「…お前の『仕事』の後、よくメシ、食いに行ったよなぁ…」 「…行ったね」 「何年前だ?」 「……5年、くらい?……昔話だねぇ…」 イツキは佐野と目を合わせると、くすくすと笑う。 それはごく最近のことのようで、それでもやはり、昔の話で。 けれど忘れてしまうには、あまりに深く生々しい思い出だった。 「…佐野っち、…俺の面倒、良く見てくれたよね。…後…
「……もう一度、あの辺り一帯を調べろ。 男は素人らしいが…目を付けられる以上、裏があるんだろう。 親戚と交友関係と。ギャンブルで借金があるとか、女関係とか……」 「へえ」 まだ日の高い内から黒川の事務所に呼び出された松田は、黒川の要求に、気の抜けた調子で返事をする。 その様子に黒川は一睨みし、不満げに鼻息を鳴らす。 「だいたい、お前の…
あの男たちが何の用で三浦を探しているのかは知らないが おそらく、あまり良く無い用件なのではないかと思う。 そして、そういった案件に巻き込まれやすいイツキは この先、どう対応していったら良いかと、迷う。 「なんだ、小難しい顔だな。お前に悩み事なんてあるのかよ?」 目の前の黒川はそう言って馬鹿にし、酒を飲む。 「また、新しい男の話か?」 「そう…
狡猾そうなキツネ目の男と、派手な上着の大柄な男。 それはイツキでなくとも、その筋の怖い連中なのだと解る。 パートの横山は一瞬身構え、心配そうにイツキの顔を伺う。 イツキは突然の来客に驚いた様子だったが、横山が思うほど、動揺してはいない。 「ここにさ、三浦って人、来てるでしょ?」 「いえ。来ていませんが…」 「そう?ここに入り浸ってるって聞いたけ…
「……わたし、ちょっと強く言い過ぎちゃったですかねぇ……」 ハーバルに入り浸る三浦に、迷惑だと、パートの横山が言って以来 今日で3日ほど三浦は顔を出して来なかった。 おかげさまで店内は静かで仕事は捗る。 新規で来店した上品なマダムとも落ち着いて話をする事が出来た。 それでも、慣れというのは怖いもので 夕方には、三浦がポットに入れて持ってくるコ…
「イツキてんちょ。今日、車で来てたでしょ?」 昼過ぎ。早々に顔を出した三浦はイツキにそう尋ねる。 確かに今朝は黒川の車で来たのだが、わざわざそう言われるのは良い気がしない。 まるで見張られているようだ。 「ゴミ出しに行くとき見掛けてさ。裏の駐車場。良い車だったよね、黒塗りベンツ?」 「……今日は送って貰ったんです」 「誰?あれ?家の人?…父親…
翌日の朝。 黒川は車を出し、イツキを仕事場まで送ってやった。 寝坊したと大騒ぎするイツキが煩かったせいもあるが まあ、本当にイツキが気にするような「何か」があるのかどうか、少し見てやろうと思ったのだ。 家から仕事場までは高速を使う距離ではないが、やや飛ばして30分ほど。 商店街は短く、奥はもう住宅街。 パチンコ屋もホテルもない、健全な文教地区とい…
「隣の三浦さん。良い人なんだろうけど…なんだか、気になるんだよね……」 「……お前が色目で見ているんじゃないのか?」 「あと、お店の周りも……たまに見掛けない車が停まってて……」 「……どこぞでお前がタラし込んで来たんだろう?」 寝室に移動しベッドに上がり、お互い、服を脱がせながらあちらこちらに唇を寄せる。 時折、黒川はイツキを馬鹿にするような…
「…またイベントがあるかもって言ってた…、正直、これ以上、仕事が増えたら困る。 俺、最近、頑張ってると思わない? なんかもう、ハーバルの社長、事務仕事は全部こっちに移したがってるみたいで… 数字も計算も苦手なのに。パソコンは少し覚えたけど。 ミカちゃん、早く帰って来て欲しい。……予定日はもうすぐ。 でも、すぐに復帰は無理だもんね。……人、増やし…
イツキが部屋に戻ったのはまだ日付が変わる前だったが すでに黒川は帰って来ていて、リビングで細かな作業をしていた。 テーブルには仕事の資料と、新聞。酒とツマミが乱雑に並ぶ。 「ただいま。ん、マサヤ、何飲んでるの?」 「……日本酒だ、新潟の。この間貰った……」 「……やだ!俺も飲みたいって言ってたやつじゃん」 イツキはキッチンから自分のグラスを取…
「……向こうの、商工会の連中が、またイベント開くようだよ」 「ああ、オーガニックフェスタみたいなやつですね。ウチは参加するのかな…」 「するでしょ。地元特産品使って、一つずつ新商品出すって…」 「あ、イツキくん。この前の白菜漬けどうだった?塩っぱくなかった?」 レジのカウンターの内側で、イツキと松田が仕事の話をしている途中に、三浦がどうでもよ…
「…今日、ご飯、行こ?」 「……ここ、18時まで仕事ですよ?」 「あと2時間?待ってるよ」 そう言って松田は笑う。 イツキは、食事が食事だけでは済まない事は解っていたので、あまり乗り気ではなかったが 聞いてみたい話は、ある。 その迷いはどうやら瞳に映るようで 松田も一瞬、押すか下がるか迷ったのだが…イツキの空気感を察し。押す。 「隣に、お茶が…
ハーバルの店舗には、そう、来客は多くない。 新しい化粧品屋なのかと、近所の女性が顔を覗かせたり 普段は通販を利用している客が、実際の商品を見にやって来たり。 もっぱらの仕事は、会社全体の商品の管理だった。 社長は、ゆくゆくは、今の本社を製造のみの拠点にし 実際の営業は都内に移そうかと考えていた。 まあ、そんな訳なので、来客が少なくとも結構忙しいのだ…
イツキが気になっているのは、ごくごく、些細なことだった。 おそらく別の人間からすれば、気付かない様なこと。 ただ、ハーバルの店舗の付近に見慣れない黒塗りの高級車が停まっていたこと。 時折、顔を出す男が、どうやらその筋の男のようなこと。 特別な何かが起こったわけでもないのだが、こればかりはイツキの勘というか習性で さんざん身近に感じて来た、いわゆる、…
黒川が事務所に戻ったのは、予定よりも遅い時間で すでにイツキは部屋に帰ってしまったと、空いた紙袋を片付けながら一ノ宮が言う。 「社長も今日は上がられますか?」 「…あ、いや。……やりかけの仕事を片付けないとだからな」 黒川は、残念そうな、それでもイツキがここに寄った事が嬉しいような、 少し柔らかな表情を浮かべる。 つかず離れず。干渉し過ぎず放置…
『駄目です』 と言った時のことを、一ノ宮はまだ覚えていた。 数年前。 ただの暇潰し、適当な玩具だったイツキが 金を工面して欲しいと黒川に懇願した時。 玩具、にしてはのめり込み過ぎているとは思っていたが ここで数千万単位の金を出し、危ない筋との交渉に自ら乗り込むなど 到底、考えられることでは無かった。 案の定、それ以降、黒川とイツキの…
その日のイツキは仕事の帰りに、黒川の事務所に寄る。 決して、冷蔵庫の中身が空っぽなので食事は外で済ませたい、等と思った訳ではなく。 けれど、事務所には黒川の姿はなく、一ノ宮がいるだけだった。 「社長なら小一時間ほどで戻ると思いますよ」 「んー………どうしようかなぁ…」 「まあ、お茶でも淹れましょう。イツキくんのお仕事の様子も聞きたいですしね」 …
以前の百貨店では規定の制服があったのだが 新しい店舗で働くにあたって、イツキはスーツを新調していた。 別段、何かを指定されたわけでも無いが、まあ、気分的に。 銀座の老舗のテーラーで仕立てて貰う服を纏うと、否応なく気分が上がった。 黒の上下は……昔の仕事を思い出せる服装なのだけど それでも一番、似合う、落ち着くスタイルでもあった。 「ホス…
