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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 行きづまる日米交渉 その4

    アメリカが我が国への石油禁輸を決めた直後の1941(昭和16)年8月9日、フランクリン=ルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と大西洋上で極秘に会談を行い、同月14日に両国は「大西洋憲章」を結びました。憲章において米英両国は大戦終結後の世界秩序の構想を決定したとされていますが、憲章を結んだ段階でアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していないことから、実質的には両国首脳が対日戦争に関する協議を行ったといえ...

  • 行きづまる日米交渉 その3

    先述したように、当時のアメリカとイギリスは、日本をアメリカと戦争させ、なおかつ第一撃を日本に撃たせるよう、すなわち先制攻撃を我が国にさせるべく画策していました。そのために石油などの重要な資源を輸出しない、すなわち「売らない」ことで我が国を追いつめようとしていたのです。一方、南部仏印を含む南洋ルートはゴムや錫(すず)などの天然資源が豊富であり、コメの生産も盛んでした。北進論を断念した我が国にとって、...

  • 【ハイブリッド方式】第90回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年5月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 行きづまる日米交渉 その2

    アメリカによって昭和15(1940)年に日米通商航海条約を廃棄させられた我が国は、物資や石油などの重要な資源の不足に悩まされたことで、蘭印に対して戦略物資の輸入交渉を続けましたが、先述のとおりABCDラインでアメリカやイギリスとつながっていたオランダによって交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げました。このため、我が国はフランスに対して植民地である仏印の南部に日本軍を進駐させるよう交渉を続けました。南部仏印はタ...

  • 行きづまる日米交渉 その1

    日華事変の泥沼化や日独伊三国同盟の締結、さらには北部仏印進駐にABCDラインの形成など、様々な戦闘行為や外交状況が重なるなかで我が国とアメリカとの関係はますます悪化していきました。こうした事態を打開するため、第二次近衛文麿内閣は昭和16(1941)年に日米交渉を本格化させました。日米交渉における我が国側の窓口となったのは、駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)でした。野村はフランクリン=ルーズベルト大統...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その10

    1941(昭和16)年6月に独ソ戦が始まった際に、我が国はドイツを助けてソ連を攻撃する(=北進論)か、あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出する(=南進論)かという大きな岐路(きろ)に立たされました。しかし、いかにドイツやイタリアと三国同盟を結んでいたとしても、日ソ中立条約が結ばれてからわずか2か月でソ連を攻撃すれば国際的な非難が集中するのは明白でした。結局我が国は翌7月に昭和天皇ご臨席のもとで...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その9

    話が先走りますが、第二次世界大戦に勝利することでアメリカは悲願であった東アジアに対する権益を持つことができると確信していました。自国が手を伸ばそうとした地域に対して先に日本が不当に支配(実際には正当な権益でしたが)していたのを憎んだからこそ、多大な犠牲を払いながらも我が国を叩き潰したのです。しかし、満州を含む中国大陸では蒋介石が追われて中国共産党の毛沢東(もうたくとう)が中華人民共和国を建国し、朝...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その8

    第二次世界大戦の開戦直後のドイツはフランスを降伏させるなど破竹の勢いで勝ち進み、イギリスは本土を空爆されるまで追いつめられていましたが、そんな折に首相に就任したチャーチルは、イギリスがドイツに勝利するためには、アメリカを味方につけてヨーロッパの戦争に引きずり込むしかないと考えるようになっていました。一方、アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領も「攻撃を受けた場合を除いて絶対に戦争はしない」と公...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その7

    アメリカやイギリスを中心とする重要資源の輸入制限に悩まされた我が国は、蘭印(らんいん、オランダ領東インド、現在のインドネシア)に対して戦略物資の輸入の交渉を始めましたが、当時のオランダは裏でアメリカやイギリスとつながっており、断続的に行われた交渉は最終的に失敗に終わりました。こうして、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中華民国(China)・オランダ(Dutch)といった東アジアに権益を持つ国々が、...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その6

