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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その3

    唐突ではありますが、ここで十干十二支(じっかんじゅうにし)から見た興味深い見解を皆様にご紹介したいと思います。十干十二支において、令和2(2020)年は「庚子」でした。この年は「これまでとは異なる斬新な思考で、人との縁(えにし)を大切にする年」です。「子」は「種子」に通じ、将来に備えて新たな種まきをする意味ですが、それに「庚」が加わると「これまでとは異なる」、すなわち「これまでの関係をリセットして新規...

  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その2

    意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前(まつまえ)藩に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明(てんめい)5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。また、アイヌの自立を目指した意次は農作業を教えようとまで計画しました。これ...

  • 開国する絶好のタイミングだった田沼時代 その1

    上記の2つの史実を考慮すれば、17世紀前半に我が国が「鎖国」に踏み切ったのは必然であり、また鎖国の状態になって平和となったからこそ、我が国で様々な文化が栄えたり、現代につながる日本人の精神を取り戻したりすることができたと考えられます。しかし、長年の太平の世が我が国に「平和ボケ」をもたらし、他国の発展ぶりから取り残されたことで、ペリーによる黒船来航を契機に我が国が大混乱となったのもまた事実です。だとす...

  • 日本人の「思いやり精神」を復活させた人物 その5

    また、綱吉が「生類憐みの令」を出したり、あるいは先述した「元禄小判」を発行したりしようとしても、それを十分に行き渡らせるだけの庶民の生活環境が必須となります。史実において、我が国は鎖国によって200年以上の平和を享受しましたが、こうした太平の世を完全に達成できたからこそ、綱吉が満を持して自身の政策を行うことが可能になったと言えるでしょう。すなわち、もし我が国が鎖国をしなければ、後の綱吉の政策が実行さ...

  • 日本人の「思いやり精神」を復活させた人物 その4

    先述のように病気となって捨てられた牛馬が死んで野ざらしにされると、そこから発生した病原菌が、その肉を食べた野犬が人々に噛み付くなどして人間に伝染することで、疫病(えきびょう)が広がることが多かったのです。こうした伝染病を防止するためや、野犬化によって犬自身が被害を受ける前に保護しようという考えがあったからこそ、犬に関する様々な法令がつくられたのです。この他、生類憐みの令では病気になった牛馬をきちん...

  • 日本人の「思いやり精神」を復活させた人物 その3

    徳川綱吉といえば、一般的には「人間よりも犬を大切にした」とされ、いわゆる「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれるなど否定的な見解が多いようです。しかし、彼が発布した「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」が当時の日本人の精神を根本から改め、以前の「日本人独自の道徳や思いやりの精神」を取り戻したのです。生類憐みの令といっても、そういう名前の法令が出されたわけではなく、貞享(じょうきょう)2(1685)年に「鳥類を...

  • 日本人の「思いやり精神」を復活させた人物 その2

    江戸時代を迎えるまでの我が国は、戦国時代が1世紀以上も続いたことによって、いわゆる「食うか食われるか」が当たり前になっていました。慶長20(1615)年に家康が大坂の役(えき)で豊臣家を滅ぼしたことによって、ようやく我が国に平和が訪れますが、それこそ骨の髄(ずい)までに染み付いた「人を殺せば出世する」感情が、一朝一夕に改善されるはずがありません。かくして、17世紀後半までの我が国では全国でいわゆる「戦国の...

  • 日本人の「思いやり精神」を復活させた人物 その1

    幕府が鎖国の状態を選択した理由は上記のとおりですが、実は鎖国をしたことによって「復活した」大切なものがあることをご存じでしょうか。それは「日本人独自の道徳や思いやりの精神」です。慶長(けいちょう)8(1603)年、徳川家康(とくがわいえやす)は朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸に幕府を開きましたが、当時の家康は諸外国との貿易に積極的であったのみならず、オランダからの要請で日本人...

  • 鎖国は「必然」だった その6

    大名への斬首刑など厳しい処罰を行ったということは、それだけ幕府が島原の乱が起きたことに大きな衝撃を受けていたということであり、この後、幕府はますますキリスト教(=カトリック)への弾圧を強めることになりました。なぜなら、幕府を頂点とするいわゆる「幕藩体制」が武力で他藩などを支配することで成り立っていたからです。島原の乱が数か月も鎮圧できなかったことは、幕府のプライドを大いに傷つけたのみならず、他の藩...

  • 鎖国は「必然」だった その5

    持久戦を選んだとはいえ、あまりにも戦いが長引くと幕府の威信にかかわると判断した信綱は、旧暦2月28日に総攻撃をかけて一揆勢を鎮圧することに決めました。しかし、信綱の動きを察した肥前藩の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆(が)けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。一方の一揆勢も壊...

  • 鎖国は「必然」だった その4

    寛永14(1637)年、圧政に耐えかねた島原と天草の農民や、キリシタンを含む牢人(ろうにん、別名を「浪人」)たちが大規模な一揆(いっき)を起こし、天草四郎(あまくさしろう、別名を益田時貞=ますだときさだ)を中心に3万人を超える勢力が島原の原城跡(はらじょうあと)に立てこもりました。世にいう「島原の乱」もしくは「島原・天草一揆」の始まりです。これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しまし...

