記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
僕はといえばなんとか社会人という名の鎧を着こなせるようになって、ごくごく平凡な会社員の一員として、関東圏で暮らしている。遠木のいる場所とおなじ地球の上にいるとは到底思えない。彼方で闘う遠木のことはそっと忘れて、だれかとつきあったりしたらどうなるんだろうと思ったことは、正直、ある。瞬時にたたき出される答えは忘れられない、だった。誰といたって遠木のことを考えてしまうに違いない、比べてしまうに違いない、...
《社会人》両手いっぱいに掬ったきれいな宝石のような遠木との時間が、指の隙間から落ちきってからもう4年が経つ。遠木は4年まえ、本人のたっての希望でアフリカ某国の紛争地域に赴いた。それから、なんどか一時帰国はしたものの、僕に会いに来る時間も余裕もないようだった。けれど、戦地からときどき手紙を送ってよこす。パソコンのメールが最初は届いたけれど、最近では通信網がどうやらうまく機能していないようだ。なんども...
遠木が就きたがっている職業について調べ始めたことを本人には伝えていない。海外の、戦禍のなかで闘う医師。たくさんの理不尽と不条理を目の前にする、決して誰にでもできる仕事じゃないと思った。でも、僕はネットや本で調べていくうちに確信を深めた。遠木は、ほんとうに遠くへ、とても遠くへ行ってしまうだろう。彼が、そう願っているように。願いつづけてきたように。強く、とても強く、風は西から吹いている。「乃生くん」懐...
《大学二年生》遠木は周囲の期待と予想通りに難関医学部にすんなり合格した。僕はといえば遠木を追って上京したい一心で、あれからかなりハードに勉強を続けてなんとか関東圏のそこそこ名の通った私立大に進学が決まった。遠木はちょこちょこアドバイスをよこし「まずは質より量だよ。量をこなせばうまいやり方がわかってくるし、自分の足りないところも見えてくるから」と口癖のように説いた。アドバイスの隙間を縫うみたいに、ち...
「……やめてって、恥ずかしいから」「いまさらなにを言ってるんだか」「遠木にはわからないよ」言いながら、ふい、とまなざしを逸らした先にほんの小一時間前まで解いていた数学のプリントが見えて、ふっと奇妙な感覚にとらわれた。とても、遠くに来てしまったような。でもどこにも行けてはいないような。さみしさにとても近い感傷は、名を持たないままでふっと消えてしまった。きょうのことを決して忘れないだろうと思う。愛したこ...
「遠木」「……なに?」「ありがとう」返事をするようにちいさく笑った遠木は、しばらくして動くよ、と言ってゆっくり腰を引いた。そのままゆるやかな抽挿がはじまって、快感になすすべもなく翻弄される。なかの苦しさもすっかり失せている。ただ、ひどく気持ちよかった。声を抑えきれずに奔放に喘ぐ。「あっ、あぁん……っ、遠木、いい、……あぁ」俺も、と遠木がかすれた声で言う。ずっとこうしたかった。でも、極もしたいかどうかがわ...
「遠木、や、いや……そこ、どうして」「気持ちいいか?極、いいところ、ここか?」男でも後ろで感じるらしいというのは知識としてはあったけれど、実際自分の身に起きてしまうとおそろしい間違いのようだった。間違いは怖い。なのに、遠木はその間違いの地点をさいなむように弄ってくる。間違いは怖い、けれど遠木の施すことならば。たとえ引き返せない間違いでも。気持ちいい?と訊かれ、ちいさくうなずいた。「あっ、ああ……!やぁ...
「俺のやりたいようにしていい?大丈夫、大丈夫だから」緊張した声に至近距離でささやかれ、あまりの幸福にめまいがしそうだった。いいよ、とうなずくと首筋や耳朶にそっと舌が這う。滑らせるように僕の肌をさぐっていた遠木の両手がささやかな乳首に触れる。指先でそっと先端に触れられると快感が走り、声が漏れた。慌てて遠木を止める。「遠木、どれかひとつにして。変な声、出るから」「ばかだなぁ。これからもっと、変な声が出...
