兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (57) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(7)
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (56) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(6)
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (55) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(5)
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (54) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(4)
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (53) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(3)
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (52) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(2)
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (51) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(1)
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (51) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(6)
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (50) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(5)
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (49) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(4)
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (48) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(3)
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (47) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(2)
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (46) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(1)
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (45) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(5)
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (44) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(4)
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (43) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(3)
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (42) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(2)
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (41) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(1)
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (40) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(8)
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (39) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(7)
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (38) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(6)
〔25、26〕主は在世中、常に弟子たちに教えられたが、どうしてもその思いが弟子たちの心に入らないことを認められた。それ故に、キリストは彼らに聖霊を降して教えるより他に道のないことをお知りになった。これがつまりキリストが霊となって降られたことであって、後に来る「慰める者」である。これによって父なる神の愛のいかに深いかを知る。一四節と対照して見よ。キリストの名によって我らに聖霊を降されるのである。キリスト...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (37) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(5)
〔21〕聖霊を受けた人は、事実においては以前のようであるが、人々の中では互に異なるものがある。そして神の子ら、すなわち兄弟姉妹を愛して愛の戒めを守り、愛を実行する者(ただ始めだけ主よ愛します、と言うのではなくて、必ず実行がなければならない)は、父なる神に愛されるのである。父なる神は、もちろん罪人をも愛されるが、特にキリストを愛する者を愛されるのである。「我もまたこれを愛して」このような人は、またキリ...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (36) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(4)
〔15〕キリストが我らに求めておられるのは、唯愛である。ヨハネ二一15以下を見よ。主は甦えりの後、どんなに愛を求められたことだろう。「汝すべてに勝りて我を愛するか、然らば我が小羊を飼え」と仰せられた。主は愛をもって我らに願うことは、小羊をかうことである。これがキリストの遺言である。イエスを愛する者は、イエスがのこして行かれた魂に目をつけるのは当然である。ところが多くの人々は、自分のことばかりをキリスト...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (35) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(3)
〔13〕祈祷!!祈祷!!、何はともあれ祈りである。その祈りはイエスのみ名によって祈る祈りである。イエスのみ名によって祈るとは、彼の心、彼の性質、彼の願いが我が心にあって初めて彼のみ名によって祈り得るのである。心はキリストに反しながら、彼のみ名を用いて祈るのは実に畏れ多いことである。キリストの御心にかなう願いは、キリストの願いである。キリストのみ名によって願うとは、願うのはキリストであることをあらわす...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (34) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(2)
〔7〕この節でキリストは、父なる神と同一体であることをあらわされた。多くの人の目には父なる神とキリストとは別のもののように見えるが、キリストは「我を見し者は父を見しなり」と宣言されたのである。多くの人々が父なる神を知り、また見ることが出来たのは何千年かの昔だけであったと思っているが、決してそうではない。「今より汝ら彼を知る」。〔8〕「ピリポ……」これは人々の叫びである。ピリポはキリストだけでは満足出来...
「キリスト伝講義」苦難の週間 (33) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(1)
聖餐後のお話(ヨハネ一四章~一六章)ヨハネ一四、一五、一六章はこの時のお話であって、愛の絶頂である。一四章では父なる神について、一五章では子なる神について、一六章では聖霊なる神について書かれている。もちろん一体なる神は、その中にところどころに現われている。ヨハネ一四章〔1〕この御言葉は我らに対する無限の愛をあらわす。キリストは眼前に苦、恥、死の大問題があるにもかかわらず、唯弟子のことだけを思って、...
弟子たちの離散とペテロの堕落を予言される(マタイ二六31~35、マルコ一四27~31、ルカ二二31~38、ヨハネ一三36~38)マタイ福音書に基づいて講義する。〔30〕「歌を……」弟子たちは少しもキリストの心を察しなかった。聖霊によって歩まないからである。〔31〕これは弟子たちにとっては最も不審に思われたことであろう。先には一人といい、今度は皆が私につまずくであろうと言われた。ゼカリヤ一三7の予言はこれによって成就され...
