兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
〔17〕かかる姿でキリストが現われたときに、ヨハネは、死んだ者のようになった(ダニエル十7、8、16、17参照)。イザヤが、神を見たときのようである。このように血肉が全く死んだときに、キリストは右の手をあてて彼を甦らせなさった。このようにして彼は、初めて生きたキリストを見たのである。黙示を受けようとするためには、このような態度を通らなければならない。倒れて後に起されるのである(民二四4)。「我はいや先なり...
〔12〕「声を見んとて」声を聞こうとしたのはもちろんのこと、その声を発している者をなんとか見ようとしたのである。このように記者の目と耳とが、主に向って働いたことは、その全注意力を主に注いだことをあらわしている。主は、そのような態度を、私たちにも要求しておられる。「金の七つの灯台」これは、教会のことである。教会は、このような者として置かれたのである。「金」は、神性を示す。「灯台」は、光を示す。この世の...
〔9〕記者自身を現わす。「汝らの兄弟」読者に対してご自身を兄弟として現わしている。自己を卑しくして、私たちと同じ位置におかれた。これが彼の謙遜である。「なんじらと患難を共にし」まことに親密な関係である。快楽ではなく、患難を共にしたもの、イエス・キリストの国および、その忍耐を共にする者イエス・キリストの国は、霊的な王国である。この悪魔の支配する世界にあって、あなたがたも、私もイエス・キリストの国に共...
〔7〕「見よ、彼は雲に乗って来る」栄光をもって現れ給う時にこのようになる。雲は、神の栄光のあるところに伴う。キリストの地上再臨を示す(使徒一9、11)。他の事を説くのではなく、再臨のキリストを説くのであると。先ず第一の幕が開けられる、これが本書の特色である。再臨は、第一降臨の時と異なり、栄光と権威とをもって下られる。「すべての目かれを見ん」キリストは、このとき、全世界のものに見られ、かつ知られるように...
〔4〕「七つの教会」七の数が完全数を現わし、世界にある全教会を代表している。どのような種類のものもみなこの中に含まれているので、これはいかなる信者にも適応する。黙示は、アジアの七つの教会に与えられた書であって、また全世界の教会にも与えられた書である。「今いまし、昔いまし、後います者」、父なる神、ありてある主、時代のどうであるかにかかわらず、いつも存在し給う神を言う。「七つの霊」全き霊、父の前にあっ...
略解〔1〕「これイエス・キリストの黙示」第一に、キリスト自らがその事実を示し給うだけでなく、彼ご自身をも現わし給うたことを意味し、第二に、彼より出たところの事柄についての黙示を意味している。「彼をして」キリストをしての意。「迅速に起るべきこと」黙示録に記されたことは、いつ頃起るべきかが判然としないものではなく、神の前には迅速に起るべきことであって、その僕たちに知らされないことの決してない事柄である...
分解一 緒言 1~3二 七つの教会に対する挨拶 4~6三 再臨に関する預言 7~8四 黙示を受けたときの実状 9~11五 キリストの顕現 12~16六 ヨハネの恐怖と告示 17~20この章は、敬虔の念をもって黙示についての鍵を握るべきところである。それゆえ、私たちはヨハネと同じところに立って、霊によって解釈しなければ、この黙示を語ることはできない。本書は、ヨハネ黙示録としないで、イエス・キリストの黙示録と名付けた...
本書に現われたキリストの聖名 一 神 一8 二 人 同13 三 十字架に釘づけられた者 同5 四 復活して生きている者 同5、18 五 大預言者(忠信なる証人) 同5 六 祭司の長 同13 七 審判者 同13 八 摂理の主 五5 九 聖徒の王、教会の首 一13、16 十 再臨の主 同7 十一 天国の光と栄 二一23 十二 万国の王 一5 十三 イスラエルの王 五5 十四 その民を愛して潔める者 一5 十五 罪人を愛する...
一、記者 使徒ヨハネ二、時 紀元九六年あるいは九七年三、場所 パトモス島であろう。四、時機ヨハネは、長い間エルサレムに住んでいたが、後にエペソに移り、そこを中心に小アジアの諸教会を監督したものと思われる。当時彼は、迫害のためにパトモスの島へ流されていたが(一9)、主イエスはそこでこの驚くべき黙示を彼にさずけ、彼を通して私たちに光を与えられたのである。ヨハネは、その後放免されてエペソに帰り、そこで紀...
