1871年(明治4年)5月14日(7月1日)の太政官布告(234号)で、「神社の公の性格を宣言するとともに神職の世襲制を廃止した」。同日の太政官布告(235号)では、伊勢神宮を別格として、神社を官社(官幣社・国幣社)、諸社(府社・藩社・県社・郷社)に分け、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。神社はすべて「国家の公の施設」となった。神道の国教化のために神仏分離令が廃仏毀釈運動を呼びおこした。それ以前、慶応4年の3月13日(1868年4月日)に発せられた太政官布告で「神仏の分離」が宣言されていた。これは神社の敷地内に共存していた仏教関係の施設、神宮寺などの寺院はもとより五重の塔、三重の塔までもが仏教関連施設として撤去すべしとなった。これは「神仏分離」を命じたものだったが、行き過ぎて仏教...7/1今日は何の日神道は宗教ではない?
柴田錬三郎を知ってますか。今では、本屋にも図書館にも置いてない。『眠狂四郎』といえばわかりますか?1917年〈大正6年〉3月26日-1978年〈昭和53年〉6月30日)の歴史小説家。その他『赤い影法師』『水滸伝』『徳川太平記』など多くあり、剣客ブームを巻き起こした作家です。50年ほど前、私が中学1年の時(昭和36年)、会津の伯父(父の兄)牧原源一郎氏から一本の電話がはいった。父が電話に出、「小説中央公論(S36秋季号)」に我が家の先祖のことが書かれている」とのこと。P.210柴田錬三郎著『妬心(としん)』に「側室の恨みをかって牧原家は断絶した」と書かれているという。その後の伯父の話では、「牧原家は養子、養子で家系をつなぎ、断絶せずに子孫が今に残っている。その旨、柴田錬三郎に手紙を送ったがナシのつぶてだった」との...6/30柴田錬三郎の命日
会津若松市の東「天寧寺」の寺域に「近藤勇」の墓がある。寺から300mも離れた山の中。50年前、私が初めて訪れた時は、茫々と草木が茂る山の中をさまよっていて偶然に見つけた。その時の記憶では、高さ1mほど。「近藤勇之墓」と書いてあって、大発見に驚喜したものだった。墓の位置も現在の場所とは違った気がする。それが今や新選組ブームで、一躍脚光を浴び、観光名所として売り出すことに。一昨年訪れた時は、道も整備され、案内の標識も建てられ、容易にたどり着いた。説明板まで建てられている。現在は2mもある堂々とした立派な墓で、正面には「貫天院殿純忠誠義大居士」という戒名が彫られている。「松平容保の書」という。「土方歳三が、勇の首を奪還して、会津まで運び、薩長に攻められた時に、発見されないよう、このような山中に埋めたのだ」とも言われる...会津にもある近藤勇の墓
今日は何の日滝廉太郎の命日滝廉太郎は1879年(明治12年)8月24日生-1903年(明治36年)6月29日没滝廉太郎といえば、もう『荒城の月』。尺八のボランティア演奏では欠かせない定番となっている。滝がイメージしたという豊後(大分県)竹田の岡城にも行ってきた。滝は竹田の出身と云われるが、実は東京生まれ。先祖は代々豊後日出藩の家老を務めた家柄。父・吉弘は明治政府の役人となり各地に転勤したため、廉太郎も横浜や富山、大分県竹田市などに移り住んだ。明治23年(1890)15歳で東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学し、ピアノと和声学を学び、明治31年(1898)首席で卒業。研究科へと進んだ。1900年21歳で日本人による初めてのピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲。つづいて、1901年、組歌『四季(花、納涼、月、雪)』、...6/29は瀧廉太郎の命日
慶応4年(1868年)4月江戸城無血開城により、海軍副総裁の榎本武揚は、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らとともに蝦夷地に向かい、松前藩を攻めて五稜郭に入り、「蝦夷共和国」を樹立した。会津藩家老の西郷頼母も加わっていた。しかし、蝦夷地の独立を許さない新政府軍の攻撃を受けて、明治3年5月18日(1869年6月27日)降伏した。その一週間前の5月11日(6月20日)新選組副長だった土方歳三が戦死。享年は近藤勇と同年34歳だった。2日前の5月16日(6月25日)には中島三郎助が、長男の恒太郎・次男の英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死。享年49。土方ともに覚悟の討ち死にだった。中島三郎助は嘉永6年6月(1853年7月)ペリーが浦賀に来航した時浦賀の副奉行とし...6/27は函館戦争終結の日
1968年6月26日の事件簿慶応4年4月11日、江戸城が無血開城し、上野寛永寺で謹慎していた徳川慶喜は水戸へ移送された。その時、渋沢成一郎ら一橋家臣や幕臣、脱藩者で結成された彰義隊は慶喜の護衛を行おうとしたが、寛永寺に止め置かれた。彰義隊は、新政府軍と一戦交えようとする脱藩兵や博徒も集まってきて最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がった。渋沢成一郎は江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は江戸での駐屯を主張したため分裂。そして、彰義隊は江戸市中で新政府軍に対して抵抗を試みた。5月7日(1868年6月26日)次の三件の事件が起きた。同夕方、根岸付近で薩摩藩兵3人が彰義隊士8人~9人と遭遇し、惨殺された。同夜、尾張藩の足軽1人が私用で四谷付近へ出掛けたところ、10人ほどの旧幕臣に襲撃されて手傷を負った...彰義隊士の戦い
家康のブレーン「黒衣の宰相」として知られる「南公坊天海」。その出自は不明で「明智光秀」ではないかとも噂される。もし「光秀」ならば、116歳まで生きたことになる。出生は謎だが、関ヶ原の役や小田原北条攻めの時は家康の参謀として傍らに控えている。天海着用と伝えられる甲冑家康、秀忠、家光の三代に仕え、江戸の町の設計に大きく関わった。こんな逸話もある。100歳の時、将軍・家光から柿を拝領した。天海は柿を食べると、種をていねいに懐紙に包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。「桃栗3年、柿8年」。8年後、天海から家光に柿が献上された。家光がどこの柿かと聞くと「先年...108歳まで生きた?「天海大僧正」
