兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(11) 完
私たちにはすべての肢体の中におられるキリストが必要であり、すべての肢体には私たちの中におられるキリストが必要です。これはぎこちない述べ方です。主は他の人々を通して私たちに与えることによって私たちの手を強めてくださいます。そして主は、独立した自由契約者的なもの、神の真理に全く反するものに、ことごとく反対されます。そのため、服従の必要性を強調する必要があります。「互いに服従しあいなさい」。神の家におけ...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(10)
大部分の聖徒たちは教会についての新約聖書の啓示を失っており、それより劣るものの中にあります。主は地上に、おそらく比較するととても小さいけれども、それでもとても尊いものを得ようとしておられます。その尊さは、それが主の御心に全くしたがっている点、聖霊によるこの啓示を持っている点にあります。主は私たちにこの原則を理解させて、それについてご自身と協力させ、私たちに関するかぎり、私たちをその中に立たせること...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(9)
私たちは「相互依存」という言葉を使いました。「足は手に向かって、目は足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません」。相互に依存しあっています。これは、主がこの素晴らしい命の中にもたらしてくださったことを意味します。すべての肢体が他の肢体の力と命の恩恵を受け、彼らに養われ、支えてもらえるのです。そして、各肢体は全体のために、全体は各肢体のために生きなければならないのです。そして、...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(8)
すべての肢体の相互依存を、私たちは強調したいと思います。それには途方もない解放が必要です。私たちは長年続いてきた体系という恐ろしい遺産を受け継いでいます。使徒たちが去る前の頃のことですが、人は教会を天上から引き下ろして、地上に植え、それを地上のものとしました。そして、人を設計者として導入し、教会を世の大衆運動にしようとしました。人々に感銘を与え、人々を引き寄せるものによってです。人々を教会に引き寄...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(7)
それは相互依存の問題です。この本質的な問題において、私たちはキリストのからだをそっちのけで何をしているのでしょう?私は真実を誇張しているとは思いません。ただ真実を明らかにしようとしているだけです。私たちは委員会、評議会、人々の団体を集めて、教会の諸事を組織し、案配し、操作し、指導しています。しかも大部分この世の商売の線に沿ってであり、神の働きを継続させるためにこの世の資源をあらゆる手段で引き出そう...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(6)
体について述べると、この呼称は最終的に一つであるものを示すためのものです。体は一つです。肉体を例に取ると、肉体は互いに絡み合っているので、この体の一点に触れるなら全体に触れることになります。鋲を踏むと、鋲はつま先の先端に触れるだけですが、体全体に影響を及ぼします。よくご存じのように、悪い歯があると、それは体全体を巻き込みます。この一体性はとても完全なので、一点に触れるなら全体がそれに巻き込まれます...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(5)
5.新創造の団体的性質皆さんは認識しておられるでしょうが、今や信者の生活の中にあるものはみな個人的な個別のものであるだけではありません。他のすべての信者と関係しており、団体的であり、全体の一部なのです。ですから、私たちは喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かなければなりません。私があの節を読んだ時、それに続く節に注意を喚起したことに気づいておられるでしょう。「あなたたちは新しい人を着たのですから、おの...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(4)
3.主イエスの主権的頭首権次に、私たちは主権、主イエスの主権的頭首権、新創造の主権に進みました。新約聖書が主権に関する福音で始まるのはとても印象的です。マタイは主権の線に沿って福音を紹介しています。それは王です。マタイ――主権。印象的なことに、マタイは主権の線に沿って福音を紹介した後、福音書の終わりに辿り着く前に、教会をこの主権の道具として紹介しています。マタイ十六章:主権が教会に与えられているので...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(3)
