「なんじ目を醒し、ほとんど死なんとする残りのものを堅くせよ」このところにおいて主は警戒しておられる。目を醒せとは、眠っている者が、一寸目を明けるということではない。断えず目を醒していることである。ある人は、自分の一つの経験に満足し、たびたび恵まれたあとに眠る人がある。恵まれるまでは、一生懸命にやるが、恵まれるとヤレヤレという風で、腰をおろして眠ってしまう。それではいけないのである。「ほとんど死なん...
「なんじ目を醒し、ほとんど死なんとする残りのものを堅くせよ」このところにおいて主は警戒しておられる。目を醒せとは、眠っている者が、一寸目を明けるということではない。断えず目を醒していることである。ある人は、自分の一つの経験に満足し、たびたび恵まれたあとに眠る人がある。恵まれるまでは、一生懸命にやるが、恵まれるとヤレヤレという風で、腰をおろして眠ってしまう。それではいけないのである。「ほとんど死なん...
「サルデス」とは「遺残者」という意味である。この教会の中には数人の衣を汚さない者、すなわち遺残者があった。大部分のものは駄目であったが、その中でも少数の人が、聖潔を保っていた。このサルデスの教会は、霊的活力のゆえに有名であったということである。鯛の釣りたてのように、中に生命が満ちていたのを誰もが認めることができたという。すなわち、外部からいえば、活動において有名であったが、しかし、「神の七つの霊を...
「勝を得て終りに至るまで我が命ぜしことを守る者には我諸邦の民を治むる権威を与えん。彼は鉄のつえをもて諸邦の民をつかさどり、彼らをやきものの器の如く砕かん。我わが父より受けたる権威の如し」この勝利者に与えられるものは、第一は万国民を治める権威である。この世においてはあのローマ法皇が威張り散らしているようには決して威張らないが、かえってあのパウロの言ったように、この世の塵垢のように思われているが、やが...
「いわく、われ汝のわざと愛と信仰とつとめと忍耐とを知り、また汝が後になししわざは始めのわざよりも多きことを知る」始めより後が盛んである。決して竜頭蛇尾ではない。「しかれども我なんじに責むべきことあり、汝はかの自ら預言者なりと言いて我が僕を教えこれを惑わし姦淫を行わせ偶像にささげし物を食らわしむる女イゼベルをいれおけり。」イゼベルとはかのイスラエルの王アハブの后で、バアルを拝した悪い女イゼベルのこと...
「テアテラ」という名は女の圧制という意味である。すなわち婦人が威張って男子を圧倒するというのである。テアテラはあのパウロがピリピの河岸において伝道したとき始めて救われた、紫布を商うルデヤという婦人の故郷で(使徒十六14)神の摂理によってこの婦人が最初に救われ、それが原因でその故郷にも教会が出来るようになったが、婦人が最初の土台であったためであろうか。とに角この教会では婦人が権利を張っていたようである...
「勝を得る者には、我かくしあるマナを与えん。また白き石の上に新らしき名を記してこれに与えん。これを受くる者のほかにこの名を知るものなし」全く悔い改めて、バラムの分子も、ニコライの分子も全く捨て、全く主イエスに従い、忠信の証し人として終りまで行ったその人には隠されているマナが与えられる。マナはイスラエルの民が曠野を通った時に天から降ってきたもので、そのマナを記念のためにつぼに入れて契約の箱の中に入れ...
「されども、我汝に数件の責むべきことあり、汝らのうちバラムの教えを保つ者あり、先にバラム、バラクに教えてつまずく物をイスラエルの民の前に置かしむ、すなわちバラクをして彼らに偶像に献げし物を食らわせ姦淫を行わしめたり」。バラムとは「民を滅ぼす者」という意味である。御承知の通りこれは民数記二二章にある人の名であるが、彼の行いによって多くの民が滅んだ。あの精神が幾千年も働いている。今もなお働いている。彼...
「ペルガモ」とは一つは塔という意味があり、もう一つは結婚という意味もある。この二つの意味のある字が出たのは面白い。ここに二つの意味に関することが出て来る。ペルガモは当時なかなか盛んな町であって、一人の王の宮殿があり、また図書館があって二十万巻の書を蔵していた。もう一つそこにエスカラマスととなえられていた有名な大いなる偶像があった。それは蛇の形をしていたものであったそうだが、その偶像のためにその町が...
「さらば我生命の冠を汝に与えん」前には生命の木があったが、ここでは生命の冠である。すなわちだんだん進んでいる。前のは生命の味、甘さがあったが、これは生命のグローリー(栄光)である。これを得る人は真に死ぬ人スミルナ的信者、没薬的信者――のみである。「我らもし彼と共に死なば、彼と共に生くべし、我らもし忍ばば彼と共に王となるべし(第二テモテ二11、12)とある。主イエスの死んでまた生きる者との意味はここに至っ...
「汝まさに受けんとする苦をおそるるなかれ、悪魔まさに汝らのうちの或る者を獄に入れて汝らを試みんとす。汝ら十日のあいだ患難を受くべし、汝死に至るまで忠信なれ、さらば我生命の冠を汝に与えん」これは主イエスのお勧めとまた勝利者に対する約束との二つが一つになっている。主イエスはこの教会の前途に横たわっている迫害を知っておられる。今までも迫害はなかったが、まだまだ大なるものが来る。英訳を見ればこれは一つでは...
第三の点は「いわくわれ汝のわざと患難と貧乏とをしる。貧乏とはいえど汝は富めり、我またかの自らユダヤ人なりといいて実はしからざるサタンの会の者のけがしの言を知れり」、これが主に知られたスミルナの教会の有様であった。この教会は賞められることのみで責められる所がない。没薬的信者すなわち自己が全く聖別されて自分の為ではなく、唯主の為にだけ生活する者はこういう風である。神の御目はいろいろの欠点のある者をおお...
「スミルナ」とは没薬という意味の字である。薬とは芳い香であるが、味の苦いもので、死人に塗る香料であり、また香油であり、また香油を作る一つの材料である。すなわち芳香、苦み、死ということを意味している。スミルナの教会はこの没薬的であった。もともと主イエスがこういう没薬的の御方であったのである。東方の博士が没薬を持って来て主を拝んだが、それは主イエスの贖の死を表わしたもので、すなわち彼等は主を贖主、救主...
次に「耳ある者は御霊の諸教会にいう所を聞くべし」何だか意地の悪いことをおっしゃられる。耳があるか、あれば聞け、福音書にもこれに似たこと言っておるが、耳があってきこえるなら御霊が諸教会、すなわちお互いに対して告げておられる声を聞け、これは主の命令である。「勝を得る者には我神の楽園にある生命の木の実を食らうことを許さん」おお勝を得る者を主は待っておられる。この世の生涯において、敗軍の将でなくて勝利者と...
その次は警戒である。「然ずして汝もし悔い改めずば、我なんじに到り汝の燈台をそのところより取り除かん」。もし、悔い改めよとの御声を聞きながら、なお悔い改めないなら、主イエスは速かにおいでになる。教会の審判主としてお出になる。これは、世の審判とは違う。世の審判ならば、罪人の魂を滅亡に投げ込まれるけれども、これは教会に対する審判である。神は光である、また神は愛である、それであるから光は愛であると言うこと...
「なんじいずこより堕しかを憶い悔い改めて初めのわざを行え」これが主の愛より出たところのお勧めである。何処から落ちたか、胸に手を置き、目をふさいで考えてみなさい。只事ではない、理由もなくブラブラ落ちるものではない。何か訳がある。何処からか考えてみなさい。私は恥ずかしいことであるが、落ちた経験がある。潔められない前は、落ちる所まで上っておらず、純粋の、心一筋に主に向かう愛がなかったが、憐みによって、ア...
