chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
フォロー
住所
北区
出身
北区
ブログ村参加

2012/08/07

arrow_drop_down
  • 室町幕府の組織 その4

    奉公衆は将軍直属の軍事力として、普段は京都で将軍の身辺警護にあたりながら諸国の守護の動向にも気を配り、明徳の乱や応永の乱などで活躍しました。また、奉公衆は諸国に散在する将軍の直轄領である御料所(ごりょうしょ)の管理を任されました。幕府の財政は、御料所からの収入を基盤として各地の守護や地頭からも課税していましたが、成長した守護大名らがその支払いを拒否することが多かったため、別の財源を求めざるを得ませ...

  • 室町幕府の組織 その3

    ところで、鎌倉幕府の誕生の際に源頼朝が「武士のための政治」を初めて成立させたことや、頼朝自体の血筋によるカリスマ性、さらには頼朝亡き後に北条氏が武力などで他の御家人を従わせるとともに得宗(とくそう)専制政治を実現したことなどによって、幕府と御家人との間には「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」と呼ばれる強い主従関係がありました。しかし、室町幕府の成立の際には、そんな「御恩と奉公」の関係が成り立たなく...

  • 室町幕府の組織 その2

    室町幕府の組織は、3代将軍の足利義満の頃までにほぼ整いました。将軍を補佐する中心的な組織として幕府の機関を統轄し、諸国の守護に対する将軍の命令を伝える管領(かんれい)が設けられ、足利氏の一門にあたる細川(ほそかわ)、斯波(しば)、畠山(はたけやま)の各氏が交代で任命されました。また、京都内外の治安維持などにあたる侍所(さむらいどころ)の長官である所司(しょし)には、有力な守護大名である赤松(あかま...

  • 室町幕府の組織 その1

    室町幕府の初代将軍である足利尊氏は、吉野の南朝に対抗するため京都に幕府を開きましたが、従来の武士の本拠地である鎌倉を無視することも出来ませんでした。そこで、鎌倉には鎌倉府(=関東府)を置き、尊氏の子の足利基氏(あしかがもとうじ)を鎌倉公方(かまくらくぼう、または関東公方)に任命しました。鎌倉公方はこの後も基氏の子が世襲(せしゅう)することになりました。また、鎌倉公方を補佐する役職としては関東管領(...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その9

    こうして様々な手段で自身の地位を固めた義満は、妻である日野康子(ひのやすこ)を天皇の生母と同じ地位を与えられる准母(じゅんぼ)とするなど、身内にも皇室に近い待遇を与え始めました。さらに義満の子の足利義嗣(あしかがよしつぐ)が成人した際の儀式である元服(げんぷく)の際には、宮中で天皇の子である親王に準じた形式で行いました。つまり、義嗣は親王と同じ待遇になったのです。ということは、近い将来には義嗣が天...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その8

    金閣寺の1階は寝殿造ですが、これは皇室や貴族などの朝廷をあらわしており、2階の武家造は室町幕府を意味しています。つまり、幕府が朝廷の上に存在するという意思を義満が明確に示しているという解釈が可能になるのです。さらにその上の3階の禅宗様は中国風ですが、これは当時明から「日本国王」に任じられていた義満自身を指していると考えられ、義満が「自分は朝廷も幕府も超えた存在である」と自ら宣言しているに等しいことに...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その7

    応永6(1399)年、義満が建立(こんりゅう)させた相国寺(しょうこくじ)の七重大塔(しちじゅうだいとう)が完成して落慶法要(らっけいほうよう)が行われましたが、七重大塔の高さは約109mと我が国の仏塔(ぶっとう)で一番の高さを誇っていました。しかも相国寺は当時の京都御所のすぐ北にあり、天皇がおわす御所の上座(かみざ)の位置に、御所を見下ろすことができる巨大な建物を造営したことになりますが、義満の意図がど...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その6

