宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔...
宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔...
イエス祈ることを教う(ルカ一一1~13)ここに弟子たちはキリストの祈りの力あるのを見て、祈ることを教えられんことを願った。これは実に善き願いである。次に注意すべきことは、主がこの祈りを教え給うたのはその文句ではなくてその精神である。「天に存す我らの父よ」これは目を天に上げわたしたちの父に願うのである。「御名を崇めさせ給え」第一に願うことは、神の御名が崇められることである。「御心の天になる如く」神の御...
ベタニヤにおけるイエス(ルカ一〇38~42)〔38〕マルタは、実に主に対して熱心であった。ヨハネによる福音書にも、マルタが主に対して機敏に活動しているのを見る。「これを迎えて自己の家に入りぬ」主と主に属する者を家に迎え入れることは、実に幸福なことである。〔39〕「マリアと言える者あり、イエスの足下に座りてその道を聞けり」。またヨハネによる福音書十一章二十節では、マルタはイエスを迎えに行ったが、マリアはなお...
善きサマリヤ人の譬(ルカ一〇25~37)場所はエルサレム。この話はたいへん恵みに感ずる。また非常に探られるところである。この律法学者は聖書をよく知っていた人で多分、キリストのことを聞いてどのような人物かをためそうとして来たものであろう。この人の仕打ちはたいへん悪いと言うほどではないが、キリストを試験したのであるから、実に無礼なことであった。「師よ、我何をなさば永生を受くべきや」これは実に大きな問題であ...
七十人の弟子帰り来る(ルカ一〇17~24)このところで、弟子たちが得意になったのは、人情の自然で、われわれの中にも成功する時にはこのようになることがある。なお、彼らは自分の成功を人の前に報告したのではなく、主の前に報告したのであるから、さほどとがめるには及ばないようであるが、主は彼らが慢心に陥ることを戒め給うたのである。「サタンの天より落つるを見し」とは、イエスが彼らに霊界の有様を告げたのである。〔19...
羊の門また善き牧者なる基督(ヨハネ一〇1~21)囲いとは、昔のユダヤ教また今日のキリスト教である。神の備えた入口以外の所から入る者は盗人である。また門と牧者とは、離れることのできない関係にあるもので、牧者は必ず門より来るものである。〔4〕の「羊彼の声を知りてこれに従う」とは、キリストとその弟子の関係である。パリサイ人は、決してキリストの声を知らなかったから従わなかったのである。天国に入るには必ず門であ...
盲人の者癒される(ヨハネ九1~41)ヨハネによる福音書九章一節は前章の続きで、キリストが人々の中を通って行き給いしその途中の出来事である。ある批評家は、キリストが人々を恐れて逃げたと言うが、イエスは命が欲しくて逃げたのではない。まだ殺される時でなかったので去り給うたのである。それ故、途中で盲人の者に会えば、これを憐み癒し給うたのである。もし恐れて逃げるのならば、盲人がいても癒すどころではない。ここで...
節の後の説教(ヨハネ八12~59)〔12〕イエスこそ、実に心霊界の太陽である。世の人は、自然界の太陽を知っているが、心霊界の太陽を知らない。実に悲しいことである。しかしながら、キリストを持つ者は、命の光を歩み得るのである。この所で、注意すべきことは、悪魔も光の使いのようになってくることである。それ故に、世の中に悪魔の与える光を、真実の光と思っている人がある。これは実に、危ないことである。それならば、わた...
姦淫した女イエスの前に引き出される(ヨハネ八3~11)〔3〕このところで、学者とパリサイの人は、この女を訴えたけれど、自分たちは、返って恐ろしい者であった。彼らは実際罪を憎んで訴えたのではなく、自分たちが、律法に対して熱心であることを現わさんために、第二は、キリストを試みんためにこの様に訴えたのである。申命記二十二章二十二節を見れば、この様な者は、石で打ち殺すように書いてある。もし、律法を重んずるなら...
イエス神殿で民を教え給う(ヨハネ七11~53)この時は、仮庵節であったが、これはただ儀式で、キリストを表わすものである。すなわちキリストは、わたしたちのためには仮庵節である。昔イスラエル人が、荒野を旅行する時仮庵の中に住んだ様に、わたしたちは、この世の荒野でキリストと言う天幕、すなわち仮庵に住むことができるのである。また、天に行ってからも、わたしたちの真実に安息するところは、キリストである。また、かの...
イエス仮庵の祭りに臨まれる(ルカ九51~56)この時イエスは地上のみわざが殆ど終りに近ずいていた。丁度人が夕方今日の日は暮れると言うので、力一杯働く様子に似ている。しかも天に昇るとは言うもののその実は殺されるので、死が近ずいたのである。しかしキリストにとってはこの死が勝利の秘訣であり、彼はこれを確信しておられた。この時キリストは十字架の悲しさと、昇天の嬉しさ喜ぱしさが交互に混ると言うようなありさまであ...
七十人の弟子の派遣(ルカ一〇1~16)以前に十二弟子をつかわす時と同じなので詳しくは述べない。〔1~2〕主の御目には亡びる霊魂が見えている。またここで伝道の前に祈るべきことを教えられる。またキリストが行けと仰せられてから行くことである。二人で行ったことは大切なことであって、神の知恵を見る。その後主が伝道に行かれることは記憶すべきことである。〔3〕この「往け」との声を聞いて立つ時は、神の力が加わる。軽卒に...
薄情な僕のたとえ(マタイ一八21~35)〔21〕これがペテロであったのが面白い。ペテロは弟子たちの中でも、出過ぎる方であった。主が何か仰せられると、彼は弟子たちの代表者となってイエスに向った。しかし何時でも出過ぎては頭を打たれた。多分彼は友人たちからきめつけられたのであろう。それがしゃくにさわって時には抑えたが、抑え切れずに主の前に持ち出したものであろう。これは潔められる以前のペテロである。すなわち一方...
イエス弟子たちの欲望を叱責される(マタイ一八1~20)マルコ九34、弟子たちの頭からとかく大いならんとする分子が抜けなかった。やはり自分はどの位偉いのだろうと言う精神が残っていた。天国に入るにはまず幼な児のようにならねばならないが、天国にいる者はまた幼な児のようである。幼児について学ぶことは遜っていることである。幼児は人がこうだと言えばその通り信じるものである。このようでなければ神様と一致することは出...
イエス再ぴその苦難を予言する(マタイ一七22~23)イエスがこの悪霊につかれた者、誰も癒すことの出来ない者を癒された時に、弟子たちの得意は、実に非常なものであった。彼らはこの調子では、間もなくキリストはエルサレムを占領し、自分たちは右大臣、左大臣の位でも得ることが出来ると思っていたであろう。ところがイエスは二三節に十字架のことを話された(ルカ九44)この「耳におさめよ」とは英語で、「沈み込ませよ」との意...
イエス悪霊を追い出す(マタイ一七14~21)この三人の弟子は、山の上で恵みを受けたが、また山を下らねばならない。山の下には多くの悩んでいる者がいる(マルコ九22)を見れば「我らを憐みて助けよ」とある。すなわちこの子の父は、子の苦しみを自分の苦しみのように思っていた。丁度あのツロ・フェニキヤの女と同じ態度であった所を見ると、この人は確かに信仰を持っていたに相違ないが、全き信仰ではなかったらしい。〔16〕「こ...
キリストの変貌(マタイ一七1~13)この変貌は弟子たちのためだけでなく、キリストへの奨励であった。神は何時でも全く服従する時に、ご自身の栄光を顕わされる。すなわち弟子たちは、まず大体十字架を負う決心があったので、神はこの栄光を顕わされたのである。〔2〕キリストの容貌は、実に見苦しいお方であった。しかしこの時真実の栄光が顕われた(マルコ九3参照)。〔3〕エリヤは予言の中で大いなる人、モーセは律法を立てた人...
イエス自己の死を予言される(マタイ一六21~29)この出来事はあのペテロの告白と対照して見ると大いなる教訓がある。ペテロは「汝は活ける神の子なり」と言って、キリストからおほめを頂いたが、キリストが長老、祭司たちから苦しみを受けること、すなわちキリストが十字架にかかられることがわからなかった。イエスは弟子たちがご自分がキリストであることを悟った時に、十字架のことをお知らせになられた。弟子たちは、キリスト...
