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  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(13)

    五、今は五人の賢い処女のように、心の器に聖霊の油を得て蓄えるべき時である(マタイ二五・一~十三)。さもなければ、五人の愚かな処女のように悲しみと絶望しか残らないだろう。今はまた、真の安息日のためにマナを集めなければならない。さもなければ、悲しみと禍しか残らないであろう(出エジプト十六・十五、二七)。『だから、あなたたちの逃げるのが冬や安息日にならないよう祈れ』。「冬」とは大いなる悩みの日、あるいは...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(12)

    三、野の獣、稲妻、風、光、その他の自然の力を制御し利用することは大したことではない。しかし、この世とサタンと自己、そしてあらゆる情欲を制御することは、真にきわめて重大かつ必要なことである。祈りの生活を送る者たちにのみ、わたしは敵のあらゆる力に打ち勝つ力を与える(ルカ十・十七、二〇)。そのため、彼らはこの世に生きていながらも、わたしと共に天上にとどまる(エペソ二・六)。そして、サタンは下にいて、彼ら...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(11)

    三節一、祈ることは、いわばわたしと言葉を交わすことであり、それゆえ、わたしと交わり、わたしのうちにとどまることによって、わたしに似た者になることである。ある種の昆虫は草や緑の葉を食べ、それらの中で生きることで、それらと似た色になる。また、白い雪の中に住む北極グマも、同じ雪のような白さを持ち、ベンガル虎も、その住まいである葦の模様を皮膚に帯びている。これと同じように、祈りによってわたしと交わる者たち...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(10)

    九、母親が与える栄養は、幼子がある程度の努力をしなければ得られない仕組みになっている。同じように、わたしのふところに抱かれているわたしの子供たちも、求めなければ、魂を救うことのできる霊の乳を得られない。そして、子供が教えられなくても本能的に自分の食物はどこでどのように得られるのかを知っているように、御霊から生まれた者たちもまた、この世の哲学や知恵によってではなく、霊的な本能によって、どのように祈り...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(9)

    七、この世は蜃気楼のようなものであり、真理を求める者は渇いた魂を満たす何かを見つけようと探し始めるが、出会うのは失望と絶望だけである。命の水は人工の水槽やひび割れた水がめの中には見つからない。しかし、純粋な心で祈りのうちにわたしに近づく者は、生ける水の源であるわたしから満足と活力と永遠の命を得ることができる(イザヤ五五・一、エレミヤ二・十三、黙示録二二・十七)。八、ある女が山道を旅しており、腕に子...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(8)

    五、水と石油はどちらも地から出るものであり、似ていて同じもののようにすら思われるかもしれないが、その性質と目的においては正反対である。というのも、一方は火を消し、他方は火を燃え上がらせるからである。同じように、この世とその宝、そして心とその神への渇望も、神の創造されたものである。しかし、心をこの世の富、驕り、誉れによって満たそうとする試みは、石油で火を消そうとするのと同じ結果になる。心は神のうちに...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(7)

    三、良い実や花をつける木や低木でも、手入れしなければ、やがて衰え、野生の状態に戻ってしまう。同じように、信者も、祈りと霊の命を無視し、わたしのうちにとどまることをやめるなら、その不注意さのゆえに祝福された状態から落ち、再び昔の罪深い生き方に沈んで失われることになる。四、池や湖のほとりにじっと佇んでいる鶴を見ると、その姿から神の栄光や水質の素晴らしさについて思いを馳せているのだろうと想像するかもしれ...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(6)

    二節一、祈るということは、祈らなければ神は何も与えてくださらないとか、私たちの必要をご存じないということを意味するものではない。祈りには大きな利点がある。それは、祈りの姿勢においてこそ、魂は祝福の与え主と、この御方が授けたいと願っておられる祝福とを最もよく受け取れるようになるということである。そのため、使徒たちの上に聖霊の満ち溢れが注がれたのは、最初の日ではなく、十日間の特別な準備の後のことだった...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(5)

    九、祈りの生活をやめることによって霊の命が衰え始めると、本来有益であるはずのこの世のものは、かえって有害で破壊的なものとなる。太陽はその光と熱によって、あらゆる植物を生かし、繁らせるが、それらを枯らし、死に至らせもする。空気もまた、すべての生き物に命と活力を与えるが、それ自体が腐敗の原因ともなる。ゆえに、「目を覚まして祈れ」。十、私たちはこの世にあっても、この世のものではない者として生きるべきであ...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(4)

    七、船のあるべき場所は当然ながら水中である。だが、水が船の中に流れ込むことは不適切であり危険である。同じように、人がこの世に住まいを持つことは、自分自身にとっても他者にとっても正しく良いことである。なぜなら、自らを浮かばせておくことで、他の人々が自分と共に命の港に辿り着けるよう助けることができるからである。しかし、この世がその人の心の中に侵入することは死と滅びを意味する。それゆえ、祈る人は常にその...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(3)

    四、魚は一生を海の塩水の中で過ごすが、塩辛くなることはない。なぜなら、彼らの中に命があるからである。同じように、祈る人は、罪に汚れたこの世に生きなければならないが、祈りによってその命が保たれているので、罪の汚れから自由でいられるのである。五、海の塩水が太陽の熱い光によって引き上げられ、次第に雲の形を取り、甘く爽やかな水となって、地上に雨として降り注ぐように(というのも、海水は上昇する際に塩分と苦味...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(2)

    二、祈りとは、いわば聖霊を吸い込むことであり、神は祈る者の命に聖霊を注ぎ込まれるので、彼らは「生ける魂」となる(創世記二・七、ヨハネ二〇・二二)。彼らは決して死ぬことはない。というのも、聖霊が祈りを通して彼らの霊的な肺にご自身を注ぎ込み、彼らの霊を健康と活力と永遠の命で満たすからである。愛である神は、すべての人に霊的命と物質的命の両方に必要なものを無代価で与えておられる。しかし、神は救いと聖霊をす...

