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  • 30都市に原爆の模擬爆弾49発投下

    アメリカは、広島に原爆を落とす前に37発もの模擬爆弾を投下しテストを行っていた。8月6日広島に落とした後も5発、9日の長崎の後、14日に愛知県の春日井市と豊田市で7発。計30の都市に49発。これをつきとめたのは、市民団体「春日井の戦争を記録する会」(愛知県春日井市)。広島、長崎に落とした原爆の投下訓練として、米軍の特別部隊が1945年7月20日から8月14日にかけて、本州、四国の18都府県、30の都市に計49発の「模擬原爆」を投下させた。死者は400人を超え、1200人以上が負傷。広島型の原爆は2個、その他は長崎に投下されたプルトニウム型とほぼ同じ形状の4・5トンの通常爆弾。黄やオレンジに塗られた外見から「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」と呼ばれた。このことは、もう25年ほど前、NHKでも報道されたが、どうも関心は...30都市に原爆の模擬爆弾49発投下

  • 仏性は生まれつき?

    ナナは不思議な娘だ。小学校の時から、絶対に友達と喧嘩しない。人の悪口を言ったことがない。クラスでもめ事があったり、部活で仲間が落ち込んでいたりする時、意外な発想で、みなの気持ちを変える。ムードメーカーだ。先日、自転車を買いに行った時のこと。母親が「黄色はなになにでダメ、白は・・・だからダメ。赤も褪色するからダメ」と、否定形で選んでいると、「私が欲しいと思わない物まで、どうのこうの云う必要はありません」と云う。「ママ。赤や黄色、白でも“いい”と思って買う人がいるのだから、それを否定してはいけません。お店の人は、良いと思って売っているのだから、店の人の気分を害するようなことを云わないで」と云うのだ。結局、銀とピンクのツートンのを選んだのだが、「私が欲しいと思った物の良いと思ったところだけを云ってくれればよろしい」と...仏性は生まれつき?

  • 一流の人は腹を立てない

    もう数十年も昔、子供の頃、銀座のステーキで有名なレストランに家族で食事に行った。その頃は、銀座に行くとなるといい服を着て、おめかしして行ったものです。隣の席にはグリーンのブレザーにチェックのシャツ、首には赤いネッカチーフというお洒落な紳士。一見超一流の芸術家のようだ。しばらくして、隣の紳士のテーブルにステーキが運ばれてきた。紳士は、小声でボーイを呼んで「これがフィレかね?。私はフィレを頼んだはずだ」と。ボーイは、小声で「すぐお取替えします」と言って去った。しばらくして、フィレステーキが運ばれてきた。また紳士が「君、ちょっと」とボーイを呼び止める。ナイフを入れて「私は、ミディアムと頼んだはずだ、シェフを呼んでくれないか」と。しばらくして料理長がやってきた。「私は、ここのフィレステーキが食べたくて来た。これでは“〇...一流の人は腹を立てない

  • 「穏やかな人が好かれるんだね」

    face-bookで見つけました。【おだやかな人間になろう】【出典】ジェームズ・アレン『きっと!すべてがうまくいく』人は、おだやかになればなるほど、より大きな成功、より大きな影響力、より大きな権威を手にできます。.ごく一般の人でも、おだやかさを身につけるだけで、商売が確実にうまくいくようになります。なぜならば、人はおだやかになればなるほど、正しい判断を下す確率を高められるからです。と同時に、人々は、ほとんど例外なく、おだやかで冷静な人のそばにいたいと考えるものだからです。そしてもう一つ、おだやかな心は、自己コントロールを通じて鍛えられた強い心であるからです。人々は、真におだやかな人と接すると、その人の強さを自然に知り、その人が頼れる人間であることを感じ取ります。おだやかな心は、自己コントロールをねばり強く行ない...「穏やかな人が好かれるんだね」