「…だいたい、何でこっちのベッドで寝ているんだ? お前には巣箱があるだろう? 自立するんじゃなかったのか?」 と、黒川は鼻で笑いながら言う。 「…ん。そうなんだけど。 ちょっとこっちで寝っころがっちゃうと… なんか、マサヤの…匂いって言うか、気配って言うか なんか、そんな感じがして…… 落ち着いちゃうんだよね…」 イツキは、自分でも不思議…
最近のイツキは忙しいらしい。 石鹸屋の店長代理を任されて、張り切っているようだ。 あまり暇を持て余しても、下らない事ばかりしでかすので 適度に忙しい方が気が紛れて良いのだろうが、その加減が難しい。 その立場になってから何度かは、仕事帰りに事務所に立ち寄ったりもしていたが 面倒になってきたのか、それも回数が減って来ていた。 真夜中に黒川が部屋に戻ると …
「おつかれさん」 ハーバルの閉店は少し早くて18時。 窓側のブラインドを下ろし灯りを消し、出入り口に施錠していると イツキの後ろから三浦が声を掛けた。 「おつかれさまです。失礼します」 「店長、白菜漬け食べる?さっきお客さんに貰ったんだけど」 「………いえ、……食べないので……」 イツキは断ったつもりなのだが三浦の手には最初から、重たげなビニ…
「…もう、あの人、何しにここに来るんでしょうね。仕事の邪魔ですよね」 三浦が自分の店に戻り、イツキとパートの横山は顔を見合わせため息をつく。 実際、三浦のお喋りに仕事の手が止まり迷惑することもあるのだが、どうにも憎めないのだ。 「まあね。…まあ、悪い人じゃ無いみたいだけどね」 この場所で店舗を構えてすぐの事。 その頃のミカはまだ自分…
ハーバルが入っている建物は6階建の古いマンションで、 イツキはいずれ、そこに部屋を借りたいな、などと思っている。 「でも意外と家賃、高いんだよ、ここ。こんなボロなのにさ」 と、店先に居座り長話をするのは、ハーバルの隣りでカフェを開けている 三浦という男だった。 歳は30歳半ば。おっとりとしたお喋り好き。勿論、ノーマル。 親の遺産で店を継いだがそんな…
黒川の前では、頑張る、と啖呵を切ったイツキだったが そんな実力が無いことは自分が一番解っていた。 多少、昼の仕事を覚え、どうにか普通の人の振りをして生きてはいても 自分が異質であることは、重々、理解している。 『俺に出来ると思います?……おれ、…こんなん…なのに……』 ベッドの上で股を広げて男の愛撫を受けながら、イツキはそんな相談事を…
イツキがハーバルの仕事を増やしたい、新しい店舗の店長代理になりそうだと そんな話をした時、当然、黒川は嫌な顔をした。 そもそも昼間の、カタギの仕事に就くような人種ではない。 週に数日、数時間ならば、まあ良い暇つぶしにもなるだろうと放置してきたが そんな朝から晩まで仕事漬けの、そんな普通の生活などイツキに出来るはずが無い。 無用なトラブルを招くだけ…
「……カレ、真面目でねー。何度かご飯は行ったんだけど、なかなか先に進まなくて… そうなったら、後はお酒よね! で、酔っ払って、良い感じにはなるんだけど… それでも、『ちゃんと責任を取れるようで無ければ、そういった事は…』とか言うから 逆に、そういった事しちゃえば、責任取ってくれるんですね、って……ほぼほぼ、あたしが押し倒したわよ! でも、まさかそ…
「おはようございます、岡部店長」 「おはよ、横山さん。……ええと、やっぱり岡部店長は止めようよ」 「ええ?じゃあ、岡部店長代理ですか?長過ぎますよ」 店には数時間だけだがパート従業員が入っていた。 当然、イツキの事は『店長』と呼ぶが、未だにそれはどうしても慣れなかった。 横山という中年女性は近隣に住む主婦で、仕事の手際も良く まだ数ヶ月の付き合…
この半年で変わったことは、いくつか、ある。 まず、イツキの職場が変わった。 都内の一等地に進出していたハーバルだったが、もともとは地方の道の駅などに手作り化粧品などを卸していた店。 やはり、客層が違うだろうと戦略を変えたそうで… 商業施設が立ち並ぶ地区から少し離れた、落ち着いた趣きのある住宅街に丁度良い物件を見つけると するりと、2号店を開店してし…
黒川は一人ベッドで目が覚める。 カーテンの隙間から陽が差し、眩しさに顔を顰める。 となりの毛布はまだどこか温かい。キッチンからは物音が聞こえる。 ……イツキがまた頼みもしない、下手くそな朝食を作っているのだろうと、黒川はほくそ笑む。 「……マサヤ、起きて…」 少しして、軽いノックの後、イツキが寝室に入ってくる。 黒川はまどろみながら、しば…
とある日の真夜中。 仕事を終え部屋に戻った黒川は、キッチンで水を一杯飲む。 シンク台の上にはラップが掛かった小皿。 …小さなおにぎりと、卵焼きが入っていた。 腹は減っていなかったが、卵焼きだけ摘む。 以前より甘過ぎず、焦げ目も無かったが、塩気も無い。 黒川は鼻で笑い、指先をぺろりと舐め、もう一度水を飲んだ。 寝室に入る。 少し前に、お互いのプラ…
佐野は 事務所で暫く後輩に絡んだ後、残った仕事をやり掛けたのだが 酔いの回った頭では何をすることも出来ずに、潔く諦める。 後輩の車に送らせて、ひとり、自分の住処へと帰って行った。 「…………くそ」 どうにも悪い酔い方をしたようだ。足元に来ている。 頭が痛むが、奥の方は冴え、胃が痛いのか空腹なのか区別が付かない。 ふらふらと壁にぶつかりながら…
「まだ終わらないの?」 佐野との食事を終えたイツキはマンションには帰らず また、黒川の事務所に戻って来る。 事務所では黒川がまだパソコンに向かっていた。 「…問題が見つかってな。…クソ、こんな日に限って一ノ宮はいないし…」 「俺、何かすること、ある?」 「無い。……佐野と遊んで来ても良かったんだぞ?」 イツキは退屈そうに事務所の中をうろつ…
「…あれ、佐野さん。メシ行ってたんじゃないんですか?」 「……ああ」 イツキとの食事が終わると特に何事も起こらず、佐野は、自分の事務所に戻って来ていた。 少し、仕事が残っていたこともあるが何となく…モヤモヤとした気持ちを持て余していたからだ。 事務所には最近入った後輩が電話番をしていた。 後輩は、佐野が女と食事に行ったのだと思い込んでいたが、それ…
焼肉の最後にイツキは大好きなバニラアイスを食べながら 少々、難しい顔をする。 「……俺のも、食うか? イツキ」 量が少なくて拗ねているのかと、佐野が声を掛けるが もちろん、そんな理由ではない。 イツキは違う違う、という風に首を横に振り つい先程のとろける笑みとは代わり、昔の、どこか不安気な表情を浮かべる。 「……ちょっと、不思議に思う時があ…
「…もう一回、骨つきカルビ。レバー。あと生中を二つ…」 「ああ、あと。ホルモン。タレは味噌で……、良かったか?イツキ」 イツキはジョッキを傾け残ったビールを飲みながら、佐野に「うん」と目で返事をする。 ビールも昔は、コソコソと隠れるように飲んでいたくせに、と妙に感慨深くなる。 佐野がイツキと出会ってから、もう5年…6年は過ぎようとしている。 ヤられ…