ヨハネ黙示録略解笹尾鉄三郎目次諸言第一章第二章第三章第四章第五章第六章第七章第八章第九章第十章第一一章第一二章第一三章第一四章第一五章第一六章第一七章第一八章第一九章第二〇章第二一章第二二章オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
付録:イエス復活後現われしこと十度一 マグダラのマリヤに現われる(ルカ一六9、ヨハネ二〇1~18)二 他の婦人達に現われる(マタイ二八9)三 二人の弟子に現われる エマオにて(ルカ二四13~32)四 ペテロに現われる(コリント前十五5、ルカ二四33~34)五 十人の弟子に現われる(ルカ二四36~43、ヨハネ二十19~25)六 十一人の弟子に現われる(トマス加わる)(ヨハネ二十26~29)七 七人の弟子に現われる ガリラヤの...
昇天(マルコ一六19~20)場所 ベタニヤ〔19〕天に上げられて神の右の座につかれたキリストを我らは明かに知ったであろうか。ある人はキリストを知るのに十字架までで止まるが、しかしキリスト伝の特色は甦えりと昇天があることである。ああ、この主を覚えたい。〔20〕昇天の主が力を合せて共に働かれる伝道である。ハレルヤ。〔ルカ二四50~53〕祈祷は彼らにとってどんなに幸いであったであろうか。穴のある手をあげて祝された時...
ガリラヤ山における最後の顕現(マタイ二八16~20)〔16〕幸いな山である。我らはこの山で主を拝したいものである。〔17〕「されど疑える者もありき」ペンテコステまでは主はどんなに懇ろに御自身を示されても、なお弟子たちの誰かは疑った。実に悲しいことである。〔18〕「イエス進み出て」特別に注意をひいて御自身を王の王、主の主として示されたのである(詩二6~11)。この王を畏れて喜びたいものである。〔19〕「この故に……...
〔18〕羊を托された主は、次に我ら牧者たる者に一つの覚悟を求められるのである。「汝いとけなき時」信仰の幼稚な時は、自分の心のままに遊んで歩く生涯で、彼らはペンテコステの時まではこの生涯であった。しかし「老いては」成長したら十字架を負う生涯に入らねばならない(ヨハネ一○11~15)。死に至るまで忠実なことである。〔19〕「如何なる死にて神を崇めんかを示せるなり」主にこれが見えていた(言伝えによれば、ペテロは...
〔12〕「来りて食せよ」幸いである。前に「おさなご共よ、食物あるや」との主の問に対して彼らは「無し」と答えた。彼らは自分に食物がないのだから、もちろん人を養い得なかった。しかし今度は主が魚をたくさんとらせて、「来りて食せよ」と言われたのである。ああ、この甦えりの主のご馳走を得たいものである。〔13〕弟子たちは先に五千人あるいは四千人を養われた主を思い出したことだろう。この時彼らは霊肉共に大いに飢えてい...
テベリヤ湖にて七人の弟子に現われる(ヨハネ二一1~24)一~一一 罪人を漁ること一二~一八 信者を飼うこと一九~二一 十字架を負うこと二二~二五 再臨を待ち望むこと(バックストン氏の分解による)これは我らの全生涯を示している。故に、これをしっかりと心に入れれば成功である。〔1~2〕ここは七人である。「ペテロ、トマス、ゼベダイの子等」みな弟子として失敗した者ばかりである。〔3〕人情としてはさもあろうが、実...
十一の弟子に現われる(ヨハネ二〇24~49)(トマスのいる時)〔24~25〕「十二の弟子」とあるのは英語のthe twelve(ザツエルブ)であって弟子たちということの通称である。先にトマスは共にいなかった。どうもとかく理屈を知ることを好み、見なければ信じないような者は栄えを見ないのである。トマスは他の弟子たちが確かに主を見たという時にも、なお承知しなかった。トマスは多分見なければまた触らなければ信じない、との大気...
ルカ二四36~43〔36〕この日は実に多事であって、三つ重って甦えりの知らせがあった。〔37〕彼らは信ずべきであるのに、不信仰の故に疑っていたのである。弟子たちの疑いと主の御言葉とは、ちょうど舟で嵐に会った時のようである。〔38〕主は不信を嘆かれる。「何ぞ心に疑い起るや」この疑いとは「理屈を言う」ことである。〔39〕主は「我なるを知れ」と仰せられた。不信仰は主御自身を認める代りに、主以外のものを見るのである。...
キリスト、十人の弟子に現われる(ヨハネ二〇19~23)場所 エルサレム(トマスのいない時)〔19〕「一週の始めの日」日曜日である。一四章に主は弟子たちに「憂うるなかれ」と、また一六章には「恐るるなかれ」とくれぐれも教えられたが、弟子たちはやはり恐れていた。しかも戸を閉じてふるえていたのである。人間の大胆の真相はこんなものである。このように恐れていた時に、主は御自身を現わされた。この時戸が閉じてあって入る...
〔28~29〕彼らはこの聖書講義を聞いて、何とも言えない光を受けたように見える。「主はゆき過ぎんとするさま」をなし給うたが、彼らは主を引き止めた。これは熱心に止めたという語であるという。もし他のことを思っていたら講義を聴くにしても身が入らず、早く終ることを願うものである。しかし彼らは「日も暮れかかっていますから、一緒にお泊り下さい」と熱心に引きとめた。彼らの心中はただ淋しかったのである。ちょうど夕暮に...
