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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • ソ連軍の侵攻とノモンハン事件 その6

    ※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(4月1日)からは「第89回歴史講座」の内容を更新します(5月5日までの予定)。ノモンハン事件の被害の大きさにショックを受けたソ連の当時の支配者だったスターリンは、ドイツに停戦の仲介を依頼し、その流れで両国は1939(昭和14)年8月に「独ソ不可侵条約」を結びましたが、この条約には、ポーランドをドイツとソ連とで分割することや、いわゆるバルト三国をソ連が占領するの...

  • ソ連軍の侵攻とノモンハン事件 その5

    先述のとおり、ノモンハン事件はソ連軍が攻撃を中止したことで停戦協定が結ばれましたが、もしここで我が国が停戦に応じず、ソ連軍との戦いを続けていればどうなったでしょうか。史実においては、昭和14(1939)年9月15日に我が国はソ連軍と停戦協定を結んでいますが、実はその2日後の17日に、ソ連軍はポーランドに侵攻しているのです。つまり、我が国との停戦によって、ソ連は満州に張り付いていた師団を大急ぎでヨーロッパ戦線に...

  • ソ連軍の侵攻とノモンハン事件 その4

    我が国がノモンハン事件を「日本の一方的な惨敗」と判断した背景には、一個師団を失ったショックで戦況を見定める目が曇ってしまったというのがありました。また大敗を喫したと思い込んでしまったことが、それからの情報収集をおろそかにさせたのか、機械化部隊に壊滅的打撃を与えたソ連軍のその後の動きを我が国は察知できなかったのです。ノモンハン事件はソ連の攻撃中止によって停戦となりましたが、その理由は機械化部隊が壊滅...

  • ソ連軍の侵攻とノモンハン事件 その3

    昭和14(1939)年5月、外蒙古(がいもうこ、別名を外モンゴル)軍が満蒙国境を流れるハルハ河を渡河して、ノモンハン付近で関東軍と衝突(しょうとつ)しました。これを「ノモンハン事件」といいます。関東軍は外蒙古軍を撃退(げきたい)して一度は引き上げましたが、それを確認したソ連軍が機械化部隊を投入して出撃したため、関東軍とソ連軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました。この戦いで日本側は一個師団を失いましたが...

  • 【ハイブリッド方式】第89回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年3月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • ソ連軍の侵攻とノモンハン事件 その2

    張鼓峰を占領した日本軍に対し、ソ連軍は大量の戦車や飛行機を投入して猛攻撃を加えましたが、専守防衛に徹した日本軍は大きな被害を受けながらもこれらを撃退し、翌月の昭和13(1938)年8月に停戦協定が結ばれました。しかし、日本軍が停戦協定に応じて張鼓峰から撤退したのに対して、ソ連軍は協定を無視して張鼓峰を占領して陣地を構築し、これを強引に国境線としました。要するに、ソ連は我が国の善意を裏切ったのです。こうし...

  • ソ連軍の侵攻とノモンハン事件 その1

    日華事変(=日中戦争)の泥沼化は、先述のとおり必然的にソ連に対する備えがおろそかになるという結果をもたらしましたが、そんな流れをソ連が見過ごすはずがありませんでした。いわゆる極東に軍備を増強したソ連軍は、しきりに満州国との国境を侵犯(しんぱん)するようになり、モンゴルとの国境を含めた満ソ・満蒙(まんもう)国境では、昭和10(1935)年に136件、昭和11(1936)年に230件、昭和12(1937)年には170件の紛争が...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その9

    ところで、我が国の国力が次第に疲弊していったのを、当時の日本国民はどう思っていたのでしょうか。当時の我が国では、国家総動員法の制定などによって厳しい経済統制が続いていましたが、同時に「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンが掲(かか)げられるなど、思想的な統制も行われており、情報網が不足していた国民の多くは、スローガンどおりの行動を自然と取るようになっていました。国民の中に...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その8