    昭和12(1937)年に勃発した日華事変は、同年12月に首都の南京(ナンキン)が陥落(かんらく)し、蒋介石(しょうかいせき)が重慶(じゅうけい)に逃げ込んだ後も泥沼化していましたが、その最大の要因は、日華事変に関しては中立国のはずであったアメリカやイギリス・フランスを中心として、蒋介石に対する経済的・軍事的な援助が続いていたことにありました。我が国は蒋介石への援助を断ち切るためチャイナの沿岸を封鎖しました...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その5

    当時の外務大臣だった松岡洋右には、日独伊三国同盟を結ぶことによってアメリカにプレッシャーをかけ、泥沼化していた日華事変の解決や難航していた日米交渉をまとめようという思惑がありました。松岡外相はアメリカを説得するため、ドイツと不可侵条約を結んでいたソ連にも接近して昭和16(1941)年4月に「日ソ中立条約」を締結しましたが、そのわずか2か月後の6月にドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したため、外相の目...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その4

    かくして我が国はドイツやイタリアと日独伊三国同盟を結んだわけですが、この三国が急接近した背景には、かつての世界恐慌がもたらしたブロック経済が大きくかかわっていました。ブロック経済は、アメリカやイギリスあるいはフランスなどのように広大な領土や植民地を有する「持てる国」であれば自給自足が可能ですが、広大な領土や植民地を「持たざる国」であった我が国やドイツ・イタリアなどにとっては、まさに死活問題でした。...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その3

    阿部信行内閣の後を受けて昭和15(1940)年1月に成立した米内光政(よないみつまさ)内閣は親英米派であるとともにドイツとの同盟に反対していましたが、同年6月に勢いに乗るドイツがフランスを降伏させると、陸軍が米内内閣の陸軍大臣を辞任させて後任者を推薦(すいせん)しなかったため、軍部大臣現役武官制によって米内首相は同年7月に内閣を総辞職せざるを得ませんでした。米内にかわって内閣を組織したのは、元枢密院(すう...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その2

    アメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告してきた理由は「言いがかり」に等しいものでしたが、我が国の懸命の交渉も実らず条約の廃棄が翌昭和15(1940)年1月から発効したため、日華事変の遂行(すいこう)などに必要な物資の多くをアメリカからの輸入に依存していた我が国は大打撃を受けました。我が国がアメリカから理不尽ともいえる仕打ちを受けていた頃、第二次世界大戦を始めたドイツは破竹の勢いで緒戦を制し、大いなる強さ...

  • 三国同盟と日ソ中立条約 その1

    独ソ不可侵条約の締結を理由に平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣が総辞職し、昭和14(1939)年8月に阿部信行(あべのぶゆき)が新たに内閣を組織した直後の同年9月1日に、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)しましたが、阿部首相は日華(にっか)事変(=日中戦争)の解決を優先して大戦不介入の方針をとりました。阿部内閣はアメリカとの関係改善をめざして交渉を続けましたが、すでに対日戦略を...

  • 第二次世界大戦の勃発 その12

    当時の欧米列強を揺(ゆ)るがした世界恐慌をはじめ、我が国でも昭和初期からの金融恐慌や昭和恐慌などが相次いだことで、世界においてそれまでの自由主義経済が行きづまったと認識された一方で、圧倒的な国力を背景に社会主義国のソ連が大きな成長を続けているように見えたことから、当時の世界の大きな流れが社会主義に傾きつつあったということを私たちは忘れてはいけません。さらには、ソ連が体制維持のためにコミンテルンを組...

  • 第二次世界大戦の勃発 その11

    これまで述べてきたように、結果だけを見れば宥和政策を続けたことが第二次世界大戦の引き金になったのは疑いようがないものの、だからと言って宥和政策そのものが「間違いであった」とは決めつけられない一面もありますね。史実においては、第二次世界大戦で我が国やドイツとイタリアが徹底的に叩き潰されたわけですが、イギリスやフランス、あるいはアメリカなどにとっての「本当の敵」は果たしてどの国だったのでしょうか。もし...

