電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(4月1日)からは「第89回歴史講座」の内容を更新します(5月5日までの予定)。ノモンハン事件の被害の大きさにショックを受けたソ連の当時の支配者だったスターリンは、ドイツに停戦の仲介を依頼し、その流れで両国は1939(昭和14)年8月に「独ソ不可侵条約」を結びましたが、この条約には、ポーランドをドイツとソ連とで分割することや、いわゆるバルト三国をソ連が占領するの...
先述のとおり、ノモンハン事件はソ連軍が攻撃を中止したことで停戦協定が結ばれましたが、もしここで我が国が停戦に応じず、ソ連軍との戦いを続けていればどうなったでしょうか。史実においては、昭和14(1939)年9月15日に我が国はソ連軍と停戦協定を結んでいますが、実はその2日後の17日に、ソ連軍はポーランドに侵攻しているのです。つまり、我が国との停戦によって、ソ連は満州に張り付いていた師団を大急ぎでヨーロッパ戦線に...
我が国がノモンハン事件を「日本の一方的な惨敗」と判断した背景には、一個師団を失ったショックで戦況を見定める目が曇ってしまったというのがありました。また大敗を喫したと思い込んでしまったことが、それからの情報収集をおろそかにさせたのか、機械化部隊に壊滅的打撃を与えたソ連軍のその後の動きを我が国は察知できなかったのです。ノモンハン事件はソ連の攻撃中止によって停戦となりましたが、その理由は機械化部隊が壊滅...
昭和14(1939)年5月、外蒙古(がいもうこ、別名を外モンゴル)軍が満蒙国境を流れるハルハ河を渡河して、ノモンハン付近で関東軍と衝突(しょうとつ)しました。これを「ノモンハン事件」といいます。関東軍は外蒙古軍を撃退(げきたい)して一度は引き上げましたが、それを確認したソ連軍が機械化部隊を投入して出撃したため、関東軍とソ連軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました。この戦いで日本側は一個師団を失いましたが...
【ハイブリッド方式】第89回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年3月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
張鼓峰を占領した日本軍に対し、ソ連軍は大量の戦車や飛行機を投入して猛攻撃を加えましたが、専守防衛に徹した日本軍は大きな被害を受けながらもこれらを撃退し、翌月の昭和13(1938)年8月に停戦協定が結ばれました。しかし、日本軍が停戦協定に応じて張鼓峰から撤退したのに対して、ソ連軍は協定を無視して張鼓峰を占領して陣地を構築し、これを強引に国境線としました。要するに、ソ連は我が国の善意を裏切ったのです。こうし...
日華事変(=日中戦争)の泥沼化は、先述のとおり必然的にソ連に対する備えがおろそかになるという結果をもたらしましたが、そんな流れをソ連が見過ごすはずがありませんでした。いわゆる極東に軍備を増強したソ連軍は、しきりに満州国との国境を侵犯(しんぱん)するようになり、モンゴルとの国境を含めた満ソ・満蒙(まんもう)国境では、昭和10(1935)年に136件、昭和11(1936)年に230件、昭和12(1937)年には170件の紛争が...
ところで、我が国の国力が次第に疲弊していったのを、当時の日本国民はどう思っていたのでしょうか。当時の我が国では、国家総動員法の制定などによって厳しい経済統制が続いていましたが、同時に「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンが掲(かか)げられるなど、思想的な統制も行われており、情報網が不足していた国民の多くは、スローガンどおりの行動を自然と取るようになっていました。国民の中に...
インターネットが発達した現代とは異なり、昭和10年代当時の世界の情報網(じょうほうもう)は充実しているとは言い難(がた)い面がありましたが、これは同時にスパイ的な活動による情報操作が比較的容易であったということを意味していました。繰り返しますが、当時の政府の中枢(ちゅうすう)には尾崎秀実(おざきほつみ)などソ連(=コミンテルン)のスパイが堂々と存在しており、彼らの諜報(ちょうほう)活動が我が国の正常...
昭和10年代(1930年代後半~1940年代前半)の我が国では、厳しい経済統制によって生産力が低下し、アメリカを中心とする対外貿易も制限されたこともあって、深刻な物資不足や食糧難にあえぐようになりましたが、なぜこのような事態となってしまったのでしょうか。 その理由として「企画院の設立や国家総動員法の制定が主な原因だ」とも考えられそうですが、これらはどちらかと言えば「手段」であり、むしろこれらの政策が行われた...
昭和14(1939)年に内閣総辞職した後に枢密院(すうみついん)議長を務めていた近衛文麿は、翌昭和15(1940)年6月にその職を辞し、新体制運動を推進することを声明しました。近衛による一連の行動の背景には、国民に基礎を置く強力な新党をつくって近衛自身が新たに内閣を組織し、既成の政党政治を打破しようという思惑がありました。また、前年に勃発した第二次世界大戦に対処するための総力戦体制を構築しようという思想も運動...