次に主に知られている教会の真相である。「いわくわれ汝の行為と労苦と忍耐と汝が悪人を容る能ざると汝がさきにかの自ら使徒なりと称て実は使徒に非ざる者を試みて其妄言を見あらわしし事と汝が忍耐する事と我名のために患難を忍びて倦ざりし事とを知る」―これは賞められる点である。エペソの教会は実に立派なものであった。なにしろヨハネが監督であったことがあり、またテモテもそこで監督をしていたことがあったところで、立派...
第一に「右の手に七の星を執り、また七の金の燈台の間を歩む者」と御自身はおっしゃられる。全世界の全ての使者を右の手に持ち、そしてその中を歩まれる主である。これらの教会は実際腐敗を極めた教会で、これでも教会かと思われる教会であったが、その中にも主は歩んでおられるのである。今もこのような教会がある。けれども主はこのような教会の中にもおられる。昨日も今日も永遠までも変り給わぬ主イエス、かのガリラヤの湖辺を...
エペソはアジアの光とも言われていた大きな都で、全ての中心点であった。その教会はなかなか盛んで、都にふさわしい大いなる教会であった。エルサレムが滅亡して以来、教会政治の中心はこのエペソにあったので、初代においては重きを置かれた教会である。「エペソ」という意味は「弛み(ラキセーション)」ということである。「使者に書おくるべし」― 一章にこの使者のことを星といっている(一20参照)。この書は伝道者、牧師ある...
黙示録二、三両章に、七つの教会について記されている。当時、北アジアにこれらの七つの教会があったのであるが、これらの教会は、また全世界の型である。またある人は、これは教会歴史の各時代に相当するといっている。すなわち、 エペソの教会=準使徒時代の教会。 スミルナの教会=それに次ぐ迫害時代の教会。 ペルガモの教会=コンスタンティヌス帝以来キリスト教会は世と接吻した時代の教会。 テアテラの教会=ローマカト...
ヨハネ黙示録略解七つの教会笹尾鉄三郎目次緒言エペソの教会(二章一~七節)スミルナの教会(二章八~十一節)ペルガモの教会(二章十二~十七節)テアテラ教会(二章十八~二十九節)サルデス教会(三章一~六節)ヒラデルヒヤの教会(三章七~十三節)ラオデキヤの教会(三章十四~二十二節)オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
勝利者誌 一九一四年 第六巻 十二月号 掲載人が戦いの中で恐れ、敵を恐れ、剣や銃剣を見ることを恐れ、銃に立ち向かうことを恐れるように、真理を調査することを恐れる人がいる。彼らは発見するものに恐怖を感じるのだ。戦いの英雄がいるように、真理の英雄もいる。エバン・ロバーツオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
著者についてのWikipedia(英語版)からの引用。聖潔の秘訣を尋ねられ、彼はこう答えた。 「神のみこころに留まり、神に従い、日々神を求め、神の門で待ちなさい。聖書を定期的に読みなさい。決して密かな祈りを怠ってはなりません。自分に与えられた恵みを証しし続けなさい。人を助けなさい。」オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(11) 完
私たちにはすべての肢体の中におられるキリストが必要であり、すべての肢体には私たちの中におられるキリストが必要です。これはぎこちない述べ方です。主は他の人々を通して私たちに与えることによって私たちの手を強めてくださいます。そして主は、独立した自由契約者的なもの、神の真理に全く反するものに、ことごとく反対されます。そのため、服従の必要性を強調する必要があります。「互いに服従しあいなさい」。神の家におけ...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(10)
大部分の聖徒たちは教会についての新約聖書の啓示を失っており、それより劣るものの中にあります。主は地上に、おそらく比較するととても小さいけれども、それでもとても尊いものを得ようとしておられます。その尊さは、それが主の御心に全くしたがっている点、聖霊によるこの啓示を持っている点にあります。主は私たちにこの原則を理解させて、それについてご自身と協力させ、私たちに関するかぎり、私たちをその中に立たせること...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(9)
私たちは「相互依存」という言葉を使いました。「足は手に向かって、目は足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません」。相互に依存しあっています。これは、主がこの素晴らしい命の中にもたらしてくださったことを意味します。すべての肢体が他の肢体の力と命の恩恵を受け、彼らに養われ、支えてもらえるのです。そして、各肢体は全体のために、全体は各肢体のために生きなければならないのです。そして、...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(8)
すべての肢体の相互依存を、私たちは強調したいと思います。それには途方もない解放が必要です。私たちは長年続いてきた体系という恐ろしい遺産を受け継いでいます。使徒たちが去る前の頃のことですが、人は教会を天上から引き下ろして、地上に植え、それを地上のものとしました。そして、人を設計者として導入し、教会を世の大衆運動にしようとしました。人々に感銘を与え、人々を引き寄せるものによってです。人々を教会に引き寄...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(7)
それは相互依存の問題です。この本質的な問題において、私たちはキリストのからだをそっちのけで何をしているのでしょう?私は真実を誇張しているとは思いません。ただ真実を明らかにしようとしているだけです。私たちは委員会、評議会、人々の団体を集めて、教会の諸事を組織し、案配し、操作し、指導しています。しかも大部分この世の商売の線に沿ってであり、神の働きを継続させるためにこの世の資源をあらゆる手段で引き出そう...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(6)
体について述べると、この呼称は最終的に一つであるものを示すためのものです。体は一つです。肉体を例に取ると、肉体は互いに絡み合っているので、この体の一点に触れるなら全体に触れることになります。鋲を踏むと、鋲はつま先の先端に触れるだけですが、体全体に影響を及ぼします。よくご存じのように、悪い歯があると、それは体全体を巻き込みます。この一体性はとても完全なので、一点に触れるなら全体がそれに巻き込まれます...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(5)
5.新創造の団体的性質皆さんは認識しておられるでしょうが、今や信者の生活の中にあるものはみな個人的な個別のものであるだけではありません。他のすべての信者と関係しており、団体的であり、全体の一部なのです。ですから、私たちは喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かなければなりません。私があの節を読んだ時、それに続く節に注意を喚起したことに気づいておられるでしょう。「あなたたちは新しい人を着たのですから、おの...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(4)
3.主イエスの主権的頭首権次に、私たちは主権、主イエスの主権的頭首権、新創造の主権に進みました。新約聖書が主権に関する福音で始まるのはとても印象的です。マタイは主権の線に沿って福音を紹介しています。それは王です。マタイ――主権。印象的なことに、マタイは主権の線に沿って福音を紹介した後、福音書の終わりに辿り着く前に、教会をこの主権の道具として紹介しています。マタイ十六章:主権が教会に与えられているので...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(3)
2.普遍性普遍性について二番目に黙想しました。御霊から生まれたもの、新しい人である教会の普遍性についてです。先ほど読んだ節がそう述べていることに注目してください。教会は新しい人――一人の新しい人――であり、その範囲、影響、務めは普遍的です。それは普遍的です。地元の諸々の群れの間に局所的な表現があるかもしれませんが、局所的ではありません。それは国家的ではありません。国際的ではありません。残念ながら、多く...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(2)
教会の使命は天的使命です。私たちは常に覚えておかなければなりませんが、神の民の使命には人に対する面もありますが、最も重要な面は神に対するものなのです。これは旧約聖書の幕屋と宮における礼拝によってとても明確に実証されていることがわかります。というのは、幕屋――そこに神の御心が見られます――に取り組み始めるときは、常に内側から始めることになるからです。神は内側から開始されます。神は至聖所とその中にあるもの...