    義満は、母が皇室の血を引いていたこともあって、自身も出世街道を順調に歩んでいきました。南朝の弘和(こうわ)3年/北朝の永徳(えいとく)3(1383)年には臣下でありながら皇族と同等の待遇となる准三宮(じゅさんぐう、または准后=じゅごう)となり、応永元(1394)年には太政大臣(だいじょうだいじん、または「だじょうだいじん」)にまで出世しました。また、義満は自身の太政大臣の就任祝賀式に出席した当時の関白に対し...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その5

    応永の乱で大内氏の勢力を抑えることに成功した義満は、それまで大内氏が独自に行っていた明との貿易を幕府として正式に行う決意を固め、応永8(1401)年に明に使者を送って国交を開くと、翌応永9(1402)年には明の皇帝が義満を「日本国王」に封ずるとの返書をよこし、同時に明の暦を送ってきました。チャイナの皇帝から「国王」に任じられて暦を受け取るという行為は、チャイナを宗主国と認め、屈辱的な朝貢(ちょうこう)外交を...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その4

    南朝の天授4年/北朝の永和(えいわ)4(1378)年、義満は京都の室町に「花の御所」と後に呼ばれた豪華な邸宅を造営し、以後はここで政治を行ったことから、足利氏による幕府のことを「室町幕府」と呼ぶようになりました。また、義満はこの頃までに大きくなり過ぎて幕府の言うことを聞かなくなった守護大名の弱体化を目指し、南朝の元中7年/北朝の明徳元(1390)年に美濃(みの、現在の岐阜県南部)・尾張(おわり、現在の愛知県...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その3

    両統迭立の約束も後小松天皇の次の天皇となる皇太子がなかなか決められず、義満の死後に後小松天皇の子の称光(しょうこう)天皇が即位されたことで、南朝への皇位継承の道が遠くなり、さらには国衙領もこの頃までには実質的にほとんど存在していませんでした。要するに、義満は南朝に空手形(からてがた)をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的(さぎてき)なものでした。しかし、彼の...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その2

    このうち最も重要なのは1.でした。なぜなら「譲国の儀式」で譲位するということは、後亀山天皇のご在位を、ひいては南朝の後醍醐天皇から後亀山天皇まで続いた皇位の継承を正式なものとして認めるということを意味していたからです。また、今後も両統迭立が行われるということは、後亀山天皇の子がいずれは天皇になるということであり、さらに国衙領の所有が認められるのであれば、南朝にとってはかなり有利な内容でした。しかし、...

  • 「室町」幕府の成立と義満の野望 その1

    足利尊氏が京都に幕府を開いた後も続いた南北朝の動乱でしたが、尊氏の孫で3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が成長する頃には次第に落ち着きました。義満は南朝の元中9年/北朝の明徳3(1392)年に南朝に働きかけて「南北朝の合一(ごういつ)」を実現させました。あるいは「南北朝の合体」とも呼ばれます。南北朝の合一は、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器を譲られて退位される...

  • 守護の成長と国人一揆 その2

    一国全体における地域的な支配権を確立するようになった守護は、地頭や荘官(しょうかん)を自らの家臣としたほか、それまでは幕府による任命制だった守護の地位を世襲化(せしゅうか)することに成功しました。こうした守護は「守護大名」と呼ばれ、またその支配体制を「守護領国制(しゅごりょうごくせい)」といいます。全国の守護大名の中には、大内(おおうち)氏や山名(やまな)氏のように数か国にまたがる領地を持つものも...

  • 守護の成長と国人一揆 その1

    鎌倉幕府の頃の守護は、軍事・警察権を握るとともに地方行政官の役割も果たしていましたが、足利尊氏が新しい幕府を開く頃には、南北朝の動乱のなかで地方武士を統轄(とうかつ、多くの人や機関を一つにまとめて管轄すること)する必要があったために、幕府への影響力が強くなっていきました。全国の武士を動員するため、幕府は守護に従来の大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)に加えて自己の所有権を主張して勝手に田地の稲を刈り...

