朗読:ルカ四・十六~二二、一ヨハネ二・二〇、二七、四・四。ルカによる福音書とヨハネ第一の手紙のこれらの御言葉は、以下の事柄に関するさらなる側面と強調点に私たちを連れ戻します。すなわち、聖霊の必要性と、御霊で満たされる必要性です。それがなぜ必要なのか、その理由のいくつかを私たちはこれまで見てきました。御霊で満たされること、御霊で油塗られることが何を意味するのか、私たちは見てきました。主は私たちにまだ...
〔マタイ二七57~61〕〔57〕「富める人きたりてピラトに往き、イエスの屍(しかばね)を請しかば」イザヤ五三9の予言である。〔60〕「大いなる石を墓の門に転(まろば)して去る」ヨセフはいたずら者を気づかってこうしたのである。〔61〕マリヤらは墓に向かって座っていた。ああ、彼らの愛……。〔ルカ二三50~〕〔50〕「善かつ義なる人」悔改めの実を結んでいる人は、世の中に光となっているのを見るのである。〔51〕彼はこの時か...
葬り(マルコ一五42~47)〔42〕過越の祭は、翌土曜日から始まるのであって、金曜日はそのための備え日であった。「安息日の前の日」キリストが金曜日に葬られた故、土曜日の安息日があったのである。安息の備えのためにキリストはほふられ給うたのである。キリストの死無しには我らに安息無く、苦しみのみであったろう。実に過越の小羊はほふられ給うたのだ。〔43〕「議員」サソヒドリン(七十人議会)――ユダヤの宗教裁判――の一議...
〔ヨハネ一九31~〕〔31〕申命二一22~23、キリストを殺して何の儀式であろうか。〔32〕当時足を折るのはその死を早めるためであって、太い棒で足を打って折ったのである。ある者はキリストの甦えりを否定するために、キリストは本当に死んだのではないというが、主は本当に死に給うたことは明かである。〔33〕ついに折らなかったのは、予言の成就であって驚くべきことと言わねばならない。〔34〕「あばらを突き……」なお間違いの起...
キリストの死と当時の状態(マタイ二七50~56)〔50〕大勝利、これについてはすでに述べた。〔51〕「殿(みや)の幕……裂けて……」キリストの死が我らにとって如何にありがたいことであるか。この神殿の幕は非常に厳かなものであって、聖い神との間をはっきり隔てており、神と人とは交わりが出来ない。もし無理でも近づこうものなら殺されるという厳格な隔てであった。ところが、この幕が上より裂けたのである。「上より」人間は下か...
「キリスト伝講義」十字架の日 (22) 十字架上の七語(7)
△第七、ルカ二三46「父よ、我が霊(たましい)を汝の手に託く(あずく)」ああ、大勝利である。キリストは今まで贖いのためにいろいろ苦しまれたが、事終りぬ、と成就した時に勝利が来たのである。人は死ぬ時に決して大声を出せるものではない。主は肉体としては苦しんで全く疲れ給うたのに、大声を出されたとは不思議なことである。しかしこれはキリストが神の子であるからである。主は「父よ」と言い給うた。先には「我が神」と...
「キリスト伝講義」十字架の日 (21) 十字架上の七語(6)
△第六、ヨハネ一九30「事終りぬ」我らの救は、成就した御業である。神と共同して、腕をふるって築き上げるようなことではない。事終りぬ、というこの基礎に立ったのである。事情はどうであれ、これを知って感謝すべきである。主は神が我らに要求されるすべてのことをなしとげられたのである。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
「キリスト伝講義」十字架の日 (20) 十字架上の七語(5)
△第五、ヨハネ一九28「我かわく」三十三年間、いろいろなことをなさり、すでにヨハネ一七章に「汝の命(めい)をなせり」と言われた主は、十字架の上でもなすべきこと――悪人のための懇求、母を弟子に托すこと、強盗を悔改めさせること――をなし、苦痛の杯を飲みつくして、もはや使命を完全に果したことを知って「我かわく」と言われたのだ。肉体としても六時間血を流された主は、焼けるほどにかわきを覚えられたはずである。さらに...