  • 「主の御足下にて」 第三章 祈り(1)

    一節弟子――しばしばこのような質問を受けます、「神は私たちの必要を十分にご存じであり、善人だけでなく悪人に対しても、最善の方法で満たす方法をご存じです。では、どうして私たちはそれらについて神に祈らなければならないのでしょう?私たちの必要が物質的なものであれ霊的なものであれ、私たちは祈りによって神の御心を変えることができるのでしょうか?」と。主―― 一、そのような質問をする人は、祈りとは何かを理解してい...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(13)

    十、人の生来の善良さは真の心の平安を与えることも、救いや永遠の命を確信させることもできない、これを経験から学んだ者は多い。永遠の命を求めてわたしのもとに来たあの若者がその好例である。わたしに関する彼の最初の考えは間違っていた、今日の世の賢者たちやその追従者たちの考えと同じようにである。彼はわたしのことを、白く塗られた墓のような教師たち――その生活の中に真の善良さが一かけらもない者たち――の一人だと考え...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(12)

    九、人は自らの努力と善行によって救いを得られる、というこの言説は、人が新たに生まれていないかぎり、愚かで不条理なものである。世の支配者たちや道徳の教師たちは「善行によって善人になれ」と言うが、わたしは言う、「善行をする前に、まず自らが善人になれ」と。新しい善なる命に入ったとき、善行が自然に生じるのである。苦い木でも実を結び続ければついには甘くなるなどと言うのは、愚か者だけである。実際、苦い木は甘い...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(11)

    七、サタンは巧妙な言葉と誘惑で人々を引き寄せ、呑み込んでしまう。まるで蛇がその輝く眼で小鳥を魅了し、餌食にするのと同じである。しかし、わたしを信じる者たちには、わたしはあの古き蛇と、この魂を滅ぼす世の誘惑からの解放を与える。わたしは彼らを自由にする。鳥が地の重力に易々と逆らって、開かれた天空を自由に飛び回るように、彼らは祈りの翼に乗り、わたしの愛という甘美な引力に引かれて、ついには安らぎの住まい、...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(10)

    六、多くの人々にとって人生は危険に満ちており、彼らは小川に張り出した木の枝にある蜂の巣を見つけた猟師のようなものである。その猟師は木に登り、蜜を味わい始めたが、自分が死の危険にさらされていることには全く気づいていなかった。というのも、彼の足元の小川には、口を開けたワニがいて、彼を飲み込もうと待ち構えており、木の根元には狼の群れが集まり、彼が降りてくるのを待っていたからである。さらに悪いことに、彼が...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(9)

    五、罪の赦しは完全な救いを意味するものではない。なぜなら、救いは罪からの完全な解放によってのみ得られるからである。というのも、たとえ罪に対する完全な赦しを受けていたとしても、罪という病によって死ぬことがありえるからだ。例えば、ある人が長年の病のために脳に障害を抱えていて、そのせいで他人を襲って殺してしまった。その人に死刑判決が下されたとき、親族が事情を説明して慈悲を求めたので、彼は殺人の罪に対する...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(8)

    三、一人の若者が崖から落ち、重傷を負い、多量の出血で瀕死の状態になった。父親が医者の処へ連れて行くと、医者は言った、「生命は血にある、この若者の血は尽きかけている。しかしだれかが自らの命を犠牲にするならば、回復するかもしれない。そうでなければ、死ぬであろう」と。息子への愛で溢れていた父親は、自らの血を差し出し、そしてその血が若者の血管に注入されると、若者は回復した。人は聖き高嶺(マウントオブホーリ...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(7)

    二節弟子――主よ、近頃、一部の学者やその信奉者たちは、あなたの贖罪と血による贖いを無意味で無駄なものと考え、キリストは私たちの霊的生活のための偉大な教師・模範にすぎず、救いと永遠の幸福は自分自身の努力と善行にかかっている、と言っています。主―― 一、霊的・宗教的思想は、頭脳よりもむしろ心と結びついていることを決して忘れてはならない。心は神の宮であり、心が神の臨在で満たされるとき、頭脳もまた光に照らされ...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(6)

    十、罪は妄想や想像上のものではない。霊的暗黒の状態の中で、人が邪悪な意志を働かせることによって、邪悪の種が生じ、それが永遠に人の霊に感染して遂には滅ぼしてしまう――まるで天然痘が短時間で人の美しさを永遠に損ない、忌まわしいほど醜くしてしまうように。神は悪を創造されなかったように、病気や肉体の痛みも創造されなかった。それらは人の不従順の自然な結果にすぎない。痛みや病気もまた想像の産物ではなく、罪という...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(5)

    七、この世の王や政府に反逆する者は、他国に逃れることで身を守ることができるかもしれない。しかし、神に反逆する者は、いったいどこに逃れて安全を得ることができるのか。彼がどこに行こうとも、たとえ天であろうと地獄であろうと、神は常にそこにおられる(詩篇一三九・七、八)。彼が安全を得る道は、悔い改めてその主に従うことの中にしかない。八、アダムとエバにとって、いちじくの葉はあまりにも貧弱な覆いであったため、...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(4)

    六、獣や鳥が長い間人間と共に過ごした後、自分の種族のもとへ戻ることがある。しかし、彼らは歓迎されるのではなく、仲間たちに攻撃され、命を落とすことすらある。それは、長く人間と暮らして馴染んできたことで、その習慣や生き方がすっかり変わってしまったからである。動物が人間の影響下にある同族をその社会に受け入れないというのなら、天の聖徒や天使は、邪悪な人間と親密な関係を持って生きてきた罪人たちをどうして歓迎...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(3)

    三、人々は太陽や月の黒点や蝕といった欠陥を見つけることには熱心だが、罪の黒点や蝕には注意を払わない。このことから、人々の持つ光が闇であるとき、人々の中にある闇がどれほど深いかがわかる(マタイ六・二三)。ちょうど癩病人の身体が病によって麻痺し、感覚を失うように、人の心と精神も罪によって鈍くなり、無感覚となって、嫌悪感や苦痛を感じなくなる。しかし、その恐ろしい破壊力に目覚める時が来る。その時には泣き叫...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(2)

    二、あなたは、「なぜ創造の主の御前で、罪というこの暗い状態が生じたのか」と問う。それは、サタンと人が、自らの意志により、不法な誤った方法で自分の欲望を遂げようとしたからである。そして、もしあなたが「なぜ神は人を、そのような状態に陥らないように造られなかったのか」と問うならば、その答えは、もし人が機械のように造られていたならば、自らの選択に従って行動することによってのみ到達できる幸福の状態に、決して...

