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  • 「ヨハネ黙示録略解」第一一章 神殿をはかることと二人の証者および第七のラッパ(2)

    〔1〕「われ」ヨハネであって、聖徒全体を代表している。一○章の終りにおいて、ヨハネはキリストの手にある巻物を取ってこれを食し、その結果預言をした。そして今は聖徒の特権として審判時代に審く権利を与えられた。「杖の如き葦」杖はこらしめ、鞭打つことの意。あるいは革命、または政治すなわち神から授けられた特別の権威。葦は、はかり竿の意。原意はキャノン(正典)と同じ字であって定規の意。測るもの調べることを言う。...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一一章 神殿をはかることと二人の証者および第七のラッパ(1)

    分解一 神殿をはかること 1~2二 二人の証者 3~14三 預言 3~6四 二人の証者の殉教 7~9五 悪人の喜び 10六 証者のよみがえりと昇天 11~12七 地震 13八 第七のラッパの審判 15~19オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一○章 一人の強い天使の小さい巻物(2)

    〔1〕「一人の強き天使」キリスト。「雲を着て」み座のそばに雲がある。(詩九七2)、雲に乗ってくることは神の栄光、威厳を現わす。「天より降る」これは主の再臨ではない。ヨハネの黙示したところのものである。「日」栄光。「火の柱」堅固。この足の行くところを焼きつくす恐ろしい光景を示している。〔2〕「小さき巻物」五章にあった巻物であろうとの説がある。「その右の足を海の上にふみ、左の足を地にふみ」キリストが陸と...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一○章 一人の強い天使の小さい巻物(1)

    分解一 一人の強い天使の姿 1~2二 七つの雷の声 3~4三 天使の誓言 5~7四 小さい巻物と天使の命令 8~11オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第九章 第五、第六のラッパの審判(3)

    〔13〕「金の祭壇」神を信じる者には、祝福となり、神を信じない者には審判となる(八3~5)。〔14〕「ユフラテ」人の造られた場所にある河。この所に神の祝福が下り、悪魔もそのわざを始めた。神と悪魔との最後の戦いをする場所である。〔15〕「四人の使者」四は完全を現わす。全世界に及ぶことを意味する。「許されたり」神の許しを得るまで待っていたが、その許しがあったので釈き放たれたのである。「年月日時」その年、その月...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第九章 第五、第六のラッパの審判(2)

    〔1〕「一つの星」第八章の星は鉱物であったが、これはそうではない。権威を持って輝いていたものであるが、堕落して落ちて来た天使である。「底なき穴」この世の穴ではなく、陰府である。陰府は霊界での悪の勢力の満ちあふれたところ。恵みによって今はこの世と陰府との交通遮断がされているが、この時になると神の許しを得て、交通が始まり、陰府の門が開かれるのである。「鍵を与えられたり」この世と交通するために陰府の門を...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第九章 第五、第六のラッパの審判(1)

    分解一 第五のラッパの審判 1~12 イ 底なき穴 1~2 ロ いなご 3~10 ハ いなごの王 11~12二 第六のラッパの審判 13~21 イ 四人の天使解き放たれる 13~15 ロ 騎兵 16~19 ハ 人々の状態 20~21オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第八章 ラッパの審判(3)

    〔7〕「血の混りたる雹」一八一九年。パッフィンスベイ近くの山の八マイル四方に血の色の雪が降ったことがあると言う。その他ビクニウス山、ノウルウェイ等にも降ったことがあると言われる。これはたんにやがて現われて来ることの模型であって、世の終りには物すごい光景で降って来るのである。木を大人物、草を普通の民衆として解する人もあるが、これは文字通りに解釈すべきであろう。〔8〕「火に焼かれる大なる山の如きもの」ど...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第八章 ラッパの審判(2)

    〔1〕七章の終りにおいて大讃美があった後、半時ばかり天が静かになった。これは実に厳粛な光景であって、恐ろしいわざわいの迫って来たことを悟ったためである。詩篇の中にも大讃美を、歌ってきてのち「セラ」に至ってしばらく静まるものがある。これは実に神の沈黙の力の働く時である。〔2〕「七人の天の使い」神から各自一つのラッパを与えられたために、静かになったのである(アモス三6)。七つのラッパは、祈祷の答として吹...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第八章 ラッパの審判(1)

    分解 一 第七の封印と七つのラッパ 1~2 二 主イエスおよび聖徒の祈祷の答 3~5 三 ラッパを吹く準備 6 四 第一のラッパ……雹と火 7 五 第二のラッパ……火に焼かれる大きな山のようなもの 8~9 六 第三のラッパ……星 10~11 七 第四のラッパ……日と月と星との変化 12 八 一つの鷲のラッパ 13オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第七章 患難時代の聖徒(4)

    〔15〕14節の条件を果たしたものの祝福。第一、「神の宝座(くらい)の前にあり」私たちは、この世の帝王の前に立つ事のできないものであるが、神から与えられる祝福によってみ座の前に立つことができる(二四人の長老、四つの生き物のようである。み座には座すことはできないが)。これが栄光、また喜びである(ユダ二四、コロサイ一28)。聖霊は言い難い嘆きをもって、私たちのために祈り、私たちをしてしみなく、傷なき神の前に...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第七章 患難時代の聖徒(3)

