大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
上野戦争の勝利によって江戸を支配下に置いた新政府軍は「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結成していた東北諸藩に戦いの矛先(ほこさき)を向けましたが、特に会津藩に対しては執拗(しつよう)に攻め続けました。なぜなら、会津藩主の松平容保(かたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組による池田屋事件などで多くの藩士を殺されてい...
【ハイブリッド方式】第84回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和3年5月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
江戸城の無血開城によって大規模な戦乱は回避されましたが、戦わずして降伏することを嫌った旧幕臣を中心とする抗戦派が各地で戦闘を続けました。このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎が明治元(1868)年旧暦5月15日に総攻撃を加えました。これを「上野戦争」といいます。戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単に...
西郷と勝との話し合いは、明治元(1868)年旧暦3月13日から14日にかけて江戸の薩摩藩屋敷で行われました。その結果、旧幕府は江戸城を無傷で明け渡し、慶喜は故郷の水戸で自主的に謹慎するという極めて平和的な内容で決着し、西郷は翌15日に行う予定であった江戸城への攻撃を中止しました。この後旧暦4月に江戸城は争うことなく開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避できたほか、江戸を焼け野原から防いだことは、指揮系...
山岡が「慶喜の備前藩お預け」を拒否すると、西郷も「これは朝命(ちょうめい、朝廷の命令=天皇の命令のこと)である」と一歩も引きませんでした。二人の話し合いは平行線をたどり、もはや決裂かと思われたその時、山岡が西郷に迫りました。「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」山岡の決死の意見に対...
鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、朝敵と定めた徳川慶喜への征討軍を編成して江戸へ向かわせましたが、征討軍が駿府(すんぷ、現在の静岡)にまで迫ってくると、旧幕臣の勝海舟は早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉を委任されました。江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、同年旧暦3月9日に東征大総督府参謀(とうせいだいそうとくふさんぼう)の西郷隆盛と...
将軍になる前の慶喜は御三卿(ごさんきょう)の一橋家の当主でしたが、実は御三家(ごさんけ)の水戸藩から養子に入っていました。水戸藩ではいわゆる水戸学が発達していましたが、これは江戸幕府が主君に忠誠を誓うという内容がふさわしいということで公式の学問として採用された朱子学からの大きな流れが基本となっています。ところが、前回(第82回)も紹介したとおり、幕末を迎える頃までに水戸学は「主君としてふさわしいのは...
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が錦の御旗を掲げた新政府軍に敗れ去ったという報告を受けた慶喜は、大坂城から深夜密かに脱出し、海路で江戸へ向かいました。主君を思わぬかたちで失った旧幕府軍は大坂を放棄して総崩れとなりました。戦いに勝利した新政府軍は慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢(ねんぐ)を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたもの...
明治元(1868)年旧暦1月3日、徳川慶喜率いる旧幕府軍は、薩長を中心とする新政府軍と京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で激突しました。これを「鳥羽・伏見の戦い」といいます。当時の兵力は、旧幕府軍の約15,000名に対して新政府軍は約5,000名しかおらず、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば新政府軍の圧勝に終わったのです。新政府軍が勝利した大きな理由の一つとして...
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで旧幕府に肩入れすることはないと判断した山内はその後沈黙し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。会議の結果、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。これを「辞官納地(じかんのうち)」といいます。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容...
大政奉還によって徳川慶喜は確かに征夷大将軍の地位を自ら返上しましたが、同時に任命されていた内大臣(ないだいじん)の地位はそのままであり、また400万石を超える広大な天領も残っていました。慶喜の内大臣の地位と天領を没収しなければ、徳川家に巻き返しの可能性を持たせてしまうと判断した新政府は、王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜に、明治天皇ご臨席のもとで「小御所(こごしょ)会議」を開きました。旧幕府...
「王政」とは天皇による親政を意味しており、また「復古」は「古(いにしえ)に戻る」ことですから、古代あるいは後醍醐(ごだいご)天皇による建武の新政がそうであったように、王政復古の大号令は天皇親政による新政府の樹立の宣言を意味していました。天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大...
先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...
朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が「討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか」と慶喜に提案しました。このままでは武力討幕が避けられず、徳川...
討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、...
我が国における「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権たる鎌倉幕府が朝廷から公認されるという扱いとなった...
【オンライン式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和3年5月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、本来は従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しておりますが、今回は諸般の事情によりオンライン式の講座のみとさせていただきます。ご了承ください。オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりま...
幕府の15代将軍であった徳川慶喜は、フランス公使ロッシュの援助を受けて軍制改革を行うなど幕政の立て直しに努めていましたが、開国後の混乱もあって当時の幕府の権威は著しく下がっており、社会不安も増大していました。そんな中、慶応2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩・長州の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いき...