  • 天皇は何ゆえ天皇なのか

    水戸の黄門様こと水戸光圀による『大日本史』編纂で、「南朝こそ正統」という思想が広まり、吉田松陰らが「南朝の子孫を天皇に立てるべし」と考えるに至った。そこで「南朝の子孫」と称する相撲取りの「大室寅吉」に白羽の矢が当たって、明治天皇として即位された。「南朝の子孫」というのはかなり怪しい。明治になって「南朝こそ正統」という論が、沈静化してしまったのは、「南朝の子孫と称する大室寅吉を天皇にしたてあげ、彼らの目的は達成したからである。さてさてそこで思う。天皇は、その時々の権力者によって担ぎ出され利用される「玉」でしかない。このたびのオリンピックでも、天皇の役割は、各国から来日した国家元首とのご対面。天皇は何ゆえ天皇なのか

  • 再び、グレゴリオ聖歌「クレド」と「六段」

    グレゴリオ聖歌の『クレド』と『六段』が「全く同じ」とい皆川達夫氏の説に、私は「全く納得できない」。YouTubeで「クレド」を検索してみた。いくつか聴くことができる。楽譜もアップされているが、五線譜ではない「四線譜」だ。http://www.youtube.com/watch?v=7YYK1GfsnWY&feature=fvwrelhttp://www.youtube.com/watch?v=bR9NF905nJk&feature=relatedhttp://www.youtube.com/watch?v=Yja0Tp_TCPA&feature=related最初のメロデイは「ラソファミレドレ」。これに「六段」の「ラ-ソミミ--ミレミ-レシ♭レミ」が合うとは、理解できない。「長さがピッタリ合う」と言うが、そもそ...再び、グレゴリオ聖歌「クレド」と「六段」

  • 八橋検校はグレゴリオ聖歌を聴き得たか?

    皆川達夫氏の「西洋音楽は、信長の頃、今想像する以上に日本に広まっていた」という説は、傾聴に値する。天文18年(1549年)フランシスコ・デ・ザビエルが渡来し、キリスト教の布教に賛美歌が重要な役割を果たしていたことは否めない。2年後の天文20年(1551年)ザビエルは、山口の大内義隆に謁した折、「楽器」を献上している。30年後の、天正7年(1579年)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、日本各地にセミナリョやコレジョを設立して、神学教育と音楽指導に力を入れた。少年たちは毎日1時間の音楽訓練(声楽と器楽ともに)を受け、「オルガンで歌うこと、クラヴォ(鍵盤楽器)を弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があった。天正9年(1581年)織田信長は日本人少年たちが演奏するクラヴォやヴィオラ(弦楽器)を聞き、おおいに満足し...八橋検校はグレゴリオ聖歌を聴き得たか?

  • 松代真田家と「小野お通」

    「松代」と言えば「群発地震」で知られる所となった。それ以前は「太平洋戦争末期に、大本営と皇居の移転先として大地下壕が掘られた所」として知られていた。結局終戦で移転することは無かった。先年、NHK大河ドラマで「真田丸」をやっていた。その真田家が江戸時代領主だった所。「真田といえば上田城で、真田幸村は大阪の陣で討死にしたはず」と思われているが、実は幸村の兄「信之」は徳川方に付き、松代で幕末まで存続していたのでした。家名存続のため二股をかけたというわけだ。先年、虚無僧で行ってきた。江戸時代の「藩校」や「真田家」他、武家屋敷がそっくり当時のまま保存されていた。私の関心事は、ここ松代の真田家に「八橋流筝曲」が伝承されていたこと。真田家の什器・宝物が大切に保存されてきた土地柄だからこそ、「八橋流」も伝承されてきたのだと納得...松代真田家と「小野お通」

  • 今日7/12は八橋検校の命日

    今日7月13日は近世筝曲の始祖「八橋検校」の命日。八橋は1685(貞享2)年6月12日(グレゴリオ暦の7月13日歿。なお「八橋忌」は旧暦の6月12日に墓所の常光院と法然院で行われる。その常光院はなんと、京都の金戒光明寺内にある。金戒光明寺は、幕末京都守護職を勤めた会津藩の本陣があった所。大きな山門の横に塔頭のひとつ「常光院」があり、その門前に琴柱を模した碑があるのをいつも目にしていた。さて、八橋検校は、箏を習ったことがある人なら誰でも知っている『六段の調べ』の作曲者とか、京都の銘菓「八ツ橋」として知られているのですが、この双方とも伝承はいささか怪しい。まず、お菓子の「八ツ橋」について京都土産の定番「八ツ橋」を製造販売している会社は14社もある。その内、最も有名な「聖護院八ツ橋総本店」と「井筒八ツ橋本舗」など6社...今日7/12は八橋検校の命日