    〔9〕天の有様。すなわち患難を経て来た聖徒の祝福の状態である。 (一)六章において神を信じない人々への地上の患難が現われた。 (二)七章一節から八節までにおいては、選ばれた神の民の有様が記されている。 (三)七章九節から一七節までには、天にある聖徒たちの様子が見られる。神を信じない者も神の民も、天にある聖徒もみな患難時代を経て来たものである。「諸国民、諸族、諸民、諸音(いん)」先の一四万四千のイス...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第七章 患難時代の聖徒(2)

    〔1〕神は七つの封印を開かれて、恐ろしいわざわいの来るまでに、患難時代に残された神の民を顧みて下さる。それゆえ、封印を六まで開いて、七まで開かれない前に、これを挿入したのである。「四人の天使」地球の四隅に立って、この世をかき乱しわざわいを来らせようとする嵐をとどめ、何一つどこにも風を吹かせず、あたかも嵐の最中に暫時静穏な時のあるようになし、更に大きなわざわいの来ることのために、このようになしたので...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第七章 患難時代の聖徒(1)

    分解 一 イスラエルの一四万四千人 1~8 二 神の印 1~3 三 印せられたものの数 4~8 四 患難時代の聖徒 9~17 五 聖徒の礼拝と讃美 9~12 六 一人の長老とヨハネの問答 13~14 七 彼らの祝福の状態 15~17オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第六章 七つの封印の審判(4)

    〔12〕地上の審判。「地震」大きな地震は世の末期におこる禍いの一つである。近世においてサンフランシスコに、イタリアに、南アメリカにあった地震は、実に大きな地震の来るであろうことの兆候である(ハガイ二6、へブル一二26)。「日は毛布の如く黒くなり」今から一三〇年以前に、一七八十年一○月九日合衆国の北方において、日蝕ではなく、太陽の暗くなったことがあった。大陽の全体が見えなくなったのではなく、光線が失われ午...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第六章 七つの封印の審判(3)

    〔9〕霊界のことで、諸説がある。ある人はいう。「後の叫び(10)によって、これはキリスト教徒ではなく、ユダヤ人であろう」と。他の人はまた言う「これは普通の殉教者、ことに世の末期(主の空中再臨から、患難時代にかけて)において最後の激戦で殺された人である。それはこの人々を殺したものが、なお世に住んでいることを(10)知るからである」と。「神の道のため、およびその立てしあかしのために」神の道を宣べ伝えたこと...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第六章 七つの封印の審判(2)

    神の審判が現われる(イザヤ二六9)。この審判は世の人に神の美しいことを示し、彼らに罪を悔改めて立ち帰らせるためである。〔1〕「生き物」キリストの形であり聖徒である神の御座に近く侍る者(四7)を言う。このような者には、審判することのできる大きな権威を与えられた(コリント前六2)。世をも天使をも裁く権威である。これ聖書を一貫している思想である。これは神の叫び声である。事物の進行を示している。長く秘密として...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第六章 七つの封印の審判(1)

    分解 一 第一の封印 白馬 1~2 二 第二の封印 赤馬 3~4 三 第三の封印 黒馬 5~6 四 第四の封印 灰色の馬 7~8 五 第五の封印 殉教者の霊 9~11 六 第六の封印 天変地異 12~17オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第五章 小羊の前の礼拝(3)

    〔8〕「巻物を取るとき」これは讃美の動機である。久しい間願ってきた願いが、キリストによって成就した。キリストが神から受けられたことは、すなわち私たちが神から受けたことである。私たちが失った産業を回復したことである。それゆえに、この時に大讃美が起った。「ひれ伏したり」無限の感謝をもって、キリストを拝した。「この香は聖徒らの祈りなり」聖徒が祈る長い間の祈りがこれである。この祈祷は一つ一つ天に昇って行き...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第五章 小羊の前の礼拝(2)

    〔1〕「七つの印」七は完全を現わす。完全に厳重に封印されたもの。「巻」ユダヤの風俗では、財産の地券書があって、その権利の所有を現わす巻物である。しかし、零落して財産を売り払う時は、その巻物に権利を放棄したことを記し、これを巻いてその表面に保証人が保証をして、記名証印してこれに封印をする。もし、売り手がその代金を返せば、その封印を解いて買戻したことを表わす。それゆえ、金を返却できない時には、その権利...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第五章 小羊の前の礼拝(1)

    分解 一 七つの封印を解くに足る者 1~5 二 前に殺された小羊 6~7 三 聖徒の祈り、四つの生き物および二四人の長老の讃美 8~10 四 天の讃美 11~12 五 万物の讃美 13 六 四つの生き物および長老の礼拝 14オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第四章(4)

    〔8〕「六つの翼」セラピムには、六つの翼があった。六つの翼の内、二つは面をおおっていて、謙遜を現わす。二つは足をおおっていて、慎しみを現わす。さらに二つは飛ぶためで、迅速な服従をしめす。「その内外ことごとく目なり」「また前後ことごとく目なり」(6)目は聖霊、光、悟りを現わす。この四つの生き物は、真の知恵と真の光である。真に聖霊に満される時には、前後左右から悪魔を悟ってこれを防ぐことができる。翼の内外...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第四章(3)

