尊王攘夷運動の激化 その3
さて、当時の朝廷では長州藩によって尊王攘夷派が優位に立っていましたが、そのあまりに急進的な攘夷論は、公武合体を目指す幕府や薩摩藩にとって目障(めざわ)りな存在と化していました。文久3(1863)年旧暦8月18日、薩摩藩と藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職を務めていた会津藩の両藩は、同じく公武合体派の公家らとともに朝廷における実権を奪い、三条実美らの公家や長州藩の急進的尊攘派を京都から追放しました。これ...
2021/04/30 12:00
2021年4月 (1件〜100件)
「ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?