イエス、二人の弟子に現われる(ルカ二四13~35)場所 エマオ〔13~14〕一人の名はクレオパであって、他の一人は不明である。多分この人々はエマオに住んでいたらしい。過越の祭が終ったので、エルサレムから帰るその途中であったろう。二人共語り合い、また論じ合っていた。その時イエスが近づかれたのである。〔15〕彼らが論じていたのは一七節で明かである。彼らは議論したのではなくて、主をしのんで過去の恵みを語り、また十...
番兵の報告(マタイ二八11~15)これもひとつの甦えりの使者である。死んだように恐れた番兵も、甦えりの報告をしたのである。しかしこれは死んだ報告である。彼らはこれを自分のものとして信じていなかったから、この報告に何の命もなかった。だから祭司、学者らが金をもって欺く時、たちまちその方に組してしまった。ああ、甦えりの場所にいながらも、主の甦えりを否定するものがある。ここに悲しいことは、祭司、長老が異邦人の...
マグダラのマリヤに現われる(マルコ一六9~11)場所 不明聖い人々あるいは偉い人々でなく、以前に七つの悪鬼につかれていた者――罪人――に主は真先きにあらわれ給うた。甦えりの主にお目にかかるのは、身分の如何によらないことを知る。彼女の砕けた心に対して主は第一に現れ給うたのである。我らも自らの罪を深く覚え、罪多いところに増し加わる恵みに感じて主を見上げる時、甦えりの主は現われ給うのである。〔10〕他の婦人たち...
キリストの甦えり(マタイ二八2~4)〔2〕「誰が……」という女たちの願いのこたえが前にあった。人間がどんな大石を持ってきても、神の力はこれを全く取り除けてその上に座し給うのである。ああ、信ずることである。〔3〕神から来た者は実に輝いて、「雪の如く白く」純潔である。変貌の主もそうであった。栄えときよさは天国の特色である。〔4〕死んだキリストは甦えり、生きて番をしていた兵卒は死んだ者のようになった。天使のみ...
〔3〕これは墓に来る途中の言葉であろう。彼らの愛のしるしである香料を主のなきがらに塗ろうと思ったが、墓前には大石が置かれてある。これが大きな妨げであった。今日も信者ならば主の愛を知り、自らも真に主を愛するけれど、悲しいことには主と自分との間に大きな石がある。石とは何か。これを霊的に味わえば場合によって色々あるが、第一は内なる罪、石の心である。これは主との交わりを絶つものである。また何かの性癖、何か...
婦人たち墓に行く(マルコ一六1~4)場所 エルサレム〔1〕婦人たちのことは続いて記されている。彼らは十字架にも墓にも最後まで主につき従っていたのである。安息日は律法に従って休んだが、安息日が過ぎるのを待って、この三人の婦人は香料を携えて行ったのである。実にこの心は美しいではないか。彼らは富者ではなかったであろうが、「イエスに塗らんとて」持って行ったのである。マリヤのナルドの香油と同様である。理屈を言...
イエスの墓に番兵置かれる(マタイ二七62~66)〔62~63〕彼らの心の中に何とも言えぬ恐れがあったのである。これが罪人の特色である。悪人は将来を思って心配し、聖霊は望みに輝いて喜ぶのである。〔65〕ピラトはどんどん彼らのなすままにさせた。神はサタンが思う通りにすることを摂理の中に許し給うのである。彼らの七重八重の囲いをも主は後に破って、彼の栄えをあらわされたのである。今もそのようになることを記憶したい。神...
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兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
三、さらば神は何故かやうにして御自身を顕はし給ふのであらう乎。神は人を教ふるに二つの方法を以てし給ふ。即ち律法と福音とである。肉と霊とである。一は我等の在る所に来て働き他は神の在し給ふ所へ我等を携へる。一は消ゆべきもの他は存(ながら)ふべきものである。而して此二つが矛盾の観を呈するのである。それはどういふ訳であるか、曰く神は愛であるからである。愛なる神は人を彼に肖(に)たる者たらしめんが為に先づ御...
二、また聖書の文字はイエスの体と同じく、啓示であると共に又蔽ひである、人の感(センス)のみを以て之を読む時は矛盾が多いやうに見える。此事は凡て神の啓示に共通のことである。例へば自然に就てもさうである。自然は確かに神を現はす。しかし人の感覚に訴へる時には矛盾のみ多くして却て神を誤り易いではないか。光もあれば暗(くらき)もある、熱もあれば氷もある、生命の保護もあれば死の跋扈(ばつこ)もある。故に或人は...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...