    〔4〕「二四人の長老」諸説がある。一説にはイスラエルの十二の族と新約の十二使徒であって、旧約の子を代表していると。一説には、二四は神の前における全き数を現わしている。祭司の組は(歴代上二四18)二四に分かれていた。「長老」先立つ者。年齢も恵みも、経験も人に先立つ者。教会の長子を現わす。私たちを代表する者。聖徒中でも信仰において、恵みにおいて高い人。「白き衣」(三5)長老の一特色、目を射るばかり輝く栄光...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第四章(2)

    〔1〕「天に門開けありたり」教会時代のことは、三章までに終り、四章からは主の空中再臨の時が来る。教会時代の終りにおいては天の門が開け、霊的にはキリストのあがないにより成就したが、再臨の時には具体的に成就して、私たちの肉体も天国に入ることが出来るのである。罪のために閉された天の門はキリストの血の力と十字架の功によって、霊のためだけでなく、肉体のためにも開かれた。「ラッパの如き声」全世界に響き渡る大き...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第四章(1)

    参考 四章以下については、人によって大いにその解釈が異っている。しかし、結局次の三説に帰するようである。 (1)ヨハネ当時のこととして解釈する (2)今日までの歴史に照して解釈する (3)将来のこととして解釈する(再臨の光をもつ人の解釈である)分解 一 開けた天と携挙 1 二 御座とその上に座す者 2~3 三 二四人の長老 4 四 神の威厳と七つの灯火 5 五 四つの生き物とその讃美 6~9 六 二四人...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第三章(6)

    〔17〕信仰の温かさは、自分の姿の判然としているためである。「自ら我は富かつ豊かになり、乏しきところなし」自分では恵まれているつもりで、教理を知り、経験もあり、恵みも味わっていて、一見富んでかつ豊かで、乏しいところがない。「悩めるもの」主との交わりを断ち心の内で悩んでいるもの。「憐むべき者」心に悩みのある者は、あわれな状態にあるのである。「貧しく」愛、信仰、忍耐その他のものに欠乏している。「盲い」神...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第三章(5)

    ラオデキヤ教会に贈る書 14~21〔14〕「ラオデキヤ」民を喜ばすとの意である。使徒パウロが以前伝道した地であると思われる(コロサイ四15・16)。ニコライ宗に反対して、民が主となり、共和政体によって世論をもって教会の政治を行い、その結果人心腐敗した。ラオデキヤは、当時繁栄した都会であって、産物として羊毛が多く、物質的に富んでいた。しかし、一面において心霊的に貧弱で次第に信仰が冷やかになった。貧乏したが、信...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第三章(4)

    〔10〕この予言のように、この教会はこの後において大きな迫害にあった。しかし、神の保護の手は、その上に加えられて勝利を得た。これはただ一つの型であって、患難の時代に聖徒は、これから逃れることを意味している。「我が言を守るによりて、我れもまた汝を守りて」神の保護をうけて、患難の時代に患難を逃れようと願うならば、先ずこの世において神の言を信じて、これを守り忍耐しなければならない。そうでないならば、神の保...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第三章(3)

    ヒラデルヒヤの教会 7~13〔7〕兄弟の愛と言う意味である。その教会は、小さい教会であったが、忠実に愛によりて満ちた教会であった。ユダヤ人が来て、この教会を擾乱しようとしたが、信者は皆な堅固であって敵の乗ずるいとまもなく、ついに敵であるユダヤ人は、悔改するに至った。迫害中にあって勝利を得た教会であった。ゆえに主は、少しもお責めにならなかった。これが模範的な教会である。「聖きもの」キリストのことであって...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第三章(2)

    サルデス教会 1~6〔1〕「サルデス」残りの者、当時サルデス教会は、霊的生命が充実していて、生きた教会である言われて名高った。しかし、神の前においては、それは外的な活動のみであって、内実の生命がなかった。時代的に理解すればルーテル以来の改革時代にあたる。その改革運動によって新教の旗色鮮明となったが、これはただ一時的であって、その実が挙らず、カトリックは漸次にその勢力を恢復して来た。「七の霊」教会内の...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第三章(1)

    分解一、サルデスの教会に贈る書 1~6 イ 七つの霊と七つの星を持つキリスト 1上 ロ 責められる点 1下 ハ 勧告と警戒 2~3 ニ 潔い数人 4 ホ 勝ちを得る者の報奨 5 へ 勧め 6二、ヒラデルヒア教会に贈る書 7~13 イ 聖く誠にして鍵を持つキリスト 7 ロ 長所 8 ハ 勝利と保護の約束 9~10 ニ 警戒 11 ホ 勝利を得る者の報奨 12 へ 勧告 13三、ラオデキヤ教会に贈る書 14~22 イ アァメン...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第二章(7)

    〔24〕「この他テアテラ人」イゼベルの教えをうけいれない人々。「サタンの奥義」前にイゼベルの教えと呼んだが、今はサタンの奥義といわれる。ある人々のように哲学の理論をもって教えるものは、自ら神の奥義を知っていると称するが、これはサタンの奥義に通じているのである。「他の任を汝らに負わせじ」重荷、すなわち主の福音以外の命令から来る重荷をいう。〔25〕「持つところの者」初め単純に信じたところの福音を持つ者。「...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第二章(6)

    テアテラの教会 18~28〔18〕女性の圧制の意である。この教会の起源は、ヨーロッパ最初の悔改者ルデヤの出身であって、教会が女より始まったように(使一六14)、女が教会内に勢力をもつものとなり、最初は善い勢力であったが、後になって悪しき勢力となるに至った。「目は炎の如く」輝き探る恐ろしい力ある眼(23対照)。「神の子」キリストは、神の子として現われその権能は27の如くであった(詩二7、9参照)。「その足は真鍮の...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第二章(5)