「キリスト伝講義」十字架の日 (19) 十字架上の七語(4)
△第四、マタイ二七45~49「わが神わが神なんぞ我をすて給うや」「その地あまねく暗やみとなる」これは罪の結果のあらわれたことである。この時は日蝕ではなかった。これは学者には不可解なことであって、太陽を創造された神の業なのである。神の子の死に際して、太陽が光を失うのはむしろ当然のことではないか。もちろん神においては、たとえキリストが死んでも太陽を光らせ得るのであるが、罪の結果は驚くべきことを実際に現わさ...
「キリスト伝講義」十字架の日 (18) 十字架上の七語(3)
△第三、ルカ二三39~43「誠に我なんじに告げん、今日なんじは我とともにパラダイスにおるべし」主の愛は第一に罪人のため、第二に信者のため、第三に砕けた魂にむかってあらわされた。ここに世界のよい写真が示されている。真中に主の十字架が立ち、両側に罪人が十字架についている(その一方は罪を悟った者、他方はそうでない者)。十字架は罪の模型である。世は罪に満ちている。だから皆殺されるべきものである。全世界と言わな...
「キリスト伝講義」十字架の日 (17) 十字架上の七語(2)
△第二、ヨハネ一九25~27母に言いけるは「女よ、これ汝の子なり」また弟子に言いけるは「これ汝の母なり」十字架はしばしば絵に見るような高いものではない。そばに立って顔を近づけて話すことが出来るほどのものであった。マリヤは主の十字架のかたわらに立っていた。彼女の心はいかばかりであったろうか。先には女の中で最も幸いであった彼女は(ルカ一42)今最も悲しい目にあったのである(ルカ二35)。我らも自らのうちにキリ...
「キリスト伝講義」十字架の日 (16) 十字架上の七語(1)
十字架上の七語△第一、ルカ二三33~34「父よ彼等を赦し給え、そのなすところを知らざるが故なり」三節においてイエスを十字架につけたその釘は主のおからだをさしたのである。今や彼らの罪は、その絶頂に達した。この時、発せられたのがこのお言葉である。あたかも、水が一杯の袋に穴をあけたように、主の内に満ち満ちた愛は――敵を愛する愛――溢れ出たのである。群衆、祭司、学者らがイエスをねたみ、憎み、殺そうとして十字架につ...
十字架(ルカ二三32~38)〔32~33〕キリストは人を殺した罪人と一緒に数えられ、しかも真中に置かれて、その中の第一の者とされた。キリストは世人のあらゆる罪を引き受けられたため、神と人との前に最大の罪人とされたのである。「クラニオン」とは、カルバリ、ゴルゴダなどと同意で、共にされこうべという意味がある。この山をモリヤ山であるという人もある。カルバリとはラテン語、ゴルゴダとはヘブル語、クラニオンとはギリシ...
クレネのシモン、十字架を負う(ルカ二三26~31)〔26〕ヨハネ一九17を参照。当時十字架刑に処せられる罪人は、自分でその十字架を負って刑場に至るまで、遠路を衆人の前をひかれて行く例であった。ゴルゴダは街のはずれであったので、罪人はそこまで恥をさらしながら行ったのである。主イエスもまた同じ目にあわされたのである。主は前夜からあらゆる苦痛を受け、打たれ、嘲弄され給うた――ゲッセマネにおいても大いなる心痛を味わ...
〔12〕ピラトは充分に光を得ていたのである。だから彼はなんとかして主を赦そうとしたのであるが、勇気がなかったために出来なかったのである。「もしこれを赦さばカイザルに忠臣ならず」これはサタンの用語である。この一語にピラトは閉口したのである。我らにもこの威嚇がある。しかし決してサタンに忠実であってはならない。〔13〕「審きの座」これは重罪を宣告する所である。ピラトが「審きの座に自ら坐」したのは、もはや失敗...
イエス、十字架につけられるために渡される(ヨハネ一九1~16)〔1〕「むち打つ」ユダヤのむちは実に残酷なものであって、先端に鉄または骨片をつけた皮ひもを結んだものであって、受刑者を裸にしてその背をむち打つので、そのために肉は裂け、血は流れ、しばしばそのために死ぬこともあるという。キリストはこのむちを受けられたのである。「そのうたれしきずによりて我ら癒されたり」(イザヤ五三5~)。その一つひとつは我らの...