ペテロ、イエスの神性を認む(マタイ一六13~20)〔13〕はイエスの弟子の目の試験である。〔14〕の弟子たちの答は、世の人の目である。このような目を持つ者は地獄行きである。〔16〕はペテロのイエス観ではなくて、、聖霊のイエス観である。キリストとは、神から油注がれた者の義である。〔17〕キリストは明白な信仰を持っている者に報いを与え給うのである。文字通りならば、ペテロの上に教会を建てると解すべきであるが、これは...
目しいの癒し(マルコ八22~26)この出来事は、肉体の癒しの漸次的な実例である。時として神は段々御手を加え給う場合がある。だからわたしたちからかれこれと注文すべきものではない。これをまた霊的に味わうならば、心の目に適用することが出来る。心の目の盲目な者は、天の栄光も、地獄も、キリストも、永遠もまた神の存在も明らかに見ることが出来ない。勿論頭では合点していても、ハッキリしていない。しかしキリストの手すな...
イエスの四千人給食(マタイ一五32~39)〔32〕は先の先まで、見通し給う同情である。またここにイエスは、このことに関して弟子たちに、相談するような態度をとっておられる。わたしたちの同情はこのイエスの同情に同化されたものでなくてはならない。〔33〕弟子たちの不信仰と、神の恵みを忘れることが現われている。わたしたちも実際問題に出遇って、古い経験を忘れて祈っていると「我を信ぜよ」と、同じ聖声を聞くことがしばし...
イエス多くの人を癒される(マタイ一五29~31)この出来事はイザヤの予言の成就である。ここで注意すべきことは、多くの人が病人を連れて、イエスの許に来たことである。わたしたちもイエスの許に病人を連れて来ることは大切なことである。そうすればキリストは癒して下さる。聾唖者の癒し(マルコ七32~37)この出来事も同じく、祈りから始まった。三二節、三三節に、キリストはこの人を外へ連れて行ったとあるが、深い恵みを味わ...
イエス過越を避けてツロとシドンの地に行かれる(マタイ一五22~28)この出来事は過ぎ越しの祭りの時のように思われる。マルコ七24、25を見れば、彼がここに退かれたことが理解出来る。またヨハネ七1~2を見る時に、イエスは過ぎ越しの祭りを避けて、ツロとシドンに行かれたように思われる(ヨハネ六4参照)。マルコ七24を見ると、キリストは実に灯のようであり、また香のようであることがわかる。どうしても隠れることの出来ない...
パリサイ人に対する主の答(マルコ七1~23)このことは主イエスの伝道の一転機であって、ヨハネ六章のパンの御説教の時から、多くの人は彼を離れ、反抗の機は熟して来た。次にこの出来事はどこの出来事であるかはっきりしないが、多分カペナウムであろうとのことである。多くの人がキリストを離れて行くのに、キリストと談じるとはちょっと立派に見えるけれども、キリストに反抗する為であるとは実にわざわいである。ユダヤ人と言...
ユダヤ人の会堂での説教(ヨハネ六22~65)〔22~25〕どのように主が彼らに質問されたかを見ることが出来る。しかし主は彼らの心の動機を知っておられる。彼らは生命を得る為にイエスを求めたのではなく、肉欲を満足させる為に主を求めたことがわかる。そこでキリストは彼らに対して「朽つる糧の為に働かずして永生に至る糧すなわち人の子の与える糧の為に働くべし」と仰せられた。しかし肉のことだけ考えている彼らには、このキリ...
〔28~31〕「主よもし汝ならば我に命じて……」ペテロはここで、主だと聞いて嬉しくてたまらなくなってこのように叫んだ。これはペテロの特色であるが、また非常な教訓がある。すなわちペテロはここで主の答を待った。彼は祈ったのである。またペテロはあの海辺で甦えりの主に遇った時よりも沈着な態度を取っている。彼はこの時キリストの命令を待った為に、海を歩くことが出来たのである。もし彼が命を待たずに飛入りしたならば溺れ...
イエス水の上を歩かれた(マタイ一四22~33)〔22~23〕キリストは人々を帰えし、また弟子たちをも向う岸に渡らせ、一人で密かに山に行って祈られた。わたしたちは集会の前には祈るけれども、集会の後には祈らない。わたしたちもキリストのように祈りの人となりたいものである。この日主は非常に多忙であったことを知ることが出来る。わたしたちは二百人や三百人の集まりでも充分多忙であるのに五千人にも食物を与えることは、人間...
イエスの五千人給食(マルコ六31~44)〔31〕イエスの伝道がどんなに多忙であったかを見よ。わたしたちも働きに疲れた時イエスと共に休むべきである。しかしわたしたちはとかくイエスと共に休まない為に、肉に所を得られ、力をサタンに奪われることがある。そこでイエスは「我と共に」と言われる。〔36~38〕これは人間の考えである。あるいは今日の宗教家とも比較すべきか。彼らは自力をたのみとしている。「銀二百のパンを買い……...
バプテスマのヨハネの死(マルコ六14~29)〔14〕主の名の広まったことを見よ。〔16〕ヘロデは罪のない者の首を斬った為に、このように恐れたのである。これによってどんなに猛悪な人間にも、良心の存在するのを見ることが出来る。歴史によればヘロデとピリポとは腹違いの兄弟である。ヘロデには当時他の妻があった。それなのに彼はヘロデヤと不義を行い、ヘロデヤはピリポと離縁してヘロデと結婚した。これは原因がどのようなもの...
〔26〕何物も神の前には裸かで現われるものなので、人を恐れるのは愚かなことである。〔27〕これは密室の祈祷で神から聞いたことを公衆の前に証詞せよと言うことである。またこれは人に道を語る時、適用することが出来るのである。〔28〕人を恐れるなかれ、神を恐れよ。人間は身体を殺すことが出来るだけである。しかし神は人の霊魂を地獄で滅ぼす権威を持っておられる。それなのにわたしたちの着眼点は時々狂い易いので注意しなけ...
マタイ一〇16~421~15は信仰をもって出て行くべきことを示したものであって、16~23の一段は知恵と柔和とを示したものである。またこの中には忍耐をも含む。24~42、ここは大胆にキリストの証詞をするべきことを教えたものである。わたしたちはこの決心と大胆を要するのである。〔16〕どうしたらわたしたちは大胆に進むことが出来るか。この節にあるように「我汝らを遣す」の聖言にあるのである。ユダの獅子であるイエスが共に行...
十二使徒の派遣(マタイ一〇1~15)汚れた霊を追い出すとは、キリストの敵を追い出すことである。また彼らは病を癒やす権威をも賜わった。人はどうしても霊と肉体との救いを得なければ満足することは出来ない。〔5〕イエスはペンテコステ前は、ユダヤ人だけの救い主であった、だからこう仰せられたのである。「イスラエルの家の迷える羊に往け」キリストがいかにイスラエルを顧みておられたかがわかる。望みなく亡びに近づいている...
口の不自由な人から悪霊を追い出す(マタイ九32)悪霊の一つの働きは人間の口を不自由にすることである。神が人間に口を与えられたのは、神を讃美させる為、人の徳をたてさせる為である。悪魔はこれを閉して、神を讃美させないようにした。また人をおしゃべりにするのである。ある人は口の不自由な人はのどの器械が足りないのだと言う。しかし悪霊の働きであることがしばしばある。今日といえども、信仰によって主を働かせるならば...
二人の目の癒し(マタイ九27~31)ダビデの子孫とはメシヤすなわち救い主の意である。彼らはイエスがメシヤであることを信じていた。「われこの事をなし得るや」と、イエスは信仰を要求される。そこでわたしたちが祈る時に神は、わたしにこのことをすることが出来ると信じるかと仰せられる。しかしその時主を見上げる者は「主よ然り」と言うことが出来る。ここに信仰の順序を見ることが出来る。さてわたしたちは肉体の目は開かれて...
長血を患った女の癒しとヤイロの娘の復活(マルコ五22~43)〔35〕「何ぞ師を煩わすや」このような望みのない時に悪魔は激しく働く。けれどもイエスは助けて下さる「恐るる勿れ唯信ぜよ」と。何と有難いことではないか。多くの場合悪魔は「駄目だ駄目だ」と言う、しかし主の言葉を信じて進むべきである。〔37〕「誰にも共に往くことを許さざりき」不信仰な人はいざと言う場合に何の役にも立たない。一緒にいることさえ障害となる。...