    ペルガモ教会に送る書 12~17〔12〕「ペルガモ」大きな図書館のあることで有名である。ゆえに知識の進歩したところである。またエスカラビヤ(蛇の像)となり偶像のあることでも有名である。一方においては、知識、他方においては偶像の勢力の盛大なことによって、信者は非常に迫害されたと言われている。ペルガモという字義は、塔という意であって、これは傲慢を示し、また婚姻という意味もあって、これは更に姦淫をも示している...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第二章(4)

    スミルナ教会に送る書 8~11〔8〕「スミルナ」エペソからわずかに離れた地にある小都会。この名の字義は没薬と言う意味である。当時のこの教会は、迫害中にあって、大いに苦しんでいたので、主の責められるところが少しもなく、七つの教会中このようなものは、他にフィラデルフィアあるのみであった。「いや先、いや果てのもの」永遠にあるものの意。「死にてまた生きたるもの」この世で一度死んだ者、死に勝たれて今現に生きてお...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第二章(3)

    〔5〕聖霊の厳かな勧告と警戒。「いずこより落ちしかを思い」どのように高い所からどのように低いところに落ちたか、以前には恵みの高い標準にあったのが、今は低いところに落ちたと諭している。「思い」その原因を考えて、あることのため、ある人のために誘われて、神の恵みから落たのではないかを思い出すことである。「初めのわざを行へ」ただ表面ばかりの活動ではなく愛から出る働きをなすべきこと。パウロがテサロニケ前一3に...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第二章(2)

    エペソ教会に送る書 1~7〔1〕「エペソ」当時非常に盛大な都会であってアジアの光、アジア第一の都会と呼ばれていた。パウロは、この地の伝道に力を尽しこの付近で三年間働いた(使徒二〇31)。その後テモテが、この教会の監督となった。「使者」教会全体を代表する伝道者。「七つの星を執り、また七つの金の灯台の間を歩む者」これはエペソ教会に対して現われなさったキリストの御姿である。「右の手に七つの星を執り」執りとは...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第二章(1)

    分解一、エペソ教会に送る書 1~7 イ 七つの教会の間を歩むキリスト 1 ロ エペソ教会の長所 2~3 ハ 責められる点 4 ニ 悔改のすすめと警告 5 ホ 是認された点 6 へ 生命の木の約束 7二、スミルナ教会に送る書 8~11 イ 死んで、生き返ったキリスト 8 ロ スミルナ教会の長所 9 ハ 迫害の預言と奨励 10 ニ 報奨 11三、ペルガモ教会に送る書 12~17 イ 両刃の剣をもつキリスト 12 ロ 長所 13...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(7)

    〔17〕かかる姿でキリストが現われたときに、ヨハネは、死んだ者のようになった(ダニエル十7、8、16、17参照)。イザヤが、神を見たときのようである。このように血肉が全く死んだときに、キリストは右の手をあてて彼を甦らせなさった。このようにして彼は、初めて生きたキリストを見たのである。黙示を受けようとするためには、このような態度を通らなければならない。倒れて後に起されるのである(民二四4)。「我はいや先なり...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(6)

    〔12〕「声を見んとて」声を聞こうとしたのはもちろんのこと、その声を発している者をなんとか見ようとしたのである。このように記者の目と耳とが、主に向って働いたことは、その全注意力を主に注いだことをあらわしている。主は、そのような態度を、私たちにも要求しておられる。「金の七つの灯台」これは、教会のことである。教会は、このような者として置かれたのである。「金」は、神性を示す。「灯台」は、光を示す。この世の...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(5)

    〔9〕記者自身を現わす。「汝らの兄弟」読者に対してご自身を兄弟として現わしている。自己を卑しくして、私たちと同じ位置におかれた。これが彼の謙遜である。「なんじらと患難を共にし」まことに親密な関係である。快楽ではなく、患難を共にしたもの、イエス・キリストの国および、その忍耐を共にする者イエス・キリストの国は、霊的な王国である。この悪魔の支配する世界にあって、あなたがたも、私もイエス・キリストの国に共...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(4)

    〔7〕「見よ、彼は雲に乗って来る」栄光をもって現れ給う時にこのようになる。雲は、神の栄光のあるところに伴う。キリストの地上再臨を示す(使徒一9、11)。他の事を説くのではなく、再臨のキリストを説くのであると。先ず第一の幕が開けられる、これが本書の特色である。再臨は、第一降臨の時と異なり、栄光と権威とをもって下られる。「すべての目かれを見ん」キリストは、このとき、全世界のものに見られ、かつ知られるように...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(3)

    〔4〕「七つの教会」七の数が完全数を現わし、世界にある全教会を代表している。どのような種類のものもみなこの中に含まれているので、これはいかなる信者にも適応する。黙示は、アジアの七つの教会に与えられた書であって、また全世界の教会にも与えられた書である。「今いまし、昔いまし、後います者」、父なる神、ありてある主、時代のどうであるかにかかわらず、いつも存在し給う神を言う。「七つの霊」全き霊、父の前にあっ...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(2)

    略解〔1〕「これイエス・キリストの黙示」第一に、キリスト自らがその事実を示し給うだけでなく、彼ご自身をも現わし給うたことを意味し、第二に、彼より出たところの事柄についての黙示を意味している。「彼をして」キリストをしての意。「迅速に起るべきこと」黙示録に記されたことは、いつ頃起るべきかが判然としないものではなく、神の前には迅速に起るべきことであって、その僕たちに知らされないことの決してない事柄である...