  • 八橋検校の出生地「いわき市」と「沖縄」の関係

    「八橋検校」の出生地は、岩城国(福島県)平(たいら=現いわき市)とされている。『筝曲大意抄』にそう書かれているそうな。「いわき市平」の生まれかは判らないが、八橋検校は「岩城平(たいら)藩の江戸屋敷に、お抱え楽師として勤めていた時期があった。しかしそれは晩年の事。いわき平藩、内藤家の三代目藩主「内藤風虎」こと内藤義泰(又は義概)が、なかなかの風流大名だった。この殿様の庇護のもと、八橋は筝曲を大成し、一般庶民にも広げた。その「八橋流」が、沖縄と信州松代に伝えられたとされる。この謎を解くヒントが見つかった。なんと、沖縄の「エイサー」は、福島県いわき市に伝わる「じゃんがら念仏踊り」が原型とか。なぜ?江戸時代の初め、まだ沖縄が琉球国として独立していた頃、岩城の出身の浄土宗の僧「袋中(たいちゅう)」上人」が、明国に渡ろうと...八橋検校の出生地「いわき市」と「沖縄」の関係

  • 「六段」の作曲者は「八橋検校」ではない?

    日本音楽(日本音楽社発行)通号21(1949年10月)P.10~11に田辺尚雄氏が『日本歴史講話―六段曲は誰の作か』という論文を発表している。ここで田辺氏は、「江戸時代には、『六段が八橋検校の作』と書き記したものは存在しない。それは明治以降」と断定している。また、琉球には、『一段(瀧落菅攪)』、『二段(地菅攪)』、『三段(江戸菅攪)』、『四段(拍子菅攪)』、『五段(佐武也菅攪)』、そして『六段(六段菅攪)』、『七段(七段菅攪)』の7つの器楽曲がある。そのうち、『六段菅攪(すががき)』は、本土の『六段』と寸分の差がない。拍子数が同じだが、調子は平調子ではなく、筑紫流と同じ雅楽の呂旋法となっているから、曲調は全然違って聞こえる。実は私は、この「琉球の六段」を聞いている。まったく曲調がちがうので、奇異に感じた。田辺氏...「六段」の作曲者は「八橋検校」ではない?

  • 「いわき」と「松代」の意外な接点

    『八橋検校十三の謎』(釣谷真弓著)2,100円「八橋流は、磐城平藩3代目藩主、内藤風虎(当時は若殿)の弟「遠山政亮」と真田家の婚姻をきっかけに、松代藩へ伝えられた。「2代目お通」と「八橋検校」の接点は、「真田信政」の娘が岩城平藩の「内藤風虎」の弟で、分家の湯長谷藩の初代藩主「遠山政亮(又は頼直)」と結婚した所にあると。「2代目お通」は「真田信政」の側室で、その子「真田信就」は、真田家の分家「勘解由家」の初代となっている。つまり「真田信政」の正室?が生んだ娘が、岩城に嫁いだ。嫁ぎ先は「八橋検校」のパトロンだった岩城平藩主の「内藤風虎」の弟「遠山政亮」だったという。ややこしい。ずいぶんとよく探り当てたものだ。それで、「2代目お通」が京都にいた時、内藤家との縁で、八橋検校と交際があった。そしてその後、「真田信就」が信...「いわき」と「松代」の意外な接点