  • 「主の御足下にて」 第二章 罪と救い(1)

    一節弟子――主よ、神に不従順であることと神を礼拝するのを止めることとは罪であるということは、ほとんどの人にとって明らかであり、その致命的な結果は現在の世界の状況に表れています。しかし罪とは本当のところ何なのかは、必ずしも明確ではありません。全能の神の御前で、神の御心に反して、しかも神ご自身の世界の中で、罪は一体どのようにして存在するようになったのでしょうか?主―― 一、罪とは、神のみこころを退け、自分...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(12)

    八、また、多くの人は言う、「物にせよ命にせよ、始まりのあるものは必ず終わりを迎える」と。これは真実ではない。なぜなら、思いのままに無から有を造り出せる全能の神は、ご自身の力ある御言葉によって、造られたものに不死を与えることができるのではないだろうか?そうでなければ、その方を「全能」とは呼べない。この世の命は衰えて滅びる運命にあるように見える。なぜなら、変化と衰えの対象であるものに従属しているからで...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(11)

    七、人の霊が体の中に宿っているのは、雛が卵の殻の中に宿っているのととてもよく似ている。 もしその殻の中の雛に、「外には広大な世界があり、あらゆる果実や花、川や雄大な山々があり、あなたの母もそこにいて、殻から解放されたらそれらをすべて見ることができる」と告げることができたとしても、その雛はそれを理解することも信じることもできないだろう。たとえだれかが、「あなたの羽や目は今や使用可能になり、それによっ...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(10)

    六、自然という書物――それもまた、わたしが著者である――において、わたしは自由に自らを現している。しかし、この書物を読んでわたしを見いだすには、霊的な洞察力が必要である。そうでなければ、人はわたしを見いだすどころか、かえって道に迷ってしまう危険がある。このように、盲人は指先を目のように使い、触覚だけで本を読むが、触覚だけではその真実性を真に評価することはできない。不可知論者や懐疑主義者の探究がこれを証...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(9)

    五、わたしはまた、わたしを真心から求める者たちに対して、わたしの言葉(聖書)を通して自らを現す。人の救いのためにわたしが肉体を取ったように、霊であり命であるわたしの言葉(ヨハネ六・六三)は人間の言語で記されている。すなわち、霊感された要素と人間的な要素がその中で結びついているのである。しかし、人々がわたしを理解しないのと同じように、彼らはわたしの言葉も理解しない。聖書を理解するのにヘブル語やギリシ...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(8)

    四、神は愛であり、あらゆる生き物に、特に人に、この愛の能力を備えてくださった。ゆえに、命と理性と愛そのものを与えてくださった愛なる御方が、しかるべき愛のお返しを受けるのは当然のことである。神の願いはご自身が創造された万物に対するものであり、もしこの愛が正しく用いられず、私たちが心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、愛を与えてくださった神を愛さないならば、この愛は高みから転落し、自己中...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(7)

    二、わたしと父と聖霊とは一つである。太陽に熱と光があるように――光は熱ではなく、熱は光ではないが、両者は一つであり、それぞれ異なるかたちで現れるように――わたしと聖霊は父から出て、世に光と熱をもたらす。聖霊は火のバプテスマであり、信者の心の中にあるあらゆる罪と不法を焼き尽くし、彼らを清く聖なる者とする。わたしは真の光(ヨハネ一・九、八・十二)であり、すべての暗く邪悪な欲望を追い払い、彼らを義の道に導き...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(6)

    二節弟子――主よ、もしあなたがご自身をこの世に特別に現してくださるなら、人々はもはや神の存在やあなたの神性を疑うことはなく、皆が信じて義の道に入ることでしょう。主―― 一、わが子よ、すべての人の内なる状態を、わたしはよく知っている。そして、それぞれの心の必要に応じて、わたしは各々の心に自らを現す。人を義の道へと導くために、わたし自身を現すこと以上に優れた方法はない。人のためにわたしは人となった――それは...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(5)

    八、ちょうど、海綿が水の中にあり、水が海綿の中に満ちているように――しかし水は海綿ではなく、海綿も水ではないように――両者は常に異なる存在であるのと同じように、わたしの子供たちはわたしのうちに住み、わたしも彼らのうちに住む。これは汎神論ではなく、この世に生きる者たちの心のうちに築かれる神の王国である。そして、海綿の中の水のように、わたしはあらゆる場所におり、あらゆるものの中に存在しているが、それらがわ...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(4)

    七、ある時、一人の母親が茂みの生い茂る庭の中に身を隠した。幼い息子は母を探して庭中を歩き回り、泣きながらあちこちを探したが、見つけることができなかった。召使いが言った。「坊や、泣かないで!この木のマンゴーや、庭のきれいな花を見てごらん。さあ、いくつか取ってあげよう」。しかし子供は叫んだ、「いやだ!いやだ!ぼくはお母さんがいい。お母さんがくれるごはんのほうが、マンゴーよりずっとおいしいし、お母さんの...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(3)

    四、わたしの臨在から生まれる真の平安は、真の信者たちの心のうちに宿るが、それを目で見ることはできない。しかしその力を感じることによって、彼らはその中にあって幸いになる。また、彼らがわたしの臨在の平安を享受するときの幸福感も目には見えない。それはちょうど、舌と甘味の関係に似ている。舌に宿る味覚も、それが知覚する甘さも目には見えない。同じように、わたしは「隠されたマナ」(黙示録二・七)を通して、わたし...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(2)

    二、この世には、わたしについて知ってはいても、わたしを知らない者が多くいる。すなわち、彼らはわたしとの個人的関係を持っておらず、ゆえに、わたしを真に理解することも、真の信仰を持つこともできず、わたしを彼らの救い主また主として受け入れないのである。生まれつき盲目の人に赤、青、黄といった様々な色について話しても、盲人はそれらの魅力や美しさに全く気づかず、何の価値も見いだすことができない。なぜなら、盲人...

  • 「主の御足下にて」 第一章 神の臨在の啓示(1)

    一節弟子――おお命の泉なる主よ!なぜ、あなたはあなたを崇める人々に御自身を隠して、あなたを見たいと願う者たちの目を喜ばせてくださらないのですか?主―― 一、私の真の子供よ、幸福は目に見えるものによるのではなく、霊的な視覚を通して臨むのであり、心によるのである。パレスチナでは何千もの人がわたしを見た、しかし皆が真の幸福を得たわけではない。朽つべき目で知覚できるのは朽つべきものだけである。なぜなら、肉の目...

  • 「主の御足下にて」 緒言(3)

    そして私は、涙を以て、祈りの中で神に自分の魂を注ぎ出した。「私の主なる神、私のすべてのすべて、私の命の命、私の霊の霊よ、どうか憐れみをもって私を顧み、あなたの聖霊で私を満たしてください。そうすれば、私の心はあなた以外の何ものも愛さなくなるでしょう。私はあなたから、あなたご自身以外の何ものも願いません。あなたこそ命とそのあらゆる祝福の与え主だからです。私はあなたからこの世の宝を求めず、天さえも求めま...