長血を患った女の癒しとヤイロの娘の復活(マルコ五22~43)会堂の司とは宗教上重い役目である。当時信者のすくない時、しかも会堂の司の中にヤイロのような信仰篤い人物を出したことは驚くべきことである。信仰には謙遜が伴うものである。「其足下にうつ伏して切々に求めいいけるは……」これは切なる祈りである。マタイによる福音書(九18~26)の方には「既に死ねり」とあるのを見れば、ここに矛盾があるようであるが、既に死ねり...
悪霊が豚に入る(マタイ八28~34)現在悪魔は、神の前に敗軍の将である。しかし個人から追い出される時は信仰する時である。これを飼主から見る時、豚が海に溺れたのは、大損害である。しかしユダヤ人より見れば、豚は汚れたものであって、律法で禁じられていた。だからイエスがこのようになされたのは当然のことである。パウロがピリピで悪霊を追い出した時も、金儲けの道を失った人が出て来た。マルコ五1~20レギオンとは連隊と...
イエス嵐を静められる(マタイ八23~27)イエスと共に舟で乗り出すことは大切なことである。次に注意しなければならないことは、イエスと共にいる時にも世の中の嵐は吹くと言うことである。このような場合神から捨てられたように、またこれは神の聖旨ではないなどと思うことがある。この時は実に心細く感じる。マルコ四35を見ると、水が舟に満ちたとある。その上その時は夕暮であった。弟子たちはどんなに心細く感じたことであろう...
隠された宝と真珠のたとえ(マタイ一三44~46)〔44〕このたとえを信者の側から見ないでキリストの側から見なさい。先ず第一にキリストは卑しいわたしたちを顧み、このわたしたちの魂を重んじて、これを求められた。すなわちわたしたちの魂を目がけて、天の栄えを捨ててこの地上に来られ、真珠のようにわたしたちを買い上げられたのである。これを土台として、人の側から味わうべきである。このようにして与えて下さるキリストの賜...
からし種とパン種のたとえ(マタイ一三31~35)このたとえには二つの解釈がある。一つは小さな福音の種が大いなる福音の実を結ぶことを示したものであると言うことである。他の一つは、小さな罪が非常に大きな罪となると言うことである。いずれも一面の真理であるが、前後の関係を見れば、後者すなわち罪のたとえと解する方がよい。わたしたちも知っているようにからし種は実に小さなものであるけれども樹木のように大きくなるもの...
毒麦のたとえ(マタイ一三24~30、36~43)天国とは神の国との意義に用いられた所もあるが、ここでは真理を説けばとの意である。〔25〕ここにあるように、悪魔は疲れた時、寝た時のように油断した時に、すきを狙ってひそかに悪の分子を投げ込むのである(マタイ一三36~44参照)。〔26〕この世には悪魔の子と神の子とがある。教会の中にもこのように二種の者のあることは注意すべきことである。〔27〕主人の僕とは伝道者のような者...
種まきのたとえ(マタイ一三1~23)マタイによる福音書一三章一節より五〇節までに七個のたとえがある。最初の四つは一般の人に語られたものであるけれども、後の三つは弟子たちに語られたものである。ある人は第一を緒言とし、残りの六個を三組に分け、第一組は第二と七、第二組は第三と四、第三組は第五と六であると言う。しかしここでは聖書の順序に従うべきである。すなわち最初の四つを一般として第一は神の種まき、第二は悪...
イエスの身内の来訪(マタイ一二46~50)マルコの言う所を見ると、この時イエスは伝道の為に大変多忙であったと見ることが出来る。その為イエスは断然これを拒絶された。イエスがどんなに天の父の御事業を重んじておいでになるか。それは彼の一二歳の時の精神と同じである。ここを見ると、イエスは自分の母や兄弟たちを非常に軽視しておられるようであるが、マルコ三21以下を見る時、彼の親族等も彼について種々なる誤解を持ってい...
イエスしるしを求める者に答え給う(マタイ一二28~45)キリストはすでに目しいを見えさせ、足なえを歩かせ、耳しいに聞かせ、ご自分のメシヤであるしるしを顕わされたが、頑固な学者とパリサイ人は天からのしるしを求めた。これによって彼らがどんなに頑固であったかを知ることが出来る。〔40〕三日三夜とはユダヤ人の数え方であって、足かけ三日の意である。キリスト・イエスの神であることは、その甦えりによって証明することが...
悪霊につかれた者の癒し(マタイ一二22)これは大変な恩恵である。この人は悪霊につかれた為、目は見えず、口は利けず、世にあっては無に等しい者である。しかしイエスはこの悪霊を追い出し、口を利けるようにされ、目を開かれたことは、この恩恵の表われである。メシヤのしるしである。〔24〕「この人」とある。これは英語のヂス・フェロー、すなわちこいつとの意であって、実に軽蔑の言葉である。〔25〕これはキリストの論法であ...
第二回ガリラヤ巡回(ルカ八1~3)ここにわたしたちは巡回伝道者であるイエスを見る。わたしたちは巡回伝道をする時、このイエスを覚えたい。わたしたちは一人で行くのではなく、彼が先に行かれるのである。福音とは死んだ人に生命を与えることである。ここでイエスに従う者は先の十二弟子次は病を癒された者たちであって、マグダラのマリヤ、ヘロデの家令の妻もいた。実に大勝利である。彼らは十二弟子のように働くことは出来なか...
香油をイエスの足に塗った女(ルカ七36~50)(二種の献げ物)パリサイ人はいかにもイエスを愛していたかのように、金銭を費して彼を招いた。ここに出て来る婦人は町の中で悪いことをした女性だとある。「後に立ち」これは謙遜を示している。またこのなげきは実に幸福なるなげきである。自分の罪を悲しみ、神の恵みに感じて流した告白の涙、感謝の涙であった。またこの婦人は自分の頭の毛をもって、イエスの足を拭いた。すなわち彼...
イエス町々の頑くななのを責められる(マタイ一一20~24)悔改めない人に対しては神の親切も、神の愛も恵みもことごとく水の泡となった。彼らはイエスのメシヤである証拠を見たけれども悔改めなかった。コラジン、ベツサイダはガリラヤの町である。ここはキリストの伝道の根拠地であって、キリストの口より充分教訓を聞いたけれども悔改めなかった。勿論少数の人は悔い改めた。しかし大多数の人は悔い改めなかったのである。これは...
バプテスマのヨハネ、使者をイエスに遣わす(ルカ一一2~19)ヨハネの信仰は確実であったにもかかわらず、イエスに使を遣わしてメシヤのことを問うたのは、ヨハネの頭の中に幾分か地上での神の国を期待する考えがあったと思われる。それなのに彼は、自分は牢に入れられ、イエスはますます民の中に奇跡を行っておられるので、大いに怪しんだのである。そこで彼は使をイエスに遣わしてこのことを問うた。キリストは親切にこれを迎え...
やもめの子の甦えり(ルカ七11~17)夫に死なれ、またひとりっ子に死なれたこのやもめを見られた主の御心には同情の心が燃えた。今も主は世の中の嵐に悩まされ、死と言う嵐にもまれている人に、どのように同情をもってお出でなされることであろう。ペテロもまたその他の使徒も死人を甦らせたが、今の教会の中にこのようなことが行われていないのは、わたしたちが神から信用されていないからである。主はわたしたちに約束して言われ...
百卒長の僕の癒し(ルカ七1~10)二節を見るとこの人が愛の人であったことを見ることが出来る。真に熱心な祈りは愛より来るのである。四節五節にも彼の愛が表わされている。「善人」偉い人とはない。「我等の為に会堂を建てたり」彼は神を愛していたので、ユダヤ人をも愛していた。この人は愛の人であっただけでなく、謙遜の人であった。このような急な場合においても、七節のような態度をとったことを見る時、彼がどんなに遠慮深...
平野の説教(ルカ六17~49)この説教が山の上の説教と異なる理由は、十二使徒選択後であること、またここでは平地にいることによって明らかである。〔18〕ここに「ことごとく癒されたり」とある。イエスの身には常に能力が満ちていた。丁度電気にさわれば皆その力を感ずるように。ルカによる福音書にはマタイによる福音書の山上の説教とは異なり「いま」と言う文字がある。すなわちこの世の物に満足を得ることが出来ずに、餓え渇く...