日華事変の泥沼化によって経済統制が加速し、民需品が不足したことにより、国民全体が生活の切り詰めを求められるようになりました。昭和15(1940)年にはいわゆる七(しち)・七(しち)禁令が出されてぜいたく品の製造や販売が禁止されたほか、砂糖やマッチなどの切符制が実施されました。切符制の実施により、たとえお金を持っていても切符がなければ生活必需品を購入できないという事態となりました。なお、切符制は石鹸(せっ...
国家による経済統制は、軍需産業の進展をもたらした一方で、民間の必需品である民需品が不足しがちになりました。平沼騏一郎内閣の後を受けて成立した阿部信行(あべのぶゆき)内閣は、昭和14(1939)年10月に国家総動員法に基づいて価格等統制令を出して、価格を据(す)え置いて値上げを禁じる公定価格制を実施しました。また、同年には米穀(べいこく)配給統制法を制定して、コメの集荷機構を政府の統制下に置きましたが、その...
企画院の設立や国家総動員法の成立など、経済統制が進むにつれて、軍需産業に資材や資金が集中的に割り当てられるシステムが整ったことにより、次の段階として軍需産業に労働者を積極的に動員する必要が出てきました。第一次近衛文麿内閣の後を受けて誕生した平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣は、昭和14(1939)年7月に国家総動員法に基づいて国民徴用(ちょうよう)令を制定し、国民を徴発して軍需工場に動員することを可能...
日華事変が泥沼化するにつれて、当時の第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は総力戦を唱え、国民全体を戦争遂行に協力させようと考えるようになり、昭和12(1937)年9月には「挙国一致・尽忠報国(じんちゅうほうこく)・堅忍持久(けんにんじきゅう)」をスローガンとした国民精神総動員運動を展開し始めました。この他、戦時体制を乗り切るという目的のために、労使一体で国策に協力する産業報国会が昭和13(1938)年に職場単...
二・二六事件後に誕生した広田弘毅内閣以来、軍部の要求に応えるかたちで軍事予算が急激に拡大し、歳出における軍事費の割合は、昭和6(1931)年には3割程度だったのが、日華事変(=日中戦争)が勃発(ぼっぱつ)した昭和12(1937)年には7割近くにまで膨(ふく)れ上がりました。この他、戦線の拡大に伴って多くの軍事物資を輸入する必要があったことで国際収支も悪化したため、統制派を中心とする軍部の意向も受けて、日本国内...
国民党から除名された汪兆銘でしたが日中和平への道をあきらめることなく、昭和15(1940)年3月には我が国と日華基本条約を結び、南京において日本の支援を受けた新政権の樹立を宣言しました。こうして誕生した汪兆銘による南京国民政府でしたが、当時勃発(ぼっぱつ)していた第二次世界大戦におけるアメリカなどの連合国が汪兆銘政権を認めなかったこともあり、日華事変を終結させることはできませんでした。ところで、汪兆銘政...
第一次近衛声明によってますます泥沼化した日華事変は、昭和13(1938)年10月に広州(こうしゅう)や武漢を日本軍が陥落させても、そう簡単に鎮静化しそうにありませんでした。このため、第一次近衛文麿内閣は、同年11月3日に第二次近衛声明でもある「東亜新秩序建設に関する声明」を発表しました。声明において、我が国は中国との戦闘状態の目的を「日・満・華3国の連帯をめざし、東亜の安定を確保すべき新秩序を建設する」ことに...
昭和12(1937)年に日本軍によって南京を奪われた国民政府は、首都を長江(ちょうこう、または揚子江=ようすこう)中流の要衝(ようしょう)であった武漢(ぶかん)から、さらにその奥地の重慶(じゅうけい)に移しました。しかし、重慶にまで逃れるということは、通常であれば食糧や武器弾薬の調達など出来るはずもなく、講和以外に方策がないことを意味していましたが、実際には国民政府は日本軍に対して徹底抗戦を続けました。...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年3月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
当時の我が国は第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣であり、かつて首相を務めた広田弘毅(ひろたこうき)が外務大臣となっていましたが、蒋介石の煮え切らない回答に失望した広田外相は、国民政府との交渉打ち切りを考えるようになりました。近衛首相の考えも広田外相と同様であったことから、閣議において交渉打ち切りを決定し、昭和13(1938)年1月16日に「今後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表しました。こ...
一般的な歴史教育では「軍部が先頭に立って日中戦争(=日華事変)を泥沼化させた」と決めつけていることが多いようですが、事実は全く逆であり、陸軍自体は日華事変のこれ以上の拡大を望んでいませんでした。なぜなら、広大な中国大陸での全面的な戦闘状態となれば、大陸に多数の兵力などを投入しなければならなくなり、同じアジアの脅威(きょうい)であったソ連(現在のロシア)などに対する備えが不十分になる恐れがあったから...