開国に伴う物価の上昇などの経済の混乱や、様々な抗争がもたらした政局の激変ぶりによって社会不安が増大したことで、変革を求める民衆運動は「世直し」の大きなエネルギーとなりました。全国の農村や都市部で世直し一揆や打ちこわしが頻発(ひんぱつ)したほか、後に教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれた備前(びぜん)の黒住教(くろずみきょう)や大和(やまと)の天理教(てんりきょう)、備中(びっちゅう)の金光教(こん...
さて、薩長同盟の動きを知らない幕府は、慶応2(1866)年旧暦6月に「第二次長州征討(または「長州征伐」)」を実行しましたが、薩摩藩が出兵を拒否するなど諸藩の集まりは悪く、幕府の士気もふるいませんでした。第二次長州征討は幕府に不利な戦況となり、大坂城へ出陣していた14代将軍の徳川家茂が同年旧暦7月に21歳の若さで急死すると、それを口実に戦闘を中止しました。第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成...
坂本龍馬や中岡慎太郎は、それぞれ知人を通じて薩長の和解を力説し、一度は西郷隆盛と桂小五郎の会談を実現させる寸前までいきましたが、残念ながら果たすことが出来ませんでした。しかし同盟をあきらめなかった龍馬や中岡は、討幕のために最新鋭の武器が欲しい長州藩と、琉球(りゅうきゅう)を通じての密貿易が得意な薩摩藩という経済的な立場から結びつけることで、薩長両藩の和解を進めました。こうした努力が実って、慶応2(1...
ペリーによる黒船来航以来、一貫して攘夷を主張し幕政を批判していた長州藩に対して、薩摩藩は幕府と結んで公武合体を目指しており、両藩は対立関係にありました。やがて文久3(1863)年の八月十八日の政変や、元治元(1864)年の禁門の変(または「蛤御門の変」)などにおいて両藩は激しく戦い、多くの犠牲者を出していました。そんなこともあり、両藩はいつしか不倶戴天(ふぐたいてん、ともにこの世に生きられない、あるいは生...
先の薩摩藩主であった島津斉彬は身分に関係なく有能な人材を登用しましたが、その中のひとりに西郷隆盛がいました。西郷は斉彬の急死に絶望して自殺を図ったり、斉彬の死後に藩政の実権を握った島津久光と何度も衝突して島流しにあったりするなど、不遇の時代が続きました。一方、西郷の親友であった大久保は久光に取り入り、側近として重用されましたが、決して久光の保守的な考えに賛同したわけではありませんでした。いずれ時代...
高杉晋作や桂小五郎らによって討幕へと藩論を転換した長州藩は、大村益次郎(おおむらますじろう)らの指導によって西洋風の軍制改革を行うなど、軍事力の強化に努めました。一方、幕府は長州藩に対して先の第一次長州征討における戦後処理として領地の削減などを求めましたが、それまでの保守派から討幕へと転換した長州藩が応じなかったので、幕府は再び長州藩を討伐することを宣言しました。しかし、薩英戦争によってイギリスの...
高杉は文久2(1862)年に藩命で上海へ留学しましたが、当時の清国はアヘン戦争やアロー戦争などの影響で欧米列強からの強い圧力を受けており、欧米人が我が物顔で上海の町を歩く一方で、清国人はそんな欧米人を避けるようにこそこそ歩く有様でした。また、当時は香港(ホンコン)をイギリスが租借しており、完全にイギリスの植民地と化していました。そんな風景を見た高杉は、列強に領土を奪われればどうなるかということを、身を...
文久3(1863)年に起きた四国艦隊下関砲撃事件の後、長州藩は戦後処理についてイギリスと交渉の場を持ちましたが、その時に交渉を任されたのが高杉でした。当時高杉は脱藩の罪で謹慎中でしたが、かつて清国の上海(シャンハイ)への留学経験がある高杉の実績を期待しての抜擢(ばってき)でした。藩の家老と偽(いつわ)って交渉に臨んだ高杉に対し、イギリスは関門海峡の入り口にあって、軍事的にも重要な彦島(ひこしま)の租借...
さて、第一次長州征討や四国艦隊下関砲撃事件の影響で保守派の勢力が強くなった長州藩でしたが、尊攘派から開明政策へと転じた高杉晋作(たかすぎしんさく)や桂小五郎らにとって、幕府に恭順する保守派の姿勢は許しがたいものがありました。そんな中、高杉は元治元年旧暦12月(1865年1月)に奇兵隊(きへいたい)を率いて下関で挙兵しました。これを「功山寺(こうざんじ)挙兵」といいます。兵を挙げた当時、高杉の兵力は伊藤俊...