  • 「ヨハネ黙示録略解」第一章(1)

    分解一 緒言 1~3二 七つの教会に対する挨拶 4~6三 再臨に関する預言 7~8四 黙示を受けたときの実状 9~11五 キリストの顕現 12~16六 ヨハネの恐怖と告示 17~20この章は、敬虔の念をもって黙示についての鍵を握るべきところである。それゆえ、私たちはヨハネと同じところに立って、霊によって解釈しなければ、この黙示を語ることはできない。本書は、ヨハネ黙示録としないで、イエス・キリストの黙示録と名付けた...

  • 「ヨハネ黙示録略解」緒言(2)

    本書に現われたキリストの聖名 一 神 一8 二 人 同13 三 十字架に釘づけられた者 同5 四 復活して生きている者 同5、18 五 大預言者(忠信なる証人) 同5 六 祭司の長 同13 七 審判者 同13 八 摂理の主 五5 九 聖徒の王、教会の首 一13、16 十 再臨の主 同7 十一 天国の光と栄 二一23 十二 万国の王 一5 十三 イスラエルの王 五5 十四 その民を愛して潔める者 一5 十五 罪人を愛する...

  • 「ヨハネ黙示録略解」緒言(1)

    一、記者 使徒ヨハネ二、時 紀元九六年あるいは九七年三、場所 パトモス島であろう。四、時機ヨハネは、長い間エルサレムに住んでいたが、後にエペソに移り、そこを中心に小アジアの諸教会を監督したものと思われる。当時彼は、迫害のためにパトモスの島へ流されていたが(一9)、主イエスはそこでこの驚くべき黙示を彼にさずけ、彼を通して私たちに光を与えられたのである。ヨハネは、その後放免されてエペソに帰り、そこで紀...

  • 「ヨハネ黙示録略解」目次

    ヨハネ黙示録略解笹尾鉄三郎目次諸言第一章第二章第三章第四章第五章第六章第七章第八章第九章第十章第一一章第一二章第一三章第一四章第一五章第一六章第一七章第一八章第一九章第二〇章第二一章第二二章オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (16) 完

    付録:イエス復活後現われしこと十度一 マグダラのマリヤに現われる(ルカ一六9、ヨハネ二〇1~18)二 他の婦人達に現われる(マタイ二八9)三 二人の弟子に現われる エマオにて(ルカ二四13~32)四 ペテロに現われる(コリント前十五5、ルカ二四33~34)五 十人の弟子に現われる(ルカ二四36~43、ヨハネ二十19~25)六 十一人の弟子に現われる(トマス加わる)(ヨハネ二十26~29)七 七人の弟子に現われる ガリラヤの...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (15)

    昇天(マルコ一六19~20)場所 ベタニヤ〔19〕天に上げられて神の右の座につかれたキリストを我らは明かに知ったであろうか。ある人はキリストを知るのに十字架までで止まるが、しかしキリスト伝の特色は甦えりと昇天があることである。ああ、この主を覚えたい。〔20〕昇天の主が力を合せて共に働かれる伝道である。ハレルヤ。〔ルカ二四50~53〕祈祷は彼らにとってどんなに幸いであったであろうか。穴のある手をあげて祝された時...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (14)

    ガリラヤ山における最後の顕現(マタイ二八16~20)〔16〕幸いな山である。我らはこの山で主を拝したいものである。〔17〕「されど疑える者もありき」ペンテコステまでは主はどんなに懇ろに御自身を示されても、なお弟子たちの誰かは疑った。実に悲しいことである。〔18〕「イエス進み出て」特別に注意をひいて御自身を王の王、主の主として示されたのである(詩二6~11)。この王を畏れて喜びたいものである。〔19〕「この故に……...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (13)

    〔18〕羊を托された主は、次に我ら牧者たる者に一つの覚悟を求められるのである。「汝いとけなき時」信仰の幼稚な時は、自分の心のままに遊んで歩く生涯で、彼らはペンテコステの時まではこの生涯であった。しかし「老いては」成長したら十字架を負う生涯に入らねばならない(ヨハネ一○11~15)。死に至るまで忠実なことである。〔19〕「如何なる死にて神を崇めんかを示せるなり」主にこれが見えていた(言伝えによれば、ペテロは...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (12)

    〔12〕「来りて食せよ」幸いである。前に「おさなご共よ、食物あるや」との主の問に対して彼らは「無し」と答えた。彼らは自分に食物がないのだから、もちろん人を養い得なかった。しかし今度は主が魚をたくさんとらせて、「来りて食せよ」と言われたのである。ああ、この甦えりの主のご馳走を得たいものである。〔13〕弟子たちは先に五千人あるいは四千人を養われた主を思い出したことだろう。この時彼らは霊肉共に大いに飢えてい...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (11)

    テベリヤ湖にて七人の弟子に現われる(ヨハネ二一1~24)一~一一 罪人を漁ること一二~一八 信者を飼うこと一九~二一 十字架を負うこと二二~二五 再臨を待ち望むこと(バックストン氏の分解による)これは我らの全生涯を示している。故に、これをしっかりと心に入れれば成功である。〔1~2〕ここは七人である。「ペテロ、トマス、ゼベダイの子等」みな弟子として失敗した者ばかりである。〔3〕人情としてはさもあろうが、実...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (10)

