兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
「言(ことば)は肉体となりて我らの中に宿り給へり」(ヨハネ一の一四)。聖書がどうして神の言であるかを解く為の唯一つの鍵はイエスがどうして神であるかを知るにある。一、神が人間の形を以て現はれ給うたとは実に感謝すべき事である。ナザレのイエスは神であつた。決して半ば人間半ば神ではなかった。婦(をんな)から生れた紛(まがひ)なき人間であると共に又真の神であつた。其やうに聖書は神の言である。決して半ば人の言...
藤井武が訳したアドルフ・サフイルの言葉宗教改革の大なる栄光に拘らず、その聖書の解釈について二つの欠点を見逃すことが出来ない。第一に彼等は時代を区別しなかった。「時を区別せよ、然らば凡ての困難は消滅するであらう」と既にアウガスチンも言うた。もし彼等が教会の時代とメシヤ王国の時代とを区別したならば、彼等は異端の故を以てセルヴエトスの死に処せらるるを承認することは出来なかつたであらう。何となれば教会には...
かの救霊と呼び教化と唱へて、伝道を打算的企業の一種と化せしめるものは誰であるか。すべて結果を苦慮し、すべて数字をあげつらひ、すべて反響を誇るところの伝道は偽の伝道である。人はひとりの霊魂をも救ふこと能はない。アポロ何ものぞ。パウロ何ものぞ。彼らはおのおの主の賜ふところに従うて恩恵を頒ち与へたる役者(えきしや)に過ぎない。パウロは植ゑ、アポロは水灌いだ。併し育てたものは神ではないか。植うる者も水灌ぐ...
斯く信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による。されど我いふ、彼ら聞えざりしか。然らず。「その声は全地にゆきわたり、その言は世界の極(はて)にまで及べり」。(ロマ一○の一七、一八)信仰は聞くにより聞くはキリストの言による。言ひ換へれば信仰は伝道によるのである。併しながら真実の伝道はいかにして行はれるか。パウロはこれを説明するに詩篇の言を以てした。すなはち詩篇の第十九篇中の一節である。これを旧約の言...
若人(わかうど)よ、起ちて野にいでよ。野には今わか葉のかをり満ち漂ふにあらずや。新装成らんとする林の樹々動くことなくして炎のごとくしきりに躍る。小川に蛙むれ、大空に雲雀くるふ。光やはらかに風はかるし。ああこのみどりの野にそむきて、人くさき衢(ちまた)の息(いき)に蒸され、もろもろの騒音に耳をかすなどは、余りにも心なきわざならずや。友よ、地の果よりの歌をなんぢは聴かずや。永遠を、神を、なんぢは思はず...
神に対する我らの信頼は屡々彼によって試みられる。何処まで我らは彼を信頼し、何処から彼を疑ふべき乎。我ら彼を信ずると称しながら、大抵その信頼の極限をもつて居る。或る種の甚だしき問題が起れば遂に神を疑はざるを得なくなるはその証拠である。併しながらほんたうの信頼とはどんなものであらう乎。いはゆる「皮をもて皮に換ふる」までは忍び得るも「骨と肉とを撃たるる」に至ては誼ふのほかなきが如き心が真実の信頼であらう...
秋たけて霊感ますます豊かである。一夜月下に靄ふかき武蔵野を歩んで、感恩のおもひ尽くるところを知らず、衣も装も滴るばかりに冷き夜つゆを浴びて帰つた。私の感謝は主として患難の経験にある。私が若し僅少ながらそれらのものに遇はなかつたならば如何(どう)であらう乎。神は涙の谷に於て最も鮮かに御自身を私に顕はしたまうた。イエスは私を誘うて荒野にみちびき、其処にてみこころの深きところを私に語り給うた。私は患難の...
かくて各々己が家に往けり。されどイエスはオリブの山に往けり。――ヨハネ七の五三、八の一――何人の筆ぞ、無雑作なる一抹のスケッチの中に斯くも大なる真理を現はせるは。宮に於ける一日の活劇は終りて、人みな其帰るべき所に帰り往いた。但し各々は己が家に、イエスは独りオリブの山に。誠に彼には枕する所が無かつたのである。併し乍ら此世の家に代へて、彼には静かなる山があつた。オリブの樹蔭、ヱルサレムの街を眼下に望む所、...
偽善なる教会と其信者とに対して絶えず強烈なる反抗の声を挙げ来りし者は自由思想家であった。而して彼は之等の自由思想家に対して深き同情を有する。彼等の正直と勇気とは彼の如何にしても愛せざるを得ざる所である。若し共に偽善なる正統派信者の前に立つならば、彼と自由思想家との之に対する態度は外的にも内的にも殆ど一致するであらう。併しながら其故を以て彼は自由思想家の友となる事が出来ない。偽善に対する感情を均しく...