イエス十二使徒を立てる(ルカ六12~16)ここで終夜イエスが祈られたのは使徒を立てる為であった。実に窮するに余りあることである。しかしある人は言うであろう。もしイエスが神の子ならば、このように長時間に渡る祈りは必要としないであろう。神に相談すればすぐ解るだろうと。しかしわたしたちは先ずここでイエスが人間であり、わたしたちと同じ肉体を持っていたことを考えなければならない。すなわち彼はわたしたちと同じく祈...
イエス退いて祈る(マタイ一二14~21)これはガリラヤでの出来事であることは、マルコ三7~12を見れば明白である。イエスの行き給う所にはどこでも諸方面から沢山の人が集まったが、「我に来る者は我必らず」これを捨てずとの言葉の通り、彼は真実に彼に来る者を癒し給うた。このイザヤの予言はイザヤ四二1である。その僕とはイエスのことである。喜ぶとは愛することであって、神の愛するひとり子のことである。イエスが聖霊のバプ...
手のなえた人の癒し(マタイ一二10~13)神は人間に両手を与えて下さったが、ある人の手はなえて少しも役に立たない。この人も肝心な右の手がなえていた。霊的にも片手のなえている人がある。その人は信仰によって恩恵を受け取ることの出来ない者である。また愛によって与えることの出来ない人である。神は片手ばかりでなく両手を人間に与えて下さった。受けるばかりでなく与えることも出来るようにして下さった。ある人が樹木を見...
弟子たちが穂を摘んで食べる(マタイ一二1~8)申命記二三25を見れば、畑の物は摘んで食べてもよいと録されているが、パリサイ人は、安息日にこれをしたことを理由に、このようにキリストに抗議したのである。それをキリストは弁護して下さるのだから実に有難いことである。主の答は斬新で聖書的である。彼はサムエル前一二1~6の事実を引いて、見事にパリサイ人の鋒を挫き給うた。ここの記事によればダビデは確かに律法を犯した。...
三八年病んだ者の癒し(ヨハネ五2~16)ベテスダとは原語では「恵みの家」の義であって、キリストの型である。すなわち神がキリストの型として、実物教訓として与えたものである。三、四章の出来事は特別の出来事であるが、神は御摂理の中にキリストをしてこのように大なる奇跡をなさしめ給うた。四節に先立って入った者だけが癒されたと録されているが、旧約では人間に行いを要求したので失望があった。しかし六節を見ると実に恵...
取税人マタイの召し(マタイ九9~13)人間が相手にしない者にイエスは行って「我に従え」と仰せられた。ルカによる福音書の方を見るとマタイは一切を捨ててイエスに従ったとある。欲の深い取税人が一切を捨て従ったのを見ると、彼が非常な決心を持っていたことがわかる。またマタイによる福音書と対照する時にマタイの特色を見ることが出来る。ここで悪魔は色々のことを言ったが、イエスはことごとく勝利を得た。〔13〕神の好み給...
中風の人の癒し(マルコ二1~14)二節を見るとおびただしい群衆であることがわかる。また四人でこの中風の人をかついで来たことはマルコにのみ記してあり、四節を見れば四人の熱心が大変なものであることがわかる。彼らは百方力を尽したけれども入ることが出来なかった。しかし失望もせず、ついにその望みを達成した。ここにある病人は実に重病であったことがわかるが、四人の者が何としてでも彼を癒して貰おうとする熱心を持って...
らい病人の潔め(マタイ八2~4)「来り拝して……」これは真の謙遜である。ただの敬礼ではない。「主もし御心にかなわぱ……」この人は主の能力を信じていた。けれども御心については光の欠乏している人であった。しかしその信仰は決して弱くなかった。なぜならば三年や五年の病気であればともかく、らい病となれば、人の目から見て失望するのが当然である。次にイエスは「我旨に適えり潔くなれ」と仰せられた。実にこれは有難いお言葉...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (19) 山上の説教 15
〔13〕「狭き門より入れよ」よく言う言葉であるが、天国へ行く道は本当に狭い。ただ信者になる時に狭いばかりでなく、信者の生涯を送るにも狭い。なぜかと言えば神がきよいお方である為である。けれども今日の信者はおろか伝道者でさえも狭い道をはずれている。罪と汚れを捨てること、全く献身することを非常にゆるがせにしている。聖別会に出席する人の中にも、本当にせまい道を歩いている人は少ない。どうしても人間の肉は狭い道...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (18) 山上の説教 14
〔7~12〕「求めよさらぱ与えられ……」ここでキリストはもう一度祈りについて教えられた。しかも特に力を入れて教えておられる。もちろん神の側としては人間に聖霊を与え給うが、人間の側としては熱心に求めなければならない。聖霊は祈りの目標であり、賜物の中の賜物である。「求めよ」とは自分の欲するものを指すので、神はこれを与えられる。「尋ねよ」とは失った物を尋ねることで、神を見失った時のことである。神を見失った者...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (17) 山上の説教 13
第七章〔1~5〕この言は平常よく言っていることであるが、実際において警戒せねばならない。ちょっとした人の欠点を見た程度でどのように思うかが問題である。その人を審く位地に立とうとすることはないか。また全てを神が審判することを思ってその人のことを同情をもって考えるか。主はよくこのことを知っておられる。わたしたちはアダムの子孫である以上、生まれつき人をとがめるのは天性であるけれども、イエスの血によって潔め...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (16) 山上の説教 12
〔25〕「生命の為に何を食い……」生命は実に大切なもので、食物は割合に軽い。神は生命を与えられたからには、必らずこれを守る為の食物と衣服を与えて下さる。キリストはなお次の節でたとえをもって懇切に教えられる。〔26〕「汝空の鳥を見よ……」キリストはこのように誰にも理解出来るように教えて下さる。「空の鳥は何も知恵をしぼり出してことをするのではない。ただ天の父がこれを養って下さるのだ」とおっしゃられた。「汝らこ...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (15) 山上の説教 11
〔19~21〕昔の財宝は着物あるいは錦、縫取りをした立派なものが財産の大部分を占めていた。しかしこういう財宝は盗人が盗む。ただ盗まれないのは天に貯えた財宝のみである。財宝のある所には心があるというのは真実である。わたしたちはこれによって自分の姿を知ることが出来る。わたしたちが朝から晩まで、重んじ、思い、心を労しているものは果して何だろう。ルターは言った「その人の愛しているものは、その人の神様である」と...
「キリスト伝講義」人望を得た時代 (14) 山上の説教 10
〔9〕この祈りの意味は簡単であるけれども、深くまた広い。「我らの父よ」祈りの時、このように神との親しい関係で祈らなければならない。またこの言は自分一人のためでなく、兄弟姉妹のためにも祈るべきことを表わしている。実に人ではなく、また地にでもなく、天にいます父に求めることは幸福である。「御名を崇めさせ給え」これは信者の深い願いである。「御心の天に成る如く……」わたしたちの行く所はどこでもこれを神の所とな...
第六章〔1〕人間の生まれつきの傾向は、自分を人の前に現わし、自分の義を弁護するものである。この傾向はどんな人にもある。そこでまだこれを取り去っていない者は、すみやかに御霊によって焼き尽されねばならない。そして神の御前に神からの報いの頂ける生涯を送らねばならない。〔2〕今でもこの「人の栄えを得んとする」精神が働いている。だからわたしたちは確実にこれを取り去られねばならない。〔3〕これは極めてひそかに正...
〔31〕今日の教会には、この戒しめを特別には重んじない風潮のあることをおぼえ、自分自身で固く守り、人々に警告し戒しめるべきである。〔33~34〕神を知らない所には、このような罪悪はない。しかし神を知った国の人には、悪魔は特別にこのような悪にわたしたちを誘う。慎重でなければならないことである。アメリカあたりの下層社会ではやたらに主の名を呼んで、「神がお前を罰する」という風に実に聞き苦しい言をはく者がある。...
〔17〕今は新約時代だからと言って律法を守らない人もあるが、律法と恩恵とは決して衝突しない。主イエスは律法を完全にするためにこの世に来られた。またここに信者の責任の重いことを表わしている。ある人は律法位少々は破ってかまわないと言うが、それは大いなる間違いである。なお不義は必らず友を求めるもので、一人で悪事を働くことは良心がとがめて出来ない。あの人もやっている、この人もやっているなどと標準を人におき、...
