兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
すでに見ましたが、新しい人は、それを造った方のかたちに、御子の人性のかたちにしたがって新しくされつつあります――あなたは主イエスを人類のどこか孤立した界隈に留めることができるでしょうか?彼の人性にはあらゆるものが溶け込んでいました。これは約二千年の間に証明されてきたのではないでしょうか?主イエスをインド、アフリカ、中国、この世界のどこでも好きな所に連れて行くなら、彼の中に普遍的な接点となるものが見つ...
それは私たちにとって長い学びになるでしょうが、主イエスの生涯における普遍性について学ぶことは大きな価値があるでしょう。彼の誕生はたんに地上の、局所的なものではありませんでした。聖霊の活動を見てください。肉の意志や人の意志、血によってではなく、聖霊によって生まれたのです。これは普遍性です。地的な誕生の水準からこの誕生を引き上げるものです。天が介入し、天使たちは天を裂いて道を開き、天がその誕生に関与し...
これは一つの過程であることを忘れないでください。この新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされつつあります。御子のかたちに同形化されるようにあらかじめ定められており、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされつつあります。これが今起きていることです。私たちはこのかたちにしたがって新しくされつつあるのです。次に、これは漸進的な解放です。私たちはこの天然の命に属するもの――それらは支...
前に述べましたが、ユダヤ教では律法の中にとどまることが可能でしたが、それと同じように、キリスト教も律法の中にとどまるおそれがあります。キリスト教は律法を一つの体系としてあなたに課そうとします。また、天然的なクリスチャンは、「あなたはこれをしてもかまいません、あれをしてはなりません云々」と言います。そして、あなたの生活は律法的なものになり、「自分がこのことやあのことをしたら、兄弟たちはどう言うだろう...
新約聖書の中の地域集会もそうでした。彼らは、自分たちの務めはその教区内だけでなく、どこでも主の御名の中で務めがなされているなら、それも自分たちの務めであることを認識していました。ですから、使徒はどこに行っても、必ず人々に霊の中で協力してもらいました。務めは一つであること、一つの場所に位置していても普遍的であることを、彼は認識していたのです。テサロニケ人はアジア全域に伝道するのに役立ちました。エペソ...
復活した主イエスが他の何よりも表しているものがあるとするなら、それは、肉であるものとは異なるものである、霊であるものの性質であるように思われます。それは空間を超越しています……距離は無意味です。人の寸法には何の地位もありません。彼は天と地を一瞬で渡り、一瞬で境界に触れます。長さ、広さ、高さ、深さは、一瞬のうちにすべてひとりの御方の中に網羅されます。そして、主は私たちを私たちの限界から連れ出してあの領...
子たる身分世の限界はなくなり、彼は限界も寸法もない、絶対的に普遍的なキリストになられました。これが復活の意味です。これが子たる身分の意味です。なぜなら、子たる身分は復活において明らかになるからです。復活の立場に基づいて、この子たる身分は明確な現実となります――「死者の復活により、力の中で神の御子と宣言された」とあるとおりです。復活の力の中で、子たる身分が明らかにされます。子であること、御霊から生まれ...
主は、あなたが棺桶に頭を突っ込んだまま生きることを望んではおられません。ある時、私は修道院に行ったのですが、そこの修道士はまず修道院の地下室に私を連れて行き、ずらっと並んだ棺桶を私に見せました。彼の話によると、修道士がその修道院に入ると、まず自分の棺桶を与えられて、「あなたは一生この棺桶に縛られることになります。この先、あなたは死んだも同然なのです。この棺桶をあなたに与えるのは、あなたは最後までこ...
朗読:ローマ八・二九、二コリント五・十六~十七、エペソ四・二三、四・十三、コロサイ三・九~十一。さて、この大きな問題について続けるにあたって、私たちは御霊から生まれたものつまり新創造の普遍性に取り組むことにします。前回のメッセージでは、この新創造の本質的な霊的性質に専念しましたが、天的性質の主な特徴の一つは普遍性です。この言葉の象徴的意味を調べると、天は普遍性を象徴するものであり、またそのように使...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(10)
十字架は、罪人としての人に適用されなければならないだけでなく、説教者・クリスチャン活動の組織者・諸教会の運営者としての人にも適用されなければなりません。これは真実です。あなたが霊的生活に入ったのは上からでしょうか?何年もの間、良い良心と良い信仰の中で主に仕えてきた神の子供といえども、あるべき形でその中にいないおそれがあります。そのような形でその中にいないので、あなたは救われていない、ということを言...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(9)
次に、「もしあなたたちがキリストと共に死んだのなら、上にあるものを求めなさい」とあります。あなたたちはそこで天の生活を送ります。私たちの国籍は天にあるからです。十字架の天の側にあるものにはみな、天的な価値があります。古い人はその中に入れません。その中にあるものは上から来ています。古い人、旧創造から切り離す十字架の働き――キリストの割礼――が、すべて認識され、受け入れられ、信仰によって取得されました。そ...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(8)
さて、実際に主の証しの中にある私たちにとって凄まじく重要だと私が感じていることを、一つお話ししたいと思います。それは、私たちの性質と構成は本質的に天的なので、神に属するものの中に入る時は上から入らなければならない、ということです。これもまた他の人に伝えるのがとても難しいことであり、主から理解力を賜ることが真に必要な問題です。私を信じてください、今あなたに理解できるかどうかはともかくとして、私が述べ...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(7)