    インターネットが発達した現代とは異なり、昭和10年代当時の世界の情報網(じょうほうもう)は充実しているとは言い難(がた)い面がありましたが、これは同時にスパイ的な活動による情報操作が比較的容易であったということを意味していました。繰り返しますが、当時の政府の中枢(ちゅうすう)には尾崎秀実(おざきほつみ)などソ連(=コミンテルン)のスパイが堂々と存在しており、彼らの諜報(ちょうほう)活動が我が国の正常...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その7

    昭和10年代(1930年代後半~1940年代前半)の我が国では、厳しい経済統制によって生産力が低下し、アメリカを中心とする対外貿易も制限されたこともあって、深刻な物資不足や食糧難にあえぐようになりましたが、なぜこのような事態となってしまったのでしょうか。 その理由として「企画院の設立や国家総動員法の制定が主な原因だ」とも考えられそうですが、これらはどちらかと言えば「手段」であり、むしろこれらの政策が行われた...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その6

    昭和14(1939)年に内閣総辞職した後に枢密院(すうみついん)議長を務めていた近衛文麿は、翌昭和15(1940)年6月にその職を辞し、新体制運動を推進することを声明しました。近衛による一連の行動の背景には、国民に基礎を置く強力な新党をつくって近衛自身が新たに内閣を組織し、既成の政党政治を打破しようという思惑がありました。また、前年に勃発した第二次世界大戦に対処するための総力戦体制を構築しようという思想も運動...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その5

    日華事変の泥沼化によって経済統制が加速し、民需品が不足したことにより、国民全体が生活の切り詰めを求められるようになりました。昭和15(1940)年にはいわゆる七(しち)・七(しち)禁令が出されてぜいたく品の製造や販売が禁止されたほか、砂糖やマッチなどの切符制が実施されました。切符制の実施により、たとえお金を持っていても切符がなければ生活必需品を購入できないという事態となりました。なお、切符制は石鹸(せっ...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その4

    国家による経済統制は、軍需産業の進展をもたらした一方で、民間の必需品である民需品が不足しがちになりました。平沼騏一郎内閣の後を受けて成立した阿部信行(あべのぶゆき)内閣は、昭和14(1939)年10月に国家総動員法に基づいて価格等統制令を出して、価格を据(す)え置いて値上げを禁じる公定価格制を実施しました。また、同年には米穀(べいこく)配給統制法を制定して、コメの集荷機構を政府の統制下に置きましたが、その...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その3

    企画院の設立や国家総動員法の成立など、経済統制が進むにつれて、軍需産業に資材や資金が集中的に割り当てられるシステムが整ったことにより、次の段階として軍需産業に労働者を積極的に動員する必要が出てきました。第一次近衛文麿内閣の後を受けて誕生した平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣は、昭和14(1939)年7月に国家総動員法に基づいて国民徴用(ちょうよう)令を制定し、国民を徴発して軍需工場に動員することを可能...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その2

    日華事変が泥沼化するにつれて、当時の第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は総力戦を唱え、国民全体を戦争遂行に協力させようと考えるようになり、昭和12(1937)年9月には「挙国一致・尽忠報国(じんちゅうほうこく)・堅忍持久(けんにんじきゅう)」をスローガンとした国民精神総動員運動を展開し始めました。この他、戦時体制を乗り切るという目的のために、労使一体で国策に協力する産業報国会が昭和13(1938)年に職場単...

  • 経済統制の強化と新体制運動 その1

    二・二六事件後に誕生した広田弘毅内閣以来、軍部の要求に応えるかたちで軍事予算が急激に拡大し、歳出における軍事費の割合は、昭和6(1931)年には3割程度だったのが、日華事変(=日中戦争)が勃発(ぼっぱつ)した昭和12(1937)年には7割近くにまで膨(ふく)れ上がりました。この他、戦線の拡大に伴って多くの軍事物資を輸入する必要があったことで国際収支も悪化したため、統制派を中心とする軍部の意向も受けて、日本国内...

