電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
アメリカが我が国への石油禁輸を決めた直後の1941(昭和16)年8月9日、フランクリン=ルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と大西洋上で極秘に会談を行い、同月14日に両国は「大西洋憲章」を結びました。憲章において米英両国は大戦終結後の世界秩序の構想を決定したとされていますが、憲章を結んだ段階でアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していないことから、実質的には両国首脳が対日戦争に関する協議を行ったといえ...
先述したように、当時のアメリカとイギリスは、日本をアメリカと戦争させ、なおかつ第一撃を日本に撃たせるよう、すなわち先制攻撃を我が国にさせるべく画策していました。そのために石油などの重要な資源を輸出しない、すなわち「売らない」ことで我が国を追いつめようとしていたのです。一方、南部仏印を含む南洋ルートはゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛んでした。北進論を断念した我が国にとって、...
【ハイブリッド方式】第90回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年5月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
アメリカによって昭和15(1940)年に日米通商航海条約を廃棄させられた我が国は、物資や石油などの重要な資源の不足に悩まされたことで、蘭印に対して戦略物資の輸入交渉を続けましたが、先述のとおりABCDラインでアメリカやイギリスとつながっていたオランダによって交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げました。このため、我が国はフランスに対して植民地である仏印の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。南部仏印はタ...
日華事変の泥沼化や日独伊三国同盟の締結、さらには北部仏印進駐にABCDラインの形成など、様々な戦闘行為や外交状況が重なるなかで我が国とアメリカとの関係はますます悪化していきました。こうした事態を打開するため、第二次近衛文麿内閣は昭和16(1941)年に日米交渉を本格化させました。日米交渉における我が国側の窓口となったのは、駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)でした。野村はフランクリン=ルーズベルト大統...
1941(昭和16)年6月に独ソ戦が始まった際に、我が国はドイツを助けてソ連を攻撃する(=北進論)か、あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出する(=南進論)かという大きな岐路(きろ)に立たされました。しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2か月でソ連を攻撃すれば国際的な非難が集中するのは明白でした。結局我が国は翌7月に昭和天皇ご臨席のもとで...
話が先走りますが、第二次世界大戦に勝利することでアメリカは悲願であった東アジアに対する権益を持つことができると確信していました。自国が手を伸ばそうとした地域に対して先に日本が不当に支配(実際には正当な権益でしたが)していたのを憎んだからこそ、多大な犠牲を払いながらも我が国を叩き潰したのです。しかし、満州を含む中国大陸では蒋介石が追われて中国共産党の毛沢東(もうたくとう)が中華人民共和国を建国し、朝...
第二次世界大戦の開戦直後のドイツはフランスを降伏させるなど破竹の勢いで勝ち進み、イギリスは本土を空爆されるまで追いつめられていましたが、そんな折に首相に就任したチャーチルは、イギリスがドイツに勝利するためには、アメリカを味方につけてヨーロッパの戦争に引きずり込むしかないと考えるようになっていました。一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公...
アメリカやイギリスを中心とする重要資源の輸入制限に悩まされた我が国は、蘭印(らんいん、オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入の交渉を始めましたが、当時のオランダは裏でアメリカやイギリスとつながっており、断続的に行われた交渉は最終的に失敗に終わりました。こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中華民国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、...
昭和12(1937)年に勃発した日華事変は、同年12月に首都の南京(ナンキン)が陥落(かんらく)し、蒋介石(しょうかいせき)が重慶(じゅうけい)に逃げ込んだ後も泥沼化していましたが、その最大の要因は、日華事変に関しては中立国のはずであったアメリカやイギリス・フランスを中心として、蒋介石に対する経済的・軍事的な援助が続いていたことにありました。我が国は蒋介石への援助を断ち切るためチャイナの沿岸を封鎖しました...
当時の外務大臣だった松岡洋右には、日独伊三国同盟を結ぶことによってアメリカにプレッシャーをかけ、泥沼化していた日華事変の解決や難航していた日米交渉をまとめようという思惑がありました。松岡外相はアメリカを説得するため、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連にも接近して昭和16(1941)年4月に「日ソ中立条約」を締結しましたが、そのわずか2か月後の6月にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したため、外相の目...
かくして我が国はドイツやイタリアと日独伊三国同盟を結んだわけですが、この三国が急接近した背景には、かつての世界恐慌がもたらしたブロック経済が大きくかかわっていました。ブロック経済は、アメリカやイギリスあるいはフランスなどのように広大な領土や植民地を有する「持てる国」であれば自給自足が可能ですが、広大な領土や植民地を「持たざる国」であった我が国やドイツ・イタリアなどにとっては、まさに死活問題でした。...