  • 「主の御足下にて」 緒言(2)

    第二の幻別の日、仕事が終わると、私は再び森へ祈りに行き、同じ岩の上に座り、どんな祝福を願おうかと考え始めた。そうしていると、別の人が来て私のそばに立った。その者は、身なりや服装、話し方から判断すると、敬虔で献身的な神の僕に見えた。しかしその眼は奸智と狡猾さで輝き、話す時には地獄の臭いを漂わせているようだった。彼はこう私に語りかけた、「聖なる尊い御方よ、あなたの祈りを中断し、プライバシーを侵害するこ...

  • 「主の御足下にて」 緒言(1)

    第一の幻ある暗い闇の夜、私は祈ろうとして一人森の中に入って行った。そして岩の上に座って神の前に自分の切実な要求を持ち出して助けを求めた。暫くすると、一人の貧しい人が私の方に来るのを見て、空腹と寒さで何か助けを求めに来たのだと思った。私は彼に言った。「私は貧乏人で、この毛布以外には何も持っていない。近くの村に行って、そこで助けを求めた方が良い」と。しかるに視よ!私がこう言っている間にも、彼は稲妻のよ...

  • 「主の御足下にて」 原序

    キリストの言「あなたたちはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである」ヨハネ十三・十三「わたしのくびきを負ってわたしに学びなさい……あなたたちの魂に休みが与えられるであろう」マタイ十一・二九この世には何の反対も批評も受けないほど完全なものは一つもない。私たちに光と温もりとを与えてくれる太陽でさえ黒点がある。それでもその欠点にもかかわらず、太陽は自らの務めを規則的に...

  • 「主の御足下にて」 訳者序

    この書は彼が著書として発表した最初のものであって、今まで説教において引用した多くの比喩が含まれているが、主から直接受けた啓示が、このような形式をもって表現されたところに東洋的な単純さと深さとをもっていて、福音書中の比喩を思わせるものである。「サンダーシングの生涯と思想」の中に共通のものがあるが、また特種なものもあり、殊に最初と最後に掲げた彼の祈祷こそは、その全生涯の不思議な能力と智慧との授けられる...

  • 「主の御足下にて」 目次

    主の御足下にてサンダー・シング金井為一郎 訳(オリーブ園編集版)目次訳者序原序緒言第一章 神の臨在の啓示第二章 罪と救い第三章 祈り第四章 奉仕第五章 十字架及び苦痛の秘義第六章 天と地獄祈りサンダー・シングより訳者への手紙附録 サンダーシングとの会見記オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「十字架は天である」 付録 完

    サンダーシングとベルクソンこの原稿が既に印刷屋の手に渡る約束のできた時、一日森溪川牧師の御来訪を受けた。談が一九二二年第二回目のヨーロッパ伝道のことに及び当時世界第一の哲学者フランスのアンリ・ベルクソンとの会見のことがアパサミー監督の綴った伝記の中に短く書かれていると話したところ、森牧師は非常に興味を覚えて、それはぜひ序文か附録かに入れてもらいたいとの御勧めに従い同感の読者もあろうと思って挿入する...

  • 「十字架は天である」 八、概括(11)

    あなたの心は一つだけである、それを神に与えよあなたの心は一つだけである。もし心が二つあったなら、一つは世に与えることができただろう。しかし、あなたには一つの心しかない。それを主に献げよ。そうすればあなたは主を受け、主と共にすべてを受けるだろう。あなただけを私は求める私の主なる神よ、私のすべてのすべてよ、私の命の命よ、私の霊の霊よ、あわれみをもって私をみそなわし、聖霊をもって私を満たしたまえ。それは...

  • 「十字架は天である」 八、概括(10)

    死せる教会パレスチナで私はヨルダン川の近くに立って思った。「この水、この新鮮な甘い水は常に死海に流れ込んでいるが、死海は依然として死の状態にある。それは流れを注ぎ出していないからである」と。そのように或るキリスト教会は死んでいる。イエス・キリストからの新鮮な水が常に流れ込んでいるのに、死んだ状態である。なぜか?それらは他に与えていないからである。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「十字架は天である」 八、概括(9)

    祈りは隠れた根であるある砂漠地帯――そこに水の気配はなかった――に一本の木が生えていて、緑の葉が茂り実を結んでいた。それは、その木の長い根が延びて、地の深い処にある隠れた水にまで達し、それによって養われていたからである。祈りは隠れた根であり、隠れた水――それは神である――に至る。祈りを通して私たちは神から命と実を結ぶ力とを受けるのである。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「十字架は天である」 八、概括(8)

    経験してはじめて理解できるヒマラヤ山の万年雪の間――そこではすべてが凍りついていた――を旅していたとき、私は温泉に出くわして、ある人にその温泉について話した。その人は湯に触れるまでそれを信じようとしなかった。その後、彼は山の中に火があるにちがいないと言った。彼の頭脳が彼の理解を促し始めたのである。彼は経験したからである。私たちは霊的経験をするまでは理解することができない。そして、経験は祈りを通して来る...

  • 「十字架は天である」 八、概括(7)

    永遠の命はここで今始まる主は言われる、彼の言葉は「霊であり命である」と。すべての真のキリスト者は自分の個人的な経験と観察から、神の言葉はあらゆる状態や階級にある人々の死んだ心を生かすことを実感している。他の宗教の聖典は、もし人が今生で祈り深い禁欲的な生活を送るなら来世で永遠の命を持つと教える。しかし、今永遠の命を得ないなら、未来に対する希望はない。主は讃むべきかな、主はこの世で天的な永遠の命と同じ...

  • 「十字架は天である」 八、概括(6)

    命と豊かな命重い病気で動けず床についている人がいた。その手も足も麻凍していた。すると毒蛇がやって来て、その人は逃げられなかったので、蛇に噛まれて死んでしまった。あるクリスチャンは命を持っているが、自らを救うのには十分ではない。キリストが来て私たちに豊かな命を与えてくださった。私たちが罪から逃れられるほど豊かな命をである。この命にあずかる者となるには、私たちはすべてを捨てて彼に従う覚悟をしなければな...