聖餐の時に起った弟子たちの争い(ルカ二二24~30)弟子たちの念頭には、常に我らの中で誰が一番偉いだろうかとの争いがあった。夕食の前にキリスト御自身が彼らの足をお洗いになり、親しく教えられたにもかかわらず、このような争いを起すとは、まことにあわれな彼らの心の状態である。ある人は「聖餐の準備をするのに、ペテロとヨハネとを用いられたためである」という。人は指導者としてよく用いられる人を、うらやみねたむもの...
「附」過越の祭(出エジプト一二3~14)〔8〕「種入れぬパンに苦菜を交えて食い」これは罪のいかに憎むべきものであるかを覚えて食すべきことを教えられたのである。「火にて焼くべし」これは聖霊の火である。〔9〕「その頭と足と臓腑(ぞうふ)とを皆食え」頭とは知恵、足とはその歩み、臓腑とは愛である。これらをみな食べねばならない。そして明日まで余しておいてはならない。〔11〕「急ぎて食え」我らは世すなわちエジプトに...
聖餐(マタイ二六26~29、マルコ一四22~29、ルカ二二14~20)場所 エルサレムルカ福音書に基いて講義する。〔14〕「時至りければイエス食に就きぬ……就けり」ユダヤにおいて小羊をほふるのは、午後三時より六時までの間であるという。このことより、この時は夕方六時頃であったろう。この時使徒たちも席についたのである。実に幸いなことである。〔15〕「イエス彼らに言いけるは……」キリストの御心が言外に溢れ出ているのを見る。...
イエス、敵に渡されることを予言される(ヨハネ一三21~30、マタイ二六21~25、マルコ一四18~21、ルカ二二21~23)ヨハネ福音書に基づいて講義する。〔21〕「心に憂い、あかしして……」主がどれほど悲しかったか想像出来る。三年半の間養育した者たちの中からこのユダが出たことを悲しみ、人間の罪が実に悲しくまた恐るべきことを思われたのである。イエスの心は彼の声や態度にあらわれていたに相違ない。「誠に誠に汝らに告げん……...
イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。我らは自分のた...
イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)場所 エルサレムユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イ...
ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)場所 エルサレムこの記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マ...
祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)場所 エルサレムキリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとし...
〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、こ...
羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)場所 オリブ山 時 火曜日この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。〔32〕「万国の民を...
財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)場所 オリブ山 時 火曜日一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられる...
〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである...
十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)場所 オリブ山 時 火曜日この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。夜とはま...
〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大...
イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)場所 オリブ山マルコに基づいて講義する。〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。イエスのおられない神殿は何の価値もないものである...
〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることであ...
〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわ...
ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)場所 エルサレムこれも同じ火曜日の出来事である。当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な...
キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国で...
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたの...
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の...
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究して...
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。〔24〕これは申命記二五5から引証したも...
ヘロデ党に対するキリストの答え(マタイ二二15~22、マルコ一二13~17、ルカ二〇20~26)この時において、キリストは実に種々の方面から難問をもって試みられたもうたのである。しかし試みられれば試みられるほど神の栄えが顕われたのである。〔15〕「彼を言い誤まらせんとて相謀り……」これは聖霊の筆である。聖霊は人の言葉ではなくて、人の心を見分けられるお方である。人の心は偽わるものであるから、理屈をつける時は言葉だけ...
婚宴のたとえ(マタイ二二1~14)このたとえはルカ一四16にあるたとえとは別である。主が十字架におかかりになる週間にお語りになられたものであって、その方はお語りになった目的も異なっている。すなわちルカによる福音書の方は救いへの神の招きであるのに反して、これは救いから更に一歩進めて聖潔の必要を説かれたのである。〔1〕「彼ら」信じないユダヤ人を指す。〔2〕「ある王」ルカ一四16には、神を「ある人」と呼んでいる...
悪しき農夫たちのたとえ(マタイ二一33~44、マルコ一二1~12、ルカ二〇9~19)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔33〕「ぶどう園」ユダヤ国民のことである。「間垣」他から攻めて来る敵を防御するもの。「酒ぶね」豊かな養いを指す。「塔をたて」これは地に豊かな養いがあるばかりではなく、彼らには予言者及び聖書のあることを指すのである。「農夫」祭司長、長老たちのことを指す。「他の国へ往しが」神が天におられるこ...
二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)これは同様に火曜日の説教である。〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によ...
イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)(火曜日の朝)祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人に...
イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録され...
イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であ...
イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを...
イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。〔3〕「己が頭髪にてそ...
ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...
二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)場所 エリコの近所。マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そう...
ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して...
エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟...
ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う...
若き青年の話(マタイ一九16~26、マルコ一〇17~31、ルカ一八18~30)今日は「マルコ一○17~31」を主題として、他の福音書に記された箇所を参考にしながら学ぶことにする。〔17〕ルカ一八18を見ると、この青年はつかさである。またマタイ一九20には若者とある。彼は地位と財産とを持った青年であった。しかも彼は地位、財産がたのむに足りないことを知り、限りなき生命の問題について、心をくだいていた。この点からみれば、彼は...
イエス幼児を祝される(マタイ一九13~15)キリストが一度伝道を始められると、多くの人々が彼の許に来て、霊魂の救い、また病の癒しを願ったのである。ところが弟子たちはたびたびあわれみを求める者を阻んだ。これによって見ても弟子たちの心がいかに冷酷であったかが知られる。あのスロ・フェニキヤの女がイエスに叫んだ時にも、弟子たちは彼女を追い払って下さいと願っている。弟子たちは人々が信仰に関しての問答ならば喜んで...
パリサイ人と税吏の譬話(ルカ一八9~14)この譬話の目的とするところは、自らを正しとする人を教えることにある。このパリサイ人の眼中には、強制取り立て、不義、姦淫する人々が映っているのを見るであろう。特に自分の近くにいる取税人と自分とを対照したのが見える。これは古き人の姿であって、自分が罪人であることを承認することの出来ない者である。次に学ぶべきことは、自らを義とする人は決して神に出会ったことのない人...
ただひたすら祈ったやもめの譬話(ルカ一八1~8)〔1〕「人の恒に祈祷して気を落すまじきために……」イエスのわたしたちに対する一つの願いは、わたしたちが常に祈祷して気落ちしないことである。わたしたちはかの偶像信者が神社仏閣にちょっと参拝して気を済ませるように、ちょっと祈祷して気を済ませているから祈祷の深みに入らない。そしてその祈りはわたしたちに何らの利益をも与えず、かえって悪魔に敗れることがあるから、わ...
神の国に関する説教(ルカ一七20~37)ユダヤ人は、イエスがもしもメシヤであるならば神の国は直ちに実現して、ユダヤの国はローマの支配を脱し、ついにはユダヤ国は世界の最強国となるであろうと考えていたのである。ただに彼らのみならず、弟子たちもまたそう思っていた。だからイエスが甦った時に「主よ、汝今国をイスラエルに返さんとするか」(使徒行伝一6)などと質問を発したのである。しかしながらイエスは、彼らの誤解を...
十人のらい病人癒される(ルカ一七11~19)このガリラヤとサマリヤには、異邦人とユダヤ人とが雑居していた。昔ユダヤ人は異邦人と交際せず、また律法によってらい病人と別居させ、決して交際などはしなかったのである。であるかららい病人たちは一団となって特種部落をなす傾向があった。故にここに記されたように、かくも多くらい者が集まっていたのである。また十六節によると、この十人の内にも異邦人のあったことは明かである...
富める人とラザロの譬話(ルカ一六19~32)これはわたしたちのよく知っているところである。けれども今特に主よりこのことについて教えられたい。このところは非常に厳かなところである。それで今日は、永遠ということについて学びたい。〔19〕この富んだ人は、この世のことのみを思う人である。「紫の細きものとを着」紫は王の着るべきものであり、また王の前において着るべきものであった(エステル記八15)。故にこの富んだ人は...
不義な家令の譬話(ルカ一六1~13)このような出来事は、世の中によくあることである。〔3〕「主人、我役目を奪いなば何を為さん。我鋤を執るには力なく」わたしたちの学ぶべき教訓は、家令の知恵である。すなわち、自分の能力を知ることである。わたしたちは時々自分の出来ないことを出来ると自負して、自分の能力を知らないことがあるが、これは愚かなことである。〔8〕「しわざの巧みなることを以てこの不義なる番当を誉めたり...