  • 鎖国は「必然」だった その3

    島原(しまばら)藩が置かれていた肥前の島原は、かつてはキリシタン大名であった有馬晴信(ありまはるのぶ)が領有しており、その関係もあって、領内には多数のキリシタンが存在していました。その後、有馬氏が日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の延岡(のべおか)に領地替えとなり、幕府直轄の天領を経て、松倉(まつくら)氏が新たに支配しました。藩主となった松倉勝家(まつくらかついえ)は、幕府に認められたいという意思があ...

  • 鎖国は「必然」だった その2

    江戸幕府が貿易を厳しく統制した理由の第2は、貿易の利益を幕府が独占するためでした。なぜなら、貿易は必ずと言っていいほど「儲(もう)かる」からです。外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりしても、結...

  • 鎖国は「必然」だった その1

    江戸幕府が鎖国の状態、すなわち極端な制限貿易を選択した背景に「カトリックによる布教が『我が国侵略の野望』と結びついていた」という厳然たる史実を忘れてはいけません。幕府が成立した17世紀前半の世界では、キリスト教(=カトリック)を信仰したヨーロッパ諸国による世界各地の植民地化が進んでおり、我が国とて例外ではありませんでした。設立初期の江戸幕府は平和的な海外貿易に積極的でした。しかし、時が流れるにつれて...

  • もし鎖国なかりせば その5

    これらの「歴史のIF」を考慮すれば、我が国が史実において「鎖国」の状態に入ってしまったことは「大きな損実」であり、江戸幕府による明らかな失政であったと言えるのかもしれません。しかし、歴史には「光と影」があり、鎖国をしたことによる「デメリット」ばかり注目すれば、一方的な歴史観に陥(おちい)りかねないのみならず、いわゆる「自虐(じぎゃく)史観」を否定する資格もありません。また、江戸幕府が「鎖国をした」の...

  • もし鎖国なかりせば その4

    この他、貨幣経済が浸透(しんとう)したことによって地方の特産物が全国で流通するようになると、当初は各藩の保護のもとで個々の農村家内工業で生産されていたのが、18世紀の頃までには都市の問屋(といや)が原料や資金、道具などを農家に前貸しして委託生産するという「問屋制家内工業」に組織されていきました。さらに19世紀に入ると、一部の地主や商人などが作業場を設け、農業から離れた賃労働者である奉公人を集めて手工業...

  • もし鎖国なかりせば その3

    江戸時代において、我が国は金融面や経済面あるいは文化面などで大きな成長を遂(と)げました。例えば、5代将軍である徳川綱吉(とくがわつなよし)の治世においては、金の含有量を減らした「元禄(げんろく)小判」を発行することで経済を刺激して好景気となり、幕府の収入を増やしたのみならず、世界初の一般庶民(しょみん)を中心とする「元禄文化」をもたらしました。一例として、江戸時代初期には様々な治山(ちさん)・治...

  • もし鎖国なかりせば その2

    以上が鎖国から開国へと向かう我が国の大まかな歴史の流れですが、ここで考えられるのは「もし鎖国をせずに諸外国との積極的な交流を続けていれば、我が国はどのように発展していたか」ということです。我が国が史実において鎖国の状態に入った17世紀半ば頃の世界は、東インド会社を設立してアジアに進出したオランダがヨーロッパの貿易や金融の中心として栄えていました。当時の江戸幕府がオランダとの貿易を中止しなかったのも、...

  • もし鎖国なかりせば その1

    ※今回より「第84回歴史講座」の内容の更新を開始します(7月17日までの予定)。寛永(かんえい)16(1639)年、幕府はポルトガル船の来航を禁止して、キリスト教(=カトリック)を信仰する国との国交を断絶しました。さらに2年後の寛永18(1641)年には肥前(ひぜん、ここでは現在の長崎県)の平戸(ひらど)のオランダ商館を長崎の出島(でじま)に移し、オランダ人と日本人との自由な交流も禁止するなど、長崎奉行の厳しい監視...

  • 文学と芸術の動き その5

    ※「大正時代」の更新は今回が最後となります。明日(6月12日)からは「第84回歴史講座」の内容を更新します(7月17日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現代も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せいせい...

  • 文学と芸術の動き その4

    演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...

  • 文学と芸術の動き その3

    第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、たちまち100万部を突破する売...

  • 文学と芸術の動き その2

    明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび)主義を主張した...

  • 文学と芸術の動き その1

    大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年6月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その5

    自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その4

    大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造(よしのさくぞう)が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その3

    大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュースやラ...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その2

    産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...

  • 大衆文化の広がり・学問と教育の発展 その1

    ※今回より「大正時代」の更新を再開します(6月11日までの予定)。明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向...

  • 戊辰戦争の悲劇 その9

    ※「第83回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(6月2日)からは「大正時代」の更新を再開します(6月11日までの予定)。榎本武揚(えのもとたかあき)らの旧幕府海軍は、会津戦争が続いていた明治元(1868)年旧暦8月に江戸を脱出し、仙台で新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)ら旧幕府軍の残存兵を収容した後に蝦夷地へと向かうと、年末までに蝦夷地を平定して箱館の五稜郭(ごりょうかく)を拠点とする「蝦夷...

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