chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 竜頭山の宇宙人

    1997年5月・竜頭山山頂にてひょんなところから竜頭山に登った昔の写真が出てきた。この山行後、所属会の長老だった故内田道晴氏が会報に寄せた素敵な短文があったことを思い出した。竜頭山の宇宙人内田道晴竜頭山よりの帰路、私はTさん親子の後に続いて青ナギに向かって、天竜美林の中をひたすら下っていました。その時突然、一年生のSyo君が大声で、「アッ!ここは宇宙人の基地だ」と叫びました。私はエッ!とあたりを見廻しました。老眼ではそれらしいものは見えず、なにかな?と首をかしげました。すると又Syo君が「宇宙人がいっぱいいる……基地だ基地だ」と叫びました。寝不足の目をこすりながらあたりを見廻しました。そしてアッ!と驚きました。いるいる十いや五十か百ぐらいかな、木の陰、岩の陰につり上がった異様な黒い目が、あっちにもこっちに...竜頭山の宇宙人

  • わが山旅五十年

    わが山旅五十年(田部重治著、1996年2月15日、平凡社ライブラリー)木曽路と田部重治今回の冬季合宿は、「木曽路&南沢山・横川山」である。ここ数年、冬の合宿(特別山行)は、諏訪、吉野、高山と雪の中で遊ぶことにプラスして、山麓の歴史や風土に触れることを企画してきた。山歩きが単に自然の中に浸るということや景観ということを越えて、山と人との関わりという楽しみも加わるように思う。こうした楽しみは何も考えずに歩くのではなく、事前に自分なりの興味の在り所を掴んで臨んだ方が、いっそう深くなるようにも思う。木曽路は訪れたことのある人も多いことだろう。江戸宿場町の面影を残す妻籠は、全国に先駆けて景観保全活動に取組み、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。現在では隣接する馬籠宿と合わせ、木曽路を代表する観光...わが山旅五十年

  • 伊那に入る峠

    昨年(2014年)の冬季合宿は今回と同じ南沢山を目指したが、生憎の大雪で木曽から伊那へと入る二つの道、中央道、国道256号のいずれもが不通となって当初の計画を果たすことができなかった。交通網の発達した現代においても(むしろ、「だからこそ」かも知れないが)なお谷を隔てる山塊を越えていくことは、気象などの条件によって左右されるのであり、古の旅の困難さは如何ばかりだったろうかと想像する。昨年の本欄でも触れたことであるが、木曽谷、伊那谷、そして目的の南沢山の位置と繋ぐ峠について今一度見てみよう。南沢山山頂(2015年2月)南沢山は、恵那山から北北東方向に伸びる主尾根上にある。この尾根は長野・岐阜県境であり、南沢山から北西に支尾根を出し馬籠峠を経て木曽川に没している。一方、主尾根には郡境線(木曽・伊那)があり、北上...伊那に入る峠

  • たけのこ掘り

    藤枝・滝ノ谷の知人の山でたけのこ掘り。小一時間ほどで小ぶりなものを10本ほどゲット・・・で汗だく。Ryoは、さも自分が掘ったようだが、なーに突っ立っていただけ。以前は、たけのこホリデーと称して会で賑やかにやったものだったが・・・寂しいことだたけのこ掘り

  • 山に生きる人びと

    山に生きる人びと/日本民衆史2(宮本常一著、1968年6月20日第2版、未来社)山中の道を歩いていて、いったいここを誰が通ったのであろうと思ってみることがある。地図にも出ていない道であるのだが、下草におおわれながらもかすかにそこを何人かの人が通りすぎたあとがのこされている。人の歩いた部分はややくぼんでいて、草も生えていないか、生えていても小さい。木も道の上の空間はそれほど枝をさしかわしていない。といって一日に何人ほどの人が通るのであろうか。そういう道を歩いていると草が茂り木が茂って、とだえてしまっていることも多い。それからさきは人も行かなかったのであろうか。それとも雑木や雑草がうずめつくして通ることすらできなくなってしまったのであろうか。(「一塩の道」より)こうした山中の道は、近代となって登山者の通うよう...山に生きる人びと

  • 山菜遭難

    Ryoカレンダーより元会員のMさんが、山菜採りに行くと言って出掛けたまま戻らないという連絡があったのは、日暮れ間近な時刻だった。山菜採りが山歩きの主目的のようだったMさんは、時季になるとワラビやフキなどを届けてくれたが、どの辺りで採っていると聞いたことはなかった。既に暗くなる時刻であっては直ぐに探しに行くわけにはいかず、島田在住の四役と千葉山周辺に詳しいお二人に助力を求め、明朝を待つことにした。Mさんが家族に残していったキーワードは、「尾川」「ワラビ」「黒の変速機付ママチャリ」だった。ワラビ採りが目的なら、尾川丁仏参道などのハイキングコース沿いはまずないだろう。高齢とはいえ達者なMさんのことだから、自転車を麓に置くのではなく、林道や農道があれば上まで入るのではないか(家族が麓を廻った範囲では自転車は見つか...山菜遭難

  • 堅雪のころ

    Ryoカレンダーより高校時代の英語の教師であったN先生が、自著の制作を依頼してくださった。先生は、H高校長を最後に定年退職後、JICAの一員としてモンゴル、中国、パキスタンなどで現地の日本語教育に携わっていた。帰国後、どういうきっかけで私の仕事を知ったのか、名刺、年賀状など小さな仕事をくださっていたが、80歳を超え、今度は今まで周囲にあまり話すことの無かった自分の生き方の原点を、まとめたくなったとのことだった。先生は既に数冊の著書を発刊されていて、そうした手づるは幾つもあるのだろうに、なぜ「私は、あなたの仕事ぶりを信頼していますから」などと気に掛け、話しを持って来られたのかと思った。高校時代の私は、自意識だけが強く、教師たちに楯突き、周りと交わることもできないタチの悪い生徒で、数学や英語といったコツコツと...堅雪のころ

  • 家山花見

    Ryoと桜の花見に川根・家山へ出かける。日曜は雨なので今日が今季のラストチャンスだろう。家山川河川敷の駐車場に着いた途端、SL通過のグッドタイミング。桜トンネルを抜けてくる様は絵になる。列車の中も満員のお客さん。花より団子ならぬ、たこ焼き、唐揚げを食した後、家山川両岸をぐるっと散策午後になると雲が出てきて意外と冷たい少し早いが鯉のぼりも泳ぐその後、車で少し奥の牛代(うしんしろ)に向かう。一本桜のみずめ桜(エドヒガンザクラ)は小さく白い花だが、樹齢300年の貫禄を感じさせる大木だった。塩本の牛代にあるみずめ桜は、最近評判になり、町内外から多くのひとが訪れるようになりました。小高い丘の上にあって、1本立てで樹形もよく、カメラアングルも最高でマニアには、人気のある桜です。エドヒガン桜特有の白くてかわいらしい花が...家山花見

  • 山を彫る(番外篇)山伏

    山伏(ヤンブシ)よもぎ峠「乗鞍岳」をもって締めにしたつもりだったが、大作(?)を見過ごしていた。「山伏」ヤンブシ、いい響きだなぁ。この山は地理的にみても、我が山歴に於いてもヘソにあたる。若い頃から安倍奥を歩いてきた。十枚山を皮切りに竜爪山、真富士山、青笹、大光、安倍峠、八紘嶺と連なる安倍川東尾根。井川峠、笹山、猪の段と続く西尾根。その奥まったところに山伏があり標高2,013mと最も高く、まさに安倍奥の象徴である。大昔は路線バスで行くしか手段が無かったため登山口まで、とても遠かった。先に挙げた山々を、いくつかこなしてから挑戦した。その後度々登ってきたからエピソードも多い。因み山行】1999/7Tanさんと。孫佐島から取り付き井川峠へ、笹山を越えて牛首峠、猪の段への急登をしのぎ山伏小屋泊。翌朝、頂上を極め更に...山を彫る(番外篇)山伏

