秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう...
この事件以降、昭和天皇はご自身に誓われました。「今後、内閣が私に上奏することは、たとえ自分の考えと反対の意見であったとしても、裁可を与えることにしよう」。昭和天皇にとっては立憲君主というご自身のお立場をお考えになってのご決断でしたが、時代は統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)に関する問題が深刻化しており(詳しくは後述します)、陛下のご決断は、結果として軍部の様々な行動を黙認されることにつながってしま...
なお、立憲政友会の田中内閣が総辞職したことによって、憲政会と政友本党とが合同して誕生した立憲民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)が新たに内閣を組織しましたが、その際に幣原喜重郎が再び外務大臣となったことで、この後の我が国は復活した協調外交という名の「弱腰外交」によってさらなる大きな混乱を招いてしまうのです。さて、後に田中義一の死去をお知りになった昭和天皇は、お心の中で「しまった」と思われました。なぜ...
昭和天皇は、常に我が国の繁栄と国民の安寧(あんねい、無事でやすらかなこと)を願われていました。それが天皇としての当然の責務と思われておられたのです。そして、我が国が平和であるためには、世界の国々とも友好を深めることが何よりも大切であるとお考えでした。そのためには、軍隊であっても当然規則を守らねばならないはずなのに、大きな事件を起こしたばかりか、その結果をうやむやにしようとする田中首相の報告を昭和天...
済南事件後も蒋介石が北伐を続けて北京に迫ったため、日本政府は蒋介石と北方軍閥の張作霖(ちょうさくりん)に対して「満州(現在の中国東北部)の治安維持のためには武力行使も辞さない」と通告しました。済南事件による悲惨な虐殺を経験した我が国は、北伐が当初の目的である北京占領で終わらず、日本の生命線たる満州の権益を害しに来ることを恐れたのです。北京へ迫る蒋介石の国民革命軍と満州を守る日本軍とに挟まれた張作霖...
昭和3(1928)年5月3日朝、済南の国民革命軍の兵士が突如(とつじょ)として居留民を襲撃し、多数の日本人が、およそ血の通った人間がやったとは思えないような惨(むご)たらしい手法よって虐殺されました。国民革命軍による非人道的な虐殺行為に激高した我が国は、直ちに「第三次山東出兵」を行って済南城を攻撃すると、革命軍は夜陰に乗じて城外に脱出し、日本軍が済南を占領しました。これら一連の流れは「済南事件」と呼ばれ...
我が国による第一次山東出兵に対し、チャイナによる居留地への襲撃に我が国と同じように悩まされていた欧米列強は歓迎の意を示すとともに出兵を評価しましたが、当時のチャイナに存在した北方軍閥による北京政府や、国民党の容共派(=共産主義に理解を示して協力する一派のこと)と共産党からなる武漢(ぶかん)政府、さらには蒋介石の南京政府の3つに分かれていた政府がいずれも抗議声明を出すとともに、排日運動が激しくなりま...
【ハイブリッド方式】第85回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和3年7月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
陸軍大将で立憲政友会総裁の田中義一(たなかぎいち)が昭和2(1927)年4月に内閣を組織すると、首相自らが外務大臣を兼任した田中内閣は、それまでの幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相による「協調外交」から、チャイナにおける日本の権益を守るために「積極外交」へと方針を大きく転換しました。昭和2(1927)年の中国大陸では、蒋介石(しょうかいせき)の国民革命軍による北伐(ほくばつ)が急激に進み、北京・天津(て...
大正末期から昭和初期にかけての日本経済は、第一次世界大戦後の戦後恐慌を始めとして、関東大震災による恐慌や金融恐慌も重なり、いわば慢性的な不況が続いていました。度重なる恐慌で銀行の休業や倒産が相次いだことや、政府が弱小銀行や不良銀行の整理に着手したことによって、いわゆる大銀行に多くの預金が集中することになりました。三井・三菱・安田・住友・第一のいわゆる五大銀行への預金は昭和4(1929)年には全体の35%...