「カルビ。…骨つきのも。豚トロ。あと生中を二つ…」 網に乗っているタン塩をひっくり返しながら、イツキは店員に追加の注文を頼む。 向かいに座る、佐野は、ジョッキに口を付けながら、何か変わったイツキの 何かを探る。 結局。 黒川の仕事は終わらなかったらしい。 腹を空かせ、黒川の上がりを待っていたイツキの圧に耐えかねたのか 『佐野と行って来い…
佐野が西崎の遣いで黒川の事務所を訪れると そこにはデスクワーク中の黒川と、ソファでくつろぐイツキがいた。 佐野は黒川に書類を手渡し、ぺこりと頭を下げ、脇のイツキを見る。 イツキは久しぶりに会う佐野に笑顔を浮かべる。 「お疲れさま。佐野っち」 「お、おお。…元気そうだな、イツキ」 「まあね」 柔らかく微笑むイツキは可愛かった。 何か、印象が変わっ…
「………最近、お前は生意気だぞ。…俺を試すようなことばかり言いやがって… 自分の立場を考えろ。 お前は、単に俺の…手駒だっただけだろう?……ただの商品だ。 客を取らせて、借金を回収するだけだ。 ……そりゃあ少しは…情も湧くが…、それに見合うだけの施しはしてやってるだろう? これ以上生意気が過ぎるようなら、俺も考えるぞ?」 と、黒川がイツ…
「……来週、業者が入る。 寝室に棚を作って、クローゼットの荷物を全部、そこに移す。 エアコンは付けられんが、通風口を開ける、 マットレスはあのままで大丈夫か? もう一つ良いのに替えてもいいんだが……」 朝、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた黒川が話しかけてきた。 イツキはキッチンで皿を洗いながら、一体どうした事なのかと、黒川を見返す。 …
「…いや、もう地元に戻るんだけどね。その前にイツキくんに会いたくてね」 ハーバルの売り場に松田が現れた時には、一体何事かと思ったのだが まあ、確かに、こちらの仕事でも関係がある人だったと思いだす。 松田はきちんとミカにも挨拶をし、手土産の良いチョコなどを渡し 閉店時間を待って、イツキを飲みに誘った。 「だって黒川さんに、イツキくんに会いたい…
イツキは馬鹿で誤作動ばかり。 それは解っているとしても、駄目なものは駄目で。 先日は話しを聞いている内に有耶無耶になってしまったが きちんと叱らないといけないと、黒川は思っていた。 「…おつかれさまぁ。遅くなってごめんなさい。 やだ、マサヤ、もう飲んでる?しかも日本酒?いいなぁ!」 待ち合わせの寿司屋に遅れてやって来たイツキはカ…
少し前のことを思い出した。 イツキを「仕事」にやっていた頃だ。 自分で言うのもなんだが、まああの頃は酷かった。 一晩で何人もの相手をさせることもあったし、その内容も…… ……痛みを与えて喜ぶような輩もいれば、 イツキの声が枯れるまで泣き叫ばせる様な奴もいる。 終わる頃には意識も朦朧。酒も入り、上も下も汚い状態だったが ……身体の欲はなかなか収まら…
「イツキくん、こことか、ど? 駅から徒歩25分の築30年だけどギリギリ予算内。 近くにコンビニもあるんだって。それ、重要だよねぇ」 仕事の合間にミカが不動産のチラシを広げる。 少し前から、イツキが今の部屋を出たいと知り、あれこれ気にしていたようだ。 本当は自分ももう少し、良い条件の物件があればと探している。 話の流れで言った、イツキと一緒に暮らす、…
明け方にイツキは目を覚ます。 隣には黒川が眠っている。 お互い、裸だ。事が終わり、そのまま寝入ってしまったのだ。 所々濡れているシーツを避け、イツキは少し身体をずらす。 掛け布団を大きく引き、自分と黒川を頭からすっぽりと覆い被す。 素肌の温もりが心地良い。 雪山で遭難したら、こんな気分だろうかと、イツキは思い 雪山なんて行ったことが無いけれど…
「……良い手って、……どんなの?」 「…そのうち考える。とにかく……」 黒川の腕の中でイツキは顔の向きを変え、二人はようやく間近に見つめ合う。 一度、唇を合わせ、少し離れてから、再び唇を合わせる。 「とにかく、俺の傍にいろ」 イツキを不安がらせない「良い手」とは何か、そんなものは知らない。 ああ、松田が何か言っていたかなと…と黒川は思…
「…気持ち悪くは…ないだろう、別に」 「気持ち悪いよ。女じゃあるまいし。マサヤだって、俺にアレコレ詮索されたく無いでしょ? 昨日は誰とシて来たの?とか、いちいち、聞かれたい?」 「………いや」 イツキの話を聞き、その言い分はもっともだと黒川も同意する。 …だからと言って、引っ越しをすれば解決する問題だとも思えないが 「…………ハァ」 …
イツキの髪の毛を指先に絡めたまま、黒川の手が止まる。 自分を好きだと言うイツキの顔を見てやろうと思ったが、イツキは顔を上げない。 「……好きなら、なんで別れるんだよ」 「……だから、解ってないって言うんだよ、……マサヤは」 そう言って、お互い少し黙りこくる。 もっとも、触っていた髪の毛を掴んで引き倒し、 『…ふざけた事を言うな』と激昂しない…
黒川はボトルの酒をグラスに注ぐ。 …飲み過ぎだろうと…、足を軽く小突いたのは、イツキの方だった。 「……なんで俺がココを出たいのか、とか……気にならないの?」 「知るかよ。……ああ、外に居た方が自由に遊べるもんなぁ…」 いつもの軽口に、また、イツキは黒川を蹴飛ばす。 黒川は鼻で笑いグラスを傾ける。 いくらアルコールを喉に流しても、渇きは癒…
「………道端で客取って、ヤクザの事務所に連れて行かれて… 名乗る代わりにヤらせて済ませる……なんて、ヤバい奴だよなぁ……」 黒川は男から聞いた話をざっとイツキに話す。 隣に座るイツキは顔色も変えずにそれを聞き、ふぅんと言って、グラスの酒を飲む。 目を合わせないのは後ろめたい事があるのか、それとも、何も感じる事が無いのか。 黒川はソファの背も…
「…じゃ、俺、寝るね。おやすみ……」 深夜の映画も終わり、後はよく解らない気の抜けた通販番組になったところで イツキはソファから立ち上がる。 キッチンで水を飲んでいた黒川はちらりとそちらを見遣る。 「……イツキ」 「ん?」 「…俺に、何か話す事があるだろう?」 「無いよ」 そう言って、巣箱に入ろうとするイツキを、黒川は手で遮る。 キッチ…
よくよく考えてみると イツキが石鹸屋の出張から帰ってから、数週間、イツキと会話らしい会話は無かった。 留守中、お互い、多少後ろめたい出来事があったからだろうか。 …避けている、程、露骨では無いが、 …まあ、実際仕事が忙しく時間が合わなかったこともあるのだが。 黒川が起きる頃にはイツキは出かけているし 黒川が帰る頃には、イツキは巣箱で休んでいる。 たま…
黒川は事務所で一人、少し酔いの回った頭で考え事をしていた。 もし仮に、男の話に出て来た少年がイツキなのだとしたら、……その理由は何なのだろう。 昔の仕事を思い出し、遊んでみたくなったのか… ちょっとした小遣い稼ぎのつもりなのか…。 遊びもセックスも、それはまあ、別に構わない。 今更、操を立てろなどと言うつもりはない。それは、良いのだが 理由が…
「………で?」 黒川は黙って男の話を聞いていたのだが、話が途切れたところで、ようやく息をつく。 グラスに口を付けるも、それはとうに空で、氷も溶けたグラスに、ボトルの洋酒を注ぐ。 「………いや、お前のトコの子なのかなって………」 「…名前も何も聞かなかったんだろ? そんなの、解るかよ」 男は少年の姿を見ていないし、名前さえ知らないのだ。 確か…