斯の如く彼の立場は全然聖書本位である。然らば彼は所謂正統派(orthodoxy)に属するものであらうか。若し此語を本来の意味に解釈するならば、彼は確かにその一人であると信ずる。併し乍ら歴史的の意味に於ては、彼は果して此名称を以て呼ばるべき者であるかどうか甚だ疑はしい。少くとも正統派の教会に重んぜらるる神学者教役者若くは平信徒の言説行動等にして彼の共鳴を促すもの極めて乏しきは如何ともすべからざる事実である。...
而して聖書に対する信頼は勿論その全体に対する信頼である。聖書旧新約六十六巻、前後千五百年に亙り、数十人の記者によりて、各々特殊の場所と境遇とに於て記録せられしもの、然るにその目的その精神その主題に於ては首尾一貫、整然として一大有機的組織を成し、全体を以て間然する所なく永遠の真理を伝ふるは、誠に驚歎すべき偉観である。即ち天地の創造より新天地の出現に至るまで、人の救贖と万物の完成とに関する神の経綸は、...
彼は自己に就て語る事を少しも好まない。出来るならばその見苦しさより免れたく思ふ。併しながら兎に角一個の公人として自己の信仰的立場を一応明かにするの必要だけは彼も之を認めて居る。彼の立場を表はすに最も簡単にして且明白なる語を選ぶならば「聖書本位」といふが其れであらう。旧新約聖書を以て彼は己が立つべき唯一の根拠と為すものである。但し彼は決して聖書の権威を外より吹き込まれて何でも之には従はざるべからずと...
○真理に対する理解と熱情との衰弱は甚だしいかな。今の人は享楽を愛しスポーツを味ひ、経済を解し商売を好む。併し真理の貴ぶべく愛すべきを彼らは知らない。真理といふ声を聞いても、彼らは往年のピラトのやうに、「真理とは何ぞ」と言ひ棄て、ただちに踵をめぐらして去りゆくのである。○ただに世の人々のみではない。基督者とみづから称するものまでがさうである。否、真理に対する彼らの無感覚は却て一層烈しい。彼らに比べては...
親しかりし者の詛ひの中に船出したわが小舟よ、きのふの如く鮮やかなるその日も早や十年の昔とはなつた。わが棹は折れ、わが帆は破れた。わが妻は斃(たふ)れ、わが父は倒れた。私自身もまたいたく傷ついて。然れども十年孤独の航海、何ぞ祝福の豊かなりしや。夜な夜な無窮の大空に真理の星を仰ぎのぞむことの何ぞ楽しかりしや。その時永遠の国の光明は私を撃つた。その時私のさかづきは谷間の泉のやうに溢れた。その時私は舟を忘...
読者諸兄姉の同情ある祈のうちに記憶せられし彼女は遂に召されました。彼女なくして本誌はなかつたのであります。「来るべき者の来らん時まで、又はペンが著者の手より落ちん時まで」、とは創刊当時に於ける私の告白でありましたが、今や来るべき者の来らざるに先だちペンは一度び私の手から落ちました。本誌は茲に一先づその職分を終つたものと思はれます。併しながら私の霊は彼女と共に天に移されながら、私の肉はなほ地上に遺さ...
世には私の文章を何とかいふ人があるとのこと。曾て或る宗教雑誌は私を嘲笑していうた、「藤井さん、徒らに美辞麗句をつらねて人をごまかさうとしても駄目ですよ云々」と。失敬きはまる言分である。併し世間や敵などが何と言はうと、それは先方の勝手である。私は別に問題にはしない。ただ聞き流しにできないのは、友人たちの言である。或る友人は或るとき壇上に私を紹介して言うた、「藤井君の福音は文学的であつて美はしい」と。...
雑誌が何号を重ねたといひ、何年続いたといふことに、私自身は余り興味をもたない。それは一つには自分の心がいつも今日現在の事に集中してゐるからであらう。併しもつと大きな理由は自分の仕事に対する私の気持にある。目下のところ、『旧約と新約』の著述は私の唯一の事業であるが、私は曾て之を自分の仕事と思ったことはない。私は毎月「今度は是を書け」といふ声を聴いて、さうしてそれを聴いたままに伝へてゐるに過ぎない。さ...
私は読者の要求に応ぜんがために書かない。私は読者を慰めんがために書かない。勿論私は読んで貰はんがために書かない。私は書かざるを得ざるが故に書く。書けと神命じたまふが故に書く。真理の故に私は書く。私の書くところは或は読者の心に訴へるであらう、或は全く訴へないであらう。併しそれによって私の書くところは変らないのである。私の言葉は或は人を光明に導くであらう。或は導かないであらう。併しそれによって私の言葉...