「極?」けれど遠木は僕の思いを知ってか知らずかペンを持つ手を止めて、じっと僕を見た。「どうした?解けないところでもあるか?」ううん、と力なく首を振る。でも、なんと続けていいかわからない。遠木に、自分の望むことを伝えるすべがわからない。ただ、触れてほしい、抱いてほしい、それだけなのに。だから、なんでもないよと告げるつもりであげた顔の頬に涙が伝ったとき、遠木より驚いた。どうして、泣いてしまう。どうして...
《高校一年生》遠木は中学三年のとき、進路のことで担任教師や両親とかなり揉めたらしい。遠木の成績だったらもっとレベルの高い私立の進学校に行くのは容易だったのに、本人は進路希望で地元の公立高校を受けると頑として譲らなかったから。もちろん、遠木からそうと聞いたわけじゃないけれど。ともあれ、遠木が担任と両親を説得して、僕は僕でまたもやかなりがんばって、そろってそれなりの偏差値の公立高校への切符を手に入れた...
「ごめんな、俺のわがままな夢のせいでこれから極は苦しむかもしれない」遠木が言う。そう口にする遠木自身がとても苦しそうだった。うつくしい声がゆがんで、かすかにふるえる。春の光にあわあわと揺れるやわらかい輪郭の頬、軽くかしげられた首、僕の手をつかんでいる細い指先。どこをとっても大好きな遠木で、遠く離れるなんて考えたくない。考えたくないけれど。「いいんだ、遠木のそういうところを僕は好きになったから。しゃ...
特別、とおうむ返しにつぶやくと、「そうだよ」と遠木が言う。「極にとっての俺も、そうであれたらとてもうれしい」「特別だよ、遠木は僕の特別だよ。すこしもぶれないし、ずれてない。僕にとっての遠木は遠木にとっての僕だから」三歳のあの春の日。あのとき出会った瞬間、僕たちはお互いの魂をすこしずつ交換したのかもしれない、と思った。遠木は心底うれしそうに笑った。春先のあわあわとした光のなかの、その笑顔に触れたいと...
遠木の部屋は入って右側が壁一面、作り付けの本棚になっていた。海外の、戦争や紛争地帯に関する本が多いように見える。僕の視線に気がついた遠木が「ああ」と短く言った。すこし笑ったあとに、きっぱりとした声がつづく。「あれが、俺の将来の夢」「……戦争をするの?」「ちがう、戦場や紛争地帯の病院で働く医者になりたい」突然の大きな別離の予感に、口のなかがからからに干上がっていく。どうしてそんなところに行ってしまうの...
さすがに気がつかざるを得ない。僕は遠木のことが好きだ。恋をしている。それも、かなり昔から、特別な淡い熱を出しているように。遠木だけが僕の世界で色鮮やかだ。隣でうつくしい声を聞くだけで、胸の内が静謐な水で満たされていくのと同時に「もっと」と声がする。もっと誰にも見せない顔を見せて。もっと誰にも聞かせない声を聞かせて。厳重に蓋をしておかなければならない気持ちだということも知っていた。気配も香りも漏れな...
《中学一年生》遠木とは中学入学とともにまたおなじクラスになった。僕はかなりがんばって、遠木は両手を下げてスキップするように、このあたりではレベルの高い私立中の特進クラスに進んだから。受験勉強はかなり過酷でしんどかったけれど、遠木のそばにいるためなら苦を苦とも思えなかった。その僕たちの通う中学校の校舎は異様に古い。トイレなんかには裸電球がぶら下がっている。「耐震強度、大丈夫なのかな」化学室への教室移...