〔13〕塩は腐敗を止めたまま味を付けるものである。世の人は神の目からご覧になる時には腐れているが、この腐敗を止めるのは神からの塩だけである。レビ二13にある塩とはキリストの潔い生涯の型である。この世の人は外面は味があるようだが、心には少しの味もない。しかしほむべき主はわたしたちを塩とするために、ご自身の霊を与えられる。マルコ九49を見れば供え物は必らず塩づけられ、塩をよくするには火にかけるとあるが、この...
〔10〕これまで七つの品性を画いて来た。この節からは七つの品性を有する結果として、その人と世人との衝突を画いたものである。主はこの七つの品性をわたしたちに与え給う。そのためわたしたちがこの品性を受けた時には世と反対になって来る。テモテ後三12、13にあるように真面目であれば世と衝突するのは当然である。このような人は天国において報いが多い。かりに地上で何物を失っても天においては大いなる報いがある。もしわた...
〔7〕六節までは消極的であるが、ここから積極的になる。自分の欠乏のために砕けた人は今度は同情の人となり、人が悪事を働いた時にもすぐさま自分で裁判する地位に立たず、あわれみを持つようになる。神はまことに同情に富み給うお方である。そのあわれみを味わった人はまたあわれみを持つ人となる。あわれみは新約を通じて表われている神の御性質である。そこでこの神はわたしたちにもまたあわれみの人となることを求められる(...
〔5〕「柔和なる者は幸なり……」これも以上の結果であって、心の貧しいために悲しみ、悲しんでいる人は柔和になる。すぐ怒り、人をとがめる人は心の貧しい人ではない。柔和とは意気地のないことではない。いかなる場合にも自分の損を甘んじて受ける人である。テトス三1。二三節にある通り自分が以前には悪かったと言うことを記憶している人は自然柔和となる。権限や論理の方から言えば、キリストはわたしたちを粉微塵にしてもかまわ...
第五章この時主イエスの伝道に対する世論はますます高くなり、多くの人々がこの山に集まった。この山はカペナウムの近くにある小さい山で、主はここで多くの聴衆と弟子とを見て座につかれた。言わばこの山はキリストの講壇であった。主がこの教えを語られた人は、格別に主を受け入れた人であった。その為に主のこの説教は求道者に適している。また実に円満な説教である。ここで「汝ら」とあるのは弟子に向って仰せられたので、福音...
山上の説教分解五章。 1~12 真正の幸福。 13~16 信者の責任。 17~48 法律。 (1)17~20 法律の威厳。 (2)21~26 他人を害すること。 (3)27~30 姦淫罪。 (4)31~32 離婚罪。 (5)33~37 誓約の罪。 (6)38~42 復仇の罪。 (7)43~48 完全な愛。六章。 1~18 偽善者を戒しめる。 (1)1~4 ほどこし。 (2)5~15 祈り。 (3)16~18 断食。 19~34 肉体上の必要物。 ...
シモンのしゅうとめと多くの人のいやし(マタイ八14~17)「イエス、ペテロの家に入り」このようにイエスは身分の低い人の家にも入り給うお方であった。「ふし居たるを見て」ある人は病人の所に行ってもそれを見ようとしない。けれども主は親しくご覧になり給うた。「さわりければ」イエスがさわる時はいかなる病気もいやされた。この「入る」「見る」「さわる」の三つはイエスの愛を表わしている。「女おきて彼らに仕う」いやしの...
悪魔につかれた人のいやし(マルコ一21~28)二二節に学者のようでなくとある。多くの説教者は学者風になり、興味のあるように、文学上宗教上の種々のものを引照するけれども、これらは霊魂を救うことが出来ない。魂を救うには上からの権威を与えられなければならない。ルカ四32~36。ここで悪鬼がいかにイエスを恐れていたかを見よ。今日でもイエスの霊に満たされている者が行く時には、悪鬼も恐れるのである。わたしたちもこのよ...
イエス、カペナウムに行く(マタイ四13)ペテロ、ヤコブ、アンデレ、ヨハネの召し(マタイ四18~22)主が弟子を召されるのにエルサレムに行って学者や知者を召されず、海辺に育った者を召された(コリント前一27~28参照)。人をすなどる秘密は一九節にある。「我に従え」と言う命令に服従すること、一挙一動イエスに従うことである。社会的な事業によって巨万の富を得るよりも、一人の魂を得ることは大いなる業である。世の知者学...
イエス、ナザレにおいて捨てられる(ルカ四16~30)この時とマルコ六1~6にある記事とでは時の相違がある。主はここでイザヤ六一章を引用なさったが、これは聖書の活用である。聖書は適当な所だけ用い、他は用いるべきでない。パウロもテモテ後二15でテモテにこのことを示している。真の道を正しく教え、分ち与えることは大切なことである。けれども多くの人は正しく教え、分ち与えることをしないので、人の徳を建てない。主にここ...
サマリヤの女との会話(ヨハネ四4~42)注意。主イエスがガリラヤに行き給うたことは誘惑のすぐ後のように記してあるが、実は試練と続いたものではなく、幾月かの日数があった。「旅の疲れにて……」これによって主イエスがわたしたちと同じように旅において疲れを感ずるお方であったことを知る。わたしたちが疲れた時、このイエスもスカルで疲れ給うたことを思え。イエスのみ真実にわたしたちに同情を表わすことが出来る。もしイエ...
ニコデモとの談話(ヨハネ三1~21)ニコデモは地位のあるユダヤ人で、パリサイ人、宗教家、また学者であった。以上は表面から見たものであって、彼の心には渇望があったので求道者の地位に立って、キリストのもとに来た。そして大いにイエスを称讃した。しかし主のお答えを見よ。実にイエスの態度の厳粛であることを見よ。イエスはニコデモの言葉には答えずに、心に答え給うた。多くの人はニコデモのように心の状態を言い表わさな...
イエス神殿をきよめる(ヨハネ二13~22)キリストは未信者の罪に対しては、はなはだしく怒り給わないけれども、信者、教会内に罪を見出し給う時には、容赦なく責められる。昔ユダヤでは神殿に行った時、お金を献げたり、牛、羊、鳩を献げたりした。そのため両替えする者、また色々な商人がいた。牛、羊、鳩を売り、また両替えすることは、悪いことではないけれども、彼らは偽善であり、また自分の欲望を満たすためにおこなったので...
最初の奇跡(ヨハネ二1~11)婚宴は神に聖別されたものである(へブル一三4)。わたしたちは婚宴の席にあるとき、イエスもその中にいますことを思ってつつしむべきである。「ぶどう酒つきければ」地上の快楽は尽きる時がある。「母イエスに言いけるは……」マリヤはキリストを使用しようとした。多くの人はキリストを使用しようとするけれども、四節のように拒絶されてしまう。「我が時未だ至らず」キリストは父なる神のお許しを受け...
最初の弟子の召命(ヨハネ一37~51)〔41〕「二人の者のその一人は……」とあり、なお一人の弟子の名がない、これは記者自身すなわちヨハネである。ナタナエルは、マタイ一〇3にあるバルトロマイであろうとの説がある。最初の弟子は、ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエルの五人である。なお注意しなければならないのは、この章において六つのイエスの名が表わされていることである。すなわち(一)バプテスマのヨハネには...
イエスの受洗(マタイ三13~17)〔15〕ここに「我ら」と言う複数の言葉を用いたのは、神人両性を備えておられるからである。他に一緒に受洗した者があったからではない。〔16〕「神の御霊の鳩の如く……」霊はすべての人に見えたか、またヨハネだけに見えたか、それは疑問であるが、とにかくヨハネは霊眼の明らかな人であったから、あるいはヨハネだけに見えたのかもしれない。イエスの誘惑(マタイ四1~11、 マルコ一12~15、 ルカ...
パプテスマのヨハネの伝道(マタイ三1~4、 マルコ一1~8、 ルカ三1~18、 ヨハネ一6~15)〔1〕バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で宣べ伝えた。ここで、伝道するに場所を選択する必要のないことを学べ。ステブングレレットと言う人が祈っている時、不意に山奥に行って説教せよとの神のみ声を聞いたので、ただちに山に行って説教した。そこにはただきこりの小屋があるだけであって、人の影すらなかったけれども、ステブングレレッ...
