陸前高田市気仙町愛宕下、県道340号線沿い斗瑩稲荷神社の敷地内に今泉鉄砲組屋敷跡の看板があります。 正式には「仙台藩御直参今泉御足軽組」と呼ばれ、今から約420年前の慶長年間に伊達政宗によって登用され、御墨印や火縄銃、十手、伊達家紋入り法被などが与えられました。 旧気仙郡内、南部藩境、海上の治安警備、歴代藩主や幕府巡見使が訪れた際の警護などにあたり明治維新まで勤仕しました。 この地(鉄砲町等)には今...
2025年2月
【陸前高田市】今泉鉄砲組屋敷跡(斗瑩稲荷神社)を見てきました
陸前高田市気仙町愛宕下、県道340号線沿い斗瑩稲荷神社の敷地内に今泉鉄砲組屋敷跡の看板があります。 正式には「仙台藩御直参今泉御足軽組」と呼ばれ、今から約420年前の慶長年間に伊達政宗によって登用され、御墨印や火縄銃、十手、伊達家紋入り法被などが与えられました。 旧気仙郡内、南部藩境、海上の治安警備、歴代藩主や幕府巡見使が訪れた際の警護などにあたり明治維新まで勤仕しました。 この地(鉄砲町等)には今...
大崎市古川中心部、大崎市役所近くの古川第一小学校敷地一帯が古川城のあったところになります。 古川城は室町時代に七代大崎教兼の子が初めて居を構えた地とされています。 その後は大崎氏の家臣である古川刑部持熙や古川弾正忠隆の居城であったが、大崎氏滅亡後は一時木村伊勢守吉清の子清久が居を構えていました。 天正十九(1591)年の葛西大崎一揆により木村氏は失脚し、伊達氏がこの地を領有すると重臣の鈴木和泉守元...
2025年2月
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陸前高田市気仙町愛宕下、県道340号線沿い斗瑩稲荷神社の敷地内に今泉鉄砲組屋敷跡の看板があります。 正式には「仙台藩御直参今泉御足軽組」と呼ばれ、今から約420年前の慶長年間に伊達政宗によって登用され、御墨印や火縄銃、十手、伊達家紋入り法被などが与えられました。 旧気仙郡内、南部藩境、海上の治安警備、歴代藩主や幕府巡見使が訪れた際の警護などにあたり明治維新まで勤仕しました。 この地(鉄砲町等)には今...
大崎市古川中心部、大崎市役所近くの古川第一小学校敷地一帯が古川城のあったところになります。 古川城は室町時代に七代大崎教兼の子が初めて居を構えた地とされています。 その後は大崎氏の家臣である古川刑部持熙や古川弾正忠隆の居城であったが、大崎氏滅亡後は一時木村伊勢守吉清の子清久が居を構えていました。 天正十九(1591)年の葛西大崎一揆により木村氏は失脚し、伊達氏がこの地を領有すると重臣の鈴木和泉守元...
大崎市中心部、諏訪公園入口に青塚城跡の標柱を見ることができます。 諏訪公園(諏訪球場)、古川神社、古川黎明中学校敷地の一帯が城跡となっています。 青塚城は奥州探題大崎氏六代持詮の弟直兼の居城にはじまり、天正年中は右衛門吉春のが居城したと云われています。 城の規模は東西五十二間(約95m)、南北三十二間(約58m)とされています。 【青塚城跡MAP】 大崎市古川諏訪 【大崎市関連商品】 ...
一関市内にて台所のリフォーム工事を施工させていただきました。 江戸時代に肝入を勤めたとされる屋敷で、太い柱や梁が各所に使用されています。 以前改修したことのある大空間吹き抜けのあるダイニングキッチンですが、天井が高いため、冬季間台所が寒いので間仕切りしてほしいとの依頼を受け施工しました。 台所とリビングの間に梁および鴨居を取付、木製建具で仕切ることにしました。 天井部分は2階に杉板を床材として貼ること...