  • 八橋検校と小野お通

    近世筝曲の始祖「八橋検校」の起こした筝曲「八橋流」は途絶えたとされていたが、どっこい、松代市に住む「真田志ん」さんという女性が「八橋流」を正しく伝承していることが判り、昭和44年には国の無形文化財に指定された。昭和48年、古屋富蔵さんの会で、私は「真田志ん」さんの『六段』の演奏を聴いている。現在伝わる『六段』とあまりにも違うことに、私の頭は真っ白になった。「真田志ん」さんは、その3年後の昭和51(1976)年、92歳で亡くなられた。その後、娘の「叔子」さんが継承し、「八橋流」について調べたことを真田宝物館の機関誌『松代』第3号で発表し、また、地元の本屋から私家本として『小野お通』を出版している。真田淑子(さなだ・よしこ)著。風景社(長野県長野市)初版:平成2年5月(1990年)定価:2500円A5判。その「淑子...八橋検校と小野お通

  • 7/8 長岡城陥落の日

    慶応4年=明治元年(1868)5月19日(=新暦の7月8日)北越戦争で長岡が陥落した日奥羽越列藩同盟に加盟した長岡藩は、当初は新政府側に恭順の姿勢を見せ、戦争回避をを望んだが、5月2日(6月21日)の小千谷会談で新政府側の軍監岩村精一郎に拒絶されやむを得ず抗戦することに。長岡藩は桑名、会津の応援を得て、長岡の南方に位置する榎峠に陣取った新政府軍を包囲攻撃して敗走させた。戦況は一進一退膠着状態だったが、海道軍軍監・三好軍太郎が薩摩・長州・高田・加賀など諸藩部隊2000名を率いて、濃霧に乗じて信濃川を渡り長岡城攻めを敢行した。摂田屋の本営に居た河井継之助は急ぎ長岡城に急行。城の外堀にかかる内川橋付近で激しく応戦したが、河井は応戦中に左肩をやられた。長岡城は攻略されやすい平城であり、藩の精鋭部隊は榎峠方面を守備してい...7/8長岡城陥落の日

  • 広島藩士の農民虐殺

    福島県白河市の萬持寺に広島(浅野家、四十二万六千石)藩士加藤善三郎の墓がある。明治元年(1868)11月4日、享年25歳。11月だから戦争終結後の事である。なぜ?広島藩は慶応4年正月、鳥羽伏見の時「この戦は長州と会津の私闘である」と云って手出しをしなかった。それで薩長から嘲られたため、汚名挽回と、有志が自費で奥羽戦争に参加した。その大半が農民だったが、彼らの意気込みは強かったという。さて、日光(栃木県)口から会津西街道を会津へ目指したその途中でのこと。栃木県藤原町から福島県田島町へ入る山王峠の直前で、会津藩がしかけた地雷火が爆発した。宇都宮藩兵は「幸いに死傷なくホッとした」のに、広島藩兵が「土民たちのだれもこのことを告げなかったと怒り出し、地元民の一人を斬り殺した。しかし、芸藩の神機隊は浜通り相馬から浪江を攻め...広島藩士の農民虐殺

  • 旧主の帰城に関する農民の請願書

    会津世直し一揆は、明治元年10月3日(1868年11月16日)から同年12月1日(1869年1月13日)に旧会津藩領内で発生した世直し一揆。ヤーヤー一揆とも。会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し、以後、領内各地に波及していった。このことから、「領民は松平容保の圧政に苦しんでいたので、その反発で起きた」などと論じられているが、これも偏向史観で書かれたもの。これも後世の作。想像で描いているにすぎない。そもそも、口火となった事件は、原本を見ると「二十人の農民が小荒井村の庄屋宅に陳情に押しかけた」だけで、会津藩の元役人の説得で退去している。それが「二十」の「十」の字に「ノ」を付け加えて「二千人が押しかけて庄屋宅を焼き討ちした」ことになった。二千人が押しかけたとなるとすごい暴動...旧主の帰城に関する農民の請願書

