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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 尊王攘夷運動の激化 その3

    さて、当時の朝廷では長州藩によって尊王攘夷派が優位に立っていましたが、そのあまりに急進的な攘夷論は、公武合体を目指す幕府や薩摩藩にとって目障(めざわ)りな存在と化していました。文久3(1863)年旧暦8月18日、薩摩藩と藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職を務めていた会津藩の両藩は、同じく公武合体派の公家らとともに朝廷における実権を奪い、三条実美らの公家や長州藩の急進的尊攘派を京都から追放しました。これ...

  • 尊王攘夷運動の激化 その2

    攘夷を実行して意気が大いに上がった長州藩でしたが、実は公武合体派の薩摩藩も1年前に同じように外国人を攻撃していました。文久2(1862)年旧暦8月21日、幕府に文久の改革を実行させた島津久光は江戸を出て京都へ向かっていましたが、武蔵国橘樹郡生麦村(むさしのくにたちばなぐんなまむぎむら、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、馬に乗ったイギリス人の一行が久光の行列の前に立ちはだかりました。大名行列(久...

  • 尊王攘夷運動の激化 その1

    文久の改革を幕府に実行させた薩摩藩の島津久光が江戸から鹿児島へと戻った頃、京都では尊王攘夷論を展開する長州藩の動きが盛んになっていました。長州藩は三条実美(さんじょうさねとみ)らの急進派の公家と結んで朝廷に働きかけ、将軍の上洛(じょうらく、京都に入ること)と攘夷の決行とを幕府に対して強く迫りました。進退窮(きわ)まった幕府は、やむを得ず文久3年旧暦5月10日(1863年6月25日)を期して攘夷を実行する旨を...

  • 公武合体と文久の改革 その3

    文久の改革で幕府が京都守護職を置いた理由は「平和ボケ」が主な原因でした。長年の平和が続いたことで京都所司代などの従来の役職が官僚化してしまい、武力の組織としては全く役に立たなくなってしまっていたのです。だからこそ新たに京都守護職が必要となり、また京都守護職の保護を受けた、本来ならば下級武士や浪人などの集団に過ぎない新選組(しんせんぐみ)が京都において活躍する原因にもなったのです。幕府による平和ボケ...

  • 公武合体と文久の改革 その2

    幕府の実力者が二度も江戸城下で襲われるという異常な事態のなかで、独自の公武合体の立場から幕府と朝廷の両方につながりを持つ人物が、幕府政治への強い発言力を持つようになりました。薩摩藩主の島津忠義(しまづただよし)の父であり、藩の政治の実権を握っていた島津久光(しまづひさみつ)のことです。文久2(1862)年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました...

  • 公武合体と文久の改革 その1

    井伊直弼の死後に幕府政治の中心となったのは老中の安藤信正(あんどうのぶまさ)でした。安藤は幕府の安泰のためには朝廷(=公)と幕府(=武)とが一つとなり、それによって人心の融和を目指すべきであるという「公武合体」の政策を進めました。公武合体の象徴として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹君の和宮(かずのみや)を迎えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえっ...

  • 安政の大獄 その3

    安政の大獄による処罰者は、徳川斉昭や松平慶永といった有力大名から公家や幕臣の一部、果ては越前藩の橋本左内(はしもとさない)や長州(ちょうしゅう)藩の吉田松陰(よしだしょういん)といった志士に至るまで広範囲に及びました。特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、直弼による問答無用ともいうべき強権的な処置は結果として多くの人間の恨...

  • 安政の大獄 その2

    井伊直弼による違勅調印(いちょくちょういん、無勅許による条約締結のこと)は孝明天皇のお怒りを招くとともに、条約に反対する公家(くげ)や大名、あるいは攘夷派の志士たちの激しい反発を受けました。特に前水戸藩主の徳川斉昭や当時の水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)、尾張(おわり)藩主の徳川慶勝(とくがわよしかつ)、越前藩主の松平慶永らは、江戸城への登城日でもなかったのに「押しかけ登城」を行い、直弼を激...

  • 安政の大獄 その1

    さて、ハリスから日米修好通商条約の締結を迫られていた頃、幕府は別の大きな問題を抱えていました。13代将軍の徳川家定(とくがわいえさだ)には子がおらず、体調も悪化していたために、次の将軍に誰を選ぶか議論が続いていたのです。これを「将軍継嗣(けいし)問題」といいます。薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永らの有力な大名は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきで...