「極、ちょっときて」乃生くんに腕をとられるようにして、近くの児童公園に連れていかれる。強引で有無を言わせない感じが普段の乃生くんらしくない。でも、もう『らしくない』といえるほどに僕は乃生くんに近くないのかもしれない。だって、『俺』と自分を指すようになったのも知らなかったのに。ふたりで、日の落ちかけた公園でブランコに座った。燃え立つような夕日の最後の光が公園中を照らしている。ぎい、ぎい、と鎖をきしま...
「そうじゃ、なかったんだね」ぽとりと落ちたひとりごとをちゃんと乃生くんが掬ってくれる。胸が痛くなった。「なにが?」「遠木くん、僕をはじめての友達だって言ったの、もう憶えてないよね」廊下で立ち止まった乃生くんは驚いたようにきれいな目を見開いた。僕もあわせて立ち止まる。乃生くんのうつくしい声が困ったようにぶれる。「憶えてる、ちゃんと憶えてるよ。いきなりどうしたんだよ、極。なにか変だよ」「でも、遠木くん...
乃生くんのことを考えてぼうっとしたままで授業が終わり、チャイムが鳴る。多目的室を出て、ぼんやりと廊下を歩いていると乃生くんのたがえようもない声が背中をたたいた。「極!」「……遠木くん」乃生くんは一瞬、魚の小骨が喉につっかえた、みたいな顔をした。どうしよう。でもどうしようもない。僕の喉からは、心のなかでは呼べる『乃生くん』という呼びかけがどうしても出てこない。どうして。一瞬戸惑った乃生くんは、それでも...
《小学校五年生》ふたクラス合同授業がありますと聞いていたから、乃生くんと久しぶりにおなじ教室で授業を受けることになるぞ、とわくわくしつつ五時間目を迎えた。乃生くんとは三年生でクラスがちがってから、廊下ですれ違うときに手を振りあうくらいの接触しかしていない。乃生くんの茄子色の髪を後ろの席からそっと見やりながら授業の開始を多目的室で待つ。すこし髪が伸びて、襟足のところでさらさら揺れている。隣の同級生と...
乃生くんが不意におどろいた声をあげた。「わっ、わっ、なんで!?なんで極が泣くの?」どうやら僕はぽろぽろ泣いていたらしい。乃生くんのしっとりした温かい手のひらが伸びてきて僕の頬をごしごしぬぐった。ごめん、怖い話をして。そういうこともあるんだな、くらいに聞いてくれればいいのに。いつもの乃生くんの大人びた物言いに戻って、慌てたように僕の顔を手で拭う。乃生くんの手のひらが心地よくて優しくて、傷つけた大人を...
広いリビングでテレビをつけた乃生くんが、丁寧にはさみでポテトチップスの封を切ってお皿の上にざらざら開けた。チーズ味のポテトチップスを食べながら(ハナが虎視眈々と狙っているのを乃生くんが止めているのがおかしかった)膝に顎を乗せて、テレビの昼下がりのワイドショーを見るともなしに流す。「九九、覚えられる気がしないよ、ほんとに」僕が嘆くと、乃生くんが笑った。「手拍子に合わせて覚えると、覚えやすいかもしれな...
小走りで待ち合わせ場所に辿りつく。燦々と春の午後の日差しが降り注ぐコンビニの駐車場で、乃生くんは目を閉じて空を仰いで、じっと顔に光を受けていた。とても美しかった。穢してはいけないものを見た気がした。乃生くんの茄子色の髪が光にたなびき、白い頬が風に淡くにじんでいた。はっと息をのんだまま吐き出すすべを忘れた僕は、声をかけられずにその光景にじっと見入っていた。こちらの視線に気がついたのか、乃生くんがぱっ...
「極、このあとどうする?」帰りの通学路を並んで歩きながら、乃生くんが僕の顔を覗き込んで尋ねた。珍しく、すこしだけはしゃいだような口調だった。「どうするって?」「なにして遊ぶ?」すこし考えてハナに会いたい、と答えた。ハナは乃生くんのところの灰色の猫で、短い耳が折れ曲がったまん丸い顔とふさふさのしっぽがとてもかわいい。「いいよ、でも、お母さんいないからお菓子がないなあ」と乃生くんが困ったように言う。「...