  • 丸黒山

    乗鞍青少年交流の家を出発日影峠までは林道を行く丸黒山は北アルプス・乗鞍岳から西に延びる千町尾根の先、五色ヶ原の西側にある山で、国立乗鞍青少年交流の家からの登山道が整備されている。無雪期には登山研修が盛んに行われるようだが、積雪期となると登山者もまばらで静かな山となる。2012年3月、SHCの冬季特別山行で訪れ皆でスノーシューを愉しんだ。この時は時間の関係もあって、行程の3分の1程のミズナラ平先までだったので、今回はもっと先まで、できれば乗鞍岳を間近に眺めてみたいものだと思い企画した。シラカバの林間を行く前日の大日ヶ岳とうってかわり、朝から雪が舞う空模様、気温はマイナス4℃。宿泊した青少年交流の家の部屋点検の遅れやスノーシューの装着が手間どったこともあって、出発は9時を回ってしまった。日影峠までの林道には交...丸黒山

  • 大日ヶ岳

    山頂より白山方面を望む3月末の土日に飛騨高山にある国立乗鞍青少年交流の家に宿泊しての今季最後の雪遊びを企画した。初日は行き掛けの駄賃にと、ひるがの高原近くの高鷲スノーパークからゴンドラを利用して大日ヶ岳へとお手軽なスノーハイク。大日ヶ岳は白山・御前峰の南南西約18kmに位置する両白山地の山で、白山と同様に717年、泰澄上人により開山されたと伝えられる。前大日辺りを進む山頂まであとわずかゴンドラの山頂駅の標高はすでに1520m、スキーヤーやスノーボーダーで賑わうゲレンデから離れ、尾根を登り始める。予報に反し上空は快晴で風も無く、少し歩けば汗ばんでくるほどの陽気だ。雪面の状態は所々にクラックが発生し地肌がのぞいている箇所もあり、陽気と共に春の山の様相。1時間ほどで1709mの山頂に到着した。山頂の一等三角点の...大日ヶ岳

  • 伊太・天神原

    2/24(祝)伊太・天神原まで梅見のウォーク。伊太・天満天神宮丸石を撫ぜると頭が良くなる・・・?梅の花も、そこそこに開いてきた。春も間近!天神原公園で一休み。約8.5km、2時間30分、上出来でした。伊太・天神原

  • 友人の四十九日

    8日朝、八幡山展望台からの富士山安倍奥(遠景)も白くなってきた今日向かう松風閣は遠景(高草山)右端の小さな突起・虚空蔵山の場所にある2/8、昨年暮れに脊髄腫瘍で亡くなった友人Suyの四十九日法要を宗傳寺で、その後、お膳上げを焼津・松風閣で行った。昨年秋に母親を亡くしたSyoに身寄りはなく、友人葬とでもいったところ。地元在住の友人4人(とその家族)、東京から足を運んできた大学時代の友人、ShyとTumとは40年ぶり近くの再会となろうか。こうして旧交を温められたのも、まめな付き合いをしていたSyoのおかげだ。それぞれが彼の思い出を語り、彼の好きだった芸をして小さいながら良い供養の宴だった。松風閣窓越しの富士山Ryoも一緒に供養してくれた9日帰宅後、伊太まで散歩、梅がチラホラと咲き始めた伊太八幡神社友人の四十九日

  • 精進湖へ続く巡拝の道

    1/26阿難坂峠から「三方分山」山頂へと急坂を上がっていく途中、この山名について話題となった。私は「三方を分ける山」という命名は、何のひねりもなく少し残念な名だと思っていたのだが、同行のNayさんは子供の頃に訪れた時から、そのものズバリの名が逆に印象に残ったと話した。山頂で北へ釈迦ヶ岳へと続く道を見送り、パノラマ台へと尾根を南下した。途中、精進峠と根子峠で精進湖からの道が上がっているが、いずれの峠でも西へ反(そり)木川の谷へと下っていくには急な斜面で、すでに道形も失せてしまっているようだった。翌日、山行の報告をまとめるために地理院地図を眺めていてふと思ったのは、どうも「五十集(いさば)の道」(魚介類の道)としての中道往還、阿難坂越えの道ばかりを気にしていたが、精進湖へと繋がる道は他にもあった、ということだ...精進湖へ続く巡拝の道

  • 三方分山・パノラマ台

    パノラマ台からのこの日の子抱き富士所属会の1月定例山行はスノーハイキングを期待しての企画であったが、残念ながら下見時(1/5)と同様に積雪は全く無し。三方分山に限らずここより高い御坂の山々や毛無山塊も黒い姿だった。まず諏訪神社境内の国天然記念物「精進の大スギ」を見学。樹高約40メートル、根元周囲13メートル、目通10メートル、樹齢1200年以上といわれている杉の巨木だ。雪化粧していたら、さぞや美しいことだろう。諏訪神社と隣接する龍泉寺本堂は共に茅葺の屋根で、中道往還の坂下集落である居村の歴史を感じさせる。精進の大スギ(1/5)その中道往還は駿河・甲斐を結ぶ街道の一つで「魚の道」でもあった。吉原(富士市)を起点に富士山西麓を通り、精進湖西岸から女坂1215mの峠を越え、さらに古関(旧上九一色村)からは右左口...三方分山・パノラマ台

  • 山を彫る(番外篇)乗鞍岳

    東海フォレストツアーとして乗鞍高原スノーシューハイキングの案内があった。友人夫妻と共に我々夫婦も申し込んだが‥‥。妻が帯状疱疹に罹り取り止めて、我が家は私だけの参加となる。ロッジ「ふもと」到着後は、早い時間から飲みながら談笑。上等な宿とは言えないが酔ってしまえば、なんていうことはない。2日目、観光センターが起点。スノーシューを借り衣装を整えた。私は積雪期登山や高遠少年自然の家での経験から難なく支度できたが、中にはスノーシューは初めてと言う人もいて手間取った。目が届き易いようにA,B2班に分けられた。ガイドの後に続いて参加者が、えっちらおっちら歩を進める。スノーシューは大きくて足にまとわりつく。多少の上り下りでも、それなりのテクニックが要る。間もなく牛留池に到着。氷結した上に真っさらな雪、Yonさんの計らい...山を彫る(番外篇)乗鞍岳

  • 蓮華寺池公園ウォーク

    Ryoの日めくり1月13日(成人の日)蓮華寺池公園周りの丘陵を歩く。Ryoが連休の中で2回もウォークに出るのは珍しい(11日、白岩寺山)。日時計の影は亥の辺りを指す。富士山は北東へ約70km、宇津谷峠の鞍部から大きく望む。古墳の広場の展望台からも富士山から伊豆半島まで絶景が広がる。この日も穏やかな一日だった。蓮華寺池公園ウォーク

  • 正義の人々

    2012年7月の夏山合宿「会津駒ヶ岳」の4年前、良き相棒だったAmk親父らとここを訪れた時のこと。***正義の人々9月の連休に会津駒ヶ岳に行った時のことである。花と紅葉の狭間の時季とはいえ、国立公園となった人気の山で登山者の数は多く、比較的若い人達も目に付いた。この山の頂稜部は雲上の湿原となっていて、駒ノ小屋直下から中門岳までずっと二本の木道が続いている。歩き易そうな方を、あるいは花を見る時は近くの側へと、右に左に踏む道を替えながら歩いていく。対向者とのすれ違いも、低速“者”や駐“者”中の追越しも、それなりにスムースに運んでいくものである。駒ヶ岳山頂から先は人も少なくなり、池塘と草原の中を畝々と続く道を「気持いいね」と話しながら、中門岳を目指していた。前方から30才前後の女性が近づいてきた。我がパーティは...正義の人々

  • 2025初ウォーク

    ここ二、三日の強い風と寒さが収まり穏やかな日和となったので、Ryoと白岩寺山公園までウォークした。正月の間、ゴロゴロとしていた割には快調な歩行で、白岩寺山の登りもあまり苦にしなかった。家から往復で2時間を切るのはなかなかのもの。富士山は雲がかかっていたが、先週よりも積雪が増したようだ。2025初ウォーク