郡長正(こおりながまさ)を知っていますか?郡長正は会津藩家老萱野長修の次男として生まれるが、明治2年父が会津戦争の責任を負って自害すると、お家断絶。郡姓に改姓した。明治3年豊前豊津藩(旧小倉藩)の藩校育徳館に留学する。ところが、翌明治4年5月、郡長正は育徳館の寮で自害して果てた。遺書はなく、戦前の書物では「母親に寮の食事の不満を述べた手紙を同輩に見られたことを恥じての自害」とされてきた。数年前ですが、小倉から行橋、そして豊津(現みやこ町)へと虚無僧で旅してきました。目的地は、みやこ町にある郡長正の墓参り。そして旧豊津中学(現育徳館)内にあるという郡長正の碑を訪ねたのですが、在校生に訪ねても誰も知らないというのでがっかり。失望して帰ってきました。「郡長正」の話は、私も幼い頃から母に聞かされており「食べ物の不足はい...郡長正割腹の真相
今日6月26日は、ドイツのハーメルンの町に笛吹き男が現れて、町中の子供達を連れ去った日。ドイツ、ハーメルンの町の伝承1284年6月26日、カラフルな色の派手な衣装をまとった男が笛を吹きながらやってきた。すると、その笛の音に引き寄せられて家々から子供たちがぞろぞろ出てきて、彼の後に着いて行った。そして130人の少年少女たちが町の外に出ていき、二度と戻ってこなかった。この話は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会にのステンドグラスに描かれたのが最初。以降、グリム童話等で脚色され、日本にも伝わった。日本では、次のように語られている。ハーメルンの町で鼠が大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、派手な服を着た男がやって来て、「鼠を退治してあげよう」と。それで、町の人々は彼に報酬を約束して、鼠退治を頼んだ。すると、男が笛を...6/26「ハーメルンの笛吹き男」の伝説
今井信郎(いまいのぶお)天保12(1841)年~大正7(1918)年6月25日27歳の時、剣の腕前を買われて見回組入隊を命ぜられ、慶応3年10月に上洛。その1か月後の11月15日近江屋を急襲し、坂本龍馬暗殺に加わった。その後、函館戦争まで加わり、捕らえられ、投獄される。明治3年(1870年)取り調べを受けた際、今井は「龍馬暗殺には見張り役で、直接手は下していない」と証言。禁固刑の判決を受け、明治5年(1872年)1月に赦免された。その赦免には西郷隆盛の力があったとのこと。明治10年の西南の役では、警察隊を率いて鹿児島に向かい、政府に寝返って西郷に加勢する計画だったとのこと。西下途中戦争が終結したことで断念し、静岡に戻った。このことから、「坂本龍馬暗殺を指示した黒幕は西郷隆盛ではなかったか」との説も出る。明治11...6/25龍馬を斬った男・今井信郎の命日
今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日「浜木綿(はまゆう)忌」。「浜木綿」は宮城道雄の遺作となった曲名。それを記念しての命名。宮城道雄は、紀州の実業家・小竹林二氏と親交があり、たびたび白浜を訪れていた。そして白浜に因んだ「浜木綿」という詩を作り、自ら曲をつけた。温泉の匂ひほのぼのともとおりきたる鉛山のこれの小径いくめぐり今平草原にわれはたたずむかぐわしき黒潮のいぶき妙なる浜木綿の花のかおりうずいして一握の砂を掌に掬べば思いはかの千畳敷三段壁はては水や空なる微茫の彼方につらなるああ常春のうるわしき楽土よ時に虚空にあって聡に鳶の笛澄む朝もよし木の国の白良浜やこれ宮城道雄自ら作詩、作曲した曲はこの「浜木綿」が唯一。昭和31年(1956)6月4日、「宮城道雄先生詩碑」が完成し、その除幕式が行われ、「祝賀記念演奏会...6/25宮城道雄の命日「浜木綿忌」
今日は何の日。今日6月25日は宮城道雄の命日「浜木綿(はまゆう)忌」1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城道雄は、東海道線夜行寝台急行「銀河」に乗って大阪に向かっていた。そして午前3時頃、愛知県刈谷市の刈谷駅手前で、列車から転落。東刈谷駅の手前、三河線のガードのところに横たわっていた午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から「線路際に人のようなものを見た」という通報を受けて現場に向かった刈谷駅の職員に発見され、豊田病院(現・刈谷豊田総病院)へ搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる。私は、その少し前、母に連れられて、歌舞伎座での宮城道雄の演奏を観ていた。今でもはっきりと覚えている。私は宮城道雄の演...6/25宮城道雄の命日「浜木綿忌」転落死の謎
昭和の大歌手「美空ひばり」1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により死去。52歳だった。だがそこに至るには数々の病気との戦いや、荒れた私生活があったという。ひばり44歳の1981年、実母・喜美枝は転移性脳腫瘍で、68歳で他界。ひばりの2人の実弟、かとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)も42歳の若さで後を追う。今の世としては、皆短命だ。肉親の死で精神的にも落ち込んだひばりは、1987年4月に極度の体調不良で緊急入院。重度の慢性肝炎、特発性大腿骨頭壊死症と診断され3ヶ月半芸能生活を休止する。47歳、1985年5月、ひばりの「誕生日記念ゴルフコンペ」のプレー中に原因不明の腰痛を訴える。49歳、公演先の福岡市で極度の体調不良に陥り緊急入院。重度の慢性肝炎(肝硬変)...美空ひばり壮絶な最後
