それはまた、主が最後の夜に捧げられた大祭司の祈りの主題でもありました。ヨハネ十七・二三、二六「わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるのは、彼らが成就されて一つとなるためです。また、あなたがわたしを遣わされたこと、あなたがわたしを愛されたように彼らを愛されたことを、世が知るためです。それは、あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らの中にあり、わたしも彼らの中に(I in them)いるようにな...
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それはまた、主が最後の夜に捧げられた大祭司の祈りの主題でもありました。ヨハネ十七・二三、二六「わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるのは、彼らが成就されて一つとなるためです。また、あなたがわたしを遣わされたこと、あなたがわたしを愛されたように彼らを愛されたことを、世が知るためです。それは、あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らの中にあり、わたしも彼らの中に(I in them)いるようにな...
しかし、現代のニコデモたちが「どうしてそんなことがありえるのか?」と言うのが聞こえてきます。どうすれば自分の家庭でそんな生活を送れるのでしょう、そこでは同情や助けではなく嘲笑と侮辱を受けるばかりであり、長い間罪深い敗北した生活を送ってきたというのに?どうすれば自分の社交圏で真に一貫したキリスト生活を送れるのでしょう、そこではほとんど誰もキリストのことを考えず、その御名が口にされることもないというの...
キリスト・イエスが私たちのようになられたのは、私たちがキリストのようになるためです。受肉において神性が人性と一つになったのは、再生において人性が神性と一つになるためです。聖霊が信者の中に新しい性質を与えられたとき、キリストとキリスト者の生ける有機的な合一への扉が開かれました。そして、この合一は永遠に続きます。キリストとキリスト者は、永遠に一つなのです。高く挙げられたキリストは、今も生きておられ、ご...
何であれ世間と違うことをすれば、世間はあなたを狂人だと思います。世間はバプテスマのヨハネをそう見なしました。なぜなら、彼は三つの点、つまり、家・食べ物・服装という点で世間と異なっていたからです。キリストは死ぬ前に闇の勢力を征服されました。彼が十字架にかけられたとき、闇の勢力は打ち払われました。肉体的な苦しみのただ中で、彼は遣わされた使命を果たされたのです。十二歳のときキリストは博士たちと共におられ...
クリスチャンであることは、英雄になりたいと願う何人にとっても素晴らしい機会です。すべてのクリスチャンは、十字架上で死ぬ前にゲッセマネを経験しなければなりません。人々を救うのはゲッセマネの人たちなのです。十字架は恥で、冠は栄光で覆われています。天にたどり着いたとき、私たちはすべての人の真の姿を見るでしょう。勇敢な言葉を語った者たちや、勇敢な行いをした者たちを。報いの問題で重要なのは、量ではなく質です...
あなたの中の神聖な性質は神の御言葉を渇望します。その著者と神聖なあらゆるものを求めて叫びます。信者が聖書よりも他の本を好んで読むなら、何かが間違っています。ヨシュアは昼も夜も「黙想」しました。永遠に王と共に生きることを望むなら、 王の家のすべてのおきてを今学ぶべきです。あなたを救うのは「光」ではなく神ご自身です。人を回心させるのは律法に対する恐れや、神に対する恐れではなく、新創造における神の直接的...
勝利者誌 一九二〇年 第七巻 一月号 掲載奇跡は人を回心させません。キリストに養われた五千人は肉体的には満足しましたが、霊的には変化しませんでした。携挙の奇跡はこの世を回心させません。私たちは傷を癒す油だけでなく、傷をつける棒も歓迎すべきです。あなたが投げ込まれた炉と、そこでもあなたと一緒にいてくださる神の御子の姿を、神に感謝しなさい。金から不純物を取り除くよりも、金貨から泥を洗い流す方が簡単です。神...
然し乍ら神様にも亦申分があると信じます。そして斯かる場合に於て私共は神様の御言葉を聞き、共聖業(みわざ)を義とし奉るべきであります。「我等の内己の為に生き己の為に死ぬる者なし、そは我等は生くるも主の為に生き死ぬるも主の為に死ぬ」とあります。生くるが目的でありません。生くるも死ぬるも主の為にするのがクリスチャンの目的であります。そして若し死ぬる事が生くる事よりも主の為になるのでありますならば我等は死...
それ人は既に草の如く、共栄は凡の草の花の如し。草は枯れその花は落つ、然れど主の道(ことば)は窮(かぎり)なく存(たも)つなり(ペテロ前書一章二四、二五節)。我等の内己の為に生き己の為に死ぬる者なし、そは我等は生くるも主の為に生き、死ぬるも主の為に死ぬ、是故に或は生き或は死ぬるも我等は皆な主の有(もの)なり(ロマ書十四章七、八節)。我れ天より声ありて我に言ふを聞けり、曰く汝此言(こと)を書(しる)せ...
