「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
BL小説『いつか君に咲く色へ』連載中です。人の感情を色で把握できるDKとその色をもたない同級生のおはなし。ゆっくり恋になっていきます。
『ありえない設定』⇒『影遺失者』と『保護監視官』、『廃園設計士』や『対町対話士』(coming soon!)など。…ですが、現在は日常ものを書いております。ご足労いただけるとうれしいです。
在宅で日英翻訳の仕事をしている伊理と違って、僕は月金で会社員の鎧をまとう。いつもの朝6時45分になってもまだ起きてこない伊理はゆうべ詰めの仕事があったのかもしれない。朝食の準備を整えたテーブルに「忙しくても塩パンはちゃんと食べてな」と付箋を貼って外に出た。よく晴れていて、夏の日差しが容赦なくアスファルトに照り付けている。朝は目覚めたばかりだというのにもうセミが鳴いている。最寄りの駅で電車に乗り込む...
もくもくとさびしいたべものを口にしていた伊理が不意に「こわいね」と言った。おびえた小さな生きものみたいな目をして、じっと塩パンに目を落としている。「おいしいって、こわい。あしたもこの塩パンがあると思ったら、きっとあしたも生きてしまうから。まだこんなに悲しいのに、おいしいと思ってしまう」絶望に、手を触れてしまった気がした。伊理、と名を呼ぶことしかできない。けれど、期せずして触れてしまった伊理の悲しみ...
テーブルに山と積まれた塩パンを見て、伊理はかすかに笑った。晴天に開け放たれた窓のように屈託なく笑っていた三年前までがうそのような、寂しそうな笑いかた。「たくさん焼いたんだね、知水」「きょう、遊園地に行っただろ。そのときに焼こうかなって思いついたんだ」細い指が塩パンをひとつつまんで口に運ぶ。おいしい、とまた寂しげに笑う。このパンを食べながら、伊理は多嘉との日々を思い出しているのだろう。自分と多嘉をつ...
伊理の寝室のアイボリーホワイトをしたドアをそっとノックする。伊理、塩パン作ったんだけど。ちいさく告げると、ドアのむこうから聞こえていたせわしなくキーボードをたたく音がやんで、控えめに扉が開いた。伊理が顔をのぞかせる。「僕に?ありがとう」色素の薄い眼ではにかんだように伊理に言われると、それ以上の言葉か出ない。愛している男と一つ屋根の下に暮らして三年が経つのに、僕にはいまだに好きだも愛しているも言えな...
パン生地をこねている時間が一番好きだ。なにも考えずにいられるから。ばらばらだった小麦粉がひとつの滑らかなかたまりになるまでひたすら力を込める。低めの温度設定の室内でも夏場、パンを焼くときにはうっすら汗ばむ。オーブンに均等な大きさに切った生地を入れるとひと息つく。インスタントのコーヒーを飲みながらなんとなくオーブンを眺める。伊理は喜ぶだろうか。すっかり食が細くなってしまった伊理が唯一好んで食べるのが...
夏の雨の降る日曜日だった。遊園地内のカフェテリアの窓際の席からは遠くにメリーゴーラウンドがかすんで見えた。かすかにひび割れた音楽が聞こえる。けぶる電飾の色彩に目を細めながら伊理(いり)がぽつんと言葉をこぼした。「ああいう乗り物って、このくらいの距離で見るのが一番いいよね」「そうかな」頬杖をついた伊理はかすかに笑って、視線をめぐらせて僕を見た。「知水(ともみ)は柵にしがみついているタイプかもしれない...
ひとりきりに慣れきっていた僕は、きっともう、二度と戻らない。凜さんの手さえ、かつてそうしたように振りほどいたりしなければ。失いたくないと願うことは、まだ、とても怖いけれど。そうして、きっと。あの涙の発作はもう僕を襲わない。そんな予感があった。僕は、これまでずっと食べてきた凜さんの作る『なみだごはん』をようやく食べおえた。凜さんが、僕を蘇生させてくれた。そう思いながら、凜さんを抱きしめ返した。季節は...
凜さんに思うさま突き上げられる。しだいに二度目の射精感が募って、頭を振って訴えた。「だめ、ああっ、もう、僕、あ、……また、いく……!」凜さんの熱を感じながら、高みに昇りつめて快楽を吐き出す。僕がいったあとも、まだなお昂ったままの凜さんにうれしくなった。これで終わりじゃない。この夜にはまだ、ピリオドは打たれない。もしかしたら凜さんは、夜が明けたら夢から醒めてしまうかもしれない。だから、凜さんの背中に手を...