  • 「十字架は天である」 八、概括(5)

    私たちは見ずとも信じなければならないかつてインドの高丘地方を旅していた時、私は岩の上に腰をおろして休んだ。その岩の下には薮があり、その中には巣があって、そこから雛鳥らの鳴き声が聞こえてきた。母鳥が餌を持って来て、その羽ばたきの音を聞くやいなや、雛鳥らは鳴き始めた。母鳥が餌を与えて飛び去ると、雛鳥らは再び静まった。私が巣を調べると、驚いたことに、雛鳥らはまだ幼くて目が開いていないことに気づいた。それ...

  • 「十字架は天である」 八、概括(4)

    聖ヨハネの福音書は命のパンである中部地方を旅行していた時、私は幾人かの未信者に向かって私たちの生ける救い主について話した。話が終った時、私はその人々に向かって、イエス・キリストについてさらに知るために聖書を読みたい人が誰かいるかをたずねた。そこには、一人のキリスト教の敵がいた。彼はヨハネによる福音書の写しを取り、二、三節読むと、直ちに破って投げ捨ててしまった。それは汽車の一室でのことだった。二年後...

  • 「十字架は天である」 八、概括(3)

    命の水一九二二年に一人の友人とパレスチナを旅行していた時、私は或る有名な井戸(ヤコブの井戸)で甘美な心地よい水を飲んで大いに爽快にされた。しかし、一、二時間すると、私は再び渇き始めた。その時、主の御言葉が私の心に押し迫って来た、「この水を飲む者はだれでも、また渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことはない。わたしが与える水は、その人の内で泉となって、永遠の命へと湧き出るので...

  • 「十字架は天である」 八、概括(2)

    神の御言葉は霊であり命であるこの尊い書物が私をその著者に導いてから約四半世紀になるが、この間ずっと私の救い主は全くこの書物に記録されているとおりの方であった。彼は私にとって全くそこに読むとおりの方だった。言語の難しさや本文批評は少しもその真理を隠すことも、私の心に命を与える効果を妨げることもなかった。それは「それらは霊であり命である」からである。聖書を読んでいくうちに、私は言い表せない永遠の豊かな...

  • 「十字架は天である」 八、概括(1)

    自然は神への讃美で満ちている、しかし人はそうではない哲学者や博学な人々の書き物や話を理解するには、まず彼らの専門用語を知る必要がある。しかし、神の書なる自然を理解するには視力だけで十分である。「おお賢い人よ、木々の葉――それらは目には緑に見える――は、実は神の啓示の書の紙葉なのである」。川、小川、泉、山々、果物、花の力強い語りかけは頑固な心をも――耳が開かれているならば――溶かす。被造物はこぞって声高らか...

  • 「十字架は天である」 七、神を知り、己を知る(6)

    義の太陽もまた、そのような人を通してご自身を啓示して働かれる。しかし悲しいことに、時としてその僕らは月のようになって、太陽から借りた光を反射して暗夜を照らすものの、それすら常ではないのである。さらにまた、月は時々地球と太陽との間に割り込んで日蝕を引き起こす。そのように私たちもまた義の太陽とこの世の人々との間に割り込んで、そうして彼らを暗闇の中に残し、また御名を辱めるのである。それゆえ、私たちは勤勉...

  • 「十字架は天である」 七、神を知り、己を知る(5)

    この世ではだれも何らかの苦難や十字架から逃れられない。長期間にせよ短期間にせよ、死の陰の谷を通過する必要がある(詩二三・四)。しかし、自分の十字架を負う真のキリスト者は「死」んでも「生」きる。迫害のただ中でも、木の葉のようである。冬に落ちても、春には新たな活力を帯びて現れて、自分が真に生きていることを証明するのである(二コリント四・八~十、六の四~十)。悲しみと苦しみにもかかわらず、彼らの命は神の...

  • 「十字架は天である」 七、神を知り、己を知る(4)

    真に神と己を知り、真の命を得るには、人は自己を否まなければならない(ルカ九・二三、二四)。なぜなら、神のみこころを成就するために自分自身の願望や意志を否む者は全き満足を得、その魂の渇望は己を創造したあのみこころによって満たされるからである。それに対して、自分を満足させるために自分自身の意志にしたがって歩むことにより、人はそれとそれを満たす能力とを両方とも損なってしまう。言い換えると、自分自身を否む...

  • 「十字架は天である」 七、神を知り、己を知る(3)

    キリストの神性を知るには、私たちは人――この言葉が真に意味するところの人――でなければならない。なぜなら、獣の命は、如何に完全であっても、このためには不十分だからである。罪深い堕落した人は彼を知ることができない。しかし、「新しい人」また「新しい被造物」(コロサイ三・十)となることが、「見えない神のかたちである」(コロサイ一・十五)彼を知り、またそのかたちに似せて造られた人自身を知るのに必要である。罪の...

  • 「十字架は天である」 七、神を知り、己を知る(2)

    私たちが「再生」によって神の子になる時、聖霊は、言葉や地上の言語を語ることなく、直接私たちに語って霊的生活の秘訣を教え、また啓示してくださる。私たちが御霊によって生まれる時、霊の言語が私たちの母国語となり、子供が母の言語を自然に学ぶように、私たちは彼が教えてくださることを難なく学ぶことができる。地上の言語や言葉は意味を伝える外的な手段にすぎない。しかし霊の人は――子供のように――言葉抜きでも神が伝えた...

  • 「十字架は天である」 七、神を知り、己を知る(1)

    人が自分自身を――自分が誰でありまた何であるかを――知っていたならば、人は自分がその「姿に似せて」造られた神を知ることができていただろう。「なぜなら神について知りえることは、彼らに対して明らかだからである」(ローマ一・十九)。しかし、神を知り己を知ることは「この世の知恵」によるものではないことを記憶しなくてはならない。なぜなら様々な「主義」や「論」がしばしば人を真理に導くよりも反って遠ざけるからである...

  • 「十字架は天である」 六、求道者と活けるキリスト(7)

    探求者:おお神よ、今日私が得た祝福を私の弱さや無関心のせいで失うことがないように祝福してください。また、私が最後まで忠実でいられるよう私に恵みを与えてください。私が常にあなたの真の僕であり続け、あなたの中にまたあなたのために生きるようにさせてください。永遠のキリスト:常に目を覚まして祈ることが必要です。地上の財産を失っても決して気にしてはなりません。遅かれ早かれそうなるのですから。しかし今や、あな...