浜野は、解りやすい少年の挑発に乗るほど馬鹿な男では無かったが そう思うのと、身体は、また別の話のようだった。 少年のワイシャツの胸元を掴み、引き寄せ、ソファへと引き上げると上に跨り 『使いモンになるかどうか試してやるよっ』などと怒鳴り、 鼻息も荒く、少年のズボンに手を掛け脱がそうとする。 『………本番は、……別料金なんですけど……』 『ハァ?…
良く無い、筈は無かった。 力加減も何も絶妙で、脇に添えた手の動かし方まで計算されているようだ。 けれど、これは、まるで勝負のようなもので 簡単にイってしまっては…負けなのだと、浜野は思い 頭の中で、自分の中で過去一番の萎える経験を巡らせながら、やり過ごす。 それでもそうやって耐えている時間、そのものが 特別なプレイのような気がしてくる。 何をど…
『……あ、いやっ…待て、待て待て………』 少年はソファの浜野の前に身を屈め 男のズボンのベルトを外し、ボタンとジッパーを外し、下着のウエストゴムをずり下げ 出てきたものに、躊躇することなく顔を擦り寄せる。 一度、下からペロリと舐め上げるとそのまま浜野の顔を見上げ 視線を絡めたまま、今度は根本までぐっと口の中に収める。 『男相手に勃つかよ』 …
男が事務所に帰った時には、すでに、コトは終わり、少年の姿もなく。 浜野は満足そうな…いや、むしろ…精魂持って行かれた風な様子で、長椅子に横になり 事の次第を男に説明するのだが、話の半分は、何を言っているのか良く解らないのだった。 『……面白い事言うな、お前。……まあ、いいぜ、やってみろよ』 『…………はぁい』 浜野は、もう1人の男と目を…
有り金を全て叩かせて、客の男は帰すことにしたのだが あまり反省の素振りのない少年は、残す。 部屋には若衆頭の浜野と、もう1人。 その2人で少年を挟み、散々脅してみるのだが、どこの所属かどころか名前さえも言わない。 拗ねた様子で唇を尖らせ、俯く顔。長いまつ毛が影を落とす。 『…痛い目、見ないと、解んねぇかな、兄ちゃん…』 『………痛い目を見れ…
「同じ場所で3回目だったらしくてな。まあ、目ぇ付けてて… その日は客を取ったらしくて、便所から二人仲良く出て来たんで… 事務所に引っ張って行ってだな………」 男の話を黒川は、さして興味が無さそうな振りをして聞く。 酒のグラスに口を付けながら、一昨日のイツキはどうしていただろうかと考える。 一昨日は……自分も仕事で、飲んで帰り……部屋に戻った…
「イツキ…だったよな、あんたんとこの子。 …あの子って、まだ仕事、させてるのか?」 「……いや、もう。……表には出さんよ…」 男の話は『イツキ』の件かと、黒川はグラスの酒を啜りながら答える。 ……今でも、『イツキ』を貸せだの売れだの、そんな話は実は多い。 まあ、あれだけ大売り出しをしていたのだから…それも仕方がない事だろう。 「歳を取り過ぎた」…
誰もが何か、微かな違和感を感じながらも あえてそれを揉め事にする勇気も持たず 何となく、普通に、やり過ごし……数日が過ぎたある日。 事務所に、来客があった。 「………よう。黒川。…お疲れさん……」 「…ああ、あんたか……」 男は、昔ながらの知人だった。 ここいらより西の辺りを仕切る同業者。 敵対する相手では無い、もっとも、特別親しい…
ある日の夕方。 何かのついでにイツキが事務所に立ち寄ると そこでは一ノ宮が一人で、作業をしていた。 「……ああ、イツキくん。こんにちわ。……社長ならあと少しでこちらに……」 一ノ宮は仕事の手を止め、イツキに挨拶をするも イツキはその手元に、目が釘付けになっていた。 一ノ宮はソファに座り、テーブルの上に小型の持ち運び用の金庫を置き ぎゅうぎゅ…
イツキはまだ少しも、落ち着いていなかった。 自分が留守の間…まあおそらくそれ以外にも日常的に…黒川は女を抱いているのだろうし 仕事上と言われれば仕方がない。それを隠すつもりもないのだろう。 自分が不機嫌になればなったで、急に優しく接してくれたりもする。 酔っ払いのうわ言などではなく、本当に、黒川が そして自分が 互いを失っては苦しいほどには好…
「………ん、…マサヤ?………おかえりなさい…」 事務所でどれだけ飲んだのだろう。 いい酔っ払いになった黒川が部屋に帰ったのは、すでに日付が変わった頃。 イツキはいつものように先に、巣箱で眠っていたのだが そこに黒川は押し入り、酒臭い呼気を撒き散らす。 「………マサヤ、飲み過ぎ?………どうしたの?」 「………飲んでない。……イツキ、話す事がある…
少し離れた場所で笑いを噛み殺している一ノ宮を見て、黒川が不機嫌そうな顔をする。 自分より年下の松田にこうも諭されては、面白いはずもないだろう。 「……イツキ相手に、そんな気を遣っても仕方ないだろう。…あいつだってそう、気にもしていないさ…」 まるで自分自身に言い聞かせるように、黒川そう言い、ビールを煽る。 例え、その事でイツキが不安定になっ…
仕事の中休みに軽く一杯…の筈だったが すでにビールは数本目。 一ノ宮は残りの仕事を諦め、パソコンを閉じると、近くの中華屋に食事の出前を頼む。 「………浮気?………なんの話しだ?」 「イツキくんがいない間に、女と寝たんでしょ?」 「女?………ああ、あれか………いや、あれは……」 確かに、心当たりはある。 イツキとの電話で、つい、その事を…
「……何だ、話してないのか……ふぅん」 勿体をつけるように……もちろんわざとだが……松田はそれきし黙りグラスに口を付ける。 黒川は面白くないといった風に、ふんと鼻で息をつく。 イツキの出張の最終日。何か様子が変だったのは解っている。 そもそも松田と一緒に居たことがオカシイ。 朝から風呂屋で泥酔し、その後は妙に甘え、こちらに帰って来てからは 何事…
事務所の応接セットのソファに松田、その隣に一ノ宮。 その向かいに黒川が座る。 時間は20時を回ったあたり。 当たり障りのない世間話から、真面目な仕事の話しも少し。 一休みで軽く一杯の筈だったが、すでにビールは3本目。そろそろ スタートといった所。 「そう言えば…、あの日はちゃんと帰れたの?黒川さん?」 来る話題だとは思っていたが、突然、来ら…
ノックの後に事務所に入って来た男を見て、黒川は顔を顰める。 一ノ宮は、おや、という風に短く声を上げ、急ぎ、お茶の用意などをする。 「…一ノ宮、茶なんぞ、いらん。………何の用だよ、松田」 「ええ、それはあんまりじゃない?……また東京の仕事でね、ちょっと寄っただけですよ」 「………ふん」 松田は笑い、地元の土産なのか紙袋を一ノ宮に渡す。 一ノ宮…
「…もう、大変。本当は乗り換えなしのとこにしたかったけど、家賃、高いし 徒歩15分で築30年で、どうにか頑張れるかなって感じでしょ。 ウチ、補助は結構出る方だけど…それでもねぇ。 都内の独り暮らしはキツいわよねぇ……」 仕事終わり。イツキとミカは店内の片付けをしながら軽く雑談。 「……イツキくん、おウチ、探すの?」 「あ、いえ、そういう訳で…
『……ああ、そう言えばさ……』 その日、一ノ宮は事務所で一人、雑務を片付けていた。 どこぞの店の従業員用の宿泊施設が足りなかったと 管理している不動産の書類をガサガサとやり、2、3件、電話などをして ふと、先日、車の中でレノンが話していた事を思い出した。 『……さっき、あいつ、見かけた。……イツキ。 向こうの通りに不動産屋あるじゃん…
