝国ホテルです。家内が撮った上高地帝国ホテルの写真と残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。上高地帝国ホテルは1933年(昭和8年)わが国初の本格的高級山岳リゾートホテルとして開業しました。スイスの山小屋をイメージした赤い三角屋根と吹き抜けのロビーの巨大な暖炉が特徴のクラシックホテルです。残雪のある穂高連峰が眼前に迫る眺望は上高地帝国ホテルの大きな魅力です。上高地は標高1500mで冬期は雪に覆われて通行ができなくなるので毎年4月下旬から11月上旬の約半年間だけ営業しています。上高地帝国ホテルと残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。帝国ホテルの写真は家内が撮りました。穂高の写真は2010年7月5日午後に大正池から河童橋へ梓川沿いに歩きながら撮りました。青空の見える日でした。「楽しいホテルの思い出(6)上高地帝国ホテルと穂高連峰」

  • 「イギリスの中世を再現したブリティッシュヒルズ」

    福島の山の中にあるブリティッシュヒルズの写真をお送り致します。建築様式からインテリアまでこだわり抜いた「本物」です。その理念の元、建築資材は全てを英国から取り寄せ建築様式からインテリアに至るまで時代考証に基づいて作りました。海抜1,000メートルの森の中にあるブリティッシュヒルズ。7万3,000坪の広大な敷地内は外界から遮断された非日常空間です。夏は涼しく、冬は白銀の世界です。朝・晩に出る霧も、英国の雰囲気を演出します。詳しくは、https://www.british-hills.co.jp/をご覧下さい。「イギリスの中世を再現したブリティッシュヒルズ」

  • 「楽しいホテルの思い出(5)北海道の定山渓のホテル」

    札幌の郊外にある定山渓(定山渓温泉)へは2004年の春の新緑の頃に家族旅行で初めて行きました。大都会の札幌から少しだけ離れた温泉地ですが、山奥の温泉地で谷地のあちこちから湯気を上げて温泉が湧き出しています。その近辺の峡谷の紅葉が綺麗だと聞いたので秋にも2度ほど行きました。温泉街から温泉が湧き出している峡谷まで遊歩道があります。ゆっくり登って行くと山々のカエデ、ヤマブドウ、ナナカマドなどが真っ赤に色ずいています。温泉が湧き出している裸の岩肌の回りを紅葉が飾っています。立ち上る湯気が紅葉を一層美しくしています。定山渓温泉は紅葉の頃が一番美しいのです。例年、10月中旬が見頃で、定山渓の紅葉ビュースポットをめぐるバスも運行されています。この温泉は東京からのお客も多いので旅館やホテルも良いです。料理も洗練されていま...「楽しいホテルの思い出(5)北海道の定山渓のホテル」

  • 「楽しいホテルの思い出(4)横浜のホテル ニューグランドと中華街」

    はじめに横濱、ホテルニューグランドの写真をお送りします。ホテルは文化です。ロマンがあります。私の若い時からの憧れでした。上高地の帝国ホテル、箱根の富士屋ホテル、日光の金谷ホテル、軽井沢の万平ホテル、河口湖の富士ビューホテル、などなどです。日本の古き良き時代の香りが漂っています。そして横浜のホテルニューグランドです。窓の外には白い大きな船が見えます。1960年代まで山中湖にニューグランドが経営する夏だけの山中湖ニューグランドがありました。家族とともに泊りました。その後、山中湖の夏のホテルは廃業してしまいました。そんな思い出もあるので、横濱のホテルニューグランドに泊ってみたり、お茶だけを飲みに寄ったりします。写真をご覧になって古き良き時代を偲んで頂ければ嬉しく思います。すべての写真は以前に私たちが撮った写真で...「楽しいホテルの思い出(4)横浜のホテルニューグランドと中華街」

  • 「小金井公園までの散歩道の風景」

    先ほど小金井公園まで散歩して来ました。その道の風景の写真をお送り致します。ここでは沿道の家々が写っていない写真だけを選びました。撮ってきた写真をお送り致します。「小金井公園までの散歩道の風景」

  • 「遥かに遠い国、ノルウェーの風景」

    もう何十年も前にトロンハイムにノルウェー工科大学を訪ねたことがあります。ノルウェーは人がいなくて寂しい国です。そんなことを思い出しながらノルウェーの風景と紅葉の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「遥かに遠い国、ノルウェーの風景」