    十一の弟子に現われる(ヨハネ二〇24~49)(トマスのいる時)〔24~25〕「十二の弟子」とあるのは英語のthe twelve(ザツエルブ)であって弟子たちということの通称である。先にトマスは共にいなかった。どうもとかく理屈を知ることを好み、見なければ信じないような者は栄えを見ないのである。トマスは他の弟子たちが確かに主を見たという時にも、なお承知しなかった。トマスは多分見なければまた触らなければ信じない、との大気...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (9)

    ルカ二四36~43〔36〕この日は実に多事であって、三つ重って甦えりの知らせがあった。〔37〕彼らは信ずべきであるのに、不信仰の故に疑っていたのである。弟子たちの疑いと主の御言葉とは、ちょうど舟で嵐に会った時のようである。〔38〕主は不信を嘆かれる。「何ぞ心に疑い起るや」この疑いとは「理屈を言う」ことである。〔39〕主は「我なるを知れ」と仰せられた。不信仰は主御自身を認める代りに、主以外のものを見るのである。...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (8)

    キリスト、十人の弟子に現われる(ヨハネ二〇19~23)場所 エルサレム(トマスのいない時)〔19〕「一週の始めの日」日曜日である。一四章に主は弟子たちに「憂うるなかれ」と、また一六章には「恐るるなかれ」とくれぐれも教えられたが、弟子たちはやはり恐れていた。しかも戸を閉じてふるえていたのである。人間の大胆の真相はこんなものである。このように恐れていた時に、主は御自身を現わされた。この時戸が閉じてあって入る...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (7)

    〔28~29〕彼らはこの聖書講義を聞いて、何とも言えない光を受けたように見える。「主はゆき過ぎんとするさま」をなし給うたが、彼らは主を引き止めた。これは熱心に止めたという語であるという。もし他のことを思っていたら講義を聴くにしても身が入らず、早く終ることを願うものである。しかし彼らは「日も暮れかかっていますから、一緒にお泊り下さい」と熱心に引きとめた。彼らの心中はただ淋しかったのである。ちょうど夕暮に...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (6)

    イエス、二人の弟子に現われる(ルカ二四13~35)場所 エマオ〔13~14〕一人の名はクレオパであって、他の一人は不明である。多分この人々はエマオに住んでいたらしい。過越の祭が終ったので、エルサレムから帰るその途中であったろう。二人共語り合い、また論じ合っていた。その時イエスが近づかれたのである。〔15〕彼らが論じていたのは一七節で明かである。彼らは議論したのではなくて、主をしのんで過去の恵みを語り、また十...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (5)

    番兵の報告(マタイ二八11~15)これもひとつの甦えりの使者である。死んだように恐れた番兵も、甦えりの報告をしたのである。しかしこれは死んだ報告である。彼らはこれを自分のものとして信じていなかったから、この報告に何の命もなかった。だから祭司、学者らが金をもって欺く時、たちまちその方に組してしまった。ああ、甦えりの場所にいながらも、主の甦えりを否定するものがある。ここに悲しいことは、祭司、長老が異邦人の...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (4)

    マグダラのマリヤに現われる(マルコ一六9~11)場所 不明聖い人々あるいは偉い人々でなく、以前に七つの悪鬼につかれていた者――罪人――に主は真先きにあらわれ給うた。甦えりの主にお目にかかるのは、身分の如何によらないことを知る。彼女の砕けた心に対して主は第一に現れ給うたのである。我らも自らの罪を深く覚え、罪多いところに増し加わる恵みに感じて主を見上げる時、甦えりの主は現われ給うのである。〔10〕他の婦人たち...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (3)

    キリストの甦えり(マタイ二八2~4)〔2〕「誰が……」という女たちの願いのこたえが前にあった。人間がどんな大石を持ってきても、神の力はこれを全く取り除けてその上に座し給うのである。ああ、信ずることである。〔3〕神から来た者は実に輝いて、「雪の如く白く」純潔である。変貌の主もそうであった。栄えときよさは天国の特色である。〔4〕死んだキリストは甦えり、生きて番をしていた兵卒は死んだ者のようになった。天使のみ...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (2)

    〔3〕これは墓に来る途中の言葉であろう。彼らの愛のしるしである香料を主のなきがらに塗ろうと思ったが、墓前には大石が置かれてある。これが大きな妨げであった。今日も信者ならば主の愛を知り、自らも真に主を愛するけれど、悲しいことには主と自分との間に大きな石がある。石とは何か。これを霊的に味わえば場合によって色々あるが、第一は内なる罪、石の心である。これは主との交わりを絶つものである。また何かの性癖、何か...