11月吉日、花巻市坂本町にある曹洞宗の寺院 瑞興寺境内の県道297号線に面した東側に山門を施工しました。 彫刻作業開始から約1年の工期になります。 高さ約8m程の切妻屋根の山門です。 柱、梁、虹梁、桝組を欅材、その他の材料を桧材を使用した山門になります。 山門屋根は丸瓦と平瓦を交互に葺いた本瓦葺を採用し、袖塀は一般的な和瓦にしています。 完成と同時に、本堂に架けてある山号額も山門に引っ越しまし...
一関市284号線一関市街より東進、北上大橋手前県道239号線(白崖弥栄線)を南下したところの鶴巻八幡宮のある集落一帯が富沢城跡になっています。 この地域一帯は北上川沿いに位置し、江戸時代、一関藩の御蔵場が設けられ、米を中心に様々な物資の集積地として賑わっていた場所でもありました。 廻館とも呼ばれる富沢城は、「仙台古城書上」によると東西三十八間、南北二十八間とあり、「古城書上」には岩渕民部が城主として書か...
一関市花泉町金沢山下地区、国道342号線沿いの田園の中にある家屋の周囲一帯が大槻館跡となっています。 中世大槻氏の居館跡で葛西氏の家臣でした。 千葉四郎兵衛が飯倉館よりこの地に移り、その折に槻の大樹が生えていたので大槻と改名したと云われています。 大槻但馬守は天正十九年、桃生郡深谷須江山にて伊達家に討たれたとされています。 【大槻館跡MAP】 岩手県一関市花泉町金沢山下 【一関市花泉町関連商品】 ...
一関市花泉町老松地区、松澤山 道慶寺近くの市道沿いに六角堂があります。 奥州三十三観音霊場の18番札所となっており、本尊は如意輪観世音になります。 六角堂は天平時代に茂呂志賀なるものが建立したと云われ如意輪観音菩薩が安置されています。 かつては観音森金堤寺にありましたが、豊隆神社境内に移され、その後この地に観音堂を建立し今に至っています。 【松澤山 道慶寺六角堂MAP】 岩手県一関市花泉町舘平 ...
県道21号線と県道239号線とを結ぶ市道沿い、一関市花泉町老松地区、松澤山 六角堂、舘平公民館の背後の丘陵一帯が男沢城跡と云われています。 城跡の一角には旧老松村の村社豊隆神社が鎮座しています。 神社脇にはここが鷹鳥城跡ということを示す標柱があります。 男沢城は鷹鳥城とも云われ、「仙台古城書上」によると本丸東西四十間、南北二十間、二の丸東西三十五間、南北八間とあります。 「仙台古城書上」には及川...
一関市花泉町金沢地区、県道48号線沿いにある「新山観音堂」の標柱があります。 標柱より市道を西へ登ったところに、また新たな新山観音堂が見えてきます。 そこから約100mほど登ると一間四方の小さなお堂を見ることができます。 宝持院 新山観音堂は奥州三十三観音霊場 十九番札所になります。 奥州三十三観音霊場とは、西国三十三所にならい奥州(宮城県、岩手県、福島県)の33ヶ所に札所を定め巡礼する霊場で、始まり...
2年前にヤフオクで購入し、互換バッテリーの取り付け、メモリの増設をしたMacBook Proですが、 管理状態が悪かったのか、いつの間にか互換バッテリーが膨れ上り使い物にならなくなっていました。 また膨れた際にトラックパッドを損傷していました。 そのため、今回はトラックパッドの交換とバッテリーの交換を行いました。 トラックパッドとバッテリは、以前購入していたMacBookのパーツを流用しています。 &...
国道4号線沿いの衣川橋バス停を下車、すぐ北の角を左折し水田地帯の小道を道しるべに従い1.5kmほど進むと、休耕田のような空き地があり石碑と案内板が立っています。 ここが長者ヶ原廃寺跡(国史跡)になります。 この辺りは、1174(承安四)年に十六歳の源義経を京から藤原秀衡のもとに連れてきたという三条吉次季春、通称金売吉次の屋敷跡と伝えられてきました。 吉次は京都と平泉を往来した商人で、彼の手を...