「御霊から生まれるもの」第五章 新創造の本質的な団体的性質(1)
朗読:エペソ四・二四、二五、コロサイ三・十、ローマ六・四~六、七・六、十二・二、四~六、一コリント十二・十二~十四、二〇、二七。主が私たちの一連のメッセージに加えることを望んでおられるのは、御霊から生まれたもの、キリストにある新創造の本質的な団体的性質についての言葉であると、私は感じています。そこにこそ、私たちが述べてきたことの最大の意味が集約されているのです。1.新創造の天的性質私たちはまず、御...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(14)
高ぶりそしてもちろん、自己意志の最も強力な特徴の一つは高ぶりです。ルシファーは、「私はいと高き者と等しくなろう」と言いましたが、預言者は「あなたの中に高ぶりが見いだされた」と言うよう促されました。高ぶりは多くの形を取ります。高ぶりはきわめてへりくだった姿勢を取ることもあります。高ぶりは自分のことをとても残念に思うこともあります。高ぶりはとても痛ましいものであることもありますが、それは依然として高ぶ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(13)
バニヤンの「聖戦」でいつも思い出すのは、アポリュオンが人魂の都を占領しようとした時のことです。アポリュオンが真っ先にしようとしたのは、市長の理解力氏を捕らえて、何が起きているのか見えない暗い地下牢に入れることでした。「理解力を暗くされて、神の命から遠ざかっていました」。これは粉砕されなければならない束縛です。十字架で主イエスはすべての子らのためにそれをなしてくださいました。彼はすべての子らを栄光へ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(12)
私たちはこれらのメッセージで十字架を自分たちに凄まじく適用してきました。そのため、私たちの多くはその衝撃力に動揺し、この古い人に適用される十字架の恐るべき力を感じてきました。なぜそれが必要なのでしょう?なぜ十字架がこの旧創造の上にこんなにも破壊的な力で臨むことが不可欠なのでしょうか?二つの理由がありますが、それは一つの事柄の二つの面です。それは旧創造が、霊的・道徳的な意味で、暗闇の権威の下にあって...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(11)
頭首権は律法的、形式的、教会組織的なものではありません。頭首権は霊的・道徳的なものです。この頭首権は女に与えられることも時々あります。だれかが家族に対して頭首の地位につかなければならず、男が失敗して、女が霊的・道徳的にそうするのにふさわしい場合は、女がそうしなければなりません。しかし、それは正しい秩序ではなく、それが続く間は弱さが残るでしょう。たんに男がそこにいるからという理由で頭首になるわけでは...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(10)
リベカが遠国からイサクのもとに連れてこられた時のことです。彼らが近づくと、彼女は目を上げて、「この人は誰ですか?」と言いました。「私の主人の息子、あなたの夫となるイサクです」。すると、彼女は直ちにベールを取って、それで顔を覆ったと記されています。彼女の美しさは他のだれのためでもなく、彼のために取っておかれました。そうです。教会は彼の栄光のためにあるのです。「花嫁の目は見つめる、自分の衣ではなく、自...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(9)
キリストのからだ――キリストの頭首権を示す媒体さて、次の点はこれです。すなわち、キリストのからだ(そして、キリストのからだのすべての肢体)はキリストの頭首権を示す媒体であるべきである、ということです。キリストは、「万物に対するかしらとされて教会に与えられました。この教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」。ですから、このからだとそのすべての肢体は、かしらの栄光を示すべき...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(8)
パウロは、困難な人生の終わりに、傷ついた体で、何度もひどく苦しみ、死にかけましたが、海が荒れ狂い、熟練した船乗りたちが途方に暮れ、絶望し、ただ立ちすくんで事態の成り行きを見守る以外になすすべがない時に、やって来て船を指揮し、すべてをやり遂げ、乗組員全員の士気を回復しました。これは人間の個性の力ではなく、人における神の優位性です。「今夜、神の御使いが私のそばに立って、『パウロよ。恐れるな』と言いまし...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(7)
他方において私たちは、迫害され、追われても、見捨てられないことがどういうことかを知っています。迫害されますが、見捨てられません。投げ倒されますが、滅ぼされません。常に優位であり続けます。それは私たちが楽観的だからではありませんし、陽気な精神が旺盛で自分を明るく奮い立たせられるからでもありません。次のことは、私たちの心の中で聖霊が主イエスの御名の中で優勢であることを示す強力な事実です。すなわち、最悪...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(6)
古いものとは何でしょう?かつて私はそれをやっていましたし、あるいはやろうとしていました。それを計画し、企画し、それに自分の判断を下していました。それを運営していました……古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました、そしてすべては神から出ています。これが違いです。すなわち、古いものは自分自身から出ていましたが、今やすべては神から出ている、ということです。新創造がそこにあります。そして、新創造...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(5)
キリストは万人の頭であり、万物に対する特別な使命のために教会に与えられています。教会は彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。これらの領域の区別については後で見るかもしれませんが、ここではこの事柄全体の背景を理解するために事実を述べています。さて、これを認識し、心からイエス・キリストは主であると宣言し、約束された御霊――それによって彼は万物に対する油塗られた頭とされました――を...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(4)
彼には優位性がありました。それは彼の人間生活の優位性だけではありませんでした。地上の王たちを上回る何かが伴っており、それで地上の王たちは彼の御前では自分のちっぽけさを感じたのです。常に彼は、創造された万物に対する頭としての霊的・道徳的地位に置かれました。それは後に真に成就されるであろうことが、その油塗りよって暗示されました。神が選びの器を油塗られたところではどこでも、その器は他のすべてのものよりも...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(3)
油塗りこれは主イエスの天的行程の別の段階であり、後で見るように、これには天的対応物があります。彼の油塗りの場所に進むことにします。彼がヨルダン川から上がられた時、天が開かれ、聖霊が鳩の姿で彼の上に臨み、彼は象徴的・予型的に聖霊によって油塗られました。この油塗りは、神が人の子なる方の生涯に新たな形で関わられたことを意味しました。ある学派が教えているように、神がヨルダン川で主イエスのもとに来て、カルバ...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(2)
私たちはこれまで代表の問題を追ってきましたが、その話の流れについてきておられたなら、私たちが最初に述べたことは主イエスの誕生と関係していたことにお気づきでしょう。その誕生は全く天的なものであり、御霊から生まれたものを真に代表するものでした。私たちは、考察の第一原則の一つとして、主イエスは父なる神によって神の御心に適う人の代表として立てられたのである、と述べました。彼の生涯のどの特徴や面も、人に関す...
「御霊から生まれるもの」第四章 新創造のかしらである主イエス(1)
朗読:使徒二・三二、ピリピ二・五~十一、ヘブル一・五~九、二・九、十、エペソ一・二二~二五、四・十五、五・二三、コロサイ一・十八、二・十九、一コリント二・五私たちは、「御霊から生まれたもの」もしくは「キリストにある新創造」に専念してきました。私たちはまず、御霊から生まれたもの、キリストにある新創造の天的性質について考えました――その天的起源と天的命、天的関係、天的資源、そしてその性質と使命の全き天的...
もちろん、述べるべきことがまだまだたくさんあります――変容、復活、昇天、ペンテコステにおける御霊の来臨、御名――これはみな普遍的です。この御名はあらゆる名の上にあり、それに対してすべての膝がかがみます。これは普遍性です。それは主イエスの中にあります。その御名で私たちは呼ばれます。私たちはイエスの御名の中にもたらされましたが、それはこの御名の普遍性と権威を通してであり、彼にあってよみがえらされた者として...
