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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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埼玉県
出身
埼玉県
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2006/06/13

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  • 毛呂山町の“鎌倉街道上道”を歩くは鎌ぶらか?

    毛呂山町に残る鎌倉街道上道を歩く(鎌倉街道B遺跡)。掘割の遺構が残り、里山が周囲の風景を隠してくれるから、鎌倉時代へ想いを馳せやすい。里山の中、ポコポコと盛り上がる土山は川角古墳群。苦林宿の可能性が高い“堂山下遺跡”は、現在大類グランドとなっているが、室町時代の集落跡の記憶が眠っている。石で組まれた井戸跡などが検出され、職人がいたことを示唆する遺物も出土したという。蔵骨器や板碑が出土した崇徳寺跡や、高さ約3mの延慶3年(1310)の銘を持つ板碑。越辺川に面した交通の要衝地として栄えた往古の賑わいを感じさせてくれる。この毛呂山町の鎌倉街道上道は、令和4年度に国の史跡に指定された。多くの関係者が尽力したのだろう。毛呂山町歴史民俗資料館も街道に近接して建っているから、親子で訪ねる人も少なくないに違いない。平日休...毛呂山町の“鎌倉街道上道”を歩くは鎌ぶらか?

  • 藤島城と木戸元斎

    天正19年(1591)年、木戸元斎は直江兼続らとともに、一揆勢が立て籠もる藤島城(山形県鶴岡市)を攻め落とした。元斎は同城を破却後、大宝寺城(同市)を取り立てたという。羽生城主木戸忠朝の二男として生まれた元斎は、天正2年(1574)の羽生自落後に上野へ移り、のちに上杉景勝に仕えた。同18年の小田原城合戦の一連の戦いでは、元斎は上杉勢に参陣し、北条方の城を攻略している。歌人として知られた元斎だが、武才もあったのだろう。無双の歌人であり、太田道灌から軍の相談役を務めた祖の木戸孝範を彷彿とさせるものがある。藤島城址は、現在は八幡神社の境内地となっている。水堀と土塁が現存し、前者の幅は13メートルほどという。土塁の規模や2メートル前後で、八幡神社の鎮座地が本丸に比定される。一見館のように見えるが、往古は城郭の様相...藤島城と木戸元斎

  • 8月2日の藤

    加須市内で記念樹を見かけた。1996年8月2日、加須ロータリークラブが創立25周年として、公園内に藤の木を植えたらしい。ちょうど春の季節で、藤の花が満開に咲いていた。2024年は1996年と同じ暦という。今年の8月2日は金曜日だから、1996年も週末に位置していたことになる。その年は高校生最後の夏休みだった。だから家と図書館を行き来していたわけだが、ときどき閉館後に利根川へ足を延ばした。図書館には知っている同級生の顔が何人かあって、机に向かっていた。過ぎていく日々の中、言葉を交わしたいのに話しかけられない人がいた。どんな日常を過ごし、卒業後はどんな未来を思い描いているのか。ついこの間まで、何の気兼ねもなく言葉を交わしていたのに。あの日を境とするまで、いろんなことを話していたのに、近くて一番遠い人がいた。人...8月2日の藤

  • 長栄寺と毛呂城址(毛呂氏館跡)

    大型台風の襲来のとき、警報の出された市町村名を読み上げたアナウンサーが「けろやままち」と言った。どうやら「毛呂山町(もろやままち)」を「けろやままち」と読み違えたらしい。アナウンサーに同情の念が湧く。地名は難しい。知らなければ、「けろやま」と読むのが普通かもしれない。ただ、そのアナウンサーのおかげか、毛呂山町はかわいい町のイメージがついた。詰所で一緒に待機していた人たちも、「けろちゃん」と微笑んだ。激しい風雨に緊張感が増しているときだっただけに、少し場が和んだのを覚えている。そんな毛呂山町にはいくつかの城跡がある。長栄寺が建つ場所もその一つ。町中からほんの少し離れた山麓に位置し、そのため遺構の一部が残っている。毛呂氏の拠点であり、大永4年(1524)の上杉氏による毛呂攻めの舞台の一つと見られている。「浅野...長栄寺と毛呂城址(毛呂氏館跡)