※今回より「昭和時代・戦前」の更新を再開します(3月31日までの予定)。さて、日本軍による南京攻略と前後して、北京を中心に中華民国臨時政府が成立するなど、中国大陸の情勢は次第に我が国に有利に展開するようになりましたが、これを受けて我が国は、南京陥落(かんらく)後の昭和12(1937)年12月に、ディルクセン駐日ドイツ大使を通じて、新たな和平条件をトラウトマン駐華大使に示しました。これを「第二次トラウトマン和平...
※「第88回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(3月11日)からは「昭和時代・前編」の更新を再開します(3月31日までの予定)。「論語と算盤」の精神によって私心なき活動を続けたことで「日本資本主義の父」とまで称された渋沢栄一でしたが、若い頃に尊王攘夷に燃えてテロを起こそうとした男が幕府側の一橋家に仕え、やがて幕臣になると攘夷の対象であった外国へ留学し、さらには旧幕臣でありながら明治新政府の...
明治5(1872)年、生活困窮(こんきゅう)者などを保護するために東京養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)が創設されると、栄一は明治7(1874)年から養育院の運営に関与し、明治9(1876)年には養育院事務長に任命されました。しかし、経費の増大を理由に東京府議会が明治16(1883)年に養育院の廃止を決議すると、栄一は当時建てられたばかりの西洋式の建物である鹿鳴館(ろくめいかん)でバザーを行って資金を集めるな...
栄一が明治6(1873)年に官僚を辞めて実業家に転身した際、彼は「これからは、いよいよわずかな利益を上げながら社会で生きていかなければならない。そこでは志(こころざし)を如何(いか)に持つべきであろうか」と考え、その時に論語を思い出しました。論語には自分自身を修め、他人と交わるための日常の教えが説かれており、もっとも欠点の少ない教訓でもあることから、この論語の教訓に従って商売し、経済活動をしていくこと...
その後、栄一は共同運輸会社の設立に関与し、岩崎が設立した郵便汽船三菱会社と激しい競争を繰り広げましたが、明治18(1885)年に岩崎が死去したことによって両社は合併し、現在の「日本郵船株式会社」となりました。もし栄一が目先の欲得に目がくらみ、岩崎との共同経営に合意していれば、後の我が国の資本主義は今とは全く形の違うものになっていたことでしょう。栄一の揺るがぬ信念があったればこそ、現代の我が国が世界有数の...
ところで、栄一の事業育成の目的はあくまで「国を富ませ、人々を幸せにする」ことでした。例えば、三菱財閥(ざいばつ)の創始者である岩崎弥太郎(いわさきやたろう)とのエピソードに、栄一の実業家としての矜持(きょうじ)がうかがい知れます。明治11(1878)年、向島(むこうじま)の料亭に招待された栄一は、岩崎から次のような提案を受けました。「君と僕が固く手を握り合って事業を経営すれば、日本の実業界を思いどおりに...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年3月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
下野(げや)した栄一は我が国初の本格的な銀行である「第一国立銀行(現在の「みずほ銀行」のルーツ)」の設立に深く関わると、これを足掛かりとして我が国の将来を担う新しい会社を次々と設立していきました。栄一が設立や経営に関わった会社は、有名なものだけで「抄紙会社(現在の王子製紙)」「東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)」「清水組(現在の清水建設)」「日本(にっぽん)郵船」「中外(ちゅうがい)物...
明治政府に出仕した栄一は「日本全国の測量」「度量衡(どりょうこう)の改正」「租税制度の改正」「貨幣制度の改革」「藩札の処理=明治通宝(めいじつうほう)の発行」など、短期間のあいだに様々な実績を残しました。また、郵便制度の成立や廃藩置県の実施にも深く関わるなど、明治初期の政策の実現に大きく貢献した栄一でしたが、政府の首脳であった薩摩藩出身の大久保利通(おおくぼとしみち)と対立したり、栄一が旧幕臣の出...
この他、栄一がヨーロッパに向かっていたあいだに彼の養子となった渋沢平九郎(へいくろう)が戊辰戦争によって若い生命を散らしていますし、栄一の主君であった慶喜も、長生きしたとはいえ二度と政治的な権力を取り戻すことができませんでした。人間の一生は、時として不思議な運命をたどることがありますが、栄一が大実業家となって歴史にその名を残し、90歳を超えるまでの長寿を保ったのも、若き日の彼を支えながら不本意な形で...
さて、帰国した栄一は当時静岡で謹慎していた慶喜に面会を果たすと、慶喜の後押しもあってそのまま静岡藩に留まることになりました。これは、栄一を昭武が相続した水戸藩へ返すと、藩内の抗争に栄一が巻き込まれるのを恐れたからだともいわれています。結果的に90歳を超える長寿となった栄一の人生ですが、その中で彼は何度も命を落としかけています。しかし、その極限状態の中で、どこからともなく「救いの手」が差し伸べられたこ...
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで旧幕府に肩入れすることはないと判断した山内はその後沈黙し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。会議の結果、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。これを「辞官納地(じかんのうち)」といいます。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容...
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電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...