  • 駒ヶ岳の由来

    前の記事、山を彫る「会津駒ヶ岳」に関連して旧稿を掲載する。***6月定例山行「箱根駒ヶ岳」、7月夏山合宿「会津駒ヶ岳」と、二つの駒ヶ岳が連続することになった。さて、全国には幾つの駒ヶ岳があり、その山名は何処から由来しているのだろうか。駒ヶ岳と聞くと、まっ先に思い浮かぶのは南アルプス(赤石山脈)の甲斐駒ヶ岳だろう。「山の団十郎」の異名を取る凛々しい姿が里から直にすくっと立上がり、中央道などからもその個性的な姿が判りやすく、登山者はすぐに覚える山の一つだ。2966メートルの標高は、全駒ヶ岳の最高峰でもある。伊那谷を隔てた中央アルプス(木曽山脈)には、同山脈の主峰、木曽駒ヶ岳がある。標高で甲斐駒にわずか10メートル及ばず、伊那谷では両峰をそれぞれ東駒ヶ岳、西駒ヶ岳と区別している(木曽駒ヶ岳は木曽谷からの呼称)。...駒ヶ岳の由来

  • 山を彫る(番外篇)会津駒ヶ岳

    会津駒ヶ岳1駒ノ小屋が見えてきた、稜線まであとわずか愛唱歌「夏の思い出」の中の一節に「はるかな尾瀬遠い空‥」とある。尾瀬が好きで何度か行っているうちに燧ケ岳、至仏山から見える会津駒ヶ岳が気になり始めた。地形図を見ると尾瀬よりも更にはるかな峰である。その地の様子も知らないままルートを考えた。桧枝岐から登るしか道はなさそうである。桧枝岐か、遠いなぁ。島田からのアクセスが悪い、長い。計画倒れのまま幾星霜。2012年チャンスが巡ってきた。SHC夏山合宿で会津駒ヶ岳を目指す。ここで問題発生、先に計画していた東北旅行と日が重なった。山行担当者にお願いして7/27桧枝岐の手前、会津線「会津高原尾瀬入口駅」で落ち合うようにさせてもらった。旅行は全体を1日前倒しに、車には旅行の支度と山の支度を用意した。7/27会津若松駅ま...山を彫る(番外篇)会津駒ヶ岳

  • この正月

    新年も10日になって間の抜けたことだが、本年も穏やかな年でありますように。仕事納めの28日になって、15年程も使っていたPCが逝ってしまった。暮れの仕事が片付くまで持ったのは彼なりの意地だったのだろうか。後生大事に使い続けたのは仕事に使うソフトのバージョンが古いからで、今は何もかもサブスクリプションの方式になってしまって必要もない機能に無駄に金がかかってしまう。買取済みのソフトを活かせる方法をネットで検索したり、帰省中の息子に尋ねたりしたが、そんな都合の良いことはもはや無かった。あと何年仕事ができるか分からないが、取り敢えず年明けの仕事再開に間に合わせるために、中古(整備品)の新しいPCを手配し、正月中かけてソフトのインストール、周辺機器の接続、データの移動などに追われ、何とか再構築することができた。で、...この正月

  • 師走あれこれ

    12/15、粟ヶ岳の後の忘年会で新型コロナに感染、熱は2、3日で平熱に戻ったが胃腸の不調が今も続く。忘年会参加者の約半分が感染というクラスター状態でやれやれのことだ。幸い家族への感染は無し。12/24、旧い友人(高校の同級生)のSが亡くなった。末期ガンで年は越せないと告げられていたが、前週には蓮華寺の畔に連れ出してもらい、そばを啜って、ビールを舐めて、好きな煙草も吸った。前年、年老いた母親を亡くした後は彼に身内はなく、数人の友人だけでの静かな見送りとなった。寂しさが押し寄せる。12/28、末っ子が十山のウィスキー「Flora2024」を届けてくれる。噂には聞いていた南アルプスの貴重な酒は職場忘年会で引き当てた由。旨い!新製品:シングルモルトデッサンシリーズフローラ2024|十山株式会社十山株式会社は、南ア...師走あれこれ

  • 日切から粟ヶ岳へ

    粟ヶ岳山頂からの富士山2024年最後の会山行は、我がランドマーク「粟ヶ岳」へ東側の大鉄・日切駅から目指した。馴染みの粟ヶ岳へは、東山いっぷく処、西側の倉真温泉、そして本年8月には南側の西山から登っているが、日切からは初めてのこと。昔々に(中学の遠足?)金谷から登ったような記憶が微かにあるが、ここからだったのかは定かでない。志戸呂の坂途中からの富士山台地の上の行人塚近づいてくる粟ヶ岳の「茶」文字志戸呂の坂を登って台地の上に出ると行人塚が建つ。1603年(慶長年間)、大井川の氾濫で島田宿が消失し山側の元島田(島田市医療センター南側))に移転し、島田市大鳥、大井川渡河、牛尾山、島田市(金谷町)志戸呂谷北という中世のルートが復活、1614年まで約10年間、仮の東海道とされた。ここはその一部で碑には「正徳二年巳八月...日切から粟ヶ岳へ

  • 息子との山歩き

    2007年3月入笠山9月のおはようハイク「智満寺」に、三男・Ryoを連れていった。彼はダウン症の障害を持っていて、参加者の皆さんと同様のペースで歩くのは無理なことなので、担当のHm君に「見えなくても気にしないように」と伝え、後から二人でゆっくりと登っていった。亮と山道を歩くのは久しぶりだった。どうだん原の手前で声が微かに聞こえたように思ったが、上がってみると既に誰もいなかった。ここまでは50分と思っていたより順調に歩くことができた。どうだん原にRyoが初めて来たのは、ファミリーハイキングだった。私が彼を背負い、妻が末っ子を背負ったが、帰りにちょっとした遭難騒動があった。末っ子のオムツを替えていて出だしが遅れた妻が、一向に田代に下りてこないのだ。兄たちにRyoを見ているように言い聞かせ、丁仏参道を駆け上がっ...息子との山歩き

  • 秋のRyoウォーク1

    この秋のRyo君とのウォーク10月13日(日)かなや公園→巖室神社→大鉄新金谷駅→宅円庵(日本左衛門首塚)→東海汽缶(蒸気機関車整備工場)→かなや公園巖室神社はちょうど例祭で可愛らしい巫女舞が奉納されていた。Ryoは関心無し。*社伝によれば、正治2(1200)年頃、当時の住家三戸の氏神として、現在地の巌室を開いて三柱である瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)の神を勧請奉斎し、巌室神社と称すと記しています。町名金谷のこの金山彦の神名から、由来したとの説もあります。その後、神社名は、「若一王子社」、「姫宮」から「巌室神社」に変更されましたが、氏子たちは今でも「姫宮さん」と親しみをこめて呼んでいます。(島田市観光協会HP)大井川鐵道・新金谷駅ではトー...秋のRyoウォーク1

  • 山を彫る(番外篇)守屋山キャンプ場にて

    高遠少年自然の家を利用するようになったのは、いつ頃からだろうか?随分昔から行っているはずだ。試みに会報「やまびこ」の索引を使って検索してみた。始まりは1998/2、よほど気にいったのだろう、7月も。以降2002年まで2月ないし3月のスノーハイクは恒例になっていた。しばらく休み2008,9年、また少し飛んで2013、2020年と訪れている。自然の家ではクロスカントリースキーやスノーシューを無料で貸してもらえるからありがたい。チョットしたルールを守れば格安で利用できるのも嬉しい。コテージで薪ストーブを囲み、呑み、かつ歌い、踊れば浮世の憂さを忘れる至福の時だ。初回は自然の家周辺で雪と戯れていたが2回目’98/7には守屋山へ登っている。2013/2/10自然の家出発、立石口から登山開始。雪はあるがアイゼン無しで進...山を彫る(番外篇)守屋山キャンプ場にて

  • 「南アルプスの三角点」について

    資料1資料2「第7回南アルプス写真展」資料1「南アルプスの三角点」、資料2「静岡県山岳番付」を興味深く拝見しました。「番付」につきましては、納得の山もあり、物言いをつけたい山もあり、それぞれの価値観の違いが面白いということでした。一方、「南アルプスの三角点」につきましては、次の点で少し疑問がありました。一つは、タイトルの「南アルプスの三角点」という名称ですが、資料にあるのは静岡県内に限られています。“南アルプスの”といった場合には当然、長野・山梨両県も含まれると思います。また、資料では南アルプスの範囲にいわゆる深南部と白峰南嶺の続きとして安倍東山稜も含まれていますが、その中で三等の取捨の基準はどこにあるのかが不明でした。二つ目は“三角点”としていますが、資料に載るのは三角点が埋設された山(ピーク)であって...「南アルプスの三角点」について