〔25〕この兄は信者であっていまだ聖潔を受けない人、換言すれば、父と共に喜怒哀楽において一致しない者の型である。兄は弟のように放蕩ではなく、正直に父のもとに働いていたのである。表面より観察する時は非常に立派である。しかしながら、その心にある一物は時に臨み、機に触れて立ち上がりこのようなにがい水を出すのである。兄は畑にいて僕たちと共に終日すきを取り、一日の労働を終えて帰る時、たまたま妙なる音楽を耳にし...
放蕩息子の譬話(ルカ一五11~33)キリストはこのところで特別に神の側と人間の側とを明かに語り給うた。〔12〕「弟は父に言いけるは身代をわれに分け与えよ」これは、誤りの第一の原因である。神は人間を自由な者に造り給うた。しかしながら、神より離れる自由ではなかった。人間は自分が主人になれば自由になると思うが、これは大いなる間違いであって、三十一節にある通り、神はわが所有物は、ことごとくあなたの所有であると仰...
失われたる羊の譬話(ルカ一五3~7)このルカ伝十五章にある三つの譬は、パリサイ人と学者たちにキリストがなし給いし教えであって、人間の魂の貴重なことと彼らの不心得なことを教えたものである。〔2〕「この人は罪ある人に交わりて食せり」。食するとは親密なことを表わす。〔4〕「一つを失わば」失われた羊とは神の聖前より離れた人間を指したものである。獲るまでは尋ね給うのである。「尋ねえば喜びてこれを肩にかけ」神の喜...
弟子たる者の覚悟(ルカ一四25~35)イエスがこの譬を語り給うたのは、エルサレムの上京の途中である。「多くの人々イエスと共に行きし」イエスと共にエルサレムに行くことは立派なことではあるが、イエスは表面のみでは満足なさらず、更に精神の中に探りを入れ給うのである。〔26〕これは弟子となる条件である。弟子とは普通の信者とは異なって、どこまでもイエスと共に行く者であり、またキリストの福音のために命を捨てるもので...
婚宴の座における婚宴の譬話(ルカ一四7~24)ユダヤ人の習慣として座席を選ぶことは、非常に煩雑であった。特に婚宴の席においてはそれが甚だしい。ユダヤ人の上座は真中であった。「上座を選ぶを見て」探られる言葉である。わたしたちの間ではそのようなことがないか。〔8~9〕箴言二十九章二十三節のように、自らを高くする者は低くせられ亡びに到る。しかし自ら謙る者は、主の来り給う時高くされるのである。従ってわたしたち...
水腫を患える人癒される(ルカ一四1~6)パリサイ人はさも宗教家らしく熱心家らしくイエスを招いた。しかしながら、彼らがイエスを招いたのは心よりではない。「人々彼をうかがいたり」これはキリストを待ち望む精神ではなくて、キリストをうかがう精神である。そのような人は決して神の恵みを受けることはできない。〔2~4〕「彼ら黙然たり」学者、理屈を張る連中でしばしばこのようなことを演ずることがある。三歳の幼な子にも知...
ヘロデのたばかりと主の答え(ルカ一三31~35)ヘロデは自らの言葉を貫き、人の栄えを求めようとしてついに正しきヨハネの首を取った故に、良心に責められ、その心には平和がなかった(マルコ六26)。ここにイエスの名声を聞き、また彼が奇跡を行うのを見てヘロデの心は動揺し、ついにイエスをもってヨハネの死より甦れる者となすに至った(マルコ六16)。彼の心中に不安があるのは当然である。故に彼は、イエスを他のところに退け...
十八年病んだ女癒される(ルカ一三10~17)「女よ、汝はその病いより放さる……」この女は十八年病んだ、実に気の毒な女である。わたしたちは一日病んでも実に苦しい。しかしながら十八年とは実に長いことである。人間の側からは望みのないこの女が、キリストによって癒された。何という幸福なことであろう。「置きければ……」英訳には両手を置いたとある。その時「直ちに伸びて神を讃美せり」ハレルヤ。これを霊的に味うならば、わた...
実を結ばないいちじくの話(ルカ一三6~9)この譬話はユダヤ人を戒めるために、主が語り給うたのである。ぶどう園とは異邦人のことで、いちじくはユダヤ人を指す。「来りてこれを求むれども、得ざりければ」神は実を求めに来り給う。これは記憶すべきことである。ユダヤ人は、他の国民より栄えを現わさねばならない者であり、また造り主なる神を拝すべきものである。しかしながら、バアルやアシタロテや金の小牛に仕え、これを拝し...