2.普遍性普遍性について二番目に黙想しました。御霊から生まれたもの、新しい人である教会の普遍性についてです。先ほど読んだ節がそう述べていることに注目してください。教会は新しい人――一人の新しい人――であり、その範囲、影響、務めは普遍的です。それは普遍的です。地元の諸々の群れの間に局所的な表現があるかもしれませんが、局所的ではありません。それは国家的ではありません。国際的ではありません。残念ながら、多く...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(2)
教会の使命は天的使命です。私たちは常に覚えておかなければなりませんが、神の民の使命には人に対する面もありますが、最も重要な面は神に対するものなのです。これは旧約聖書の幕屋と宮における礼拝によってとても明確に実証されていることがわかります。というのは、幕屋――そこに神の御心が見られます――に取り組み始めるときは、常に内側から始めることになるからです。神は内側から開始されます。神は至聖所とその中にあるもの...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(1)
朗読:エペソ四・二四、二五、コロサイ三・十、ローマ六・四~六、七・六、十二・二、四~六、一コリント十二・十二~十四、二〇、二七。主が私たちの一連のメッセージに加えることを望んでおられるのは、御霊から生まれたもの、キリストにある新創造の本質的な団体的性質についての言葉であると、私は感じています。そこにこそ、私たちが述べてきたことの最大の意味が集約されているのです。1.新創造の天的性質私たちはまず、御...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(14)
高ぶりそしてもちろん、自己意志の最も強力な特徴の一つは高ぶりです。ルシファーは、「私はいと高き者と等しくなろう」と言いましたが、預言者は「あなたの中に高ぶりが見いだされた」と言うよう促されました。高ぶりは多くの形を取ります。高ぶりはきわめてへりくだった姿勢を取ることもあります。高ぶりは自分のことをとても残念に思うこともあります。高ぶりはとても痛ましいものであることもありますが、それは依然として高ぶ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(13)
バニヤンの「聖戦」でいつも思い出すのは、アポリュオンが人魂の都を占領しようとした時のことです。アポリュオンが真っ先にしようとしたのは、市長の理解力氏を捕らえて、何が起きているのか見えない暗い地下牢に入れることでした。「理解力を暗くされて、神の命から遠ざかっていました」。これは粉砕されなければならない束縛です。十字架で主イエスはすべての子らのためにそれをなしてくださいました。彼はすべての子らを栄光へ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(12)
私たちはこれらのメッセージで十字架を自分たちに凄まじく適用してきました。そのため、私たちの多くはその衝撃力に動揺し、この古い人に適用される十字架の恐るべき力を感じてきました。なぜそれが必要なのでしょう?なぜ十字架がこの旧創造の上にこんなにも破壊的な力で臨むことが不可欠なのでしょうか?二つの理由がありますが、それは一つの事柄の二つの面です。それは旧創造が、霊的・道徳的な意味で、暗闇の権威の下にあって...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(11)
頭首権は律法的、形式的、教会組織的なものではありません。頭首権は霊的・道徳的なものです。この頭首権は女に与えられることも時々あります。だれかが家族に対して頭首の地位につかなければならず、男が失敗して、女が霊的・道徳的にそうするのにふさわしい場合は、女がそうしなければなりません。しかし、それは正しい秩序ではなく、それが続く間は弱さが残るでしょう。たんに男がそこにいるからという理由で頭首になるわけでは...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(10)
リベカが遠国からイサクのもとに連れてこられた時のことです。彼らが近づくと、彼女は目を上げて、「この人は誰ですか?」と言いました。「私の主人の息子、あなたの夫となるイサクです」。すると、彼女は直ちにベールを取って、それで顔を覆ったと記されています。彼女の美しさは他のだれのためでもなく、彼のために取っておかれました。そうです。教会は彼の栄光のためにあるのです。「花嫁の目は見つめる、自分の衣ではなく、自...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(9)
キリストのからだ――キリストの頭首権を示す媒体さて、次の点はこれです。すなわち、キリストのからだ(そして、キリストのからだのすべての肢体)はキリストの頭首権を示す媒体であるべきである、ということです。キリストは、「万物に対するかしらとされて教会に与えられました。この教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」。ですから、このからだとそのすべての肢体は、かしらの栄光を示すべき...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(8)