「子は自分からは何も行うことができません、言葉を語ることも、わざをすることもできません。しかし、父が言葉を語っておられるのであり、父がわざを行っておられるのです」――「父が行われるのを子が見ることは何であれ、子も同じように行います」云々と彼は宣言されました。これはみな、彼の生活においては天が絶対的に支配していたこと、彼はこの地には属していなかったことを示しています。今、彼は新創造、新しい人、御霊から...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(6)
カナでの彼の肉身の母親の事例では、「ぶどう酒がなくなりました……」「女よ、わたしはあなたと何の共通点があるのですか」という会話がありました。これは、私たちの欽定訳が伝えるとても厳しい「女よ、わたしはあなたと何の関わりがあるのですか」という意味ではなく、次のような意味でした、「女よ、あなたの考え方とわたしの考え方は二つの別の領域にあります。あなたが考えていることは、わたしの考えではありません。あなたは...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(5)
新約聖書における霊的地位の回復私たちの場所は天にあります。ヨルダン川以降の主イエスは、神の御心にしたがった新しい人、新創造すなわち御霊から生まれたものの模範でした。これに関連して、主イエスのこの地上生涯には、この地上にある何かによって影響されたり支配されたりすることは一瞬一刻たりともなかったことに気づきます。彼が人のある種の要求に応じられたとしても、それは一時の間のことにすぎず、この世の体系の支配...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(4)
ヨシュア記は天上の書であり、ヨルダン川を経て上って行って良き地を所有すること、ヨルダン川で全く断ち切られて天上を所有しに行くことに関するものです……ヨシュア記では、あなたは常に天上の仮庵にいます。しかし士師記では、人々が天上から降りて来るのが見られます。彼らは破壊するよう命じられたものを容認しました。そして、それにより屈して地に向かい、地とのつながりが生じました。こうして士師記は、一つの例外であるマ...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(3)
旧約聖書における霊的地位の回復旧約聖書に戻ると、主がご自分の民をエジプトから徹底的に完全に分離されたことがわかります――ひずめ一つもエジプトに残してはならなかったのです。次に、主はイスラエルをこう呼ばれました、「わたしの子……わたしはわが子をエジプトから呼び出した」。またパロに向かって、「わたしの子、わたしの長子を行かせて、わたしに仕えさせよ」。わたしの子……エジプトから。そして、ネヘミヤ書八・十七に向...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(2)
信者の生活の絶対的に天的な性質今、その力を十分に実感できるよう願います。神の御言葉が分けている以上、私たちは神の御言葉が分けているものを分けて理解しなければなりません。神の御言葉は霊と魂と体を分けているのですから、私たちはこの違いを認めなければなりませんし、新しく生まれたものは私たちの体ではないことを(これについてはよくご存じでしょう!)再度理解しなければなりません。また、それは私たちの魂でもあり...
「御霊から生まれるもの」第二章 新創造の本質的な天的性質(1)
私たちはここのところ御霊から生まれるもの、つまりキリスト・イエスにある新創造に専念しています。よく知られている二つの節を思い出していただきましょう。一つはご存じのとおりヨハネ三・六です、「肉から生まれるものは肉であり、御霊から生まれるものは霊です」。もう一つは第二コリント五・十七です、「今や、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。...
それはこう説明できます。その理由は敵の側には全くありませんし、主の側にもありません。私たちにあるのです。主は御子のかたちに同形化することを求めておられ、困難・試練・妨げ・悪魔の活動はみな、私たちを連れ出して神へと引き寄せ、私たちの内に主イエスの特徴を発達させるためなのです。霊的優位性、信仰、神の御子の力強い信仰、イエス・キリストの特徴と御霊の愛を発達させるためなのです。キリストのこれらの特徴がみな...
多くのことを述べてきましたが、これからの数日間のための前置きの話を終えるにあたって、次のことを述べたいと思います。神のこの偉大な支配的御旨、すなわち、栄光に至るすべての子らを御子のかたちに同形化することが、ここにいる私たちに対する彼のすべての取り扱いの理由なのです。私たちが通る奇妙な経験、私たちの人生の一部を形成する深刻な試練、私たちに関する神の摂理と主権によることはみな、神の御目的に照らして説明...
次の点は――これにつまずく人が大勢いるのですが、聖霊は、言わば、この原型を目的として来臨された、ということです。聖霊は栄光の主イエスを見ておられ、神の御心に適う成就された栄光の人を見ておられます。聖霊は、この原型を徹底的に、細部に至るまでご存じです。聖霊は来臨されました。もし私たちが真に上から生まれた神の子供なら、彼は私たちの内におられます。そして今、聖霊が地上で行っておられるのは、この原型を内側に...
これが問題です。私たちは常に、地的必要よりも高度な必要が何かあるのかどうかを見極めなければなりません。地的権益は必要なものなのか?という問いを発しないかぎり、私たちには決してわかりません。地的必要を論拠とするなら、あなたは地上に向かって、それを水平的に捉えることになります――「これを行うことが必要そうだ」というように。主の見方はそれとは違うかもしれません。天的必要をその線に沿って理解しなさい。敵は、...
私は今、彼が贖いの問題に関して行われた偉大な御業について取り扱っているわけではありません。彼の偉大な贖いの働きについて取り扱っているわけではありません。贖いの働きのために、彼は私たちの罪を負い、木の上でご自身の体にそれを担われました。私たちの代わりに神の怒りの大波をすべて受け、きわみまでも裁かれたのです。私はそれについて述べているわけではありません。それは、私たちがあずかる必要のないものです。神は...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...