私は日本人である、私は近代人である。而して私は肉に於て近代日本人と共通の多くのものを持て居る。併しながら霊に於て理想に於て、私は自分と彼等との間に殆ど交渉を見いだすことが出来ない。彼等の求むるところは私のねがふところと互に反対の方向に走る。彼等の笛は私を踊らせず、私の歎きは彼等を胸うたしめない。然るにも拘らず、日本は私のあこがれである。私の内にあるキリストの霊は日本をおもふ心をして私を食はしめる。...
朝風、膚にひややかに、虫声、野に満ちて雨のふりそそぐがやうである。天の国をおもふ思ひはさらに強い。讃美の心おのづから湧き起る。愛すべきは苦熱の後の新秋である。世の避暑客の知らざる更生的経験である。哲学を好むと称して思索することを知らず、宗教を喜ぶが如くにして信ずることを知らず、金銭を愛し、恋愛を愛し、形式的文化生活を愛し、不義と浅薄とに於ては何れの国民にも譲らざらんとする現代日本国民よ、汝ら人間と...
○我らに人の面を見て歩けと注意してくれる人がある。その親切を私は感謝する。併し如何せん、私のやうな者にとってそれは無理な注文である。私は人に対しては既に死者である。私の目は人には既に閉ぢられてゐる。今更にこれを見ひらいてまた誰の面を見ようや。乞ふ、徒らに死者を悩ますをやめよ。死者をして生者のお相伴(つきあひ)をさせないで下さい。無益です。藤井はもうそんな世界にはゐないのですから。○「我いま人に喜ばれ...
○霊の糧を取らずして肉のパンを食(は)むは空し。○人の顔を見て神のみかほを忘るるは空し。○信ずることなくして口を開くは空し。○環境の整理によって罪を処分せんとするは空し。○朽つべきもののために労するは空し。○表面をつくろふは空し。○新しきを追ふは空し。○愛に報をのぞむは空し。○真理に打算を交ふるは空し。○伝道に数をかぞふるは空し。○映画とラヂオと婦人雑誌と教会とに空しからざる何程のものありや。○コーヘレスいは...
イエスは十字架上の苦難を味ひ尽したのち、大声にて「事畢(をは)りぬ」と呼ばはつた。それは偉大なる宣言であつた。人類の救贖、宇宙の完成の基礎となるべき「事」は既に畢つたとの意味である。勿論彼の全き服従の功績によつてである。従て彼に信頼する者の生涯は「事畢りし」生涯である。基督者にとつて未解決の問題は一つもない。すべてが定まつて居る。その霊性は完全に潔めらるべく定まつて居る。その身体は復活すべく定まつ...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ラオデキヤの教会(5) 完
「勝ちをうる者には、我さきに勝ちを得て我が父と共に、その位に座するが如く、我と共に我が位に座することを許さん」これは驚くべきことである。キリストは、すでに勝ちを得て、大権の右に挙げられ、父なる神と共にみ座に坐しておられるが、やがて再臨の時には、この世に主として臨まれる。そのキリストと共にみ座に坐し、私たちもまた王として世を治めることができるのである。今まで七つの褒賞が各教会にそれぞれ約束されていて...
「すべて我が愛する者は、我これを責め、これをこらす。このゆえに汝励みて悔改めよ」兄弟姉妹よ、これまで神がなぜあなたをこらしめられるかを、よく考えて見よ。どうにかして、あなたにほんものを握らせたいばかりに、神はあなたをこらしめられるのである。そこで悔改めるためには、励むことが必要である。この神の愛のご配慮を思って、励んで悔改めなければならない。「見よ、我戸の外に立ってたたく。もし我が声を聞きて戸を開...
「なんじら自ら我は富み、かつ豊かになり、乏しき所なしと称えて、実は悩めるもの、憐むべき者、また貧しく、盲、はだかなるを知らざれば」自ら欺かれていることを知らないのである。自分は大変に恵まれていると思っているが、その実自分ほどあわれなものはないのである。貧しく、信仰が欠乏しているのである。愛なく、知恵すなわち霊魂をとらえる知恵に欠乏しているのである。また、盲人であり、盲人とは愛がないからである。信者...
「いわく。われ汝が冷かにも熱くもあらざることを、汝の行為によりて知れり。我汝が冷かなるか、あるいは熱からんことを願う。汝すでにぬるくして、冷かにもあらず、熱くもあらず、このゆえに我なんじを我が口より吐き出さんとす」これはお互いにしばしば味わうところである。兄弟姉妹たちも味わってみよ。また説教で聞いたこともあろう。しかし、今一度このみ言を深く心にとめなさい。前にも言ったように熱い泉と冷たい泉とあった...