  • 日華事変の長期化と近衛声明 その6

    国民党から除名された汪兆銘でしたが日中和平への道をあきらめることなく、昭和15(1940)年3月には我が国と日華基本条約を結び、南京において日本の支援を受けた新政権の樹立を宣言しました。こうして誕生した汪兆銘による南京国民政府でしたが、当時勃発(ぼっぱつ)していた第二次世界大戦におけるアメリカなどの連合国が汪兆銘政権を認めなかったこともあり、日華事変を終結させることはできませんでした。ところで、汪兆銘政...

  • 日華事変の長期化と近衛声明 その5

    第一次近衛声明によってますます泥沼化した日華事変は、昭和13(1938)年10月に広州(こうしゅう)や武漢を日本軍が陥落させても、そう簡単に鎮静化しそうにありませんでした。このため、第一次近衛文麿内閣は、同年11月3日に第二次近衛声明でもある「東亜新秩序建設に関する声明」を発表しました。声明において、我が国は中国との戦闘状態の目的を「日・満・華3国の連帯をめざし、東亜の安定を確保すべき新秩序を建設する」ことに...

  • 日華事変の長期化と近衛声明 その4

    昭和12(1937)年に日本軍によって南京を奪われた国民政府は、首都を長江(ちょうこう、または揚子江=ようすこう)中流の要衝(ようしょう)であった武漢(ぶかん)から、さらにその奥地の重慶(じゅうけい)に移しました。しかし、重慶にまで逃れるということは、通常であれば食糧や武器弾薬の調達など出来るはずもなく、講和以外に方策がないことを意味していましたが、実際には国民政府は日本軍に対して徹底抗戦を続けました。...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年3月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 日華事変の長期化と近衛声明 その3

    当時の我が国は第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣であり、かつて首相を務めた広田弘毅(ひろたこうき)が外務大臣となっていましたが、蒋介石の煮え切らない回答に失望した広田外相は、国民政府との交渉打ち切りを考えるようになりました。近衛首相の考えも広田外相と同様であったことから、閣議において交渉打ち切りを決定し、昭和13(1938)年1月16日に「今後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表しました。こ...

  • 日華事変の長期化と近衛声明 その2

    一般的な歴史教育では「軍部が先頭に立って日中戦争(=日華事変)を泥沼化させた」と決めつけていることが多いようですが、事実は全く逆であり、陸軍自体は日華事変のこれ以上の拡大を望んでいませんでした。なぜなら、広大な中国大陸での全面的な戦闘状態となれば、大陸に多数の兵力などを投入しなければならなくなり、同じアジアの脅威(きょうい)であったソ連(現在のロシア)などに対する備えが不十分になる恐れがあったから...

  • 日華事変の長期化と近衛声明 その1

    ※今回より「昭和時代・戦前」の更新を再開します(3月31日までの予定)。さて、日本軍による南京攻略と前後して、北京を中心に中華民国臨時政府が成立するなど、中国大陸の情勢は次第に我が国に有利に展開するようになりましたが、これを受けて我が国は、南京陥落(かんらく)後の昭和12(1937)年12月に、ディルクセン駐日ドイツ大使を通じて、新たな和平条件をトラウトマン駐華大使に示しました。これを「第二次トラウトマン和平...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その9

    ※「第88回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月11日)からは「昭和時代・前編」の更新を再開します(3月31日までの予定)。「論語と算盤」の精神によって私心なき活動を続けたことで「日本資本主義の父」とまで称された渋沢栄一でしたが、若い頃に尊王攘夷に燃えてテロを起こそうとした男が幕府側の一橋家に仕え、やがて幕臣になると攘夷の対象であった外国へ留学し、さらには旧幕臣でありながら明治新政府の...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その8

    明治5(1872)年、生活困窮(こんきゅう)者などを保護するために東京養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)が創設されると、栄一は明治7(1874)年から養育院の運営に関与し、明治9(1876)年には養育院事務長に任命されました。しかし、経費の増大を理由に東京府議会が明治16(1883)年に養育院の廃止を決議すると、栄一は当時建てられたばかりの西洋式の建物である鹿鳴館(ろくめいかん)でバザーを行って資金を集めるな...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その7