イツキはと言えば 変わった様子も無いように思えた。 野菜を炒めただけの簡単な料理と、グリルで焼いただけの肉をテーブルに並べ テレビを眺め、ビールを飲み、お互い仕事の愚痴など口にする。 そろそろ眠る時間だとソファから腰を上げるイツキの、手を、黒川は引き そのまま寝室へと連れて行く。 「明日も仕事なんだけど…」 と、イツキは少し困った風に言うが…
「……いいよな。俺も、自分の部屋、欲しい」 「…ははは」 レノンの言葉に一ノ宮は軽く笑う。 会話を交わしているようで、その実、一ノ宮の反応はありきたりなものばかり。 レノンは一ノ宮と、事務所で二人で話したような、もっと、深い話しがしてみたいのに そこは一ノ宮も、あまり話し過ぎないようにと、警戒しているようだった。 「…イツキと黒川って…
レノンは一ノ宮に恋愛感情を抱いている訳では無かったが この特殊な世界の中で、自分だけの味方、自分を大事に扱ってくれる人間を 確保して置きたいというのは、もっともな気持ちだろう。 それは一ノ宮も解っていたし、大事な商売道具なのだし ……そこら辺が、レノンの「大事」と違う感覚なのだけど…… まあ出来る範囲でならサポートしてやっても良いと、思ってい…
事務所の扉をノックして入って来るのは 少し前ならイツキだったが…今は、レノンの事が多かった。 「仕事」終わり。相変わらずムスッとした表情。 それでも最近は、客を怒らせるようなことは少なくなったようだ。 真面目にデスクワークに励んでいた黒川は顔を上げ、つまらなそうに、鼻息をたてる。 「……お前か。何の用だ」 「……コレ、今日のおっさんから預か…
「………馬鹿か!」 その夜のイツキは、何か作戦があったのか単に飲み過ぎてしまったのか 店を出る時には酩酊し千鳥足。 歩いて数分の自宅までタクシーを呼び、マンション前から部屋までは黒川が抱えて歩き ようやく辿り着き、寝室のベッドに放り出す。 「……ごめんなさぁい……」 イツキは一応、謝り、あとは何を喋っているのかは解らない。 黒川は呆…
実のところイツキは悩んでいた。 悩んでいると自覚が出来ているもの、出来ていないもの、イロイロあるのだけど。 だいたい、黒川との関係からしてオカシイのだ。 おかしい上に不安定な材料を積み上げて行って、落ち着くはずもない。 中学生の頃から身体を売って来た自分に、普通の生活が送れるとは 思ってもいなかったのに、この現状。 ハーバルの仕事は楽しいが、それ…
待ち合わせをした店は事務所の近くの、よく利用する焼き鳥屋。 細長い店内の片側にカウンターと、テーブル席が3つ。 先に着いたのは黒川の方で、一番奥のテーブル席に座り、ビールを注文する。 それが席に運ばれた頃、イツキが息せき切って到着し、椅子に座るなりそのビールをぐっと煽る。 「………お前なぁ……」 「ごめんなさい、遅れちゃいそうと思って…走って来て…
デスクワークをしていた黒川はスマホの着信に気付き、仕事の手を止める。 一ノ宮は、聞くとはなしに傍耳を立てる。相手がイツキだという事は、黒川の顔を見れば解る。 どう取り繕っていても、一瞬、空気が和んでしまう。 この人はいつからこんな顔を見せるようになったのだろうかと、一ノ宮は少し複雑な胸中。 「…………はいはいはいはい、解ったよ。じゃあ、19時半な…
さて。 黒川の運転する車の中で目を覚ましたイツキは、しばらくポカンとし、どういう状況なのかを考える。 黒川からの連絡を気にしながら、不安を押し流すように酒を飲んだのは覚えている。 潰れ、引き摺るように抱きかかえられながら車に乗ったのはなんとなく覚えているが それが黒川に似ていた気がしたのは、ただの自分の夢なのかと思っていた。 「………まったく…
黒川は松田の向かい、テーブルに突っ伏したイツキの隣に座る。 タクシーや誰かの運転ではなく、自らが車を飛ばして来たと聞き松田は驚く。 『……そんなに慌てて迎えに来なくても…、俺、何もしないよ?』 『潰れるまで酒を飲ませて、良く言う』 『イツキくんが自分から飲んでたんだよ。イロイロ、疲れちゃったみたいだよ?』 松田はそう言って笑う。黒川は隣のイツ…
酔い潰れて寝てしまい、気付いたら車で移動中、は 流石にイツキでも肝を冷やす。 薄く目を開け、辺りを伺い、今、自分がどういう状況なのかを探る。 今度こそ本当に、どこかに連れて行かれたとしても、おかしくはない。 「………えっと…、ごめんなさい…、俺、………飲みすぎ…た…?」 イツキは身体を起こして、座席にきちんと座り直す。 助手席の後側…
イツキは 明らかに動揺しているようだった。 メンチカツを一気に掻き込み、それをビールで流し込む。 新しい通知は無いかとスマホを覗き、ふんと鼻で息を吐き、タブレットに次の注文を入れる。 松田はその様子を可笑そうに見ていた。 何だかんだ言っても、イツキと黒川は、お互い好き合っているのだ。 立場や年齢や性別や、諸々……自分の気持ちに素直になれな…
最後にスマホをチェックしたのは朝、ハーバルの本社を出た時。 松田の車に乗り、黒川に連絡を入れようかどうしようか…悩み、結局そのままポケットに入れてしまった。 それから風呂に入り、2時間…3時間が経っただろうか。 何度かの着信とメッセージの通知。内容を確認するのも空恐ろしい。 「どうしたの? イツキくん?」 注文の料理を取りに席を立っていた松田…
「松田さん…」 「なんだい?」 「松田さん、ビール飲んでちゃ、駄目じゃないですか?」 風呂上がりに美味しい料理が並び、うっかりしていたのだけど… 松田は車でここに来ているのだ。酒を飲んでいてはまずい。 もっとも松田は確信犯のようで、「んー?」ととぼけた様子で手に持っていたジョッキを口もとに寄せた。 「はは、夜には醒めるよ。代行だって、タ…
「………ヤバい。これ、ヤバくないですか?………やだ」 風呂から上がり、お休み処。待望の仙台直送牛タン祭り。 少々、湯あたり気味のイツキはとりあえず冷えたビールを喉に流し 運ばれて来る料理に感嘆の声を上げる。 運ばれて来る、と言ってもここはセルフ方式の食堂だ。 手元のブザーが鳴るたびに、松田がカウンターまで料理を取りに行く。 松田は背中に派手な…
「……本当は嫌なんです。こんな事でグダグダ悩んでるの。気持ち悪い。 ほら、マサヤって……悪い男じゃないですか、そんなの誰よりも俺が知ってて それでいて、それでも今、一緒にいるって……それだけでも十分、おかしくて」 風呂の湯が少し熱くなって来たのか、イツキは湯船の中の段差になっているところに腰掛け 上半身を出した格好で、つらつらと話を続ける。 ほ…
「いいじゃん。もう仕事も無いんだろう? 少しぐらいのんびりしなよ。東京には、夜には、帰れるんだしさ」 「………でも、松田さん。……普通の時間にお風呂には…入れないんじゃないですか、その…」 「あー、刺青?それがさ、奥に、時間貸しの小さな風呂が出来てさ、訳ありでも融通きくんだよね。 それに……」 何だかんだと言葉を並べ、松田は風呂屋の駐車…