  • 【オンライン式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年5月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、本来は従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しておりますが、今回は諸般の事情によりオンライン式の講座のみとさせていただきます。ご了承ください。オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりま...

  • 第二次世界大戦の勃発 その10

    ドイツとソ連とがやがて戦争を始める運命にあったということは、当初の宥和政策の目的の一つであった「ソ連を倒すためにドイツを利用する」ことが決して間違っていなかったということにもなります。実際にドイツがポーランドに侵攻したことで自国の安全保障に重大な懸念が生じたわけですから、イギリスやフランスがドイツに宣戦布告をしたというのも決して無理はありません。しかし、ドイツとソ連とがいずれは衝突するという読みが...

  • 第二次世界大戦の勃発 その9

    ヒトラー率いるドイツのナチスと、スターリンを中心とするソ連の共産党とは、いずれも「国家が経済を完全にコントロールし、自由な経済活動を一切認めない」という点において全く同じでした。両国の違いは、ナチスが「国家が主体となって行う社会主義」を目標としたのに対し、ソ連が「人民が主体となって行う社会主義」を目標としただけであり、しかもソ連において実際に政治を動かしていたのは「共産党=国家」であったのですから...

  • 第二次世界大戦の勃発 その8

    以上のように考えれば、宥和政策は確かに失敗だったと言わざるを得ないかもしれませんが、その一方で結果だけを見たり、あるいは現代の価値観だけで物事を考えたりすることが本当に正しいでしょうか。先述のとおり、当時はチェンバレン政権のイギリスのみならず、主要国のほとんどが第一次世界大戦のトラウマから厭戦(えんせん)ムードとなっており、宥和政策の転換をためらっていたことを忘れてはいけませんし、そんな中でイギリ...

  • 第二次世界大戦の勃発 その7

    ところで、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した大きな原因の一つに、それ以前にイギリスが行っていた「宥和政策」が失敗に終わったことがあるという見解が一般的なようですが、これは本当のことでしょうか。先述のとおり、イギリスのチェンバレン首相(当時)が宥和政策を決断したのはドイツに対抗できるだけの戦力を再建するための時間稼ぎという一面もありましたが、これに味をしめたヒトラーが増長したとい...

  • 第二次世界大戦の勃発 その6

    首都パリの陥落によってフランスの第三共和政は崩壊し、北半分がドイツに占領されたほか、南半分にはドイツに協力的なヴィシー政権が誕生しましたが、ロンドンに亡命したド=ゴール将軍はイギリスで自由フランス政府を組織して国民に抵抗を呼びかけました。これを「レジスタンス」といいます。また、イギリスではドイツによる激しい空襲が繰り返されましたが、1940(昭和15)年にチェンバレンにかわって首相に就任したチャーチルが...

  • 第二次世界大戦の勃発 その5

    勢いに乗るドイツはフランスにも総攻撃を仕掛け、1940(昭和15)年6月に首都のパリを落としました。パリ陥落(かんらく)を受けて、ドイツの攻撃を見守っていたイタリアも参戦し、第二次世界大戦はさらに複雑化するようになりました。なお、フランス軍はパリから退却する際に首都攻防戦を選択せずに無傷でドイツに明け渡すという、いわゆる「オープン・シティ」化を採りましたが、これは後日にパリを奪還すべく力を蓄えて捲土重来...

  • 第二次世界大戦の勃発 その4

    独ソ不可侵条約に力を得たヒトラー率いるドイツは、1939(昭和14)年9月1日にポーランドへ侵攻しました。これに対し、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告したことで、ついに「第二次世界大戦」が始まりました。ドイツがポーランドへ侵攻してその西半分を占領した直後の9月17日、今度はソ連がポーランドへ侵攻して、東半分を占領しました。勢いに乗るソ連は続いてフィンランドへ侵攻したほか、翌1940(昭和15)年には、...