6月24日は「麦の日」???麦畑にはヒバリが巣をつくりピーチクパーチク。ヒバリといえば「美空ひばり」。つまり「美空ひばり」から「麦の日」だそうだ。そして「林檎忌」とも。「リンゴの木」ではなく、美空ひばりのヒット曲「リンゴ追分」から「林檎忌」だそうです。美空ひばりは、1937年(昭和12年)5月29日、神奈川横浜市磯子区に生まれる。本名は加藤和枝(かとうかずえ)。1946年(昭和21年)の9歳から劇場に出演、1948年(昭和23年)に歌手デビュー、「天才少女歌手」として評判となる。翌1949年(昭和24年)、映画『踊る竜宮城』に出演し、その主題歌『河童ブギウギ』でレコードデビューを果たす。『悲しき口笛』(1949年)、『東京キッド』(1950年)など主演映画とその主題歌が次々にヒット。1952年(昭和27年)映画...6/24美空ひばりの命日林檎忌麦の日
今日6月23日は昭和20年(1945)沖縄守備軍司令官牛島満が自決し(前日22日との説もあり)、沖縄戦が終結した。以前、知人から「今なお、屍とともに生きる(沖縄戦、嘉数高地から糸数アブラチガマへ)日比野勝広」という本をいただいた。(発行:夢企画大地名古屋市東区052-712-0706)内容は、沖縄戦で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされ、沖縄戦が終わってからも3か月も暗闇の中にとじこめられながら奇跡的に助かった日比野勝広さんの回顧録だが、4人の娘さんたちがそれぞれに戦後の父の生き様を書き綴っている。娘たちの視点で書かれているということが、話題になって、TVでもとりあげられた。わずか140ページ。ぐいぐい引き込まれてイッキに読んだ。日比野さんは沖縄線で負傷し、ガマ(洞窟)の中に置き去りにされた。暗闇の中で半年...6/23沖縄戦終結の日
今日は何の日。6月22日は旧暦の5月3日。慶応4年(1868)の今日、奥羽列藩同盟が成立。5月6日には長岡・新発田等越後の藩も加わる。それで後世の史書では「奥羽越列藩同盟」と書くが、そのような同盟が交わされたことはなかった。正月の鳥羽伏見の敗走。徳川慶喜の恭順謹慎、江戸の無血開城によって、薩長新政府としては、振り上げた刀をおろす先を会津・荘内二藩に向けた。新政府の武威を示さねば明治の新政府は務まらなかった。会津藩としては徳川慶喜同様ひたすら恭順の意を示したが、新政府は無視。あくまで武力攻撃の姿勢を曲げなかった。閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」を奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下される。世良修蔵の暗殺奥羽鎮撫総督府の下参謀世...6/22奥羽列藩同盟成立
形原温泉の「あじさいの里」。9時半に着いたので、駐車場は満車だったが、次々に出ていく車があり、数分待っただけで入れた。帰り11時半の時は、もう延々と何キロも車の列。渋滞を避けて蒲郡の東へ、三谷駅の近くに「菜飯と味噌田楽のままや」という店があり入った。食べ物のことは今までブログに書いたことがない私だが、特別に載せておきたい。こ菜飯、湯豆腐、釜飯、味噌田楽に漬物、デザートのコーヒーゼリーまで、何もかもうまい!漬物など好きではない私だったが、これは絶品。追加注文してしまった。とにかく一品一品に下ごしらえから手が込んでいるいることがわかる。「これはおいしい!」とほめたら、おかみさん喜んでいわく「私もよそで、釜飯や湯豆腐食べてみたけど、あんまりおいしくないので、もっとおいしいもの作ろうと思ってこの店を始めたんです」と。蒲郡に行くなら「ままや」
愛知県の三河湾岸、蒲郡市の西にある形原温泉「あじさいの里」。約5万株の紫陽花(アジサイ)が咲き誇っているとのことで行ってきた。形原は「牧原姓」が100軒以上あるとのことで、以前二度ほど訪ねたが、その時は「あじさいの里」など知らなかった。そして、今日行ってびっくり。紫陽花の種類の多い事。「あじさい」は日本原産だが、シーボルトによってヨーロッパに持ち出され、その種類は2000種にもなるという。一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われているが、同じ所に赤と青が同時に咲いているのはどう説明できるのだろうか。形原温泉「あじさいの里」へ
今日は何の日「父の日」5時からの朝起き会で、父について演談。父が遺してくれた戦争体験記を今パソコンに入力してます。これが終わるまでは私は死ねない。6月20日父の日
今日は何の日今日6月21日は「夏至(げし)」。日の出から日の入りまでの時間がもっとも長い日。名古屋の日の出は午前4時38分日の入りは19時10分。4時頃から明るくなり、夜7時20分頃まで明るい。私はいつも通り4時に起床。5時からの朝起き会の演談原稿を作成5時からZoomで朝起き会スタート。6時から那古野神社の清掃。6時半からラジオ体操7時ラジオ体操仲間と喫茶店でモーニング8時半帰宅。6月21日夏至
今日6月21日は旧暦の6月2日。本能寺の変があった日この事件で命を落とした人織田信長織田信忠(信長の長男。二条城で落命)織田勝長(信長の4?5?男)織田長利(信長の末弟)森成利(蘭丸)(森可成三男)森長隆(坊丸)(森可成四男)森長氏(力丸)(森可成五男)斎藤利治斎藤道三の末子明智方で信長を討った斎藤利三とは別家毛利新介永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元を打ち取った服部小藤太桶狭間で今川義元に一番槍をつけた服部小平太の弟穴山梅雪武田家一門衆、妻は信玄の次女・見性院天正9年(1581年)12月、勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資らを憎み、織田信長に内通し天正10年(1582年)2月、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して、甲斐一国の拝領と武田氏の名跡継承を条件に、家康の誘いに乗り、武田から離反した。同年5月には信長...今日6月21日は旧暦の6月2日