  • 南北朝の動乱 その8

    さらには、絶対的なカリスマ性を持っていた源頼朝と比較して、源氏の名門出身ではあったものの将軍として君臨するにはただでさえ器量不足だった尊氏が他の勢力に「気前良く」領地を与えたことで、やがては守護大名が幕府のいうことを聞かなくなるという結果をもたらし、足利家そのものの地位をさらに低下させてしまいました。こうした尊氏のいわゆる「負の遺産」をどう処理すればよいのかという大きな課題が、室町幕府代々の将軍を...

  • 南北朝の動乱 その7

    一般的には「室町幕府最初の将軍」としてその名が知られる足利尊氏ですが、その生涯は戦いの日々に明け暮れており、政治家としては物足りない印象しか受けませんが、その大きな理由は、先述した「尊氏の優柔不断」にありました。「優しい人」「気前の良い人」といえば人間が本来持つべき性格であるとされ、私たち一般人の間では好かれる傾向にありますが、政治の世界においてはマイナスでしかありません。なぜなら、尊氏の「優しさ...

  • 南北朝の動乱 その6

    さて、一時は南朝に京都を追われたものの回復に成功した義詮でしたが、ここで大きな問題が発生しました。尊氏の征夷大将軍を認める北朝の天皇になるべき直系の皇族が存在しないのです。南朝の勢力が賀名生へ逃げ帰った後も北朝の三人の上皇や皇太子は連れ去られたままであり、天皇であることを証明する三種の神器も南朝に奪われたままでした。義詮は仕方なく、京都に残っておられた光巌上皇の第二皇子の弥仁(いやひと)親王を、神...

  • 南北朝の動乱 その5

    自分が降伏することで北朝の天皇や皇太子が廃位される代わりに、これまでの幕府の既得権を南朝が追認するという条件で和睦した尊氏は、南朝から直義追討の綸旨を得てようやく遠征へと出かけましたが、これは南朝による罠(わな)でした。南朝は尊氏が遠征した隙をついて北畠親房の指揮によって京都へ攻め込み、幕府予備軍であった義詮の軍勢を敗走させると、勢いに乗った南朝は、北朝の三人の上皇と皇太子を自分たちが追われていた...

  • 南北朝の動乱 その4

    直義の謀反を義詮から聞いた尊氏は激怒しましたが、持ち前の優しさが仇となって、直義と正面切って対決することが出来ませんでした。そうしている間にも直義派は着々と勢力を固め、尊氏が覚悟を決めて直義と戦った際には、戦上手のはずだった尊氏が大敗北を喫してしまいました。その後、一旦は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟み撃ちで倒そうとすると、尊氏の計略に気づいた直義は、京都を脱出して北陸伝いに鎌倉...

  • 南北朝の動乱 その3

    尊氏の優しさは、悪く言えば「優柔不断」でもありました。当初は弟の直義と二人三脚で順調だった幕府政治も、やがて武断派の尊氏の執事(しつじ)の高師直(こうのもろなお)らの勢力と文治派の直義らの勢力との間が不和となり、優柔不断な尊氏には彼らをまとめることができませんでした。そんな折、尊氏の実子でありながら父に嫌われ、直義の養子となっていた足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏派によって九州へ追われると、地元...

  • 南北朝の動乱 その2

    さて、南朝の延元元年/北朝の建武3(1336)年に京都を支配した足利尊氏は、同年に幕府を開くための方針を示した建武式目(けんむしきもく)を制定し、2年後の南朝の延元3年/北朝の暦応元(1338)年には北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、後に「室町幕府」と呼ばれる新しい幕府を京都で開きましたが、その前途には絶えず不安がつきまとっていました。その理由として、幕府を正当なものと認める後ろ盾となる朝廷が二つに分...

  • 南北朝の動乱 その1

    都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると、持明院統の光厳上皇から院宣(いんぜん、上皇からの命令書のこと)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上しました。尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津(せっつ)の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎え討つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。いわゆる「湊川の戦い」のことです。尊氏が再び...