  • 山を彫る(番外篇)三方分山

    三方分山西面の展望図私はこの山が好きだ。まず名前が良い。“サンポウブンザン”山の名前としては珍しい字面である。名前の通り山頂から三方へ尾根が張り出している。頂きでは判りにくいが地図上で見ると見事に三等分されている。次にロケーションが良い。定例山行での上り道は中道往還であった。駿河から甲州へ抜ける街道のひとつ。駿河湾で獲れた魚を担いでこの峠を越えた。沼津からここまでの道のり、更に峠を下り上九一色村(古関)までの距離を測ると想像し難いが紛れもないことだ。上り始めの精進集落の佇まいは、それとなく歴史を感じさせる。峠を西進すれば気持ち良い尾根を通って小一時間で三方分山に着く。富士山方面は切り開かれていて明るい。西側は樹木が茂り、眺めが遮られるが木の間越しに南アルプスが見える。あのピークはどこだろう?眺めを楽しんだ...山を彫る(番外篇)三方分山

  • 三国山稜ー富士山に最も近い山

    静岡・神奈川・山梨三県境の三国山(2019年1月)2015年度から16年度にかけ、当会20周年記念事業の一つとして『富士山周辺の山々』を行った。富士山外周の山々を、月々の定例山行や合宿山行を通じて、四季折々の富士山の姿を眺めながら繋ごうというもので、その実績は20周年記念展におけるメイン展示として発表された。が、実は「繋ごう」とはしたものの諸事情で抜け落ちてしまった部分があって、その一つが「三国山稜」ということになる。三国山頂2005年三国山稜というのは、山中湖東南岸の切通峠から篭坂峠までの小さな山稜を称していると思われる。山中湖の湖面標高が982mに対し、山稜中の最高地点が大洞山1383mであるから、穏やかな尾根の容姿と相まって、湖畔から見れば丘のようなものだ。大きな山域の括りでいえば、菰釣山などから尾...三国山稜ー富士山に最も近い山

  • 山を彫る(番外編)荒川岳

    加齢に伴い南アルプスは遠のいていった。でも、もう一度赤石岳に登ってみたい。想いが実現するチャンスが巡ってきた。Yonツアーで千枚、荒川、赤石縦走をするという。しかも、長い、長い千枚道を駒鳥池下まで車で入ってくれるというのだ。願ってもないチャンスに気を良くして同期入社のOtu君を誘ってメンバーに加えてもらった。ところが、予定日前に台風が接近し計画は、お流れに。台風一過、9/8からやり直しとなった。ただ、千枚林道は土砂崩れで通行不可。東尾根を登り赤石から千枚へと逆コースに変更された。下る頃には千枚林道の土砂は撤去される見通し。厳しい上りの東尾根を思い浮かべ一刻ひるんだが、このチャンスを逃せば後は無い。やっぱり行こう。想定通り東尾根の登りは厳しかった。「赤いカラビナ」の会が主体となっているが、我々を含め寄せ集め...山を彫る(番外編)荒川岳

  • 高根白山神社

    芋穴所[いもあなど]のマルカシ11月10日、所属会の「おはようハイキング」は、藤枝・高根山へ出かける。生憎の天気と思いきや、昼前の解散時までもってくれて、山頂ではそこそこの展望も得られた。午前中の一時の山歩きが心地よい。高根山頂からの眺望高根山は東海自然歩道の本コースとなっているが、中学の時、同級生二人とここから家山までを歩いたのが、私が自分自身で計画した山歩きの最初だった。身成川の谷に出た後の8km余の林道歩きが長く疲れ、家山駅に着く頃はすっかり日暮れていたと覚えている。東海自然歩道の全区間完成が1974年、東京高尾の「明治の森」から大阪箕面の「明治の森」までを結び、つまりは「明治百年」の昂揚の一環だった側面もあるだろう。それから50年が経って「昭和百年」はもう間近のこととなった。高根山中腹には、118...高根白山神社

  • 甲駿交流の道[樽峠]

    平治ノ段から富士山2024年10月31日記事「山を彫る(9)山小屋の主」に関連して【2010年2月記】貫ヶ岳は山梨県南部町の山だが、私たち静岡人からすると、興津川流域の山々の続きの中にあるピークとして捉えられる。駿河から甲州側に貫かれた、突き刺さった尾根の末端なのである。この興津川流域の山々に私が近しさを感じるのは、何と言っても青島秀也さんの山小屋「ヒュッテ樽」の存在が大きい。初めて貫ヶ岳を訪れたのも「ヒュッテ樽」での泊り宴会のついでだった。晩秋の日、二日酔いの足で辿った平治ノ段からの尾根道はリンドウの花が咲く「お嬢さんの散歩道」で、富士が大きく望め駿河湾は眩しく光っていた。山を歩いているとき海が見えると何故か嬉しくなる。国道52号線を通ると、建設中の中部横断自動車道早期全線開通を訴える「君は太平洋を見た...甲駿交流の道[樽峠]

  • 2万5千分の1地形図難読図名(2)

    11月1日新刊の2万5千分1地形図(令和6年調製)は34面、今回も難読地名が多い。01浅茅野台地(あさちのだいち)02浜頓別(はまとんべつ)03猿払(さるふつ)04浅茅野(あさちの)05鬼志別(おにしべつ)06エタンパック山07安別(やすべつ)08イソサンヌプリ山09セキタンベツ川10上問寒(かみといかん)11松音知(まつねしり)12中問寒(なかといかん)13モイマ山14声問(こえとい)15知来別(ちらいべつ)16曲淵(まがりふち)17下豊別(しもとよべつ)18樺岡(かばおか)19本流(ほんりゅう)20幌延(ほろのべ)21安牛(やすうし)22振老(ふらおい)23上勇知(かみゆうち)24兜沼(かぶとぬま)25夕来(ゆうくる)26豊徳(ほうとく)27稚咲内(わかさかない)28浜里(はまさと)29伊勢佐原(いせ...2万5千分の1地形図難読図名(2)

  • 地名の本

    民俗地名語彙事典(松永美吉著・日本地名研究所編、2021年4月10日、ちくま学芸文庫)登山地図や山間地などの地形図を眺めていると、独特の地形名や変わった地名を目にすることがある。例えば水窪河内川最奥の山住峠麓には「河内浦(kouchiure)」集落がある。同じく青崩峠の麓となる水窪町奥領家の翁川上流部は「西浦(nishiure)」と呼ばれ重要無形民俗文化財指定の田楽が催される。[浦(ure)]とはどういう意味を持った地名なのか。なぜ山中の水窪に浦があるのか。本書を引いてみるとウラ①浦は「海岸」の意にとられることが多いが、本来は海岸が入江や湾をなして入りこんでいる所をいう。西南日本ことに九州などでは、陸地に湾入した所は必ず○○裏の名があり、たんなる海岸名ではない。浦という語は、外浦の「表」に対して「裏」の義...地名の本

  • 三国境の山

    静岡・神奈川・山梨三県境の三国山(2019年1月)「三国山」という名は、駿河、甲斐、相模の三国境(みくにさかい)ゆえに付けられたものだが、同様の三国境の場所にはどんな名が付いているか調べてみた。当然のことながら、国境というのは面で接しているが、三国境は点で接するから尾根が分岐する山頂であることが多いだろうと予想される。旧国名に由る三国境では無く、現在の47都道府県の行政区分で三県境となっている場所は、全国で44地点ある。内8地点(青丸●)は川が境となっていてピークや峠の尾根上にはない。例えば静岡県に係る3地点の内、18静岡・長野・愛知三県境は飯田線小和田駅近くの天竜川の中となる。8新潟・福島・群馬三県境も実は尾根上にはなく、尾瀬ヶ原の東電小屋から数百メートル西のヨッピ川の中となるが、尾瀬ということで山にカ...三国境の山