すでに見ましたが、新しい人は、それを造った方のかたちに、御子の人性のかたちにしたがって新しくされつつあります――あなたは主イエスを人類のどこか孤立した界隈に留めることができるでしょうか?彼の人性にはあらゆるものが溶け込んでいました。これは約二千年の間に証明されてきたのではないでしょうか?主イエスをインド、アフリカ、中国、この世界のどこでも好きな所に連れて行くなら、彼の中に普遍的な接点となるものが見つ...
それは私たちにとって長い学びになるでしょうが、主イエスの生涯における普遍性について学ぶことは大きな価値があるでしょう。彼の誕生はたんに地上の、局所的なものではありませんでした。聖霊の活動を見てください。肉の意志や人の意志、血によってではなく、聖霊によって生まれたのです。これは普遍性です。地的な誕生の水準からこの誕生を引き上げるものです。天が介入し、天使たちは天を裂いて道を開き、天がその誕生に関与し...
これは一つの過程であることを忘れないでください。この新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされつつあります。御子のかたちに同形化されるようにあらかじめ定められており、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされつつあります。これが今起きていることです。私たちはこのかたちにしたがって新しくされつつあるのです。次に、これは漸進的な解放です。私たちはこの天然の命に属するもの――それらは支...
前に述べましたが、ユダヤ教では律法の中にとどまることが可能でしたが、それと同じように、キリスト教も律法の中にとどまるおそれがあります。キリスト教は律法を一つの体系としてあなたに課そうとします。また、天然的なクリスチャンは、「あなたはこれをしてもかまいません、あれをしてはなりません云々」と言います。そして、あなたの生活は律法的なものになり、「自分がこのことやあのことをしたら、兄弟たちはどう言うだろう...
新約聖書の中の地域集会もそうでした。彼らは、自分たちの務めはその教区内だけでなく、どこでも主の御名の中で務めがなされているなら、それも自分たちの務めであることを認識していました。ですから、使徒はどこに行っても、必ず人々に霊の中で協力してもらいました。務めは一つであること、一つの場所に位置していても普遍的であることを、彼は認識していたのです。テサロニケ人はアジア全域に伝道するのに役立ちました。エペソ...
復活した主イエスが他の何よりも表しているものがあるとするなら、それは、肉であるものとは異なるものである、霊であるものの性質であるように思われます。それは空間を超越しています……距離は無意味です。人の寸法には何の地位もありません。彼は天と地を一瞬で渡り、一瞬で境界に触れます。長さ、広さ、高さ、深さは、一瞬のうちにすべてひとりの御方の中に網羅されます。そして、主は私たちを私たちの限界から連れ出してあの領...
子たる身分世の限界はなくなり、彼は限界も寸法もない、絶対的に普遍的なキリストになられました。これが復活の意味です。これが子たる身分の意味です。なぜなら、子たる身分は復活において明らかになるからです。復活の立場に基づいて、この子たる身分は明確な現実となります――「死者の復活により、力の中で神の御子と宣言された」とあるとおりです。復活の力の中で、子たる身分が明らかにされます。子であること、御霊から生まれ...
主は、あなたが棺桶に頭を突っ込んだまま生きることを望んではおられません。ある時、私は修道院に行ったのですが、そこの修道士はまず修道院の地下室に私を連れて行き、ずらっと並んだ棺桶を私に見せました。彼の話によると、修道士がその修道院に入ると、まず自分の棺桶を与えられて、「あなたは一生この棺桶に縛られることになります。この先、あなたは死んだも同然なのです。この棺桶をあなたに与えるのは、あなたは最後までこ...
朗読:ローマ八・二九、二コリント五・十六~十七、エペソ四・二三、四・十三、コロサイ三・九~十一。さて、この大きな問題について続けるにあたって、私たちは御霊から生まれたものつまり新創造の普遍性に取り組むことにします。前回のメッセージでは、この新創造の本質的な霊的性質に専念しましたが、天的性質の主な特徴の一つは普遍性です。この言葉の象徴的意味を調べると、天は普遍性を象徴するものであり、またそのように使...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(10)
十字架は、罪人としての人に適用されなければならないだけでなく、説教者・クリスチャン活動の組織者・諸教会の運営者としての人にも適用されなければなりません。これは真実です。あなたが霊的生活に入ったのは上からでしょうか?何年もの間、良い良心と良い信仰の中で主に仕えてきた神の子供といえども、あるべき形でその中にいないおそれがあります。そのような形でその中にいないので、あなたは救われていない、ということを言...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(9)
次に、「もしあなたたちがキリストと共に死んだのなら、上にあるものを求めなさい」とあります。あなたたちはそこで天の生活を送ります。私たちの国籍は天にあるからです。十字架の天の側にあるものにはみな、天的な価値があります。古い人はその中に入れません。その中にあるものは上から来ています。古い人、旧創造から切り離す十字架の働き――キリストの割礼――が、すべて認識され、受け入れられ、信仰によって取得されました。そ...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(8)
さて、実際に主の証しの中にある私たちにとって凄まじく重要だと私が感じていることを、一つお話ししたいと思います。それは、私たちの性質と構成は本質的に天的なので、神に属するものの中に入る時は上から入らなければならない、ということです。これもまた他の人に伝えるのがとても難しいことであり、主から理解力を賜ることが真に必要な問題です。私を信じてください、今あなたに理解できるかどうかはともかくとして、私が述べ...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(7)
「子は自分からは何も行うことができません、言葉を語ることも、わざをすることもできません。しかし、父が言葉を語っておられるのであり、父がわざを行っておられるのです」――「父が行われるのを子が見ることは何であれ、子も同じように行います」云々と彼は宣言されました。これはみな、彼の生活においては天が絶対的に支配していたこと、彼はこの地には属していなかったことを示しています。今、彼は新創造、新しい人、御霊から...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(6)
カナでの彼の肉身の母親の事例では、「ぶどう酒がなくなりました……」「女よ、わたしはあなたと何の共通点があるのですか」という会話がありました。これは、私たちの欽定訳が伝えるとても厳しい「女よ、わたしはあなたと何の関わりがあるのですか」という意味ではなく、次のような意味でした、「女よ、あなたの考え方とわたしの考え方は二つの別の領域にあります。あなたが考えていることは、わたしの考えではありません。あなたは...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(5)
新約聖書における霊的地位の回復私たちの場所は天にあります。ヨルダン川以降の主イエスは、神の御心にしたがった新しい人、新創造すなわち御霊から生まれたものの模範でした。これに関連して、主イエスのこの地上生涯には、この地上にある何かによって影響されたり支配されたりすることは一瞬一刻たりともなかったことに気づきます。彼が人のある種の要求に応じられたとしても、それは一時の間のことにすぎず、この世の体系の支配...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(4)
ヨシュア記は天上の書であり、ヨルダン川を経て上って行って良き地を所有すること、ヨルダン川で全く断ち切られて天上を所有しに行くことに関するものです……ヨシュア記では、あなたは常に天上の仮庵にいます。しかし士師記では、人々が天上から降りて来るのが見られます。彼らは破壊するよう命じられたものを容認しました。そして、それにより屈して地に向かい、地とのつながりが生じました。こうして士師記は、一つの例外であるマ...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(3)
旧約聖書における霊的地位の回復旧約聖書に戻ると、主がご自分の民をエジプトから徹底的に完全に分離されたことがわかります――ひずめ一つもエジプトに残してはならなかったのです。次に、主はイスラエルをこう呼ばれました、「わたしの子……わたしはわが子をエジプトから呼び出した」。またパロに向かって、「わたしの子、わたしの長子を行かせて、わたしに仕えさせよ」。わたしの子……エジプトから。そして、ネヘミヤ書八・十七に向...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(2)
信者の生活の絶対的に天的な性質今、その力を十分に実感できるよう願います。神の御言葉が分けている以上、私たちは神の御言葉が分けているものを分けて理解しなければなりません。神の御言葉は霊と魂と体を分けているのですから、私たちはこの違いを認めなければなりませんし、新しく生まれたものは私たちの体ではないことを(これについてはよくご存じでしょう!)再度理解しなければなりません。また、それは私たちの魂でもあり...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(1)
私たちはここのところ御霊から生まれるもの、つまりキリスト・イエスにある新創造に専念しています。よく知られている二つの節を思い出していただきましょう。一つはご存じのとおりヨハネ三・六です、「肉から生まれるものは肉であり、御霊から生まれるものは霊です」。もう一つは第二コリント五・十七です、「今や、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。...
