「……うわ、酒臭いっっ、マサヤ…飲み過ぎ……」 真夜中を少し過ぎた頃、黒川が帰宅した。 イツキはすでにベッドに入っていたのだが、物音で目覚める。 どさり、と自分の隣に横たわる黒川は、珍しく酒に酔っているようで 片手でイツキの肩を抱き寄せると、顔を近づけ、酒臭い息を吐く。 「何?どうしたの?……大丈夫?」 「ああ。…くそ、松田のやつ。……調子…
「……うわ、酒臭いっっ、マサヤ…飲み過ぎ……」 真夜中を少し過ぎた頃、黒川が帰宅した。 イツキはすでにベッドに入っていたのだが、物音で目覚める。 どさり、と自分の隣に横たわる黒川は、珍しく酒に酔っているようで 片手でイツキの肩を抱き寄せると、顔を近づけ、酒臭い息を吐く。 「何?どうしたの?……大丈夫?」 「ああ。…くそ、松田のやつ。……調子…
「松田、お前、こっちに居過ぎじゃないのか?自分の仕事はどうした?」 飲みの途中で黒川は仕事の連絡を挟み、思いついたように松田にそう尋ねる。 松田も地元では、そこそこの組の幹部だ。それにしては、随分とのんびりしている様に見える。 「はは。こっちには週に2、3、顔出してるだけだ。ちゃんと、仕事はしているよ」 「……暇人だな…」 「黒川さんが忙し過ぎ…
「……仕事で使うのに、…仕込んでいる最中だ。お前のところだってあるだろう、そんな話。 ただの商売道具だ。それ以上の感情はない。 …まあ、楽しませては貰ってるがな……」 事務所の近くの焼き鳥屋に黒川を連れ出し、日本酒を数杯飲んだところで ようやく、言い訳がましい話を口にする。 松田は、空になった黒川のグラスに酒を注ぎ、自分も飲み 次は熱燗にしようと、…
「……何?今の子?」 「……。まあ、ちょっと、な」 松田はなんとなくそのまま事務所の中に入り込む。 事務所の中をぐるりと見渡し とりあえず、今、ここで情事が行われていたかどうかだけ確認し ソファの上が妙に濡れていないと解ると、そこに腰を下ろした。 黒川も無下に追い返すのは格好が付かなかったのか、ふん、と鼻息を鳴らし デスクの椅子に座ると書…
『イツキちゃん、気にしてたぜ? 赤ん坊、見に行きたいけど、自分は駄目だって。 まあ、気持ちは解らなくもないけどな。 世界に生まれたての、まっさらサラサラ。綺麗で純粋なところに 肉欲まみれのドロドロで穢らわしいモンを近づけちゃ駄目だってな。 相談された?黒川さん。されないか、そうだよな。 イツキちゃんを、そんなドロドロにした張本人だもんなぁ。 …
ハーバルの事務所に松田が来ていた。 あれこれ、仕事に関係がありそうな話をするのだが 単純に、イツキと話がしたいだけだった。 それでも、ミカが無事に出産を終えた事を伝えると 意外に素直に喜び、穏やかで優しい空気になる。 子供が産まれるというのは、そういう事なのだろうと、イツキは思った。 「会いに行くの? 病院…は、さすがにアレかな。でも、落…
その日 黒川が珍しく早い時間に部屋に戻ると イツキはキッチンで、鼻歌混じりに鍋を掻き混ぜていた。 テーブルには他にもデリカの惣菜やサラダ、良いワインなどが並ぶ。 「ミカちゃん、産まれたって。女の子。 すごいよね、俺、知ってる人が子供産むなんて、初めてで… ちょっと感動した」 「ミカ?……ああ、石鹸屋の女か。…ふぅん」 黒川にすれば別に…
黒川に抱かれながらイツキは こんなにも黒川の挙動が気になるのはなぜなのだろうと考えていた。 好きだの嫌いだの。もう、そんな感覚はどうでも良くて。 仕事で、黒川が他人を抱くのも、まあ仕方がないのだと割り切ってはいる。 …自分だって、他で身体を開いているのだ。今更、セックスの有無は問題ではない。 とりあえず今は、一緒にいたいと思って一緒にいる。それ…
以前から黒川の周りには、商売上の付き合いのある女性や男性の姿がチラついていた。 こういった稼業なのだから、ある程度は仕方が無いだろう。 イツキのような「商売道具」にするといって訳アリの子供を引き入れ その教育という名目で、何かをしていることも解っている。 そんな相手をイチイチ気にして、腹を立てたところで仕方がない。 嫉妬と言われても、癪なだけだ。自…
「……イツキくん?」 急にイツキに抱きつかれたミツオはきょとんとする。 別れが惜しくて、という訳でも無さそうだが…とりあえず、イツキの肩に腕を回す。 「……どうしたの?………、もっと話し、聞く?」 「いや、……あの。…違います」 2、3分間を置いて、イツキはミツオから身体を離す。 ゆっくりと通りの方を振り返り、先ほど見掛けた人影が、もう無いこと…
食事も済み、ボトルのワインも飲み干し、イツキとミツオは店を出る。 少し酔っているのか躓きそうになるイツキの、腕を、ミツオが支える。 「…こういうさ、2階のお店って、酒飲むと階段が怖いよね」 「…俺、そんなに酔っ払って無いですよ…」 「……そ?」 言いながら、絡めた腕でそのまま壁に押し当てて、唇を重ねる流れが実にスマートで 何の不自然もないような気…
その夜のイツキは、ミツオに合っていた。 ミツオの勤めている美容院に予約を入れた流れで、食事に誘われたのだ。 ハーバルで働くようになったのも、元々は、ミツオのお陰という事もあり 今でも、たまに連絡を取り、近況を報告するような距離感だった。 「……ちょっと短く切り過ぎちゃったかな?」 「いえ。俺、ちょっとちゃんとしなくちゃって思ってたトコなの…
黒川は、イツキに隠れて何か悪いことをしている意識は、まるでなかった。 あくまでこれは「仕事」なのだ。 黒川の元には度々、負債を抱えた…あるいは負債を抱えた者の身内が そのツケを身体で返すためにやって来る。 それらは商品のように、適所に回されて行く。 店を斡旋したり、直接、人に渡したりするのだが、当然 その前に、その状態を確認する必要がある…
「…特に何って訳じゃないんだけど、なんか…変なんだよね」 「ふふふ。イツキくん。…女の勘?」 「女……じゃ、ないよ……」 夕方。 ハーバルに顔を出した松田に、イツキはひとしきり黒川の愚痴。 松田の軽口に口を尖らせ、そっぽを向き、手だけは動かし石鹸の箱詰めなどをする。 「まあ、あんな稼業の人だし、…何かしらやましいことはあるんだろうけど。 ……
「…おかえりなさい。…割と早いね。仕事、忙しかったんじゃないの?」 夕食を終えたイツキがリビングの…コタツで寛いでいる時に、黒川が帰って来た。 イツキは声だけ掛け、それでもそれだけで、飲み掛けのビールを飲み、面白くもないテレビに視線を向ける。 黒川はネクタイを緩めながら適当に「ああ」と返事をして キッチンのカウンターに置かれていた、何かの紙袋を…
「イツキ。今日はウチの事務所には近付くな。…少し、立て込んでいる。 …ヤバい奴らの出入りも多い。……夕方には来るなよ」 ある朝。 黒川はわざわざイツキに念を押して、出掛けて行った。 イツキは「はぁい」と気の抜けた返事をしたものの、 よくよく考えると、何か、おかしいような気がするのだった。 日中。ハーバルで仕事をしていても、黒川の言葉が気…
「……なんだ、これは……」 ある夜。 部屋に帰って来た黒川はリビングの様子を見て声を上げる。 中央に置いてあったソファは窓際に追いやられ 代わりに、コタツが置かれ、その上にはカセットコンロと鍋が置かれていた。 キッチンの内側からイツキが声を掛ける。 「おかえり、マサヤ。ちょうど良かった」 「…何だ、これは…」 「モツ鍋」 「…そう言う事…