最後に出て来るのは、ラオデキヤの教会である。「ラオデキヤ」とは、「民を悦ばす」との意味の言である。言いかえれば、人のご機嫌を取ることである。ラオデキヤの教会は、時代的にいえば、現今の教会であるが、現今の教会は堕落して、昔のニコライ宗とは、全く反対で、民主的となり、人のご機嫌を取るようになった。教会の主は神、キリスト、聖霊であるべきはずであるのに、ニコライ宗のように伝道者が主になって教権をほしいまま...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ヒラデルヒヤの教会(4)
「勝を得る者をば、我神の殿の間の柱となさん。これより再び出ることなし。我また我が神の名と我神の都すなわち、天より我が神のところより降る新しきエルサレムの名および我が新しき名をこれに記さん」柱とするとは、なんと大いなる言であろう。私たちは皆召されて神殿の材料となったのである。隅の首石は、キリスト、基礎は使徒で、私たちは各自その材料である。天井板にされるもの、壁になるもの、床にされるものなどいろいろあ...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ヒラデルヒヤの教会(3)
「汝わが忍耐の言を守りしにより、我もまた汝を守りて地に住む人を試みんがために、全世界に臨まんとする試練のときに、これを免れしむべし」神の言を信じるとは、砂糖をなめるようなことではない。ここにある全世界とは、ローマ帝国をいう。ローマの大迫害のときにも、格別の神の守護が加わることをいったのである。またかのエルサレムの滅亡のときにも二〇万からの人々が死んだが、キリスト信者はただの一人も死ななかった。これ...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ヒラデルヒヤの教会(2)
「いわくわれ汝の行為を知る。見よ、我が門を汝の前に開けり。これを閉じることを得る者なし。そはなんじ少しく力ありて、我言を守り、我が名を棄てざればなり」このところからこの教会の実情がわかる。忠実に愛によってことをしていることが知られている。私たちが愛に満たされるならば、不思議にも、人々が集められる。もちろん反対はあるが、あればある程、門が広く開かれる(コリント前一六8)。ある伝道者は、このところは困...
「ヨハネ黙示録略解(七つの教会)」 ヒラデルヒヤの教会(1)
「ヒラデルヒヤ」とは、兄弟の愛という意味である。この教会は、人の見るところによれば、きわめて微力な教会であったが、主から非常に信任を受けた教会であった。どこに目をつけられたかと言えば、やはりその愛の点であった。主がこの者こそ信任し得る者だと言われるものは、愛のある者である。この教会には、主は「聖きもの、誠なる者云々」といろいろな方面からご自身をあらわしておられる。その第一は、聖者であるキリストであ...
「勝を得るものは、白衣を着られん」今白衣を着て、全き聖潔を受けて愛に歩む者がやがてこの白衣を着せられるのである。この白とは、非常に強い意味の原語で「輝ける目を射る白さ」すなわち変貌山上の主の衣のような白さである。やがて私たちはこのような輝いた衣を着ることができる。しかし、それは現在の衣と大いに関係がある。この世にいる間に白衣を着て神と歩んだ人に限るのである。「我その名を生命の書より消し落さず」こん...
「もし目を醒しおらずば、我盗賊の如く汝に至らん。汝わが何の時なんじに至るかを知らざるなり」これは実に厳かなことである。この警戒に目を醒さずに、ウッカリしていると、思いもよらない時にキリストがこられるのである。そして世が審かれる前に、まず教会がさばかれるのである。このサルデスの教会は、悲しむべきことには、この警戒を受け入れなかったため、今はあと方もないありさまとなっていて、この教会の建っていたところ...
「なんじ目を醒し、ほとんど死なんとする残りのものを堅くせよ」このところにおいて主は警戒しておられる。目を醒せとは、眠っている者が、一寸目を明けるということではない。断えず目を醒していることである。ある人は、自分の一つの経験に満足し、たびたび恵まれたあとに眠る人がある。恵まれるまでは、一生懸命にやるが、恵まれるとヤレヤレという風で、腰をおろして眠ってしまう。それではいけないのである。「ほとんど死なん...
「サルデス」とは「遺残者」という意味である。この教会の中には数人の衣を汚さない者、すなわち遺残者があった。大部分のものは駄目であったが、その中でも少数の人が、聖潔を保っていた。このサルデスの教会は、霊的活力のゆえに有名であったということである。鯛の釣りたてのように、中に生命が満ちていたのを誰もが認めることができたという。すなわち、外部からいえば、活動において有名であったが、しかし、「神の七つの霊を...
「勝を得て終りに至るまで我が命ぜしことを守る者には我諸邦の民を治むる権威を与えん。彼は鉄のつえをもて諸邦の民をつかさどり、彼らをやきものの器の如く砕かん。我わが父より受けたる権威の如し」この勝利者に与えられるものは、第一は万国民を治める権威である。この世においてはあのローマ法皇が威張り散らしているようには決して威張らないが、かえってあのパウロの言ったように、この世の塵垢のように思われているが、やが...