  • 山を彫る(9)山小屋の主

    初めての沢登りだった。着るものや、履くものが判らなかったので、聞き込みをして、それなりの準備をした。足回りは、この日のために地下足袋を購入、ザックは古くから持っていて、なかなかへこたれないデイバッグの底に穴を開け、水浸しになっても排水できるようにした。着替え他の装備は、それぞれビニール袋に入れて防水を図った。興津川の上流、田代峠への上り口に車をデポ、Ahさんの案内で、いよいよ沢に入る。早々に滝に出会った。手近にあった丸太を淵に渡し、危なっかしい足取りで一同通過。第2の滝は強烈だった。足が底に着かないほど深い淵を右から回りこみ、先行した青島さんがフィックスしてくれたザイルを頼りに、本流に足を取られながら体を引き上げた。8月末の山行で、相当暑いと思いきや、二つ、三つの滝を上がっただけで寒くなってきた。着衣が沢...山を彫る(9)山小屋の主

  • 北八ッ彷徨

    2001年10月発行・平凡社北八ヶ岳というと苔の森と湖沼のイメージがあるが、白駒池や北横岳あたりは今やすっかり観光地化してしまい、静寂という言葉とは少し距離があるように思える。かつての「北八ッ」の森を彷徨ってみたい、そんな好奇心から本書を手にしたように覚えている。南八ヶ岳を動的[ダイナミック]な山だとすれば、北八ヶ岳は静的[スタティック]な山である。前者を情熱的な山だといえば、後者は瞑想的な山だといえよう。北八ヶ岳には、鋭角の頂稜を行く、あの荒々しい興奮と緊張はない。原始の匂いのする樹海のひろがり、森にかこまれた自然の庭のような小さな草原、針葉樹に被われたつつましい頂や、そこだけ岩魂を露出しているあかるい頂、山の斜面にできた天然の水溜りのような湖、そうして、その中にねむっているいくつかの伝説――それが北八...北八ッ彷徨

  • 山を彫る(8)八島湿原

    霧ヶ峰、ここは私にとって不愉快な、というほどではないが愉快ではない思い出のある場所だった。昭和34年、日本楽器(現ヤマハ)に入社、設計課に配属された。当然18才の私らが最年少なのだが、ほとんどが20才周辺の若者で、当時流行っていた青年活動も盛んに行われていた。ようやく職場に慣れてきた8月盆休に、白樺湖へキャンプに行くことになった。入社後半年も経っていない身では、登山用具などあるはずもなく、リュックザックは親戚から借りて間に合わせた。靴も、スニーカーに毛の生えた程度のものを使うしか思い至らなかった。生憎、山行の直前に台風が襲来し、少なからぬ被害が出た。中央線が不通になり、なんとか列車が動いていた飯田線を利用して長野に向かった。飯田線を全線乗った人は少ないと思うが、とにかく長い。距離的には短いのだが、スピード...山を彫る(8)八島湿原

  • 山を彫る(7)鳥海山々頂への道

    ようやくたどり着いた御室小屋の脇、建物を風雨から護る石垣の傍らにザックを置き、これから山頂を往復する。岩場では、ストックは邪魔になるから持たないようにと指示があった。杖に頼ることが多くなっている私には不満だったが、言葉に従うことにした。トップを行くThさんは、奥さんの出身が山形県温海町であるということもあって、何回も登っていると聞いていた。足場が悪いので自信の無い人は見合わせるようにとの呼びかけがありAkさんが手を挙げ待機を宣言する。いよいよ山頂を目指して出発。直ぐに、大きな岩塊をへばりついて上り始めたところでMtさんがリタイヤ。道はますます険しくなっていく。Thさんは、当時小学生だったお子様を連れて登ったとも言っていたが、この道については何も語っていない。子供でも登れるんだからと、油断していた部分もある...山を彫る(7)鳥海山々頂への道

  • 山を彫る(6)房小山

    会報150記念号アンケートに、好きな山を挙げよという項目があった。迷わず「房小山」と書いた。好きな理由はいくつかあるが、まず、佇まいが良いことを挙げたい。鋸岳直下、樹間から眺めて良し、いくつかの沢を隔てて、静かに座っているところが好ましい。帰りのことを考えるとかいだるいが、急降下してガレの頭を過ぎてから北上する稜線が良い。笹原の中を緩やかに上下する道は、私の最も好む雰囲気である。この稜線には白やしおがたくさんあり、花の当り年にここを通れば顔が火照る程であろう。Saさん(千頭山の会)によれば、私の太腿くらいの木でも樹齢300年は経っていようという代物が並んでいる。一旦、巻き道に入った辺りは、眺めもなく、時々急坂が現れるので気分的にも体力的にもきついが、我慢、我慢。そこを抜ければ笹原が山頂まで続く超明るい道が...山を彫る(6)房小山

  • 山を彫る(5)穂高連峰

    昔、5月のザイテングラードで怖い思いをしているので、ゴールデンウィークに蝶ヶ岳登山を誘われた時は、正直躊躇した。登山コースについて聞いたり調べたりする間に、登山道の大部分が樹林帯の中を行くことが判り、若干気が楽になり連れて行ってもらう決心がついた。1日目は横尾山荘へ入るだけ、3日目は徳沢園から帰るだけとういう余裕のある日程も歳をくった私にはありがたい。ゴールデンウィークの最中にもかかわらず車は順調に進んだが、さすがに沢渡の大駐車場は満タンで入れない。係りの案内に従い、少し奥の私設駐車場になんとか納まった。シャトルバスに乗り換え発車すると間もなく釜トンネルを通過する。拡張、舗装され昔の面影はまったく無くビックリ。いかに上高地方面にご無沙汰したかを思い知らされた。14:25横尾山荘着。早々に宴会になり明日の登...山を彫る(5)穂高連峰

  • 安田の大椎

    かねてから気になっていた粟ヶ岳北東中腹の安田(あんだ)にある巨樹を訪ねてみた。ムラの小さな神仏たちをその懐に抱えて悠然と立つ。静岡県島田市金谷安田の大椎と呼ばれるスダジイの巨樹である。この木は、ムラのなかに張り出した土手状の小丘の上にあり、根まわり18.5メートル、樹高27メートル、枝張り東西26メートル、南北23メートルで、樹齢は1000年と推定され、静岡県の天然記念物に指定されている。木の南根方には瓦葺きの小祠があり、なかに山の神と秋葉社の木祠が納められている。本来、この椎の木が山の神の座であったことをうかがわせる。椎の根もとには、このほか西側に庚申塔・北側に稲荷社も祭られており、この椎の傘下にムラの神々が集まっていると言える。ムラ中の、椎の枝に蔽われた小丘は安田の聖地なのである。八俣の大蛇(やまたの...安田の大椎

  • 山を彫る(4)かもしかの遊歩道

    今回の画は、SHC創立10周年記念展示会に出品したので、多くの方が目にされていると思う。けれども、画の中に仕込んだ2、3のいたずらに気がついた方は意外に少なかった。10/16バスは紅葉がボチボチ始まった甲斐路を走り信濃路へ。野辺山を経て川上村に入った。回りはレタス畑で埋め尽くされ、収穫の順番を待っていた。畑を突っ切った山裾に今日の宿「岩根山荘」がある。一旦、部屋に荷物を置き、もう一度準備をし直して散策に向かった。ここ金峰山の麓、廻り目平は花崗岩が所々に露出していて、変化に富んだ道が多くある。まず屋根岩に向かう。最初は苦も無く高度を稼ぐが上るにしたがって、梯子や岩の狭間を通るヤバイ所が増えてくる。屋根岩の上に立つには、チョッとした勇気が要る。飛び越えるには広過ぎるし、歩いて渡ろうとすると花崗岩が風化して細か...山を彫る(4)かもしかの遊歩道

  • 南アルプス写真選抜

    今夏「赤石小屋便り」としてLINEに送られてきたkimiさんの写真から、11月10〜15日に開催される「第7回南アルプス写真展」に出展する写真を皆で選んだ。小屋開け準備中(布団干し)小屋開け準備中(出番を待つ食器たち)月と山小屋初めての小河内岳から夕暮れの赤石お近くの方は足を運んでご覧ください。第7回南アルプス写真展[静岡市葵区]|アットエス南アルプスの雄大な写真を多数展示する!!4団体会員がご案内致します@S[アットエス]南アルプス写真選抜