今日6月20日は、1954年(昭和29)名古屋テレビ塔が開業した日。名古屋テレビ塔は、名古屋市の中心街、中区栄の久屋大通り公園内に立つ日本で最初の集約電波塔。高さ180m。東京タワーができたのは4年後の1958年、さっぽろテレビ塔はその前年の1957年。因みに、パリのエッフェル塔は1889年3月30日竣工で、高さ324m。東京タワーの高さは333m。札幌テレビ塔は147m名古屋テレビ塔の建設がスタートしたのは、昭和28(1953)年の9月19日。まだ大型重機など無い時代。工事はすべて人間の労力。ツルハシとスコップで土台を築き、鉄骨材は人力で積み上げられたという。そして翌年の昭和29(1954)の6月19日に竣工だから、わずか9か月で建てられた。これは驚異的。開業以来、NHK名古屋放送局(総合3ch・Eテレ9ch...6/20名古屋テレビ塔が開業した日
今日は何の日、6月17日は会津藩祖「保科正之」が生まれた日。保科正之が生まれたのは、慶長16年(1611)5月7日だが、グレゴリオ暦だと6月17日。亡くなったのは寛文12年12月18日。これは1673年の2月4日。(私の誕生日でござる)。徳川2代将軍秀忠は、正室が織田信長の妹「お市の方」の三女「お江」。NHK大河ドラマでも取り上げられた。それゆえ、秀忠は恐妻家でお江に頭が上がらなかった。しかし、乳母大姥局の侍女「お静(志津)」に手をつけ懐妊させてしまった。お静は懐妊すると宿下がりして兄の家で男児を産み、幕府に届け出たが、正室お江にバレることを恐れ、その子は武田信玄の次女見性院に預けられた。名前は「幸松」。見性院は武田信玄の次女で武田一族の穴山梅雪(信君)の妻。穴山梅雪は織田・徳川連合軍が甲斐の武田勝頼を攻めた時...6/17保科正之が生まれた日
天正10年(1582年)6月13日は山崎の合戦。明智光秀の最期。6月2日の本能寺の変で織田信長を討った後、明智光は坂本城に入り、6月5日には安土城に入って信長が貯蔵した金銀財宝を開放し、9日には朝廷に銀500枚、京都五山や大徳寺に銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。備中高松城攻の最中にいた羽柴秀吉は、本能寺の変を知って、急遽、毛利氏と和睦し、山陽道を大返し。変から11日後の6月13日(1582年7月2日)天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で明智軍と対峙。ただし、秀吉とその配下の本体は疲れ果てて、山崎で休息しており、高山右近と池田恒興らが光秀の重臣斎藤利三を包囲し、勝敗が決したとも。13日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小...6/14明智光秀の最期
6月2日は、天正10年(1582年6月21日)本能寺の変。明智光秀が織田信長を弑した日。信長の嫡男・織田信忠も攻められ、自刃して果てた。明智光秀が織田信長を弑した日。信長の嫡男・織田信忠も攻められ、自刃して果てた。信長は、3月11日に武田勝頼を討ち、4月10日に甲府を立ち、富士の裾野を回って4月12日、駿河興国寺城(静岡県沼津市根古屋/国の史跡)で北条氏政の接待を受け、江尻城(静岡市清水区江尻町/本丸跡=清水江尻小学校)を経て4月14日、田中城に入城。4月16日に浜松城。浜松からは船で吉田城(現・愛知県豊橋市)に至り、4月19日に清洲城。4月21日に安土城へ帰城。5月15日より3日間、安土城で徳川家康と武田一族の穴山梅雪ら一行をもてなした。その接待役が明智光秀だったが、17日、備中高松城攻めの羽柴秀吉から援軍要...6/2本能寺の変織田信長の最期
「蜂谷緑著『尾瀬ハイキング』岩波ジュニア新書77」蜂谷緑は実は私の妻の叔母(義父の妹)。山が好きで日本山岳会会員。エッセイスト。この本の中で「戊辰戦争の時、尾瀬でも、会津藩と官軍の戦いがあった」ことが書かれていました。本文から抜粋群馬県側から尾瀬にはいる玄関口戸倉。江戸時代関所があり、官軍はここに砲台を築き、古仲の大圓寺を本営として、100名ほどが戸倉に陣を張りました。会津軍は土地の事情に詳しい猟師たちを案内に立て、一隊は荷鞍山(にくらやま)から戸倉の背後を突き、一手は古仲の本営を襲ったのです。戦の始まったのは戊辰(明治元年)5月21日。村は春蚕のさなか、ネコの手も借りたいほどの繁忙期。この戦いで村は数棟を残したのみで皆焼き払われたといいます。私も父も尾瀬で戦いがあったことは知らなかった。これを読んで、我が家の...尾瀬での戊辰戦争にわが先祖の名
蜂谷緑著『尾瀬ハイキング』の中で、「銀山平」のことが書かれている。「寛永18(1641)年、銀鉱が発見され、越後高田藩と会津藩で、その領有権をめぐって、争いとなった。決着つかず、幕府に訴え出て、その結果、会津は外様、高田の松平氏は親藩ということもあってか、正保3年(1646)、只見川を国境として、銀山平は高田藩のものとなった」云々とある。これは変だ。会津藩は、徳川秀忠の妾腹の子保科正之が藩主となって立藩された。23万石。親藩筆頭である。越後高田藩も、松平忠直の子「光長」を藩主とする26万石の親藩だった。光長の母は、秀忠と「お江」との娘「勝子」である。時の将軍家光からみると、保科正之は弟、松平光長は甥になる。しかし、「正之」は秀忠の隠し子で、「お江」に気遣って、信州高遠の保科家に養子となった。会津保科家が「松平」...尾瀬の国(藩)境争い
日本は、地震大国です。南海トラフによる地震が、いつ起きてもおかしくない。南海トラフが原因と思われる地震は、1946(昭和21)年に起きた「昭和南海地震」(マグニチュード8.0)。その前は、1854(嘉永7)年に「安政南海地震」(M8.4)というように、大きな地震が周期的に起きている。私の母方の先祖「山室重明」が書き残した日記を紐解くと、地震、日の玉(彗星か)の記事が大変多い。幕末と地震1853(嘉永6)年にペリーが来航してからというもの、ほぼ毎年のように日本列島は地震に襲われました。1854(嘉永7)年12月23日、「安政東海地震」(南海トラフ巨大地震)が発生し、地震による津波(4〜6メートル)で下田港は大打撃を受ける。流出家屋841軒、半壊30軒、無事だった家は4軒しかなかった。1856(安政3)年、八戸沖地...ペリーと津波