「友哉、俺にやらせて」凜さんがかすれた声で言った。熱に浮かされたようなしぐさで、そのまま後孔に入った僕の指をたどるように自分の指を差し入れてくる。ここ?気持ちいいのか?と訊かれてうなずく。僕は指を引っ込め、凜さんの指だけがなかを探る。腰を上げて揺らし、凜さんの与える快楽がもっと芽吹くようにする。「凜さん、あっ、あ……もっと、指、挿れて」指を増やされ、もう大丈夫だろうという頃合いで、凜さんの性器をねだ...
ズボンと下着を脱がされて、一瞬、寒さが襲った。けれど、両脚のあいだでとっくに期待していた性器に触れられればいちどに全身に火がついたような錯覚を覚えた。「友哉、触るよ」僕に覆いかぶさる姿勢でそっとなぞり上げるように手を動かす凜さんの目に、たしかな欲情の色を見出して、それにすら感じてあられもなく声をあげる。次第に強くこすられ、ささやかな放出の口を弄られる。凜さんの手の感覚を覚えていたいと思うのに、記憶...
「凜さん」僕はそっと凜さんに身を寄せる。顔を覗き込む。凜さんの顔は薄暗がりの中で少し赤くなっているようだった。手を伸ばし、頬に触れる。温かさが、この人のぬくもりがたまらなく愛おしかった。そっと口づけた。唇が離れると凜さんが困ったような声で、僕の名を呼んだ。それが呼び水になったように、凜さんと僕はついばむようなキスを繰り返した。スツールから凜さんが立ちあがり、僕を抱きしめる。僕が凜さんの唇を舌先でな...
凜さんと僕はそれから近づきすぎるでもなく離れるでもなく、なんとなく『なみだごはん』で時間を共にした。なにげない時間が、いとおしかった。凜さんが笑ってくれた、下拵えの手際を褒めてくれた。そんな些細なことが宝物になっていく。好きな人に拒まれもしないかわりに触れることができない痛みはひさしぶりで、懐かしささえ覚えた。振り向いてほしい、こっちを向いてほしい。願っているのに声にならない。もう、凜さんは十分す...
悲しい日はあります。悔しい日もあります。でも、お母さんの作る『なみだごはん』はわたしをしあわせにしてくれます。そういう、小学生の頃のたわいもない作文さ、凜さんは言うと軽く目を伏せた。その直後、母ちゃんは死んじまってな、不慮の事故だった。「えっ」「妹が泣いてるのをなんとか慰めようと、食事を作ったけど俺じゃだめだった」「そう、なんですか」脳裏に置いてみる。泣きじゃくる幼い子ども、慰めようとご飯を作るす...
目覚めると、いい匂いがしていた。いや、いい匂いにつられて起きたのか。ごはんの炊ける匂いだ。結局きのうは夕飯を食べそびれたからひどく空腹だった。「おっ、友哉。起きたか」キッチンを覗くと凜さんが朝ごはんを作ってくれている。魚の焼ける香ばしい匂い、みそ汁のふくふくと立つ湯気。振り返って笑う凜さんは、嬉しそうに「タオル、あたらしいの洗面所にあるから、顔を洗ってめしにしようぜ」という。真新しいタオルで顔を拭...
清潔な香りを嗅ぎながら、凜さんの胸にぎゅっと顔をうずめる。自分の鼓動だけが速いのが、ほんのすこしだけ悲しかった。鼓動の速さが伝わってほしい気持ちと隠しておきたい気持ちのあいだで、揺れる。そっと、差し出すように尋ねる。「もし、もしも、僕が凜さんのことが好きだったら、凜さんに好きだって言ったら、どうしますか?」疑問はもう告白で、凜さんの戸惑いが衣擦れでわかった。友哉、と困ったように名前を呼ばれて、やっ...
凜さんのアパートは『なみだごはん』から歩いて30分くらいのところにあった。三階建てのアパートの二階の角部屋。中に通される。客用のスリッパがなくてごめんな、という凜さんの声に首を振る。整然とした室内に足を踏み入れ、言いようもなく寂しくなった。この部屋には、凜さん以外の人の影がいっさいない。人を遠ざけながら生きてきて、そういう気配にはずいぶん敏感になった僕にも感じ取れないほど。凜さんは、僕とは対極の人...
はっと目覚める。ぼんやりした頭で、自分の置かれた状況をゆっくり把握していく。凜さんの店に来て、涙の発作が起きて、そして僕は。がばっと身を起こした。肩からブランケットが滑り落ちた。凜さんがかけてくれたらしい。かばんから携帯を取り出し時間を確認する。終電にはとっくに間にあわない時間だった。凜さんの姿を厨房に見つけた。「凜さん!すみません、僕……」「ああ、友哉、起きたか。気分はどうだ?」「大丈夫、です」じ...
