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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 戊辰戦争の悲劇 その8

    上野戦争の勝利によって江戸を支配下に置いた新政府軍は「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結成していた東北諸藩に戦いの矛先(ほこさき)を向けましたが、特に会津藩に対しては執拗(しつよう)に攻め続けました。なぜなら、会津藩主の松平容保(かたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組による池田屋事件などで多くの藩士を殺されてい...

  • 【ハイブリッド方式】第84回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和3年5月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 戊辰戦争の悲劇 その7

    江戸城の無血開城によって大規模な戦乱は回避されましたが、戦わずして降伏することを嫌った旧幕臣を中心とする抗戦派が各地で戦闘を続けました。このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎が明治元(1868)年旧暦5月15日に総攻撃を加えました。これを「上野戦争」といいます。戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単に...

  • 戊辰戦争の悲劇 その6

    西郷と勝との話し合いは、明治元(1868)年旧暦3月13日から14日にかけて江戸の薩摩藩屋敷で行われました。その結果、旧幕府は江戸城を無傷で明け渡し、慶喜は故郷の水戸で自主的に謹慎するという極めて平和的な内容で決着し、西郷は翌15日に行う予定であった江戸城への攻撃を中止しました。この後旧暦4月に江戸城は争うことなく開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避できたほか、江戸を焼け野原から防いだことは、指揮系...

  • 戊辰戦争の悲劇 その5

    山岡が「慶喜の備前藩お預け」を拒否すると、西郷も「これは朝命(ちょうめい、朝廷の命令=天皇の命令のこと)である」と一歩も引きませんでした。二人の話し合いは平行線をたどり、もはや決裂かと思われたその時、山岡が西郷に迫りました。「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」山岡の決死の意見に対...

  • 戊辰戦争の悲劇 その4

    鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、朝敵と定めた徳川慶喜への征討軍を編成して江戸へ向かわせましたが、征討軍が駿府(すんぷ、現在の静岡)にまで迫ってくると、旧幕臣の勝海舟は早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉を委任されました。江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、同年旧暦3月9日に東征大総督府参謀(とうせいだいそうとくふさんぼう)の西郷隆盛と...

  • 戊辰戦争の悲劇 その3

    将軍になる前の慶喜は御三卿(ごさんきょう)の一橋家の当主でしたが、実は御三家(ごさんけ)の水戸藩から養子に入っていました。水戸藩ではいわゆる水戸学が発達していましたが、これは江戸幕府が主君に忠誠を誓うという内容がふさわしいということで公式の学問として採用された朱子学からの大きな流れが基本となっています。ところが、前回(第82回)も紹介したとおり、幕末を迎える頃までに水戸学は「主君としてふさわしいのは...

  • 戊辰戦争の悲劇 その2

    鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が錦の御旗を掲げた新政府軍に敗れ去ったという報告を受けた慶喜は、大坂城から深夜密かに脱出し、海路で江戸へ向かいました。主君を思わぬかたちで失った旧幕府軍は大坂を放棄して総崩れとなりました。戦いに勝利した新政府軍は慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢(ねんぐ)を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたもの...

  • 戊辰戦争の悲劇 その1

    明治元(1868)年旧暦1月3日、徳川慶喜率いる旧幕府軍は、薩長を中心とする新政府軍と京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で激突しました。これを「鳥羽・伏見の戦い」といいます。当時の兵力は、旧幕府軍の約15,000名に対して新政府軍は約5,000名しかおらず、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば新政府軍の圧勝に終わったのです。新政府軍が勝利した大きな理由の一つとして...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その8

    西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで旧幕府に肩入れすることはないと判断した山内はその後沈黙し、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議は進みました。会議の結果、慶喜は将軍のみならず、内大臣の辞任と領地を一部返上させられることで決着しました。これを「辞官納地(じかんのうち)」といいます。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その7

    大政奉還によって徳川慶喜は確かに征夷大将軍の地位を自ら返上しましたが、同時に任命されていた内大臣(ないだいじん)の地位はそのままであり、また400万石を超える広大な天領も残っていました。慶喜の内大臣の地位と天領を没収しなければ、徳川家に巻き返しの可能性を持たせてしまうと判断した新政府は、王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜に、明治天皇ご臨席のもとで「小御所(こごしょ)会議」を開きました。旧幕府...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その6

    「王政」とは天皇による親政を意味しており、また「復古」は「古(いにしえ)に戻る」ことですから、古代あるいは後醍醐(ごだいご)天皇による建武の新政がそうであったように、王政復古の大号令は天皇親政による新政府の樹立の宣言を意味していました。天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その5

    先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その4

    朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が「討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか」と慶喜に提案しました。このままでは武力討幕が避けられず、徳川...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その3

    討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その2

    我が国における「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」も、本来は東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために設けられた臨時の役職でしたが、チャイナの将軍と同じような権限が与えられたことで、いつしか「朝廷から独立した軍事政権を握るための地位」と拡大解釈され、建久(けんきゅう)3(1192)年に源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任じられたことで、軍事政権たる鎌倉幕府が朝廷から公認されるという扱いとなった...