  • 第二次世界大戦の勃発 その3

    1939(昭和14)年5月、ソ連軍はノモンハン事件をきっかけとして我が国の関東軍と激しい戦闘を繰り広げましたが、機械化部隊に壊滅的打撃を受けたほか、兵力の被害も我が国の倍以上に達するなど大敗北を喫しました。この結果に慌(あわ)てたソ連のスターリンはドイツに停戦の仲介を依頼するとともに、ヨーロッパとアジアの二正面から攻撃を受けないようにするためドイツと和平を結ぶことを画策しましたが、これはポーランド侵攻を...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年5月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 第二次世界大戦の勃発 その2

    1938(昭和13)年3月、ドイツは民族統合を名目としてオーストリアを併合し、さらに9月にはドイツ人が多く居住するチェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)のズデーテン地方の割譲(かつじょう)を要求するなど、その膨張(ぼうちょう)ぶりは目を見張るものがありました。ドイツの要求に対し、イギリスのチェンバレン首相は話し合いと譲歩による宥和(ゆうわ)政策を推進し、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの4か国が...

  • 第二次世界大戦の勃発 その1

    ※今回より「昭和時代・戦前」の更新を再開します(6月13日までの予定)。ヒトラーが率いたナチス[=国家(国民)社会主義ドイツ労働者党]が政権を握ってからのドイツは、1936(昭和11)年に首都ベルリンで夏季オリンピックを開催するなど、国家社会主義に基づく驚異的な経済復興を成し遂(と)げ、国民生活も向上しました。しかし、それまでのヴェルサイユ体制を打破して領土を再分割し、世界恐慌(きょうこう)後の苦境から脱出...

  • 「くじ引き将軍」義教の政治 その5

    ※「第89回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(5月6日)からは「昭和時代・戦前」の更新を再開します(6月13日までの予定)。嘉吉(かきつ)元(1441)年旧暦6月、義教は結城合戦の祝勝会を行うという名目で、守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれましたが、宴(うたげ)の最中に突如(とつじょ)として乱入してきた武者たちに取り押さえられ、あっという間に首をはねられました。そのあまりの...

  • 「くじ引き将軍」義教の政治 その4

    義教は、中央で使用する年号を無視するなど、将軍の命令に逆らい続けた鎌倉府に対しても牙(きば)をむきました。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)との間が不和になると、義教は関東へ出兵して、永享11(1439)年に持氏を滅ぼすことに成功しました。この争いは当時の年号から「永享の乱」と呼ばれています。さらに翌永享12(1440)年には、持氏の遺児を擁(よう)して結城氏朝(ゆうきうじとも)らが挙...

  • 「くじ引き将軍」義教の政治 その3

    義教は籤によって将軍に就任したという事実を「自分は神に選ばれた将軍である」と解釈することで、将軍就任後は強気の政治を実行しましたが、そんな義教が目指したのが、衰えていた将軍の権威の向上と、守護たちに政治をさせない将軍親政の復活でした。まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤(うるお)すと、その財力で奉公衆を整備して、将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方...

  • 「くじ引き将軍」義教の政治 その2

    義持が自分で後継者を決めなかったことを受けて、幕府の家臣たちはあれこれ考えた末に、義持の弟たちで義満の子でもある4人の僧の名前を書いた籤(くじ)を作成し、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神前でその籤を引きました。そして、応永35(1428)年に義持が亡くなった直後に当たり籤を開封した結果、比叡山延暦寺の最高位である天台座主(てんだいざす)の義円(ぎえん)が選ばれました。義満がかつて自分の権...

  • 「くじ引き将軍」義教の政治 その1

    応永15(1408)年に義満が急死した後、義満の子で4代将軍の足利義持と、その子で5代将軍の足利義量(あしかがよしかず)が存在していた頃の室町幕府は、九州地方が有力守護の支配を受けたり、鎌倉公方が幕府の命令に従わずに半独立状態になったりするなど、常に不安定な状態が続きました。特に鎌倉府では、応永23(1416)年に前の関東管領であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)が鎌倉公方の足利持氏(あしかがもちうじ)を追放す...

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