凜さんに出会って以来はじめての涙の発作が起きたのは、秋も終わりかけの夕方だった。寒くなるね、いやですねと言いながら『なみだごはん』で凜さんとその日来た女性客と笑いあっていた。泣いていたその人が、凜さんのスープカレーを食べ終わるころには頬に血の気が戻っているのを見て、魔法みたいだなあといつものように思っていた。女性が帰り、凜さんと店内にふたりきりになったとき、ふいに涙が頬を伝った。心のなかの空洞に、...
凜さんのどこか歌うような言葉を聞きながら、僕はといえば、最後の恋人のことを思い出していた。柔和な笑顔と控えめな物言いをする、穏やかに凪いだ心の持ち主だった。大好きだった。心から言える。だけど、だから、いつもどこかで怖かった。約束も未来も取り結べないことが。失ってしまうかもしれないことが。いつか失うのならいっそ今、と思って断ち切ってしまった。おびえることに疲れ果てていた。「別れたい」と言った僕に、わ...
目のまえの人は首をかしげるしぐさで先を促す。「僕がひとりがいいと思っているのは、他者が煩わしいのは、大部分、僕がゲイだからです。凜さんに嫌悪されても罵倒されてもいいです。でも、黙っているのはずるいと思うので話しました」なんで、と凜さんが言う。そういう人たちでもうまくやっているんだろ?向けられた声音が嫌悪でも罵倒でもないのが、刺さった。「しばらくはうまくやろうと思って、人とかかわりながら自分の道を探...
ひとり暮らしの部屋に帰っても、凜さんのことを考えていた。死んでしまった妹さん。『なみだごはん』という店名。あのお店は、凜さんなりの生きるためのよすがなのだろう。妹さんにしてあげられなかったこと、傷を癒し、穴を埋め戻すことを他者に施しながら自分を律している。陽気にふるまいながら。「凜さんも、さみしい人ですね」ひとりごとが漏れた。泣くことがあると言っていた。妹さんへの後悔なのだろう、きっと。懺悔でも、...
『なみだごはん』にお客がやってくるのは水曜日曜の定休日以外、だいたい8割。そして、たいていのお客さんは入ってくるときにはうつむいて目に涙を浮かべているのに、料理を食べると顔に光が差す。魔法みたいだ。凜さんの言ったようなてんてこ舞いの日はまだなく、あれは凜さんが僕を心配しての方便だったのかな、と思った。誰かに心配されるのも心配するのも億劫なことなのに、心臓がきゅうっと握られたかのような安心感をかすか...
「さっき、ちらっと経営のこと心配しただろ」図星をつかれ、言葉がない。凜さんはふっと笑うと意外なことを言う。「この店、半分以上道楽だから、売り上げとか原価率とか気にしなくていいんだ」「じゃあ、どうやって暮らしを?」「昔な、まとまった額の金が手に入ったことがあって、よほどのことがない限り倹約すればそれなりに暮らせるんだ」「うらやましいです」だろ?てらいなく凜さんはそう言って、鼻歌交じりに勝ってきたもの...
翌日。はたして『なみだごはん』は本当に存在した店なんだろうか、夢でも見ていたのでは、と会社帰りに付近に立ち寄った。あっけなく店を発見して落胆半分高揚半分の相半ばする気持ちを覚えていると、背後から軽やかに声が背中をたたく。「友哉!」凜さんだった。食材と思しきビニール袋両手に道を歩いてやってくる。笑顔が、きのう出会ったばかりなのに妙に懐かしかった。「ちょうどよかった。これから夜営業なんだよ」「あの、看...
「僕、普段はひとりで平気なんです。ひとりでいるほうが気楽でいいんです。お店にも、美術館にも博物館にもひとりで行くことに抵抗はないです。だけど、こうやってときどき涙が止まらなくなってしまうことがあって。自分でもどうかしてる、壊れてるって思うんですけれど、でもどうしようもなくて」オムライスの上に涙が落ちた。炒められたごはんの赤が自分の涙の色のように思えた。「そんなときだけ都合よく、だれかにそばにいてほ...
「おいしいです、異常に」「そりゃ、泣いた後のめしは旨いに決まってる」しっとりと炒められたチキンライスのうえにふわっふわで金色の卵が乗った、凜さんの作ったオムライスは意外なことにといったら申し訳ないけれど、とてもおいしかった。いままで食べ歩いてきた中でもトップクラスのおいしさだ。食事をしているせいだろうか、つい、口が軽くなった。「凜さんも泣くことがあるんですか?」「そりゃああるさ。いっさい泣かない人...