  • 【オンライン式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和3年5月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、本来は従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しておりますが、今回は諸般の事情によりオンライン式の講座のみとさせていただきます。ご了承ください。オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりま...

  • 幕府の滅亡と王政復古 その1

    幕府の15代将軍であった徳川慶喜は、フランス公使ロッシュの援助を受けて軍制改革を行うなど幕政の立て直しに努めていましたが、開国後の混乱もあって当時の幕府の権威は著しく下がっており、社会不安も増大していました。そんな中、慶応2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩・長州の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いき...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その9

    開国に伴う物価の上昇などの経済の混乱や、様々な抗争がもたらした政局の激変ぶりによって社会不安が増大したことで、変革を求める民衆運動は「世直し」の大きなエネルギーとなりました。全国の農村や都市部で世直し一揆や打ちこわしが頻発(ひんぱつ)したほか、後に教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれた備前(びぜん)の黒住教(くろずみきょう)や大和(やまと)の天理教(てんりきょう)、備中(びっちゅう)の金光教(こん...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その8

    さて、薩長同盟の動きを知らない幕府は、慶応2(1866)年旧暦6月に「第二次長州征討(または「長州征伐」)」を実行しましたが、薩摩藩が出兵を拒否するなど諸藩の集まりは悪く、幕府の士気もふるいませんでした。第二次長州征討は幕府に不利な戦況となり、大坂城へ出陣していた14代将軍の徳川家茂が同年旧暦7月に21歳の若さで急死すると、それを口実に戦闘を中止しました。第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その7

    坂本龍馬や中岡慎太郎は、それぞれ知人を通じて薩長の和解を力説し、一度は西郷隆盛と桂小五郎の会談を実現させる寸前までいきましたが、残念ながら果たすことが出来ませんでした。しかし同盟をあきらめなかった龍馬や中岡は、討幕のために最新鋭の武器が欲しい長州藩と、琉球(りゅうきゅう)を通じての密貿易が得意な薩摩藩という経済的な立場から結びつけることで、薩長両藩の和解を進めました。こうした努力が実って、慶応2(1...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その6

    ペリーによる黒船来航以来、一貫して攘夷を主張し幕政を批判していた長州藩に対して、薩摩藩は幕府と結んで公武合体を目指しており、両藩は対立関係にありました。やがて文久3(1863)年の八月十八日の政変や、元治元(1864)年の禁門の変(または「蛤御門の変」)などにおいて両藩は激しく戦い、多くの犠牲者を出していました。そんなこともあり、両藩はいつしか不倶戴天(ふぐたいてん、ともにこの世に生きられない、あるいは生...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その5

    先の薩摩藩主であった島津斉彬は身分に関係なく有能な人材を登用しましたが、その中のひとりに西郷隆盛がいました。西郷は斉彬の急死に絶望して自殺を図ったり、斉彬の死後に藩政の実権を握った島津久光と何度も衝突して島流しにあったりするなど、不遇の時代が続きました。一方、西郷の親友であった大久保は久光に取り入り、側近として重用されましたが、決して久光の保守的な考えに賛同したわけではありませんでした。いずれ時代...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その4

    高杉晋作や桂小五郎らによって討幕へと藩論を転換した長州藩は、大村益次郎(おおむらますじろう)らの指導によって西洋風の軍制改革を行うなど、軍事力の強化に努めました。一方、幕府は長州藩に対して先の第一次長州征討における戦後処理として領地の削減などを求めましたが、それまでの保守派から討幕へと転換した長州藩が応じなかったので、幕府は再び長州藩を討伐することを宣言しました。しかし、薩英戦争によってイギリスの...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その3

    高杉は文久2(1862)年に藩命で上海へ留学しましたが、当時の清国はアヘン戦争やアロー戦争などの影響で欧米列強からの強い圧力を受けており、欧米人が我が物顔で上海の町を歩く一方で、清国人はそんな欧米人を避けるようにこそこそ歩く有様でした。また、当時は香港(ホンコン)をイギリスが租借しており、完全にイギリスの植民地と化していました。そんな風景を見た高杉は、列強に領土を奪われればどうなるかということを、身を...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その2

    文久3(1863)年に起きた四国艦隊下関砲撃事件の後、長州藩は戦後処理についてイギリスと交渉の場を持ちましたが、その時に交渉を任されたのが高杉でした。当時高杉は脱藩の罪で謹慎中でしたが、かつて清国の上海(シャンハイ)への留学経験がある高杉の実績を期待しての抜擢(ばってき)でした。藩の家老と偽(いつわ)って交渉に臨んだ高杉に対し、イギリスは関門海峡の入り口にあって、軍事的にも重要な彦島(ひこしま)の租借...

