24時間に動いている空調システムのおかげか、3日間留守にした部屋の中にも常に新鮮な空気が送り込まれていたようで。特に換気の必要はなく、これが普通のマンションならそういうわけにはいかなかっただろうな、とアルフレードは感心しながら冷蔵庫を開けた。ハインリヒの実家で休暇を過ごすことが決まったあの日、生ものや日持ちのしない食材を無駄にしてはいけないと保冷バックに詰め込んで持って行った。冷蔵庫には瓶詰のピクル...
糖度高めなオリジナルBL小説(短篇~長篇)を扱っています。 ドイツ人広告代理店社長×イタリア人家具デザイナーが美味しいもの食べたり困難を乗り越えたりいちゃついたりする日々の物語。 #溺愛攻め #トラウマ持ち受け
受け溺愛主義かつ強火担の攻めが何が何でもハピエンにします。
そより、と頬を撫でたのは夏の匂い。微かに潮の香りが混じるそれは、幼い頃を過ごしたイタリアの港町ラヴェンナを思い起こさせる。そこは、哀しみと寂しさを置き去りにした町。喪ってしまった日常や奪われたいくつかの未来を直視することができず、遺されたアルバムを開くこともできなかった。だが、今は違う。彼らと共に過ごせた時間は決して多くはなかったけれど。惜しみない愛情を与えられ、無条件の優しさに包まれ、幸せだった...
ベッドヘッドに積まれたクッションに顔を埋めるように倒れ込んだアルフレードの髪を梳き、ハインリヒは深く息を吐き出した。それに気付いたアルフレードが埋めていた顔を上げて、微苦笑する。「ふふ、お腹いっぱい。食べ過ぎちゃったね」「あぁ。さすがは卿の行きつけの店だったな」マルタ島の伝統的な料理を出すレストランは個人が経営する小さなものだったが、地元の人々が集うその空間には柔らかな時間が流れていた。財界人や著...
断片が、繋がる。「おしまい」と結ばれたはずのいくつかの物語が。舞台を変え、主人公を代え、全く違う景色を描きながら。延長線上に、新しい物語を紡ぎ出す。誰かの祈りが、誰かの願いが、織り込まれていく。昨日が、明日へと。たとえ途切れてしまったとしても、そこで終わりではないのだ。そこからまた、こうして始まる。始められる、とハインリヒは己自身とロザリオを重ねた。このロザリオが見届けてきた時間はそれこそ人間には...
「みっともないところを見せたね」そう言って微苦笑するパスクァーレに促され、ハインリヒは絨毯についていた片膝を上げた。そして、場所を変えてもいいだろうかと問う彼にアルフレードと共に頷き、杖を手にソファから腰を上げた彼に続く。部屋から出ると席を外していた執事のエリゼオがこちらに戻ってくるところで、主であるパスクァーレに慌てて駆け寄って来た。それもそうだろう。長く仕えている主の瞳に涙の跡があれば誰だって...
「ブログリーダー」を活用して、あざささんをフォローしませんか?
24時間に動いている空調システムのおかげか、3日間留守にした部屋の中にも常に新鮮な空気が送り込まれていたようで。特に換気の必要はなく、これが普通のマンションならそういうわけにはいかなかっただろうな、とアルフレードは感心しながら冷蔵庫を開けた。ハインリヒの実家で休暇を過ごすことが決まったあの日、生ものや日持ちのしない食材を無駄にしてはいけないと保冷バックに詰め込んで持って行った。冷蔵庫には瓶詰のピクル...
オーバーシュライスハイムからミュンヘンまでは車でおよそ40分。3日間の休暇の余韻に浸りながら残りの時間を惜しむようにゆっくりとティータイムを楽しんだ後、ハインリヒとアルフレードはグラースの運転で陽が暮れる前にはマンションに帰り着いた。顔馴染みのコンシェルジュがわざわざカウンターから出て迎えてくれたのを嬉しく思いながら、留守を預かってくれた彼に礼と帰宅の挨拶を交わす。事故のニュースを知った彼は、あの日...
