明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
さて、当時の朝廷では長州藩によって尊王攘夷派が優位に立っていましたが、そのあまりに急進的な攘夷論は、公武合体を目指す幕府や薩摩藩にとって目障(めざわ)りな存在と化していました。文久3(1863)年旧暦8月18日、薩摩藩と藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職を務めていた会津藩の両藩は、同じく公武合体派の公家らとともに朝廷における実権を奪い、三条実美らの公家や長州藩の急進的尊攘派を京都から追放しました。これ...
攘夷を実行して意気が大いに上がった長州藩でしたが、実は公武合体派の薩摩藩も1年前に同じように外国人を攻撃していました。文久2(1862)年旧暦8月21日、幕府に文久の改革を実行させた島津久光は江戸を出て京都へ向かっていましたが、武蔵国橘樹郡生麦村(むさしのくにたちばなぐんなまむぎむら、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、馬に乗ったイギリス人の一行が久光の行列の前に立ちはだかりました。大名行列(久...
文久の改革を幕府に実行させた薩摩藩の島津久光が江戸から鹿児島へと戻った頃、京都では尊王攘夷論を展開する長州藩の動きが盛んになっていました。長州藩は三条実美(さんじょうさねとみ)らの急進派の公家と結んで朝廷に働きかけ、将軍の上洛(じょうらく、京都に入ること)と攘夷の決行とを幕府に対して強く迫りました。進退窮(きわ)まった幕府は、やむを得ず文久3年旧暦5月10日(1863年6月25日)を期して攘夷を実行する旨を...
文久の改革で幕府が京都守護職を置いた理由は「平和ボケ」が主な原因でした。長年の平和が続いたことで京都所司代などの従来の役職が官僚化してしまい、武力の組織としては全く役に立たなくなってしまっていたのです。だからこそ新たに京都守護職が必要となり、また京都守護職の保護を受けた、本来ならば下級武士や浪人などの集団に過ぎない新選組(しんせんぐみ)が京都において活躍する原因にもなったのです。幕府による平和ボケ...
幕府の実力者が二度も江戸城下で襲われるという異常な事態のなかで、独自の公武合体の立場から幕府と朝廷の両方につながりを持つ人物が、幕府政治への強い発言力を持つようになりました。薩摩藩主の島津忠義(しまづただよし)の父であり、藩の政治の実権を握っていた島津久光(しまづひさみつ)のことです。文久2(1862)年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました...
井伊直弼の死後に幕府政治の中心となったのは老中の安藤信正(あんどうのぶまさ)でした。安藤は幕府の安泰のためには朝廷(=公)と幕府(=武)とが一つとなり、それによって人心の融和を目指すべきであるという「公武合体」の政策を進めました。公武合体の象徴として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹君の和宮(かずのみや)を迎えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえっ...
安政の大獄による処罰者は、徳川斉昭や松平慶永といった有力大名から公家や幕臣の一部、果ては越前藩の橋本左内(はしもとさない)や長州(ちょうしゅう)藩の吉田松陰(よしだしょういん)といった志士に至るまで広範囲に及びました。特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、直弼による問答無用ともいうべき強権的な処置は結果として多くの人間の恨...
井伊直弼による違勅調印(いちょくちょういん、無勅許による条約締結のこと)は孝明天皇のお怒りを招くとともに、条約に反対する公家(くげ)や大名、あるいは攘夷派の志士たちの激しい反発を受けました。特に前水戸藩主の徳川斉昭や当時の水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)、尾張(おわり)藩主の徳川慶勝(とくがわよしかつ)、越前藩主の松平慶永らは、江戸城への登城日でもなかったのに「押しかけ登城」を行い、直弼を激...
さて、ハリスから日米修好通商条約の締結を迫られていた頃、幕府は別の大きな問題を抱えていました。13代将軍の徳川家定(とくがわいえさだ)には子がおらず、体調も悪化していたために、次の将軍に誰を選ぶか議論が続いていたのです。これを「将軍継嗣(けいし)問題」といいます。薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永らの有力な大名は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきで...
さらに安政5(1858)年にアメリカ軍艦のミシシッピ号が長崎に入港した際に、同船していた乗組員からコレラが広まりました。被害は日本中に拡大して、江戸だけで約10万人、全国で約20万人以上の犠牲者を出してしまいました。なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。こうした流れを受けて、庶民の怒りは外国に対す...