  • 「楽しいホテルの思い出(3)北海道のトマム」

    北海道へ旅では大型リゾート・ホテルのトマムにも泊りました。その雄大な自然に囲まれた高層ホテル棟と重厚ながら洒落たショッピング・レストラン街には、正直言って非常に驚きました。巨大なトマムのホテルをご紹介いたします。トマムは札幌から東へ140Kmの所にあります。北海道勇払郡占冠村です。私どもが泊まった時はトマムは満員でした。修学旅行の学生が大勢泊まっていました。そして地元の若い人々が多数働いています。北海道を出なくても働き口がこんなにあるのです。地域経済にとっても大成功です。しかしトマムには挫折の悲劇があったのです。そして後をついだ会社の血と汗のにじむような営業努力で再生しているのです。トマムは平日でも776部屋もある高層ホテルが満員でした。北海道の大型リゾートは過疎化の激しい村がデベロッパーと組んだ第三セク...「楽しいホテルの思い出(3)北海道のトマム」

  • 「楽しいホテルの思い出(2)北海道のグランドパーク小樽」

    2014年の12月3日に小樽で泊まったホテルはグランドパーク小樽という華やかな雰囲気のホテルでした。以前はヒルトン小樽というホテルで外装、内装ともに一流のホテルでした。そのホテルの1番目の写真はHPからお借りしました。その他の3枚の写真は2014年12月3日に撮ったものです。ホテルのメイン・ダイニングの眼前に広がる華やかなヨットハーバーの風景写真と北一ガラス店の内部の美しいガラス工芸品の写真などもお送り致します。今日は北海道のグランドパーク小樽ご紹介いたしました。感動的なホテルでした。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「楽しいホテルの思い出(2)北海道のグランドパーク小樽」

  • 「楽しいホテルの思い出(1)箱根の山のホテル」

    思い出ばかり書いて恐縮です。しかし老境にいる私にとっては思い出を書くことが楽しいのです。今日も書きますが勘弁してください。自分の結婚のことです。私共は1963年に留学さきのオハイオ・コロンバスで結婚しました。1964年に帰国して新婚旅行のように箱根への旅をして「山のホテル」に泊まりました。そんな訳「山のホテル」は印象深いホテルなのです。おれから茫々60年余です。妻は随分老いましたが、相変わらず素直で優しい心です。それはさておき、今日は昔泊った箱根の「山のホテル」をご紹介いたします。「山のホテル」は芦ノ湖の岸にあり見下ろすと碧い湖が見え、目を転ずると美しいツツジの庭の向こうに雪を頂いた富士山が見えるのです。まさに絶景の場所に建っているのです。この「山のホテル」へは其の後何度も行きました。箱根に行くたびに昼食...「楽しいホテルの思い出(1)箱根の山のホテル」

  • 「北京倣膳飯荘の現在の写真」

    「北京倣膳飯荘」は北京有名な北海公園内にある伝統宮廷料理の店です。1925年、清朝の宮廷の台所「御膳房」で腕をふるっていたベテラン料理人たちが集まって店を開いたのが始まりです。当時は茶館だったが、1956年正式に改名し、「倣膳飯荘」となったそうです。「北京倣膳飯荘の現在の写真」

  • 「中國の北海公園と仿膳飯荘と北京ダックの写真」

    1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。中国人は権力者に表向きは従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。周栄章さんと2人だけで北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htmです。歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htmです。出された料理は女性...「中國の北海公園と仿膳飯荘と北京ダックの写真」

  • 「共産党独裁の中国における宗教の驚くほどの隆盛」

    神の存在や宗教を否定するのが本来の共産主義です。ところが中国共産党は宗教の自由を保障し、経済は資本主義の市場経済主義をとっています。ですから中国は共産主義を捨てているのです。共産党という名前と独裁政治だけが残りました。中国の宗教は共産党独裁に反対しないかぎり全く自由です。もっとも全ての宗教組織は当局に届けなければなりませんが、届けてない組織も多いと言われています。元来、宗教というものは政治には関心があってはいけないものなのです。カトリックのミサでの説教では政治の話題は禁物です。したがって中国の全ての宗教組織は共産党と仲良く出来るのです。例外は法輪功だけです。中国の宗教には仏教、道教、回教(イスラム教)、カトリック、プロテスタント系キリスト教、その他の原始宗教があります。中国には宗教を信じている人が数千万人...「共産党独裁の中国における宗教の驚くほどの隆盛」

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