目の前に並ぶ皿の量に、アルフレードは丸い瞳を更に丸くして。次いで困ったように眉を下げ、ハインリヒを見上げた。縋るような、助けを求めるその眼差しに苦笑し、ハインリヒも次から次へと出てくる料理に肩を竦める。「これはさすがに食い切れないだろ」「アルちゃんがお泊りしていってくれるのが久しぶりで嬉しくなっちゃったのよ」「まだ時間も早いからな、ゆっくり食べればいい」父のフリッツに促され、並んで椅子に腰を下ろす...
身じろぎひとつしないで眠り続けているハインリヒの髪を梳き、アルフレードはその手で前髪を払って彼の額に触れた。まだ目の下に隈はあるが、熱はないな、とほっと安堵の息を吐いてから少し伸びてきた襟足を指に絡める。その拍子に、項にある小さなホクロが見えた。普段は髪に隠され、近付いただけでは見ることができないもので。無防備な彼の姿に独占欲と優越感が充たされていることに気付いてしまい、オレも大概だなと小さく肩を...
ミュンヘン北部に位置する、オーバーシュライスハイム。自然豊かな小さな町で、歴史的な建造物や観光名所も数多い。1912年に設立された国内最古の現存する飛行場は今でも現役で、その敷地内にはドイツ博物館の分館にあたる航空宇宙博物館がある。展示場はコンパクトだが、第二次世界大戦に実際に使用された戦闘機や近代の航空機やロケットが展示されていることで有名だ。この博物館の隣にはバイエルン公ヴィルヘルム5世の隠遁の場...
熱を奪い合うように。一方で与え合うように。そして、共有するように。体温も鼓動もどちらのものか分からなくなるまで重なり、心の充足感がもたらした優しい微睡みに身を委ねて。睡眠時間は到底足りていないが、軽やかな気持ちで目覚めて。そうして、ベッドの上から見送ったハインリヒを玄関で出迎えたアルフレードはその早過ぎる帰宅に目を丸くした。彼を送り出してから、時計の針はまだ2周しかしていないのだ。そして、彼の後ろ...
ワイドキングサイズのベッドに敷かれているシーツの色は、ミッドナイトブルー。白やアイボリーなどの淡く柔らかな色を好んで使うアルフレードが選んだものとしては珍しい。それも無地で、寝室に相応しい落ち着きはあるが、一見すると地味な印象を抱かせる。寝室の四方ある壁のひとつは全面ガラスで、2面は白い壁紙だがベッドの頭側の壁はチョコレート色に塗られている。そのためシーツを暗色にすると寝室全体が遊び心のない空間に...
すごい1日になっちゃったね、と苦笑するアルフレードに淹れたてのミルクティーを差し出しながら、ハインリヒも肩を竦めた。「疲れただろう」「ハインもね、お疲れ様でした。さっきまで電話鳴りっぱなしだったけど、ひとまずは落ち着いたみたいだね」「あぁ、やっとだ。そろそろ叩き壊すところだった」「ホテルから病院に向かう前からすごかったもんね。あれってどこから情報が伝わるの?」事故のニュースの速報は出たかもしれない...
鼓動が煩い。息が切れる。指先は冷え、血の気が引く。擦れ違った看護師が「廊下を走らないでください」と叱責する声を背中に聞きながら、ダイトは処置室と書かれているプレートの中から目的の番号を探す。本来は静かなはずの廊下にも人が溢れ、ざわざわと空気が落ち着きない。だが、それに構う余裕もなく、ダイトは見つけ出した番号の部屋のドアを勢いよく引いた。「無事か!?」ノックもなく突然開いたドアとそこから転がるように...