〔マルコ一五6~14〕7バラバは暴徒であり、殺人者であった。9しかしキリストはユダヤ人の王ではないか。〔ルカ二三17~23〕17必ず18いっせいに19あの暴動を起した者であること。23「彼等はげしく声をたてて、彼を十字架につけんと言いつのれり、ついに彼らと祭司の長の声勝ちたり」実に意志強固である。ピラトの正義の声は打ち消され、罪人の叫びは勝った。妻の声も良心のささやきも消されて、罪人の声に負けたのである。この世の...
ピラト、キリストを赦そうとする(マタイ二七15~23)〔15〕「民の願いにまかせ」全く自由意志である。これは非常に責任のあることである。これは特別の恩典である。神の側としては、まさに愛の祭りである。しかしこれを乱用することによって、実に恐ろしい結果となるのである。〔16〕「バラバ」ここには名高き囚人とある。〔17〕「バラバかイエスか」からすかうぐいすかと言うのと同じである。人を殺した盗賊か、世を救う神の子か...
ヘロデのもとに送られる(ルカ二三6~12)〔6~7〕当時ユダヤの国は四つの地区に分れていて、大名のような者の支配を受けていたのである。〔8~9〕「イエスを見て甚だ喜べり」弟子たちもそうであった(マタイ二八8、ヨハネ二〇20)。しかしヘロデのこの時の喜びは、実に哀れなものであった。彼はただの物好きで、何か手品師でも雇ってきたような気分でいたのである。救を望まない者の喜びとはこんなものである。ここで多くの問が出...
ピラトに訴えられる(マタイ二七11~14)〔11~14〕イエスは口を開かれた時には明かに王であることを示されたが、その他は全く沈黙を守られた。大祭司は、神の子キリストなのかと問い、ピラトは王であるかと尋ねた。主はその大事な質問には明白に答えられ、それを定められた。「ピラトが奇(あやし)とするまで」黙されたとは実に大いなる勇気である。我らもこのイエスをわがものとして握りたい。〔マルコ一五2~5〕〔3〕祭司は罪...
ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
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朗読:ルカ四・十六~二二、一ヨハネ二・二〇、二七、四・四。ルカによる福音書とヨハネ第一の手紙のこれらの御言葉は、以下の事柄に関するさらなる側面と強調点に私たちを連れ戻します。すなわち、聖霊の必要性と、御霊で満たされる必要性です。それがなぜ必要なのか、その理由のいくつかを私たちはこれまで見てきました。御霊で満たされること、御霊で油塗られることが何を意味するのか、私たちは見てきました。主は私たちにまだ...
油塗りについては以上ですが、もっと多くの点があります。コリント人への手紙からざっと説明して、終えることにします。よくご存じのように、コリント人への第一の手紙は、神の権利がコリントで侵害されていたことを見せています。これが第一の手紙ではっきりと示されています。次に、何が起きたでしょう?使徒が明確に示しているように、神の権利を侵害して油塗りに逆らっていた人々はとても厳しいこらしめに遭いました。主は彼ら...
信者に触れるとき、私たちはキリストに触れます。「あなたたちに触れる者は、わたしの瞳に触れるのです」――その瞳を神は大いにねたむほど大事にしておられます。神の瞳という句には、素晴らしい絵画的意味があります。私たちの肉体がどれほど熱心に目を守っているのか考えてみてください。なぜ眉毛があるのでしょう?(流行にならって眉毛を剃り落としてはなりません。自分の肉体だけでなく、神の御言葉が描写しているものをも損な...
さて、これに続いて直ちにもう一言述べるべきは、神が介入された以上――神がご自身をある対象に、すなわちご自身の証しのためのある器に委ねられた以上――彼は油塗られたものを限りなくねたむほど慕っておられる、ということです。油塗られたものは、個人であれ、群れであれ、教会全体であれ、主にとって大いに尊いものです。それを神は限りなくねたむほど慕っておられます。教会は、聖霊に油塗られて、イエス・キリストの主権に対す...
さて、これと同行する次の点は、油塗りはこの世界への神の介入を表すという事実です。油塗りは、神がご自身の権利という根拠に基づいてこの世界に介入されることです。神はこの宇宙に関する権利を持っておられます。神の権利は至高ですが、人はこの宇宙における神の権利を否定したり無視したりしました。そして、神を脇にやって排除しました。これはおそらく、主イエスを拒絶したことに最も顕著に見られます。世は彼を知りませんで...