  • 山を彫る(3)縞枯山荘

    北八へ行くなら高見石に限るという思い込みがあった。山の師匠のひとり、Mさんに連れられて冬の北八へ入って以来、ここの雰囲気が気に入り度々訪れた。単独だったり、二人だったり、夏には息子と行ったこともある。雰囲気が良いこともさることながら、アプローチが短い点が良かった。バスの終点渋ノ湯から1時間40分で高見石小屋に届く。賽の河原で吹かれたこともあるが、細竹に巻かれた赤布を頼りに行けば、なんとか小屋にたどり着く。ずーっと、そう思い込んでいたのだが、'00年頃から状況が変わった。バスをチャーターすれば、八ヶ岳や北八の一部は、日帰りが可能で魅力あるコースが沢山あることが判ってきて、SHCの目的地として採り上げられるようになった。'00年編笠山、'02年麦草峠周辺、間を縫ってグループ山行も多くある。そして集大成は'03...山を彫る(3)縞枯山荘

  • 山を彫る(2)仙丈ヶ岳

    「よねの小屋」っていうのがあるんだけど、ご存知ですかねぇ。色々な局面でお世話になっている米沢正信さんがセルフビルドした小屋です。請われて、この小屋に仙丈ヶ岳の画を寄贈した。今回は「仙丈ヶ岳」について書いてみようと思う。'03年ゴールデンウィークの仙丈ヶ岳登山は、忘れられない山行です。初めての仙丈は、やさしく迎えてくれた。標高が高いし、5月とは言え積雪がかなりあることが予想されたので、とても不安であった。幸いアタック当日は、これ以上は望めない好天になり快適な登りが始まった。しかし3合目からの上りは、半端ではない。アイゼンは着けなかったので足元は軽いはずだが、きつい登りに皆押し黙って歩を進めた。それだけに、大滝の頭に達した時の開放感は格別である。そこは森林限界でもあり、南アルプス北部の主要な峰は丸見えだ。一転...山を彫る(2)仙丈ヶ岳

  • 山を彫る(1)八ヶ岳連峰

    この画は事務局の玄関に掲げてくれてあるので、T宅を訪問された方は目にされていると思う。’04/3グループで蓼科山に登った。好天に恵まれ女神茶屋からの上りは胸が躍る。ひと登りして落葉松の林を抜けるとブァーっと視界が開ける。八ヶ岳が堂々と連なり底抜けに明るい。慌ててシャッターを押した。頂上を極め、同じ道を戻ったので、朝の地点で休憩をとった時を利用して、午後の八ヶ岳も収めておいた。ここからの写真数枚を元に原画を起こした。高い山はより高く、誇張して描くように教えられているので、自分として許せる範囲で赤岳を盛り上げた。問題は前景である。その場所にもモミだったか落葉松だったか針葉樹があり、それを手前に置けば安定するかもしれないと思えたが、この構図は以前試しているので止めた(この画については、後日描く)。ふと、以前そば...山を彫る(1)八ヶ岳連峰

  • 小笠山ハイキング

    エコパでは、中学生の駅伝大会が行われていた6日、所属会で毎月実施される「おはようハイキング」に参加。午前中には終了するコンパクトさが良い。今回のコースは、エコパ〜法多山奥の院〜三ツ峰〜腹擦峠〜展望台〜富士見台霊園と小笠山山稜北側の稜線を歩く。法多山奥之院ここは硬軟の積み重なった地層の侵食の差によって、北面が切れ落ちた崖状、南面が緩斜面と非対称の丘陵となっていて、そういう地形を「ケスタ地形」というのだそうだ。崖縁のヤセ尾根という同じような風景が続く。腹摺峠の不動明王像と石碑腹摺峠は掛川と横須賀とを結ぶ道の峠で、馬の横腹を摺るほどに狭いことから名付けられたというが、峠越えのその道はすっかり荒れている。傍らに「納經・・」(下は削れて不明)と彫られた石碑と不動明王の石仏が佇む。尾根西端の法多山尊永寺は、725年、...小笠山ハイキング

  • 「北斎の富嶽三十六景」を巡って

    富嶽三十六景・尾州不二見原山座同定の楽しみ1月10日の夜、晩酌をやっていると突然、I氏より電話があった。ほろ酔いの頭で聞いた話は「NHK日曜美術館で、北斎『尾州不二見原』(富嶽三十六景)に描かれている富士は、実は聖岳を見誤ったのではないかということだ。ついては、東からもこのように聖が尖って見え、お前と会話を交わした記憶があるが、それはどこの山だったか」というものだった。我が地から見る聖岳は、前聖と奧聖が吊り尾根を成し、どっしりとした屋根型の特徴で比較的すぐにそれと判る。これが西側の伊那辺りから望むと、形がずいぶんと違って見え驚いた覚えがある。だが東側からとなると、すぐには思い浮かばなかった。翌日、次のようなメールが交わされた。〔I〕昨夜は、おかしな電話にお相手いただきありがとうございました。ご厄介かけつい...「北斎の富嶽三十六景」を巡って

  • 事始めとなった八ヶ岳

    西天狗岳より東天狗岳を望む2024年9月28日/唐沢鉱泉〜西天狗岳9月の会定例山行は、望月少年自然の家に宿泊し初秋の北八ヶ岳を楽しむ。天気は当初の雨天予報が良い方向に転び、曇空ながら一日もちそうな気配、却って陽射しがないのは暑さの点では好都合だった。周回のAコースパーティーに続き、予定の8時に唐沢鉱泉を出発。唐沢に架かる橋を渡り天狗岳西尾根に取り付く。シラビソ樹林の下に苔むした石がゴロゴロとした、いかにも北八ツらしい雰囲気の道をゆっくりと登っていくと、1時間程で尾根に出た。ここは枯尾ノ峰との分岐となっているが、訪れる人は少ないのか「荒れている」との注意標識があった。小休止の後、尾根上の道を登っていく。さらに1時間程で2416メートルの第一展望台に出たが、残念ながらガスが掛かり、楽しみにしていた八ヶ岳連峰稜...事始めとなった八ヶ岳

  • 童子沢と野守のこと

    童子(わっぱ)沢8月のおはようハイクは大代の童子[わっぱ]沢で、報告や写真、また後日頂いた「沢歩きは子供が小さい頃やったので懐かしかった。童心に帰った気持ちになった。斜面を登ったり下ったりは急で、ちょっとスリルがあったりして楽しめた。」というH・Mさんの感想などから、楽しい様子が伝わってきた。同時にI・Kさんの「童子沢には鉱泉が湧出し、それを沸かして湯治ができる宿があった」という一文には驚いた。野守の池大代という地区は、旧五和村の中で最も歴史があると謂われている。牛尾山西側の旧五和村の大方は「天正の瀬替え」(1590)以前は大井川の流路下にあって、その後開墾された比較的新しい土地なのである。瀬替え以前は上志戸呂辺りが大代川と大井川の合流地点で、ここで大井川は平野部に出ていったのだし、また大井川の渡り場とな...童子沢と野守のこと

  • 小夜の中山散歩

    23日は雨が止んで、少しだけ涼しくなったので、Ryo&Chiと一緒に小夜の中山の旧東海道を散歩。広重・東海道五十三次の山(10)の景を確かめる。広重・五十三次の山(10)-山の雑記帳久延寺(きゅうえんじ)境内に祀られる「夜泣石」だが、実物(?)は明治14年に東京の内国勧業博覧会に出品され、その後、国道1号線沿いの小泉屋脇に移された。ここの石は意外と小さい。境内のスダジイ、幹は大きなムロとなっている。すぐ近くの浮世絵美術館「夢灯(ゆめあかり)」へ、当地所縁の浮世絵を鑑賞する。館長の話では、広重・東海道五十三次「日坂」に描かれている山は、保栄堂版(本記事頭の画)、隷書版(パンフ右上)、行書版(パンフ左下)いずれも粟ヶ岳とのことだが・・・北側のテラスでコーヒーを戴きながら山を眺める。左・粟ヶ岳(「茶」の字が分か...小夜の中山散歩

  • 広重・五十三次の山(12)