「今回もカマーバンドじゃなかったかぁ…」ぽつり、と零されたアルフレードの声は周囲の音に搔き消されるほど小さなものだったが、ハインリヒの耳には届けられた。足を止め、どうしたと問う。「え?」「今、カマーバンドがどうのと言っていただろう?」「あ、口に出ていた…?」はっとした顔をして口許を手で隠すアルフレードにハインリヒは口端を緩めた。随分と幼い仕草だが、どうしてこうも艶っぽく見えるのか。その柔らかな金糸の...
ビジネスやネットワーキング、文化的な交流を目的とし、特定の社会的な階層や特権階級のメンバーが集まるイベント。それらを一般的に、社交パーティーと呼ぶ。親しい友人や家族とカジュアルな雰囲気の中で気軽な会話や交流を楽しむこともまたひとつの社交パーティーではあるが、それとは何もかもが違う、とアルフレードは煌びやかな会場を見渡した。所謂、上流階級と呼ばれる人間たちによるそれはまさに“社交”と呼ぶに相応しい。会...
と言うことが今朝あった、と話し終えたハインリヒはグラースから差し出されたコーヒーを受け取り、ゆっくりと口を付けた。かつてはその液体を流し込むばかりで、味わうことはなかった。いや、その行為に意味を感じなかったと言うべきか。吐き出してはいけない言葉を、表に出してはいけない感情を流し込むためだけにそれを利用していたに過ぎない。だが今は、こうして立ち止まり、香りと味を楽しむ余裕ができた。余裕ができた、と気...
手繰り寄せた布をもそもそと身に着け、アルフレードは睡魔の手を振り払うように目を擦った。小さく欠伸を零しながら半身を起こし、広いベッドから何とか抜け出す。ワイドキングサイズのそれには上等なスプリングが使われており、淡いクリーム色のシルクのシーツは肌触りが良い。それに誘われるままうっかり二度寝してしまったことも一度や二度ではなく、後ろ髪を引かれながらもアルフレードはまだ覚醒しきっていない身体をぐっと伸...
悪夢に魘されて飛び起きるのでもなく、浅い眠りのままぼんやりと覚醒するのでもなく。瞼越しに感じる光が徐々に身体を包み、日向の中で、穏やかな気持ちで、目を覚ます。溜め息から始まるのではなく、清々しい気持ちで迎えた朝。しっかりと休息を得た身体は軽く、心も弾む。思考もクリアで、アルフレードは早々にベッドに別れを告げた。ぐーっと両腕を上げて身体を伸ばし、夜着の上に薄手のカーディガンを羽織る。寝室を出る足取り...
国境を越え、いくつかの都市を抜けて。アウトバーンからの景色を楽しみながら、ウィーンからミュンヘンまでのおよそ4時間30分の道程をたっぷりと堪能して。美しいオレンジ色の屋根が建ち並ぶ中に聳え立つ近代的な高層がビルが見えてきた頃には、すっかり陽が暮れていた。ミュンヘンの空が夕日に染まる頃には帰り着いている予定だったが、つい寄り道を繰り返してしまったな、とフルアは口端をそっと緩めた。助手席には、先ほどから...
身体に染み込んだ習慣から呼吸のように自然に後部座席のドアを開ければ、不思議そうな眼差しを向けられる。ドアを開けられることなど初めてではないだろうにどうしたのだろう、とフルアも疑問を滲ませた視線をアルフレードに向けた。「アル君?」「えっと、前じゃダメですか?」「はい?」助手席に、とおずおずと指を差され、そこでようやく合点がいく。彼を乗せるときはプライベートな感情が優先されるとはいえ、上司であるハイン...
ヒュッと、息を飲む引き攣った音は悲鳴に似ていて。ハインリヒは足を止め、その音の先を見た。瞳は見開かれているが、その焦点は虚ろで。頭で考えよりも先にハインリヒは呼吸を忘れて微動だにしないアルフレードの肩を抱き寄せた。搭乗ゲートへ急ぐ者、次の目的地に向かう者、長旅を終えて帰って来た者たちが入り混じる国際空港のコンコースは鉄道の最終便が迫る時刻であっても賑わっている。大きなキャリーを引く者たちが訝しそう...