「……ここからもうちょっと山間に行くと…古い温泉街があって いわゆる昔の、売春宿みたいなトコがあるんだよね。 そこに、攫って来たイツキくん、閉じ込めてさ、仕事させたら面白いなって…」 車を走らせながら、笑いながら、松田はそんな事を言う。 もちろん、本気だとは思わないが……、かと言って、そうされないと言う確証も無い。 膝の上できゅっと握った手…
「イツキくんはさ、本当に面白いよね。ああ、もちろん褒め言葉。 フツーに仕事、頑張ってるかと思えば、妙な色気垂れ流しておっさん誘惑してるし。 でもって、それ、失敗して、大慌てしてるし。 俺の事も、どうなのかなって思えば…エッチは滅茶苦茶エロいし、気持ちいいし。 見てて、飽きないわ。もう、俺のモノにしたい位」 車を運転しながら、松田は軽く、そんな事…
「おはよう、イツキくん。昨日はお疲れ様。よく眠れた? いやー、一度出社してから帰るんじゃ大変だと思ってね。 車、借りられたからさ。送ってあげるよ、東京まで」 つい数時間前に別れたはずの松田は、そんな事を言う。 イツキは何がどうなっているのか良く解らなかったが…、自分は一度、宿泊先まで往復しているのだ 時間的には、おかしくは無いのだろう。 「…
朝。 松田を残して、イツキはするりと帰ってしまった。 ホテルからタクシーを呼んだようだった。 無防備で抜けているようで、きっちり出来る事は出来て、それでも、緩い。 そのバランスの悪さが癖になるのだな…と、ようやく松田が気がついた時には、すでに手遅れだった。 イツキは大急ぎで、自分の宿泊先のホテルに戻り、荷物をまとめる。 もう一度、シャワー…
まずイツキから黒川を引く。 それから、仕事だの一般的な生活だのを引く。 知性も理性も、およそ普通の感情を全部引くと 残るのは純粋な、濃厚で濃密な性欲だけになる。 「……ここからもうちょっと山間に行くと…古い温泉街があって いわゆる昔の、売春宿みたいなトコがあるんだよね。 そこに、攫って来たイツキくん、閉じ込めてさ、仕事させたら面白いなって…
松田は暫くイツキを見つめるのだけど、その真意は一向に解らない。 その場しのぎの遊び相手なのは、一体、どちらの方だったろうかと…迷う。 そんな中でイツキは小さく腰を揺すり、もう我慢出来ないと言った風に顔を顰める。 身体を反らせ、覆いかぶさる松田に無理矢理にでも摺り寄せる。 そして硬いものが当たると、はしたなく悦び、そのすぐ後に、恥じらう顔を見せる。 …
松田は全体重を掛けるようにイツキに覆いかぶさり、少々乱暴なキスをする。 イツキの髪の毛をくしゃりと掴み、痛いくらいに引く。 機嫌の悪さはアピールなのか本心なのか、松田にも微妙な所。 そのくせイツキはと言えば気にする様子もなく、松田の背中に手を回したりする。 「…俺は、…黒川さんの替わり?」 「……違いますよ?」 「じゃあ、黒川さんのこと、考…
「……松田さんは、……女の人と、する?」 「……え?……ああ、そりゃあ、ね…」 「…………そうだよね」 適当な愛撫を繰り返して、今度はイツキが、松田のものを口に収めていた。 松田は枕を背に、少し体を起こし、自分の股ぐらに顔を突っ込むイツキの髪の毛を撫ぜる。 イツキの問いには流れで答えてしまったが、それは、質問のための質問だったと後から気付く。 …
ベッドの縁に腰掛けたイツキはビールを一本飲み干すと 空き缶をサイドテーブルに置き、はすっぱに、手の甲で口元を拭う。 それから、自分のズボンのファスナーを下ろし、くしゅくしゅっと脱ぎ足先で放り投げる。 シャツのボタンを外し、肩のあたりまで肌を晒すと、後はご自由にと身を横たえる。 投げやりな様子と微かに匂う色気が、ちぐはぐ過ぎて ……こんな状況に慣れ…
「………ちょっと、…意外。……本当にいいの?イツキくん」 「…………」 田舎町の外れた道路沿いに建つ、少し悪趣味な装飾のラブホテル。 フロントの年配の女性従業員は、男二人の利用客を物珍しそうに眺める。 部屋はいかにもと言った感じ。中央の大きなベッドにはフリルのサテンのカバーが掛り 天井には、ミラーボールに似た照明が吊るされていた。 「………
「………松田さんは……、優しいですよね」 「まあね」 タクシーの後部座席に並んで座り、イツキはぽつりと言葉を溢す。 謙遜するでもなく即答するのが、まあ、松田の良いところなのかもしれない。 「……何だかんだで、俺のこと、助けてくれるじゃないですか…。前の、…笠原さんの時も…」 「ああ、あれは凄かったね。イツキくんを助けるナイトのようだったよ、…
「……なんかイツキくんってさ、いつも危ない事に首突っ込んでるよね、趣味なの?」 「………………違います…」 松田の登場でイツキの危機は一応、回避されたらしい。 酔っ払った勢いで若い男の子相手に股間を晒すという、まあまあ恥ずかしい状況を仕事の関係者に見られ、 小山は大慌てでその場を立ち去り、宴席には戻って来なかった。 「………あの人、嫌味言…
「……お楽しみ中だったかな?」 小山が自分のズボンを下ろし、膨らんだ股間をイツキの太ももに擦り付け ……うっかりイツキがその気になる、その一歩手前で邪魔が……、いや、助けが入る。 扉がガラリと開き、光が入る。……小山なぞはその驚きで射精しそうな勢いだったが… どうにか堪え、何事かと、顔を上げる。 扉を開けたのは、松田だった。 …
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「…お前の『仕事』の後、よくメシ、食いに行ったよなぁ…」 「…行ったね」 「何年前だ?」 「……5年、くらい?……昔話だねぇ…」 イツキは佐野と目を合わせると、くすくすと笑う。 それはごく最近のことのようで、それでもやはり、昔の話で。 けれど忘れてしまうには、あまりに深く生々しい思い出だった。 「…佐野っち、…俺の面倒、良く見てくれたよね。…後…
「……イツキ。本当にいいのか?」 「良いって言ってんじゃん。…佐野っち」 街の外れの昔からある古いホテルの前で、佐野はもう一度確認する。 酒を飲み過ぎた訳でも、特別に嫌な事があった訳でもなく、 普通にお互い同意の上で、この建物に入るというのは……実はなかなか新鮮で 佐野は、繋いだイツキの手をぎゅっと握り、植え込みの奥にある入り口へと向かった。 …
「……昨日ね。ユウ、くん?に会ったんだよ」 「………は?」 「…仕事の後。……ホテルで」 イツキが重い口を開いたのは翌日の朝。 キッチンでコーヒーを淹れるイツキに、黒川が近寄った時だった。 それでも。 昨日の夜は、することはしたのだ。 若干、機嫌の悪いイツキを黒川は抱き締め、寝室へと連れ込む。 イツキはどこかのタイミングで、その話をしよ…
その後。 イツキとレノンとユウはホテルを出て レノンはユウを送ると言って、タクシーに乗り込み それを見送って、イツキも別のタクシーに乗り自宅へと戻った。 何だか妙に疲れてしまったのは、身体、よりも心で 青ざめた顔で肩を振るわせていたユウの姿が、思い出したくもない過去の自分に重なった。 「……なんだ。遅かったな」 マンションの部屋に戻…
「…それにしたって、こんな仕事。レノンくん、まだ、…学生でしょ」 「もう17だよ。学校も行ってない。働くのは別にいいんだけどさ。 ……今日のは、佐野さんに言われて、たまたま来ただけだし…… でも、なんか、自分もされたことだし…妙に生々しくってさ… 色々、思い出しちゃって……テンパっちゃった。 …来てくれて助かったよ。ありがと…」 やっと安…