    舞坂・今切真景江戸より30番目の宿東海道もいよいよ浜名湖、舞阪へと到達した。湖岸入江の岩山は完全に構図上の産物であろうが、背後の青い山並は秋葉山から竜頭山にかけての稜線であろうか。遠くに見える白い富士の山影は、広重・東海道五十三次において、以西では見ることはできない。静岡に住む我々は、山に登ればまず富士の姿を探す。富士山はまさに山の代名詞であり、眺望が良いとはこれが見えるかどうかと同義であるような感さえある。ところで実際、富士山はどこまで見えるのだろうか。証拠写真のある最遠の地は和歌山県の大雲取山で、その距離320km、計算上の北限は福島県花塚山の308kmだそうだ。現在は、カシミールなどパソコンソフトを使って富士山が見えるはずの地点をシュミレーションし、あしげく通って確認する人達もいるそうだ。これも山座...広重・五十三次の山(12)

  • 広重・五十三次の山(11)

    掛川・秋葉山遠望江戸より26番目の宿実のところ、私は北遠の山をよく知らない。生活でも仕事でも、日坂を越えて西へ行くことはあまりない。山でいえば、SHC発足最初の定例山行であった竜頭山、県スポ祭と昨年の国体観戦のついでの常光寺山、黒法師敗退の折り通過した前黒法師山、麻布山と片手で数える位しか行っていない。従って、掛川の東海道筋から秋葉山がどの程度眺望されるのか、とんと見当がつかないのだ。(というより、あれが秋葉山であると同定することさえできない)秋葉山は大井川右岸尾根バラ谷山から分岐し、山住峠、竜頭山を通り天竜川に沿って南下する尾根の末端に位置する。秋葉三尺坊大権現は火伏の神として有名で、秋葉山信仰は全国に伝播している。殊に度重なる大火を被った江戸町民には、その信仰は厚かったらしく、江戸末期の画人谷文晁[た...広重・五十三次の山(11)

  • 広重・五十三次の山(10)

    日坂・佐夜ノ中山江戸より25番目の宿小夜の中山は、箱根、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所の一つであったらしい。「年たけて、またこゆべしと思ひけや命なりけり小夜の中山」の西行の歌をはじめ、多くの旅行記などにその名が記されていることからも、旅人にとって印象深い場所だったことがわかる。小夜の中山とくれば夜泣石で、現在は近くの久延寺に祀られているこの石が、画ではごろんと道の真ん中に転がっていて、旅人の「……?」の雰囲気が面白い。背景の山は、左の切れているのが粟ヶ岳[あわんたけ]、その向こうは経塚山だろうか。先に書いたように、我が志太平野(大井川下流域)の東の境が宇津ノ谷峠であり、そのランドマークが高草山とすれば、西のそれは日坂峠と粟ヶ岳ではないだろうか。我が家の前に出るとちょうど西の先に粟ヶ岳が見える(ちなみに東の...広重・五十三次の山(10)

  • 広重・五十三次の山(9)

    金谷・大井川遠岸江戸より24番目の宿さて、広重はいよいよ遠州に足を踏み入れ、大井川の渡し金谷側の高みから我が島田の山を眺望する。前回の岡部宿から一気に金谷宿に飛ぶのは、藤枝、島田の両宿では背景に山が描かれていないからにすぎない。ちなみに、藤枝宿では伝馬の様子、島田宿では川越しの様子が前面に描かれている。この連載のきっかけとなった「岳人」(669号)掲載の玉置哲浩氏『広重・東海道五十三次の山その3』では「金谷宿の大井川の対岸の山、舞阪宿の浜名湖岸の岩山は実景では存在しない」と書かれているのだが、地元の我々にとっては背景となっているこの山は一目瞭然である。言わずと知れた千葉山であろう。左の大井川岸から緩やかに上がっていく主尾根は、赤松から柏原、どうだん原、そして山頂へと続くものだ、よく見れば、矢倉山らしきもの...広重・五十三次の山(9)

  • 南アルプスから(9)

    南アルプスから今夏最後のたよりがあった***ホントに今夏は一日中スッキリ晴れた日が無くて、昼休憩の散歩、日の出、星空等楽しめなかったのは残念でした。それでも最後の朝は頑張って歩いて来ました…赤石岳荒川・悪沢岳聖岳雨がっ続いていた時は、気温が10℃以下の時もあって…山も紅葉が進んできました赤石岳南アルプスから(9)

  • 広重・五十三次の山(8)

    岡部・宇津之山江戸より21番目の宿駿府を立ち西へ向かうと、最初に越える峠が宇津ノ谷峠(宇津ノ山)だ。この道は、豊臣秀吉の時代辺りから使われ始めた江戸期東海道であるが、その東の谷には在原業平の「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にもあはぬなりけり」の歌で有名な蔦の細道、さらに下れば焼津の花沢の里へ抜ける日本坂峠には古代東海道が通っていたから、峠越えの道は時代と共に随分と変遷してきたのだ。宇津ノ谷峠に現存する明治、昭和、平成の三つのトンネルは有名で、近代以降もルートを変えながら大動脈東海道の増え続ける需要に対応してきた。この山域は藤枝の最北端清笹峠から発し、大崩海岸で駿河湾に没する、いわば安倍川水系と大井川水系とを分けている山並である。静岡で大雨でもこちら側は大したことはないなど、標高500メートルにも満...広重・五十三次の山(8)

  • 広重・五十三次の山(7)

    鞠子/丸子・名物茶店江戸より20番目の宿梅わかな丸子の宿のとろろ汁芭蕉今や全国的に有名になり、県外からも団体バスで食しにくる丁字屋のかつての姿。近くには島田出身の連歌師・宗長ゆかりの吐月峰柴屋寺があり、丸子富士を借景とした庭園で有名だから、背後の端正な山もそれと思われる。日本国中に○○富士と名の付く山は数多くあるが、本家本元の富士山がドンと見える静岡では少ないのではないか。私が知っているのはこの丸子富士だけだが、他にもあるのだろうか?(2003年9月記)***【2024年9月追記】広重・東海道五十三次に描かれている山は、その場所で著名な山を嵌め込むのではなく、どうも実景に忠実に配しているようだ。この「名物茶店」のモデルとされる丁字屋は現在、丸子橋の東袂の丁字路に南を向いて建っている。広重の画もその通りだと...広重・五十三次の山(7)

  • 南アルプスから(8)

    台風10号もやっと熱帯低気圧になって、島田でも青空が見られるようになった当初の予報から大きく進路や状況が変わって1週間余も影響を及ぼした台風だったが、接近前先週の奥山からのたより***8/26今の小屋からです静かです!今日の宿泊者(0)です昨日は(6)でした赤石岳荒川・悪沢岳聖岳8/27下界はいかがですか?こちらは通過者、宿泊者(0)でひっそりしています8/28今朝、小屋前から現在、小屋前から聖岳の奥に上河内岳も見えます!雨は一日降っていましたが、シルエットははっきり見えてました南アルプスから(8)

  • 広重・五十三次の山(6)

    府中・安倍川江戸より19番目の宿安倍川の渡しであるが、背後の山は何だろうか?前面が賤機山、それに続く背後の高い山が竜爪山と見るのが常識的か?しかし、そうすると川の流れが何か不自然。どうも藁科川と合流する流れのように見えるのだ。手越・現安倍川橋辺りから北北西の方角に牛ガ峰(高山)があるが、この線も濃厚ではないか。牛ガ峰はカヤトの広い山頂で安倍奥の好展望台。ちなみに、高山・大山などの名は全国に多いが、里から見上げられる高いピークに付けられていることが多い。(2003年8月記)***【2024年8月追記】府中から安倍川を渡った(現・安倍川橋付近)先の手越の西側に、古東海道といわれる「手児の呼坂[てごのよびさか]」があり、小さな峠道となっている。峠の北側に尾根を進むと中腹に今川家所縁の徳願寺があって、さらに尾根を...広重・五十三次の山(6)

  • 広重・五十三次の山(5)