今週の運勢に「自分のルーツを知る時」とあった。「慶応中等部」のOB会報が来て、中等部の体育館を建て直すので、遺跡調査をしたら「会津藩下屋敷」の跡が出てきたとの調査報告が載っていた。そう、私が中等部に通っていた頃は全く気づいていなかったのだが、三田綱町一帯は会津藩下屋敷だったのだ。私の先祖、牧原只右衛門直源は、系図に「御田屋敷で生まれる」と書かれている。名古屋に来てから。近くに「御田(みた)中学」があるので、「御田」は「三田」と読むと気づいたのだ。私が通った慶応中等部は、先祖の縁(ゆかり)の地だったのだ。慶応に入れたのもご先祖様のご縁か。保科正之の正室は藤木氏の娘「お万」。その子「正経」が二代藩主となったが、病弱で子供がなかった。そこで「正経」の後、三代目は、正之の側室が生んだ「正容」が継いだ。私の先祖牧原只右衛...慶応中等部の地は、会津藩下屋敷だった。
京都駅の東にある「妙法院門跡」。日ごろは非公開。秋の特別拝観とあって見学してきました。「門跡寺院」というのは、皇族が歴代住持となる別格の寺院で、特に「妙法院」は、青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称される名門寺院。後白河上皇の居所(院御所)として、ここで院政が行われた。豊臣氏によって建てられた豊国寺や、「国家安康」の釣鐘で有名な方広寺は、徳川の世になって破却され、ここ妙法院の管轄下におかれた。さらに、新日吉(ひえ)神宮や、三十三間堂をも管理し、その敷地は22万坪と言わた。さて、虚無僧の本山「明暗寺」は、今は東海道・新幹線の南側の「東福寺」の塔中「善慧院」内にあるので、虚無僧は「禅宗の一派」「開祖は東福寺の僧覚心」などとネット上で書かれていたりするが、それは誤り。京都明暗寺は、江戸時代の初め1...京都「妙法院門跡」と虚無僧寺「明暗寺」
最近「癌」に対する見方がすっかり変わった。コロナ騒ぎで、癌よりコロナの方が怖い?という錯覚か、癌にかかっても騒がなくなった。「癌で死ぬのも悪くない」とか「癌は死への準備ができる最も良い病気だ」というようなことが言われている。私は以前からそう思っていた。余命が判れば、それまでに、やり残したこと、片付けなど死への準備ができる。交通事故や心筋梗塞、脳卒中は突然起こり、心の準備のないまま死に到るか、逆に半身不随になってあと何年生きるのかと悩み、苦しまなければならない。映画『エンディング・ノート』は、そのような生き様に光りを当ててくれた。「余命半年」と宣告されれば、それに向かって準備をし、家族の絆も深められる。医者は、自分が「癌」と判ったら、手術も治療も拒否して、静かに死を迎える人が多いとか。渡辺淳一の『無影灯』(TVド...「ガンは最も良い病気」
「恋しくてやるせない」というfacebookに投稿されていました。私なりに解釈してみました。【人生7つの基本原則】1.『過去は過去』過去は変えられないが、過去の評価を変えることはできる。辛かった過去も楽しい思い出に2.『他人は他人』他人を変えることはできない。忠告するのは無駄。他人を責める、批難することは禁物3.『時は妙薬』すべての悩み事は時が解決してくれる4.『比較は禁物』自分と他人を比べても無駄。自分は自分。他人とは比較しない。一休さんも云っている。「しゃれこうべになってしまえば、男か女かも美人かブスかもわからない。面の皮の数ミリの差で、美人か否か決めるな」と5.『考え過すぎはご法度』考えても答えがでない問題は、考えても無駄6.『幸せは自分の手で』幸せは歩いてこない。だから歩いていくんだね。幸か不幸かは心の...人生7つの基本原則
「コロナ禍での新しい生活様式で増えた」というのが、❝副業”を装った情報商材❞の詐欺だ。消費者庁が「セレブリック」「トヨマル」に対し、消費者安全法に基づき注意喚起の発表をした。両社は、LINEメッセージで「ミネルヴァ」と称するサイトに誘導し、「まずは月収+10万円」「一日30分程度のお時間で+10万円を可能にするシステム」などとうたって最高100万円超の情報商材を販売。そんな甘い話は普通なら信じないが、最初の購入額を9800円など安めの設定にしているため、うっかり引っかかってしまった人が多い。実は私ひっかかってしまった一人。「9,800円ならまいいか、授業料だと思って」Lineしたら、見事に誘導されて、42万円の契約をしてしまった。ほんとに、あれよあれよ。最後に「合計42万円」と聞いてびっくりしてももう遅い。その...副業ビジネスの罠
「四つのお願い」とかいう歌があったっけ。神様仏様、四つのお願い聞いてください。一つ、「尺八は“年寄りの楽器”と言われないよう、永遠の若さを」とお願いしたら、73歳になってもまだ髪は黒い。肌も若い。二つ、「富士びたいなんとかして」と願ったら、毎日100本も抜けて、侍の月代(さかやき)のようになってきた。「もういい、抜けるの止めて!」と祈ったら、それが3つ目に。三つめを祈ったら、抜け毛が止まった。実はテレビで中国の長髪族を見て、髪は糠(ぬか)で洗うことに。平安時代の女性も糠で髪を洗い、2mも伸びていたのだ。それで試してみた。一年たって現状維持。次に「ビタミンCが髪に良い」と聞いて、レモン汁を頭にふりかけてみたりした。今度は「卵がいい」ということで「たまごっち」の「ニューモ」を毎日降りかけている。たしかに生えてきた。...四つのお願い
徳島県鳴門市の四国一番霊場霊山寺を訪れた時、「大麻朝市」のポスターを見つけて「えっ!?大麻を朝市で売っているのか」と驚いた。「大麻」はその町の地名でした。町名の由来は阿波の国一宮・大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)がある。大麻は日本の神道とは切り離せない関係にあり、古くから神事に用いられてきた。その薬理作用ゆえか、古来、大麻は神の宿る神聖な植物であるとして注連縄(しめなわ)に用いられたり、その繊維を用いて「あらたえ」と呼ばれる布を織り、神々に献上されたりしていた。大麻を司っていた豪族は忌部(いんべ)氏であり、忌部氏が権勢を誇った徳島県吉野川流域には、大麻に関連する地名が多く残る。鳴門市には大麻(おおあさ)山という山の麓に阿波国一宮「大麻比古(おおあさひこ)神社」がある。その神社のすぐそばに、四国八十八か所の一...大麻とは?
