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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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埼玉県
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埼玉県
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2006/06/13

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  • 春の十字路にて

    朝の旗当番に立ったら、通学班の人数が少なく見えた。6年生の子たちがいないことに気付く。もう春が来たらしい。押しボタン式の信号機は、せわしなく点滅していた。先日、夜間使用の公共施設で懐かしい顔を見かけた。卒団式の打ち合わせだったらしい。毎週のように顔を合わせていたのに、春になればもうこの場所で会うことはないのかもしれない。迎える春とともに、過ぎ去ろうとする季節を感じた。新しく始まれば、終わっていくものがある。何気ない日常がさよならを告げる。人生はその繰り返し。歴史もまたその連続。「年度」を入れれば、2回の年越しがある。1月よりも、4月の方が変化を強く感じることが多いかもしれない。環境や体制が組み変わるから。日ごと顔を合わせていた人が、「日常」からいなくなるから。新しく始まるものに気持ちが軽くなる。草花は芽吹...春の十字路にて

  • 中世、秋の“水海”で歌を詠んだのは? ―三嶋神社―

    三嶋神社は水海城址(茨城県古河市)の西側に鎮座している。ここは、京都聖護院門跡の“道興准后”が訪れた社。道興が東国を巡ったのは地方の熊野山伏を編成する目的があったとされ、その旅をのちに『廻国雑記』として書物にまとめた。文明18年(1486)に三嶋神社を訪れた道興は、ちょうど秋の到来を感じさせる季節だったらしい。次のような歌を詠んでいる。富士のねの麓い月は影しろし空に冴たる秋のしら雲をくれゐて聞こそわふれ初かりの都にいそく夕暮の声のへの萩ちれはとやまの錦かな(『廻国雑記』より)道興は三嶋神社の「別当の坊」にしばらく逗留し、数首の歌を詠んだ。上記の歌はその一部で、富士山、初雁の声、萩などを同地で実際に見聞きしたものをモチーフとしたらしい。なお、道興は水海の三嶋神社について「大社ましましけり」と綴っている。同社...中世、秋の“水海”で歌を詠んだのは?―三嶋神社―

  • 日常に使ってみるサジェストの言葉

    インターネットである単語を検索したら、サジェストで「たのしすぎ」と出た。「やばい」「やめておけ」のサジェストが出ることの多い単語だけに、意外な気がした。いい言葉かもしれない。マイナスに捉えるより、「たのしい」とプラスに考えた方が気持ちいい。批判するより、なるべく肯定的に捉えたい。過去におけるマイナス寄りの記憶も、「たのしすぎ」と付けてみると、案外悪くなかった気がしてくる。あれはあれでよかったのかも、と。「やばい」と思っていたのは、視野の狭い自分の主観でしかなかったのだろう。視点や捉え方を変えれば、重い空気も軽くなっていく。憂鬱な案件も「たのしすぎ」と付けてみる。別に「すぎる」わけではないが、何となくやれそうな気がする。例えば、月曜日たのしすぎ、とか……。もう春本番。後ろ向きより前向きな気持ちの方が、きっと...日常に使ってみるサジェストの言葉

  • 猛攻を耐えた城は見た目が大人しい? ―駒城―

    駒城(駒館)は茨城県下妻市にある。大宝城と並び、南朝方の拠点だった。小田城の前衛基地として、藤原実寛が守ったという。北朝の高師冬は駒城に猛攻をかける。しかし、なかなか落ちない駒城。それゆえ関城に入っていた北畠親房は、『神皇正統記』を完成することができたという。城址は、路に面した小ぢんまりとした広場に石碑がポツンと建っている。標柱と説明板が建っているからわかりやすいが、何もなければ通り過ぎるだけだろう。現在は木々が切られ、こざっぱりとした空間が広がっている。そのため、土の高まりも目にすることができるのだが、大宝城址や関城址に比べて「おとなしい」印象を否めない。高師冬の猛攻をはねのけたというわりには、「要害」ぽくない。というのは現在の景観であって、消えた遺構も多くあるのだろう。1340年、駒城はついに落城。高...猛攻を耐えた城は見た目が大人しい?―駒城―

  • 雪の日に見る“赤堀川”は?

    雪の舞う日に訪ねた赤堀川。雪の白さに赤土が生えるかも……。それを期待して一人川辺に立ったが、土の赤さよりも川霧の方が目に留まった。赤堀川は、利根川東遷において重要なポイントとなった川。という言い方は後世の捉え方だろう。東京湾に向かって流れていた利根川は、赤堀川の開削と通水により、結果的に千葉県銚子へ向かうようになった。茨城県を流れ、接する地域は古河市や五霞町であり、3度の開削があった。最初は元和7年(1621)のこと。3度目は承応3年(1654)で、このとき通水した。明治時代の迅速図を見ると、細い川幅の赤堀川が急に膨らむ箇所がある。その細い流路が人力による掘削箇所なのだろう。土が赤いことから、赤堀川と名付けられた。確かに赤い。黄土色とも表現できる。これは関東ローム層で、開削には多くの人と労力を要しただろう...雪の日に見る“赤堀川”は?

  • 秘密の“抜け穴”のある城址は? ―関城―

    関城址(茨城県筑西市)の一角に、ぽっかりとあく穴がある。南北朝時代、攻城戦に使われるはずだった遺構と言われる。すなわち、秘密の抜け穴を作って城内へ潜入し、落城させる算段だったらしい。地盤がゆるく、結局使われることのないまま姿を消すことになるが、大正9年に地元の青年によって偶然発見された。南朝方だった関城主関宗祐・宗政父子は、大宝寺城(同県下妻市)攻め寄せる北朝の高師冬と戦った。同城には、『神皇正統記』を著したことでもよく知られる“北畠親房”も身を寄せていた。常陸に漂着して以後、小田城(同県つくば市)に入った親房は、同城にて『神皇正統記』を起稿。関城へ移城後、同書を完成させたと言われる。すなわち、関城址は戦場の舞台ではあるが、後世に残る書物が著された現場ということになる。親房はどの時間帯に筆を執ったのだろう...秘密の“抜け穴”のある城址は?―関城―

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