大量の金貨の海外流出に慌(あわ)てた幕府は、小判の大きさや重さをそれまでの約3分の1にして、海外の金銀相場と合わせた「万延小判」を発行することで被害の拡大を防ごうとしました。いわゆる「万延貨幣改鋳(かいちゅう)」ですが、これは同時に「貨幣の価値自体も3分の1に低下する」ことを意味していました。貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量(がんゆうりょう)...
幕末当時の金銀の比価は、外国では1:15だったのに対して、日本では1:5でした。当時外国で使用されていたメキシコドル1枚(1ドル)の価値が、日本で使っていた一分銀(いちぶぎん)3枚と同じだったのです。しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解...
我が国と他国との本格的な貿易は、安政6(1859)年より横浜・長崎・箱館(現在の函館)の3港で始まりました。我が国からの主な輸出品は生糸・茶・蚕卵紙(さんらんし、カイコの卵が産み付けられた紙のこと)や海産物などで、海外からは毛織物・綿織物などの繊維(せんい)製品や、鉄砲・艦船(かんせん)などの軍需品(ぐんじゅひん)を輸入しました。貿易の主な相手国はイギリスでした。我が国を開国させたアメリカは、南北戦争な...
アメリカと通商条約を結んだ後に、幕府はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同じように条約を結びましたが(これを「安政の五か国条約」といいます)、その内容はアメリカと同様に我が国にとって不平等なものでした。ここで注目すべきことは、我が国が長年貿易を行ってきたオランダとも不平等条約を結ばされたという現実でした。オランダの立場からすれば「他国が不平等な条約を結んでいるのに、自分の国だけが平等というわ...
関税とは輸入や輸出の際にかかる税金のことですが、外国からの輸入品に税金をかけることは、自国の産業の保護につながるのみならず、税の収入によって国家の財政を助けることにもなります。このことから「自国の関税率を自主的に定めることができる権利」である関税自主権は非常に重要なものでした。例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円での販...
まず5.の領事裁判権は、別名を「治外(ちがい)法権」ともいいますが、これは、外国人が在留する現地の国民に危害を加えた場合に、その外国の領事が自国の法によって裁判をする権利のことです。例えば、アメリカと日本のうち、アメリカのみが領事裁判権を認められた場合、アメリカの国民が日本で罪を犯しても、アメリカの領事が自国の法によって裁判を行いました。しかしその一方で、日本の国民がアメリカで罪を犯せば、アメリカの...
安政5(1858)年旧暦6月に我が国とアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」の主な内容は以下のとおりです。1.神奈川・長崎・新潟・兵庫を新たに開港し、江戸や大坂で市場を開くこと(※実際には神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港しました。なお、横浜の開港後に下田が閉鎖されています)2.通商は自由貿易とすること3.外交官の江戸駐在や日本国内の旅行を認めること4.開港場に居留地を設けるが、一般外国人の...
1840年に始まったアヘン戦争によって清国を強引に開国させたイギリスは、さらなる貿易の拡大を目指して、1856年に起きたアロー号事件をきっかけにフランスと共同で再び清国と戦争しました。これをアロー戦争(=第二次アヘン戦争)といいます。アロー戦争で清国はまたしても敗北し、1858年にさらに不平等となる天津(てんしん)条約を結ばされましたが、ハリスはこの条約を口実として、以下のように幕府に対して通商条約を強く要求...
日米和親条約によって日本を開国させることに成功したアメリカが次に求めたのは、我が国と通商条約を結ぶことでした。安政3(1856)年に来日したアメリカ総領事のハリスが伊豆(いず)の下田に駐在して通商を強く要求すると、幕府はその対応に追われることになりました。当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)はアメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき...
ところで、幕府とアメリカとが日米和親条約を結んだ際にロシアとも同様の条約を結んだことは先述したとおりですが、その内容は非常に重要ですので詳しく紹介します。幕府とロシアのプチャーチンとの間で「日露(にちろ)和親条約」が結ばれたのは安政元年旧暦12月21日(1855年2月7日)ですが、他国の同様の条約との大きな違いは「日露両国の国境の画定」でした。すなわち、両国周辺の島について、樺太(からふと)は国境を定めず両...
かくして、いきなり開国することを余儀(よぎ)なくされた幕府でしたが、対外的危機を回避するために様々な動きを見せました。幕府は前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)、薩摩(さつま)藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)、宇和島(うわじま)藩主の伊達宗城(だてむねなり)、あるいは幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)らの人材を積極的に登用しました。この他、幕府は江川...