  • 「十字架は天である」 六、求道者と活けるキリスト(6)

    探求者:おお、何と私は幸いな人でしょう!私の体の毛穴がすべて口になったとしても、あなた――おお私の救い主よ――に対する私の感謝をしかるべく表明することはできません。今や私にはわかります、あなたは口先だけの讃美を望んでおられず、内なる讃美を望んでおられることを。その中にあなたが住んでおられる心は讃美せずにはいられません、なぜなら常に喜びで溢れ流れているからです。今、私の造り主また神よ、あなたに一つの質問...

  • 「十字架は天である」 六、求道者と活けるキリスト(5)

    (この現実を十分に実感して悟り、真理の探求者は直ちに永遠のキリストの足下にひれ伏して叫ばずにはいられなかった。)探求者:おお、私の神また父よ、今日私はあなたが私の命の作者また主であることがわかりました。今や、私は地上の損失を気にしません、私は全てを得たからです。今日より後、私はあなたの子供であり僕であります。なぜあなたはかくも長い間ご自身をあなたの取るに足りない衰れな僕である私から隠しておられたの...

  • 「十字架は天である」 六、求道者と活けるキリスト(4)

    その同在と臨在に深く印象づけられて、真理の探究者は礼儀正しく永遠のキリストに以下のように問うた。探求者:何時からあなたはこの業をしておられるのですか?永遠のキリスト:世の初めからです。探求者:本当に?ではあなたは預言者だと思います。どうか私にあなたについて洗いざらいお話しください。私を祝福してあなたの弟子にしてください。永遠のキリスト:わたしが人を救うために肉体において現れてから、まだ二千年もたっ...

  • 「十字架は天である」 六、求道者と活けるキリスト(3)

    ある日の早朝のこと、彼が洞穴の入口に座って自分自身の状態について考えていると、一人の人が洞穴の方に向かって来ることに気づいた。この新来者を見た時、彼の心に様々な思いが去来した。「おそらく、私のように、この人は大きな苦しみを受けて、今やこの世に疲れ、避け所と平安を求めてこのジャングルの中をさまよっているのかもしれない。あるいは、もしかすると、神への真の献身者であって、瞑想と勤行にいそしんでいるのかも...

  • 「十字架は天である」 六、求道者と活けるキリスト(2)

    数日後、この逆境の中、子供が生まれた。彼はできるだけ妻と子供を看護して世話したが、不幸にもその子供は翌日死んでしまった。彼はその小さな体を葬りに行き、家に戻ると、自分の妻が全く意識不明になっているのを見出した。彼は冷たい水を妻の口に含ませ、妻の頭を自分の膝にのせて、妻の寝床の上に座った。暫くすると彼の妻は意識を恢復して目を開いた。夫は悲しみと別離とのために疲れ果てており、妻は極度に弱っていて具合が...

  • 「十字架は天である」 六、求道者と活けるキリスト(1)

    昔々一人の富豪がいた。彼はこの世の安楽と快適さのあらゆる手段を持っており、豊かで贅沢な生活を楽しんでいた。しかし不幸なことに、彼には息子がいなかった……彼は友人たちや妻に向って「どうか私の家督を継いで家の名声と名誉を維持してくれる息子をあわれみ深く私に与えてくださるよう、絶えず神に祈ってください」と言うのが常であった。暫くして神はそのとりなしに答えて、美しくて有望な男の子を与えられた。両親はこの生ま...

  • 「十字架は天である」 五、哲学者と聖徒(6)

    哲学者:私はあえてもう一つの質問をあなたに致します、もしこの喜びと霊的経験はどんな人間の言語を以てしても表現できないとするならば、人と獣の違いは何でしょう?もちろん、獣は自分の衝動を表現したり描写したりできません。しかし、神から与えられた会話力を持つ人が同じようにしか行動できないとするなら、獣と人の間に何らかの違いがあるとは思えません。したがって、こうした霊的経験は単なる妄想にすぎない、というのが...

  • 「十字架は天である」 五、哲学者と聖徒(5)

    哲学者:まあ、あなたのおっしゃるように、他人よりも優れているとは思っておらず、反対に他のすべての罪人のように弱く罪深いことを認めておられるというのなら、あなたとこの世の他の人々との違いが私にはわかりません。どうして人々はあなたを聖者と呼ぶのでしょう?聖徒:あなたはおそらくソクラテスのことを覚えておられるでしょう……ある時彼は率直に告白して言いました、「自分はその全生涯で一つの教訓、ただ一つの教訓を学...

  • 「十字架は天である」 五、哲学者と聖徒(4)

    哲学者:まあ、私はこの問題についてあなたと議論したくはありませんが、世を捨てるとはどういうことか教えていただけないでしょうか?この世を憎むとか、他人よりも優れていることを自認する、ということでしょうか?何故あなたはこの世を捨てたのですか?聖徒:私も議論を好みません。これはたんなる話し合いです。さて、あなたがお尋ねになった質問についてです。断言しますが、私はこの世を憎んだり自分を他人よりも優れている...

  • 「十字架は天である」 五、哲学者と聖徒(3)

    哲学者:私もまた自分の個人的経験からこの事実を証しできます―― 一つの主題に自分の思いと注意を沈黙の内に集中しないかぎり、それについて論理的に考えられませんし、適切に推論しなければ妥当な結論に到達できません。しかしこの推論のかぎりを尽くしても、私はあなたの言う沈黙しておられる神――この神をあなたは実在の大洋とも呼んでおられます――とやらの存在についてはよくわからなくて途方に暮れています。あなたは神の存在...

  • 「十字架は天である」 五、哲学者と聖徒(2)

    この沈黙しておられる神の御声を聞くには、沈黙の中で彼を待ち望むことが不可欠です。神は沈黙の内に働かれます。同じように人もまた――人は神のかたちに神に似せて創造されました――沈黙の内に考え、感じ、記憶し、決意して、多くの方法で働きます。たとえば、様々な発明や発見が沈黙の内になされてきました。つまり、すべての偉業は沈黙の内に始まったのであり、また今も始まりつつあるのです。人は、周囲の人々の助けが必要な時や...

  • 「十字架は天である」 五、哲学者と聖徒(1)

    昔一人の聖徒がいて、日毎の職務を終えた後、祈りと瞑想のためにジャングルの中の洞穴に行き、数時間とりなしの務めをすることを習わしとしていた。ある日、たまたま、一人の哲学者がそこを通りかかり、その聖徒がひざまずいているのを見て驚き、そこに暫く立っていた。その後、哲学者は洞穴の入口に行ってノックしたが、聖徒は瞑想に没入していたので応答しなかった。哲学者は少なくとも半時間待っていたが、立ち去ろうとするその...