「美人薄命。うちのかぁちゃん、長生きしそう」というのはきみまろの漫談。楊貴妃は37才。マリリン・モンローもダイアナ妃も36歳。中世、女性の平均寿命は37歳だったとか。14~18歳で結婚して、子供を産み、その子が14~18歳で結婚すれば、母親の使命は終わる。「白雪姫」も「シンデレラ」も中世の物語は、すてきな王子様にめぐり会えて結婚。結婚は“ハッピーエンド”。女の幸せは結婚までで終わるということ。それが今や人生80年超。倍以上生きなければならない。とにると、子育て終わってからの50年の生き方が問われる。「結婚は人生の墓場」「我慢、忍耐」という声に対して。うまくいっている夫婦とそうでない夫婦の違いは?「『感謝』ですね。『ありがとう』を忘れたら夫婦は成り立たないと思います。ありがとうの反対は『あたりまえ』。そうなってし...結婚生活は愛を育む修行の場
2014年の年末年始特別番組で、ビートたけし演ずる東条英機のドラマがあった。「あの戦争は何だったのか」「これまで、戦争の悲惨さを被害者の視点から描く作品は多かった。だが、この番組では、繰り返される政権交代、省庁の縄張り争いなど、現代と共通点があったことに着目。日本というシステムが持つ問題点は今の時代にもあるというメッセージを伝えたい」という意図で作れたという。私が慶応の史学科に在籍していた頃(S42~46)「50年経たなければ歴史学のテーマにならない」と言われた。太平洋戦争からもう60余年を経た。田母神空幕将が、「あの戦争は侵略戦争ではなかった」という論文を発表して物議を呼んでいる。私の伯父牧原源一郎は、東条英機内閣の下の「翼賛政党議員」となり、運輸大臣の秘書官を務め、東条がギブアップした後、総理大臣となった鈴...あの戦争は何だったのか
仏教に対するキリスト教の影響から転載仏教は初期の段階で「小乗仏教」と「大乗仏教」に分派します。「小乗仏教」(上座部仏教)とは、大乗仏教成立以前の仏教で、現在は、セイロン、タイ、ミャンマー(旧ビルマ)、インドシナに残ります。「大乗仏教」は、小乗仏教が個人的解脱の教えであるのに対し、広く人間の全般的救済と成仏の教義を説き、一~二世紀頃に成立しました。中国、日本などに伝わった仏教は、大乗仏教です。大乗非仏論、「大乗仏教はシャカ自身の教えではない」?釈迦は、長い苦行の末に「悟り」を開き、一切のものは空(無我)であると説きました。人間世界の苦も、生も、死も、すべては空であり、実体のないものであると説いたのです。そして、前世も来世も、あの世のことについて、釈迦は何も説いていません。釈迦は、無神論者で、キリスト教でいう「神」...仏教の中にはいったキリスト教
『古事類苑』は、一千巻もの膨大な書物を集めたものです。その第262冊「楽舞部」の第12が「尺八」です。尺八の項に引用されている文献は次のとおり。これだけのものを,よくも集めたものです.「尺八の項の序」倭名類聚抄・伊呂波字類抄・源氏物語六末摘花・教訓抄・續教訓抄・唐六典・文獻通考・遊仙窟・和爾雅・日本風土記・?器年山紀聞・本朝世事談綺・吉野拾遺・廣益俗説弁・羅山文集・『體源抄』・東大寺獻物帳・信西入道古樂図・西大寺資財帳・看聞日記・龍鳴抄・享祿本類聚三代格・令集解・舞曲口傳・古事談・續世継・續教訓抄・梅花無蓋藏・雅遊漫録・人倫訓蒙圖彙・『虚鐸傳記』・和漢三才圖會・普化宗雑記・雍州府志・萬寳全書・先進繍像玉石雑志・常山紀談・雨夜燈・俗耳鼓吹・音樂栞・『糸竹初心集』・獨語・翁草・閑際筆記・鹽尻・傍廂・嬉遊笑覧・閑田耕...『古事類苑』とは
その(1)「古典尺八を楽しむつどい」。古典とはいつの時代まで遡ればよろしいのでしょうか。尺八の歴史を紐解きますと、なんと1万年前にまで遡ります。中国の1万年も前の遺跡から鶴や動物の足の骨に孔を空けた笛が何本か出土しているそうです。その昔、中国は漢の武帝の時の事です。武帝は隣国を攻め、戦いに明け暮れていましたが、ある時、山間に兵を進めていきますと、猿の鳴き声が聞こえてきます。その声がなんとも美しい。兵たちは、その声に聞きほれ、闘う意欲を失ってしまいました。故郷の家族のことが思い出され、里心がついて、戦意喪失です。兵たちが進まないので、怒った武帝は、「その猿を捕まえ、殴り殺せ!」と命じます。「ぶてぇい、ぶてぇい!」と。誰も応じようとしないので、武帝は自ら弓矢をとり、その猿を射殺してしまいました。“いかんわなぁ”。漢...尺八の元祖は猿の骨