イエスの十二歳の時(ルカ二41~51)〔エルサレム〕〔41〕家族こぞってエルサレムの宮に上るのは楽しいことであったろう。美わしい家庭の姿が想像される。わたしたちも家族こぞって教会に行くのは、実に楽しいことである。主イエスはご自分の父(なる神)の家に行かれることのため、心中どんなに愉快に感じておられたかが推察出来る。〔42〕「十二歳」ユダヤの習慣として十二歳になると、公会の席に連ることができ、また断食をなし...
博士の訪問(マタイ二1~12)このところにおいて次の三つの教訓を学ぶことが出来る。(一)ヘロデ王は自分だけが王位を占めるものであると思っていたから、「ユダヤ人の王」が生まれたはずとのことを聞いて悪い思いを燃やし、すなわちイエスを殺そうと企てたのである。今日わたしたち各自に自我と言うヘロデの如き王が住んでいるならば、イエスを心の中に宿すことは、到底不可能なことであるばかりでなく、ついにはイエスを殺そう...
イエスの割礼と命令(ルカ二21)イエス神に献げられる(ルカ二22~24)マリヤは天にも地にもただ一人の手の中の宝とも言うべき愛児を喜んで神に献げた。わたしたちもわたしたちの最も愛する者を献げねばならない。神は、私物として専有するのを許し給わない。シメオンとアンナの予言(ルカ二25~38)シメオンは救主を見ることをもって最大の光栄としていたが、彼は聖霊に感じて幼児イエスを見るとすぐ、イエスが万民の救主であるこ...
イエス・キリストの誕生(ルカ二1~7)〔1〕カイザルと言うのは、英語のシーザーのことである。〔7〕「布に包みてうまぶねにふさせたり」。王の王、主の主たる君がうまぶねの中に生み落され給いしとは、いかにも痛ましい限りである。しかも主が今日うまぶねのような者の心を宮として住み給うことは、更に奇蹟的なことである。わたしたちはただ神の恵みを感謝するより外はない。イエスの系図(マタイ一1~17、ルカ三23~28)マタイ...
ヨセフの夢(マタイ一18~25)わたしたちはヨセフの人物について学ぶべき所が多くある。〔19〕第一、彼は義人であった。ヨセフは下層の大工であって、しかも罪悪の入り乱れている中に生活しながら、すこしも境遇に汚されなかった。第二、彼は度量のある人であった。普通の出来ていない人間ならば刃物でも持って騒ぐところであるが、彼は軽々しくことをせず、穏便な手段を講じた。すなわち彼は彼女を辱しめることを好まず、ひそかに...
バプテスマのヨハネの誕生(ルカ一57~80)〔58〕「主がエリサベツに大なる慈悲を垂れたまいし事…」。わたしたちにも主は大いなる慈悲を垂れて下さることを常に感謝すべきである。〔63、64〕ザカリヤが天の使に「我既に年老い妻も年またすすみたれば何に因りてかこの事あるを知らん」(ルカ一18)と言った不信仰のため、「汝おしとなりてこの事のなる日まで言うこと能わじ」(20)と宣告されたが、彼は全く神を信じ全く服従した。...
イエス誕生の告知(ルカ一26~38)〔26〕この六カ月はバプテスマのヨハネをみごもってから六カ月の意味である。〔27〕ヨセフもマリヤもダビデの子孫であって、系図は、ダビデ=ヨセフ・マリヤ=キリストとなっている。〔34〕マリヤの質問は、不信仰の疑問ではなくて知識上の疑問であった。しかしザカリヤは反対であった。〔36、37〕人間には不可解であっても、神には知らないこと、出来ないことはないと、天使は懇切にマリヤに教え...
講義(読者は各項目毎に聖書の本文を読み、各節に照してこの講義を読まれるよう望む)イエス・キリストの神たる事キリストの神であることはヨハネ一1~5において明瞭である。三福音書において、イエスの救主であることを証明しても、なお救主の神性を疑う者があるのでヨハネは明白に、それの神であることを証したのである。ルカの緒言ルカの緒言1、2節を見ると、彼がいかに心を用いて事実を記録したかを知ることが出来る。テオピロ...
キリストの生涯 イエス・キリストは全聖書の中心である。旧約を見ても使徒行伝や手紙を見ても、その生涯は最大の関係を有している。キリスト伝の七区分(一)準備の三○年。(二)不明の時代。(三)人望の時代。(四)反抗の時代。(五)苦難の週間。(六)十字架の日。(七)復活後の四○日。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
キリスト時代の政治上の区画 パレスチナはキリストの時代、政治的には五つに区画されていた。すなわちガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ、ペレヤ、バシャンがそれである。(一)紀元前三七年からキリスト降誕時代、すなわち紀元前四年まではローマの属領としてヘロデ大王の王国であった。(二)ヘロデの死後領地を三分し、その子アケラオはユダヤ、サマリヤ(マタイ二22)ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤを(マタイ一四1、ルカ三6...
パレスチナの地 パレスチナはアジアに属し、その広さはわずか一二、五○○平方マイルに過ぎない狭く小さな国である。その海岸はツロよりガザに至るまでおよそ一八〇マイルの長さであって、ヨルダン河はヘルモン山より死海に至るまで一六二マイルである。 パレスチナの地勢は五つの平行線より成立する。(一)北方で幅二、三マイルより、南方ガザに至ると殆ど幅二〇マイルの平原がある。(二)この地を越えれば九〇メートルから一五...
〔四〕福音書の書かれ方(一)マタイによる福音書は秩序的である。本書は年代順ではないが、すこぶる論理的に記されている。例えば思想単位にまとめて全般を示すために、イエスの教訓、比喩、奇蹟等に分類して記されている。(二)マルコによる福音書は絵画的である。(三)ルカによる福音書は物語的な書かれ方である。(四)ヨハネによる福音書は俗話的である。会話体にしてもまるで老人の談話のようである。〔五〕福音書の主題(...
〔二〕福音書の記された時と場所(一)マタイによる福音書はおよそ紀元五〇年頃パレスチナにおいて。(二)マルコによる福音書はおよそ紀元六五年頃ローマにおいて(この書はペテロの指図の下に記されたと言われる)。(三)ルカによる福音書はおよそ紀元六三年頃ローマにおいて。(四)ヨハネによる福音書はおよそ紀元九〇年頃エペソにおいて。〔三〕福音書は誰のために記されたか(一)マタイによる福音書 ユダヤ人のため理由 ...
四福音書 イエス・キリストの伝記とその事実を知ろうと欲するならば、わたしたちはまずキリストに関する知識の得られる書物を精しく調べねばならない。ここに権威ある書がある。すなわち四福音書である。〔一〕記者(イ)第一福音書の著者はマタイである。彼がキリストの弟子となる前の職業及び彼が主の召しを受けたことについては(マタイ九9)を見よ。彼の別名についてはマルコ二14を見よ。当時収税人の状態については(マタイ...
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宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔...
イエス祈ることを教う(ルカ一一1~13)ここに弟子たちはキリストの祈りの力あるのを見て、祈ることを教えられんことを願った。これは実に善き願いである。次に注意すべきことは、主がこの祈りを教え給うたのはその文句ではなくてその精神である。「天に存す我らの父よ」これは目を天に上げわたしたちの父に願うのである。「御名を崇めさせ給え」第一に願うことは、神の御名が崇められることである。「御心の天になる如く」神の御...
ベタニヤにおけるイエス(ルカ一〇38~42)〔38〕マルタは、実に主に対して熱心であった。ヨハネによる福音書にも、マルタが主に対して機敏に活動しているのを見る。「これを迎えて自己の家に入りぬ」主と主に属する者を家に迎え入れることは、実に幸福なことである。〔39〕「マリアと言える者あり、イエスの足下に座りてその道を聞けり」。またヨハネによる福音書十一章二十節では、マルタはイエスを迎えに行ったが、マリアはなお...
善きサマリヤ人の譬(ルカ一〇25~37)場所はエルサレム。この話はたいへん恵みに感ずる。また非常に探られるところである。この律法学者は聖書をよく知っていた人で多分、キリストのことを聞いてどのような人物かをためそうとして来たものであろう。この人の仕打ちはたいへん悪いと言うほどではないが、キリストを試験したのであるから、実に無礼なことであった。「師よ、我何をなさば永生を受くべきや」これは実に大きな問題であ...