一関市厳美町堂ノ沢地内の県道240号線(本郷五串線)より市道に入ると道路沿いの林の中に宝篋印石塔を見ることができます。 この宝篋印石塔とは供養塔の一種で、下から反花座・基礎・塔身・屋根・相輪の部分からなり、屋根の四隅には隅飾りを有します。 高さは168センチあり、塔身は四面に梵字一字が刻まれ、壇形の笠四隅に突起した隅飾りをつけており、わずかに外に傾く隅飾りは室町様式を示しています。 宝篋印塔は中世...
一関市内にて窓リノベ事業補助金を活用したリフォーム工事を行いました。 玄関ドアはLIXLのリシェントを採用しましています。 カバー工法ですので、既存の枠を外すことなく、枠の上に新たな枠を取り付けることで、1日で玄関ドアを交換することができました。 既存の障子を外しての内窓を設置でしたので、YKKAPのプラマードUの障子風のデザインにしてみました。 【窓リノベ関連商品】 ...
登米市石越町、海上連親水公園南側の市道に椚崎館跡の標柱があります。 標柱の背面の丘陵一体が館跡となっています。 中世の館跡で頂上は本丸跡、二の丸があります。 伊達政宗が葛西家臣の残党狩りをした際、次郎左衛門庸胤がこの館に潜んだといい、別名忍ヶ館とも呼ばれています。 千葉越前道胤は初め椚崎に住み、西門館が完成するに及び弟次郎左衛門庸胤に譲って西門館に移る際、熊野堂を同時に椚崎館より移転したと伝えら...
奥州市水沢区 水沢公園内北側に鎮座する正喜稲荷社の鳥居の交換工事を行いました。 既存の鳥居の腐朽により交換の依頼を受けたものです。 木材は桧材を使用し、笠木には銅板を葺いています。 依頼人よりご希望で桜色のカラーを施しています。 【水沢公園MAP】 奥州市水沢中上野町 【奥州市関連商品】 ...
JP大船渡線岩ノ下駅西側の市道と崖地一帯が鳥畑館跡となっています。 葛西重信の近習として使えていた千葉信胤の第四子の胤持が、永正十二(1515)年、磐井郡で百余貫を賜り鳥畑館を築き、鳥畑氏と称したと云われています。 その後、天正十三(1585)年四代堅長が薄衣城主と不和になり敗れ、大原城主をたよって亡命し、鳥畑館は四代71年で終止符をうちました。 鳥畑館は切り立った絶壁の上に、東西30m、南北70mほどの平地...
西大立目館跡は国道284号線と県道267号線(松川千厩線)を結ぶ市道沿い、薄衣と門崎との峠の頂部付近に位置する近世の居館跡になります。 西大立目氏は伊達晴宗の代から仕えて御一族に列し、伊達政宗が仙台に移る時に西大目立重信が薄衣村約百石を賜り外山に居を構え、 明治期まで代々居住したと云われています。 西大立目館(外山館)は館地は二丁歩、敷地内には守護神熊野三社と岩永瀧川寺(廃寺)・馬場・家中屋敷あったと...
一関市大東町渋民地区旧街道からほど近いところに東川院という曹洞宗の寺院があります。 この寺院の観音堂の本尊である「木造聖観音坐像」(国重文)の修復に伴い、観音堂(RC造)の内装改修工事を行いました。 これまでクロス貼の内装から一部の木部を残し天井、壁を杉の羽目板、床も杉板貼りに変更しました。 展示スペース下に改修前にはなかった戸袋を設け収納スペースとしています。 【金谷稲荷山 東川院】 もともとは宮...
登米市東和町国道346号線沿い、東和砕石㈲入り口脇の民家の一帯が梁川宗元の屋敷跡となっています。 登米伊達氏初代伊達宗直の三男又四郎宗元は、祖父である梁川宗清の姓を受け継ぎ、米谷村北方と鱒渕村の百四十三貫文(諸説あり)を拝領したとされています。 【梁川宗元屋敷跡MAP】 登米市東和町米谷吉田 【登米市関連商品】 ...
一関市内にて窓リノベ事業補助金を活用したリフォーム工事を行いました。 玄関ドアはLIXLのリシェントを採用しましています。 カバー工法ですので、既存の枠を外すことなく、枠の上に新たな枠を取り付けることで、1日で玄関ドアを交換することができました。 既存の障子を外しての内窓を設置でしたので、YKKAPのプラマードUの障子風のデザインにしてみました。 【窓リノベ関連商品】 ...