6/14「古典尺八を楽しむつどい」シナリオ(2)さて、最初にお見せするのは、法隆寺に伝わった「聖徳太子の尺八」です。只今は国立博物館の所蔵となっています。それと全く同じ形に複製したものです。尺八の最初は、猿や鶴の足の骨で作ったという伝説を思わせるような細い尺八です。竹で節は3つ。手孔は前に5つ、裏に1つ。合計6個です。聖徳太子が吹かれたという『蘇莫者』の曲が、大阪四天王寺に伝わっています。『蘇莫者』とは山の神、猿のことだそうです。では聞いていただきましょう。いかがでしたか。仏教を取り入れ「和をもって尊しとなす」「あつく三宝を敬え」と定めた聖徳太子の願いは、争いのない平和な国づくりでした。聖徳太子の尺八
12/7短歌会館で私の独演会。オークションで入手した「一節切(ひとよぎり)」を公開する。裏孔が二つある珍しい一節切。一つの孔は祥啓画の「朗庵像」に描かれている「響孔」なのだ。中国の明笛と同様、薄い膜を貼って、ビリビリと響かせるものだ。日本ではこれまで一本も確認されていない。マスコミ各紙にニュースレリースを送ったが、まだどこも飛び付いてこないのは残念。「家康愛用」と伝えられる「一節切まむち」が、岡崎市の法蔵寺に秘蔵されている。小田原北条氏が滅びた時、徳川家康は、北条氏綱の娘香沼姫に「北条幻庵の一節切を渡せば、北条家を再興させてもよい」と、手紙を送ったという。北条幻庵は北条早雲の第3子で北条氏滅亡の前年まで生きた。幻庵の作る一節切は鳴りも良く、「幻庵切り」として都まで評判となっていた。それを家康が欲しがったのである...家康も一節切に執着
沼津の【耕雲寺】に、「武田信玄の一節切尺八」が寺宝として伝存している。虚無僧研究会会誌『一音成仏』(第19号が昭和60年)に掲載されている。書付には「武田信玄公御調法一重切御笛壱対」とあり、藤巻きの、よく似た作りの「一節切」2管だ。ただし「(石綱氏が)拝見させてもらったが、写真を撮ったところ、住職がカンカンになって怒りだし、あわてて逃げ出したが、門まで追っかけてきて、ネガを返せ、返せと迫られ、返却する約束で退散した」というようなことが書かれているので、取り扱いはご注意。寺としては非公開で、秘しているようで、ネットで検索しても「耕雲寺幼稚園」ばかりで、尺八の記述は2件だけヒットした。寺伝では「耕雲寺は、大永年間(1520年頃)太岳和尚が開山。北条氏との戦いで、武田信玄がこの地まで進軍した時に、この寺で休憩をとり、...武田信玄と尺八
元桑名臣・倉田巳(巴)、岡(国)枝太郎米田隊下となりて、桑名の臣二百を以て秋月と共に脱走す※。會藩・工藤衛守、松井九郎、米田隊下となる。秋月は第一大隊を卒し鴻の台に勢を揃え規則を調え、野州三つ街道(水海道)に走る時、土方歳三は後れて止むを得ず会津に走り、秋月に逢うて共に誓いて下館に向う。倉田巴は立見鑑三郎、国枝太郎は馬場三九郎の変名。桑名隊は200名ではなく80名。いずれも脱藩したという。会津藩の工藤衛守(内田衛守)と・井上誠之進(米澤昌平)、松井九郎(牧原文吾)いずれも脱藩して改名。内田と牧原は別伝習隊の長となる。別伝習隊は「農兵」隊とされるが、元西丸下の歩兵からなる部隊であった。牧原文吾(松井九郎)の事跡発見
慶応4年1月3日火ぶたを切った鳥羽伏見で敗れ、徳川慶喜、松平容保、松平定敬が大坂城を脱出した後を追って、皆ほうほうの体で江戸を目指す。八日早朝より舟を求むるに一艘もなし。力を尽し小舟十艘計りを得手負を載せ中嶋会所へ送り、残りの部は漸く人足を得て同所へ送る。此時砲兵隊長林権助(戦死)隊の巨海源八郎、牧原源蔵、梁瀬武四郎、元白井隊より三浦重郎、両角千代治、杉浦八太郎介抱方の命を蒙る。巨海、牧原等小野内膳より金策し、漸く五六艘を得て天保山に至り蒸気船に移る。一統は東本願寺に会す。此時土藩の使者来て引取ることを止め、且実情を云て其応対甚だ慇懃なりし。既に四つ半頃出起惣殿して堺に至りて宿す。という。さて、蒸気船に乗ってどこまで行ったのか、東本願寺とはどこの寺か?江戸へ直行したのではなく堺に着いて一泊したと?鳥羽伏見の敗戦慶喜公の逃亡その時わが先祖は?