始業式が終わり、あらためての自己紹介を含んでホームルームが終わり、ランドセルにめいめい新しい教科書を詰めて帰宅する。自己紹介で乃生くんは「遠木乃生です。最近では本を読むのが好きです」と真夜中に降る蒼い雪のような声で言った。だれも気がついていないことがふしぎだ。乃生くんの声がうつくしいこと、茄子色の髪や、声とおなじようにきれいな瞳のこと。どうしてだれも気がつかないんだろう、は、僕だけの秘密にしてしま...
僕が、乃生くんのはじめての友達。「……ありがとう」友達という言葉に恥ずかしくなってしまい、うつむいてそう返すことしかできなかった。乃生くんはうかがうようにしばらくこちらを見つめて、はじけるように笑った。乃生くんのはつらつとしていながらも静かな海を湛えたような瞳にじっと見つめられると、心の一番深い、他人には見せてはいけない奥のところでなにかがうごめき、ざわめくのを感じた。不穏な感じはしたけれど、いやで...
《小学校二年生》乃生くんとは幼稚園からおなじ小学校にあがった。一年生のクラスが一緒だったのでそのまま持ち上がりで二年生でもおなじクラスだ。乃生くんと4年間一緒にいて、そのぴんと背筋の伸びた感じ、はきはきした物言いがとても好ましいと感じていた。もちろん、青めいた色ガラスを光に透かすような、あの美しい声も。時計の読み方や、足し算の繰り上がりなどを先生よりもわかりやすく教えてくれたのは乃生くんだった。「...
《三歳》幼馴染みは、とてもうつくしい声で話す少年だった。ほんの、まだほんの小さなころから。幼稚園の、入園式のあとだったと記憶している。乃生(のう)くんはなにをして遊んでいるのかな?と彼に尋ねた保育士に、疑問符が投げかけられた幼い少年は大人びた口調でこう答えた。「ぼく、石をあつめています」僕の目線はすい、と糸で引かれたようにそちらに引き寄せられた。手元の木製のおもちゃも、一緒に遊んでいた子どもも、す...
《そして、ふたたびの春》実秋先輩と離れてみて気がついたことはいくつもある。意外なことに僕は遠距離恋愛むきの性格だということ。逆に実秋先輩が寂しがりだということ。思い出のなかの自分がいつもひとりじゃないこと。離れれば強固になる糸もあるということ。そして。ひとりきりで乗る電車はこんなにも眠気を誘うものだということ。キシャツーと呼ぶのにはあまりにむなしい。帰り道、頭をかくこく揺らしながら、英単語帳の上を...
それでも卒業式の立て看板を校門に見た日には、それなりに気が沈んだ。ほんとうに、しばしの別れなんだ。実秋先輩の晴れ舞台なのだから、消えないように、褪せないように、しっかり目に焼きつけておこうと思いなおし、教室まで階段をのぼる。椅子はすっかりきのうのうちに体育館に運び出され、がらんとした教室でみんなが思い思いにしゃべっている。天井に反響するしゃべり声を海に、水底に沈むように思いにふけっていると「仲埜く...
「置いていくみたいになって、ごめんな、彩里」「それは、いいんだ。もともと、わかっていたことだから。けど、いまだに聞き分けのない子どもみたいにさみしいって思う自分がふがいない……」「俺も、さみしいよ」先輩の静かな声が僕のさみしさと同じ量のさみしさを含んでいていとおしくて切なくなった。先輩もさみしさを代償に、いままでのしあわせを過ごしていたんだと思えたから。高校生活いちばん最初のしあわせをくれた先輩に、...
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記憶のなかから立ちのぼってきた、なつかしい声を聞く。自分の、保育園に通っていたころの声だろうか。あどけなくてふわふわとした、高い声。「あいりせんせい、けっこんしたの?」「そうだよー、ひろくん」「ええとねえ、ええっと……でめとー?おでめとー?」「わあ、ありがとう」 応じる保育士の声がふっといたずらっぽく揺れた。「ひろくんはだれとけっこんしたいかなぁ?」「だれと?」「けっこんは、すきなひととずうっとい...