登米市石越町、海上連親水公園南側の市道に椚崎館跡の標柱があります。 標柱の背面の丘陵一体が館跡となっています。 中世の館跡で頂上は本丸跡、二の丸があります。 伊達政宗が葛西家臣の残党狩りをした際、次郎左衛門庸胤がこの館に潜んだといい、別名忍ヶ館とも呼ばれています。 千葉越前道胤は初め椚崎に住み、西門館が完成するに及び弟次郎左衛門庸胤に譲って西門館に移る際、熊野堂を同時に椚崎館より移転したと伝えら...
奥州市水沢区 水沢公園内北側に鎮座する正喜稲荷社の鳥居の交換工事を行いました。 既存の鳥居の腐朽により交換の依頼を受けたものです。 木材は桧材を使用し、笠木には銅板を葺いています。 依頼人よりご希望で桜色のカラーを施しています。 【水沢公園MAP】 奥州市水沢中上野町 【奥州市関連商品】 ...
JP大船渡線岩ノ下駅西側の市道と崖地一帯が鳥畑館跡となっています。 葛西重信の近習として使えていた千葉信胤の第四子の胤持が、永正十二(1515)年、磐井郡で百余貫を賜り鳥畑館を築き、鳥畑氏と称したと云われています。 その後、天正十三(1585)年四代堅長が薄衣城主と不和になり敗れ、大原城主をたよって亡命し、鳥畑館は四代71年で終止符をうちました。 鳥畑館は切り立った絶壁の上に、東西30m、南北70mほどの平地...
西大立目館跡は国道284号線と県道267号線(松川千厩線)を結ぶ市道沿い、薄衣と門崎との峠の頂部付近に位置する近世の居館跡になります。 西大立目氏は伊達晴宗の代から仕えて御一族に列し、伊達政宗が仙台に移る時に西大目立重信が薄衣村約百石を賜り外山に居を構え、 明治期まで代々居住したと云われています。 西大立目館(外山館)は館地は二丁歩、敷地内には守護神熊野三社と岩永瀧川寺(廃寺)・馬場・家中屋敷あったと...
一関市大東町渋民地区旧街道からほど近いところに東川院という曹洞宗の寺院があります。 この寺院の観音堂の本尊である「木造聖観音坐像」(国重文)の修復に伴い、観音堂(RC造)の内装改修工事を行いました。 これまでクロス貼の内装から一部の木部を残し天井、壁を杉の羽目板、床も杉板貼りに変更しました。 展示スペース下に改修前にはなかった戸袋を設け収納スペースとしています。 【金谷稲荷山 東川院】 もともとは宮...
登米市東和町国道346号線沿い、東和砕石㈲入り口脇の民家の一帯が梁川宗元の屋敷跡となっています。 登米伊達氏初代伊達宗直の三男又四郎宗元は、祖父である梁川宗清の姓を受け継ぎ、米谷村北方と鱒渕村の百四十三貫文(諸説あり)を拝領したとされています。 【梁川宗元屋敷跡MAP】 登米市東和町米谷吉田 【登米市関連商品】 ...
国立天文台水沢VLBI観測所より西へ向かった東北自動車道沿いの田園地帯の中に福原農村公園があります。 この場所は後藤寿庵の居館跡と云われており、館の東側には東西五町三十間(約600m)の侍小路があり、両側を屋敷割りをして家臣を住まわせました。 後藤寿庵の出自については諸説あり定かではありませんが、1612(慶長十七)年頃、諸外国に通じるということで伊達政宗の家臣となり千二百石をもって福原の領主となりました...
奥州市水沢区、奥州市役所(水沢要害跡)から西の日高小路に鎮座している神社になります。 平安時代後期の前九年の合戦の際、長雨で疲弊した源頼義、義家の軍勢がこの神社に祈ったところ雨がやみ、未の刻に太陽があらわれたので、当社を「日高山見未ノ妙見」名付けたと云われています。 以後、中世を通じて、柏山氏の寄進を受け、胆沢郡総鎮守として信仰を集め別当は羽黒派修験多宝院が務めました。 神社は本殿・幣殿・拝殿...