真夜中に帰って来た黒川はキッチンで水を一杯飲み ジャケットを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、寝室へ向かう。 ベッドの真ん中にイツキが眠っていたので 少し体を押し、空いた場所に潜り込む。 その動きでイツキは目を覚ましたのか、んん、と声を上げ薄く目を開く。 「……マサヤ…。おかえりなさい」 「…ああ」 「…………マサヤ」 まだ寝ぼけているようで、イツキは黒…
「……イツキちゃん、二条虎松とヤったの?……それを黒川さんに話したの?」 「…うん」 数日後。 ハーバルの店舗に顔を出した松田は、そのまま閉店まで付き合い 帰りがけに軽く、食事へと誘う。 イツキも、軽くなら良いですよと近くの店に入るのだが、まあ、軽くで済むはずもない。 何杯か飲み、近状を報告し、その話しになる。 「…黒川、…怒ったでしょ?…
「……はぁ?」 「…だから、大したこと無かったって。二条虎松。 俺、あの時、なんか感じが違って……、何かなって思って、確かめてみたんだけど… ……気のせいだったみたい。2回目は普通だった」 イツキがそんな事をポロリと告げたのは、夕食にと入った焼き鳥屋で すでにビールを数杯飲み、次は日本酒にすると、コップに並々注がれた酒を飲み干し 空いたグラスを傾…
夕方。イツキは黒川の事務所に向かう。 中では一ノ宮が1人、パソコンで作業をしていた。 お互い、ぺこりと頭を下げ、イツキはソファに座る。 この後、黒川と落ち合い、食事に行く予定だった。 「…いかがですか?、もう、問題は起こりませんか?」 「…ん?うん。…ああ、三浦さんがありがとうございましたって。 一ノ宮さん、向こうに少し言ってくれたんでしょう…
黒川がマンションの部屋に帰って来たのは、もうすぐ日付が変わる時間だったが イツキはまだ起きており、風呂上がりなのか濡れた髪をタオルで拭きながら「おかえり」と言う。 キッチンでは何か料理でもしたのか、皿と、フライパンと焦げた臭いが残り 飲みかけの、ワインのボトルが置いてあった。 「……1人でこんなに飲んだのか?」 「違う、違う。お肉焼くのに使った…
イツキが『仕事』で客を取らなくなって、暫く経った。 黒川との関係も概ね良好。 意にそぐわない行為の時には、ふいに黒川を思い出して、困る。などと 可愛い事を言ってみたりもする。 実際、二条との行為も、嫌だった。 三浦のとばっちりで、乱暴に組み敷かれ、された訳だが 嫌だと思う反面、身体は、異様に感じていた。 「なあ、店長さん。本当にさ、悪…
ひとしきり喋り、謝罪し、後は静かになる。 謝罪が済めば他に用事は無いはずだが、当然それで終わるはずはなかった。 「…なあ。…この後、付き合わねぇ? メシか酒でも、どうよ?」 「付き合いません」 「……じゃあさ、もう一回、やらせてくれねぇ?」 あまりにストレートな誘いに、予想はしていたが、イツキは呆気に取られる。 それで、了解の返事を得られ…
数日後。 1人でハーバルにいた昼間、ふいに、二条虎松が姿を現した。 イツキは当然身を強張らせ、カウンターの奥に行き、助けを呼べるようにとスマホを握りしめたのだが 二条は、何もしないよと両手を上げ、穏やかに笑いかけるのだった。 「いや、どうも。…この間は……悪かったね。はは」 「……何のご用ですか?」 「そう警戒しなさんなって。何もしないよ。……
ハーバルでの仕事を終え、横山を帰し、店を締める。 さすがに本社からの無茶振りはキツかったが、イツキにはまだ一仕事残っていた。 小さくため息をついて、少し歩く。 向かった先は、カフェみうら、だった。 「…ああ、おつかれさま。イツキてんちょ…」 「…おつかれさまです…」 店は、営業はしていないものの明かりが付き、珈琲の良い匂いが漂っていた。 …
イツキがハーバルに出社したのは翌日の午後になってからだった。 留守を任されていたパートの横山は、その間の業務をざっと報告し 部屋の隅に山積みになっている、本社から届いた段ボールを指差した。 今週中にすべてのラベルを貼り替えたのち、小分けにして送り直さなければいけないそれを ため息まじりに確認していると、 気配を察したのか何なのか三浦が挨拶に訪れた。 …
「…起こしてくれても良かったのに」 風呂上がりにそのまま寝てしまい、次に目を開けた時はもう翌朝だった。 イツキはせっかくの夜を無駄にしたと、不満げに口を尖らせる。 黒川はすでに着替えを済ませ、ネクタイまで締めていた。 「…それだけ休めたって事だろう。…それが目的なんだから良いじゃないか」 「……でも」 「どうせ、ヤれなかっただろ? ケツが…
狭い湯船の中でイツキは黒川の腕に身体を預ける。 コポコポとお湯の溢れる音だけが響く静かな空間。 周りを囲う植栽の合間から街明かりが見えなければ、本当に どこか遠くの、誰もいない星にでも来たようだ。 「……ああ、マサヤ……」 何か言い掛けて、イツキは口を噤む。 三浦のことや、ハーバルの店のこと。…松田に連絡をしようか、などなど 話しておきたい…
食事も終わり、黒川が軽く酔い覚ましにと風呂に入ると そこに、イツキも入って来た。 大人2人でも余裕のある内風呂。バルコニーには小さな露天風呂まである贅沢な造りだ。 「……なんだよ。風呂には入らないんじゃ無かったのか」 一応、黒川は一言いい、イツキはムッとした顔を見せる。 内風呂でパシャパシャと身体に湯を掛けたあと、露天風呂があるバルコニーの扉を…
「……風呂でも入るか」 急にそう言い出したのは黒川だった。 ……さすがに自分が下手な事を言ったと自覚したらしい。 イツキも押し黙り静かになった場を、どうにか変えようと思ったのだろうか。 「あまり飲んでからでもアレだしな。…内風呂でも広い…、ここの売りだからな……」 「…おれ、入んない…」 「……ハァ?……風呂に行きたいと行ったのはお前だろう?…
「…俺さ、ちょっと思ったことがある」 と、イツキにしては真面目な面持ちで、ぽつりと呟く。 黒川は一瞬何事かと思うが、それもまた顔には出さずに、酒を飲む振りをする。 イツキはチラリと黒川を見る。黒川はあまり興味のない様子をしているのだが、 それが逆に、話し易いのかも知れない。 「…俺さ、本当にもう今さら、誰かとヤルのなんて…どうでもいいじゃ…
夕食は、館内のレストランでも良かったのだが、…部屋で取ることにした。 人目にもつかないし、ゆっくりと時間を掛けることも出来る。 そう、食欲もない2人は適度に食事を楽しみ、酒を飲み 近況を報告し、酒を飲み、酒を飲み ようやく、本音を漏らし始める。 「三浦さんの事はマサヤ、どうにかしてあげてよ」 「……は?」 「あの人、馬鹿で。…土地、売らな…
到着した先は事務所から車で一時間も掛からない場所。 普通の、都内の、ホテルだった。 いわゆる温泉宿では無いと、イツキは一瞬、不機嫌さを滲ませるも 案内された部屋を見て、その気持ちは吹き飛んだ。 「……すごいねー…」 その空間に一歩足を踏み入れれば、もう、そこが都心のど真ん中だとは思えないほど。 狭過ぎず広過ぎず丁度良い室内は、和の趣で 窓から…