“魂の殺人”。それは、狂気と悪意によって身体も心も凌辱されることを意味する。一方的な暴力によって人としての尊厳を踏み躙られ、否定され、日常の全てを変えられてしまう。傷の痛みは簡単に消えるものではなく、酷い凍傷のように皮膚の下に残り続ける。想像してみてほしい。「また明日」と笑顔で別れた友と昨日のように笑い合うことができなくなり、昨日まで楽しみだったテレビ番組を見ることもできなくなり、あれほど心待ちにし...
大人が抱えても腕が回りきらないサイズの大きなテディベア。ふわふわと柔らかな毛並みは蜂蜜色、真ん丸の瞳はチョコレート色。あれはいつだったか、お前に似ていると思ったら買っていた、と言ってそれを脇に抱えて帰って来たその人は、今。ぐったりとソファに沈んで大きな溜め息を吐き出している。オートクチュールの上等なスーツが皺になることも構わずに横に脱ぎ捨て、首元でだらしなく緩めたネクタイを乱暴に抜き取って放り投げ...
何故、彼ばかりが。何故、と繰り返し溢れてくる言葉をハインリヒは奥歯で噛み殺した。骨が軋む嫌な音が頭に響いたが、それには構わずにベッドの縁に腰を下ろして拳を握りしめる。いっそ感情のまま喚き散らかし、壁か床に叩きつけてしまおうか、とその拳を振り上げた。歯痒さやもどかしさは焦燥と苛立ちを伴い、すでに冷静ではない。引き結んだ唇を解けば、そこから怒りや憎しみが止め処なく溢れそうになる。水が沸くようにふつふつ...
ギリシア神話の主神にして全知全能の存在であるゼウスは、増え過ぎた人口を調整するために大戦を起こして人類の大半を死に至らしめることにした。それが、ペロポネソス半島の都市ミケーネを中心に栄えたアカイア人による遠征戦争である。ギリシア神話において“トロイア戦争”と記述されたそれには数々の神も関わり、攻め入られた都市イリオスは滅ぼされた。だが、1人の武将が焼け落ちるイリオスから地中海に浮かぶ半島に逃げ延びた...
君の胸に秘めたままにしてほしい、と言ってグラスを空にしたパスクァーレの言葉が重たくないと言えば嘘になる。だが、決して胸に痞えるような重みではない。何故なら、「今はまだ」と小さく付け加えられた一言がひどく穏やかな音をしていたから。(いつか真相を知ったとき、お前はどんな顔をするのだろうな)案内されたゲストルームのベッドにアルフレードをそっと寝かせ、その枕元に腰を下ろして彼の前髪を指先で払う。彼にとって...
あぁ、美しい花を咲かせてくれた。そう感慨に浸りながらパスクァーレは目許の皺を深くした。まだ小さな若葉だったそれは2人の手によって清らかな水を与えられ、光を与えられ、優しさと慈しみによって育まれて。そうして、今。晴々と咲き誇っている“愛”という形の何と眩いことか。ミラノのホテルでハインリヒと初めて会ったあの日。緊張した面持ちで、しかし怯まずに自分を真っ直ぐに見つめて彼は許しを請うた。己にはアルフレード...
イタリア第二の都市と謳われる、ミラノ。かつてこの地はヴィスコンティ家とスフォルツァ家により統治され、“スフォルツェスコ城”は有名な観光スポットであると同時に当時の面影を垣間見ることができる貴重な歴史遺産である。ルネサンス時代にはレオナルド・ダ・ヴィンチが20年以上滞在し、彼が描いた世紀の大傑作“最後の晩餐”は誰もが知る存在だろう。そのレオナルドが当時の実質的な支配者であったミラノ公国ルドヴィーコ・スフォ...
その青年と初めて言葉を交わしたのは、彼がまだ大人の庇護を必要とする少年だった頃。一時は命も危ぶまれた怪我を負い、長い入院生活を余儀なくされていた。「また明日」と別れた友と会うこともできず、当たり前に過ごしていた日常は遠ざかるばかりで。まだ16歳の少年にとって、その現実はあまりにも過酷だっただろう。だが、彼は決して足を止めることはなかった。その歩みは人よりも遅々としたものだったが、それでも1歩を諦める...