金融恐慌における台湾銀行の救済を含む様々な政策は、憲政会の第一次若槻礼次郎内閣では認められず、政権交代後の立憲政友会の田中義一内閣でようやく成立しましたが、その裏には二大政党制による政党内閣の宿命ともいえる「政争」がありました。恐慌を起こした政権の責任はともかくとして、金融政策は本来であれば一刻も早く実施しなければならないものです。しかし、現実には野党の立憲政友会が「政争の具」として枢密院に「待っ...
第一次若槻内閣の総辞職を受けて、陸軍大将で立憲政友会総裁の田中義一(たなかぎいち)が内閣を組織しました。田中内閣の大蔵大臣となった高橋是清(たかはしこれきよ)は、手形の決済や預金の払い戻しなどを一時的に猶予する支払猶予令(しはらいゆうよれい、別名を「モラトリアム」)を出すための緊急勅令を直ちに枢密院に諮問(しもん、意見を求めること)しました。今度は枢密院も勅令を許可して3週間のモラトリアムが発せら...
貿易商として出発した総合商社の鈴木商店は、第一次世界大戦がもたらした大戦景気において急激に業績を伸ばし、三井や三菱などの財閥(ざいばつ)と肩を並べるまでに成長しましたが、大戦が終わると戦後恐慌のあおりを受けて経営難に陥(おちい)り、昭和2(1927)年4月に倒産してしまいました。鈴木商店の倒産は、同社に巨額の金銭を貸し付けていた台湾銀行が資金繰りに苦しむようになるなど深刻な影響を与えましたが、他の中小銀...
片岡蔵相が「東京渡辺銀行の破綻」を口走ったのには、遅々(ちち)として進まない審議に業(ごう)を煮やしたことで「対応が遅れれば遅れるほど、東京渡辺銀行のように破綻に追い込まれる金融機関が出てくることになる」と牽制(けんせい)する狙(ねら)いがあったとされています。しかし、当日の決済を終えていた東京渡辺銀行は、現実には破綻していなかったのです。にもかかわらず、議会において「破綻した」と口走ったのは、片...
昭和2(1927)年3月14日、当日の決済のための資金繰りに苦しんでいた東京渡辺銀行の関係者が午後に大蔵次官を訪問して「何らかの救済がなければ今日中にも休業を発表せざるを得ない」と陳情しました。次官は大蔵大臣の片岡直温(かたおかなおはる)に対応を相談しようとしましたが、議会で審議中のため面会できず、事情を書面に記して蔵相に言付(ことづ)けました。一方、大蔵省からの助力が得られないと判断した東京渡辺銀行は改...
※今回より「昭和時代・戦前」の更新を開始します(8月8日までの予定)。大正15(1926)年12月25日、かねてより病気療養中であられた大正天皇が47歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。深いお悲しみの中、摂政宮(せっしょうのみや)で皇太子の裕仁(ひろひと)親王が直ちに践祚(せんそ、皇位の継承のこと)されて第124代天皇(=昭和天皇)となられ、元号も「昭和」と改められま...
※「第84回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月18日)からは「昭和時代・戦前」の更新を再開します(8月8日までの予定)。新型コロナウィルス感染症の蔓延は世界中に大きな不幸をもたらしましたが、それが「庚子」の年に起こったことで、我が国が一丸となって国難を乗り越えようとする、すなわち「これまでとは全く異なる動きが発生する中で将来に備える」ことができるのではないでしょうか。アメリカの動きが...
つまり、中華人民共和国があっという間にGDPで我が国を追い越し、アメリカ打倒を視野に入れている一方で、我が国は緊縮財政や消費税率の上昇などによってGDPが横ばいを続けていることになりますが、これはまさに「鎖国による平和ボケが続いた後の黒船来航前夜」と同じではないでしょうか。もしこの状態がこのまま続いて、どこかの国がある日突然ペリーのように恫喝(どうかつ、人をおどして恐れさせること)外交を行えば、果たして...