「…おや。今日は随分と早いのですね」 「………ああ」 そう一ノ宮が声を掛けるのも当然だった。 まだ昼だと言うのに黒川が事務所に現れ、机の上の書類をガサガサとやる。 必要なものを選り分け、どこぞに2、3、電話を掛け、口早に次の指示を出す。 どこか忙しない様子。 「社長?…何か、問題でもありましたか…?」 「いや。まあ、…そうだな。…今日はこの後、…
「…今日、仕事お休みにしたから、どっか連れて行ってよ」 「………は?」 朝。ベッドの上で目を開けるのとほぼ同時に、黒川はイツキにそう言われる。 黒川は何事かと、気だるそうに髪の毛を掻き上げながら身体を半分起こす。 昨夜は少々乱暴にしてしまい、ロクに話も出来ずに終わってしまった。 …トラブルに巻き込まれて痛い目を見るのは自業自得だ、とか、都合よく俺を…
黒川に怒られるだろうな、とは思っていた。 無用なトラブルには遭わないように気を付けてはいた。 きちんと連絡は入れたし、最悪の事態よりはまだ軽い被害で済んだと思う。 「仕事」をしていた頃はもっと酷いコトを、黒川の指示でしていた訳だし 何をもって黒川に怒られるのかが、今一つ解らなかったのだけど。 迎えに来た時から不機嫌顔。 マンションの部屋に…
寝室から出てきた黒川はキッチンへ向かい、水を一杯飲み、気を落ち着かせるようにため息を吐く。 少し手荒にしてしまったかと思い、いや、それ位の罰は当然だと思い それでも、やはり、やり過ぎたかと、ベッドの上のイツキを思う。 訳の解らない石鹸屋絡みで案の定トラブルを引き寄せて 痛い目を見るのはあいつだ。別にそれはどうでもいい。 事の始末に呼ばれ、手間…
三浦は、突然解放された事も丁度目の前に迎えの車が来た事も まだ事態が飲み込めず呆然としていた。 それがすべて、イツキが手を回してくれたことだと察すると、 ただただ頭を下げ、迷惑を掛けてすまなかったと詫びた。 「…まあ、細かい話はまた今度。…病院まで送りましょう」 そう言って一ノ宮は、イツキと三浦を車の後部座席に乗せる。 三浦は、パイプ椅子が…
そもそも、黒川がイツキからの連絡に気がついたのが遅かった。 四六時中スマホを握り締めている訳でもないし、直ぐに取れない時だってあるだろう。 それを見たのは、イツキが部屋に連れ込まれてから1時間ほど経った頃。 その頃にはもう、折り返しの電話に答えることは出来ない状態だった。 『糞』 と、黒川は相変わらずの悪態を付く。 どうせまた自らトラブルを招いた…
「………はい。二条です。お疲れ様です。……はい」 ケータイは上との連絡用のものだった。 二条は落ち着いた声で応対し、その様子を派手な上着の男も見守る。 手にはまだナイフが握られたままだったが、すぐに刺される心配は無さそうだった。 「………はい、…………えっ…」 二条は相槌の後、少し驚いた声をあげ、それからイツキの方を見た。 そしてようやく…
そこから先は、まあ、大騒ぎだった。 三浦は、イツキの前にいた男を突き飛ばし、イツキを護るようにその上に覆い被さり これから自分の順番と意気込んでいた男は激怒し、三浦を退かそうと、その背に蹴りを入れる。 「……み、三浦さ…ん?」 「…イツキてんちょ、…逃げよう、…立てる?」 「いや、……むり……」 そんな会話をしている間も男の攻撃は続く…
さすがに三浦も、この状況を見過ごす事は出来なかった。 元はと言えば自分の蒔いた種、イツキには何の落ち度も無い話なのだ。 どうにか助けてやりたいと、扉を叩く。 右手はまだパイプ椅子に括られている状態だったが、思い切ってそれごと、扉に当ててみる。 幸い、扉に掛かっている鍵は錠を回すような立派なものではなく、後付けの、ちょっとした金具のもので 何度目か…
イツキの両腕を押さえ込んでいた派手な上着の男は 正直、男との行為に興味は無かった。 兄貴分の二条が遊ぶと言うので、手伝っているに過ぎなかった。 確かに、この若い兄ちゃんは綺麗な顔立ちをしている。 上擦った声も女ほど高くはないが、どこか艶っぽく、耳に残る。 肌も白い。滑らかそうだ。下着を脱がすと……毛が生えていないのにも驚いた。 ……立ちんぼをして…
イツキは もう、この段階になっては逃げ出すことは出来ないだろうと諦めていた。 ならばなるべく騒がず、感じず。 ただのつまらない人形のフリをして、早く事を終わらせてしまおうと思っていた。 実際、こんな事は、珍しい事でもない。 よくある事。…ここ最近は、まああまり無かったけれど。 でも、よくある事で、大したことではない、と。 もっとも、イツキがどう…
「二条さんってコッチの趣味もあるんですか?」 イツキの腕を押さえている派手な上着の男が聞く。 もちろん商売柄、身体を売る男は知っているが、あえて自分が抱こうとは思わない。 確かに、今自分が捕らえているヤツは、白い肌に細い線、妙に艶かしい声を上げるが それでも、男だ。挿れる穴が違う。 「んー、無ぇよ。ああ、でも、一回ヤったな。……それが酷くてよ。 …
二条に蹴飛ばされた三浦は椅子ごと派手にひっくり返り、あちこちを酷く痛めたようだ。 「イテテ…」とようやく身体を起こし、何が起きたのかと戸惑う。 扉は再び閉められている。 イツキが向こう側に連れて行かれたのは、目の端に映っていた。 立ち上がり、繋がれた椅子ごと、扉の前まで移動する。 もとより薄い扉。耳をそばだてることもなく、向こうの会話が聞こえた。 …
「…手間かけさせやがって。最初から大人しく言うこと聞いていれば良かったんだ」 二条は忌々しげにそう言い、ひっくり返った三浦をさらに蹴飛ばす。 パイプ椅子に片腕を繋がれたままだった三浦は、倒れた拍子に変にぶつけたのか なかなか起き上がる事が出来ない。 そこに、二条は追い打ちを掛ける。 イツキは少し驚いた様子で、ぽかんと立ち尽くす。 「……あの…
「どうかな?説得できたかな?」 半分馬鹿にしたような軽い調子で、二条が声を掛ける。 イツキはムッとした顔のまま二条の方を向き、それからまた、三浦を見て、さらにムッとした顔になる。 三浦はまだ決断しかねているようで、イツキから視線を逸せるのだが もうそれも限界だとは解っていた。 「……三浦さん」 「…解ってるけどよ。……それでも、こいつらの言いな…
「……三浦さん、とりあえず…、ここはあいつらの言う通りにして… とにかく、ここ、出ましょう。 後のことは、俺……何とかしますから……」 「…イツキてんちょが?…何とかなんの?」 三浦のもっともな問いに、イツキはこくんと頷いてみせる。 とにかくここを出た方が良い。これ以上ゴネていても、良い事は無い。 「…俺、こういうのの…、こっち系の知り合…
「……悪い。イツキてんちょ。……こんな事に巻き込んじゃって…」 「…まあ、俺もちょっと…弱味があって……、まあ、それは良いんだけど……」 少し二人で話しなよ、と、イツキを残し二条は部屋を出て行く。 扉を締めるとカチリと、ご丁寧に鍵の閉まる音がする。 三浦はパイプ椅子に座ったまま、手首もまだ繋がれたまま。 イツキはその近くにぺたんと腰をおろし、困った…
部屋は、これまた殺風景な洋室。三浦はぽつんと置かれたパイプ椅子に座らされていた。 手首の片方にだけ手錠が掛けられ、パイプ椅子に繋がれている。 その外では常に誰かしらが見張っていて、逃げ出せる状況ではない。 三浦は一昨日の夜からここに連れて来られていた。 「……あのさぁ、いくらこうされたって、俺の意思は変わらないよ? それに、コレ、犯罪でし…