「なるほど、それで会いに来てくれたのかい」丁子色の瞳を細めて微笑むパスクァーレに、ハインリヒは首肯で返した。1人掛けのソファにゆったりと腰掛けている彼の姿はリラックスしたもので、しかし、隙のない佇まいに小さく息を飲む。自身の唯一の上司に当たるCEOのケイルと対峙した際にも感じる、絶対的な権力者の威厳。人の頂点に立つ存在としての、圧倒的な存在感。老いてなお、いや、丁寧に時間を重ねてきた者にしか手に入れる...
“永遠の都”、ローマ。イタリア半島の中央部に位置し、国内最大の人口を有する世界都市。およそ2500年の歴史の中で異民族による支配と占領が繰り返され、搾取と凌辱を受けながらもルネサンス時代には文化の中心地として華々しく栄えた。また、稀に見る大帝国を建設し、かつそれを比類ない長い年月の間維持発展させた事実は世界史上において特別な位置付けがなされている。そして、「すべての道はローマに通ず」という諺が象徴してい...
「現在から出発して過去を理解しなければならず、過去の光に照らして現在を理解しなければならない」。歴史家マルク・ブロックは歴史学者としての責任と義務をそう語った。過去の出来事の重層的な積み重ねこそが“今”であり、それが所謂、“歴史”であるとしたとき。それを理解しようとするならば、客観的にそれらの事実を受け入れ、さらに現在の事柄に対して無関心になってはいけない。ひたすら過去の世界に没入し、夢想し続けること...
紙と、インクと、コーヒーの匂い。その部屋に入った途端に鼻腔を擽ったそれは、懐かしさを感じさせるものだった。分厚い本を机の上に置く音、ページを捲る音、万年筆が紙の上を走る軽快な音。そして、まだ字が読めなかった幼い自分にその内容を読み聞かせる優しい声。古い本を日光から守るためにその部屋はいつも薄暗かったが、語られる物語はいつだってキラキラと輝いていた。紀元前の吟遊詩人が残したとされるギリシア神話の英雄...
(旧約聖書におけるイスラエルの失われた12支族:「ガド」の紋章は“天幕(テント)”/2022年9月)マッチでオイルランタンに火を着ける。それは「ハリケーンランタン」とも呼ばれるもので、風や寒さに強く、軍用や船舶用として古くから重宝されてきた道具だ。LEDライトなどの現代的な便利さはなく、光量も決して多いとは言えない。だが、炎の力強くもゆらゆらと揺れる温みのある光は独特で。デザインも豊富なため、コレクションする...
(旧約聖書におけるイスラエルの失われた12支族:「ユダ」の紋章は“獅子”/2022年5月)たとえば、百合は「純潔」を。たとえば、犬は「忠誠」を。特定のモチーフが、社会的あるいは宗教的なメッセージを表すことがある。それらは絵画や彫刻などの美術表現として多く用いられ、その意味や由来について研究する学問を図像学という。この図像学において、獅子は「聖マルコ」を意味する。「これは聖マルコを獅子の姿で描いたことが由来な...
(旧約聖書におけるイスラエルの失われた12支族:「ナフタリ」の紋章は“雌鹿”/2022年1月)ドイツ南西部の高原地帯を縦断するファンタスティック街道。古城の街ハイデルベルクを拠点に、かの宗教会議が行われた歴史ある街コンスタンツまでを繋ぐおよそ400kmに及ぶ街道である。神秘的な森が広がり、古代ローマ帝国より利用されてきた温泉や温暖な気候の湖、郷土料理やワインなどの魅力に溢れ、ヘッセやシラーなど多くの詩人を生み出...