煙草の煙が漂ってくると、パブロフの犬もあきれ返る勢いの反射で彼のことを思い出す。僕を抱いた後は煙草が吸いたくなるといった彼。ゆうらりとくゆる一本きりの煙の時間をひっそりとベッドのなかから見守っていた。眼鏡をかけるほどではない軽い近視だった目が、遠くを見るように眇められる、それが色っぽくて好きだった。あの視線が、なにを映していたのかを僕が知るすべはもう、どこにもない。 よく晴れた冬の日曜日の昼下が...
「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「菅原、こら、じっとしてて」「ごめん、想像以上に恥ずかしい、これ」「……こら、もう、強硬手段に出るよ」 そう言って、彩葉のパジャマのボタンをベッドの上でひとつずつ外しながら、真上から彩葉を押さえ込んでいる清音が器用に脚で彩葉の動きを封じた。直接、肌に触れる清音の指がくすぐったくて身をよじりたいのに思うように動けない。こんなときなのに笑いだしそうになる。 されるがままにパジャマをはだけられ、素肌に手の...
音と振動に一瞬、地震かとも思ったけれど、昼間の花火の話を思い出す。ふたりの泊まる部屋は海べりからは離れた高台にあるのに、意外なほどふかく響く音に思わず優羽は首をひねって窓の外を見た。「花火、見えてる」 優羽の声に反応して智伸も外を見る。「ここからだとちいさいけど、あれだよな」 智伸は浴衣をひっかけただけの姿で窓辺まで歩いていって椅子に身を沈めた。先ほどまでの余韻でまだだるい優羽は寝ころんだまま窓...
優羽の三度目の射精と、智伸が優羽のなかに飛沫を散らすのが同時だった。 どろりと内腑に智伸の吐きだしたものを感じたとたんに、優羽はまたひどく興奮した。性器をなかから引き抜こうとする智伸に荒い息のすきまから思わず口走る。自分でもびっくりするくらい鼻にかかった甘ったるい声だった。「やぁ、……や、まだ、抜かないで」 なかばで止まった智伸のものがみるみる硬度を増していくので、とっさに口走ったこととはいえ、さ...
「ごめんな、お前、いったばっかりでちょっとしんどいかもしれないけど」 しばらく堪えていた智伸のものが一気に奥まで届いたとき、優羽はすがっていた背中にぎゅっと力を込めた。すこし乱暴なほどの快感が走る。荒い呼吸をそのままに優羽にキスをして、深い場所でつながったまま、智伸がもどかしげに言う。「俺とこうしたこと、ずっと覚えていて……気持ちよかったなって、ときどき思い出して」 優羽の目じりからぽろぽろと涙がこ...
目を閉じる。智伸の荒い息遣いが聞こえるのに、ひどく興奮した。耳からの刺激にあっという間に絶頂が近くなる。「あ、……っ、あっ、や、だめ、出る……いく、から」「俺も、いきそ……っ、ん」 二人分の白濁を手のひらに受けて、あわただしく智伸が優羽の腰の下に浴衣をあてがった。そのせわしなさにすこし笑いそうになる。 忘れない。忘れることなんてできない。夕方の光が仄明るいなかで、カーテンも閉めずにこんなふうに智伸と肌...
ぎゅっと一瞬だけ強く握った手をすぐに離して、智伸が横顔で淡く笑った。はっと胸を衝かれるような、寂しげでうつろな笑顔だった。こんなにがらんどうな笑顔を、ひとはできるものなのか。「お前が好きだよ、優羽。俺がお前を好きだったこと、思い出してくれたらやっぱりうれしい」 風に紛れて聞こえないような声で智伸が言う。馬鹿、と声には出さずに思う。 ぜんぶ覚えておくと言っただろう。つらくないわけじゃない、悲しくな...