パウロは、困難な人生の終わりに、傷ついた体で、何度もひどく苦しみ、死にかけましたが、海が荒れ狂い、熟練した船乗りたちが途方に暮れ、絶望し、ただ立ちすくんで事態の成り行きを見守る以外になすすべがない時に、やって来て船を指揮し、すべてをやり遂げ、乗組員全員の士気を回復しました。これは人間の個性の力ではなく、人における神の優位性です。「今夜、神の御使いが私のそばに立って、『パウロよ。恐れるな』と言いまし...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(7)
他方において私たちは、迫害され、追われても、見捨てられないことがどういうことかを知っています。迫害されますが、見捨てられません。投げ倒されますが、滅ぼされません。常に優位であり続けます。それは私たちが楽観的だからではありませんし、陽気な精神が旺盛で自分を明るく奮い立たせられるからでもありません。次のことは、私たちの心の中で聖霊が主イエスの御名の中で優勢であることを示す強力な事実です。すなわち、最悪...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(6)
古いものとは何でしょう?かつて私はそれをやっていましたし、あるいはやろうとしていました。それを計画し、企画し、それに自分の判断を下していました。それを運営していました……古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました、そしてすべては神から出ています。これが違いです。すなわち、古いものは自分自身から出ていましたが、今やすべては神から出ている、ということです。新創造がそこにあります。そして、新創造...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(5)
キリストは万人の頭であり、万物に対する特別な使命のために教会に与えられています。教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。これらの領域の区別については後で見るかもしれませんが、ここではこの事柄全体の背景を理解するために事実を述べています。さて、これを認識し、心からイエス・キリストは主であると宣言し、約束された御霊――それによって彼は万物に対する油塗られた頭とされました――を...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(4)
彼には優位性がありました。それは彼の人間生活の優位性だけではありませんでした。地上の王たちを上回る何かが伴っており、それで地上の王たちは彼の御前では自分のちっぽけさを感じたのです。常に彼は、創造された万物に対する頭としての霊的・道徳的地位に置かれました。それは後に真に成就されるであろうことが、その油塗りよって暗示されました。神が選びの器を油塗られたところではどこでも、その器は他のすべてのものよりも...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(3)
油塗りこれは主イエスの天的行程の別の段階であり、後で見るように、これには天的対応物があります。彼の油塗りの場所に進むことにします。彼がヨルダン川から上がられた時、天が開かれ、聖霊が鳩の姿で彼の上に臨み、彼は象徴的・予型的に聖霊によって油塗られました。この油塗りは、神が人の子なる方の生涯に新たな形で関わられたことを意味しました。ある学派が教えているように、神がヨルダン川で主イエスのもとに来て、カルバ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(2)
私たちはこれまで代表の問題を追ってきましたが、その話の流れについてきておられたなら、私たちが最初に述べたことは主イエスの誕生と関係していたことにお気づきでしょう。その誕生は全く天的なものであり、御霊から生まれたものを真に代表するものでした。私たちは、考察の第一原則の一つとして、主イエスは父なる神によって神の御心に適う人の代表として立てられたのである、と述べました。彼の生涯のどの特徴や面も、人に関す...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(1)
朗読:使徒二・三二、ピリピ二・五~十一、ヘブル一・五~九、二・九、十、エペソ一・二二~二五、四・十五、五・二三、コロサイ一・十八、二・十九、一コリント二・五私たちは、「御霊から生まれたもの」もしくは「キリストにある新創造」に専念してきました。私たちはまず、御霊から生まれたもの、キリストにある新創造の天的性質について考えました――その天的起源と天的命、天的関係、天的資源、そしてその性質と使命の全き天的...
もちろん、述べるべきことがまだまだたくさんあります――変容、復活、昇天、ペンテコステにおける御霊の来臨、御名――これはみな普遍的です。この御名はあらゆる名の上にあり、それに対してすべての膝がかがみます。これは普遍性です。それは主イエスの中にあります。その御名で私たちは呼ばれます。私たちはイエスの御名の中にもたらされましたが、それはこの御名の普遍性と権威を通してであり、彼にあってよみがえらされた者として...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...