白とダークブラウンで統一された店内にはカウンターと椅子が三脚あるきりで、ほかに客の姿は見当たらない。僕がきょろきょろあたりを見回していると、彼は壊れた『なみだごはん』の看板をさっさと店内にひきあげ「俺、ここの店主の鹿住凜」と名乗った。やはり店主なのか。鹿住さんの目が雄弁に『名乗れ』というので「……碓井友哉です」ともぞもぞ言った。「てんしゅしゃんは」さっき看板を割ってしまうまで泣いていたせいで、「店主...
看板の割れる音を聞きつけたのか、店主らしき人影が飛び出してきた。僕とそう年齢の違わなさそうな背の高い男性だった。腕をつかまれる。きっと罵られるにちがいない。そう思って、毛布に潜り込む臆病な犬のように身をすくめると「そんなに怖がらんでも」とやわらかな調子の声が降ってきた。別に殴ったりしないから。この看板を見てるってことは、そんな目をしてるってことは、この店が必要なお客さんなんだろ?「見てるって?」我...
彼の経営する店に行きついたのは、ちょうどその涙の発作が起きている時だった。仕事が早く終わった金曜の夜だった。しあわせがあちこちでほろほろと花開いているような、どこにも憂う要素がひとつもない、そんな夜。僕は道端をほとほとと歩きながらぽろぽろ頬を伝う涙が流れるのに任せていた。ネオンサインがぼやけて流れ、どこか頭の冷静な部分がそれをきれいだと感じていた。すれ違う人たちの、奇異なものを見るまなざしにはとう...
気がつけば、ひとりでいることに慣れきっている自分がいた。一人旅に出る。旅ゆく先々でポストカードを購入し、自分の住所氏名を書き込んでポストに投函する。夜にはひとりで飲み屋に入る。休みの日にはひとりでひっそりと美術館や博物館をめぐる。あるいは映画を見にいく。なんの不自由もない。ひとりぼっちイコールさみしいというかつての図式は跡形もなく消え失せ、残ったのはひとりでいることの気楽さと自由だった。気楽さや自...
はたして、届いた未開封の手紙は遠木からだった。封筒の裏面にやわらかい独特の筆跡で『TOKIより』と記されている。トキちゃんと言った母親の声がよみがえった。ふるえる手で、遠木から手紙が届くようになってから購入したレターオープナーで封を切ると、真っ白い便せんに遠木の声が並ぶように几帳面な文字が並んでいる。読みだしたら記憶をなぞるような文章に涙があふれて、切れ切れにしか文章が脳まで届いてこない。なんどもなん...
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「お疲れさま、ふたりとも。先にあがるね。あ、そうだ!透琉(とおる)くんに教えてもらったレシピ、このまえ試してみたの」「うわあ、ありがとうございます!どうでした?」「レンチンでぜんぶ作れちゃうのね、時短わざは透琉くんに聞けってね」 はじける笑い声を歩生(あゆむ)は背中で聴く。話題そのものに、ものすごい遠心力で弾き飛ばされたのを感じる。相容れない、水と油のように。 バイト仲間の透琉はモテる。主に、パー...
ルーティンというものは破られたときのほうが、守られたときより「そこにある」ことを主張しはじめる。 由糸(ゆいと)の場合、ウィークデーならこんな感じだ。決まった時間に起きて、毎朝飲むサプリメントを服用し、軽く胃に食べものをいれて出勤。帰ってきたら食事のまえに簡単に風呂をすませ、休日に作り置いた数品やスーパーの半額シールの貼られた惣菜で夕食をとって、本や新聞をめくり、だいたい日付が変わるころにベッド...
こんなことでもなければ、20代でふるさとの地をもう一度踏むことはなかっただろう。 視線をめぐらせ見あげる空から、気まぐれに三月の雪が降ってくる。そういえば、この地では死んでいく冬が最期の力を振り絞るように、こんな雪が降ることがあるのだった。襟足から容赦なく冷気が忍び込んでくる。薄手のコート一枚でやってきたことを後悔した。音もなく降る雪に、無沙汰を咎められている気がして、柚希(ゆずき)はちいさく肩を...
もうなにも出ないから、もういいから、と訴えても、やめてもらえなかった。なかの刺激がよくてよくて、無意識にまだ、とかもっと、と口走ってしまうたびになんども奥に射精された。なにも出ないままでいかされたとき、脳髄ごとけいれんを起こすような快感に絶叫した。溺れそうで苦しくて、苦しいことがしあわせだった。 果てのない交合が終わったのは、夜明けちかかった。あちこち痛む身体をなだめすかして起き上がると、響生が...
だから、何のためらいもなく響生の指が後孔をうかがってきたとき、興奮よりも恐怖を覚えた。肌はほてっているのに血の気の引くような、ふしぎな感覚。「ねぇ、ひびきさ……っ!あの、ねぇ、その、……ほんとにできる、の?」 響生が無言で陽詩の手を掴む。そのまま導かれた先の熱に反射的に指先がびくっとした。「陽詩にあれだけしといて、俺のが無反応とかそっちのほうが変態くさいだろ」 軽く笑った響生の指が体内にもぐりこんで...