「いわく、われ汝のわざと愛と信仰とつとめと忍耐とを知り、また汝が後になししわざは始めのわざよりも多きことを知る」始めより後が盛んである。決して竜頭蛇尾ではない。「しかれども我なんじに責むべきことあり、汝はかの自ら預言者なりと言いて我が僕を教えこれを惑わし姦淫を行わせ偶像にささげし物を食らわしむる女イゼベルをいれおけり。」イゼベルとはかのイスラエルの王アハブの后で、バアルを拝した悪い女イゼベルのこと...
「テアテラ」という名は女の圧制という意味である。すなわち婦人が威張って男子を圧倒するというのである。テアテラはあのパウロがピリピの河岸において伝道したとき始めて救われた、紫布を商うルデヤという婦人の故郷で(使徒十六14)神の摂理によってこの婦人が最初に救われ、それが原因でその故郷にも教会が出来るようになったが、婦人が最初の土台であったためであろうか。とに角この教会では婦人が権利を張っていたようである...
「勝を得る者には、我かくしあるマナを与えん。また白き石の上に新らしき名を記してこれに与えん。これを受くる者のほかにこの名を知るものなし」全く悔い改めて、バラムの分子も、ニコライの分子も全く捨て、全く主イエスに従い、忠信の証し人として終りまで行ったその人には隠されているマナが与えられる。マナはイスラエルの民が曠野を通った時に天から降ってきたもので、そのマナを記念のためにつぼに入れて契約の箱の中に入れ...
「されども、我汝に数件の責むべきことあり、汝らのうちバラムの教えを保つ者あり、先にバラム、バラクに教えてつまずく物をイスラエルの民の前に置かしむ、すなわちバラクをして彼らに偶像に献げし物を食らわせ姦淫を行わしめたり」。バラムとは「民を滅ぼす者」という意味である。御承知の通りこれは民数記二二章にある人の名であるが、彼の行いによって多くの民が滅んだ。あの精神が幾千年も働いている。今もなお働いている。彼...
「ペルガモ」とは一つは塔という意味があり、もう一つは結婚という意味もある。この二つの意味のある字が出たのは面白い。ここに二つの意味に関することが出て来る。ペルガモは当時なかなか盛んな町であって、一人の王の宮殿があり、また図書館があって二十万巻の書を蔵していた。もう一つそこにエスカラマスととなえられていた有名な大いなる偶像があった。それは蛇の形をしていたものであったそうだが、その偶像のためにその町が...
「さらば我生命の冠を汝に与えん」前には生命の木があったが、ここでは生命の冠である。すなわちだんだん進んでいる。前のは生命の味、甘さがあったが、これは生命のグローリー(栄光)である。これを得る人は真に死ぬ人スミルナ的信者、没薬的信者――のみである。「我らもし彼と共に死なば、彼と共に生くべし、我らもし忍ばば彼と共に王となるべし(第二テモテ二11、12)とある。主イエスの死んでまた生きる者との意味はここに至っ...
「汝まさに受けんとする苦をおそるるなかれ、悪魔まさに汝らのうちの或る者を獄に入れて汝らを試みんとす。汝ら十日のあいだ患難を受くべし、汝死に至るまで忠信なれ、さらば我生命の冠を汝に与えん」これは主イエスのお勧めとまた勝利者に対する約束との二つが一つになっている。主イエスはこの教会の前途に横たわっている迫害を知っておられる。今までも迫害はなかったが、まだまだ大なるものが来る。英訳を見ればこれは一つでは...
第三の点は「いわくわれ汝のわざと患難と貧乏とをしる。貧乏とはいえど汝は富めり、我またかの自らユダヤ人なりといいて実はしからざるサタンの会の者のけがしの言を知れり」、これが主に知られたスミルナの教会の有様であった。この教会は賞められることのみで責められる所がない。没薬的信者すなわち自己が全く聖別されて自分の為ではなく、唯主の為にだけ生活する者はこういう風である。神の御目はいろいろの欠点のある者をおお...
「スミルナ」とは没薬という意味の字である。薬とは芳い香であるが、味の苦いもので、死人に塗る香料であり、また香油であり、また香油を作る一つの材料である。すなわち芳香、苦み、死ということを意味している。スミルナの教会はこの没薬的であった。もともと主イエスがこういう没薬的の御方であったのである。東方の博士が没薬を持って来て主を拝んだが、それは主イエスの贖の死を表わしたもので、すなわち彼等は主を贖主、救主...
次に「耳ある者は御霊の諸教会にいう所を聞くべし」何だか意地の悪いことをおっしゃられる。耳があるか、あれば聞け、福音書にもこれに似たこと言っておるが、耳があってきこえるなら御霊が諸教会、すなわちお互いに対して告げておられる声を聞け、これは主の命令である。「勝を得る者には我神の楽園にある生命の木の実を食らうことを許さん」おお勝を得る者を主は待っておられる。この世の生涯において、敗軍の将でなくて勝利者と...