アメリカの独立が事実上確定した1781年から240年の時を経て、同じ「庚子」→「辛丑」の流れの中で、そのアメリカに重大な危機が発生しています。昨年行われたアメリカ大統領選挙において、民主党のバイデン氏が当選して今年から大統領に就任しましたが、選挙における開票作業などをめぐって様々な問題が発生するなど、就任当初から何かと周辺が騒がしくなっています。また、昨年は新型コロナウィルス感染症が世界中に蔓延(まんえん...
しかし、江戸幕府の長い「平和ボケ」によって他国に無理やり開国させられるといった、我が日本民族の特性ともいえる「極限状態になるまで決断できなかった」ことによって、かねてより存在していた「日本における不文憲法」を説明する余地がなかったことが、我が国の将来に暗い影を落とすことになりました。かくして我が国は、まるで屋上屋(おくじょうおく)を重ねるように、本来は全く不必要な大日本帝国憲法を制定し、さらにそれ...
国家の基本法たる憲法といえば、例えば大日本帝国憲法や日本国憲法、あるいはアメリカ合衆国憲法のように、正式な立法手続を経た成文の形式をとっている、いわゆる「成文憲法」が多く見られます。しかしその一方で、イギリスのように「マグナ・カルタ」や「権利の章典」などといった、議会決議や裁判所の判例、国際条約、あるいは慣習などのうち、国家の性格を規定するものの集合体として存在し、憲法典としては制定されていない「...
江戸幕府を倒した末に新たに誕生した明治新政府でしたが、その前途は多難であり、なさねばならない課題が山積していましたが、なかでも新政府に重くのしかかったのが、江戸幕府が諸外国から結ばされた「不平等条約」の「改正」でした。政府による血のにじむような努力の末、領事裁判権が明治27(1894)年に撤廃され、関税自主権が明治44(1911)年に回復するなど、半世紀以上もの時間をかけてようやく条約改正を達成することができ...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和3年7月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
さらに安政5(1858)年にアメリカ軍艦のミシシッピ号が長崎に入港した際に、同船していた乗組員からコレラが広まりました。被害は日本中に拡大して、江戸だけで約10万人、全国で約20万人以上の犠牲者を出してしまいました。なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。こうした流れを受けて、庶民の怒りは外国に対す...
大量の金貨の海外流出に慌(あわ)てた幕府は、小判の大きさや重さをそれまでの約3分の1にして、海外の金銀相場と合わせた「万延(まんえん)小判」を発行することで被害の拡大を防ごうとしました。いわゆる「万延貨幣改鋳(かいちゅう)」ですが、これは同時に「貨幣の価値自体も3分の1に低下する」ことを意味していました。貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量を下げ...
幕末当時の金銀の比価は、外国では1:15だったのに対して、日本では1:5でした。当時外国で使用されていたメキシコドル1枚(1ドル)の価値が、日本で使っていた一分銀(いちぶぎん)3枚と同じだったのです。しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解...
我が国と他国との本格的な貿易は、安政6(1859)年より横浜・長崎・箱館(現在の函館)の3港で始まりました。我が国からの主な輸出品は生糸(きいと)・茶・蚕卵紙(さんらんし、カイコの卵が産み付けられた紙のこと)や海産物などで、海外からは毛織物・綿織物などの繊維(せんい)製品や、鉄砲・艦船(かんせん)などの軍需品(ぐんじゅひん)を輸入しました。貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追...
また、関税とは輸入や輸出の際にかかる税金のことですが、外国からの輸入品に税金をかけることは、自国の産業の保護につながるのみならず、税の収入によって国家の財政を助けることにもなります。このことから「自国の関税率を自主的に定めることができる権利」である関税自主権は非常に重要なものでした。例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円...
しかし、現実に我が国はペリーの黒船来航をきっかけに、何の準備もなく無理やり開国させられてしまいました。その悪影響は多岐にわたっていますが、まずは前回(第83回)紹介した内容を復習してみましょう。安政(あんせい)5(1858)年旧暦6月に我が国とアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」を皮切りに、我が国はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を結びましたが(これを「安政の五か国条約」といいま...