「すごくいまさらなこと訊くけど」 ベッドサイドのあかりだけが生きた仄暗い部屋、ベッドの上で陽詩がせがむままのキスをしながら、響生が問う。「陽詩くんって、ゲイなの?」 陽詩は答えないまま、自分にのしかかっている男に口づけをねだる。スプリングをきしませながら、なかばもう自暴自棄なのか、響生が熱心にそれに応じた。「こういうキス、したことある?」 響生は舌先だけを陽詩の舌にからめ、誘い出した。ふたつの唇の...
数日後、響生が住むアパートの最寄り駅の改札で、陽詩は姉の恋人の帰りを待っていた。 ここで、姉といっしょに響生を待ったことがある。あの夜は、三人でたこやきパーティーをした。姉はとても楽しそうにはしゃいで、そんな姉を響生がやさしい目で見ていた。 そして今夜は。陽詩は、墨を流したように暗い空を見上げた。 ――……今夜は、後戻りのできない取り引きをする。「陽詩くん?」 背中に、聴きたがえようのない響生の声が...
「ドナーの適合検査……?あの、僕も?」 三日後の朝。ダイニングテーブルをはさんで向かいに座る父親の顔を陽詩が見上げると、父親は「すまないが、検査を受けてくれ。繭子のためだ」と憔悴しきった面持ちでうなずいた。「陽詩がいま、将来に向けて大事なときだっていうことはわかっている。できるだけ、おまえの心身の負担にならないようにはしたいんだが……巻きこんでしまって、ほんとうにすまない」 陽詩は居心地悪く、椅子の上...
ハイレベル模試を全教科受け終わり、家路を辿る途中の自販機で買ったスチール缶のココアを片手に自宅のドアをひらく。いちどきに、重く沈み、暗く淀み、つめたく凍りついた空気に全身を包まれた。家じゅうが閉じた冷蔵庫になってしまったかのような異様な雰囲気にかすかに身震いする。ふっと、このさきの人生には何一ついいことがないんじゃないかという予感がした。 空恐ろしい未来予想を振り払うように、陽詩(ひなた)は精い...
ぽた、と膝に落ちたのが溶けたアイスクリームの雫だったとき、やっと、別れ話をされているのだと理解した。夏の終わりの夜のはじまりはまだ明るく、一瞬でぬるくなった濃紺のうえのミックスミントアイスの色はいかにもすずしげだ。 人工色の緑を指先でふき取り、ふふ、と千緒(ちお)はちいさく笑う。アイスだって。涙じゃなくて。たぶん、650円くらいの値段の恋だったんだ。 涙さえ流す価値さえない恋だったのだと、だれかに...
ふっと、帰ってきている気がした。曇りガラスのむこうに、朝からしとしとと降っている雨の足跡を刻んで。麻杜(おと)は人参をさいの目に刻んでいた手を止め、じっと硝子戸の外の気配をうかがう。犬が甲高く鳴く声、バイクの走り抜ける音。昼下がりの休日の、なんということのない音の光景。きっと、聞いた通りの風景が硝子の引き戸越しには広がっているのだろう。「麻杜」聞こえない声が聞こえる。触れられない腕がそっと手の甲を...
彩葉の目を覗きこみ、清音が感じ入ったように言う。「菅原がちゃんと感じてくれて、すごく気持ちよさそうでよかった」「……気持ちよすぎて頭がへんになるかと思った……。いろいろ見苦しくてごめんね……」 さっきまでの交わりの名残はもう、身体の奥に残るあまい感覚と、シーツを汚しているもろもろの体液にしか残っておらず、彩葉はかすれた声で言うと咳きこんだ。その拍子に後孔からくぷりと清音の放ったものがあふれ、シーツに伝...
「ん、ああんっ、……あぁっ、いい、気持ちい……っ、あ、あっ、……いく、いっちゃう」 清音の歯が乳首をかすめた瞬間、目を閉じ、浮かせた腰をふるわせてさらさらと流れるような射精をする。存分に出したはずなのに強烈な快感は引かず、高止まりのままの性感に彩葉はもうどうしたらいいのかわからない。ただ、身体がそうしたいと思うがままにあられもなく乱れた。荒い息のあいだから、自分を抱く腕に訴える。「あぁぁ……ん、清音、まだ...