エレベーターも無い、古びたマンション。 階段を上がり、2階の一番奥の部屋へと向かう。 イツキは勿論、黒川に連絡をしていたが こんな時に限り、返信は無い。 あったとしても、連れ込まれた正確な場所も解らないし 事が起きる前に助けに来られるほど、足が早くも無いだろう。 連絡は一応 『自分が出来ることはちゃんとしたんだよ』という イツキなりの、保険だった。…
「…いやにエロいお兄ちゃんだとは思ったんだよ。 まあ、三浦くんの周りは取り合えず洗って置くんだけどね。 店長さんの、意外な経歴にビックリしたよ」 二条虎松は車のハンドルを握りながら、少し可笑しそうに、そう話す。 イツキは後ろの座席。二条の真後ろに座り、不機嫌そうに口を窄める。 「…でも、俺、三浦さんとは何の関係もありませんよ?」 「そう?……
「嫌です」 二条虎松の誘いを、一度はきちんと断る。乗る、理由は無い。 「ちょっと、話し、しよう」 「……俺は、話しなんて無いです」 「まあ、そう言わずに…」 この日の男は一人だった。 自分で車を運転し、開けた窓から身を乗り出し、イツキを誘う。 イツキは三浦のカフェの店先と車に挟まれそうになりながらも、脇の隙間へと身体を向ける。 「実は今、…
その日は特に何の問題もなく、ハーバルは閉店時間を迎えた。 三浦が顔を出さなくなって数日。 静かで良いけれど少し寂しいですね、と、パートの横山は話しながら帰り支度をし イツキよりも先に、店を出て行った。 本当に。 と、イツキも思うが、気にならない訳ではない。 トラブルに巻き込まれた三浦がどこでどうなろうと、イツキには何も関係はないが それでも気にか…
それからまた数日間、三浦は姿を見せなかった。 騒ぎを起こし、叱られると暫く身を潜める。 それがもうお決まりのパターンのようだった。 ただ、今までは三浦は、自分の店は少しの時間だけでも開けていたのだが 今回はそれも無いようだ。 「カフェみうら」の入り口には『しばらく休業』と書かれた紙が貼られたまま 真っ暗な店内を常連客らしい初老の男性が覗き込んでいる…
正直、黒川はイツキに腹を立てていた。 石鹸屋だか何だか知らないが、勝手に遊んでいる仕事ごっこで さも自立した風に偉そうな顔をして そのくせ、揉め事を持ち込み、人に片付けてくれだの言い出す始末。 『馬鹿か、お前は』と一蹴すれば 唇を尖らせ、拗ねた素振りを見せ 『……じゃあ、松田さんに相談してみる…』 と言うのだ。 最近、少し、甘やかし…
「……馬鹿か、お前は」 基本。イツキは隠し事はしないようにしている。なるべく、だが。 ハーバルの店の経営状態からミカのマタニティライフの話。 そして、三浦の話も。 逐一黒川に報告するようにしている。 仕事終わりに事務所で黒川と待ち合わせ、通り向こうの焼き鳥屋へ行き 食事をしながら、あれこれと話をすると 黒川がそう言うのは、まあ、当然の事だっ…
三浦がいる奥の小部屋から表に出るには レジカウンターの内側を通るしかないが そこには、イツキが座っており普通では通れない。 「もう帰るよ」 と、三浦は半ば強引にイツキの後ろ側を通り抜けようとし イツキの背中をぐいと押す。 若干、足が縺れ イツキ側によろける。 イツキは小さな声で「………あ」と言う。 三浦は慌てて体勢を整え、どうにかハーバルの出入…
「……小さいとこだよ。今は駐車場。車2台分のさ。…まあ、そこ、売れって煩くて。 俺、そのつもりは無いんだけど、しつこくてね。 だんだん、脅迫じみてくるしさ。…で、もう相手すんのも嫌で逃げてるだけ」 「…逃げるって言っても…家もお店も…居場所は知られているんでしょ? 逃げ切れる話じゃないでしょ?」 「ああ、まあね。んー。今はジワジワ嫌がらせしてる感…
「…三浦さんがあの人達から逃げ回ってるのは…別に良いんですけど 正直、こちらにも迷惑が掛かってるので…… いい加減、事情を話して頂けませんか? 場合によっては、何か力になれるかも知れませんよ?」 「…おお。…今日のイツキてんちょ、格好良いね」 「…三浦さん……」 未だ、ニヤニヤと笑う三浦に、イツキは呆れたように溜息を付き …おもむろに、先ほ…
「…あいつ、絶対何か知っている風ですぜ? ちょっと脅せば、聞き出せるんじゃねぇですか…」 派手な上着のガラの悪い男は帰りの車を運転しながら、キツネ目の男にそう言う。 キツネ目は「……まあな」と答え、少し可笑しそうに鼻息を鳴らす。 店の責任者にしては若過ぎる。妙に気に掛かるのは物怖じしない態度のせいか。 化粧品屋だか何か知らんが、顔も髪も洗い過…
イツキの笑顔に、男達は少し調子が狂う。 自分達の厳つい風貌や態度は、相手を威嚇し怯えさせる為のものだが この、細身でなよなよとした生っチロい若造には、どうやら通じていないらしい。 レジカウンターの内側に、入って来た時と変わらぬ様子できちんと立ち 普通に接客でもするように、静かに微笑む。 カウンターの内側を覗き込もうと身を乗り出す男に 「……あ、さす…
ハーバルの店舗の大きな窓ガラスには薄いレースのカーテンが掛かっている。 お陰で、中から外はまあまあ見えるのだが、外から中はあまり様子が判らない。 三浦はレジの後ろに身を潜め、内緒、内緒という風に指を一本、口の前に当てる。 その男たちには見覚えがあった。 以前もやって来たキツネ目と、派手な上着の二人連れ。 二人は辺りをキョロキョロと伺いながら、…
「……呆れた! それで三浦さん、朝からずっとここにいたんですか?」 その日、イツキがハーバルに着いたのは夕方に近い時間だった。 店内の隅にあるお客様用の可愛い椅子には、三浦が、だらしなく座ったまま。 パートの横山は三浦に対し、ブツブツと文句を言いながら、イツキと入れ違いに退社して行った。 「もう、待ちくたびれたよ。イツキてんちょ…」 「じ…
その夜はいつもより暗かった。 普段は付けている壁際の淡い照明も、ベッドの足元のライトも、たまたま消えていた。 もっとも、すでに身体を寄せ合っているのだし、今更、何をどう間違えることもない。 唇を重ね、指先が肌を謎る。目を瞑っていても判る、馴染んだ身体。 「……マサヤ?」 「うん、何だ…」 「……ん。……何でもない…」 最中に、イツキは…
店内は妙な空気感だった。 三浦は開店早々やって来ては、本来はお客様用の椅子に座る。 白を基調とした小ぶりのテーブルセットは、三浦が座るには不似合いで おまけにそこで競馬新聞など広げられては、イメージが台無しといったところ。 レジカウンターの奥ではパートの横山が帳簿を開き 朝から居座る三浦を苦々しく眺め、あからさまな溜息を繰り返す。 それでも、邪…
夜中を過ぎて黒川が部屋に戻ると そこにイツキの姿は無かった。 黒川は意外と忙しい。 人に会ったり、書類に判を捺したり、どうしても本人でなければいけない仕事も幾つかある。 西崎の事務所で面倒な案件を片付けている最中に、イツキから迎えに来て欲しいと連絡があった。 「……阿呆か。……俺を何だと思っているんだ……」 思わず吐いた悪態に、…