  • 建武の新政 その3

    鎌倉幕府を裏切って京都の六波羅探題を滅ぼした足利高氏に対して、後醍醐天皇はその勲功を称えてご自身の諱(いみな、名前のこと。天皇のような身分の高い人は本名で呼ぶことを避ける習慣があったので、忌み名=いみな、という意味も込められていた)である「尊治(たかはる)」から一字をお与えになって「尊氏(たかうじ)」と名乗らせました。このように、身分の上位の人間が下位の人間に対して自分の名前の一部を与えることを偏...

  • 建武の新政 その2

    さて、主君に絶対の忠誠を誓うとともに徳のある者が天下を制するとした朱子学(しゅしがく)を熱心に学ばれていた後醍醐天皇にとって、両統迭立によって皇位の継承が不安定になることや、朝廷から政治の実権を「奪っていた」鎌倉幕府の存在は絶対に許せないものでした。ご自身が幕府を倒すために何度も討幕の兵を挙げられ、結果として建武の新政が実現できたことは、後醍醐天皇にとっては当然のことであり、このままご自身による親...

  • 建武の新政 その1

    鎌倉幕府が倒れた後、直ちに京都へ戻られた後醍醐天皇は光厳天皇のご即位を否定されたほか、摂政や関白を置かれずに、すべての土地の所有権の確認に天皇の綸旨(りんじ、側近が出す天皇の命令書のこと)を必要とさせるなど、天皇に権限を集中させた新しい政治を始められました。しかし、余りに多くの案件が天皇ご自身に殺到したため、現実には中央の機関として行政や司法などの重要な政務をつかさどる記録所(きろくしょ)や、土地...

  • 鎌倉幕府の滅亡 その4

    足利高氏は清和(せいわ)源氏の一族であった源義家(みなもとのよしいえ)の子孫であり、北条氏の御家人の中でも名門の出身でしたが、鎌倉幕府の威信が地に堕(お)ちた現実を見極めた高氏は、幕府に背いて謀叛(むほん)を起こすことを決断しました。高氏は他の反幕府勢力を率いて京都へ入り、大覚寺統の元弘3年/持明院統の正慶2(1333)年旧暦5月7日に六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼしました。同じ頃、高氏と同じ源義家...

  • 鎌倉幕府の滅亡 その3

    さて、後醍醐天皇が京都から追放されてしまわれたものの、子の護良(もりよし、または「もりなが」)親王が父の意思を継ぐべく諸国の兵を募って幕府に抵抗し続けたほか、幕府に対抗する武士団という意味の悪党(あくとう)の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)が、河内(かわち、現在の大阪府東部)の赤阪城(あかさかじょう)や千早城(ちはやじょう)に立てこもって幕府の大軍と戦いました。正成はわずかな兵で幕府軍に抵...

  • 鎌倉幕府の滅亡 その2

    両統迭立が続くなか、対立状態を解消するとともに、我が国は天皇が国家統治の大権を持つという自明のことを武士たちに示し、政治の実権を幕府から取り戻すことをかねてより念願とされていた大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇は、北畠親房(きたばたけちかふさ)などの優秀な人材を積極的に登用されました。ちなみに、天皇の追号は崩御後に決められるものですが、平安時代の醍醐(だいご)天皇による「延喜(えんぎ)の治(ち)」を...

  • 鎌倉幕府の滅亡 その1

    ※今回より「第89回歴史講座」の内容の更新を開始します(5月5日までの予定)。承久(じょうきゅう)3(1221)年に起きた承久の乱の後に即位された後堀河(ごほりかわ)天皇でしたが、その血統が次代の四条(しじょう)天皇が仁治(にんじ)3(1242)年に12歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されたことで途絶(とだ)えると、承久の乱の際に中立であられた土御門(つちみかど)上皇...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?

ハンドル名
黒田裕樹さん
ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
フォロー
黒田裕樹の歴史講座

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用