阿部信行内閣の後を受けて昭和15(1940)年1月に成立した米内光政(よないみつまさ)内閣は親英米派であるとともにドイツとの同盟に反対していましたが、同年6月に勢いに乗るドイツがフランスを降伏させると、陸軍が米内内閣の陸軍大臣を辞任させて後任者を推薦(すいせん)しなかったため、軍部大臣現役武官制によって米内首相は同年7月に内閣を総辞職せざるを得ませんでした。米内にかわって内閣を組織したのは、元枢密院(すう...
アメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告してきた理由は「言いがかり」に等しいものでしたが、我が国の懸命の交渉も実らず条約の廃棄が翌昭和15(1940)年1月から発効したため、日華事変の遂行(すいこう)などに必要な物資の多くをアメリカからの輸入に依存していた我が国は大打撃を受けました。我が国がアメリカから理不尽ともいえる仕打ちを受けていた頃、第二次世界大戦を始めたドイツは破竹の勢いで緒戦を制し、大いなる強さ...
独ソ不可侵条約の締結を理由に平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣が総辞職し、昭和14(1939)年8月に阿部信行(あべのぶゆき)が新たに内閣を組織した直後の同年9月1日に、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)しましたが、阿部首相は日華(にっか)事変(=日中戦争)の解決を優先して大戦不介入の方針をとりました。阿部内閣はアメリカとの関係改善をめざして交渉を続けましたが、すでに対日戦略を...
当時の欧米列強を揺(ゆ)るがした世界恐慌をはじめ、我が国でも昭和初期からの金融恐慌や昭和恐慌などが相次いだことで、世界においてそれまでの自由主義経済が行きづまったと認識された一方で、圧倒的な国力を背景に社会主義国のソ連が大きな成長を続けているように見えたことから、当時の世界の大きな流れが社会主義に傾きつつあったということを私たちは忘れてはいけません。さらには、ソ連が体制維持のためにコミンテルンを組...
これまで述べてきたように、結果だけを見れば宥和政策を続けたことが第二次世界大戦の引き金になったのは疑いようがないものの、だからと言って宥和政策そのものが「間違いであった」とは決めつけられない一面もありますね。史実においては、第二次世界大戦で我が国やドイツとイタリアが徹底的に叩き潰されたわけですが、イギリスやフランス、あるいはアメリカなどにとっての「本当の敵」は果たしてどの国だったのでしょうか。もし...
【オンライン式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年5月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、本来は従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しておりますが、今回は諸般の事情によりオンライン式の講座のみとさせていただきます。ご了承ください。オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりま...
ドイツとソ連とがやがて戦争を始める運命にあったということは、当初の宥和政策の目的の一つであった「ソ連を倒すためにドイツを利用する」ことが決して間違っていなかったということにもなります。実際にドイツがポーランドに侵攻したことで自国の安全保障に重大な懸念が生じたわけですから、イギリスやフランスがドイツに宣戦布告をしたというのも決して無理はありません。しかし、ドイツとソ連とがいずれは衝突するという読みが...
ヒトラー率いるドイツのナチスと、スターリンを中心とするソ連の共産党とは、いずれも「国家が経済を完全にコントロールし、自由な経済活動を一切認めない」という点において全く同じでした。両国の違いは、ナチスが「国家が主体となって行う社会主義」を目標としたのに対し、ソ連が「人民が主体となって行う社会主義」を目標としただけであり、しかもソ連において実際に政治を動かしていたのは「共産党=国家」であったのですから...
以上のように考えれば、宥和政策は確かに失敗だったと言わざるを得ないかもしれませんが、その一方で結果だけを見たり、あるいは現代の価値観だけで物事を考えたりすることが本当に正しいでしょうか。先述のとおり、当時はチェンバレン政権のイギリスのみならず、主要国のほとんどが第一次世界大戦のトラウマから厭戦(えんせん)ムードとなっており、宥和政策の転換をためらっていたことを忘れてはいけませんし、そんな中でイギリ...
ところで、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した大きな原因の一つに、それ以前にイギリスが行っていた「宥和政策」が失敗に終わったことがあるという見解が一般的なようですが、これは本当のことでしょうか。先述のとおり、イギリスのチェンバレン首相(当時)が宥和政策を決断したのはドイツに対抗できるだけの戦力を再建するための時間稼ぎという一面もありましたが、これに味をしめたヒトラーが増長したとい...
首都パリの陥落によってフランスの第三共和政は崩壊し、北半分がドイツに占領されたほか、南半分にはドイツに協力的なヴィシー政権が誕生しましたが、ロンドンに亡命したド=ゴール将軍はイギリスで自由フランス政府を組織して国民に抵抗を呼びかけました。これを「レジスタンス」といいます。また、イギリスではドイツによる激しい空襲が繰り返されましたが、1940(昭和15)年にチェンバレンにかわって首相に就任したチャーチルが...