それはこう説明できます。その理由は敵の側には全くありませんし、主の側にもありません。私たちにあるのです。主は御子のかたちに同形化することを求めておられ、困難・試練・妨げ・悪魔の活動はみな、私たちを連れ出して神へと引き寄せ、私たちの内に主イエスの特徴を発達させるためなのです。霊的優位性、信仰、神の御子の力強い信仰、イエス・キリストの特徴と御霊の愛を発達させるためなのです。キリストのこれらの特徴がみな...
多くのことを述べてきましたが、これからの数日間のための前置きの話を終えるにあたって、次のことを述べたいと思います。神のこの偉大な支配的御旨、すなわち、栄光に至るすべての子らを御子のかたちに同形化することが、ここにいる私たちに対する彼のすべての取り扱いの理由なのです。私たちが通る奇妙な経験、私たちの人生の一部を形成する深刻な試練、私たちに関する神の摂理と主権によることはみな、神の御目的に照らして説明...
次の点は――これにつまずく人が大勢いるのですが、聖霊は、言わば、この原型を目的として来臨された、ということです。聖霊は栄光の主イエスを見ておられ、神の御心に適う成就された栄光の人を見ておられます。聖霊は、この原型を徹底的に、細部に至るまでご存じです。聖霊は来臨されました。もし私たちが真に上から生まれた神の子供なら、彼は私たちの内におられます。そして今、聖霊が地上で行っておられるのは、この原型を内側に...
これが問題です。私たちは常に、地的必要よりも高度な必要が何かあるのかどうかを見極めなければなりません。地的権益は必要なものなのか?という問いを発しないかぎり、私たちには決してわかりません。地的必要を論拠とするなら、あなたは地上に向かって、それを水平的に捉えることになります――「これを行うことが必要そうだ」というように。主の見方はそれとは違うかもしれません。天的必要をその線に沿って理解しなさい。敵は、...
私は今、彼が贖いの問題に関して行われた偉大な御業について取り扱っているわけではありません。彼の偉大な贖いの働きについて取り扱っているわけではありません。贖いの働きのために、彼は私たちの罪を負い、木の上でご自身の体にそれを担われました。私たちの代わりに神の怒りの大波をすべて受け、きわみまでも裁かれたのです。私はそれについて述べているわけではありません。それは、私たちがあずかる必要のないものです。神は...
これは、もう一つの要素をもたらします。それは、彼は神格を持つ神としてそこにおられ、神たる方の全豊満が肉体の形で彼に宿っている一方で、また、彼はエホバの御名を帯びつつその地位を占めておられる一方で、彼は人としてそこにおられるということも同様に真実である、という要素です。彼は栄光の中にある人です。栄光を受けた人であり、多くの兄弟たちの長子です。神は人を栄光の中に連れて行き、主イエスのパースンにおいて人...
実に、主イエスは、神の働きが目指している原型であり、実際です。この目標たる御方にそのあるべき地位に直ちについていただきたいと、いま私たちは願っています。なぜなら、そうならないかぎり、私たちは何か劣ったものに捕らわれてしまうからであり、この地上における私たちの人生の目標や原動力は不十分なものになってしまうからです。使徒自身の場合、これがいかにそうだったのかは、おわかりでしょう。使徒行伝の九章で、彼が...
聖書朗読:ピリピ三・一~二一。「なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです……」(ローマ八・二九)。「愛する者たちよ、今や、私たちは神の子供たちです。私たちがどのようになるかは、まだ明らかにされていません。彼が現れるなら、私たちは彼のようになることを知っています。なぜなら、私たちは彼...
御霊から生まれるもの― キリストにある新創造 ―T. オースチン-スパークス目次第一章 御子のかたち第二章 新創造の本質的な天的性質第三章 新創造の普遍性第四章 新創造のかしらである主イエス第五章 新創造の本質的な団体的性質オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「聖霊の極度の必要性」第五章 命・聖潔・真理の御霊(9) 完
真理の霊この二重の提示では、主イエスがこれらの特徴をすべて帯びて登場されることに気づきます。彼は彼処に命、生きている者としておられます。彼処に聖潔としておられます、その髪は白い羊毛のように白く、聖潔と清さという冠をかぶっておられ、人を代表する清められた御方です。次に、彼は三番目に忠信で信実な証人として示されていること、そして七つの霊の三番目は真理の霊であることに気づきます。七つの霊に関連して個人的...
聖潔の霊これは、栄光を受けた人の子であるイエス・キリストのパースンの中にある積極的な原則、積極的な美徳、特徴です。聖霊は、この基準に向かって働くために、ここに聖潔の霊としておられます。今、私たちは、聖潔の霊とどれだけ一致しているかに応じて裁かれることになります。神は主イエスにおいて、人に対する聖潔の基準に到達されました。聖霊が来臨したのは、他のすべての信者において、主イエスにおけるその基準に到達す...
これがそもそも問題です。まず第一に、あなたは命を得たでしょうか?黙示録は、「だれでも小羊の命の書に書かれていないことが判明した者は……」という問題と共に閉じます。自分は命の書に、生ける者の書に書かれていると、あなたは確信しているでしょうか?次に、命の量についてはどうでしょう?あなたの中で命はますます豊かになっているでしょうか?勝利の命はあるでしょうか、それは力の角であり、視覚と知覚の目である復活の命...
命の霊ともし火、火、角(力)、目(視覚)という言葉を取り上げて、神の御言葉を辿って行くと、命はこれらの特徴を帯びていることがわかります。命は火によって表され、力は復活の命の力(角)です。視覚、理解力は命のしるしです。同じことが他のすべての特徴にも当てはまりますが、ここではまず、七つの霊は命の霊である、という真理のとても単純な声明に話を絞ることにします。黙示録では、主イエスの積極的な力は、まず第一に...
私たちはみな不十分であることがわかります――ああ、私たちはまだそこに至っていません。現時点における私たちの問題は、「聖霊は今、この瞬間に行いうることをすべて行うための許可、同意、従順、協力、信仰を私たちから得ておられるでしょうか?」ということです。明日でも、未来でも、過去でもありません。重要なのは、聖霊が今、私たちの中で自由な道を得ることです。私たちは今日のことだけを考えればいいのです。明日のことは...