じわじわと、清音の性器に浸食されていく。ちっとも怖がらずに清音を受け入れたそこが気持ちよがって、ひくひくと飽きることなくあたらしい異物を啜るのがわかった。ゆるく彩葉を抱きしめ、腰を進める清音が、あっ、とちいさく掠れた声を洩らす。「ゃ……、待って、菅原、……なに、なにこれ」 彩葉の内腑の蠕動を予想していなかったのだろう。とはいえ、彩葉は彩葉で指とは較べるべくもない質量がなかに挿ってくるので、痛苦しいや...
後孔にそろりと最初の指が差し込まれてからどのくらい経つのか、彩葉には判然としない。はじまったころは違和感に清音の指を押し出そうとばかりしていた彩葉の粘膜は、いまや喜んでなかで蠢く指を三本も咥え、啜り、しゃぶっている。ぬちゃぬちゃという粘着質な水音は、清音が彩葉の後孔にたっぷり含ませたローションで。「……だいぶ慣れた?痛くない?」 清音の問いに、枕を抱えて脚をおおきくひらいたまま、声も出せない快楽に...
清音の声で彩葉に吹きこまれるのは慈しみなのに、はっきりと欲情をにじませている。清音が早く彩葉を自分のものにしてしまいたいと思っているのがわかる。だって、唇に優しく口づけながらも清音の手は。「あ、ぅ……ん、あぁ……、んっ、あ」 とうにしとどに濡れていた彩葉の性器に触れる清音の手には、いっさいの躊躇も遠慮もなかった。彩葉が分泌したぬめりを借りて、水音を立てて、反応をうかがいながら追い上げてくる。過ぎた性...
「菅原」「……どうしたの?」「ここ、こりこりになってきた。すごい、指で弄れそう」 したたるような声で言うや否や、清音が指先で彩葉のはっきりと赤みをまとったふたつの尖りをつまんだ。そこから注がれる快感に息を呑んだ彩葉の喉から、うわずった声が迸る。「あ、あぁ、……っ、や……!」 反射的にぎゅっと目をつぶってしまったので、否応なしに触覚と聴覚が研ぎ澄まされる。はっきりわかる。清音にどんなふうに触られているか。...
「菅原、こら、じっとしてて」「ごめん、想像以上に恥ずかしい、これ」「……こら、もう、強硬手段に出るよ」 そう言って、彩葉のパジャマのボタンをベッドの上でひとつずつ外しながら、真上から彩葉を押さえ込んでいる清音が器用に脚で彩葉の動きを封じた。直接、肌に触れる清音の指がくすぐったくて身をよじりたいのに思うように動けない。こんなときなのに笑いだしそうになる。 されるがままにパジャマをはだけられ、素肌に手の...
どうせまたすぐ脱ぐんだけどな、と思いながらも一応パジャマを着て、先に髪を乾かし終わった彩葉はキッチンでペットボトルの水をごくごく飲んだ。清音がドライヤーをつかう音がする。なんだか生活って感じ、と気分をよくして水を冷蔵庫に戻す。 リビングのソファにおさまり夜のニュースをつけると、清音が脱衣所から出てきた。紺のストライプのパジャマをだぼっと着た清音は彩葉のとなりに腰をおろすと、つけたばかりのテレビを...
「どうした、急に赤くなって」 からかう口調で清音が言う。赤くなった頬を隠す方法がない。だから、彩葉は清音をまっすぐに見た。「や……あの、これから清音とするんだなって、ほんとにセックスするんだなって……」 ばしゃんと湯が跳ねて、抱き寄せられる。ぴったりとすきまなく身体がくっついてしまうと、これ以上ないほど速まった鼓動を知られてしまいそうで恥ずかしい。それよりも。「やだ、ちょっ……と、清音、」 清音は器用に...
いくら考えても、どんな思いかたをしても、理不尽だとしか思えなかった。こんなのってない。こんなのってないよ。 どれだけ優羽が智伸を好きでも、智伸とはいずれどうしようもなく枝分かれした道を行くはずで。でも、それはこんなにはやくないはずで。こんなに突然のことでもないはずで。 つらいのは俺じゃないだろうが、と優羽は自分の心を抑えつけようとした。けれど、ひび割れのすきまから水が漏れてくるように、ひんやりと...
入院先は?という問いに、近くの基幹病院の名を挙げる智伸の目を覗きこんで優羽は問うた。「どのくらいのあいだ?」 智伸がこんどこそ言い淀んだ。優羽の背中にぞわっと鳥肌が立つ。知らないだれかのつめたい手が、ひたりと張り付いたみたいだった。よくない返答がある、そう確信する。海老を口に運びながら、智伸は「すこし良くない病気が見つかってな」と返答になっていない言葉をごく軽い口調で並べてみせた。「……がん、とか...