しかし、この事実にはもう一つの慰めの面があります。人の積極面は排除されており、人の肉は神の御前に出て神のものに手を触れてはならない、ということが真実であるように、人の消極面も排除されている、ということも真実です。つまり、私たちは自分の弱さ・無能さ・無知・生来の無価値さに影響されて、「自分には、機能する有用な者となるのに必要だと思われる、多くの資質や多くのものに欠けています。そのせいで、自分には全く...
聖霊の油塗りは、私たちが主イエスの頭首権に全く服するようになったことを意味します。私たちの実際のクリスチャン生活が、召命・奉仕・いわゆる「職務」といった点で、ことごとくそうなったことを意味します。これは第二に、人間的・天然的な人は油塗りによって全く排除されることを意味します。これは前にベザレルに関して見たとおりです――主が彼を神の霊で満たして幕屋に関するすべての技量を与えられた時、彼の判断や考えに委...
さて私たちは、油塗りとは何を意味するのか、と問うてきました。その答えは、様々な面に触れつつ、いくつかの異なる形で与えることができますが、御霊の油塗りの第一の意味は、油を塗られる者が油を塗る方に完全に服する立場と状態に置かれる、ということです。ヨルダン川での主イエスの油塗りを例に挙げましょう。彼は御父に絶対的に(生活上も職務上も)服されました。彼は、ヨルダン川で、御父に従う立場を取り、その指示・統治...
さて、油塗りとは何を意味するのでしょう?神の御言葉は御霊の油塗りなるものを示しているのでしょうか?先に進む前に、私たちは次のことを認識すべきだと思います。すなわち、油塗りは特に職務と関係している問題であるということです。それは職務の問題です。それはある階級に属している、という意味ではありません。聖職者や宣教士のためのものであって、平信徒はあずかれない、という意味でもありません。神の御言葉の中にその...
朗読:出エジプト二九・七、四〇・九、一サムエル十六・十三、一列王十九・十六、二コリント一・二一、一ヨハネ二・二〇、二七。さて、主が私たちの心に置かれたテーマを追求するにあたって、御霊の油塗りの問題に専念することにします。旧約聖書のこれらの節からわかるように、ここで述べられている人々や物は、神の命令と戒めにより、公的資格に関して油を塗られました。第一に、大祭司としての立場にあるアロンがいますが、油が...
そして第二に聖さです。すなわち、主の卓越性を示すことです。これについては多くのことを述べる必要があります。彼の聖さの卓越性がここでは幕屋において示されます。すべては「主に対して聖」です。主が願っておられるのは、聖霊によって、主イエスの聖さの卓越性が示されることです。「聖なる美しさの中で主を礼拝せよ」。そして第三は栄光です。幕屋の中にあるすべてのものが主の栄光を物語ります。栄光を受けた人の子に代表さ...
二五章の残りの部分をすべて読み進んで行くと、亜麻布は分与された義を、青色は天を、紫色は王権を物語っており、緋色は苦難を、明かりは証しを、香は主イエスの功績を、宝石は信じる私たちに対する彼の尊さを物語っています。というのは、「信じるあなたたちにとっては彼は尊い方」であり、宝石やその他のすべてのものだからです。祭司の務めや、祭壇・机・燭台・あわれみの座の機能はみな、主イエスの神聖な卓越性の異なる面を表...
金は神聖な性質を表します。ここでは人性がアカシアの木で表されていますが、アカシアの木は純金で覆われています。「それにより、際立って偉大な尊い約束を、私たちに与えてくださいました。それは、私たちが情欲によるこの世の腐敗から逃れて、神聖な性質にあずかる者となるためです」。ここに展覧されるべき一つの卓越性が示されています。聖霊がここにおられるのは、私たちを神聖な性質にあずかる者とするためであり、そして神...
銀は私たちが神へと贖われたことを意味します。次の御言葉の真ん中の部分を忘れないでください。なぜなら、私にとってその部分は全体の中でとても価値のある箇所だからです。「そして私たちを神へと(unto God)贖ってくださいました」。私たちは贖われただけでなく、神へと(unto God)贖われたのです。「あなたたちは代価をもって買い取られたのです」「あなたたちは自分のものではなく、傷もしみもない小羊の血のような、キリス...