「この書を受け取って、その封印を解くことができる者は誰か?」という叫びが上がったことがわかります。それができる者は天にはだれもいませんでした。しかし、「私が見ていると、御座の中央にほふられたような小羊を見た。それには七つの角と七つの目があった。彼は来て、その書を受け取って開かれた……」。すると、すべてのものが「あなたはふさわしい」と歌い始めました。主イエスの何が、御座についてその統治の書を受け取るの...
この二つの節、この二つの期間で、主イエスが示されています。一つ目は諸教会に関して示されており、それに関連して七つの御霊がおられます。二つ目は地上に住む者たち、地の住人たちに関して示されています。どちらの場合も主イエスを見せており、どちらの場合も七つの霊が主イエスに関して働いておられます。その働きとはまさに次のようなものです、すなわち、高揚と栄光と統治の地位についておられる主イエスと結ばれているこれ...
まず、聖霊について「私は御霊の中にいた」と言及されていることに気づきます。次に、この三つの章を通して、聖霊について「御霊が諸教会に言われること」と何度も言及されています。次に二番目の期間、新たな状況では、「私は御霊の中にいた」とありますが、聖霊の直接的な活動についてはそれ以上何も述べられていません。しかし、神の七つの霊について二回言及されています。これはとても重要であることがわかります。なぜなら、...
朗読:黙示録四~五章、一・四~六、四・五、五・六。これらの御言葉の一つか二つの特徴に注目していただきたいと思います。そこには、この章について私たちが心に抱いていることの背景を形成するのに必要ないくつかの点があります。まず、ここで「私は御霊(the Spirit)の中にいた……」と二回述べられていることに注目してください。これは、まず黙示録一・十で、次に黙示録四・二で述べられています。どちらの場合も、御霊(Spir...
さて、私たちは御霊に満たされるための根拠を見てきました。私たちは自問しなければなりません、「私は神の御言葉に浸された生活を送っているでしょうか?それがなおざりになっていないでしょうか?それは貧弱で縮んだ状態にあるのではないでしょうか?」。今、これを正すつもりはあるでしょうか?私たちの祈りの生活についてはどうでしょう、そうあるべきだと自覚しているよりも低い水準に、主が望んでおられるよりも遥かに低い水...
二つ目は御言葉です。神の御言葉の中にある豊かな命が、御霊に満たされた生活には不可欠です。御言葉の中にしっかりととどまらなければなりません。聖霊が神の御言葉の代わりになってくださる、とは思わないでください。多くの人は、聖霊が働いて自分たちに話すメッセージを与えてくださると考えて、神の御言葉に関して何もしません。これは悪質な罠です。「キリストの言葉をあなたたちの内に豊かに住まわせなさい」と御言葉は述べ...
従順と祈りと御言葉の必要性御霊に満たされるために、そして御霊に満たされ続けるために必要な三つのことについて、あまり掘り下げずに述べることにします。次は、従順です。つまり、神を信じ、神への信仰に基づいて行動し、神が指摘されるいっさいのことで神に従うことです。これは、議論したり、質問したり、疑ったりせずに、神に何かを指摘されたら、疑わしきは神に譲ることを意味します。これが従順です。暗黙の従順に通じる神...
全き献身は人生を狭めるものではありません。人生を豊かにし、人生の秘訣に導き、存在理由を知らせてくれます。それはあなたをこの世界が創造される前の神の御思いの中に導きます、「私たちは世の基が置かれる前からキリストにあって選ばれていたのです」。そして、神は世界が存在するようになる前から御子にあって御旨を定められました。しかし、キリストを受け入れないかぎり、あなたはこれに決して気づきません。その時、若い回...
「あなたたちの体が聖霊の宮であることを知らないのですか?」「あなたたちは代価をもって買い取られたことを知らないのですか?」「あなたたちは自分自身のものではないことを知らないのですか?」。この三つの問いかけは何を意味するのでしょう?なんと、あらゆる点で私たちのあらゆる部分を神は要求されるのです。それはみな神に属するものとして認識されるべきであり、私たちは霊・魂・体を全く神のものとして明け渡さなければ...
神への絶対的な明け渡し前の章では、別の言葉「服従」を使いました。さて、それが好きかどうかは別として、それは正しいです。「服従」と「明け渡し」のどちらを好むにせよ、それは真実です。新約聖書では「服従」よりも「明け渡し」の方が多く使われているように思われます。ローマ六・十六、十九、「あなたたちは知らないのですか?だれかに自分を僕としてささげて従順になるなら、あなたたちは自分が従っている者の僕であって、...
さて、私たちは信仰を行為によって思慮深く行使して、キリストと十字架における彼の御業とを把握し、彼と彼の御業を自分のために受け入れなければなりません。なぜなら、それは私たち一人一人のためだったからです。十字架上のあの御業はみな、全世界のためであるのと同じように個人のためでもあります。私たち一人一人のためでもあります。御霊に満たされよという神の偉大な命令を、それが意味するいっさいのところと共に果たすう...
さて、御霊による聖別に関連して、他に一つか二つのことを見てみましょう。この件では信仰の明確な行為が必要です。キリストと十字架における彼の御業とを、信仰によって把握することと証しすることが必要なのです。これを二つの部分に分けることにしましょう。キリストと十字架における彼の御業とを信仰によって把握する必要があります。「キリストを把握する」とは、イエス・キリストは歴史上実在した人物であり、とても素晴らし...
主イエスの御業が聖霊の御業の基礎であることがわかります。これが出エジプト記二九章のあの素晴らしい節を読んだ理由です。この御言葉には本当に大きな感銘を受けてしかるべきです。それはこう述べています、「それは入口で常にささげる全焼のささげ物である」。入口は中に入る所であり、通路でした。そしてあの幕屋はキリストの表現、型でした。キリストの中に入るのは、入口で常にささげられている全焼のささげ物によってです。...
聖別の第三段階は、ほとんどの人が他のどの段階よりも優先している段階です。それは漸進的な面です。キリストにあって私たちの立場であるもの、そして神への献身という私たちが熟慮して行った行為と選択の結果が、今や、聖霊の働きによって、私たちの中に漸進的に伝達されるのです。つまり、キリストに似た者にされるという意味で私たちは日毎に聖別されつつあり、私たちの代表者である彼が分離されたいっさいのものから日毎に分離...
さて、聖別の性質について考えてみましょう。聖別とは何でしょう?これは重大な言葉であり、これについて非常に多くのことが書かれてきました。そして、聖別の第三段階(これについてはすぐに触れることにします)がしばしば入り込んで、この言葉の真の意味を混乱させています。旧約聖書はこの言葉で満ちています。ヘブル語の翻訳は「奉献された」、また別の言葉は「ささげられた」です。何かを神に聖別し、奉献し、ささげるときに...
聖別さて、聖別は聖霊の満たしの前ではなく後に置かれることがとても多いことは私も承知しています。また、聖書の諸々の節を単独でとらえるなら、これを支持しているかのように思われるかもしれません。しかし、聖別を御霊の満たしの後に置くことは、聖別の意味の理解としてはきわめて不完全で不十分です。聖別は、あるとても重要な点において、御霊の満たしの前に来ます。しかし、聖別には次のような三つの段階があります。第一に...
これから読むのは神の御言葉です。人の言葉ではなく、神が聖霊によって書き記させた神の御言葉です。まず一般的な性質の節を二つ読み、次により具体的な性質の節を一つまたは二つ読みます。最初はローマ八章九節です。「もしだれでもキリストの霊(Spirit)を持たないなら、その人はキリストのものではありません」。これは神の御言葉であり、私や他のだれかの言葉ではありません。「もしだれでもキリストの霊(Spirit)を持たない...
