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  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (26)

    〔マタイ二七57~61〕〔57〕「富める人きたりてピラトに往き、イエスの屍(しかばね)を請しかば」イザヤ五三9の予言である。〔60〕「大いなる石を墓の門に転(まろば)して去る」ヨセフはいたずら者を気づかってこうしたのである。〔61〕マリヤらは墓に向かって座っていた。ああ、彼らの愛……。〔ルカ二三50~〕〔50〕「善かつ義なる人」悔改めの実を結んでいる人は、世の中に光となっているのを見るのである。〔51〕彼はこの時か...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (25)

    葬り(マルコ一五42~47)〔42〕過越の祭は、翌土曜日から始まるのであって、金曜日はそのための備え日であった。「安息日の前の日」キリストが金曜日に葬られた故、土曜日の安息日があったのである。安息の備えのためにキリストはほふられ給うたのである。キリストの死無しには我らに安息無く、苦しみのみであったろう。実に過越の小羊はほふられ給うたのだ。〔43〕「議員」サソヒドリン(七十人議会)――ユダヤの宗教裁判――の一議...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (24)

    〔ヨハネ一九31~〕〔31〕申命二一22~23、キリストを殺して何の儀式であろうか。〔32〕当時足を折るのはその死を早めるためであって、太い棒で足を打って折ったのである。ある者はキリストの甦えりを否定するために、キリストは本当に死んだのではないというが、主は本当に死に給うたことは明かである。〔33〕ついに折らなかったのは、予言の成就であって驚くべきことと言わねばならない。〔34〕「あばらを突き……」なお間違いの起...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (23)

    キリストの死と当時の状態(マタイ二七50~56)〔50〕大勝利、これについてはすでに述べた。〔51〕「殿(みや)の幕……裂けて……」キリストの死が我らにとって如何にありがたいことであるか。この神殿の幕は非常に厳かなものであって、聖い神との間をはっきり隔てており、神と人とは交わりが出来ない。もし無理でも近づこうものなら殺されるという厳格な隔てであった。ところが、この幕が上より裂けたのである。「上より」人間は下か...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (22) 十字架上の七語(7)

    △第七、ルカ二三46「父よ、我が霊(たましい)を汝の手に託く(あずく)」ああ、大勝利である。キリストは今まで贖いのためにいろいろ苦しまれたが、事終りぬ、と成就した時に勝利が来たのである。人は死ぬ時に決して大声を出せるものではない。主は肉体としては苦しんで全く疲れ給うたのに、大声を出されたとは不思議なことである。しかしこれはキリストが神の子であるからである。主は「父よ」と言い給うた。先には「我が神」と...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (21) 十字架上の七語(6)

    △第六、ヨハネ一九30「事終りぬ」我らの救は、成就した御業である。神と共同して、腕をふるって築き上げるようなことではない。事終りぬ、というこの基礎に立ったのである。事情はどうであれ、これを知って感謝すべきである。主は神が我らに要求されるすべてのことをなしとげられたのである。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (20) 十字架上の七語(5)

    △第五、ヨハネ一九28「我かわく」三十三年間、いろいろなことをなさり、すでにヨハネ一七章に「汝の命(めい)をなせり」と言われた主は、十字架の上でもなすべきこと――悪人のための懇求、母を弟子に托すこと、強盗を悔改めさせること――をなし、苦痛の杯を飲みつくして、もはや使命を完全に果したことを知って「我かわく」と言われたのだ。肉体としても六時間血を流された主は、焼けるほどにかわきを覚えられたはずである。さらに...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (19) 十字架上の七語(4)

    △第四、マタイ二七45~49「わが神わが神なんぞ我をすて給うや」「その地あまねく暗やみとなる」これは罪の結果のあらわれたことである。この時は日蝕ではなかった。これは学者には不可解なことであって、太陽を創造された神の業なのである。神の子の死に際して、太陽が光を失うのはむしろ当然のことではないか。もちろん神においては、たとえキリストが死んでも太陽を光らせ得るのであるが、罪の結果は驚くべきことを実際に現わさ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (18) 十字架上の七語(3)

    △第三、ルカ二三39~43「誠に我なんじに告げん、今日なんじは我とともにパラダイスにおるべし」主の愛は第一に罪人のため、第二に信者のため、第三に砕けた魂にむかってあらわされた。ここに世界のよい写真が示されている。真中に主の十字架が立ち、両側に罪人が十字架についている(その一方は罪を悟った者、他方はそうでない者)。十字架は罪の模型である。世は罪に満ちている。だから皆殺されるべきものである。全世界と言わな...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (17) 十字架上の七語(2)

    △第二、ヨハネ一九25~27母に言いけるは「女よ、これ汝の子なり」また弟子に言いけるは「これ汝の母なり」十字架はしばしば絵に見るような高いものではない。そばに立って顔を近づけて話すことが出来るほどのものであった。マリヤは主の十字架のかたわらに立っていた。彼女の心はいかばかりであったろうか。先には女の中で最も幸いであった彼女は(ルカ一42)今最も悲しい目にあったのである(ルカ二35)。我らも自らのうちにキリ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (16) 十字架上の七語(1)