  • 「キリスト伝講義」復活後の四十日 (1)

    婦人たち墓に行く(マルコ一六1~4)場所 エルサレム〔1〕婦人たちのことは続いて記されている。彼らは十字架にも墓にも最後まで主につき従っていたのである。安息日は律法に従って休んだが、安息日が過ぎるのを待って、この三人の婦人は香料を携えて行ったのである。実にこの心は美しいではないか。彼らは富者ではなかったであろうが、「イエスに塗らんとて」持って行ったのである。マリヤのナルドの香油と同様である。理屈を言...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (27)

    イエスの墓に番兵置かれる(マタイ二七62~66)〔62~63〕彼らの心の中に何とも言えぬ恐れがあったのである。これが罪人の特色である。悪人は将来を思って心配し、聖霊は望みに輝いて喜ぶのである。〔65〕ピラトはどんどん彼らのなすままにさせた。神はサタンが思う通りにすることを摂理の中に許し給うのである。彼らの七重八重の囲いをも主は後に破って、彼の栄えをあらわされたのである。今もそのようになることを記憶したい。神...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (26)

    〔マタイ二七57~61〕〔57〕「富める人きたりてピラトに往き、イエスの屍(しかばね)を請しかば」イザヤ五三9の予言である。〔60〕「大いなる石を墓の門に転(まろば)して去る」ヨセフはいたずら者を気づかってこうしたのである。〔61〕マリヤらは墓に向かって座っていた。ああ、彼らの愛……。〔ルカ二三50~〕〔50〕「善かつ義なる人」悔改めの実を結んでいる人は、世の中に光となっているのを見るのである。〔51〕彼はこの時か...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (25)

    葬り(マルコ一五42~47)〔42〕過越の祭は、翌土曜日から始まるのであって、金曜日はそのための備え日であった。「安息日の前の日」キリストが金曜日に葬られた故、土曜日の安息日があったのである。安息の備えのためにキリストはほふられ給うたのである。キリストの死無しには我らに安息無く、苦しみのみであったろう。実に過越の小羊はほふられ給うたのだ。〔43〕「議員」サソヒドリン(七十人議会)――ユダヤの宗教裁判――の一議...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (24)

    〔ヨハネ一九31~〕〔31〕申命二一22~23、キリストを殺して何の儀式であろうか。〔32〕当時足を折るのはその死を早めるためであって、太い棒で足を打って折ったのである。ある者はキリストの甦えりを否定するために、キリストは本当に死んだのではないというが、主は本当に死に給うたことは明かである。〔33〕ついに折らなかったのは、予言の成就であって驚くべきことと言わねばならない。〔34〕「あばらを突き……」なお間違いの起...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (23)

    キリストの死と当時の状態(マタイ二七50~56)〔50〕大勝利、これについてはすでに述べた。〔51〕「殿(みや)の幕……裂けて……」キリストの死が我らにとって如何にありがたいことであるか。この神殿の幕は非常に厳かなものであって、聖い神との間をはっきり隔てており、神と人とは交わりが出来ない。もし無理でも近づこうものなら殺されるという厳格な隔てであった。ところが、この幕が上より裂けたのである。「上より」人間は下か...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (22) 十字架上の七語(7)

    △第七、ルカ二三46「父よ、我が霊(たましい)を汝の手に託く(あずく)」ああ、大勝利である。キリストは今まで贖いのためにいろいろ苦しまれたが、事終りぬ、と成就した時に勝利が来たのである。人は死ぬ時に決して大声を出せるものではない。主は肉体としては苦しんで全く疲れ給うたのに、大声を出されたとは不思議なことである。しかしこれはキリストが神の子であるからである。主は「父よ」と言い給うた。先には「我が神」と...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (21) 十字架上の七語(6)

    △第六、ヨハネ一九30「事終りぬ」我らの救は、成就した御業である。神と共同して、腕をふるって築き上げるようなことではない。事終りぬ、というこの基礎に立ったのである。事情はどうであれ、これを知って感謝すべきである。主は神が我らに要求されるすべてのことをなしとげられたのである。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (20) 十字架上の七語(5)

    △第五、ヨハネ一九28「我かわく」三十三年間、いろいろなことをなさり、すでにヨハネ一七章に「汝の命(めい)をなせり」と言われた主は、十字架の上でもなすべきこと――悪人のための懇求、母を弟子に托すこと、強盗を悔改めさせること――をなし、苦痛の杯を飲みつくして、もはや使命を完全に果したことを知って「我かわく」と言われたのだ。肉体としても六時間血を流された主は、焼けるほどにかわきを覚えられたはずである。さらに...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (19) 十字架上の七語(4)

    △第四、マタイ二七45~49「わが神わが神なんぞ我をすて給うや」「その地あまねく暗やみとなる」これは罪の結果のあらわれたことである。この時は日蝕ではなかった。これは学者には不可解なことであって、太陽を創造された神の業なのである。神の子の死に際して、太陽が光を失うのはむしろ当然のことではないか。もちろん神においては、たとえキリストが死んでも太陽を光らせ得るのであるが、罪の結果は驚くべきことを実際に現わさ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (18) 十字架上の七語(3)

    △第三、ルカ二三39~43「誠に我なんじに告げん、今日なんじは我とともにパラダイスにおるべし」主の愛は第一に罪人のため、第二に信者のため、第三に砕けた魂にむかってあらわされた。ここに世界のよい写真が示されている。真中に主の十字架が立ち、両側に罪人が十字架についている(その一方は罪を悟った者、他方はそうでない者)。十字架は罪の模型である。世は罪に満ちている。だから皆殺されるべきものである。全世界と言わな...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (17) 十字架上の七語(2)