しかし、本題に戻ることにします。敵は力と惑わしにより、勢力と誤謬によって、主の民を損ない、神の事柄に疑問を呈し、神の御旨に反対しようとしています。これらの両方の線に沿って私たちは敵に対抗します。その両方の線とは、敵の勢力・力・強さ・抵抗・圧力と、敵の欺き・誤謬・嘘です。どのようにしてこの両方の線で敵に首尾よく対抗すればいいのでしょう?「あなたたちの中におられる方は、世にいる者よりも大きいのです」。...
御霊に満たされた神の子供の中には、名状しがたいものがあります。それによって、あることが正しいか間違っているかを彼らは知ります。それを紙に書き下して、「これは聖書に反することだ」とは言えなくても、自分の中にある油塗りによって、そこには主ではない何か、別の何かがあることがわかります。そして、私たちは今日、油塗りの意義についてのこの知識を必要としています。もちろん、私たちは自分の偏見を聖霊の警告と取り違...
「ブログリーダー」を活用して、オリバーさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
「なんじ目を醒し、ほとんど死なんとする残りのものを堅くせよ」このところにおいて主は警戒しておられる。目を醒せとは、眠っている者が、一寸目を明けるということではない。断えず目を醒していることである。ある人は、自分の一つの経験に満足し、たびたび恵まれたあとに眠る人がある。恵まれるまでは、一生懸命にやるが、恵まれるとヤレヤレという風で、腰をおろして眠ってしまう。それではいけないのである。「ほとんど死なん...
「サルデス」とは「遺残者」という意味である。この教会の中には数人の衣を汚さない者、すなわち遺残者があった。大部分のものは駄目であったが、その中でも少数の人が、聖潔を保っていた。このサルデスの教会は、霊的活力のゆえに有名であったということである。鯛の釣りたてのように、中に生命が満ちていたのを誰もが認めることができたという。すなわち、外部からいえば、活動において有名であったが、しかし、「神の七つの霊を...
「勝を得て終りに至るまで我が命ぜしことを守る者には我諸邦の民を治むる権威を与えん。彼は鉄のつえをもて諸邦の民をつかさどり、彼らをやきものの器の如く砕かん。我わが父より受けたる権威の如し」この勝利者に与えられるものは、第一は万国民を治める権威である。この世においてはあのローマ法皇が威張り散らしているようには決して威張らないが、かえってあのパウロの言ったように、この世の塵垢のように思われているが、やが...
「いわく、われ汝のわざと愛と信仰とつとめと忍耐とを知り、また汝が後になししわざは始めのわざよりも多きことを知る」始めより後が盛んである。決して竜頭蛇尾ではない。「しかれども我なんじに責むべきことあり、汝はかの自ら預言者なりと言いて我が僕を教えこれを惑わし姦淫を行わせ偶像にささげし物を食らわしむる女イゼベルをいれおけり。」イゼベルとはかのイスラエルの王アハブの后で、バアルを拝した悪い女イゼベルのこと...
「テアテラ」という名は女の圧制という意味である。すなわち婦人が威張って男子を圧倒するというのである。テアテラはあのパウロがピリピの河岸において伝道したとき始めて救われた、紫布を商うルデヤという婦人の故郷で(使徒十六14)神の摂理によってこの婦人が最初に救われ、それが原因でその故郷にも教会が出来るようになったが、婦人が最初の土台であったためであろうか。とに角この教会では婦人が権利を張っていたようである...
「勝を得る者には、我かくしあるマナを与えん。また白き石の上に新らしき名を記してこれに与えん。これを受くる者のほかにこの名を知るものなし」全く悔い改めて、バラムの分子も、ニコライの分子も全く捨て、全く主イエスに従い、忠信の証し人として終りまで行ったその人には隠されているマナが与えられる。マナはイスラエルの民が曠野を通った時に天から降ってきたもので、そのマナを記念のためにつぼに入れて契約の箱の中に入れ...
「されども、我汝に数件の責むべきことあり、汝らのうちバラムの教えを保つ者あり、先にバラム、バラクに教えてつまずく物をイスラエルの民の前に置かしむ、すなわちバラクをして彼らに偶像に献げし物を食らわせ姦淫を行わしめたり」。バラムとは「民を滅ぼす者」という意味である。御承知の通りこれは民数記二二章にある人の名であるが、彼の行いによって多くの民が滅んだ。あの精神が幾千年も働いている。今もなお働いている。彼...
「ペルガモ」とは一つは塔という意味があり、もう一つは結婚という意味もある。この二つの意味のある字が出たのは面白い。ここに二つの意味に関することが出て来る。ペルガモは当時なかなか盛んな町であって、一人の王の宮殿があり、また図書館があって二十万巻の書を蔵していた。もう一つそこにエスカラマスととなえられていた有名な大いなる偶像があった。それは蛇の形をしていたものであったそうだが、その偶像のためにその町が...
「さらば我生命の冠を汝に与えん」前には生命の木があったが、ここでは生命の冠である。すなわちだんだん進んでいる。前のは生命の味、甘さがあったが、これは生命のグローリー(栄光)である。これを得る人は真に死ぬ人スミルナ的信者、没薬的信者――のみである。「我らもし彼と共に死なば、彼と共に生くべし、我らもし忍ばば彼と共に王となるべし(第二テモテ二11、12)とある。主イエスの死んでまた生きる者との意味はここに至っ...
「汝まさに受けんとする苦をおそるるなかれ、悪魔まさに汝らのうちの或る者を獄に入れて汝らを試みんとす。汝ら十日のあいだ患難を受くべし、汝死に至るまで忠信なれ、さらば我生命の冠を汝に与えん」これは主イエスのお勧めとまた勝利者に対する約束との二つが一つになっている。主イエスはこの教会の前途に横たわっている迫害を知っておられる。今までも迫害はなかったが、まだまだ大なるものが来る。英訳を見ればこれは一つでは...
第三の点は「いわくわれ汝のわざと患難と貧乏とをしる。貧乏とはいえど汝は富めり、我またかの自らユダヤ人なりといいて実はしからざるサタンの会の者のけがしの言を知れり」、これが主に知られたスミルナの教会の有様であった。この教会は賞められることのみで責められる所がない。没薬的信者すなわち自己が全く聖別されて自分の為ではなく、唯主の為にだけ生活する者はこういう風である。神の御目はいろいろの欠点のある者をおお...
「スミルナ」とは没薬という意味の字である。薬とは芳い香であるが、味の苦いもので、死人に塗る香料であり、また香油であり、また香油を作る一つの材料である。すなわち芳香、苦み、死ということを意味している。スミルナの教会はこの没薬的であった。もともと主イエスがこういう没薬的の御方であったのである。東方の博士が没薬を持って来て主を拝んだが、それは主イエスの贖の死を表わしたもので、すなわち彼等は主を贖主、救主...
次に「耳ある者は御霊の諸教会にいう所を聞くべし」何だか意地の悪いことをおっしゃられる。耳があるか、あれば聞け、福音書にもこれに似たこと言っておるが、耳があってきこえるなら御霊が諸教会、すなわちお互いに対して告げておられる声を聞け、これは主の命令である。「勝を得る者には我神の楽園にある生命の木の実を食らうことを許さん」おお勝を得る者を主は待っておられる。この世の生涯において、敗軍の将でなくて勝利者と...
その次は警戒である。「然ずして汝もし悔い改めずば、我なんじに到り汝の燈台をそのところより取り除かん」。もし、悔い改めよとの御声を聞きながら、なお悔い改めないなら、主イエスは速かにおいでになる。教会の審判主としてお出になる。これは、世の審判とは違う。世の審判ならば、罪人の魂を滅亡に投げ込まれるけれども、これは教会に対する審判である。神は光である、また神は愛である、それであるから光は愛であると言うこと...