ふたりが食べ終わっても店の外には順番待ちの人たちがひしめくように立っていたため、ふたりは早々に店をあとにした。海までの坂道をゆっくりと下っていく。 目のまえを行く男女が仲睦まじげに手をつないで、顔を寄せあってなにごとかささやきあっている姿を、優羽は幾重にも胸がよじれるような思いで見つめた。 こうして智伸と自分が歩いていても、だれもふたりが恋人どうしだとは思わないだろう。 智伸がいなくなったあとに...
花火?と首をかしげた智伸はスマートフォンで何やら検索をはじめる。ややあって、「あぁ、これか。海上花火大会」とつぶやいて画面を優羽のほうに差し出した。 智伸のスマホを受け取って目を走らせる。どうやらこの土地では季節にかかわりなく頻繁に花火が上がっているらしい。「どうする?見に行くか?」 智伸に選択権とともにスマホを手渡す。携帯の画面を眺めながらすこし考えた智伸が「きれいだけど、行かなくていいかな」...
「強くならなきゃ」とちいさくもう一度声にすると、ゆるゆると智伸が首を横に振る。「そのままでいいよ、強くなくていいよ、優羽。俺が好きになったのは、いまの優羽だから。好きなんだよ。弱いとことか、いっぱいいっぱいまで溜め込んで、爆発しちゃうとことか」 自分はどうしたらいいのだろう、と考える。こんなふうに存在を肯定されて、変わらなくていいと言われて。智伸がしずかに目を閉じた。「ずっと、優羽のそばにいたか...
「なぁ」 智伸に呼びかけた。ゆっくりと相手がこちらを見る気配がする。「お前、怖くないの。その……病気のこと、死んじゃうとか、だんだん身体が動かなくなるとか。俺だったらもっと取り乱して、泣き喚いていると思う。平静じゃいられない」 優羽の言葉に智伸はすこし考えこむそぶりを見せた。しばらく黙ったあと、すこしずつ紡ぐように言葉を口にする。「『怖い』の第一波は乗り越えたのかもしれない。また怖くなったり、夜眠れ...
「ほんとだから、怖かった。こんなにしあわせなことがあるはずがないって思った。優羽もなにか言うわけじゃないから、確かめたら終わりみたいな気がして、なんにも言えないまま卒業して。大学入ってから後悔したよ、伝えておけばよかったなって。だから社会人になってまた距離が縮んだときは、今度こそうまくやろうって思って、」 智伸の声が途切れる。その矢先に病気のことが発覚したのだろう。つくづくタイミングを逃してばかり...
来てみたのはいいものの、さほど智伸にとって興味を惹かれる展示がなかったようで、早々に美術館をあとにした。 来たときと反対車線のバスに乗って急坂を駅前まで下りていく。ビー玉を落としたら延々と海まで転がっていきそうな街だな、と優羽は妙な感慨を覚えた。そのすこしばかげた物思いを智伸に伝えようとしたけれど、窓の外を見ている横顔のしずけさに口をつぐんだ。 駅前まで戻って、路線バスを乗り換えて温泉宿へ帰る。...
優羽は智伸の頬に手を伸ばした。その手をそっとつかんで、智伸が指先で手のひらの輪郭をなぞる。覚えておけたらなぁ、とちいさな声で言う。「なにを?」「なにもかも。優羽のことはもちろん、大事なことをなにもかも」 ごめんな、という声とともに手が自由になる。智伸の指先の感覚が残る手をぎゅっと握りしめた。ちいさく息を吸い、みじかく言った。「忘れていいよ。だいじょうぶだから」「えっ?」 虚を突かれたような顔にふ...