麻婆茄子とエビチリが運ばれてくると、急に空腹を覚えた。おなかすいた、とこんなふうに思うのは何か月ぶりだろう。智伸が取り分けてくれた皿を受け取り、「いただきます」と手を合わせて笑いあう。とても和やかな気持ちだった。 優羽は智伸の好みの食べものも、きれいな箸の持ちかたもよく知っている。それとおなじくらい、智伸が自分のことを知っていればいいと思う。ちょうど、ぴったり真ん中でつりあった天秤みたいに。 け...
「優羽、なに食いたい?」 スマートフォンで周辺の飲食店を検索しているのであろう智伸の横顔が、人工のあかりに仄青くぼんやり浮かんで見えた。肉?魚?というせわしない問いかけに、智伸とだったらなんでもいいよ、と答えたいのを飲み込む。「中華料理って選択肢はあり?」「ありありのあり!」 優羽にむけて屈託なく笑う優しげな顔を留めておきたいと思う。心のなかにしか、この恋は留めておくことができないから。想う気持ち...
「優羽、どうしたの?背中が疲れてる」 あかるい声がすこし曇って、怪訝そうな色合いを帯びる。振り返って見遣ると、ブレーキ音の主はやはり、高校時代からの友人、仙田智伸(せんだしのぶ)だった。お互い25歳になるから、もう10年来のつきあいになる。 スーツ姿でかばんを前かごに突っ込み、自転車に乗っているところを見ると、どうやら勤務している中学校からの帰路だろう。優羽の頬が軽く緩む。ほんのわずかに。決して悟...
最悪の、最悪の一日だった。 残された最後の気力をぞうきんみたいにぎゅうぎゅうに振り絞って「お疲れさまです。お先に失礼します」と全方位的に退勤のあいさつをし、バックヤードと外気とを隔てる扉を閉めた。とたん、優羽(ゆうは)は重く、長いため息をつく。反動で身体がぺちゃんこになりそうだ。 ほんとうに心底ついていない一日だった。勤務中、優羽が接客したテーブルに最低値でも三組、こまごまとしたクレームをつけて...
そろりと生絹の背中に腕をまわして抱きしめかえした。黒いコートの背中をぎゅっと握る。生地が碧生の手のなかでやわらかにたわむ。生絹の心を丸ごと手で握ってしまったような気がした。「愛してるよ、碧生。愛してる。俺のそばにいてくれてありがとう。あのころも、いまも」 ほろほろと生絹にかけられた傷の呪いが解けていくのを手のなかで感じながら、碧生は何度もうなずいた。碧生がほしいという熱を帯びた生絹に抱きしめられ...
夕方まで箱根をぶらぶら散策して、さて帰ろうかとコインパーキングで車に乗り込もうとしていたときだった。 碧生、ととてもやわらかに名前を呼ばれてドアから手を離した。どこかほかに行きたいところでもあったのかな、と振り返って生絹を見あげるとなんの前触れもなく抱きしめられた。 背中にまわる生絹の腕。生絹のにおい。五感のぜんぶで驚いて思わず身じろぐと、ますます腕に力がこもる。夕暮れの光のなかできつく抱きすく...
箱根旅行に出かける当日は、よく晴れた朝を迎えた。生絹と出かけるときはたいてい晴れている。ひょっとして晴れ男なのかな、などとつらつら思いながら早朝の駅前で生絹の車を待っていた。首に巻いた濃い灰色のマフラーは生絹が以前くれたものだ。 なめらかに駅前ロータリーに滑り込んできた車の助手席に乗ると、車内はいつものように清潔に整えられている。そう、こういう几帳面なところも知った。 いろいろなことがあったよね...
月に一度か二度、生絹と予定をすり合わせて外出するようになった。 生絹は碧生を車で迎えに来る過程がよほどうれしいらしく、たいてい碧生の部屋の最寄りの駅まで黒いヴィッツを走らせてやってくる。いろいろなところに出かけた。夏の緑あふれる自然公園や、マイナスイオンが目に見えそうなほど涼しい谷底の渓流、色鮮やかに燃え立つような木々を眺めた紅葉狩り。 生絹はどこへ行っても楽しそうにしている。それは碧生もおなじ...
「うちに……うちに泊まればいい」 ゆっくりと、しごくゆっくりとそう言う声が、それでも振り払えないかすかな迷いを帯びていて、申し出を断ればひどく生絹を傷つけてしまうだろうことがわかった。碧生自身もきっと傷つくことも。だから碧生はスマートフォンをかばんにしまい、生絹に微笑んでみせた。「じゃあ、お言葉に甘えようかな」 生絹の頬のこわばりがかすかに緩んだ。 俺がソファーで寝るから碧生はちゃんとベッドで寝て、...