「なんじいずこより堕しかを憶い悔い改めて初めのわざを行え」これが主の愛より出たところのお勧めである。何処から落ちたか、胸に手を置き、目をふさいで考えてみなさい。只事ではない、理由もなくブラブラ落ちるものではない。何か訳がある。何処からか考えてみなさい。私は恥ずかしいことであるが、落ちた経験がある。潔められない前は、落ちる所まで上っておらず、純粋の、心一筋に主に向かう愛がなかったが、憐みによって、ア...
次に主に知られている教会の真相である。「いわくわれ汝の行為と労苦と忍耐と汝が悪人を容る能ざると汝がさきにかの自ら使徒なりと称て実は使徒に非ざる者を試みて其妄言を見あらわしし事と汝が忍耐する事と我名のために患難を忍びて倦ざりし事とを知る」―これは賞められる点である。エペソの教会は実に立派なものであった。なにしろヨハネが監督であったことがあり、またテモテもそこで監督をしていたことがあったところで、立派...
第一に「右の手に七の星を執り、また七の金の燈台の間を歩む者」と御自身はおっしゃられる。全世界の全ての使者を右の手に持ち、そしてその中を歩まれる主である。これらの教会は実際腐敗を極めた教会で、これでも教会かと思われる教会であったが、その中にも主は歩んでおられるのである。今もこのような教会がある。けれども主はこのような教会の中にもおられる。昨日も今日も永遠までも変り給わぬ主イエス、かのガリラヤの湖辺を...
エペソはアジアの光とも言われていた大きな都で、全ての中心点であった。その教会はなかなか盛んで、都にふさわしい大いなる教会であった。エルサレムが滅亡して以来、教会政治の中心はこのエペソにあったので、初代においては重きを置かれた教会である。「エペソ」という意味は「弛み(ラキセーション)」ということである。「使者に書おくるべし」― 一章にこの使者のことを星といっている(一20参照)。この書は伝道者、牧師ある...
黙示録二、三両章に、七つの教会について記されている。当時、北アジアにこれらの七つの教会があったのであるが、これらの教会は、また全世界の型である。またある人は、これは教会歴史の各時代に相当するといっている。すなわち、 エペソの教会=準使徒時代の教会。 スミルナの教会=それに次ぐ迫害時代の教会。 ペルガモの教会=コンスタンティヌス帝以来キリスト教会は世と接吻した時代の教会。 テアテラの教会=ローマカト...
ヨハネ黙示録略解七つの教会笹尾鉄三郎目次緒言エペソの教会(二章一~七節)スミルナの教会(二章八~十一節)ペルガモの教会(二章十二~十七節)テアテラ教会(二章十八~二十九節)サルデス教会(三章一~六節)ヒラデルヒヤの教会(三章七~十三節)ラオデキヤの教会(三章十四~二十二節)オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)(火曜日の朝)祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人に...
イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録され...
イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であ...
イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを...
イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。〔3〕「己が頭髪にてそ...
ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...
二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)場所 エリコの近所。マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そう...
ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して...
エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟...
ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う...
若き青年の話(マタイ一九16~26、マルコ一〇17~31、ルカ一八18~30)今日は「マルコ一○17~31」を主題として、他の福音書に記された箇所を参考にしながら学ぶことにする。〔17〕ルカ一八18を見ると、この青年はつかさである。またマタイ一九20には若者とある。彼は地位と財産とを持った青年であった。しかも彼は地位、財産がたのむに足りないことを知り、限りなき生命の問題について、心をくだいていた。この点からみれば、彼は...
イエス幼児を祝される(マタイ一九13~15)キリストが一度伝道を始められると、多くの人々が彼の許に来て、霊魂の救い、また病の癒しを願ったのである。ところが弟子たちはたびたびあわれみを求める者を阻んだ。これによって見ても弟子たちの心がいかに冷酷であったかが知られる。あのスロ・フェニキヤの女がイエスに叫んだ時にも、弟子たちは彼女を追い払って下さいと願っている。弟子たちは人々が信仰に関しての問答ならば喜んで...
パリサイ人と税吏の譬話(ルカ一八9~14)この譬話の目的とするところは、自らを正しとする人を教えることにある。このパリサイ人の眼中には、強制取り立て、不義、姦淫する人々が映っているのを見るであろう。特に自分の近くにいる取税人と自分とを対照したのが見える。これは古き人の姿であって、自分が罪人であることを承認することの出来ない者である。次に学ぶべきことは、自らを義とする人は決して神に出会ったことのない人...
ただひたすら祈ったやもめの譬話(ルカ一八1~8)〔1〕「人の恒に祈祷して気を落すまじきために……」イエスのわたしたちに対する一つの願いは、わたしたちが常に祈祷して気落ちしないことである。わたしたちはかの偶像信者が神社仏閣にちょっと参拝して気を済ませるように、ちょっと祈祷して気を済ませているから祈祷の深みに入らない。そしてその祈りはわたしたちに何らの利益をも与えず、かえって悪魔に敗れることがあるから、わ...
神の国に関する説教(ルカ一七20~37)ユダヤ人は、イエスがもしもメシヤであるならば神の国は直ちに実現して、ユダヤの国はローマの支配を脱し、ついにはユダヤ国は世界の最強国となるであろうと考えていたのである。ただに彼らのみならず、弟子たちもまたそう思っていた。だからイエスが甦った時に「主よ、汝今国をイスラエルに返さんとするか」(使徒行伝一6)などと質問を発したのである。しかしながらイエスは、彼らの誤解を...
十人のらい病人癒される(ルカ一七11~19)このガリラヤとサマリヤには、異邦人とユダヤ人とが雑居していた。昔ユダヤ人は異邦人と交際せず、また律法によってらい病人と別居させ、決して交際などはしなかったのである。であるかららい病人たちは一団となって特種部落をなす傾向があった。故にここに記されたように、かくも多くらい者が集まっていたのである。また十六節によると、この十人の内にも異邦人のあったことは明かである...
富める人とラザロの譬話(ルカ一六19~32)これはわたしたちのよく知っているところである。けれども今特に主よりこのことについて教えられたい。このところは非常に厳かなところである。それで今日は、永遠ということについて学びたい。〔19〕この富んだ人は、この世のことのみを思う人である。「紫の細きものとを着」紫は王の着るべきものであり、また王の前において着るべきものであった(エステル記八15)。故にこの富んだ人は...
不義な家令の譬話(ルカ一六1~13)このような出来事は、世の中によくあることである。〔3〕「主人、我役目を奪いなば何を為さん。我鋤を執るには力なく」わたしたちの学ぶべき教訓は、家令の知恵である。すなわち、自分の能力を知ることである。わたしたちは時々自分の出来ないことを出来ると自負して、自分の能力を知らないことがあるが、これは愚かなことである。〔8〕「しわざの巧みなることを以てこの不義なる番当を誉めたり...
〔25〕この兄は信者であっていまだ聖潔を受けない人、換言すれば、父と共に喜怒哀楽において一致しない者の型である。兄は弟のように放蕩ではなく、正直に父のもとに働いていたのである。表面より観察する時は非常に立派である。しかしながら、その心にある一物は時に臨み、機に触れて立ち上がりこのようなにがい水を出すのである。兄は畑にいて僕たちと共に終日すきを取り、一日の労働を終えて帰る時、たまたま妙なる音楽を耳にし...