    十字架上の七語△第一、ルカ二三33~34「父よ彼等を赦し給え、そのなすところを知らざるが故なり」三節においてイエスを十字架につけたその釘は主のおからだをさしたのである。今や彼らの罪は、その絶頂に達した。この時、発せられたのがこのお言葉である。あたかも、水が一杯の袋に穴をあけたように、主の内に満ち満ちた愛は――敵を愛する愛――溢れ出たのである。群衆、祭司、学者らがイエスをねたみ、憎み、殺そうとして十字架につ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (15)

    十字架(ルカ二三32~38)〔32~33〕キリストは人を殺した罪人と一緒に数えられ、しかも真中に置かれて、その中の第一の者とされた。キリストは世人のあらゆる罪を引き受けられたため、神と人との前に最大の罪人とされたのである。「クラニオン」とは、カルバリ、ゴルゴダなどと同意で、共にされこうべという意味がある。この山をモリヤ山であるという人もある。カルバリとはラテン語、ゴルゴダとはヘブル語、クラニオンとはギリシ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (14)

    クレネのシモン、十字架を負う(ルカ二三26~31)〔26〕ヨハネ一九17を参照。当時十字架刑に処せられる罪人は、自分でその十字架を負って刑場に至るまで、遠路を衆人の前をひかれて行く例であった。ゴルゴダは街のはずれであったので、罪人はそこまで恥をさらしながら行ったのである。主イエスもまた同じ目にあわされたのである。主は前夜からあらゆる苦痛を受け、打たれ、嘲弄され給うた――ゲッセマネにおいても大いなる心痛を味わ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (13)

    〔12〕ピラトは充分に光を得ていたのである。だから彼はなんとかして主を赦そうとしたのであるが、勇気がなかったために出来なかったのである。「もしこれを赦さばカイザルに忠臣ならず」これはサタンの用語である。この一語にピラトは閉口したのである。我らにもこの威嚇がある。しかし決してサタンに忠実であってはならない。〔13〕「審きの座」これは重罪を宣告する所である。ピラトが「審きの座に自ら坐」したのは、もはや失敗...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (12)

    イエス、十字架につけられるために渡される(ヨハネ一九1~16)〔1〕「むち打つ」ユダヤのむちは実に残酷なものであって、先端に鉄または骨片をつけた皮ひもを結んだものであって、受刑者を裸にしてその背をむち打つので、そのために肉は裂け、血は流れ、しばしばそのために死ぬこともあるという。キリストはこのむちを受けられたのである。「そのうたれしきずによりて我ら癒されたり」(イザヤ五三5~)。その一つひとつは我らの...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (11)

    〔マルコ一五6~14〕7バラバは暴徒であり、殺人者であった。9しかしキリストはユダヤ人の王ではないか。〔ルカ二三17~23〕17必ず18いっせいに19あの暴動を起した者であること。23「彼等はげしく声をたてて、彼を十字架につけんと言いつのれり、ついに彼らと祭司の長の声勝ちたり」実に意志強固である。ピラトの正義の声は打ち消され、罪人の叫びは勝った。妻の声も良心のささやきも消されて、罪人の声に負けたのである。この世の...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (10)

    ピラト、キリストを赦そうとする(マタイ二七15~23)〔15〕「民の願いにまかせ」全く自由意志である。これは非常に責任のあることである。これは特別の恩典である。神の側としては、まさに愛の祭りである。しかしこれを乱用することによって、実に恐ろしい結果となるのである。〔16〕「バラバ」ここには名高き囚人とある。〔17〕「バラバかイエスか」からすかうぐいすかと言うのと同じである。人を殺した盗賊か、世を救う神の子か...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (9)

    ヘロデのもとに送られる(ルカ二三6~12)〔6~7〕当時ユダヤの国は四つの地区に分れていて、大名のような者の支配を受けていたのである。〔8~9〕「イエスを見て甚だ喜べり」弟子たちもそうであった(マタイ二八8、ヨハネ二〇20)。しかしヘロデのこの時の喜びは、実に哀れなものであった。彼はただの物好きで、何か手品師でも雇ってきたような気分でいたのである。救を望まない者の喜びとはこんなものである。ここで多くの問が出...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (8)

    ピラトに訴えられる(マタイ二七11~14)〔11~14〕イエスは口を開かれた時には明かに王であることを示されたが、その他は全く沈黙を守られた。大祭司は、神の子キリストなのかと問い、ピラトは王であるかと尋ねた。主はその大事な質問には明白に答えられ、それを定められた。「ピラトが奇(あやし)とするまで」黙されたとは実に大いなる勇気である。我らもこのイエスをわがものとして握りたい。〔マルコ一五2~5〕〔3〕祭司は罪...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (7)

    ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (6)

    イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (5)

    イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (4)

    ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (3)

    キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (2)

    〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...

  • 「キリスト伝講義」十字架の日 (1)

    イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (60)

    マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...

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