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イツキがマンションの部屋に帰って来た時、まだ黒川は仕事から帰っていなかった。 とりあえずイツキは風呂場に向かい、今日一日のアレコレを全て洗い流す。 すでに酒は抜けていたが、微かに頭が痛い。何か、変な飲み方をしたかと 反省しかけたのだが……、止めて、ハーバルの石鹸で顔を洗った。 結局、佐野とは、何も無かったが 帰りの車内で、ずっと、愚痴と…
助手席のイツキは仏頂面で、窓の外ばかり眺めている。 運転手の佐野は不満を抱えながらも少し言い過ぎたか、と、ハンドルを握りながら反省する。 イツキは社長の「女」で 自分は社長の手下なのだから こうやって、迎えに行くのは当たり前の事だ。 …西崎が囲っている店の女の子の送迎も、良くある、別に、何のこともない。 それが、こと、相手がイツキだと……どう…
三浦には ちょっとしたチンピラ風情に付き纏われる心当たりがある。 自分の店を留守がちにするのも、ハーバルに入り浸るのにも、その辺りの事情で 今日の飲み屋の、見掛けない新顔も……自分が関係することなのかと思っていたのだが 「……飲み過ぎだろ。もう、帰るぞ、イツキ」 カウンター席に座りこちらの様子を伺っていた男はイツキの知人なのか。 イツキ…
ふらりと入って来た男はそのまま入り口近くのカウンター席に座る。 イツキは入り口に背を向けて座っていたので、気付いていないようだが 三浦は、なんとなく目に付いて、動きを追ってしまった。 見掛けない顔。 気のせいだろうか、こちらの様子を伺っているようだ。 「……三浦さん?」 「ん?あ、ああ。……ね、イツキてんちょ、店、変えようか?」 何か後ろ暗…
もとより狭い店。テーブルも小さ目。 向かい合い互いに身を乗り出すと、思いのほか顔が近寄ってしまう。 そんな時、普通に知り合いや友達同士なら「近い近い」と笑い 距離を取る、ただそれだけの事なのに ぐっと身を乗り出した三浦は、同じように身を乗り出したイツキと 前髪が触れるほどの近さになり、そのまま イツキの視線に捕まってしまった。 「……関係、な…
「……何か、どこかで…トラブルがあった…とか? ……それもあって、お店にあんまり顔を出さなかった……とか?」 イツキは新しい水割りのグラスに口を付けながら、探るように、上目遣いで三浦を見る。 もっとも、探られる気も、威嚇される気も、全くしない。 少し酔いが回ってきたのか、ほんのりと顔が赤い。 目が潤んで見えるのは、ただの店の照明のせいなのか。 …
「イツキてんちょ、次、どうする? 俺、焼酎のボトルがあるからそっちにするけど…一緒に飲む?」 「じゃ、一緒に。…あ、でも俺、すごく薄く、でお願いします」 「薄くね、了解。梅干し入れるよ? 薄めの水割り、その通り叶えられた話は聞いた事がない。 三浦はテーブルに運ばれたマイボトルと、氷、水のセットを前に 楽しげに微笑みながら、イツキのグラスを…
「……三浦さん、ここ3、4日、見掛けなくて… お店も開けて無かったですよね?…どうしていたんですか?」 二杯目のビールに口をつけたところで、イツキはようやく本題に入る。 三浦は、もうその話?といった様子で少し目を丸くし、その目でイツキを伺い見る。 よく言えば屈託のない、悪びれたところのない表情。 逆にこちらがやましさを抱えているのではないかと、イツキ…
「…ごめんね、こんな居酒屋で。あー、カクテルとかある店の方が良かったかな」 「いえ、大丈夫です」 三浦と訪れたのは駅前商店街の、一本裏手に入った小さな居酒屋だった。 三浦は店主と顔馴染みのようで、よう、と片手を挙げ挨拶をし、ビールを2つ注文する。 「一度ゆっくり、イツキてんちょと話がしたかったんだよね」 「…いつもお店で話しているじゃないですか…
数日後の夕方。 閉店したハーバルに鍵を掛け、帰ろうと歩き出した時 イツキは久しぶりに三浦を見掛けた。 珍しく店を開けていたらしい。 自分の店の前で常連の年寄りと立ち話をし、じゃあな、と見送り、 振り返りざまにイツキと目が合う。 あまり関わらない方が良い、というのは解っているのだが 気にならないといえば嘘になる。 とりあえずぺこりと頭を下げ、お…
「……もう一度、あの辺り一帯を調べろ。 男は素人らしいが…目を付けられる以上、裏があるんだろう。 親戚と交友関係と。ギャンブルで借金があるとか、女関係とか……」 「へえ」 まだ日の高い内から黒川の事務所に呼び出された松田は、黒川の要求に、気の抜けた調子で返事をする。 その様子に黒川は一睨みし、不満げに鼻息を鳴らす。 「だいたい、お前の…
あの男たちが何の用で三浦を探しているのかは知らないが おそらく、あまり良く無い用件なのではないかと思う。 そして、そういった案件に巻き込まれやすいイツキは この先、どう対応していったら良いかと、迷う。 「なんだ、小難しい顔だな。お前に悩み事なんてあるのかよ?」 目の前の黒川はそう言って馬鹿にし、酒を飲む。 「また、新しい男の話か?」 「そう…
狡猾そうなキツネ目の男と、派手な上着の大柄な男。 それはイツキでなくとも、その筋の怖い連中なのだと解る。 パートの横山は一瞬身構え、心配そうにイツキの顔を伺う。 イツキは突然の来客に驚いた様子だったが、横山が思うほど、動揺してはいない。 「ここにさ、三浦って人、来てるでしょ?」 「いえ。来ていませんが…」 「そう?ここに入り浸ってるって聞いたけ…
「……わたし、ちょっと強く言い過ぎちゃったですかねぇ……」 ハーバルに入り浸る三浦に、迷惑だと、パートの横山が言って以来 今日で3日ほど三浦は顔を出して来なかった。 おかげさまで店内は静かで仕事は捗る。 新規で来店した上品なマダムとも落ち着いて話をする事が出来た。 それでも、慣れというのは怖いもので 夕方には、三浦がポットに入れて持ってくるコ…
「イツキてんちょ。今日、車で来てたでしょ?」 昼過ぎ。早々に顔を出した三浦はイツキにそう尋ねる。 確かに今朝は黒川の車で来たのだが、わざわざそう言われるのは良い気がしない。 まるで見張られているようだ。 「ゴミ出しに行くとき見掛けてさ。裏の駐車場。良い車だったよね、黒塗りベンツ?」 「……今日は送って貰ったんです」 「誰?あれ?家の人?…父親…
翌日の朝。 黒川は車を出し、イツキを仕事場まで送ってやった。 寝坊したと大騒ぎするイツキが煩かったせいもあるが まあ、本当にイツキが気にするような「何か」があるのかどうか、少し見てやろうと思ったのだ。 家から仕事場までは高速を使う距離ではないが、やや飛ばして30分ほど。 商店街は短く、奥はもう住宅街。 パチンコ屋もホテルもない、健全な文教地区とい…
「隣の三浦さん。良い人なんだろうけど…なんだか、気になるんだよね……」 「……お前が色目で見ているんじゃないのか?」 「あと、お店の周りも……たまに見掛けない車が停まってて……」 「……どこぞでお前がタラし込んで来たんだろう?」 寝室に移動しベッドに上がり、お互い、服を脱がせながらあちらこちらに唇を寄せる。 時折、黒川はイツキを馬鹿にするような…
「…またイベントがあるかもって言ってた…、正直、これ以上、仕事が増えたら困る。 俺、最近、頑張ってると思わない? なんかもう、ハーバルの社長、事務仕事は全部こっちに移したがってるみたいで… 数字も計算も苦手なのに。パソコンは少し覚えたけど。 ミカちゃん、早く帰って来て欲しい。……予定日はもうすぐ。 でも、すぐに復帰は無理だもんね。……人、増やし…