  • 「十字架は天である」 四、十字架を負う者たち(4)

    盗人たちに対する友愛ある時私の友人の一人が祈っていると、三人の盗賊が家に押し入って、物を少し盗んで出ていった。彼は彼らのために祈ってから、その後を追いかけて行って、彼らを呼び戻して言った、「忘れ物がありますよ。必要なものをみな持って行きなさい」。彼はトランクや箱などを開いて、あったものをすべて彼らに与えた。それから、彼は食物を供えて言った、「あなたたちは飢えているでしょうから、去る前に召しあがって...

  • 「十字架は天である」 四、十字架を負う者たち(3)

    殉教者グル・バドシャーカーイル・ウルラ牧師が最近アフガニスタンで殉教したこの人について私に話してくれた。彼はクリスチャンになった後、その親近のもとに帰った。彼らは初めは全く優しくその後は荒々しく、彼にキリストを否定しカリマを復唱してイスラム教に復帰するよう告げた。しかしその神の人は繰り返し宣言した「私はクリスチャンである、キリストを否定して生きるよりは死んだ方がずっとましである」と。すると彼らはナ...

  • 「十字架は天である」 四、十字架を負う者たち(2)

    二、三日間、彼は森の中に住んだ。飢えと寒さに苦しめられたが、彼の心は平安に満ちていた。想像してみよ、豪邸で贅沢に育った彼にとってそれは何という経験だったかを。彼は貧困や問題を全く知らなかった。今や彼には生計を立てる手段が何もなかった。三日目に彼はある人の所へ行き、その人のために労働した。それで、自分のためにターバンと衣服とを買えるようになった。その後、彼はサドゥーの格好をして、十字架につけられたキ...

  • 「十字架は天である」 四、十字架を負う者たち(1)

    殉教者カーター・シングこの青年はパチアラ州のサンダー・ハルナム・シングの息子であった。彼の父は彼がクリスチャンになろうとしていると聞いて、できる限りそれを阻止しようとした。息子は答えた、「至る所で私は救い主を探しましたが、どこにも見つかりませんでした。しかし今や遂に、御言葉を通して神は私に救い主は主キリストであることを啓示してくださいました。そして今、私は彼から離れることはできません。この方は、私...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(11)

    舌足らずでも生活が事実を語る或る日、瞑想と祈りの間、私はキリストの臨在を強く感じた。私の心は天的な喜びで満ちあふれた。私は、悲しみと苦しみのこの世の中に大きな喜びの隠れた無尽蔵の鉱脈があることを知った。それについてこの世は何も知らない。これを経験した人でもそれについて適切に説得力をもって話すことはできないからである。私は隣村に下って行って、この喜びを他の人々と分かち合うことを切望した。しかし病身の...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(10)

    主は百倍を与えてくださる私は回心後誘惑を受けた。先ず、バプテマスを受けなくてもクリスチャンとして生きていけるのではないかという疑問が生じた。近親者らからの迫害に直面して、遠い処で密かにバプテマスを受けることも考えた。しかし、公に主を告白して主に従わないかぎり――たとえそれが自分の両親やすべてを捨てることを意味したとしても――平安を受けられなかった。主は私の必要をすべて満たされただけでなく、百倍以上与え...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(9)

    キリストに在る驚くべき平安スウェーデンで私は一人の人に会った。その人は広く旅行をしてきたという。何を求めて旅行したのか私は尋ねた。その答えは「私は快適に楽しく住める国、病気と悲しみのない国、暑さと寒さのない国を探しました。しかし見つかりませんでした」であった。そこで私は、私が国の中にではなくキリストの中に見いだした平安について彼に語った。そして私は言った、「私はこの平安を証しするために旅行するので...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(8)

    平安か愛か時々人々は私に言う、「あなたは平安についてばかり話すが、愛について話さない」と。平安は私たちの魂の目的である。私たちは金を稼ぐために多くの苦労をし、平安を得るために肉体の快楽を求める。しかし真の平安はただ主の中にのみ、愛なる神の中にのみ見いだされる。この平安を得る時、それは神の愛から切り離せない。あなたはその愛を感じ、また他者への愛を感じるであろう。その平安は彼の愛を他者に告げるようあな...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(7)

    現在の喜びと平安私は一人のヒンドゥー教のサドゥーに会った。彼は自分の魂を救うために長い間ヨガを実践していた。どのくらい実行しているのかと尋ねると、十三年間という答えがあった。彼は真理を求める真の探求者だったが、心に喜びはなかった。私は彼に言った、「こんなことをして何になるのです。あなたには喜びがないではありませんか」と。彼は答えた、「救われようとしている間、今生で喜びを見いだすことはできない。しか...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(6)

    強盗の回心ベーレラと呼ばれる高原の森を通っていた時、私は四人の男が路傍に坐っているのを見た。彼らの中の一人が大きなナイフを手に持って私に飛びかかった。逃げ道がどこにもないのを見て、私は首を差し出した。すると彼は私を打つのをやめて、私の肩から毛布を取って立ち去った。私がその道を一ファーロングほど進んだ時、彼は私を呼び戻した。今度はもう命はないものと思ったが、私の想像とは正反対であった。彼が「あなたは...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(5)

    或る猟師が狩りのために森の中に入って行った。彼は蜂の巣のある一本の木を見た。そこで自分の銃を地面に置き、その木に上ってその蜂の巣を取り、食べ始めた。彼は自分が陥った危険に気づいていなかった。虎がその木の根元にやって来た。「やれやれ、自分は今、危険な場所にいるぞ」と彼は心に思った。「しかし自分は木の上にいるから逃げおおせられるかもしれない」。そこで、彼は虎のことを気にせずに蜜を食べ続けた。その木は川...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(4)

    棘を結ぶ者か実を結ぶ者か私たちは彼(キリスト)の中へと接木されなければならない。そうすると実を結ぶことができる。多くの者はその生活が棘で満ちていたが、主イエス・キリストを信じることによって、実を結ぶようになった。かつて私は棘で満ちた一本の木を山で見た。その管理人が「自分はこの木を実のなる木に変えることができる」と言った。どうやってか?数年後、私はそれを見に行った。園丁がそれを接木したので、棘の代わ...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(3)

    サンダーシングと政府の役人との会話私:神はキリストを通して永遠の命を得させようと万民を招かれた。そしてあなたにこの福音を与えよと私に命令された。もしもあなたが彼を信じないならば、今私があなたの前に立っているようにあなたは神の御前に立って、永遠の刑罰の宣告を受けねばならないだろう。役人:その時が来たらそうかどうかわかるだろう。しかし今あなたは投獄されなければならない。私は如何にキリストが来てあなたを...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(2)

    神の膝元ネパールのイロムヘの道で私は多くの村々を通った。そこの人々は心から神の御言葉を聞いた。この地域の道はひどかった。道の上り下りや川を渡るので私は疲れていた。一九一四年六月七日をいつも私は思い起す――旅の疲れ、極度の飢えと渇き、大雨の中、七マイルの坂を上らなければならなかったのである。恐ろしい一陣の突風が私を吹き飛ばして或る洞窟に投げ込んだ。おお主はほむべきかな、私はかなり高い所から落ちたけれど...