神は私たちの必要を満たし給うこと(ルカ一一22~31)註釈はマタイ伝六章においてなしたのでこれを略し、ただ異なる点のみを言う。〔29〕今日、有形的側面において信者も未信者もほとんど違いのないことは、キリストの嘆き給うところである。魂の悪い時には神に願うが、金のない時また身体の病気の時には、異邦人と異なるところのないことは悲しむべきことである。「ただ神の国を求めよ……」これは、神の国には肉体の恵みも含むこと...
唖の悪魔追い出される(ルカ一一14~26)この奇跡は、マタイによる福音書九章三十二節と同じであると言う者と、同十二章二十二節と同じものであると言う人があるが、いづれであるか明らかでない。註解はマタイ伝の時になしたので略す。愚かな富める者の譬話(ルカ一二16~21)〔15〕真実の安心は所有の高さによるものではない。この御言葉は多くの場合、未信者に当てはめるが、今日信者、伝道者の内にもこのような人がたくさんいる...
ラザロ甦らさる(ヨハネ一一1~46)ラザロの住んだベタニヤは、聖書中にも神の恵みの現われたところである。またこの地は神の栄えが現われる機会のあったところである。なぜならば、そのところにはイエスを重んじ、イエスを信ずる三人の兄妹があったからである。第一、ルカによる福音書一○38~42には、イエスは真の教師として現われている。またマリアは学ぶ者として現われた。すなわちマリヤは善き方を選び、キリストに心を奪われ...
イエス、ヨルダンの向うに退き給う(ヨハネ一〇40~42)このヨハネがバプテスマを施したところは、イエスにとって記念すべきところである。実にこのところは厳かなまた静かな幸福なところであった。〔41、42〕これはヨハネにとって幸いなことである。なぜならば彼がこのところにおいて伝道した種は、今このところで芽生えたのである。ヨハネはすでに牢に死んだ。けれども、彼の労は空しくはならなかった。我らも我らの伝道が目前に...
宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔...
イエス祈ることを教う(ルカ一一1~13)ここに弟子たちはキリストの祈りの力あるのを見て、祈ることを教えられんことを願った。これは実に善き願いである。次に注意すべきことは、主がこの祈りを教え給うたのはその文句ではなくてその精神である。「天に存す我らの父よ」これは目を天に上げわたしたちの父に願うのである。「御名を崇めさせ給え」第一に願うことは、神の御名が崇められることである。「御心の天になる如く」神の御...
ベタニヤにおけるイエス(ルカ一〇38~42)〔38〕マルタは、実に主に対して熱心であった。ヨハネによる福音書にも、マルタが主に対して機敏に活動しているのを見る。「これを迎えて自己の家に入りぬ」主と主に属する者を家に迎え入れることは、実に幸福なことである。〔39〕「マリアと言える者あり、イエスの足下に座りてその道を聞けり」。またヨハネによる福音書十一章二十節では、マルタはイエスを迎えに行ったが、マリアはなお...
善きサマリヤ人の譬(ルカ一〇25~37)場所はエルサレム。この話はたいへん恵みに感ずる。また非常に探られるところである。この律法学者は聖書をよく知っていた人で多分、キリストのことを聞いてどのような人物かをためそうとして来たものであろう。この人の仕打ちはたいへん悪いと言うほどではないが、キリストを試験したのであるから、実に無礼なことであった。「師よ、我何をなさば永生を受くべきや」これは実に大きな問題であ...
七十人の弟子帰り来る(ルカ一〇17~24)このところで、弟子たちが得意になったのは、人情の自然で、われわれの中にも成功する時にはこのようになることがある。なお、彼らは自分の成功を人の前に報告したのではなく、主の前に報告したのであるから、さほどとがめるには及ばないようであるが、主は彼らが慢心に陥ることを戒め給うたのである。「サタンの天より落つるを見し」とは、イエスが彼らに霊界の有様を告げたのである。〔19...