  • 討幕運動の展開と幕末の社会状況 その1

    さて、第一次長州征討や四国艦隊下関砲撃事件の影響で保守派の勢力が強くなった長州藩でしたが、尊攘派から開明政策へと転じた高杉晋作(たかすぎしんさく)や桂小五郎らにとって、幕府に恭順する保守派の姿勢は許しがたいものがありました。そんな中、高杉は元治元年旧暦12月(1865年1月)に奇兵隊(きへいたい)を率いて下関で挙兵しました。これを「功山寺(こうざんじ)挙兵」といいます。兵を挙げた当時、高杉の兵力は伊藤俊...

  • 尊王攘夷運動の激化 その9

    この当時、我が国と積極的に干渉してくる国が二つありました。それはイギリスとフランスです。前者は薩摩藩や長州藩に、後者は幕府にそれぞれ接近して軍事的・財政的な支援を続けました。イギリスの駐日公使のパークスは次第に幕府政治に不信感を持つようになり、攘夷から開明政策へと転じるようになった薩摩藩や長州藩が、幕府を倒して天皇中心の雄藩連合政権を実現することに期待を寄せていました。一方、フランスの駐日公使であ...

  • 尊王攘夷運動の激化 その8

    さて、長州藩や薩摩藩が外国の武威に負けて攘夷をあきらめたということは、裏を返せば当時の欧米列強の軍事力が我が国にとって深刻な脅威(きょうい)であったことを意味していました。そして列強は、強力な武威を背景に我が国との貿易を優位に進めようとしました。慶応(けいおう)元(1865)年旧暦9月、列強は兵庫沖に軍艦を進め、未だに達成していなかった兵庫の開港と安政の五か国条約の勅許を強く要求しました。これを「兵庫...

  • 尊王攘夷運動の激化 その7

    国内外から同時に攻め込まれ、まさにボロボロの状態になった長州藩では保守派の勢力が強くなり、藩内の尊攘派を弾圧して幕府に対し恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の意を示しました。このため、幕府の征討軍は戦わずして長州から引き揚げています。攘夷に対する欧米列強の報復を受けた形になった長州藩でしたが、実は薩摩藩も同じような報復を1年前に受けていました。文久2(1862)年に起きた生麦事件の...

  • 尊王攘夷運動の激化 その6

    多数の尊攘派の志士が池田屋事件で殺傷されたことで追いつめられた長州藩は、勢力の回復を目指して挙兵し、元治元(1864)年旧暦7月に京都で会津藩・薩摩藩・桑名藩などの藩兵と衝突しました。両者による激しい戦いは会津藩や薩摩藩らの勝利に終わり、長州藩は敗北して久坂玄瑞(くさかげんずい)らが戦死しました。ところで、この事件は「禁門(きんもん)の変」と呼ばれていますが、そもそも天皇がおわします御所は「みだりにそ...

  • 尊王攘夷運動の激化 その5

    新選組の同士たちに裏手を固めさせた後、近藤は沖田総司(おきたそうじ)らとともに少人数で池田屋の表口から堂々と進入しました。「御用改めである!」近藤らは正面から斬り込み、尊攘派の志士らとの間で大乱闘が繰(く)り広げられました。途中で沖田が病(やまい)を発して戦線を離脱するなど近藤らは苦戦しましたが、別働隊の土方らが到着すると形勢は一気に逆転しました。最後には会津藩や桑名藩の部隊が到着して志士らは壊滅...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年5月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 尊王攘夷運動の激化 その4

    密かに京都へ戻った長州藩士を中心とする尊王攘夷派の志士たちは、風の強い日に御所に火を放ち、その混乱に乗じて佐幕派(さばくは、幕府を支持する勢力の総称)の公家の幽閉(ゆうへい、ある場所に閉じこめて外に出さないこと)や大名の暗殺、さらには孝明天皇を長州まで連れ去るという過激なクーデターを計画していました。しかし、彼らの動きは京都守護職である松平容保が預かる新選組の知るところとなりました。新選組は武器の...

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