その次は警戒である。「然ずして汝もし悔い改めずば、我なんじに到り汝の燈台をそのところより取り除かん」。もし、悔い改めよとの御声を聞きながら、なお悔い改めないなら、主イエスは速かにおいでになる。教会の審判主としてお出になる。これは、世の審判とは違う。世の審判ならば、罪人の魂を滅亡に投げ込まれるけれども、これは教会に対する審判である。神は光である、また神は愛である、それであるから光は愛であると言うこと...
「なんじいずこより堕しかを憶い悔い改めて初めのわざを行え」これが主の愛より出たところのお勧めである。何処から落ちたか、胸に手を置き、目をふさいで考えてみなさい。只事ではない、理由もなくブラブラ落ちるものではない。何か訳がある。何処からか考えてみなさい。私は恥ずかしいことであるが、落ちた経験がある。潔められない前は、落ちる所まで上っておらず、純粋の、心一筋に主に向かう愛がなかったが、憐みによって、ア...
次に主に知られている教会の真相である。「いわくわれ汝の行為と労苦と忍耐と汝が悪人を容る能ざると汝がさきにかの自ら使徒なりと称て実は使徒に非ざる者を試みて其妄言を見あらわしし事と汝が忍耐する事と我名のために患難を忍びて倦ざりし事とを知る」―これは賞められる点である。エペソの教会は実に立派なものであった。なにしろヨハネが監督であったことがあり、またテモテもそこで監督をしていたことがあったところで、立派...
第一に「右の手に七の星を執り、また七の金の燈台の間を歩む者」と御自身はおっしゃられる。全世界の全ての使者を右の手に持ち、そしてその中を歩まれる主である。これらの教会は実際腐敗を極めた教会で、これでも教会かと思われる教会であったが、その中にも主は歩んでおられるのである。今もこのような教会がある。けれども主はこのような教会の中にもおられる。昨日も今日も永遠までも変り給わぬ主イエス、かのガリラヤの湖辺を...
エペソはアジアの光とも言われていた大きな都で、全ての中心点であった。その教会はなかなか盛んで、都にふさわしい大いなる教会であった。エルサレムが滅亡して以来、教会政治の中心はこのエペソにあったので、初代においては重きを置かれた教会である。「エペソ」という意味は「弛み(ラキセーション)」ということである。「使者に書おくるべし」― 一章にこの使者のことを星といっている(一20参照)。この書は伝道者、牧師ある...
黙示録二、三両章に、七つの教会について記されている。当時、北アジアにこれらの七つの教会があったのであるが、これらの教会は、また全世界の型である。またある人は、これは教会歴史の各時代に相当するといっている。すなわち、 エペソの教会=準使徒時代の教会。 スミルナの教会=それに次ぐ迫害時代の教会。 ペルガモの教会=コンスタンティヌス帝以来キリスト教会は世と接吻した時代の教会。 テアテラの教会=ローマカト...
ヨハネ黙示録略解七つの教会笹尾鉄三郎目次緒言エペソの教会(二章一~七節)スミルナの教会(二章八~十一節)ペルガモの教会(二章十二~十七節)テアテラ教会(二章十八~二十九節)サルデス教会(三章一~六節)ヒラデルヒヤの教会(三章七~十三節)ラオデキヤの教会(三章十四~二十二節)オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
勝利者誌 一九一四年 第六巻 十二月号 掲載人が戦いの中で恐れ、敵を恐れ、剣や銃剣を見ることを恐れ、銃に立ち向かうことを恐れるように、真理を調査することを恐れる人がいる。彼らは発見するものに恐怖を感じるのだ。戦いの英雄がいるように、真理の英雄もいる。エバン・ロバーツオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
著者についてのWikipedia(英語版)からの引用。聖潔の秘訣を尋ねられ、彼はこう答えた。 「神のみこころに留まり、神に従い、日々神を求め、神の門で待ちなさい。聖書を定期的に読みなさい。決して密かな祈りを怠ってはなりません。自分に与えられた恵みを証しし続けなさい。人を助けなさい。」オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(11) 完
私たちにはすべての肢体の中におられるキリストが必要であり、すべての肢体には私たちの中におられるキリストが必要です。これはぎこちない述べ方です。主は他の人々を通して私たちに与えることによって私たちの手を強めてくださいます。そして主は、独立した自由契約者的なもの、神の真理に全く反するものに、ことごとく反対されます。そのため、服従の必要性を強調する必要があります。「互いに服従しあいなさい」。神の家におけ...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(10)
大部分の聖徒たちは教会についての新約聖書の啓示を失っており、それより劣るものの中にあります。主は地上に、おそらく比較するととても小さいけれども、それでもとても尊いものを得ようとしておられます。その尊さは、それが主の御心に全くしたがっている点、聖霊によるこの啓示を持っている点にあります。主は私たちにこの原則を理解させて、それについてご自身と協力させ、私たちに関するかぎり、私たちをその中に立たせること...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(9)
私たちは「相互依存」という言葉を使いました。「足は手に向かって、目は足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません」。相互に依存しあっています。これは、主がこの素晴らしい命の中にもたらしてくださったことを意味します。すべての肢体が他の肢体の力と命の恩恵を受け、彼らに養われ、支えてもらえるのです。そして、各肢体は全体のために、全体は各肢体のために生きなければならないのです。そして、...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(8)