  • 会津戦争、農民の怒り

    「福沢諭吉」が「立国は私」と論じたように、明治維新は被支配者層の反乱・革命ではなく、所詮「士族」の政権争い。農民にはえらい迷惑。8月日21、22日、石筵の村々は会津藩兵により焼かれた。16集落453戸のうち母屋が159戸、ほかに土蔵、小屋、隠居屋など112棟。退却する時は敵に宿所や糧食を与えないように村々を焼き払うのが、戦の常套とはいえ、焼かれた方はたまったものではない。一方、西軍も会津藩領にはいると、略奪分捕りの後に「愉悦的」な放火を繰り返した。長州藩士「杉山素輔」は、「八月二十三日、猪苗代から十六橋にいたる間の村々を焼きながら進軍した」と書いている。この中には野口英世の生家もあった。野口英世を扱った渡辺淳一原作の映画「遠き落日」は、冒頭、官軍の略奪に三田佳子演じる英世の母「しか」が逃げ惑うシーンではじまった...会津戦争、農民の怒り

  • 西郷頼母と養子「四郎」

    姿三四郎のモデル志田四郎の養父西郷頼母(たのも)(1830-1903)とは?。姿三四郎のモデル西郷四郎会津藩家老西郷頼母先祖代々会津藩筆頭家老の家柄。幕末、藩主松平容保が「京都守護職」を拝命した時は「火中の栗を拾うもの」と反対し、藩主の不興をかった。戊辰戦争となると、白河口の総指揮を任されたが敗れ、一子「吉十郎」を連れて米沢に向かう。これは、「反戦論者の西郷を、藩主容保が退けたため」とも「米沢に救援を依頼」に行ったとも言われる。その間、西軍が城下になだれこみ、西郷の一家、祖母、母、娘21人が、自宅で自刃した。西郷頼母は、その後、函館戦争にも加わり、敗れて幽閉された。後、1875年(明治8年)福島県棚倉町の「都々古別(つつこわけ)神社」の宮司となる。1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると、西郷隆盛との仲を疑...西郷頼母と養子「四郎」

  • 西郷頼母と姿三四郎の接点

    「姿三四郎」のモデルとなった「西郷四郎」と、養子親である「西郷頼母(たのも)」。両者の「親子」の関係はどのようだったのか?左西郷四郎右西郷頼母二人の来歴からは、どうもよく判らない。そもそも「西郷頼母」は、戊辰戦争後、先祖の「保科」姓に改姓している。「志田四郎」が「西郷四郎」と呼ばれるのは、自身は「保科」を継ぎ、「四郎」には「西郷家」を継がせるというものだったのか。「頼母」が「四郎」を養子に迎えた理由として考えられているのが・・・・、ジャジャジャ~ン。会津藩筆頭家老の「西郷家」は、江戸時代、会津藩に伝わる「御式内(おしきうち)」という武芸を継承していた。「御式内」というのは、殿中の護身武芸で、藩主と家老、重臣、小姓など、奥勤めをする僅かな武士のみ修得を許された。藩主が、万が一、刺客に襲われた時、家臣の謀反などで襲...西郷頼母と姿三四郎の接点

  • 西郷頼母のその後

    西郷頼母は、明治13年(1880年)、旧主「容保」が日光東照宮の宮司になると、禰宜として仕えた。そして明治20年(1887年)、職を辞し、「大同団結運動」に加わる。会津と東京を拠点として活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松に戻った。明治22年(1889年)福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め、明治32年(1899年)辞職後、再び若松に戻った。明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。「大同団結運動」とは、明治22年(1889)に「大日本帝国憲法」(明治憲法)が発布され、明治23年(1890)の「帝国議会開設」に備えた自由民権運動各派による統一運動。1882(明治15)年、会津盆地の北、喜多方市で、自由民権運動に端を発した暴動が起...西郷頼母のその後

  • 「西郷隆盛」と「西郷頼母」の接点

    戊辰戦争のミステリー「西郷隆盛」も「西郷頼母」も遠祖は、南北朝時代、九州の南朝方の忠臣「菊池」一族と称しており、同姓、同族のよしみで、二人は、明治になって書簡で交流があったとの噂話があります。「西郷頼母」の子は「吉十郎」といいます。「西郷隆盛」の本名は「吉之助」。弟は「西郷吉二郎」で、戊辰戦争の際、新潟県長岡市で戦死しています。偶然とは思えない共通点があります。西郷隆盛は、西郷頼母が非戦論者であることを知り、会津戦争の収束のために頼母との接触を望んだ。西郷隆盛は、北越から侵攻し、越後新発田藩士・窪田半兵衛をして、会津藩の山田陽次郎(頼母の実弟)と志田貞二郎(頼母の妻の兄弟か、後に養子に迎えた四郎の父)に会い、西郷頼母との連絡を求めました。西郷頼母は8月26日、殿より密命を帯びて、一子吉十郎を連れて、密かに鶴ケ城...「西郷隆盛」と「西郷頼母」の接点