イツキが部屋に戻ったのはまだ日付が変わる前だったが すでに黒川は帰って来ていて、リビングで細かな作業をしていた。 テーブルには仕事の資料と、新聞。酒とツマミが乱雑に並ぶ。 「ただいま。ん、マサヤ、何飲んでるの?」 「……日本酒だ、新潟の。この間貰った……」 「……やだ!俺も飲みたいって言ってたやつじゃん」 イツキはキッチンから自分のグラスを取…
「……向こうの、商工会の連中が、またイベント開くようだよ」 「ああ、オーガニックフェスタみたいなやつですね。ウチは参加するのかな…」 「するでしょ。地元特産品使って、一つずつ新商品出すって…」 「あ、イツキくん。この前の白菜漬けどうだった?塩っぱくなかった?」 レジのカウンターの内側で、イツキと松田が仕事の話をしている途中に、三浦がどうでもよ…
「…今日、ご飯、行こ?」 「……ここ、18時まで仕事ですよ?」 「あと2時間?待ってるよ」 そう言って松田は笑う。 イツキは、食事が食事だけでは済まない事は解っていたので、あまり乗り気ではなかったが 聞いてみたい話は、ある。 その迷いはどうやら瞳に映るようで 松田も一瞬、押すか下がるか迷ったのだが…イツキの空気感を察し。押す。 「隣に、お茶が…
ハーバルの店舗には、そう、来客は多くない。 新しい化粧品屋なのかと、近所の女性が顔を覗かせたり 普段は通販を利用している客が、実際の商品を見にやって来たり。 もっぱらの仕事は、会社全体の商品の管理だった。 社長は、ゆくゆくは、今の本社を製造のみの拠点にし 実際の営業は都内に移そうかと考えていた。 まあ、そんな訳なので、来客が少なくとも結構忙しいのだ…
イツキが気になっているのは、ごくごく、些細なことだった。 おそらく別の人間からすれば、気付かない様なこと。 ただ、ハーバルの店舗の付近に見慣れない黒塗りの高級車が停まっていたこと。 時折、顔を出す男が、どうやらその筋の男のようなこと。 特別な何かが起こったわけでもないのだが、こればかりはイツキの勘というか習性で さんざん身近に感じて来た、いわゆる、…
黒川が事務所に戻ったのは、予定よりも遅い時間で すでにイツキは部屋に帰ってしまったと、空いた紙袋を片付けながら一ノ宮が言う。 「社長も今日は上がられますか?」 「…あ、いや。……やりかけの仕事を片付けないとだからな」 黒川は、残念そうな、それでもイツキがここに寄った事が嬉しいような、 少し柔らかな表情を浮かべる。 つかず離れず。干渉し過ぎず放置…
『駄目です』 と言った時のことを、一ノ宮はまだ覚えていた。 数年前。 ただの暇潰し、適当な玩具だったイツキが 金を工面して欲しいと黒川に懇願した時。 玩具、にしてはのめり込み過ぎているとは思っていたが ここで数千万単位の金を出し、危ない筋との交渉に自ら乗り込むなど 到底、考えられることでは無かった。 案の定、それ以降、黒川とイツキの…
その日のイツキは仕事の帰りに、黒川の事務所に寄る。 決して、冷蔵庫の中身が空っぽなので食事は外で済ませたい、等と思った訳ではなく。 けれど、事務所には黒川の姿はなく、一ノ宮がいるだけだった。 「社長なら小一時間ほどで戻ると思いますよ」 「んー………どうしようかなぁ…」 「まあ、お茶でも淹れましょう。イツキくんのお仕事の様子も聞きたいですしね」 …
以前の百貨店では規定の制服があったのだが 新しい店舗で働くにあたって、イツキはスーツを新調していた。 別段、何かを指定されたわけでも無いが、まあ、気分的に。 銀座の老舗のテーラーで仕立てて貰う服を纏うと、否応なく気分が上がった。 黒の上下は……昔の仕事を思い出せる服装なのだけど それでも一番、似合う、落ち着くスタイルでもあった。 「ホス…
「…だいたい、何でこっちのベッドで寝ているんだ? お前には巣箱があるだろう? 自立するんじゃなかったのか?」 と、黒川は鼻で笑いながら言う。 「…ん。そうなんだけど。 ちょっとこっちで寝っころがっちゃうと… なんか、マサヤの…匂いって言うか、気配って言うか なんか、そんな感じがして…… 落ち着いちゃうんだよね…」 イツキは、自分でも不思議…
最近のイツキは忙しいらしい。 石鹸屋の店長代理を任されて、張り切っているようだ。 あまり暇を持て余しても、下らない事ばかりしでかすので 適度に忙しい方が気が紛れて良いのだろうが、その加減が難しい。 その立場になってから何度かは、仕事帰りに事務所に立ち寄ったりもしていたが 面倒になってきたのか、それも回数が減って来ていた。 真夜中に黒川が部屋に戻ると …
「おつかれさん」 ハーバルの閉店は少し早くて18時。 窓側のブラインドを下ろし灯りを消し、出入り口に施錠していると イツキの後ろから三浦が声を掛けた。 「おつかれさまです。失礼します」 「店長、白菜漬け食べる?さっきお客さんに貰ったんだけど」 「………いえ、……食べないので……」 イツキは断ったつもりなのだが三浦の手には最初から、重たげなビニ…
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「……うわ、酒臭いっっ、マサヤ…飲み過ぎ……」 真夜中を少し過ぎた頃、黒川が帰宅した。 イツキはすでにベッドに入っていたのだが、物音で目覚める。 どさり、と自分の隣に横たわる黒川は、珍しく酒に酔っているようで 片手でイツキの肩を抱き寄せると、顔を近づけ、酒臭い息を吐く。 「何?どうしたの?……大丈夫?」 「ああ。…くそ、松田のやつ。……調子…
「松田、お前、こっちに居過ぎじゃないのか?自分の仕事はどうした?」 飲みの途中で黒川は仕事の連絡を挟み、思いついたように松田にそう尋ねる。 松田も地元では、そこそこの組の幹部だ。それにしては、随分とのんびりしている様に見える。 「はは。こっちには週に2、3、顔出してるだけだ。ちゃんと、仕事はしているよ」 「……暇人だな…」 「黒川さんが忙し過ぎ…
「……仕事で使うのに、…仕込んでいる最中だ。お前のところだってあるだろう、そんな話。 ただの商売道具だ。それ以上の感情はない。 …まあ、楽しませては貰ってるがな……」 事務所の近くの焼き鳥屋に黒川を連れ出し、日本酒を数杯飲んだところで ようやく、言い訳がましい話を口にする。 松田は、空になった黒川のグラスに酒を注ぎ、自分も飲み 次は熱燗にしようと、…
「……何?今の子?」 「……。まあ、ちょっと、な」 松田はなんとなくそのまま事務所の中に入り込む。 事務所の中をぐるりと見渡し とりあえず、今、ここで情事が行われていたかどうかだけ確認し ソファの上が妙に濡れていないと解ると、そこに腰を下ろした。 黒川も無下に追い返すのは格好が付かなかったのか、ふん、と鼻息を鳴らし デスクの椅子に座ると書…
『イツキちゃん、気にしてたぜ? 赤ん坊、見に行きたいけど、自分は駄目だって。 まあ、気持ちは解らなくもないけどな。 世界に生まれたての、まっさらサラサラ。綺麗で純粋なところに 肉欲まみれのドロドロで穢らわしいモンを近づけちゃ駄目だってな。 相談された?黒川さん。されないか、そうだよな。 イツキちゃんを、そんなドロドロにした張本人だもんなぁ。 …