    △第二、ヨハネ一九25~27母に言いけるは「女よ、これ汝の子なり」また弟子に言いけるは「これ汝の母なり」十字架はしばしば絵に見るような高いものではない。そばに立って顔を近づけて話すことが出来るほどのものであった。マリヤは主の十字架のかたわらに立っていた。彼女の心はいかばかりであったろうか。先には女の中で最も幸いであった彼女は(ルカ一42)今最も悲しい目にあったのである(ルカ二35)。我らも自らのうちにキリ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (16) 十字架上の七語(1)

    十字架上の七語△第一、ルカ二三33~34「父よ彼等を赦し給え、そのなすところを知らざるが故なり」三節においてイエスを十字架につけたその釘は主のおからだをさしたのである。今や彼らの罪は、その絶頂に達した。この時、発せられたのがこのお言葉である。あたかも、水が一杯の袋に穴をあけたように、主の内に満ち満ちた愛は――敵を愛する愛――溢れ出たのである。群衆、祭司、学者らがイエスをねたみ、憎み、殺そうとして十字架につ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (15)

    十字架(ルカ二三32~38)〔32~33〕キリストは人を殺した罪人と一緒に数えられ、しかも真中に置かれて、その中の第一の者とされた。キリストは世人のあらゆる罪を引き受けられたため、神と人との前に最大の罪人とされたのである。「クラニオン」とは、カルバリ、ゴルゴダなどと同意で、共にされこうべという意味がある。この山をモリヤ山であるという人もある。カルバリとはラテン語、ゴルゴダとはヘブル語、クラニオンとはギリシ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (14)

    クレネのシモン、十字架を負う(ルカ二三26~31)〔26〕ヨハネ一九17を参照。当時十字架刑に処せられる罪人は、自分でその十字架を負って刑場に至るまで、遠路を衆人の前をひかれて行く例であった。ゴルゴダは街のはずれであったので、罪人はそこまで恥をさらしながら行ったのである。主イエスもまた同じ目にあわされたのである。主は前夜からあらゆる苦痛を受け、打たれ、嘲弄され給うた――ゲッセマネにおいても大いなる心痛を味わ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (13)

    〔12〕ピラトは充分に光を得ていたのである。だから彼はなんとかして主を赦そうとしたのであるが、勇気がなかったために出来なかったのである。「もしこれを赦さばカイザルに忠臣ならず」これはサタンの用語である。この一語にピラトは閉口したのである。我らにもこの威嚇がある。しかし決してサタンに忠実であってはならない。〔13〕「審きの座」これは重罪を宣告する所である。ピラトが「審きの座に自ら坐」したのは、もはや失敗...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (12)

    イエス、十字架につけられるために渡される(ヨハネ一九1~16)〔1〕「むち打つ」ユダヤのむちは実に残酷なものであって、先端に鉄または骨片をつけた皮ひもを結んだものであって、受刑者を裸にしてその背をむち打つので、そのために肉は裂け、血は流れ、しばしばそのために死ぬこともあるという。キリストはこのむちを受けられたのである。「そのうたれしきずによりて我ら癒されたり」(イザヤ五三5~)。その一つひとつは我らの...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (11)

    〔マルコ一五6~14〕7バラバは暴徒であり、殺人者であった。9しかしキリストはユダヤ人の王ではないか。〔ルカ二三17~23〕17必ず18いっせいに19あの暴動を起した者であること。23「彼等はげしく声をたてて、彼を十字架につけんと言いつのれり、ついに彼らと祭司の長の声勝ちたり」実に意志強固である。ピラトの正義の声は打ち消され、罪人の叫びは勝った。妻の声も良心のささやきも消されて、罪人の声に負けたのである。この世の...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (10)

    ピラト、キリストを赦そうとする(マタイ二七15~23)〔15〕「民の願いにまかせ」全く自由意志である。これは非常に責任のあることである。これは特別の恩典である。神の側としては、まさに愛の祭りである。しかしこれを乱用することによって、実に恐ろしい結果となるのである。〔16〕「バラバ」ここには名高き囚人とある。〔17〕「バラバかイエスか」からすかうぐいすかと言うのと同じである。人を殺した盗賊か、世を救う神の子か...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (9)

    ヘロデのもとに送られる(ルカ二三6~12)〔6~7〕当時ユダヤの国は四つの地区に分れていて、大名のような者の支配を受けていたのである。〔8~9〕「イエスを見て甚だ喜べり」弟子たちもそうであった(マタイ二八8、ヨハネ二〇20)。しかしヘロデのこの時の喜びは、実に哀れなものであった。彼はただの物好きで、何か手品師でも雇ってきたような気分でいたのである。救を望まない者の喜びとはこんなものである。ここで多くの問が出...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (8)

    ピラトに訴えられる(マタイ二七11~14)〔11~14〕イエスは口を開かれた時には明かに王であることを示されたが、その他は全く沈黙を守られた。大祭司は、神の子キリストなのかと問い、ピラトは王であるかと尋ねた。主はその大事な質問には明白に答えられ、それを定められた。「ピラトが奇(あやし)とするまで」黙されたとは実に大いなる勇気である。我らもこのイエスをわがものとして握りたい。〔マルコ一五2~5〕〔3〕祭司は罪...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (7)

    ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (6)

    イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (5)

    イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (4)

    ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (3)

    キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (2)

    〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (1)

    イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (60)

    マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (59)

    ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (58) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(8)

    〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (57) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(7)

    〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (56) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(6)

    〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (55) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(5)

    〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (54) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(4)

    〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (53) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(3)

    〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (52) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(2)

    〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...

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