この当時、我が国と積極的に干渉してくる国が二つありました。それはイギリスとフランスです。前者は薩摩藩や長州藩に、後者は幕府にそれぞれ接近して軍事的・財政的な支援を続けました。イギリスの駐日公使のパークスは次第に幕府政治に不信感を持つようになり、攘夷から開明政策へと転じるようになった薩摩藩や長州藩が、幕府を倒して天皇中心の雄藩連合政権を実現することに期待を寄せていました。一方、フランスの駐日公使であ...
さて、長州藩や薩摩藩が外国の武威に負けて攘夷をあきらめたということは、裏を返せば当時の欧米列強の軍事力が我が国にとって深刻な脅威(きょうい)であったことを意味していました。そして列強は、強力な武威を背景に我が国との貿易を優位に進めようとしました。慶応(けいおう)元(1865)年旧暦9月、列強は兵庫沖に軍艦を進め、未だに達成していなかった兵庫の開港と安政の五か国条約の勅許を強く要求しました。これを「兵庫...
国内外から同時に攻め込まれ、まさにボロボロの状態になった長州藩では保守派の勢力が強くなり、藩内の尊攘派を弾圧して幕府に対し恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の意を示しました。このため、幕府の征討軍は戦わずして長州から引き揚げています。攘夷に対する欧米列強の報復を受けた形になった長州藩でしたが、実は薩摩藩も同じような報復を1年前に受けていました。文久2(1862)年に起きた生麦事件の...
多数の尊攘派の志士が池田屋事件で殺傷されたことで追いつめられた長州藩は、勢力の回復を目指して挙兵し、元治元(1864)年旧暦7月に京都で会津藩・薩摩藩・桑名藩などの藩兵と衝突しました。両者による激しい戦いは会津藩や薩摩藩らの勝利に終わり、長州藩は敗北して久坂玄瑞(くさかげんずい)らが戦死しました。ところで、この事件は「禁門(きんもん)の変」と呼ばれていますが、そもそも天皇がおわします御所は「みだりにそ...
新選組の同士たちに裏手を固めさせた後、近藤は沖田総司(おきたそうじ)らとともに少人数で池田屋の表口から堂々と進入しました。「御用改めである!」近藤らは正面から斬り込み、尊攘派の志士らとの間で大乱闘が繰(く)り広げられました。途中で沖田が病(やまい)を発して戦線を離脱するなど近藤らは苦戦しましたが、別働隊の土方らが到着すると形勢は一気に逆転しました。最後には会津藩や桑名藩の部隊が到着して志士らは壊滅...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年5月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
密かに京都へ戻った長州藩士を中心とする尊王攘夷派の志士たちは、風の強い日に御所に火を放ち、その混乱に乗じて佐幕派(さばくは、幕府を支持する勢力の総称)の公家の幽閉(ゆうへい、ある場所に閉じこめて外に出さないこと)や大名の暗殺、さらには孝明天皇を長州まで連れ去るという過激なクーデターを計画していました。しかし、彼らの動きは京都守護職である松平容保が預かる新選組の知るところとなりました。新選組は武器の...
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大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
東京帝国大学の吉野作造(よしのさくぞう)教授は、大正5(1916)年に中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする「民本(みんぽん)主義」を提唱しました。民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる「大正デモクラシー」の先駆けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識人層を...
第一次世界大戦の前後から、我が国でも民主主義を求める動きが活発化したほか、ロシア革命などをきっかけとして共産主義(あるいは社会主義)の風潮が急速に高まるとともに、様々な社会運動が見られるようになりました。大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。こうした流れを受けて、...
第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...
さて、自由民権運動が広がりを見せるなか、西南戦争の最中の明治10(1877)年に立志社の片岡健吉らが政府の太政大臣である三条実美(さんじょうさねとみ)に対して「立志社建白」を提出しましたが却下されました。翌明治11(1878)年には各地の民権派が大阪に集まり、活動を休止していた愛国社を再興すると、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としまし...
ところで、漸次立憲政体樹立の詔の発布が議会政治の実現を目標とする民権派の期待を高めた一方で、漸進的(ぜんしんてき、「漸進」とはじっくり時間をかけること)な動きしか見せない政府に対する批判が激しくなりました。新聞や雑誌において政府への活発な攻撃が見られたことに対して、政府は過激な政治的言論を取りしまるため、明治8(1875)年に「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」などを公布しました。また、西南戦争...
漸次立憲政体樹立の詔の発布と同時に、政府はそれまでの左院・右院(ういん)を廃して、新たに立法の諮問(しもん、有識者などの一定機関に意見を求めること)機関である「元老院(げんろういん)」や、現在の最高裁判所にあたる「大審院(だいしんいん)」、そして府知事や県令で行われる「地方官会議」を設置しました。これらのうち、元老院や地方官会議には立法府の、大審院には司法府の性格を持たせており、これらは政体書(せ...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...