風呂場にいたのは、小柄な若い男の子だった。 以前、黒川と一緒にいた子に似ている気がした。 裸で、バスタブに寄りかかり、吐瀉物と排泄物にまみれ それでも嗚咽を繰り返し、満足に呼吸も出来ない状態だった。 何をされて、どうしてこんな事になったのかは 説明されなくても、イツキは知っていた。 なだめすかし、とにかく身体の汚れを洗い流し、風呂場から連れ…
タクシーでホテルに向かい、指定された部屋の前まで来て イツキは一応、警戒する。 ……ここはでは以前、レノンと間違われて、拐われて乱暴された事がある。 ……それに限らず、捕まって、犯されては……何度も経験しているのだ。 ベルを鳴らそうと上げた手を止めて、もう一度確認してみようとスマホを取る。 「……レノン君?……ドアの所まで来てるんだけど……
『……あー、イツキ? 悪いんだけどさ、ちょっと出て来てよ』 「……え?」 電話の相手は聞き慣れない、若い男の声だった。 イツキは不審がり、一度、スマホを耳から離して画面を確認する。 知らぬ番号からの電話に、出るはずはない。 画面には「レノン」と表示されていた。 『……もう、無理でさ。タクシー飛ばせばすぐだろ……、って、おい、聞いてるのかよ』 …
それから暫くは平穏な日が続いた。 新しい黒川の「仕事」の相手が気にならない訳では無かったが 特に波風も立たず。 帰りが遅い日などには土産にと、イツキの好きな和菓子や寿司などを持ち帰るので なんとなく、それで許してしまっていた。 松田は、3日に一度はハーバルに顔を出し、2回に一度はイツキを飲みに誘った。 まあ、それだけで、別にそれ以上のこともない。 …
「……うわ、酒臭いっっ、マサヤ…飲み過ぎ……」 真夜中を少し過ぎた頃、黒川が帰宅した。 イツキはすでにベッドに入っていたのだが、物音で目覚める。 どさり、と自分の隣に横たわる黒川は、珍しく酒に酔っているようで 片手でイツキの肩を抱き寄せると、顔を近づけ、酒臭い息を吐く。 「何?どうしたの?……大丈夫?」 「ああ。…くそ、松田のやつ。……調子…
「松田、お前、こっちに居過ぎじゃないのか?自分の仕事はどうした?」 飲みの途中で黒川は仕事の連絡を挟み、思いついたように松田にそう尋ねる。 松田も地元では、そこそこの組の幹部だ。それにしては、随分とのんびりしている様に見える。 「はは。こっちには週に2、3、顔出してるだけだ。ちゃんと、仕事はしているよ」 「……暇人だな…」 「黒川さんが忙し過ぎ…
「……仕事で使うのに、…仕込んでいる最中だ。お前のところだってあるだろう、そんな話。 ただの商売道具だ。それ以上の感情はない。 …まあ、楽しませては貰ってるがな……」 事務所の近くの焼き鳥屋に黒川を連れ出し、日本酒を数杯飲んだところで ようやく、言い訳がましい話を口にする。 松田は、空になった黒川のグラスに酒を注ぎ、自分も飲み 次は熱燗にしようと、…
「……何?今の子?」 「……。まあ、ちょっと、な」 松田はなんとなくそのまま事務所の中に入り込む。 事務所の中をぐるりと見渡し とりあえず、今、ここで情事が行われていたかどうかだけ確認し ソファの上が妙に濡れていないと解ると、そこに腰を下ろした。 黒川も無下に追い返すのは格好が付かなかったのか、ふん、と鼻息を鳴らし デスクの椅子に座ると書…
『イツキちゃん、気にしてたぜ? 赤ん坊、見に行きたいけど、自分は駄目だって。 まあ、気持ちは解らなくもないけどな。 世界に生まれたての、まっさらサラサラ。綺麗で純粋なところに 肉欲まみれのドロドロで穢らわしいモンを近づけちゃ駄目だってな。 相談された?黒川さん。されないか、そうだよな。 イツキちゃんを、そんなドロドロにした張本人だもんなぁ。 …
ハーバルの事務所に松田が来ていた。 あれこれ、仕事に関係がありそうな話をするのだが 単純に、イツキと話がしたいだけだった。 それでも、ミカが無事に出産を終えた事を伝えると 意外に素直に喜び、穏やかで優しい空気になる。 子供が産まれるというのは、そういう事なのだろうと、イツキは思った。 「会いに行くの? 病院…は、さすがにアレかな。でも、落…
その日 黒川が珍しく早い時間に部屋に戻ると イツキはキッチンで、鼻歌混じりに鍋を掻き混ぜていた。 テーブルには他にもデリカの惣菜やサラダ、良いワインなどが並ぶ。 「ミカちゃん、産まれたって。女の子。 すごいよね、俺、知ってる人が子供産むなんて、初めてで… ちょっと感動した」 「ミカ?……ああ、石鹸屋の女か。…ふぅん」 黒川にすれば別に…
黒川に抱かれながらイツキは こんなにも黒川の挙動が気になるのはなぜなのだろうと考えていた。 好きだの嫌いだの。もう、そんな感覚はどうでも良くて。 仕事で、黒川が他人を抱くのも、まあ仕方がないのだと割り切ってはいる。 …自分だって、他で身体を開いているのだ。今更、セックスの有無は問題ではない。 とりあえず今は、一緒にいたいと思って一緒にいる。それ…
以前から黒川の周りには、商売上の付き合いのある女性や男性の姿がチラついていた。 こういった稼業なのだから、ある程度は仕方が無いだろう。 イツキのような「商売道具」にするといって訳アリの子供を引き入れ その教育という名目で、何かをしていることも解っている。 そんな相手をイチイチ気にして、腹を立てたところで仕方がない。 嫉妬と言われても、癪なだけだ。自…
「……イツキくん?」 急にイツキに抱きつかれたミツオはきょとんとする。 別れが惜しくて、という訳でも無さそうだが…とりあえず、イツキの肩に腕を回す。 「……どうしたの?………、もっと話し、聞く?」 「いや、……あの。…違います」 2、3分間を置いて、イツキはミツオから身体を離す。 ゆっくりと通りの方を振り返り、先ほど見掛けた人影が、もう無いこと…
食事も済み、ボトルのワインも飲み干し、イツキとミツオは店を出る。 少し酔っているのか躓きそうになるイツキの、腕を、ミツオが支える。 「…こういうさ、2階のお店って、酒飲むと階段が怖いよね」 「…俺、そんなに酔っ払って無いですよ…」 「……そ?」 言いながら、絡めた腕でそのまま壁に押し当てて、唇を重ねる流れが実にスマートで 何の不自然もないような気…
「……もう一度、あの辺り一帯を調べろ。 男は素人らしいが…目を付けられる以上、裏があるんだろう。 親戚と交友関係と。ギャンブルで借金があるとか、女関係とか……」 「へえ」 まだ日の高い内から黒川の事務所に呼び出された松田は、黒川の要求に、気の抜けた調子で返事をする。 その様子に黒川は一睨みし、不満げに鼻息を鳴らす。 「だいたい、お前の…
あの男たちが何の用で三浦を探しているのかは知らないが おそらく、あまり良く無い用件なのではないかと思う。 そして、そういった案件に巻き込まれやすいイツキは この先、どう対応していったら良いかと、迷う。 「なんだ、小難しい顔だな。お前に悩み事なんてあるのかよ?」 目の前の黒川はそう言って馬鹿にし、酒を飲む。 「また、新しい男の話か?」 「そう…