すべての肢体の相互依存を、私たちは強調したいと思います。それには途方もない解放が必要です。私たちは長年続いてきた体系という恐ろしい遺産を受け継いでいます。使徒たちが去る前の頃のことですが、人は教会を天上から引き下ろして、地上に植え、それを地上のものとしました。そして、人を設計者として導入し、教会を世の大衆運動にしようとしました。人々に感銘を与え、人々を引き寄せるものによってです。人々を教会に引き寄...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(7)
それは相互依存の問題です。この本質的な問題において、私たちはキリストのからだをそっちのけで何をしているのでしょう?私は真実を誇張しているとは思いません。ただ真実を明らかにしようとしているだけです。私たちは委員会、評議会、人々の団体を集めて、教会の諸事を組織し、案配し、操作し、指導しています。しかも大部分この世の商売の線に沿ってであり、神の働きを継続させるためにこの世の資源をあらゆる手段で引き出そう...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(6)
体について述べると、この呼称は最終的に一つであるものを示すためのものです。体は一つです。肉体を例に取ると、肉体は互いに絡み合っているので、この体の一点に触れるなら全体に触れることになります。鋲を踏むと、鋲はつま先の先端に触れるだけですが、体全体に影響を及ぼします。よくご存じのように、悪い歯があると、それは体全体を巻き込みます。この一体性はとても完全なので、一点に触れるなら全体がそれに巻き込まれます...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(5)
5.新創造の団体的性質皆さんは認識しておられるでしょうが、今や信者の生活の中にあるものはみな個人的な個別のものであるだけではありません。他のすべての信者と関係しており、団体的であり、全体の一部なのです。ですから、私たちは喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かなければなりません。私があの節を読んだ時、それに続く節に注意を喚起したことに気づいておられるでしょう。「あなたたちは新しい人を着たのですから、おの...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(4)
3.主イエスの主権的頭首権次に、私たちは主権、主イエスの主権的頭首権、新創造の主権に進みました。新約聖書が主権に関する福音で始まるのはとても印象的です。マタイは主権の線に沿って福音を紹介しています。それは王です。マタイ――主権。印象的なことに、マタイは主権の線に沿って福音を紹介した後、福音書の終わりに辿り着く前に、教会をこの主権の道具として紹介しています。マタイ十六章:主権が教会に与えられているので...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(3)
2.普遍性普遍性について二番目に黙想しました。御霊から生まれたもの、新しい人である教会の普遍性についてです。先ほど読んだ節がそう述べていることに注目してください。教会は新しい人――一人の新しい人――であり、その範囲、影響、務めは普遍的です。それは普遍的です。地元の諸々の群れの間に局所的な表現があるかもしれませんが、局所的ではありません。それは国家的ではありません。国際的ではありません。残念ながら、多く...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(2)
教会の使命は天的使命です。私たちは常に覚えておかなければなりませんが、神の民の使命には人に対する面もありますが、最も重要な面は神に対するものなのです。これは旧約聖書の幕屋と宮における礼拝によってとても明確に実証されていることがわかります。というのは、幕屋――そこに神の御心が見られます――に取り組み始めるときは、常に内側から始めることになるからです。神は内側から開始されます。神は至聖所とその中にあるもの...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(1)
朗読:エペソ四・二四、二五、コロサイ三・十、ローマ六・四~六、七・六、十二・二、四~六、一コリント十二・十二~十四、二〇、二七。主が私たちの一連のメッセージに加えることを望んでおられるのは、御霊から生まれたもの、キリストにある新創造の本質的な団体的性質についての言葉であると、私は感じています。そこにこそ、私たちが述べてきたことの最大の意味が集約されているのです。1.新創造の天的性質私たちはまず、御...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(14)
高ぶりそしてもちろん、自己意志の最も強力な特徴の一つは高ぶりです。ルシファーは、「私はいと高き者と等しくなろう」と言いましたが、預言者は「あなたの中に高ぶりが見いだされた」と言うよう促されました。高ぶりは多くの形を取ります。高ぶりはきわめてへりくだった姿勢を取ることもあります。高ぶりは自分のことをとても残念に思うこともあります。高ぶりはとても痛ましいものであることもありますが、それは依然として高ぶ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(13)
バニヤンの「聖戦」でいつも思い出すのは、アポリュオンが人魂の都を占領しようとした時のことです。アポリュオンが真っ先にしようとしたのは、市長の理解力氏を捕らえて、何が起きているのか見えない暗い地下牢に入れることでした。「理解力を暗くされて、神の命から遠ざかっていました」。これは粉砕されなければならない束縛です。十字架で主イエスはすべての子らのためにそれをなしてくださいました。彼はすべての子らを栄光へ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(12)