ハーバルの事務所に松田が来ていた。 あれこれ、仕事に関係がありそうな話をするのだが 単純に、イツキと話がしたいだけだった。 それでも、ミカが無事に出産を終えた事を伝えると 意外に素直に喜び、穏やかで優しい空気になる。 子供が産まれるというのは、そういう事なのだろうと、イツキは思った。 「会いに行くの? 病院…は、さすがにアレかな。でも、落…
その日 黒川が珍しく早い時間に部屋に戻ると イツキはキッチンで、鼻歌混じりに鍋を掻き混ぜていた。 テーブルには他にもデリカの惣菜やサラダ、良いワインなどが並ぶ。 「ミカちゃん、産まれたって。女の子。 すごいよね、俺、知ってる人が子供産むなんて、初めてで… ちょっと感動した」 「ミカ?……ああ、石鹸屋の女か。…ふぅん」 黒川にすれば別に…
黒川に抱かれながらイツキは こんなにも黒川の挙動が気になるのはなぜなのだろうと考えていた。 好きだの嫌いだの。もう、そんな感覚はどうでも良くて。 仕事で、黒川が他人を抱くのも、まあ仕方がないのだと割り切ってはいる。 …自分だって、他で身体を開いているのだ。今更、セックスの有無は問題ではない。 とりあえず今は、一緒にいたいと思って一緒にいる。それ…
以前から黒川の周りには、商売上の付き合いのある女性や男性の姿がチラついていた。 こういった稼業なのだから、ある程度は仕方が無いだろう。 イツキのような「商売道具」にするといって訳アリの子供を引き入れ その教育という名目で、何かをしていることも解っている。 そんな相手をイチイチ気にして、腹を立てたところで仕方がない。 嫉妬と言われても、癪なだけだ。自…
「……イツキくん?」 急にイツキに抱きつかれたミツオはきょとんとする。 別れが惜しくて、という訳でも無さそうだが…とりあえず、イツキの肩に腕を回す。 「……どうしたの?………、もっと話し、聞く?」 「いや、……あの。…違います」 2、3分間を置いて、イツキはミツオから身体を離す。 ゆっくりと通りの方を振り返り、先ほど見掛けた人影が、もう無いこと…
食事も済み、ボトルのワインも飲み干し、イツキとミツオは店を出る。 少し酔っているのか躓きそうになるイツキの、腕を、ミツオが支える。 「…こういうさ、2階のお店って、酒飲むと階段が怖いよね」 「…俺、そんなに酔っ払って無いですよ…」 「……そ?」 言いながら、絡めた腕でそのまま壁に押し当てて、唇を重ねる流れが実にスマートで 何の不自然もないような気…
その夜のイツキは、ミツオに合っていた。 ミツオの勤めている美容院に予約を入れた流れで、食事に誘われたのだ。 ハーバルで働くようになったのも、元々は、ミツオのお陰という事もあり 今でも、たまに連絡を取り、近況を報告するような距離感だった。 「……ちょっと短く切り過ぎちゃったかな?」 「いえ。俺、ちょっとちゃんとしなくちゃって思ってたトコなの…
黒川は、イツキに隠れて何か悪いことをしている意識は、まるでなかった。 あくまでこれは「仕事」なのだ。 黒川の元には度々、負債を抱えた…あるいは負債を抱えた者の身内が そのツケを身体で返すためにやって来る。 それらは商品のように、適所に回されて行く。 店を斡旋したり、直接、人に渡したりするのだが、当然 その前に、その状態を確認する必要がある…
「…特に何って訳じゃないんだけど、なんか…変なんだよね」 「ふふふ。イツキくん。…女の勘?」 「女……じゃ、ないよ……」 夕方。 ハーバルに顔を出した松田に、イツキはひとしきり黒川の愚痴。 松田の軽口に口を尖らせ、そっぽを向き、手だけは動かし石鹸の箱詰めなどをする。 「まあ、あんな稼業の人だし、…何かしらやましいことはあるんだろうけど。 ……
「…おかえりなさい。…割と早いね。仕事、忙しかったんじゃないの?」 夕食を終えたイツキがリビングの…コタツで寛いでいる時に、黒川が帰って来た。 イツキは声だけ掛け、それでもそれだけで、飲み掛けのビールを飲み、面白くもないテレビに視線を向ける。 黒川はネクタイを緩めながら適当に「ああ」と返事をして キッチンのカウンターに置かれていた、何かの紙袋を…
「イツキ。今日はウチの事務所には近付くな。…少し、立て込んでいる。 …ヤバい奴らの出入りも多い。……夕方には来るなよ」 ある朝。 黒川はわざわざイツキに念を押して、出掛けて行った。 イツキは「はぁい」と気の抜けた返事をしたものの、 よくよく考えると、何か、おかしいような気がするのだった。 日中。ハーバルで仕事をしていても、黒川の言葉が気…
「……なんだ、これは……」 ある夜。 部屋に帰って来た黒川はリビングの様子を見て声を上げる。 中央に置いてあったソファは窓際に追いやられ 代わりに、コタツが置かれ、その上にはカセットコンロと鍋が置かれていた。 キッチンの内側からイツキが声を掛ける。 「おかえり、マサヤ。ちょうど良かった」 「…何だ、これは…」 「モツ鍋」 「…そう言う事…
真夜中に帰って来た黒川はキッチンで水を一杯飲み ジャケットを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、寝室へ向かう。 ベッドの真ん中にイツキが眠っていたので 少し体を押し、空いた場所に潜り込む。 その動きでイツキは目を覚ましたのか、んん、と声を上げ薄く目を開く。 「……マサヤ…。おかえりなさい」 「…ああ」 「…………マサヤ」 まだ寝ぼけているようで、イツキは黒…
「……イツキちゃん、二条虎松とヤったの?……それを黒川さんに話したの?」 「…うん」 数日後。 ハーバルの店舗に顔を出した松田は、そのまま閉店まで付き合い 帰りがけに軽く、食事へと誘う。 イツキも、軽くなら良いですよと近くの店に入るのだが、まあ、軽くで済むはずもない。 何杯か飲み、近状を報告し、その話しになる。 「…黒川、…怒ったでしょ?…
「……はぁ?」 「…だから、大したこと無かったって。二条虎松。 俺、あの時、なんか感じが違って……、何かなって思って、確かめてみたんだけど… ……気のせいだったみたい。2回目は普通だった」 イツキがそんな事をポロリと告げたのは、夕食にと入った焼き鳥屋で すでにビールを数杯飲み、次は日本酒にすると、コップに並々注がれた酒を飲み干し 空いたグラスを傾…
「……向こうの、商工会の連中が、またイベント開くようだよ」 「ああ、オーガニックフェスタみたいなやつですね。ウチは参加するのかな…」 「するでしょ。地元特産品使って、一つずつ新商品出すって…」 「あ、イツキくん。この前の白菜漬けどうだった?塩っぱくなかった?」 レジのカウンターの内側で、イツキと松田が仕事の話をしている途中に、三浦がどうでもよ…
「…今日、ご飯、行こ?」 「……ここ、18時まで仕事ですよ?」 「あと2時間?待ってるよ」 そう言って松田は笑う。 イツキは、食事が食事だけでは済まない事は解っていたので、あまり乗り気ではなかったが 聞いてみたい話は、ある。 その迷いはどうやら瞳に映るようで 松田も一瞬、押すか下がるか迷ったのだが…イツキの空気感を察し。押す。 「隣に、お茶が…