その晩はひたすら互いを貪った。脚を肩に抱えあげられて、智伸の身体のうえに乗り上げて、さまざまに体位を変えながら。 何回いかされたか優羽は覚えていない。なんど出されたかも。ただ、身体の満足だけを追っているあいだは智伸のこれからを考えずにすんだ。それだけがわかっていた。 明け方、みじかい眠りにつくまえに、智伸がやさしく優羽の肩を撫ぜながら「あしたがいい日でありますように」とつぶやくのが聞こえた。もう...
智伸の指の抜き差しがはっきりと暴く動きに変わった。ひっきりなしの快感に翻弄されて、優羽の心身から羞恥や遠慮が消しゴムをかけるように薄れていく。いきそう、と訴える。「や……あっ、……あぁん、あぁっ、……いく、おれ、いっちゃ……っ!」 はしたなく喘ぎながら優羽がのけぞった身をふるわせて射精すると、智伸は片手で白濁を受けた。「ごめんな、これ、使わせて」 智伸は自分の性器に優羽が放ったものをまぶすと、優羽のなか...
もう恥ずかしがっていてもしかたないので、関節の許す限りいっぱいに大きく両脚をひらいた。さらされる感覚に、ぞくぞくした。 智伸の指が後孔をうかがう。ふちをなぞるように円を描いて、ときどき入口にぴったり指を押し当ててくる。はしたなくこぼしているもののせいで、そのまわりが潤っているのがわかった。 内腑にごく浅く侵入してきた指を、優羽の身体は拒まなかった。むしろ、その呑むような動きに智伸が驚いたように尋...
その問いかけに、気持ちを確かめる疑問符に、智伸の喉がかすかに鳴った。それが答えだという気がしたから、優羽のほうから唇をあわせた。 ついばむような口づけが、ほどくのも難しいような深いものにかわるのにさして時間はかからなかった。智伸は優羽の座る椅子に半分乗り上げるようにして、優羽の唇を、舌を貪った。優羽は智伸の背に両腕をまわして、与えられるがままにキスを受けた。「優羽、抱いてもいいか?俺、いなくなっ...
窓際にしつらえられた椅子に腰かけていた優羽は、軽やかな音とともに洗面台で歯を磨いている智伸を見遣った。「なぁ、智伸」 口をすすいでいる智伸が軽く振り返りちょっと待って、というジェスチャーを返してくる。コップに歯ブラシを立てて、「なに?」とやわらかに問うてくる。「あしたがいい日でありますように」「……え?」「このまえから俺にそう言ってくれるだろ。優しく光っているみたいな祈りの言葉。これってなんなの?...
智伸が居心地悪そうに身じろぎした。湯がゆれる音が立つ。「なんだよ、人の顔見てにやにやして」「いや、智伸のこと無理やり連れだした気がしてたけど、やっぱり来てよかったなって」「……いやだったら来ないよ」 ぽつんと落ちた言葉が浴場に響いた気がした。 ふたりでのぼせる直前まで湯につかって、のんびりと浴衣に着替えて部屋に戻る。智伸がしごくゆったりと言う。「気持ちよかったー……。ふやけるかと思った」 白湯を飲み...
目的地には快適に到着した。スマートフォンを改札にかざして駅前のロータリーに出る。かなりの人出ですくなからず驚いた。温泉宿へのバスに乗り込む。いきなりのジェットコースターみたいな急坂にやや気圧されつつも、隣に座った智伸に話しかける。「きょうは冷え込んでいるから、温泉が楽しみだな。想像するだけでぽかぽかになりそう」 智伸はバスのフロントガラス越しに坂を眺めていたけれど、優羽のほうを向いて楽しそうに笑...
気持ちを切り替えるためだけに、話題を振った。この先のこと、みじかい未来の話を。「智伸、お前、着いたらどうする?とりあえず、宿に行くか?」「そうだなぁ、時間はいっぱいあるから、まずは温泉でゆるっとしたいな」「わかった」 話しているあいだにも、新幹線がやってきてふたりして乗り込む。なんとなく窓際の席に智伸を座らせると、かすかに笑った。「なんだよー」と言うと「なんでもない」と笑ったままの答えが返ってく...