(※ 編者の所持している原本では最後の2ページが欠落しているため、そこに収録されていると思われるフランシスコのいわゆる「平和の祈り」を以下に掲載します。)神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜...
おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
十字架上の七語△第一、ルカ二三33~34「父よ彼等を赦し給え、そのなすところを知らざるが故なり」三節においてイエスを十字架につけたその釘は主のおからだをさしたのである。今や彼らの罪は、その絶頂に達した。この時、発せられたのがこのお言葉である。あたかも、水が一杯の袋に穴をあけたように、主の内に満ち満ちた愛は――敵を愛する愛――溢れ出たのである。群衆、祭司、学者らがイエスをねたみ、憎み、殺そうとして十字架につ...
十字架(ルカ二三32~38)〔32~33〕キリストは人を殺した罪人と一緒に数えられ、しかも真中に置かれて、その中の第一の者とされた。キリストは世人のあらゆる罪を引き受けられたため、神と人との前に最大の罪人とされたのである。「クラニオン」とは、カルバリ、ゴルゴダなどと同意で、共にされこうべという意味がある。この山をモリヤ山であるという人もある。カルバリとはラテン語、ゴルゴダとはヘブル語、クラニオンとはギリシ...
クレネのシモン、十字架を負う(ルカ二三26~31)〔26〕ヨハネ一九17を参照。当時十字架刑に処せられる罪人は、自分でその十字架を負って刑場に至るまで、遠路を衆人の前をひかれて行く例であった。ゴルゴダは街のはずれであったので、罪人はそこまで恥をさらしながら行ったのである。主イエスもまた同じ目にあわされたのである。主は前夜からあらゆる苦痛を受け、打たれ、嘲弄され給うた――ゲッセマネにおいても大いなる心痛を味わ...
〔12〕ピラトは充分に光を得ていたのである。だから彼はなんとかして主を赦そうとしたのであるが、勇気がなかったために出来なかったのである。「もしこれを赦さばカイザルに忠臣ならず」これはサタンの用語である。この一語にピラトは閉口したのである。我らにもこの威嚇がある。しかし決してサタンに忠実であってはならない。〔13〕「審きの座」これは重罪を宣告する所である。ピラトが「審きの座に自ら坐」したのは、もはや失敗...
イエス、十字架につけられるために渡される(ヨハネ一九1~16)〔1〕「むち打つ」ユダヤのむちは実に残酷なものであって、先端に鉄または骨片をつけた皮ひもを結んだものであって、受刑者を裸にしてその背をむち打つので、そのために肉は裂け、血は流れ、しばしばそのために死ぬこともあるという。キリストはこのむちを受けられたのである。「そのうたれしきずによりて我ら癒されたり」(イザヤ五三5~)。その一つひとつは我らの...
〔マルコ一五6~14〕7バラバは暴徒であり、殺人者であった。9しかしキリストはユダヤ人の王ではないか。〔ルカ二三17~23〕17必ず18いっせいに19あの暴動を起した者であること。23「彼等はげしく声をたてて、彼を十字架につけんと言いつのれり、ついに彼らと祭司の長の声勝ちたり」実に意志強固である。ピラトの正義の声は打ち消され、罪人の叫びは勝った。妻の声も良心のささやきも消されて、罪人の声に負けたのである。この世の...
ピラト、キリストを赦そうとする(マタイ二七15~23)〔15〕「民の願いにまかせ」全く自由意志である。これは非常に責任のあることである。これは特別の恩典である。神の側としては、まさに愛の祭りである。しかしこれを乱用することによって、実に恐ろしい結果となるのである。〔16〕「バラバ」ここには名高き囚人とある。〔17〕「バラバかイエスか」からすかうぐいすかと言うのと同じである。人を殺した盗賊か、世を救う神の子か...
ヘロデのもとに送られる(ルカ二三6~12)〔6~7〕当時ユダヤの国は四つの地区に分れていて、大名のような者の支配を受けていたのである。〔8~9〕「イエスを見て甚だ喜べり」弟子たちもそうであった(マタイ二八8、ヨハネ二〇20)。しかしヘロデのこの時の喜びは、実に哀れなものであった。彼はただの物好きで、何か手品師でも雇ってきたような気分でいたのである。救を望まない者の喜びとはこんなものである。ここで多くの問が出...
ピラトに訴えられる(マタイ二七11~14)〔11~14〕イエスは口を開かれた時には明かに王であることを示されたが、その他は全く沈黙を守られた。大祭司は、神の子キリストなのかと問い、ピラトは王であるかと尋ねた。主はその大事な質問には明白に答えられ、それを定められた。「ピラトが奇(あやし)とするまで」黙されたとは実に大いなる勇気である。我らもこのイエスをわがものとして握りたい。〔マルコ一五2~5〕〔3〕祭司は罪...
ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...