  • 「十字架は天である」 三、十字架は天である(1)

    真の喜び私は時々友人たちに向かってこう語る、「他の人々に説明するために、私は牢獄、苦しみ、迫害等の言葉を用いるが、そうした苦しみは全く苦しみではないのである」と。もし本当に苦しんでいたなら、私は決して村々に出かけて行って福音を宣べ伝えなかったであろう。実を言うと、私の愛する救い主のために苦しまねばならない時はいつでも、私は常に地上で天を見いだしたのである。それはどこにも見いだせないほどの喜びを私に...

  • 「十字架は天である」 二、十字架を通しての救い(6)

    悔い改めが最も必要である悔い改めは神の国に入ろうとする者にとって最も必要である(マタイ三・二)。神の国は未来の国であるだけでなく、この地上から始まる。ごく小さな一つの罪、悪い思考の一つでさえ、私たちの希望を滅ぼし、私たちを神の国の外に留め置くのに十分である。いわゆる小さな罪が最も危険である。それは病気を引き起こす細菌のようである。肉眼で細菌を見ることはできないが、数千の人がその害に苦しんでいる。見...

  • 「十字架は天である」 二、十字架を通しての救い(5)

    苦痛と苦難の秘義世にある苦痛と苦難の秘義は大きな問題である。それは罪のせいであるとしても、常にそうとは限らない。というのは、神はしばしばそれを通して、平安を与える彼の臨在へと私たちを召されるからである。十字架は私たちの霊的生活と進歩のために必要不可欠である。苦痛と苦難が彼の被造物の益のためでなかったなら、全能の神は直ちにこの地の面からそれらを一掃しておられただろう。しかし、彼はそうされなかったし、...

  • 「十字架は天である」 二、十字架を通しての救(4)

    救いは赦しと、罪からの自由である救いは罪の赦しのみではなく、罪から自由にされることである。罪が赦された後でも、自分の罪の中で死ぬことも十分にありえる。多くの罪人はその罪が赦された後でも彼らの罪の中で死んでいく。キリストは私たちを罪から救ってくださる。私たちの罪を赦すのみではない。ヒマラヤ地方に一人の人がいたが、彼は長らく病気だったので気が狂ってしまった。ある日、親戚の一人が彼の見舞いに行ってその傍...

  • 「十字架は天である」 二、十字架を通しての救い(3)

    驚くべき出来事カイラシ(注、ヒマラヤ山脈中の一つの高山)を去って、ある居住地に着いた時、私はそこの人々に最も近い村への道を尋ねた。彼らは私がクリスチャンであるのを見て、敵意から、危険な森の道を教えた。私は全く無知だったので、彼らの指示に従ってその道を行った。旅をしているうちに夕方になったが、村は現れず、ある川の岸辺に着いた時には日は沈みかけていた。四方から野獣の物音が聞こえた。私はその川を渡ろうと...

  • 「十字架は天である」 二、十字架を通しての救い(2)

    人が十字架を負うなら、十字架がその人を負ってくれる私は神に感謝する、彼が取るに足りない僕である私を、若い時にご自身へと召し、私の最上の力を奉仕に用いるよう導いてくださったことを。クリスチャンになる前から、私は神に祈っていたのである、真理の道を自分に啓示してくださいますように、自らその中を歩んで他の人々にその道を宣べ伝えられますようにと。それゆえ、道であり真理であり命である方が私に啓示されて、サドゥ...

  • 「十字架は天である」 二、十字架を通しての救い(1)

    キリストは私の命キリストは私の救い主。彼は私の命。天においても地においても彼は私のすべて。ある時砂地を旅していた時、私は疲れ、渇いていた。私は丘の上に立って水を探した。遠くに湖が見えたので、私は喜んだ。今こそ渇きを鎮められると思ったからである。私は長い時間それに向かって歩いたが、それに到達できなかった。後になってそれは蜃気楼だと知った。太陽光の屈折によって水のように見えたのだ。実際にはそこには何も...

  • 「十字架は天である」 一、十字架の主(9)

    霊的な癩病が癒されたある時私は一人の牧師と共に一人の癩病人に会いに行った。私の友人は彼に言った、「何とお気の毒なことか!私はあなたの苦しみを見て残念に思います」と。ところが、私は癩病人の答えを聞いて驚いた、「君よ、あなたは残念に感じておられますが、私は自分の心の中の驚くべき平安のゆえに神に感謝しています。また私が癩病であることも神に感謝しています」。私は彼が自分の癩病のゆえに神に感謝していると聞い...

  • 「十字架は天である」 一、十字架の主(8)

    平安――キリストの賜物であって、想像ではない神の御言葉を読んだ後、私は祈りに時を費やす。すると、私は驚くべき雰囲気を感じる――私はそれを地上における天と呼んでいる。心理学者たちはその経験について私に尋ねた。一人の人は「あなたがある種の平安を感じるのは、感情の問題であるか、想像と瞑想の結果である」と。私は答えて言った「よろしい、私は答える前に一つの質問をしましょう、ここに一人の人がいて生まれながらの盲人...

  • 「十字架は天である」 一、十字架の主(7)

    貧しくても彼の両眼は星のように輝いていた一九二○年に英国にいた時、私は死の床にある一人の男を尋ねるよう求められた。私にはあまり時間がなかったので初めは断っていたが、神の人が私に言った「ぜひ行って彼にお会いなさい、それはあなたの益になるでしょう」と。それで私は行った。彼は非常に貧乏な人で、助けてくれる者は一人娘だけだった。彼の全身が痛み、長年苦しんでいた。彼の身体は非常に弱く、骨だけの骸骨のようだっ...

  • 「十字架は天である」 一、十字架の主(6)

    私たちは単なるパンでなく、命のパンを必要とする私はインドにいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、この乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わっ...

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