そして、それからさらに60年前の安永9(1780)年~天明元(1781)年に関してですが、この時期はアメリカ独立戦争がまだ続いており、1780年までに一進一退を続けた後に、1781年のヨークタウンの戦いでアメリカの勝利が決定的になりました。一方、当時の我が国では先述のとおり田沼意次による政治が行われていました。もし「庚子」→「辛丑」の時期、すなわち田沼政治が安定していた頃に我が国が開国にこぎつけていればどうなっていた...
しかし、天保12(1841)年に水野忠邦(みずのただくに)によって始められた「天保の改革」は結果的に失敗し、十数年後の幕末の大混乱の原因の一つを形づくってしまうことになります。なお、清国がアヘン戦争に敗北した天保13(1842)年に我が国は「天保の薪水(しんすい)給与令」を出しました。これは、我が国を訪問した外国船に対して食糧や燃料を与え、速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国と...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年7月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
その前は明治33(1900)年~明治34(1901)年でした。明治33(1900)年にチャイナ(清国)の北京(ペキン)で義和団の乱、すなわち「北清(ほくしん)事変」が発生し、翌明治34(1901)年になって北京議定書(ぎていしょ)が結ばれてようやく治まりました。しかし、このドサクサに紛(まぎ)れてロシアが満州(現在の中国東北部)を占領し、我が国の安全保障に重大な危機が生じるようになります。さらにその前は天保(てんぽう)11...
今から60年前は昭和35(1960)年~昭和36(1961)年でした。昭和35(1960)年といえば、国内においては新日米安保条約の批准(ひじゅん、国家が条約の内容に同意すること)をめぐって大規模な「安保闘争」が起きたことで有名です。その後、池田勇人(いけだはやと)内閣の下で所得倍増計画が進められ、我が国の経済が大きく発展しましたが、国家の防衛よりも経済発展を優先したことが、現在に至るまでの我が国の安全保障問題に大き...
「辛丑」の年は「辛(つら)い時に耐えて新たな人生観を築き、人との縁を大切に育てる年」です。「辛」は文字どおり「辛い」であり、新型コロナウィルス感染症の新たなる拡大が今後も続くことが予想されます。一方、「丑」は「紐」に通じ、血縁や地縁あるいは利害関係など社会を形づくる結びつきを「紐帯(ちゅうたい)」と表現しますから、「辛丑」は「人との縁を大切にして辛い時期を乗り越える」という意味になります。コロナ禍...
「ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?
秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう...
かくして「四民平等」が実現した一方で、政府は華族や士族に対して給与にあたる家禄(かろく)の支給を続けており、また維新の功労者にも賞典禄(しょうてんろく)を支給していました。これらの禄を合わせて「秩禄(ちつろく)」といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、政府にとって大きな負担になっていました。また、明治6(1873)年には「徴兵令」が定められたことで(詳細は後述します)、士族とは無関係...
※「黒田裕樹の歴史講座」で記されている内容は、あくまで歴史的経緯あるいは事実に基づくものであり、現代につながるような差別を意図して表現したものではないことをあらかじめご承知おきください。 従来の封建的な身分制度の廃止を進めた明治政府は、明治2(1869)年に藩主や公家を「華族」、藩士や旧幕臣を「士族」、それ以外のいわゆる「農工商」の農民・町人を「平民」としました。また翌明治3(1870)年には平民も苗字(みょ...
版籍奉還から廃藩置県という中央集権化への流れのなかで、明治政府の組織の改革も進みました。版籍奉還が行われた明治2(1869)年、政体書による太政官制(だじょうかんせい)が改められ、かつての「大宝律令(たいほうりつりょう)」の形式を復活させました。すなわち、従来の太政官の外に、神々の祀(まつ)りをつかさどる神祇官(じんぎかん)を復興し、太政官の下に民部省(みんぶしょう)などの各省を置きました。その後、廃...