  • 会津の「御式内」伝承者

    会津藩には、藩主はじめ重臣、小姓たちが修める「御式内」という護身術があったそうな。正式な記録にはありません。手の内を知られないように、極秘に伝えられたとか。筆頭家老の「西郷家」がその伝承者であり、その養子となった「西郷四郎」に「御式内」を継承させようとしていたのではないかという説も。しかし「四郎」は、嘉納治五郎の「柔術」から「柔道」に目覚め、「講道館の四天王」と呼ばれるまでになり、合気術とは一線を画しました。西郷四郎という後継者を失った会津「御式内」は、西郷頼母から、会津のお抱え力士の家に生まれた「武田惣角」に「大東流柔術」として伝えられたとか。この「武田惣角」の弟子が「植芝盛平」であり、植芝の弟子が「富木謙治」。今日、合気道と名乗る各流派は、この三名のいずれかを始祖と仰いでいるのです。すなわち、会津のお家芸「...会津の「御式内」伝承者

  • 松井石根大将は名古屋の生まれ

    南京事件の責任を問われて処刑された松井石根は、なんと名古屋市中村区牧野町の生まれと知ってびっくり。名古屋駅のすぐ西側の学区だから毎日通っている。そこの椿神社には松井大将の詩を刻んだ石碑があるとのこと。この碑は松井大将の南京入城を記念して地元の有志によって建てられたもの。松井大将の詩が刻まれている。南京陥落の英雄も8年後には、東京裁判で戦争犯罪人として裁かれ、死刑となった。こうなると庶民の心は冷たいものである。この石碑は近くの池に沈められた。その後、ほとぼりも冷めてから、池から引き揚げられ、元の場所に戻されたとのこと。松井石根は明治11年(1878)生まれ。陸軍幼年学校、陸軍士官学校9期卒、明治34年陸軍大学校に進み、明治37年、在学中に日露戦争に従軍した。松井は孫文や蒋介石とも親しく交わり、「欧米列強に支配され...松井石根大将は名古屋の生まれ

  • 熱海市伊豆山に興亜観音

    7月3日の豪雨で、熱海市伊豆山地区に土石流が発生、甚大な被害が起きた。この伊豆山に松井石根が私費を投じて建立した興亜観音がある。無事だったろうか。興亜観音は支那事変当時上海派遣軍司令官であった松井石根陸軍大将が、退役後の1940年(昭和15年)、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じてこの地に建立した。この観音菩薩は、松井大将の部下の戦死者23,104柱を祀ったもの。右が日本国民戦死者慰霊位牌、左が中華民国戦死者慰霊位牌。松井大将はこの近くに庵を建てて住み、毎朝ここまで登り、手を合わせて観音経をあげていた。戦後東京裁判で松井大将が処刑された後、松井大将とともに処刑されたA級戦犯六名、合わせて七名の遺骨も埋葬されている。その経緯は、1948年(昭和23年)12月23日A級戦犯として処刑された松井石...熱海市伊豆山に興亜観音