母方の曽々祖父が書き残した『私記』を、紐解いてみた。曽々祖父は文化8年(1811)の生まれ。それから明治8年(1876)まで、65年の回想録。会津藩はロシアの侵略に備えて樺太警備につき、続いて、ペリー来航に備えて房総・三浦の警備。そして京都守護職。あげくのはての戊辰戦争。その果て、下北半島へ移住して、辛酸を舐めた。曽々祖父は11歳で父を失い、伯父に育てられる。妻にも先立たれ、二人の息子も戊辰戦争で失う。60歳で下北半島への移住だった。これ以上の悲しみは無いと思うのだが、驚くのは「天災、地震、水害、火事の多さである。毎年のように災害に見舞われている。安政2年(1855)の大地震などは「煙草を一服吸う間くらい揺れが長かった。死者10万4千人」と書いている。(ネットで調べたら「1万4千人」。誇張か?)会津藩は、江戸湾...文化8年から明治8年までの記録
大正昭和にかけて生涯を尺八にかけた中塚竹禅。虚無僧関係の膨大な史料を収集し、「慶長の掟書」を偽書と断じ、「普化禅師と虚無僧は関係が無かった」「法燈国師は普化宗と関係ない」との結論に達した。そして虚無僧の形態を八つに分類している。その分類に私なりの補足を加えてみた。1普化禅の求道者江戸時代には稀(まれ)。現代の古典尺八愛好家には多い。海外にも多数。現代では私一人か。2喰い詰めた浪人(失業者)江戸初期はほとんど大部分。3尺八指南者「尺八吹合所」が全国にいくつかあって、尺八を教える師がいた。この系統の人たちが明治になって尺八を楽器として興隆させた。4寺詰め虚無僧剃髪得度授戒を受けていれば住職。しかし数人しかいない。ほとんどの虚無僧は、有髪で正規の僧籍は無いため看主(手)・院代などと称していた。5真面目な本則虚無僧裕福...虚無僧八態
浅田次郎原作『壬生義士伝』中井貴一で映画化されたが、新選組の衣が赤と黒なのには幻滅。なんで赤黒にする必要があるのかとぶっきれ。浅葱(あさぎ=薄い青みがかった鼠色)には意味があるのです。浅葱は士分でない者を示す色です。新選組は正規の会津藩士ではなく、浪人、農民の身分でした。中井貴一も今ひとつ、強そうに見えない。これに対して渡辺謙主演の2002年のテレビ東京「お正月時代劇」10時間ドラマは、感動!テレビで見、再放送を見、ビデオに撮って見、そしてYouTubeでも見、何度見ても泣けました。妻子を養うために、南部盛岡藩を脱藩して「新選組」にはいり、金になることは何でもやり、「守銭奴」や「出稼ぎ浪人」などと呼ばれた「吉村貫一郎」の義理と愛を貫く姿を描いた作品。コメントも「時代劇でこれほど泣いたこと無いくらい大泣きした」と...壬生義士伝
『壬生義士伝』で吉村貫一郎の上司「大野次郎右衛門」のモデルは南部藩家老「楢山佐渡」のようだ。「楢山佐渡」は、藩主の縁戚にあたり、代々家老職。22歳で家老となり、後、主席家老となった。以下は「北条四郎のホームページ~幕末南部藩を率いた悲劇の武将楢山佐渡」より。慶応4年(1868)正月の「鳥羽伏見の戦い」後、南部藩に、朝廷より召集令状が来、楢山佐渡と他2名が京都に上った。そこで楢山佐渡が見たものは・・・・・。京都市中は、西洋式の軍服を着込んだ西国の藩兵が肩で風切って歩いている。花街は、そんな連中であふれ、頽廃そのものであった。楢山佐渡は西郷隆盛と会談した。西郷とその部下達は車座になって「すきやき」を食っていた。西郷の、ラフな姿に、紋付袴に裃(かみしも)の楢山は面食らう。楢山の血は逆流した。こいつらは侍ではない。そし...南部藩家老楢山佐渡
映画「燃えよ剣」の公開がまたまた10月15日まで延期となった。NH大河「せごどん」で西郷隆盛を演じた鈴木亮平が今度は近藤勇とは。どうも私の頭の中ではイメージの切り替えができない。「燃えよ剣」も「新選組血風禄」もたひたび映画化、テレビドラマ化されている。どちらも司馬遼太郎作品。これも私の頭の中ではどっちがどっちだったかごちゃごちゃ。燃えよ剣&新選組血風禄
昨日「右翼の街宣車」から流れてくる曲に、思わず車を止めて聞き入った。『新撰組の歌』だ。なつかしい。ネットで検索していたら「右翼の街宣車でよく流れている曲、『葵の花に吹く~』、あれはなんという曲ですか」という質問もあった。私の他にも、惹きつけられる人がいるのだ。「葵の花に吹く時代の嵐」この冒頭の歌詞を聞いただけで新選組の運命を語っている。涙がでる。『新撰組の歌』作詞:牧房雄作曲:小川隆一、葵の花に吹く時代の嵐乱れてさわぐ京の空「誠」の旗に集いつつ誓う剣は雲を切る二、茨を踏み越えて大儀の二文字に憂いてすすむ道一つ今宵も加茂の水荒れて夢は破れる小夜千鳥三、砲筒に草は燃え三百年の武運は空し鳥羽伏見夜明けを前に散りまどう壬生のつわもの何処へゆく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これは...新撰組の歌
「土方歳三」といえば「栗塚旭」。一番のはまり役だった。栗塚旭は、1965年の『新撰組血風録』と、1970年の『燃えよ剣』で「土方歳三」役をやり、すっかり「土方」のイメージが定着してしまった。そして、局長の近藤勇より、「土方」の方が主役を奪ってしまったのだ。鬼の副長「土方歳三」を演じた「栗塚旭」氏であるから、素顔もニヒルで怖い人、厳しい人かと思ったが、実は正反対。ネアカでよく笑い、すごく謙虚な方だ。当時はまだ29歳、劇団の下っぱ団員で、ナヨナヨしていて、決断力もない青年だったそうな。それが「土方」役に抜擢されて、監督から「笑うな、動くな、しゃべるな」と言われ、役づくりに必死だったとのこと。全く意外。その後『暴れん坊将軍』などにも出演していたようだが、「土方歳三」のイメージが強烈すぎて、他では人気が出なかったようだ...土方歳三といえば栗塚旭
父の遺品の中にあった昭和17年日本放送協会(現NHK)発行の世界地図。樺太、満州、中支、南支、朝鮮、台湾、ビルマ(現ミャンマー、マレーシア、ボルネオ、ミクロネシアまで、日本から半径5,000kmが日本の統治下。よくもまぁ、すごいことです。今中国が2050年までに台湾、朝鮮、日本まで属国にする国家戦略を立てています。30年後には日本の西半分は中国の「東海省」、東半分は「日本自治区」と明記されています。「現代の日本人は“平和ボケ”、「まさかそんなことあり得ない」と思ってますが、つい半世紀前、日本がやっていたことを、中国がやれないことはないでしょう。30年後、日本は中国の領土に
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