廃藩置県がスムーズに行われた根拠のひとつとして、約1万人の御親兵を準備していたというのが考えられますが、もっと大きな理由が別にありました。まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概(きがい)によって支えられていたのです。他の理由としては「経済的な事...
政府は、薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(=政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、明治4(1871)年旧暦7月に東京在住の知藩事を皇居に集めて、明治天皇の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)によって「廃藩置県」を一方的に断行しました。これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から「府知事」や「県令...
版籍奉還の後、旧藩主は新たに「知藩事(ちはんじ)」に任命され、そのまま藩政を行いました。つまり、版籍奉還によって藩は領地や領民は返上したものの、徴税や軍事といった政治の実権は従来どおり知藩事たる旧藩主が握ったということを意味していました。藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、政府が領地と領民を返上させる一方で政治の実権を藩に残した背景には、いきなりすべての権利を奪(うば)ったのでは各...
さて、明治政府は戊辰(ぼしん)戦争などによって没収した旧幕府領を直轄地(ちょっかつち)としたほか、東京・大阪・京都などの要地を「府」とし、その他を「県」としましたが、諸藩は各大名が従来どおり統治することを認めていました。しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために「中央集権化」を目指す必要がありました。...
明治元(1868)年旧暦7月、明治天皇の名において江戸は「東京」と改められ、東京府が置かれました。翌8月には京都で明治天皇の即位の礼が行われ、翌9月8日には元号がそれまでの慶応(けいおう)から「明治」へと改められました。明治の元号は慶応4年旧暦1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました。これを「一世一元(いっせいいちげん)の制」といいます。一世一元の制によって、天皇が交代...
ところで、桓武(かんむ)天皇が延暦(えんりゃく)13(794)年に平安京へ遷都(せんと)されて以来、一時的な例外を除いて京都は我が国の首都でしたが、大政奉還から王政復古の流れのなかで、政治の刷新という意味も込めて新しい首都を定めようという雰囲気(ふんいき)が高まりました。新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(=現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦...
五箇条の御誓文で新しい政治の基本方針を示した明治政府でしたが、その一方で、国内の治安維持をどうするかということも緊急を要する課題でした。幕末以来の政治の激変が深刻な社会不安をもたらしたところへ、曲がりなりにも260年以上続いていた幕府が崩壊(ほうかい)したことによって、さらなる混乱が予想されたからです。そこで、政府は応急の措置(そち)として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年旧暦3月15日...
明治元(1868)年旧暦閏(うるう)4月、新政府は「政体書(せいたいしょ)」を公布し、五箇条の御誓文で示された方針に基づく政治組織を整えました。具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる「三職」を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする「三権分立制」を採り入れ...
御誓文には、明治新政府の当面の基本方針を「天皇が神々に誓われる」という形式にすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは簡単に破ることが許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。なお、御誓文の内容は参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を...
明治元(1868)年旧暦1月、新政府は兵庫に欧米列強の代表を集め、王政復古と今後は天皇が外交を親裁(しんさい、君主が自分で裁決すること)することを通告するとともに、旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束して対外関係を整理しました。新政府からすれば、自分たちが政治の実権を握る前に江戸幕府が諸外国に無理やり結ばされた不平等条約など引き継ぎたくはありませんでしたが、政権が交代しても国家間のルールをその...
「このままでは我が国も他国の植民地とされてしまうのではないか」という強い危機感をもった明治新政府は、欧米列強と肩を並べるためにも一刻も早い近代国家としての確立を目指さなければなりませんでした。しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府がいくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。そこで、新...
※今回より「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。ペリーによる黒船来航のいわゆる幕末の頃から、明治新政府によって我が国が近代国家として新たな歩みを始める一連の歴史の流れを一般的に「明治維新」といいますが、当時は「御一新」と呼ばれました。徳川家による江戸幕府の「大政奉還(たいせいほうかん)」から「王政復古の大号令」を経て政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、...