  • 殉国七士の墓

    愛知県の三河湾を臨む三ヶ根山上に、東京裁判により昭和23年に絞首刑を執行されたA級戦犯七人の墓があることは聞いて知っていた。このほどお参りしてきました。蒲郡の西、形原温泉街から三ヶ根山有料道路を登ること、車で15分ほど。「殉国七士の廟」と彫られた巨大な門柱。そこから200mほどで、また巨大な彫刻。そしてその先正面に「殉国七士の墓」「七士」とは板垣征四郎、松井石根、東條英機、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅、武藤章の7名。蒋介石国民党総裁が「戦犯1号」に挙げた謀略の大家、満州国の建国に関わった土肥原賢二元陸軍大将、南京大虐殺の罪に問われた松井石根元陸軍大将、開戦当時の総理大臣兼陸軍大臣東条英機元陸軍大将フィリピン捕虜虐待の罪に問われた武藤章元陸軍中将、満州事変を起こした関東軍参謀長の板垣征四郎元陸軍大将唯一文民出...殉国七士の墓

  • 東条英機の罪

    近年、東條英機を再評価する動きがあるが、こちらは、それを否定する方の意見。「東條は偶然あの時期に首相だったので損をした」と言う人がいますがとんでもない、戦争に反対であれば「総理大臣、陸軍大臣として認められない」とはっきり言えばいい。それが言えなかったとしたら政治家として無能、無責任。東條の場合は「言えなかった」のではなくて「言わなかった」のです。「天皇の要請を受けて東條が戦争回避の為に必死の努力をした」と言う記録はありません。●東條は関東軍時代は憲兵司令官、参謀長として板垣征四郎などと企んで満州でケシを大規模栽培し、阿片を満州、中国で大量に密売。巨額のカネを儲けて陸軍主戦派の秘密資金にした。●関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍大臣と一貫してして中国大陸侵略を促進、太平洋戦争の主因を作った。●第三次近衛内閣では、近衛文...東条英機の罪

  • 今日は何の日 7/4 下山事件

    昭和24年(1949)7月5日、下山事件日本国有鉄道(国鉄)で起こった「国鉄三大ミステリー事件」のひとつ。日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則が出勤途中に失踪し、翌日に常磐線綾瀬駅付近で轢(れき)死体となって発見された。事件発生直後から自殺説・他殺説が入り乱れ、捜査に当たった警視庁でも捜査一下は自殺、捜査二課は他殺で見解が対立し、それぞれ独自に捜査が行われたが、公式の捜査結果を発表することなく捜査本部は解散となり、捜査は打ち切られた。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。1964年7月6日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。事件の時代背景下山事件が起こった1949年、中国共産党の勝利が決定的となり...今日は何の日7/4下山事件

  • 7月4日は上野戦争

    上野の東叡山寛永寺は、江戸の鬼門を守る寺として天海和尚によって建てられた寺。寺域は30万5千坪。今の上野公園の二倍。不忍の池から、国立博物館、芸大まで含めた敷地に支院塔頭(たっちゅう)36カ寺という広大な寺でした。慶応4年(1868)大坂から逃げ帰った徳川慶喜はここ寛永寺の塔頭大慈院に謹慎していました。その慶喜公の護衛と称して、幕府の旗本や脱藩浪士約4,000人が「彰義隊」を結成して寛永寺に集結し、慶喜公が水戸へ送られた後もそのまま寛永寺に立て籠っていました。勝海舟と「江戸城無血開城」を約束した西郷隆盛としては、これを黙視していた。それでは甘いと、大総督府は西郷を司令官から解任し、長州藩士・大村益次郎を新司令官に任命。大村は彰義隊に武装解除を命じた。そして慶応4年(1868)5月1日(新暦の7月4日)、新政府軍...7月4日は上野戦争

  • 1575年(天正3年5月21日) - 長篠の戦い。

    今日は何の日。1575年(天正3年5月21日=6月29日)、長篠の合戦があった日です。現愛知県新城市の北にある長篠城が武田勝頼に攻められ、救援に向かった織田・徳川連合軍が武田軍を設楽が原におびきよせ、鉄砲で撃破した戦争。中学の歴史教科書などでは「初めて鉄砲が武田の騎馬軍団を打ち破った」などと、日本で初めて鉄砲が合戦で威力を発揮した戦いとされていますが・・・・。勝敗を決めた要因は、梅雨時の最中、この日だけは晴れたということです。信長は、桶狭間では昼に突然の雷雨が幸いして勝った。この時今川方でも鉄砲は持っていたが、雨で火縄が使えず、全く用をなさなかった。長篠では、晴れたために、馬防柵で武田騎馬団の猛攻を防ぎ、至近距離で鉄砲を撃つことができた。この日もし雨だったら、鉄砲は用を為さず、武田の勝利となっていたでしょう。天...1575年(天正3年5月21日)-長篠の戦い。