狡猾そうなキツネ目の男と、派手な上着の大柄な男。 それはイツキでなくとも、その筋の怖い連中なのだと解る。 パートの横山は一瞬身構え、心配そうにイツキの顔を伺う。 イツキは突然の来客に驚いた様子だったが、横山が思うほど、動揺してはいない。 「ここにさ、三浦って人、来てるでしょ?」 「いえ。来ていませんが…」 「そう?ここに入り浸ってるって聞いたけ…
「……わたし、ちょっと強く言い過ぎちゃったですかねぇ……」 ハーバルに入り浸る三浦に、迷惑だと、パートの横山が言って以来 今日で3日ほど三浦は顔を出して来なかった。 おかげさまで店内は静かで仕事は捗る。 新規で来店した上品なマダムとも落ち着いて話をする事が出来た。 それでも、慣れというのは怖いもので 夕方には、三浦がポットに入れて持ってくるコ…
「イツキてんちょ。今日、車で来てたでしょ?」 昼過ぎ。早々に顔を出した三浦はイツキにそう尋ねる。 確かに今朝は黒川の車で来たのだが、わざわざそう言われるのは良い気がしない。 まるで見張られているようだ。 「ゴミ出しに行くとき見掛けてさ。裏の駐車場。良い車だったよね、黒塗りベンツ?」 「……今日は送って貰ったんです」 「誰?あれ?家の人?…父親…
翌日の朝。 黒川は車を出し、イツキを仕事場まで送ってやった。 寝坊したと大騒ぎするイツキが煩かったせいもあるが まあ、本当にイツキが気にするような「何か」があるのかどうか、少し見てやろうと思ったのだ。 家から仕事場までは高速を使う距離ではないが、やや飛ばして30分ほど。 商店街は短く、奥はもう住宅街。 パチンコ屋もホテルもない、健全な文教地区とい…
「隣の三浦さん。良い人なんだろうけど…なんだか、気になるんだよね……」 「……お前が色目で見ているんじゃないのか?」 「あと、お店の周りも……たまに見掛けない車が停まってて……」 「……どこぞでお前がタラし込んで来たんだろう?」 寝室に移動しベッドに上がり、お互い、服を脱がせながらあちらこちらに唇を寄せる。 時折、黒川はイツキを馬鹿にするような…
「…またイベントがあるかもって言ってた…、正直、これ以上、仕事が増えたら困る。 俺、最近、頑張ってると思わない? なんかもう、ハーバルの社長、事務仕事は全部こっちに移したがってるみたいで… 数字も計算も苦手なのに。パソコンは少し覚えたけど。 ミカちゃん、早く帰って来て欲しい。……予定日はもうすぐ。 でも、すぐに復帰は無理だもんね。……人、増やし…
イツキが部屋に戻ったのはまだ日付が変わる前だったが すでに黒川は帰って来ていて、リビングで細かな作業をしていた。 テーブルには仕事の資料と、新聞。酒とツマミが乱雑に並ぶ。 「ただいま。ん、マサヤ、何飲んでるの?」 「……日本酒だ、新潟の。この間貰った……」 「……やだ!俺も飲みたいって言ってたやつじゃん」 イツキはキッチンから自分のグラスを取…
「……向こうの、商工会の連中が、またイベント開くようだよ」 「ああ、オーガニックフェスタみたいなやつですね。ウチは参加するのかな…」 「するでしょ。地元特産品使って、一つずつ新商品出すって…」 「あ、イツキくん。この前の白菜漬けどうだった?塩っぱくなかった?」 レジのカウンターの内側で、イツキと松田が仕事の話をしている途中に、三浦がどうでもよ…
「…今日、ご飯、行こ?」 「……ここ、18時まで仕事ですよ?」 「あと2時間?待ってるよ」 そう言って松田は笑う。 イツキは、食事が食事だけでは済まない事は解っていたので、あまり乗り気ではなかったが 聞いてみたい話は、ある。 その迷いはどうやら瞳に映るようで 松田も一瞬、押すか下がるか迷ったのだが…イツキの空気感を察し。押す。 「隣に、お茶が…
ハーバルの店舗には、そう、来客は多くない。 新しい化粧品屋なのかと、近所の女性が顔を覗かせたり 普段は通販を利用している客が、実際の商品を見にやって来たり。 もっぱらの仕事は、会社全体の商品の管理だった。 社長は、ゆくゆくは、今の本社を製造のみの拠点にし 実際の営業は都内に移そうかと考えていた。 まあ、そんな訳なので、来客が少なくとも結構忙しいのだ…
イツキが気になっているのは、ごくごく、些細なことだった。 おそらく別の人間からすれば、気付かない様なこと。 ただ、ハーバルの店舗の付近に見慣れない黒塗りの高級車が停まっていたこと。 時折、顔を出す男が、どうやらその筋の男のようなこと。 特別な何かが起こったわけでもないのだが、こればかりはイツキの勘というか習性で さんざん身近に感じて来た、いわゆる、…
黒川が事務所に戻ったのは、予定よりも遅い時間で すでにイツキは部屋に帰ってしまったと、空いた紙袋を片付けながら一ノ宮が言う。 「社長も今日は上がられますか?」 「…あ、いや。……やりかけの仕事を片付けないとだからな」 黒川は、残念そうな、それでもイツキがここに寄った事が嬉しいような、 少し柔らかな表情を浮かべる。 つかず離れず。干渉し過ぎず放置…
『駄目です』 と言った時のことを、一ノ宮はまだ覚えていた。 数年前。 ただの暇潰し、適当な玩具だったイツキが 金を工面して欲しいと黒川に懇願した時。 玩具、にしてはのめり込み過ぎているとは思っていたが ここで数千万単位の金を出し、危ない筋との交渉に自ら乗り込むなど 到底、考えられることでは無かった。 案の定、それ以降、黒川とイツキの…
その日のイツキは仕事の帰りに、黒川の事務所に寄る。 決して、冷蔵庫の中身が空っぽなので食事は外で済ませたい、等と思った訳ではなく。 けれど、事務所には黒川の姿はなく、一ノ宮がいるだけだった。 「社長なら小一時間ほどで戻ると思いますよ」 「んー………どうしようかなぁ…」 「まあ、お茶でも淹れましょう。イツキくんのお仕事の様子も聞きたいですしね」 …
以前の百貨店では規定の制服があったのだが 新しい店舗で働くにあたって、イツキはスーツを新調していた。 別段、何かを指定されたわけでも無いが、まあ、気分的に。 銀座の老舗のテーラーで仕立てて貰う服を纏うと、否応なく気分が上がった。 黒の上下は……昔の仕事を思い出せる服装なのだけど それでも一番、似合う、落ち着くスタイルでもあった。 「ホス…
「…だいたい、何でこっちのベッドで寝ているんだ? お前には巣箱があるだろう? 自立するんじゃなかったのか?」 と、黒川は鼻で笑いながら言う。 「…ん。そうなんだけど。 ちょっとこっちで寝っころがっちゃうと… なんか、マサヤの…匂いって言うか、気配って言うか なんか、そんな感じがして…… 落ち着いちゃうんだよね…」 イツキは、自分でも不思議…
最近のイツキは忙しいらしい。 石鹸屋の店長代理を任されて、張り切っているようだ。 あまり暇を持て余しても、下らない事ばかりしでかすので 適度に忙しい方が気が紛れて良いのだろうが、その加減が難しい。 その立場になってから何度かは、仕事帰りに事務所に立ち寄ったりもしていたが 面倒になってきたのか、それも回数が減って来ていた。 真夜中に黒川が部屋に戻ると …
「おつかれさん」 ハーバルの閉店は少し早くて18時。 窓側のブラインドを下ろし灯りを消し、出入り口に施錠していると イツキの後ろから三浦が声を掛けた。 「おつかれさまです。失礼します」 「店長、白菜漬け食べる?さっきお客さんに貰ったんだけど」 「………いえ、……食べないので……」 イツキは断ったつもりなのだが三浦の手には最初から、重たげなビニ…