※「第100回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(4月10日)からは「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。物事には「プラスとマイナス」があり、また「光と影」があります。それは歴史においても例外ではなく、両方をバランスよく学ぶことで「本当の歴史」を初めて理解できるはずです。しかし、今の歴史教育はあまりにも「マイナス」や「影」の部分を強調し過ぎではないでしょうか。一方的...
4世紀には「朝廷」がなく、また「天皇」も当時は「大王(おおきみ)」と呼ばれていたのだから、政権の名前は「ヤマト王権」こそが正しいのであり、また「自分の陵(みささぎ)の建設に際して国民を強制的に労働させた」仁徳天皇のような人物の古墳が今も存在するかどうかは非常に疑わしく、さらには聖徳太子も存在せず、中国の皇帝を怒らせた「厩戸王」を美化しただけに過ぎないということになります。鎌倉幕府は源頼朝が守護や地...
私が歴史教育の世界に身を投じて間もなく16年を迎えますが、これまでに積み重ねてきた経験を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけとは限らない、ということです。今回の講演で述べた数々の歴史的事実を、もし「自虐史観」に染まりきった内容で語って、いや「騙(かた)って」しまえば、果たしてどのような表現になってしまうのでしょうか。日本の起源はいわゆる「世界四大文明」よりも遅れており、...
秀吉が死亡した慶長3(1598)年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリスとのアルマダの海戦で敗北しました。この戦いは、イスパニアとイギリスとの勢力が逆転するきっかけとなり、これ以降のイスパニアは東洋に軍事力を割(さ)く余裕がなくなってしまったのです。もしイスパニアがアルマダの海戦に勝利していれば、明の征服も成功していたかもしれません。そうなれば、我が国の運命がどうなったのか見当...
さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...
我が国の内政における思い切った改革に成功した聖徳太子は、いよいよ外交問題の抜本的な解決へと乗り出しましたが、そのための手段として、隋に対し共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗や百済(くだら)と同盟を結びました。事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使を送りました。この頃、隋の皇帝は2代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との...
例えば第1条の「和の尊重」ですが、言葉自体は非常に耳に心地よい響きがするものの、これには「蘇我氏だけで勝手に物事を進めずに、他の者の同意を得てから行うように」という意味も含まれているのです。また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」にな...
さて、憲法十七条では第1条や第17条で示した「和の尊重」の他にも、様々な規範を示しています。例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文...
冠位十二階によって「朝廷が役人に対して冠位を授与する」という明確な姿勢を示した聖徳太子でしたが、公地公民制の実現へ向けての次の手段として、朝廷と豪族との間における「順位の上下」を明らかにするための正式な規則をつくろうと考えました。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条...
そうこうしているうちに、聖徳太子が朝廷での人事権を握って、自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、自分の影響力が少しずつ削られていくのを蘇我氏はそれこそ指をくわえて黙って見ているしかないのです。おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続...
しかしながら、聖徳太子もなかなかの「食わせ者」でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因をつくったことにもなったからです。冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。蘇我氏を冠位十二階か...
公地公民制という国家の最終的な目標の実現や、隋にも負けない優秀な人材を集めるため、聖徳太子は時間をかけて豪族あるいは民衆の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」もその例です。冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)」・「義(ぎ)」・「智(ち)...
まず内政面においてですが、蘇我氏による横暴を打開するためには、最終的に朝廷がすべての土地や民衆を所有する「公地公民制」を目指すという思い切った改革を行うしかないと決断しました。しかし、現状でいきなり大ナタをふるえば、蘇我氏などの豪族の猛反発を受けるのは必至であり、慎重な手続きが必要であると同時に考えていました。また、外交面においては、何よりも大国である隋の実力を知ることが重要であると考えた聖徳太子...
まず内政面においては、当時は朝廷と蘇我氏のような豪族とがお互いに土地や民衆を所有していましたが、聖徳太子が摂政になった頃には蘇我氏の支配地が朝廷を脅(おびや)かすほどに大きくなっており、政治上のバランスが不安定になっていました。この状態を放置していれば、蘇我氏の勢力が朝廷を大きく上回ることでやがて両者に争いが起こり、罪もない民衆が迷惑する可能性が高かったのです。また外交面では、前回(第94回)の講座...