  • 貿易の開始とその影響 その4

    さらに安政5(1858)年にアメリカ軍艦のミシシッピ号が長崎に入港した際に、同船していた乗組員からコレラが広まりました。被害は日本中に拡大して、江戸だけで約10万人、全国で約20万人以上の犠牲者を出してしまいました。なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。こうした流れを受けて、庶民の怒りは外国に対す...

  • 貿易の開始とその影響 その3

    大量の金貨の海外流出に慌(あわ)てた幕府は、小判の大きさや重さをそれまでの約3分の1にして、海外の金銀相場と合わせた「万延小判」を発行することで被害の拡大を防ごうとしました。いわゆる「万延貨幣改鋳(かいちゅう)」ですが、これは同時に「貨幣の価値自体も3分の1に低下する」ことを意味していました。貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量(がんゆうりょう)...

  • 貿易の開始とその影響 その2

    幕末当時の金銀の比価は、外国では1:15だったのに対して、日本では1:5でした。当時外国で使用されていたメキシコドル1枚(1ドル)の価値が、日本で使っていた一分銀(いちぶぎん)3枚と同じだったのです。しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解...

  • 貿易の開始とその影響 その1

    我が国と他国との本格的な貿易は、安政6(1859)年より横浜・長崎・箱館(現在の函館)の3港で始まりました。我が国からの主な輸出品は生糸・茶・蚕卵紙(さんらんし、カイコの卵が産み付けられた紙のこと)や海産物などで、海外からは毛織物・綿織物などの繊維(せんい)製品や、鉄砲・艦船(かんせん)などの軍需品(ぐんじゅひん)を輸入しました。貿易の主な相手国はイギリスでした。我が国を開国させたアメリカは、南北戦争な...

  • 通商条約の締結 その6

    アメリカと通商条約を結んだ後に、幕府はイギリス・フランス・ロシア・オランダとも同じように条約を結びましたが(これを「安政の五か国条約」といいます)、その内容はアメリカと同様に我が国にとって不平等なものでした。ここで注目すべきことは、我が国が長年貿易を行ってきたオランダとも不平等条約を結ばされたという現実でした。オランダの立場からすれば「他国が不平等な条約を結んでいるのに、自分の国だけが平等というわ...

  • 通商条約の締結 その5

    関税とは輸入や輸出の際にかかる税金のことですが、外国からの輸入品に税金をかけることは、自国の産業の保護につながるのみならず、税の収入によって国家の財政を助けることにもなります。このことから「自国の関税率を自主的に定めることができる権利」である関税自主権は非常に重要なものでした。例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円での販...

  • 通商条約の締結 その4

    まず5.の領事裁判権は、別名を「治外(ちがい)法権」ともいいますが、これは、外国人が在留する現地の国民に危害を加えた場合に、その外国の領事が自国の法によって裁判をする権利のことです。例えば、アメリカと日本のうち、アメリカのみが領事裁判権を認められた場合、アメリカの国民が日本で罪を犯しても、アメリカの領事が自国の法によって裁判を行いました。しかしその一方で、日本の国民がアメリカで罪を犯せば、アメリカの...

  • 通商条約の締結 その3

    安政5(1858)年旧暦6月に我が国とアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」の主な内容は以下のとおりです。1.神奈川・長崎・新潟・兵庫を新たに開港し、江戸や大坂で市場を開くこと(※実際には神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港しました。なお、横浜の開港後に下田が閉鎖されています)2.通商は自由貿易とすること3.外交官の江戸駐在や日本国内の旅行を認めること4.開港場に居留地を設けるが、一般外国人の...

  • 通商条約の締結 その2

    1840年に始まったアヘン戦争によって清国を強引に開国させたイギリスは、さらなる貿易の拡大を目指して、1856年に起きたアロー号事件をきっかけにフランスと共同で再び清国と戦争しました。これをアロー戦争(=第二次アヘン戦争)といいます。アロー戦争で清国はまたしても敗北し、1858年にさらに不平等となる天津(てんしん)条約を結ばされましたが、ハリスはこの条約を口実として、以下のように幕府に対して通商条約を強く要求...