主の御前で間違いを正すべきときもあります。私は、罪を無視したり、容認したり、悪行を軽んじたりするべきだ、と言っているのではありません。神のみこころにかなっていないことについて聖霊によって触れられる時、「それは問題ではない」と言うべきである、と言っているのでもありません。それを直ちに正して罪定めから解放されるべきである、と言っているのです。御霊が私たちに誤りを確信させられたら、私たちは直ちにその道を...
さて、これは偉大な教理に関する短い言葉です。しかしこれは、あなたと私において示されるべきキリストの卓越性の一部です。ああ、今日、主の民のなんと多くが、頭上に神の裁きが吊り下がっているかのようにすごしていることでしょう!彼らは、大きな裁きとは言わないまでも、何らかの裁きを依然として恐れています。逆に言うと、キリストによる罪定めからの絶対的解放を、私たち全員が歓喜しているわけではないのです。私たちは歓...
この幕屋を見て、そのあらゆる部分がキリストの栄光を示すべきものであることを認識するとき、もちろん、あなたはその各部を取り出して眺め、キリストのどのような栄光がその中に示されているのかを見たくなるでしょう。出エジプト記二五章に戻って、挙げるささげ物と呼ばれているこの包括的ささげ物について考えてみましょう。注目すべきことに、この言葉は幕屋に適用されています。この言葉がいけにえの一つに適用される場合は理...
神はあなたや私に対してどのような御思いを持っておられるのでしょう?それは素晴らしい御思いであり、実に驚くべき事実です。神は私たちをすべての利己主義、罪深さ、憎しみから救い出して、私たちにおいてまた私たちを通して、御子の卓越性を示すことを望んでおられるのです。これを理解できるでしょうか?信じられるでしょうか?これが何を意味するのかはすぐに見ることになります。しかし、これが私たちに関する神の御思いです...
さて、私たちはこれを一ペテロ二・九と結びつけました。「それは、あなたたち(私たち)を暗やみから、驚くべき光の中へ召してくださった方の卓越性を、あなたたちが告げ知らせるためです」。ペテロは現在の事柄を取り扱っています――彼が示している真理の面は教会の現在の巡礼です――しかしパウロは地上と現在の巡礼を超えて、天の教会を見ています。そして永遠を包含して、来るべき時代に関して次の御言葉を述べています。「それは...
さて、この出エジプト記三一章三節を読んだのは、幕屋に少し触れるためです。その前の章は、幕屋のあらゆる詳細で占められていることがわかります。二五章で、主はモーセに、「心から喜んでする者はみな」ささげ物を持って来るようにイスラエルの子らに告げること、次に「ささげ物(単数形)を受け取る」ことを命じられました。単数形で述べられているのは、受け取った物は複数のささげ物ではなく一つのささげ物を形成するものだっ...
悪魔につかれた人のいやし(マルコ一21~28)二二節に学者のようでなくとある。多くの説教者は学者風になり、興味のあるように、文学上宗教上の種々のものを引照するけれども、これらは霊魂を救うことが出来ない。魂を救うには上からの権威を与えられなければならない。ルカ四32~36。ここで悪鬼がいかにイエスを恐れていたかを見よ。今日でもイエスの霊に満たされている者が行く時には、悪鬼も恐れるのである。わたしたちもこのよ...
イエス、カペナウムに行く(マタイ四13)ペテロ、ヤコブ、アンデレ、ヨハネの召し(マタイ四18~22)主が弟子を召されるのにエルサレムに行って学者や知者を召されず、海辺に育った者を召された(コリント前一27~28参照)。人をすなどる秘密は一九節にある。「我に従え」と言う命令に服従すること、一挙一動イエスに従うことである。社会的な事業によって巨万の富を得るよりも、一人の魂を得ることは大いなる業である。世の知者学...
イエス、ナザレにおいて捨てられる(ルカ四16~30)この時とマルコ六1~6にある記事とでは時の相違がある。主はここでイザヤ六一章を引用なさったが、これは聖書の活用である。聖書は適当な所だけ用い、他は用いるべきでない。パウロもテモテ後二15でテモテにこのことを示している。真の道を正しく教え、分ち与えることは大切なことである。けれども多くの人は正しく教え、分ち与えることをしないので、人の徳を建てない。主にここ...