『ヘンゼルとグレーテル』、『赤ずきん』、『ブレーメンの音楽隊』、『白雪姫』、『ラプンツェル』。誰もが一度は耳にしたことのある御伽話はドイツに古くから語り継がれてきた民間伝承である。それを聞き集めてまとめられたのが、ヤーコプとヴィルヘルムという名前の兄弟だった。それは後に『グリム童話集』と呼ばれるようになるもので、1812年に初版が刷られてから今日に至るまで170以上の言語に翻訳されている。これは世界で最...
「カーニバル」。その語源は、ラテン語で“肉を取り除く”を意味する「Carnem levare」。謝肉祭、とも訳されるそれはカトリック文化圏を中心に行われる通俗的な行事である。ブラジルの華やかなサンバカーニバルも中世のドレスや仮面を身に付けた人々がパレードをするベネツィアのカーニバルも、本来は重要な宗教行事。カーニバルはただのイベントではなく、カトリックにおいて四旬節と呼ばれる重要な期間の始まりを告げる“祝祭”なの...
(記念日シリーズ「アルとグラースが出会った日」/2021年9月)それは、直属の上司の代理として赴いていたニューヨークから帰国してすぐのこと。護られる側の立場でありながら、護衛も付けずに平然と外出するその上司には慣れたもので。その日も、当たり前のように1人で地下駐車場に向かった彼を追った。「私用だ」と社用車ではなく個人の車に乗り込もうとする彼から何とか鍵を譲り受け、そうして通い慣れた様子で告げられた目的地...
(記念日シリーズ:「始点」(初めて作品が売れた日)/2021年5月)デザインナイフを使い、丸くなった鉛筆の先を慎重に削っていく。使い込んだそれはあまりにも短くなり、今では鉛筆ホルダーに入れなければ手に握ることもできなくなってしまった。見た目はどこにでも売っている、ごくごく普通の鉛筆。同じものを近所の文具店で見かけたこともある。もう鉛筆としての役割は十分に果たしており、そこまで拘る必要はないだろう、と人は...
(十二直シリーズ:成(なる)/2020年9月)世界中で猛威を振るうウイルスの勢いは衰えることを知らず、不自由な生活に終わりはまだ見えない。焦りや苛立ちに心乱すことに誰もが疲れ、行き場のない怒りや戸惑いが彷徨っている。良心による自粛と法による規制のバランスは危うく、ドイツ国内でも政府の対策に抗議する大規模なデモが起きたばかりだ。確かに、物理的な距離を取る措置は徐々に緩和されてきている。だが、世界的にはまだ...
(記念日シリーズ:「極秘計画」/2021年1月)眼下に広がるのは、朝陽を浴びるミュンヘンの壮麗な街並み。フィックス窓から燦々と差し込む白い光もまた美しく。主の留守を守る静寂に、アルフレードはそっと身を委ねた。執務机の上には、デスクトップのパソコンが2台とノートパソコンが1台。左右の壁には天井まである書架に分厚いファイルや書籍がぎっしりと詰まっている。豪華な調度品や絵画はなく、内装も置いてあるものも限りなく...
(十二直シリーズ:定(さだん)/5月)「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている」。とある小説家の言葉だが、これ以上に的確なものはないと思う。例えば、狂気に立ち向かうとき。例えば、悪意と向き合うとき。それらと対峙するということはつまり、それらに喰われる可能性があるということ。狂気に怯めば、それは容赦なく牙を剥くだろう。悪意に怖じければ、それは躊躇なく刃を突き立ててくるだろう。圧倒的な負の感情...
(十二直シリーズ:建(たつ)/2020年1月)ゲンを担ぐ、という言葉ある。たとえば。大切な試験の日、たまたま左足から靴を履いたら結果が良かったとか。大事な商談がある日、普段は食べない玉子サンドをランチに食べたら大成功したとか。いつもと違う行動や行為をしたときに、良い結果が出たとする。それは、たまたまかもしれない。靴をどちらの足から履こうが、ランチに何を食べようが、結果は変わらなかったかもしれない。良い結...