  • 通商条約の締結 その1

    日米和親条約によって日本を開国させることに成功したアメリカが次に求めたのは、我が国と通商条約を結ぶことでした。安政3(1856)年に来日したアメリカ総領事のハリスが伊豆(いず)の下田に駐在して通商を強く要求すると、幕府はその対応に追われることになりました。当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)はアメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき...

  • 黒船来航 その6

    ところで、幕府とアメリカとが日米和親条約を結んだ際にロシアとも同様の条約を結んだことは先述したとおりですが、その内容は非常に重要ですので詳しく紹介します。幕府とロシアのプチャーチンとの間で「日露(にちろ)和親条約」が結ばれたのは安政元年旧暦12月21日(1855年2月7日)ですが、他国の同様の条約との大きな違いは「日露両国の国境の画定」でした。すなわち、両国周辺の島について、樺太(からふと)は国境を定めず両...

  • 黒船来航 その5

    かくして、いきなり開国することを余儀(よぎ)なくされた幕府でしたが、対外的危機を回避するために様々な動きを見せました。幕府は前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)、薩摩(さつま)藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)、宇和島(うわじま)藩主の伊達宗城(だてむねなり)、あるいは幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)らの人材を積極的に登用しました。この他、幕府は江川...

  • 黒船来航 その4

    翌嘉永7(1854)年旧暦1月にペリーは約束どおり黒船7隻を率いて再び浦賀に来航し、我が国に対して強硬に開国を要求しました。黒船による砲撃で我が国に危害が及ぶことを恐れた幕府は、結局ペリーの武威(ぶい)に屈して同年旧暦3月に「日米和親条約」を結びました。条約の主な内容としては、1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること2.難破船を救助し、漂流民を保護すること3.下田(しもだ)・箱館(はこだて、現在...

  • 黒船来航 その3

    ペリーの退去後、幕府の重臣によって今後の対策が練られましたが、長年の平和が続いたこともあって、幕府単独で外国との交渉をまとめる能力がすでに残っていませんでした。このため、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は朝廷を始め諸藩に対して広く意見を求めましたが、これは絶対にやってはいけないことでした。なぜなら、朝廷や諸藩の意見に耳を傾けるという行為が、幕府の政策に対して口出しすることを認めてしまったからです。事...

  • 黒船来航 その2

    幕府による度重なる通商拒絶によって面目を潰(つぶ)されたアメリカは激怒し、日本を開国させるためには強硬手段を行うしかないと考えるようになりました。つまり、日本を開国させるためにはビッドルのように下手(したて)に出るのではなく、強気の姿勢で対応したほうが良いと判断したのです。こうしたアメリカの思惑によって、嘉永(かえい)6(1853)年旧暦6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが4隻(せき)の黒船を...

  • 黒船来航 その1

    当時の西洋諸国は我が国が開国することを期待していましたが、特に強く希望していたのがアメリカでした。1776年に建国されたばかりのアメリカは、我が国への侵略の意図よりも、北太平洋を航海する捕鯨船の寄港地や、チャイナの清国(しんこく)との貿易の中継地とするために、我が国と友好的な関係を持ちたいと考えていました。そんな思惑もあって、アメリカは我が国に対して当初は紳士的な対応を行いましたが、前回(第82回)のと...

  • 社会運動の展開 その4

    大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...

  • 社会運動の展開 その3

    「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄(おおすぎさかえ)らの無政府主義者を抑えて影響力を著しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、ま...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年4月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 社会運動の展開 その2

    東京帝国大学の吉野作造(よしのさくぞう)教授は、大正5(1916)年に中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする「民本(みんぽん)主義」を提唱しました。民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる大正デモクラシーの先駆(さきが)けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識...

  • 社会運動の展開 その1

    第一次世界大戦の前後から我が国でも民主主義を求める動きが活発化したほか、ロシア革命などをきっかけとして共産主義(あるいは社会主義)の風潮が急速に高まるとともに、様々な社会運動が見られるようになりました。大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。こうした流れを受けて、大...

  • 大戦景気と戦後恐慌・関東大震災 その3

    第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして大正9(1920)年には、株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌(きょうこう)」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製...

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