「ごめんな」という生絹のその言葉を潮に、碧生の目から涙があふれた。感情の波に揺られたというよりは、謝らせたことが情けなかった。 滲んだ視界のなかで、涙がほとほととソファーに落ちていく。迷うように握ったり開いたりしていた生絹の手のふるえる指が碧生の頬に触れる。すっと涙をぬぐわれると、悲しいのにうれしかった。 ごちゃ混ぜになった気持ちのまま、生絹の肩に顔をうずめた。碧生の涙が生絹のシャツをすこしずつ...
「……これ、なんで『E.T.』?」「俺、この映画好きなんだよ。小5のとき、父親と最後に観た映画だからかな」 言いながら、生絹は画面から碧生のほうに視線を移した。「碧生とは、はじめて一緒に観る映画だな。いつか、俺んちで碧生と映画を観てみたかった、ずっと。夢がかなったよ。わがままにつきあってくれてありがとう」 ひと言ひと言刻むような言いかたに、碧生ははっと身じろぎした。 夢をかなえること。わがままを言うこと...
生絹に告げるべき言葉を探して碧生が考え込んでいると、ふいに生絹が口を開いた。「なぁ、碧生。いまから俺んち来るか?」「えっ!?」 素っ頓狂な碧生の声に、生絹が肩をふるわせて笑った。ひどい、と碧生は冗談半分、もう残りの半分は本気で抗議する。生絹はしばらく笑ったあと、一転してひどくまじめな顔で碧生を見て、口をひらいた。ふたりのあいだを、すこし強い春の夜風が抜けていった。「俺は、がんばって碧生に触れられ...
東京で5度目に生絹と会ったのは、桜のつぼみがやわらかくほころびだすころの土曜日のことだった。 夕方から少し早い花見をふたりで楽しんだあと、碧生が予約した桜並木を望む居酒屋でのんびり飲んだ。 居酒屋を出て生絹がちいさく歌う鼻歌が、ご機嫌に酔ったときの癖なのだと碧生はもう知っている。なんという歌なのかは教えてもらえなかったけれど、碧生ももうおなじメロディーをなぞることができる。 あてどなく並んで歩き...
それからも生絹は碧生にちょこちょこと連絡をよこした。他愛もないやりとりがうれしくて仕事の合間にスマートフォンを確認するのが癖になった。 きょう昼ご飯を食べた蕎麦屋がめちゃくちゃおいしかったから今度いっしょに行こうな。あしたは雪が降るんだって、楽しみなような、嫌なような複雑な気持ちだな。けさ、ひさしぶりに野良猫を見たんだけど、猫さま効果かな、仕事を定時であがれたんだ。 日々のなんということもない文...
透明にきらきらと光る水面でしずかに波は寄せて返している。後悔が繰り返し胸のなかで行きつ戻りつするように。いつか潮が引いたとき、その向こうへとわたることはできるだろうか。その先にはなにがあるんだろう。「腹が減ったな」 物思いに耽りながらぼんやり海を眺めていると、ふいに生絹が言った。時計を見るとお昼どきを過ぎている。急に空腹を覚えた。 昼めし食いに行くか、という生絹にうなずいて立ちあがり、護岸ブロッ...
「きれいだな」 ふっと洩れたような生絹の言葉に碧生はうなずいた。「大人になっても、きれいなものをきれいと言える人でいたかったんだ」 かすかに肩を揺らした生絹がぽつんと言葉を落とす。碧生から視線を外して、海を見遣った。俺、さんざん汚いことしたけどな、と言って軽く笑う。 碧生はちらりと海を映すその目を見た。すこし苦しそうな灰色がかった瞳がきれいだと思う。 まっすぐ海を見たままの生絹に碧生は問うた。「……...
車を発進させた生絹に「どこへ行くの?」と訊ねると「海にでも行くか」と返ってきた。 あぶなげなく車を走らせながら、生絹は楽しそうに話している。アスファルトが白っぽく光を跳ね返して、その先へと生絹は車を進めていく。「碧生とこんなふうに出かけられるなんてな」「そうだね」「返信読んだとき、うれしかったよ」 碧生が首をかしげると「『会えるよ』じゃなくって『会いたいな』って送ってくれたろ。俺のこと、好きでい...
薄手の白いニットと細身のジーンズ、黒いスニーカーのうえにコートを着て、つぎの日の昼前に自宅の最寄り駅で生絹を待っていた。よく晴れた日で、頬に冬の風が痛いくらいだった。 駅前では、たくさんの人待ち顔のコートやジャケットがそれぞれの相手を探している。 生絹は約束の10時半ぴったりに、黒いヴィッツを慣れた様子で碧生のまえに停めた。助手席側のドアを開けて「碧生、待ったか?」と言う。「ちょっとだけ。僕がはや...