崇峻天皇の崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)を受け、馬子によって新たに天皇として即位されたのは、先に崩御された30代の敏達(びだつ)天皇の皇后で、自らも29代の欽明(きんめい)天皇の娘であり、母親が馬子の姉でもあった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)でした。我が国初の女帝となった33代の推古(すいこ)天皇は、593年に甥(おい)にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を皇太子並び...
※今回より「第95回歴史講座」の内容の更新を開始します(5月13日までの予定)。587年に物部守屋(もののべのもりや)との激しい戦いに勝った蘇我馬子(そがのうまこ)は、自分の血縁である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を32代の崇峻(すしゅん)天皇として即位させました。初めのうちは馬子と共同で政治を行っていた崇峻天皇でしたが、次第に馬子の専横が目立つようになると、天皇は政治の実権を持てない自身の待遇に次第に不満を...
※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(4月15日)からは「第95回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。平成29(2017)年3月14日に、松野博一(まつのひろかず)文部科学大臣(当時)が、記者会見において「憲法や教育基本法に反しないような配慮があって、教材として教育勅語を用いることは、そのことをもって問題とはしない」と明言しているように、教育勅語そのものは、国会の決議とは無関係に今も...
我が国の教育の重要な指針である教育基本法は、アメリカ教育使節団の勧告によって昭和22(1947)年3月に制定され、日本国憲法の精神に則(のっと)った教育の機会均等や9年間の義務教育、男女共学などが定められたほか、同時に学校教育法が制定され、同年4月からいわゆる「6・3・3・4制」が発足しました。また翌昭和23(1948)年には、教育の地方分権化を目指して、都道府県・市町村ごとに公選による教育委員会制度が実施されまし...
ところで、日本国憲法という名で国家の基本法が新たに制定されたことは、必然的にその他の様々な法律の改正あるいは成立をもたらし、皇室典範(てんぱん)や民法あるいは刑法などが改正されたほか、新たに地方自治法や国家公務員法、警察法などが成立しました。このうち昭和22(1947)年に改正された民法では、従来の戸主(こしゅ)制度が廃止され、家督(かとく)相続にかわって財産の均等相続が定められ、男女同権や夫婦中心とい...
日本国憲法の問題点は他にも多く存在します。例えば、大阪国際空港(=伊丹空港)近辺の騒音や水俣病(みなまたびょう)をはじめとする公害の問題などによって、良好な環境で生活を営む権利である「環境権」が新しい人権として認知されつつありますが、現状では憲法第13条のいわゆる「幸福追求権」の拡大解釈とされており、憲法上における正式な条文化が望まれるところです。それ以外にも永住外国人に地方を含めた参政権を与えるの...
歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を起こす側にとって「宿敵」ともいえる天皇のご存在を軽視する傾向が見られるのではないでしょうか。また、我が国の「人権思想」に直結する「八紘一宇」も、昭和20(1945)年12月にGHQか...
我が国の初代天皇であらせられる神武(じんむ)天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された際に「八紘(はっこう、四方八方のこと)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と仰せられたと伝えられており、これが由来となって「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉が生まれました。「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神のために祈られる...
日本国憲法の三大原則のひとつに「基本的人権の尊重」がありますが、これは憲法第11条や第97条において「侵すことのできない永久の権利」と規定されており、一般的にも「天賦(てんぷ)人権論」として知られています。しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家であるイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて人間は生まれな...
こうした事実を考慮すれば、いかにGHQの命令でつくられたのがルーツとはいえ、自衛隊の存在を日本国憲法第9条が想定しているとは考えられません。このため、自衛隊が憲法とは別の法律である「自衛隊法」によって規定されるとともに、憲法改正を避けた日本政府が、第9条の拡大解釈という名の「苦しい言い訳」によって、自衛隊を「合憲」としているのです。昭和29(1954)年に自衛隊が正式に発足して早や70年近くになりますから、も...