七十人の弟子帰り来る(ルカ一〇17~24)このところで、弟子たちが得意になったのは、人情の自然で、われわれの中にも成功する時にはこのようになることがある。なお、彼らは自分の成功を人の前に報告したのではなく、主の前に報告したのであるから、さほどとがめるには及ばないようであるが、主は彼らが慢心に陥ることを戒め給うたのである。「サタンの天より落つるを見し」とは、イエスが彼らに霊界の有様を告げたのである。〔19...
羊の門また善き牧者なる基督(ヨハネ一〇1~21)囲いとは、昔のユダヤ教また今日のキリスト教である。神の備えた入口以外の所から入る者は盗人である。また門と牧者とは、離れることのできない関係にあるもので、牧者は必ず門より来るものである。〔4〕の「羊彼の声を知りてこれに従う」とは、キリストとその弟子の関係である。パリサイ人は、決してキリストの声を知らなかったから従わなかったのである。天国に入るには必ず門であ...
盲人の者癒される(ヨハネ九1~41)ヨハネによる福音書九章一節は前章の続きで、キリストが人々の中を通って行き給いしその途中の出来事である。ある批評家は、キリストが人々を恐れて逃げたと言うが、イエスは命が欲しくて逃げたのではない。まだ殺される時でなかったので去り給うたのである。それ故、途中で盲人の者に会えば、これを憐み癒し給うたのである。もし恐れて逃げるのならば、盲人がいても癒すどころではない。ここで...
節の後の説教(ヨハネ八12~59)〔12〕イエスこそ、実に心霊界の太陽である。世の人は、自然界の太陽を知っているが、心霊界の太陽を知らない。実に悲しいことである。しかしながら、キリストを持つ者は、命の光を歩み得るのである。この所で、注意すべきことは、悪魔も光の使いのようになってくることである。それ故に、世の中に悪魔の与える光を、真実の光と思っている人がある。これは実に、危ないことである。それならば、わた...
姦淫した女イエスの前に引き出される(ヨハネ八3~11)〔3〕このところで、学者とパリサイの人は、この女を訴えたけれど、自分たちは、返って恐ろしい者であった。彼らは実際罪を憎んで訴えたのではなく、自分たちが、律法に対して熱心であることを現わさんために、第二は、キリストを試みんためにこの様に訴えたのである。申命記二十二章二十二節を見れば、この様な者は、石で打ち殺すように書いてある。もし、律法を重んずるなら...
イエス神殿で民を教え給う(ヨハネ七11~53)この時は、仮庵節であったが、これはただ儀式で、キリストを表わすものである。すなわちキリストは、わたしたちのためには仮庵節である。昔イスラエル人が、荒野を旅行する時仮庵の中に住んだ様に、わたしたちは、この世の荒野でキリストと言う天幕、すなわち仮庵に住むことができるのである。また、天に行ってからも、わたしたちの真実に安息するところは、キリストである。また、かの...
イエス仮庵の祭りに臨まれる(ルカ九51~56)この時イエスは地上のみわざが殆ど終りに近ずいていた。丁度人が夕方今日の日は暮れると言うので、力一杯働く様子に似ている。しかも天に昇るとは言うもののその実は殺されるので、死が近ずいたのである。しかしキリストにとってはこの死が勝利の秘訣であり、彼はこれを確信しておられた。この時キリストは十字架の悲しさと、昇天の嬉しさ喜ぱしさが交互に混ると言うようなありさまであ...
七十人の弟子の派遣(ルカ一〇1~16)以前に十二弟子をつかわす時と同じなので詳しくは述べない。〔1~2〕主の御目には亡びる霊魂が見えている。またここで伝道の前に祈るべきことを教えられる。またキリストが行けと仰せられてから行くことである。二人で行ったことは大切なことであって、神の知恵を見る。その後主が伝道に行かれることは記憶すべきことである。〔3〕この「往け」との声を聞いて立つ時は、神の力が加わる。軽卒に...
薄情な僕のたとえ(マタイ一八21~35)〔21〕これがペテロであったのが面白い。ペテロは弟子たちの中でも、出過ぎる方であった。主が何か仰せられると、彼は弟子たちの代表者となってイエスに向った。しかし何時でも出過ぎては頭を打たれた。多分彼は友人たちからきめつけられたのであろう。それがしゃくにさわって時には抑えたが、抑え切れずに主の前に持ち出したものであろう。これは潔められる以前のペテロである。すなわち一方...
イエス弟子たちの欲望を叱責される(マタイ一八1~20)マルコ九34、弟子たちの頭からとかく大いならんとする分子が抜けなかった。やはり自分はどの位偉いのだろうと言う精神が残っていた。天国に入るにはまず幼な児のようにならねばならないが、天国にいる者はまた幼な児のようである。幼児について学ぶことは遜っていることである。幼児は人がこうだと言えばその通り信じるものである。このようでなければ神様と一致することは出...
イエス再ぴその苦難を予言する(マタイ一七22~23)イエスがこの悪霊につかれた者、誰も癒すことの出来ない者を癒された時に、弟子たちの得意は、実に非常なものであった。彼らはこの調子では、間もなくキリストはエルサレムを占領し、自分たちは右大臣、左大臣の位でも得ることが出来ると思っていたであろう。ところがイエスは二三節に十字架のことを話された(ルカ九44)この「耳におさめよ」とは英語で、「沈み込ませよ」との意...
イエス悪霊を追い出す(マタイ一七14~21)この三人の弟子は、山の上で恵みを受けたが、また山を下らねばならない。山の下には多くの悩んでいる者がいる(マルコ九22)を見れば「我らを憐みて助けよ」とある。すなわちこの子の父は、子の苦しみを自分の苦しみのように思っていた。丁度あのツロ・フェニキヤの女と同じ態度であった所を見ると、この人は確かに信仰を持っていたに相違ないが、全き信仰ではなかったらしい。〔16〕「こ...
キリストの変貌(マタイ一七1~13)この変貌は弟子たちのためだけでなく、キリストへの奨励であった。神は何時でも全く服従する時に、ご自身の栄光を顕わされる。すなわち弟子たちは、まず大体十字架を負う決心があったので、神はこの栄光を顕わされたのである。〔2〕キリストの容貌は、実に見苦しいお方であった。しかしこの時真実の栄光が顕われた(マルコ九3参照)。〔3〕エリヤは予言の中で大いなる人、モーセは律法を立てた人...
イエス自己の死を予言される(マタイ一六21~29)この出来事はあのペテロの告白と対照して見ると大いなる教訓がある。ペテロは「汝は活ける神の子なり」と言って、キリストからおほめを頂いたが、キリストが長老、祭司たちから苦しみを受けること、すなわちキリストが十字架にかかられることがわからなかった。イエスは弟子たちがご自分がキリストであることを悟った時に、十字架のことをお知らせになられた。弟子たちは、キリスト...
ペテロ、イエスの神性を認む(マタイ一六13~20)〔13〕はイエスの弟子の目の試験である。〔14〕の弟子たちの答は、世の人の目である。このような目を持つ者は地獄行きである。〔16〕はペテロのイエス観ではなくて、、聖霊のイエス観である。キリストとは、神から油注がれた者の義である。〔17〕キリストは明白な信仰を持っている者に報いを与え給うのである。文字通りならば、ペテロの上に教会を建てると解すべきであるが、これは...
目しいの癒し(マルコ八22~26)この出来事は、肉体の癒しの漸次的な実例である。時として神は段々御手を加え給う場合がある。だからわたしたちからかれこれと注文すべきものではない。これをまた霊的に味わうならば、心の目に適用することが出来る。心の目の盲目な者は、天の栄光も、地獄も、キリストも、永遠もまた神の存在も明らかに見ることが出来ない。勿論頭では合点していても、ハッキリしていない。しかしキリストの手すな...
「天」の意味 「天の支配」について述べるとき、「天」という言葉が最も大事な思想です。私たちは聖書における天の象徴的意味を理解したいと思います。聖書の中で天が示す最初のことは普遍性です。聖書全体を辿っていくと、天は普遍性を表していることを常に見いだします――すべてに浸透し、すべてを包み、すべてを含む、天の普遍性を示しています。天はすべてを束ねます。存在するものはみな、天の内側にあります――どんな惑星を訪...