羊の門また善き牧者なる基督(ヨハネ一〇1~21)囲いとは、昔のユダヤ教また今日のキリスト教である。神の備えた入口以外の所から入る者は盗人である。また門と牧者とは、離れることのできない関係にあるもので、牧者は必ず門より来るものである。〔4〕の「羊彼の声を知りてこれに従う」とは、キリストとその弟子の関係である。パリサイ人は、決してキリストの声を知らなかったから従わなかったのである。天国に入るには必ず門であ...
盲人の者癒される(ヨハネ九1~41)ヨハネによる福音書九章一節は前章の続きで、キリストが人々の中を通って行き給いしその途中の出来事である。ある批評家は、キリストが人々を恐れて逃げたと言うが、イエスは命が欲しくて逃げたのではない。まだ殺される時でなかったので去り給うたのである。それ故、途中で盲人の者に会えば、これを憐み癒し給うたのである。もし恐れて逃げるのならば、盲人がいても癒すどころではない。ここで...
節の後の説教(ヨハネ八12~59)〔12〕イエスこそ、実に心霊界の太陽である。世の人は、自然界の太陽を知っているが、心霊界の太陽を知らない。実に悲しいことである。しかしながら、キリストを持つ者は、命の光を歩み得るのである。この所で、注意すべきことは、悪魔も光の使いのようになってくることである。それ故に、世の中に悪魔の与える光を、真実の光と思っている人がある。これは実に、危ないことである。それならば、わた...
姦淫した女イエスの前に引き出される(ヨハネ八3~11)〔3〕このところで、学者とパリサイの人は、この女を訴えたけれど、自分たちは、返って恐ろしい者であった。彼らは実際罪を憎んで訴えたのではなく、自分たちが、律法に対して熱心であることを現わさんために、第二は、キリストを試みんためにこの様に訴えたのである。申命記二十二章二十二節を見れば、この様な者は、石で打ち殺すように書いてある。もし、律法を重んずるなら...
イエス神殿で民を教え給う(ヨハネ七11~53)この時は、仮庵節であったが、これはただ儀式で、キリストを表わすものである。すなわちキリストは、わたしたちのためには仮庵節である。昔イスラエル人が、荒野を旅行する時仮庵の中に住んだ様に、わたしたちは、この世の荒野でキリストと言う天幕、すなわち仮庵に住むことができるのである。また、天に行ってからも、わたしたちの真実に安息するところは、キリストである。また、かの...
イエス仮庵の祭りに臨まれる(ルカ九51~56)この時イエスは地上のみわざが殆ど終りに近ずいていた。丁度人が夕方今日の日は暮れると言うので、力一杯働く様子に似ている。しかも天に昇るとは言うもののその実は殺されるので、死が近ずいたのである。しかしキリストにとってはこの死が勝利の秘訣であり、彼はこれを確信しておられた。この時キリストは十字架の悲しさと、昇天の嬉しさ喜ぱしさが交互に混ると言うようなありさまであ...
七十人の弟子の派遣(ルカ一〇1~16)以前に十二弟子をつかわす時と同じなので詳しくは述べない。〔1~2〕主の御目には亡びる霊魂が見えている。またここで伝道の前に祈るべきことを教えられる。またキリストが行けと仰せられてから行くことである。二人で行ったことは大切なことであって、神の知恵を見る。その後主が伝道に行かれることは記憶すべきことである。〔3〕この「往け」との声を聞いて立つ時は、神の力が加わる。軽卒に...
薄情な僕のたとえ(マタイ一八21~35)〔21〕これがペテロであったのが面白い。ペテロは弟子たちの中でも、出過ぎる方であった。主が何か仰せられると、彼は弟子たちの代表者となってイエスに向った。しかし何時でも出過ぎては頭を打たれた。多分彼は友人たちからきめつけられたのであろう。それがしゃくにさわって時には抑えたが、抑え切れずに主の前に持ち出したものであろう。これは潔められる以前のペテロである。すなわち一方...
イエス弟子たちの欲望を叱責される(マタイ一八1~20)マルコ九34、弟子たちの頭からとかく大いならんとする分子が抜けなかった。やはり自分はどの位偉いのだろうと言う精神が残っていた。天国に入るにはまず幼な児のようにならねばならないが、天国にいる者はまた幼な児のようである。幼児について学ぶことは遜っていることである。幼児は人がこうだと言えばその通り信じるものである。このようでなければ神様と一致することは出...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...