  • 義満、後小松天皇を金閣寺に迎える

    足利三代将軍義満は後小松帝を金閣寺に招き、一か月もの間拘束。毎日能の宴を開いたり、酒池肉琳三昧。そして、後小松帝に「次期天皇には我が子義嗣を」と約束させた。そして義嗣の立太子の儀式を終えた一週間後、義満は謎の死を遂げる。義満殺しの黒幕は義満の長男で第4代将軍になっていた義持。義持と義嗣は母親違い。兄義持にしてみれば弟義嗣が天皇になることなど絶対許せない。自身は将軍であって、天皇に膝まづかなければならない。そんなことには耐えられない。それで父義満を殺し、相国寺も七重の塔を始めことごとく破棄した。ただ金閣寺だけは残した。さて、後小松天皇が1カ月も滞在された場所としては、現在見る金閣寺では狭苦しい。復元写真によれば、方丈など別棟もあったのだ。これで納得。義満、後小松天皇を金閣寺に迎える

  • 7月2日 金閣寺が放火で焼失

    金閣寺、放火で焼失1950(昭和25)年7月2日の午前3時ごろ、京都市上京区(現北区)の鹿苑寺舎利殿(金閣寺)が火事で焼失した。警察が不審火として捜査し、同寺の見習い僧侶であり大谷大学生の林承賢が行方不明であることが判明。夕方、寺の裏にある山中で睡眠薬を飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。林は懲役7年の実刑判決を下され、服役。55(同30)年に恩赦で出所したが、半年後に肺結核で死亡した。この放火事件をヒントに三島由紀夫が小説『金閣寺』を書いた。昨年京都観光に行った時、ガイドが「金閣寺と銀閣寺、どちらが古いでしょう」というので、当然「金閣寺」と答えたら「残念でした、銀閣寺です」という。そんなバカな、金閣寺は応永6年(1399年)足利三代将軍義満が建てた。銀閣寺は八代将軍義政が祖父が...7月2日金閣寺が放火で焼失

  • 7月2日は 半夏生

    7月2日は、雑節の「半夏生(はんげしょう)」。雑節とは24節の他に「彼岸」や「八十八夜」など季節を示す日。太陽の経度が100度になる日を「半夏生」と定める。一年の丁度半分。正月元旦から183日目で、残りは182日。折り返し地点。「半夏生(はんげしょう)」とは、夏の半分ではなく、「半夏(はんげ)」という生薬のもとになるサトイモ科のカラスビシャクが生える頃であることから。梅雨時であり多湿で不順な頃である。田植えは夏至から半夏生の前にやることが好ましいとされている。今日は「蛸の日」。夏バテに蛸がいいとのこと。そして「うどん日」でもある。7月2日は半夏生

  • 白虎隊士の生き残り

    白虎隊は実は、身分によって「士中白虎」「寄合白虎」「足軽白虎」の三部隊があり、さらにそれぞれ二つの中隊で組織されていた。合わせて300名ほど。そして「白虎士中二番隊」の隊員は37名。そのうち18名が日向隊長とともに帰城している。残り19名だが、そのうち3人は戸の口で戦死、戦乱の中で撃たれ戦死はぐれ、ばらばらに飯盛山にたどりついた。生き残った白虎隊士は戦後東京に護送され、囚人としての扱いを受けた。その中に「牧原豊四郎」の名がある。豊四郎は、牧原の本家筋。甲賀口で父牧原一郎が切腹した時、介錯をした。その後、城に入り、生き残りの白虎隊士の統率に当たったようだ。そして東京に護送されても、会津藩士の名に恥じないよう、隊士たちをよく教導したという。だが、その後の行くへは不明。たぶん、東京にそのまま残ったのであろうか。10年...白虎隊士の生き残り

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