私たちはこれらのメッセージで十字架を自分たちに凄まじく適用してきました。そのため、私たちの多くはその衝撃力に動揺し、この古い人に適用される十字架の恐るべき力を感じてきました。なぜそれが必要なのでしょう?なぜ十字架がこの旧創造の上にこんなにも破壊的な力で臨むことが不可欠なのでしょうか?二つの理由がありますが、それは一つの事柄の二つの面です。それは旧創造が、霊的・道徳的な意味で、暗闇の権威の下にあって...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(11)
頭首権は律法的、形式的、教会組織的なものではありません。頭首権は霊的・道徳的なものです。この頭首権は女に与えられることも時々あります。だれかが家族に対して頭首の地位につかなければならず、男が失敗して、女が霊的・道徳的にそうするのにふさわしい場合は、女がそうしなければなりません。しかし、それは正しい秩序ではなく、それが続く間は弱さが残るでしょう。たんに男がそこにいるからという理由で頭首になるわけでは...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(10)
リベカが遠国からイサクのもとに連れてこられた時のことです。彼らが近づくと、彼女は目を上げて、「この人は誰ですか?」と言いました。「私の主人の息子、あなたの夫となるイサクです」。すると、彼女は直ちにベールを取って、それで顔を覆ったと記されています。彼女の美しさは他のだれのためでもなく、彼のために取っておかれました。そうです。教会は彼の栄光のためにあるのです。「花嫁の目は見つめる、自分の衣ではなく、自...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(9)
キリストのからだ――キリストの頭首権を示す媒体さて、次の点はこれです。すなわち、キリストのからだ(そして、キリストのからだのすべての肢体)はキリストの頭首権を示す媒体であるべきである、ということです。キリストは、「万物に対するかしらとされて教会に与えられました。この教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」。ですから、このからだとそのすべての肢体は、かしらの栄光を示すべき...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(8)
パウロは、困難な人生の終わりに、傷ついた体で、何度もひどく苦しみ、死にかけましたが、海が荒れ狂い、熟練した船乗りたちが途方に暮れ、絶望し、ただ立ちすくんで事態の成り行きを見守る以外になすすべがない時に、やって来て船を指揮し、すべてをやり遂げ、乗組員全員の士気を回復しました。これは人間の個性の力ではなく、人における神の優位性です。「今夜、神の御使いが私のそばに立って、『パウロよ。恐れるな』と言いまし...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(7)
他方において私たちは、迫害され、追われても、見捨てられないことがどういうことかを知っています。迫害されますが、見捨てられません。投げ倒されますが、滅ぼされません。常に優位であり続けます。それは私たちが楽観的だからではありませんし、陽気な精神が旺盛で自分を明るく奮い立たせられるからでもありません。次のことは、私たちの心の中で聖霊が主イエスの御名の中で優勢であることを示す強力な事実です。すなわち、最悪...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(6)
古いものとは何でしょう?かつて私はそれをやっていましたし、あるいはやろうとしていました。それを計画し、企画し、それに自分の判断を下していました。それを運営していました……古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました、そしてすべては神から出ています。これが違いです。すなわち、古いものは自分自身から出ていましたが、今やすべては神から出ている、ということです。新創造がそこにあります。そして、新創造...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(5)
キリストは万人の頭であり、万物に対する特別な使命のために教会に与えられています。教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。これらの領域の区別については後で見るかもしれませんが、ここではこの事柄全体の背景を理解するために事実を述べています。さて、これを認識し、心からイエス・キリストは主であると宣言し、約束された御霊――それによって彼は万物に対する油塗られた頭とされました――を...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(4)
彼には優位性がありました。それは彼の人間生活の優位性だけではありませんでした。地上の王たちを上回る何かが伴っており、それで地上の王たちは彼の御前では自分のちっぽけさを感じたのです。常に彼は、創造された万物に対する頭としての霊的・道徳的地位に置かれました。それは後に真に成就されるであろうことが、その油塗りよって暗示されました。神が選びの器を油塗られたところではどこでも、その器は他のすべてのものよりも...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(3)
油塗りこれは主イエスの天的行程の別の段階であり、後で見るように、これには天的対応物があります。彼の油塗りの場所に進むことにします。彼がヨルダン川から上がられた時、天が開かれ、聖霊が鳩の姿で彼の上に臨み、彼は象徴的・予型的に聖霊によって油塗られました。この油塗りは、神が人の子なる方の生涯に新たな形で関わられたことを意味しました。ある学派が教えているように、神がヨルダン川で主イエスのもとに来て、カルバ...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...