サマリヤの女との会話(ヨハネ四4~42)注意。主イエスがガリラヤに行き給うたことは誘惑のすぐ後のように記してあるが、実は試練と続いたものではなく、幾月かの日数があった。「旅の疲れにて……」これによって主イエスがわたしたちと同じように旅において疲れを感ずるお方であったことを知る。わたしたちが疲れた時、このイエスもスカルで疲れ給うたことを思え。イエスのみ真実にわたしたちに同情を表わすことが出来る。もしイエ...
ニコデモとの談話(ヨハネ三1~21)ニコデモは地位のあるユダヤ人で、パリサイ人、宗教家、また学者であった。以上は表面から見たものであって、彼の心には渇望があったので求道者の地位に立って、キリストのもとに来た。そして大いにイエスを称讃した。しかし主のお答えを見よ。実にイエスの態度の厳粛であることを見よ。イエスはニコデモの言葉には答えずに、心に答え給うた。多くの人はニコデモのように心の状態を言い表わさな...
イエス神殿をきよめる(ヨハネ二13~22)キリストは未信者の罪に対しては、はなはだしく怒り給わないけれども、信者、教会内に罪を見出し給う時には、容赦なく責められる。昔ユダヤでは神殿に行った時、お金を献げたり、牛、羊、鳩を献げたりした。そのため両替えする者、また色々な商人がいた。牛、羊、鳩を売り、また両替えすることは、悪いことではないけれども、彼らは偽善であり、また自分の欲望を満たすためにおこなったので...
最初の奇跡(ヨハネ二1~11)婚宴は神に聖別されたものである(へブル一三4)。わたしたちは婚宴の席にあるとき、イエスもその中にいますことを思ってつつしむべきである。「ぶどう酒つきければ」地上の快楽は尽きる時がある。「母イエスに言いけるは……」マリヤはキリストを使用しようとした。多くの人はキリストを使用しようとするけれども、四節のように拒絶されてしまう。「我が時未だ至らず」キリストは父なる神のお許しを受け...
最初の弟子の召命(ヨハネ一37~51)〔41〕「二人の者のその一人は……」とあり、なお一人の弟子の名がない、これは記者自身すなわちヨハネである。ナタナエルは、マタイ一〇3にあるバルトロマイであろうとの説がある。最初の弟子は、ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエルの五人である。なお注意しなければならないのは、この章において六つのイエスの名が表わされていることである。すなわち(一)バプテスマのヨハネには...
イエスの受洗(マタイ三13~17)〔15〕ここに「我ら」と言う複数の言葉を用いたのは、神人両性を備えておられるからである。他に一緒に受洗した者があったからではない。〔16〕「神の御霊の鳩の如く……」霊はすべての人に見えたか、またヨハネだけに見えたか、それは疑問であるが、とにかくヨハネは霊眼の明らかな人であったから、あるいはヨハネだけに見えたのかもしれない。イエスの誘惑(マタイ四1~11、 マルコ一12~15、 ルカ...
パプテスマのヨハネの伝道(マタイ三1~4、 マルコ一1~8、 ルカ三1~18、 ヨハネ一6~15)〔1〕バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で宣べ伝えた。ここで、伝道するに場所を選択する必要のないことを学べ。ステブングレレットと言う人が祈っている時、不意に山奥に行って説教せよとの神のみ声を聞いたので、ただちに山に行って説教した。そこにはただきこりの小屋があるだけであって、人の影すらなかったけれども、ステブングレレッ...
イエスの十二歳の時(ルカ二41~51)〔エルサレム〕〔41〕家族こぞってエルサレムの宮に上るのは楽しいことであったろう。美わしい家庭の姿が想像される。わたしたちも家族こぞって教会に行くのは、実に楽しいことである。主イエスはご自分の父(なる神)の家に行かれることのため、心中どんなに愉快に感じておられたかが推察出来る。〔42〕「十二歳」ユダヤの習慣として十二歳になると、公会の席に連ることができ、また断食をなし...