勢いに乗るドイツはフランスにも総攻撃を仕掛け、1940(昭和15)年6月に首都のパリを落としました。パリ陥落(かんらく)を受けて、ドイツの攻撃を見守っていたイタリアも参戦し、第二次世界大戦はさらに複雑化するようになりました。なお、フランス軍はパリから退却する際に首都攻防戦を選択せずに無傷でドイツに明け渡すという、いわゆる「オープン・シティ」化を採りましたが、これは後日にパリを奪還すべく力を蓄えて捲土重来...
独ソ不可侵条約に力を得たヒトラー率いるドイツは、1939(昭和14)年9月1日にポーランドへ侵攻しました。これに対し、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告したことで、ついに「第二次世界大戦」が始まりました。ドイツがポーランドへ侵攻してその西半分を占領した直後の9月17日、今度はソ連がポーランドへ侵攻して、東半分を占領しました。勢いに乗るソ連は続いてフィンランドへ侵攻したほか、翌1940(昭和15)年には、...
1939(昭和14)年5月、ソ連軍はノモンハン事件をきっかけとして我が国の関東軍と激しい戦闘を繰り広げましたが、機械化部隊に壊滅的打撃を受けたほか、兵力の被害も我が国の倍以上に達するなど大敗北を喫しました。この結果に慌(あわ)てたソ連のスターリンはドイツに停戦の仲介を依頼するとともに、ヨーロッパとアジアの二正面から攻撃を受けないようにするためドイツと和平を結ぶことを画策しましたが、これはポーランド侵攻を...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年5月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
1938(昭和13)年3月、ドイツは民族統合を名目としてオーストリアを併合し、さらに9月にはドイツ人が多く居住するチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)のズデーテン地方の割譲(かつじょう)を要求するなど、その膨張(ぼうちょう)ぶりは目を見張るものがありました。ドイツの要求に対し、イギリスのチェンバレン首相は話し合いと譲歩による宥和(ゆうわ)政策を推進し、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの4か国が...
※今回より「昭和時代・戦前」の更新を再開します(6月13日までの予定)。ヒトラーが率いたナチス[=国家(国民)社会主義ドイツ労働者党]が政権を握ってからのドイツは、1936(昭和11)年に首都ベルリンで夏季オリンピックを開催するなど、国家社会主義に基づく驚異的な経済復興を成し遂(と)げ、国民生活も向上しました。しかし、それまでのヴェルサイユ体制を打破して領土を再分割し、世界恐慌(きょうこう)後の苦境から脱出...
※「第89回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(5月6日)からは「昭和時代・戦前」の更新を再開します(6月13日までの予定)。嘉吉(かきつ)元(1441)年旧暦6月、義教は結城合戦の祝勝会を行うという名目で、守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれましたが、宴(うたげ)の最中に突如(とつじょ)として乱入してきた武者たちに取り押さえられ、あっという間に首をはねられました。そのあまりの...
義教は、中央で使用する年号を無視するなど、将軍の命令に逆らい続けた鎌倉府に対しても牙(きば)をむきました。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)との間が不和になると、義教は関東へ出兵して、永享11(1439)年に持氏を滅ぼすことに成功しました。この争いは当時の年号から「永享の乱」と呼ばれています。さらに翌永享12(1440)年には、持氏の遺児を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙...
義教は籤によって将軍に就任したという事実を「自分は神に選ばれた将軍である」と解釈することで、将軍就任後は強気の政治を実行しましたが、そんな義教が目指したのが、衰えていた将軍の権威の向上と、守護たちに政治をさせない将軍親政の復活でした。まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤(うるお)すと、その財力で奉公衆を整備して、将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方...
義持が自分で後継者を決めなかったことを受けて、幕府の家臣たちはあれこれ考えた末に、義持の弟たちで義満の子でもある4人の僧の名前を書いた籤(くじ)を作成し、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神前でその籤を引きました。そして、応永35(1428)年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封した結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)が選ばれました。義満がかつて自分の権...
応永15(1408)年に義満が急死した後、義満の子で4代将軍の足利義持と、その子で5代将軍の足利義量(あしかがよしかず)が存在していた頃の室町幕府は、九州地方が有力守護の支配を受けたり、鎌倉公方が幕府の命令に従わずに半独立状態になったりするなど、常に不安定な状態が続きました。特に鎌倉府では、応永23(1416)年に前の関東管領であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を追放す...
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電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...