今日、天の支配が大いに必要です。しかし、聖霊がそれを行わなければなりません。組織的キリスト教の中に見られるものはそれではない、という事実を私たちは認識するようにならなければなりません。霊的な神の民は、キリスト教や教会や教会制度の古い体系から分離されていると、ますます感じるようになりつつあります。人々は、これまで長いあいだ支配してきたものに、深い不満を覚えるようになりつつあります。霊的実際を求める...
繰り返しになりますが、これは、本質的に神に属する事柄の中に入ろうとしているすべての人に必要なことを示しています。神から出ているものに不可欠なことは何でしょう?上からその中に入らなければならないことです。水平的に物事の中に入ることもできます!――大学である程度準備することにより、あるいは、そのための他の準備によってです。そして、「務め」と称されている、この地上の物事の中に入ることができます。あるいは...
事実はこうです。天的な体系があって、それは全く霊的であり、一瞬たりとも天然の感覚では理解できないものなのですが、神はそれを型や絵図や様々な方法で描写してこられたのです。しかし、神の御旨は、人が型にすぎないものを握って永続させることではなく、それらすべての背後には、人がその中に入ることを神が望んでおられる霊的体系があることを認識するようになることでした。私たちはこれをある意味で知っていますが、適切...
「天が支配していることをことを知った後、あなたの王国はあなたに確保されるでしょう。」(ダニエル四・二六)。「神の見えない永遠の力と神性の特徴は、世界が創造されて以来、明らかに見られており、造られた物において認められているので、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ一・二〇)。「しかし、キリストが来て、来たるべき良い事柄の大祭司となられ、手で造られたのではない、すなわち、この創造に属するものでは...
ルカによる福音書でも、この同じ事実が示されています。すなわち、天の支配は主の家――彼の教会――と結びついている、という事実です。このように、天の主権の行政上の手段としての教会が強調されています。「七十人は喜んで帰って来て言った、『主よ、悪鬼どもでさえ、あなたの御名の中で私たちに服従します」。「彼は彼らに言われた、『見よ、わたしは敵のすべての力を踏みつける権威をあなたたちに与えた。なにものもあなたたち...
これらの天の要素はみな、主イエスと、諸国民の間における彼の主権に浴している彼の教会とに、関係しています。この主権の中に、私たちは生き生きとした関係と経験によって導き入れられたのです。神の秩序は決して孤立した構成単位から成ってはいません。彼は弟子たちを二人ずつ召して遣わされました。この二人というのは、代表を表す人数であり、教会に対する証しです。私たちは「からだ」の原則を認識し、神ご自身の秩序を霊的...
3.御使いたち この福音書のもう一つの天の面を見てみましょう。十七回「御使い」がこの書に登場します。御使いたちは、「救いの相続人」(ヘブル一・十三~十四)に関する神の行政上の統治と関係しています。「ひとりの主の御使いが天から降りて来て、その石を転がし、その上に座った」(マタイ二八・一)。復活の主権を帯びたひとりの天使です。ひとりの御使いだけで、この世の諸々の政府や地獄の全勢力・たくらみに対するのに...
2.天 七十五回「天」がマタイによる福音書で言及されています。マタイによる福音書は天の王国――天の支配・主権――の福音書です。 栄光の主が誕生された時、天が支配していたことがわかります。東方で見えた星は、当時の天を支配していた一つの星であり、地上の物事を支配していました。東から賢者を連れて来て、ベツレヘムの赤子だった主イエスの足下で礼拝させました。天が、御子の来臨に関連して、主権的に支配していました。...
ルカはエルサレムから始めます。ステパノが殺されるまでは、エルサレムで恵みが継続しました。ステパノを殺した時、彼らは聖霊に対して罪を犯し、主はエルサレムから出て異邦人すなわち諸国民に向かわれました。しかし、まず彼は、すべての諸国民と関係しているペンテコステのときに、エルサレムから一団の人々を獲得されました。彼を十字架につけた人々に対する素晴らしい恵みです。彼は彼らを追い出すこともできましたが、そう...
霊的優位性を示す象徴1.山々 山々はマタイによる福音書において重要な地位にあります。教会を導入している福音書でそうであることは意義深いです。なぜなら、教会は霊的高みになければならないからであり、霊の中でこの世の外になければならず、自発的にこの世と関わったりしてはならないからです。教会の真の姿を見るには、「キリストと共に、すべてを遥かに超えた」高い観点から見なければなりません。神は教会をこのように見...
印象深いことに、教会が導入されたのは、主イエスが決意を抱いてカイザリヤから十字架に向かわれた時のことです。十字架により、彼は教会を確保し、神の御旨を完成されます。マタイ十六章と黙示録一章を合わせると、そこには主権を御手に握っておられる主イエスの姿が見られますし、それは教会と関係していることがわかります。なぜでしょう?教会はこの主権の行政上の手段となるべきものだからです。「私は燭台の間に、人の子の...
福音の宣べ伝えで真に十分な効果を得るために、まず第一に必要なのは、統治における主の主権に対する絶対的確信です。これは基本です。この確信がないなら、基礎がないことになります。今や主権は主の御手にあることを、あなたは知らなければなりません。それは御子の福音です――「私が私の霊の中で、御子の福音において仕えている神」(ローマ一・九)。そして、御子の福音において仕えるには、統治の問題における御子の主権を絶...
四福音書は天の支配の四つの面を導入します。マタイは王と主権的王国を導入します。「ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ一・一アメリカ改定訳欄外)。マタイが彼の福音書をどのように終えているのかは、きわめて印象的で注目に値します。「そしてイエスは彼らの所に来て(中略)言われた、『天においても地においても、いっさいの権利がわたしに与えられています。だから、行って、すべての国民を弟子としなさい』」...
「天が支配する。」(ダニエル四・二六)。 四福音書が書かれたのは、そこに記されていることが起きてから何年も後のことです。かなりの時間が経っていました。なぜそれらが書かれたのかに注意することが重要です。使徒たちは、そこに記されていることを長いあいだ証ししてきました。それらを人々の間にもたらして、それらの背後にある霊的真理を確立しようとしてきました。このように、これらの事柄を証しして、人々の心の中に霊...
これはキリストの特徴を伸ばすためであり、それを得ないかぎり、進み抜く力は得られません。「主は私たちと共におられません、これに対応できません、神の力は現れていません」と言い始めるなら、あなたの目的は劣化し、あなたは栄光のキリストではなく自分自身の周りを巡り始めることになります。栄光のキリストこそ、聖霊があなたをそのかたちに同形化しようとしておられる方です。自分の目的を知って、主がご自分の子供たちに...
多くのことを述べてきましたが、これからの数日間のための前置きの話を終えるにあたって、次のことを述べたいと思います。神のこの偉大な支配的御旨、すなわち、栄光に至るすべての子らを御子のかたちに同形化することが、ここにいる私たちに対する彼のすべての取り扱いの理由なのです。私たちが通る奇妙な経験、私たちの人生の一部を形成する深刻な試練、私たちに関する神の摂理と主権によることはみな、神の御目的に照らして説...
次の点は――これにつまずく人が大勢いるのですが、聖霊は、言わば、この原型を目的として来臨された、ということです。聖霊は栄光の主イエスを見ており、神の御心に適う成就された栄光の人を見ておられます。聖霊は、この原型を徹底的に、細部に至るまでご存じです。聖霊は来臨されました。もし私たちが真に上けら生まれた神の子供なら、彼は私たちの内におられます。そして今、聖霊が地上で行っておられるのは、この原型を内側に...
これについては、もっと詳しく説明しなければなりません。しかし、ヨルダン川以降の三年半は、すべての神の子供の人生にも対応しています。というのは、あらゆることで神に絶対的に信頼する生活がそこに見られるからです。その生活は神に受け入れられる生活であり、自発的なものですが、それにもかかわらず、大いに、大いに、現実的です。神に絶対的に拠り頼む生活です。そして、そのような生活により、彼は、神の御心に適う人が...
それが、主イエスの場合、ヨルダン川で起きたことでした。あの時、彼は罪なき意志を持っておられましたが、それでも、人の意志、人間の意志を持っておられました。その意志は、神の御意思から離れたものであり、それ自体は神の御意志とは分離されているものでした。その人の意志、人間的意志、彼が持っておられた天然の意志は、罪がなかったにもかかわらず、ヨルダン川で神の御意志のために脇にやられました。そして、その瞬間か...