博士の訪問(マタイ二1~12)このところにおいて次の三つの教訓を学ぶことが出来る。(一)ヘロデ王は自分だけが王位を占めるものであると思っていたから、「ユダヤ人の王」が生まれたはずとのことを聞いて悪い思いを燃やし、すなわちイエスを殺そうと企てたのである。今日わたしたち各自に自我と言うヘロデの如き王が住んでいるならば、イエスを心の中に宿すことは、到底不可能なことであるばかりでなく、ついにはイエスを殺そう...
イエスの割礼と命令(ルカ二21)イエス神に献げられる(ルカ二22~24)マリヤは天にも地にもただ一人の手の中の宝とも言うべき愛児を喜んで神に献げた。わたしたちもわたしたちの最も愛する者を献げねばならない。神は、私物として専有するのを許し給わない。シメオンとアンナの予言(ルカ二25~38)シメオンは救主を見ることをもって最大の光栄としていたが、彼は聖霊に感じて幼児イエスを見るとすぐ、イエスが万民の救主であるこ...
イエス・キリストの誕生(ルカ二1~7)〔1〕カイザルと言うのは、英語のシーザーのことである。〔7〕「布に包みてうまぶねにふさせたり」。王の王、主の主たる君がうまぶねの中に生み落され給いしとは、いかにも痛ましい限りである。しかも主が今日うまぶねのような者の心を宮として住み給うことは、更に奇蹟的なことである。わたしたちはただ神の恵みを感謝するより外はない。イエスの系図(マタイ一1~17、ルカ三23~28)マタイ...
ヨセフの夢(マタイ一18~25)わたしたちはヨセフの人物について学ぶべき所が多くある。〔19〕第一、彼は義人であった。ヨセフは下層の大工であって、しかも罪悪の入り乱れている中に生活しながら、すこしも境遇に汚されなかった。第二、彼は度量のある人であった。普通の出来ていない人間ならば刃物でも持って騒ぐところであるが、彼は軽々しくことをせず、穏便な手段を講じた。すなわち彼は彼女を辱しめることを好まず、ひそかに...
バプテスマのヨハネの誕生(ルカ一57~80)〔58〕「主がエリサベツに大なる慈悲を垂れたまいし事…」。わたしたちにも主は大いなる慈悲を垂れて下さることを常に感謝すべきである。〔63、64〕ザカリヤが天の使に「我既に年老い妻も年またすすみたれば何に因りてかこの事あるを知らん」(ルカ一18)と言った不信仰のため、「汝おしとなりてこの事のなる日まで言うこと能わじ」(20)と宣告されたが、彼は全く神を信じ全く服従した。...
イエス誕生の告知(ルカ一26~38)〔26〕この六カ月はバプテスマのヨハネをみごもってから六カ月の意味である。〔27〕ヨセフもマリヤもダビデの子孫であって、系図は、ダビデ=ヨセフ・マリヤ=キリストとなっている。〔34〕マリヤの質問は、不信仰の疑問ではなくて知識上の疑問であった。しかしザカリヤは反対であった。〔36、37〕人間には不可解であっても、神には知らないこと、出来ないことはないと、天使は懇切にマリヤに教え...
講義(読者は各項目毎に聖書の本文を読み、各節に照してこの講義を読まれるよう望む)イエス・キリストの神たる事キリストの神であることはヨハネ一1~5において明瞭である。三福音書において、イエスの救主であることを証明しても、なお救主の神性を疑う者があるのでヨハネは明白に、それの神であることを証したのである。ルカの緒言ルカの緒言1、2節を見ると、彼がいかに心を用いて事実を記録したかを知ることが出来る。テオピロ...
キリストの生涯 イエス・キリストは全聖書の中心である。旧約を見ても使徒行伝や手紙を見ても、その生涯は最大の関係を有している。キリスト伝の七区分(一)準備の三○年。(二)不明の時代。(三)人望の時代。(四)反抗の時代。(五)苦難の週間。(六)十字架の日。(七)復活後の四○日。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
キリスト時代の政治上の区画 パレスチナはキリストの時代、政治的には五つに区画されていた。すなわちガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ、ペレヤ、バシャンがそれである。(一)紀元前三七年からキリスト降誕時代、すなわち紀元前四年まではローマの属領としてヘロデ大王の王国であった。(二)ヘロデの死後領地を三分し、その子アケラオはユダヤ、サマリヤ(マタイ二22)ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤを(マタイ一四1、ルカ三6...