ハーバルの店舗には、そう、来客は多くない。 新しい化粧品屋なのかと、近所の女性が顔を覗かせたり 普段は通販を利用している客が、実際の商品を見にやって来たり。 もっぱらの仕事は、会社全体の商品の管理だった。 社長は、ゆくゆくは、今の本社を製造のみの拠点にし 実際の営業は都内に移そうかと考えていた。 まあ、そんな訳なので、来客が少なくとも結構忙しいのだ…
イツキが気になっているのは、ごくごく、些細なことだった。 おそらく別の人間からすれば、気付かない様なこと。 ただ、ハーバルの店舗の付近に見慣れない黒塗りの高級車が停まっていたこと。 時折、顔を出す男が、どうやらその筋の男のようなこと。 特別な何かが起こったわけでもないのだが、こればかりはイツキの勘というか習性で さんざん身近に感じて来た、いわゆる、…
黒川が事務所に戻ったのは、予定よりも遅い時間で すでにイツキは部屋に帰ってしまったと、空いた紙袋を片付けながら一ノ宮が言う。 「社長も今日は上がられますか?」 「…あ、いや。……やりかけの仕事を片付けないとだからな」 黒川は、残念そうな、それでもイツキがここに寄った事が嬉しいような、 少し柔らかな表情を浮かべる。 つかず離れず。干渉し過ぎず放置…
『駄目です』 と言った時のことを、一ノ宮はまだ覚えていた。 数年前。 ただの暇潰し、適当な玩具だったイツキが 金を工面して欲しいと黒川に懇願した時。 玩具、にしてはのめり込み過ぎているとは思っていたが ここで数千万単位の金を出し、危ない筋との交渉に自ら乗り込むなど 到底、考えられることでは無かった。 案の定、それ以降、黒川とイツキの…
その日のイツキは仕事の帰りに、黒川の事務所に寄る。 決して、冷蔵庫の中身が空っぽなので食事は外で済ませたい、等と思った訳ではなく。 けれど、事務所には黒川の姿はなく、一ノ宮がいるだけだった。 「社長なら小一時間ほどで戻ると思いますよ」 「んー………どうしようかなぁ…」 「まあ、お茶でも淹れましょう。イツキくんのお仕事の様子も聞きたいですしね」 …
以前の百貨店では規定の制服があったのだが 新しい店舗で働くにあたって、イツキはスーツを新調していた。 別段、何かを指定されたわけでも無いが、まあ、気分的に。 銀座の老舗のテーラーで仕立てて貰う服を纏うと、否応なく気分が上がった。 黒の上下は……昔の仕事を思い出せる服装なのだけど それでも一番、似合う、落ち着くスタイルでもあった。 「ホス…
「…だいたい、何でこっちのベッドで寝ているんだ? お前には巣箱があるだろう? 自立するんじゃなかったのか?」 と、黒川は鼻で笑いながら言う。 「…ん。そうなんだけど。 ちょっとこっちで寝っころがっちゃうと… なんか、マサヤの…匂いって言うか、気配って言うか なんか、そんな感じがして…… 落ち着いちゃうんだよね…」 イツキは、自分でも不思議…
最近のイツキは忙しいらしい。 石鹸屋の店長代理を任されて、張り切っているようだ。 あまり暇を持て余しても、下らない事ばかりしでかすので 適度に忙しい方が気が紛れて良いのだろうが、その加減が難しい。 その立場になってから何度かは、仕事帰りに事務所に立ち寄ったりもしていたが 面倒になってきたのか、それも回数が減って来ていた。 真夜中に黒川が部屋に戻ると …
「おつかれさん」 ハーバルの閉店は少し早くて18時。 窓側のブラインドを下ろし灯りを消し、出入り口に施錠していると イツキの後ろから三浦が声を掛けた。 「おつかれさまです。失礼します」 「店長、白菜漬け食べる?さっきお客さんに貰ったんだけど」 「………いえ、……食べないので……」 イツキは断ったつもりなのだが三浦の手には最初から、重たげなビニ…
「…もう、あの人、何しにここに来るんでしょうね。仕事の邪魔ですよね」 三浦が自分の店に戻り、イツキとパートの横山は顔を見合わせため息をつく。 実際、三浦のお喋りに仕事の手が止まり迷惑することもあるのだが、どうにも憎めないのだ。 「まあね。…まあ、悪い人じゃ無いみたいだけどね」 この場所で店舗を構えてすぐの事。 その頃のミカはまだ自分…
ハーバルが入っている建物は6階建の古いマンションで、 イツキはいずれ、そこに部屋を借りたいな、などと思っている。 「でも意外と家賃、高いんだよ、ここ。こんなボロなのにさ」 と、店先に居座り長話をするのは、ハーバルの隣りでカフェを開けている 三浦という男だった。 歳は30歳半ば。おっとりとしたお喋り好き。勿論、ノーマル。 親の遺産で店を継いだがそんな…
黒川の前では、頑張る、と啖呵を切ったイツキだったが そんな実力が無いことは自分が一番解っていた。 多少、昼の仕事を覚え、どうにか普通の人の振りをして生きてはいても 自分が異質であることは、重々、理解している。 『俺に出来ると思います?……おれ、…こんなん…なのに……』 ベッドの上で股を広げて男の愛撫を受けながら、イツキはそんな相談事を…
イツキがハーバルの仕事を増やしたい、新しい店舗の店長代理になりそうだと そんな話をした時、当然、黒川は嫌な顔をした。 そもそも昼間の、カタギの仕事に就くような人種ではない。 週に数日、数時間ならば、まあ良い暇つぶしにもなるだろうと放置してきたが そんな朝から晩まで仕事漬けの、そんな普通の生活などイツキに出来るはずが無い。 無用なトラブルを招くだけ…
「……カレ、真面目でねー。何度かご飯は行ったんだけど、なかなか先に進まなくて… そうなったら、後はお酒よね! で、酔っ払って、良い感じにはなるんだけど… それでも、『ちゃんと責任を取れるようで無ければ、そういった事は…』とか言うから 逆に、そういった事しちゃえば、責任取ってくれるんですね、って……ほぼほぼ、あたしが押し倒したわよ! でも、まさかそ…
「おはようございます、岡部店長」 「おはよ、横山さん。……ええと、やっぱり岡部店長は止めようよ」 「ええ?じゃあ、岡部店長代理ですか?長過ぎますよ」 店には数時間だけだがパート従業員が入っていた。 当然、イツキの事は『店長』と呼ぶが、未だにそれはどうしても慣れなかった。 横山という中年女性は近隣に住む主婦で、仕事の手際も良く まだ数ヶ月の付き合…
この半年で変わったことは、いくつか、ある。 まず、イツキの職場が変わった。 都内の一等地に進出していたハーバルだったが、もともとは地方の道の駅などに手作り化粧品などを卸していた店。 やはり、客層が違うだろうと戦略を変えたそうで… 商業施設が立ち並ぶ地区から少し離れた、落ち着いた趣きのある住宅街に丁度良い物件を見つけると するりと、2号店を開店してし…
黒川は一人ベッドで目が覚める。 カーテンの隙間から陽が差し、眩しさに顔を顰める。 となりの毛布はまだどこか温かい。キッチンからは物音が聞こえる。 ……イツキがまた頼みもしない、下手くそな朝食を作っているのだろうと、黒川はほくそ笑む。 「……マサヤ、起きて…」 少しして、軽いノックの後、イツキが寝室に入ってくる。 黒川はまどろみながら、しば…
とある日の真夜中。 仕事を終え部屋に戻った黒川は、キッチンで水を一杯飲む。 シンク台の上にはラップが掛かった小皿。 …小さなおにぎりと、卵焼きが入っていた。 腹は減っていなかったが、卵焼きだけ摘む。 以前より甘過ぎず、焦げ目も無かったが、塩気も無い。 黒川は鼻で笑い、指先をぺろりと舐め、もう一度水を飲んだ。 寝室に入る。 少し前に、お互いのプラ…