    栄一が明治6(1873)年に官僚を辞めて実業家に転身した際、彼は「これからは、いよいよわずかな利益を上げながら社会で生きていかなければならない。そこでは志(こころざし)を如何(いか)に持つべきであろうか」と考え、その時に論語を思い出しました。論語には自分自身を修め、他人と交わるための日常の教えが説かれており、もっとも欠点の少ない教訓でもあることから、この論語の教訓に従って商売し、経済活動をしていくこと...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その6

    その後、栄一は共同運輸会社の設立に関与し、岩崎が設立した郵便汽船三菱会社と激しい競争を繰り広げましたが、明治18(1885)年に岩崎が死去したことによって両社は合併し、現在の「日本郵船株式会社」となりました。もし栄一が目先の欲得に目がくらみ、岩崎との共同経営に合意していれば、後の我が国の資本主義は今とは全く形の違うものになっていたことでしょう。栄一の揺るがぬ信念があったればこそ、現代の我が国が世界有数の...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その5

    ところで、栄一の事業育成の目的はあくまで「国を富ませ、人々を幸せにする」ことでした。例えば、三菱財閥(ざいばつ)の創始者である岩崎弥太郎(いわさきやたろう)とのエピソードに、栄一の実業家としての矜持(きょうじ)がうかがい知れます。明治11(1878)年、向島(むこうじま)の料亭に招待された栄一は、岩崎から次のような提案を受けました。「君と僕が固く手を握り合って事業を経営すれば、日本の実業界を思いどおりに...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年3月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その4

    下野(げや)した栄一は我が国初の本格的な銀行である「第一国立銀行(現在の「みずほ銀行」のルーツ)」の設立に深く関わると、これを足掛かりとして我が国の将来を担う新しい会社を次々と設立していきました。栄一が設立や経営に関わった会社は、有名なものだけで「抄紙会社(現在の王子製紙)」「東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)」「清水組(現在の清水建設)」「日本(にっぽん)郵船」「中外(ちゅうがい)物...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その3

    明治政府に出仕した栄一は「日本全国の測量」「度量衡(どりょうこう)の改正」「租税制度の改正」「貨幣制度の改革」「藩札の処理=明治通宝(めいじつうほう)の発行」など、短期間のあいだに様々な実績を残しました。また、郵便制度の成立や廃藩置県の実施にも深く関わるなど、明治初期の政策の実現に大きく貢献した栄一でしたが、政府の首脳であった薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼとしみち)と対立したり、栄一が旧幕臣の出...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その2

    この他、栄一がヨーロッパに向かっていたあいだに彼の養子となった渋沢平九郎(へいくろう)が戊辰戦争によって若い生命を散らしていますし、栄一の主君であった慶喜も、長生きしたとはいえ二度と政治的な権力を取り戻すことができませんでした。人間の一生は、時として不思議な運命をたどることがありますが、栄一が大実業家となって歴史にその名を残し、90歳を超えるまでの長寿を保ったのも、若き日の彼を支えながら不本意な形で...

  • 渋沢栄一を支えた「論語と算盤」の精神 その1

    さて、帰国した栄一は当時静岡で謹慎していた慶喜に面会を果たすと、慶喜の後押しもあってそのまま静岡藩に留まることになりました。これは、栄一を昭武が相続した水戸藩へ返すと、藩内の抗争に栄一が巻き込まれるのを恐れたからだともいわれています。結果的に90歳を超える長寿となった栄一の人生ですが、その中で彼は何度も命を落としかけています。しかし、その極限状態の中で、どこからともなく「救いの手」が差し伸べられたこ...

  • 一橋家の家臣から幕臣、そしてフランスへ その13

    西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで旧幕府に肩入れすることはないと判断した山内はその後沈黙し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。会議の結果、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。これを「辞官納地(じかんのうち)」といいます。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容...

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