翌嘉永7(1854)年旧暦1月にペリーは約束どおり黒船7隻を率いて再び浦賀に来航し、我が国に対して強硬に開国を要求しました。黒船による砲撃で我が国に危害が及ぶことを恐れた幕府は、結局ペリーの武威(ぶい)に屈して同年旧暦3月に「日米和親条約」を結びました。条約の主な内容としては、1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること2.難破船を救助し、漂流民を保護すること3.下田(しもだ)・箱館(はこだて、現在...
ペリーの退去後、幕府の重臣によって今後の対策が練られましたが、長年の平和が続いたこともあって、幕府単独で外国との交渉をまとめる能力がすでに残っていませんでした。このため、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は朝廷を始め諸藩に対して広く意見を求めましたが、これは絶対にやってはいけないことでした。なぜなら、朝廷や諸藩の意見に耳を傾けるという行為が、幕府の政策に対して口出しすることを認めてしまったからです。事...
幕府による度重なる通商拒絶によって面目を潰(つぶ)されたアメリカは激怒し、日本を開国させるためには強硬手段を行うしかないと考えるようになりました。つまり、日本を開国させるためにはビッドルのように下手(したて)に出るのではなく、強気の姿勢で対応したほうが良いと判断したのです。こうしたアメリカの思惑によって、嘉永(かえい)6(1853)年旧暦6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが4隻(せき)の黒船を...
当時の西洋諸国は我が国が開国することを期待していましたが、特に強く希望していたのがアメリカでした。1776年に建国されたばかりのアメリカは、我が国への侵略の意図よりも、北太平洋を航海する捕鯨船の寄港地や、チャイナの清国(しんこく)との貿易の中継地とするために、我が国と友好的な関係を持ちたいと考えていました。そんな思惑もあって、アメリカは我が国に対して当初は紳士的な対応を行いましたが、前回(第82回)のと...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄(おおすぎさかえ)らの無政府主義者を抑えて影響力を著しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、ま...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年4月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
東京帝国大学の吉野作造(よしのさくぞう)教授は、大正5(1916)年に中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする「民本(みんぽん)主義」を提唱しました。民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる大正デモクラシーの先駆(さきが)けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識...
第一次世界大戦の前後から我が国でも民主主義を求める動きが活発化したほか、ロシア革命などをきっかけとして共産主義(あるいは社会主義)の風潮が急速に高まるとともに、様々な社会運動が見られるようになりました。大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。こうした流れを受けて、大...
第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして大正9(1920)年には、株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌(きょうこう)」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製...
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明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
東京帝国大学の吉野作造(よしのさくぞう)教授は、大正5(1916)年に中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする「民本(みんぽん)主義」を提唱しました。民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる「大正デモクラシー」の先駆けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識人層を...
第一次世界大戦の前後から、我が国でも民主主義を求める動きが活発化したほか、ロシア革命などをきっかけとして共産主義(あるいは社会主義)の風潮が急速に高まるとともに、様々な社会運動が見られるようになりました。大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。こうした流れを受けて、...
第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...
さて、自由民権運動が広がりを見せるなか、西南戦争の最中の明治10(1877)年に立志社の片岡健吉らが政府の太政大臣である三条実美(さんじょうさねとみ)に対して「立志社建白」を提出しましたが却下されました。翌明治11(1878)年には各地の民権派が大阪に集まり、活動を休止していた愛国社を再興すると、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としまし...
ところで、漸次立憲政体樹立の詔の発布が議会政治の実現を目標とする民権派の期待を高めた一方で、漸進的(ぜんしんてき、「漸進」とはじっくり時間をかけること)な動きしか見せない政府に対する批判が激しくなりました。新聞や雑誌において政府への活発な攻撃が見られたことに対して、政府は過激な政治的言論を取りしまるため、明治8(1875)年に「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」などを公布しました。また、西南戦争...
漸次立憲政体樹立の詔の発布と同時に、政府はそれまでの左院・右院(ういん)を廃して、新たに立法の諮問(しもん、有識者などの一定機関に意見を求めること)機関である「元老院(げんろういん)」や、現在の最高裁判所にあたる「大審院(だいしんいん)」、そして府知事や県令で行われる「地方官会議」を設置しました。これらのうち、元老院や地方官会議には立法府の、大審院には司法府の性格を持たせており、これらは政体書(せ...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...