  • 毛呂山町の町中に城跡がある? ―山根城―

    妙玄寺(埼玉県毛呂山町)の東方にかつて“毛呂城”があったという。“山根城”とも言い、妙玄寺近くの踏切の傍らに、その名が刻まれた石碑が隠れるように建っている。長栄寺側の城跡とは異なり、妙玄寺周辺は住宅街である。ゆえに、城の遺構とおぼしきものは見当たらない。何の情報もなければ、そこが城跡とは気付かないのではないだろうか。昭和40年代に妙玄寺遠景を写した写真を見ると、畑の中にお寺がポツンと建っている光景に驚く。住宅がまるでない。のどかな景色が広がっている。かつては水堀が残っていたという。以後、開発の波が押し寄せ、住宅街へと変貌を遂げたのだろう。平地の城跡は、開発の波から免れるのが難しい。史跡公園等で整備されているのは稀だ。大概は時代の流れと共にその姿を消している。妙玄寺は毛呂氏夫人の開基と伝わる。境内には供養塔...毛呂山町の町中に城跡がある?―山根城―

  • 女淵城と木戸元斎

    天正2年(1574)1月に越山した上杉謙信は、羽生城将へ宛てた3月13日付の書状の中で、善城・山上城・女淵城を落とした旨を伝えている(「西沢徳太郎氏所蔵文書」)。女淵城の沼田平八郎は、重ねて金山城の由良氏に同心したためこれを攻略し、同城に越後衆を置いたという。女淵城は群馬県前橋市粕川町に所在する。水堀が印象的な城址だ。天正2年閏11月に羽生城(埼玉県羽生市)を追われた木戸元斎は、謙信に引き取られて上野の城に置かれた。善城が有力視されているが、女淵城に在城した可能性も指摘されており、もし後者とすれば、水の城という意味で羽生城を彷彿とさせるものがあったかもしれない。現在の城跡は公園として整備されている。それぞれの郭が認められ、園内を散歩するにしても、歴史散歩と言うにふさわしい。本郭の南には、二の郭、三の郭と続...女淵城と木戸元斎

  • 会の川の最上流部にて

    令和6年5月26日開催の「タイムスリップまち歩き」で訪ねた会の川の最上流部。会の川はかつて利根川の本流だったが、現在は川幅も狭く、穏やかな流れになっている。「本流」と言っても、水勢は時代によって異なっていたらしい。文禄3年(1594)の締切時には、すでに「派川」と言ってもよく、言い伝えられるほどの難工事ではなかったとみられる。人柱伝説、西福寺へ発給された文書、締切神社、利根川東遷……。会の川上流部における歴史的素材は賑やかだ。ところで、小学校の社会科の授業で、地元を勉強するのは小学3、4年生のときだった。「はにゅう」や「埼玉県」といった教科書を使った。いわゆる副読本である。当時、僕は「社会」は苦手な科目だった。産業や治水に関心は薄く、テストの点数もいまいち。教科書を目にするだけでストレスを感じるほどだった...会の川の最上流部にて

  • 羽生の“内手橋”近くに出城があった? ―内手―

    羽生市内に“内手橋”という橋が架かっている。埼玉用水に架かる橋で、羽生市小須賀地内となる。“内手”は城郭用語に数えられる。「打出」「内出」とも表記され、群馬県内の城館跡にも見られる。ということは、ここに城館があったのだろうか?埼玉県の調査では、内手は城館として比定している。冨田勝治氏も羽生城の支城として、境界を守る出城という見解を示した。そう、出城。内手は出城の別称であり、山﨑一氏は一揆の勢力下にあった地方に多いと述べた。堅固な城館というより、武装化した屋敷のようなイメージだろうか。ただ、郭を設ければ城郭である。城絵図もなく考古学的成果もないため、構造や縄張りは不明である。ところで、埼玉用水に架かる内手橋は、戦国時代から存在するものではないだろう。その前身はあったかもしれないが、現在の橋は埼玉用水路として...羽生の“内手橋”近くに出城があった?―内手―

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