    江尻・三保遠望江戸より18番目の宿江尻は今の清水だが、静岡県の一番薄くなった部分に位置している。駿河、遠江内の東海道から北へ抜ける数少ないルートの起点の一つであり、現在では興津から国道52号線が貫かれている。この道は我々の山行においては、山梨南部の山はもちろん、南北アルプス、八ヶ岳などへ行く折に随分と利用していて、沿線の風景も馴染みのものとなった。いわば我らの山街道でもある。江尻は駿府の手前にあって、海上交通と東西ルート、南北ルートのジャンクションという、絶好のポジションにあることが分かる。湾の向うの山並は愛鷹山塊か、現代では富士の煙突群も望められるだろう。清水とくれば今はサッカーでの知名度が高いが、それ以前は何といっても海道一の大親分次郎長だろう。次郎長一家にとっても、東海道の港湾江尻と山国甲州を結ぶこ...広重・五十三次の山(5)

  • 広重・五十三次の山(4)

    由井・薩埵嶺江戸より16番目の宿薩埵[さった]峠から見る富士山の姿は今も画になる。NHK「私の富士山」でもお馴染みの撮影ポイントである。車や電車で東進するとき、由比にさしかかると立派な富士の姿がドンと現れいつも見入ってしまう。海には桜エビ漁だろうか、広重の画のごとく帆を張った漁船が浮かんでいることがある。由比には広重美術館があるが、実景に最も近いのがこの画らしい。薩埵峠は、東海道の難所であり要所でもある。現在は旧道にバイパス、東名、それに東海道線が並んで眼下を通っているが、かつて旧街道は上道・中道・下道の三つに分かれ、断崖下のルートが「親不知子不知」と呼ばれていたのは、北陸道のそれと同様だ。SHCがまだ準備会の頃、但沼から浜石岳を経て薩埵峠まで歩いた。農作業のおばさんが蜜柑を放ってくれた。長い歩きで疲れた...広重・五十三次の山(4)

  • 広重・五十三次の山(3)

    蒲原・夜之雪江戸より15番目の宿温暖の地、駿河の国でも、かつてはこれほどの雪が降ることがあったのだ。どれほど歩いてきたのか、蓑や笠に積もった雪が重そうである。茅[かや]や菅[すげ]などで作られたこの昔の雨具は、防水性と共に通気性もあるなかなかの優れものであったらしい。背後のドームのような山は大丸山だろう。広いカヤトの山頂で、東の金丸山にかけての一帯は、富士川沿いの整備されたハイキングコースになっている。(2003年5月記)新蒲原駅西に建つ蒲原夜之雪記念碑【2024年8月追記】『文化遺産オンライン』の解説によると「深々と雪が降る寒村の夜の情景を描いた広重。画面に漂うその静寂さはシリーズの中でも突出した傑作といわれる。現実の蒲原にはこのような豪雪がみることはできず、広重の創作した心象の風景ではないかといわれて...広重・五十三次の山(3)

  • 広重・五十三次の山(2)

    吉原・左富士江戸より14番目の宿前宿の「原・朝之富士」が、ドンと枠からはみ出すほど大きく描かれているのに対し、これはまた小さく遥か彼方という感じである。この辺が変幻自在の対象への距離感で面白い。しかし、手前に描かれている馬上の篭に乗った三人は子供のように見えるが、真ん中の人物の視点はしっかりと富士山を捉えている。さて、この一行は江戸へ下っているのか、京へ上っているのだろうか。「左富士」と題されているのは、本来ならば右手に見えるはずの富士が左に見えるからだと、そう解釈すれば西に向かっていることになる。西進していた街道が一時、北へ向かうような地点が、東海道の吉原宿辺りでどこになるのか私には不明だが、例えば川の流れが蛇行し南北逆だったり、太陽が海に沈んだりすると、方角の錯覚を起こしたりすることがある。おそらく初...広重・五十三次の山(2)

  • 広重・東海道五十三次の山(1)

    原・朝之富士江戸より13番目の宿玉置哲広(前略)そして、いよいよ天下の険「箱根」越えで、その後「富士」の裾野を通過していくが、この二山は有名すぎていうまでもなかろう。原宿の浮島ケ原からの富士や、吉原宿の左富士の景は実在する場所があり、「愛鷹山」や「宝永山」まで描かれているが、有名な箱根宿の景で描かれた美しい岩峰は、カルデラ内壁にいかにもありそうな地形だが実在しないようだ。広重のイメージ上の峰なのだろう。駿州路遠州路にかかると、全国的には無名であるが、古くからその名を知られたり、地元では親しまれているような特徴のある山々が続々と登場してくる。由井宿の「薩埵[さった]峠」は、海辺の絶壁から海越しに富士を眺める人々が描かれた印象的なものだが、五十三次中もっとも浮世絵に近い風景が見られる場所だ。旧街道はここで上道...広重・東海道五十三次の山(1)

  • 南アルプスから(7)

    ▼今期3回目のヘリ荷揚げ希望通りの場所に下ろしてもらえないと大物のドラム缶は移動が大変通りかかった消防の方に手伝っていただく▼スッキリした青空、朝はこんな景色が見られるが、午後はほぼガスっている赤石岳荒川・悪沢岳聖岳、奥の雲掛かるのは兎岳▼幻想的な夕方の景色赤石岳聖岳聖岳の上空に白い月が見える8/14の落雷で真っ二つに裂けた赤石岳山頂標識8/17遭難者の収容・搬送に向かう救助ヘリ遭難者の発見された砲台型休憩所南アルプスから(7)

  • チェーンソーマン

    末の息子が来て伸び放題だったケヤキを伐ってくれた。ついでに裏のザクロなどは根元から。チェーンソーで速い、速い!さすがチェーンソーマン有難う!年寄りは、枝片付けを手伝って朝から3時間くらい外にいたら、汗だくで疲れ果て熱中症寸前、ゆえに午後は昼寝。チェーンソーマン

  • 息子とのビバーク

    海の日連休中日の富士宮口五合目は、これから山頂を目指す人たち、下りてきた人たちで賑わっていた。息子と二人、そんな賑わいから外れ宝永火口へと向かう水平道を歩き出した。山頂ではなく、須山口登山道を水ヶ塚へ下るつもりなのだ。登りでなくとも、ダウン症の障害を持つ息子が凸凹の坂道を歩くのが苦手なことは充分承知しているから、標準コースタイム3時間に対して倍の6時間を見込んでいた。宝永第二火口縁に出ると、山頂には雲が掛かっているものの、青空に宝永山や火口の荒々しい壁が映え、普段の里山とは違う高山らしい雰囲気に、息子も満足そうに写真に収まった。第三火口のザレた斜面にやや手こずりながらも時間を掛けて下り、火口底の御殿庭上で弁当を食べた。ここまでは想定の範囲に収まっていたが、三合目・御殿庭中を過ぎた辺りから亀にも及ばぬ歩みと...息子とのビバーク

  • 大井川下流域での流路変遷

    コロナ禍によって半年近く休止していたSHCの活動は、9月のおはようハイクより再開される。その初弾は、3回シリーズで行われる「大津谷川・栃山川を駿河湾まで歩こう」(Kdo企画)のリバーサイドウォークだ。このコースは、だいぶ以前の会報で池田金苗さんの絵本『かわ』(かこさとし画・文)に寄せた一文の中で見たが、川を溯るのとは逆に、河口へと下ってみることにも様々な発見があることと思い、愉しみなことだ。栃山川水系歩くにあたり『やまびこ』276号(本年4月号)にSmaさんが寄せていた「栃山川って?」を読み返してみた。ここでは栃山川水系を構成する五河川の主に近代に入ってからの利水、治水のあらましが記されていて参考になった。この文に添付されていた栃山川水系の地図や、さらに詳しく地理院地図を眺めて感じることは、栃山川水系や瀬...大井川下流域での流路変遷

  • 慶長の仮東海道を歩く

    4月の「緊急事態宣言」以降の約2カ月間、家からの発着を基本に歩いていた。体(てい)の良い散歩である。幸いに家から5分も歩けば千葉山から派生する尾根の端っこに取り付くから、使える時間やその日の気分によって自在にコースは変えられ、飽きることはなかった。この間、近隣の里山でも結構な賑わいを見せていた所があったようだが、尾川丁仏参道をはじめ散歩中の山道で人と行き交うことは稀だった。お蔭で少し気になっていた所の納得も幾つかでき、また付随して地域の地誌的、歴史的な事柄への興味も満たすことができた。『やまびこ』277号で紹介した「慶長の仮東海道」もその一つだった。その内、大津野田前の長谷川代官所跡から東光寺村を抜ける「東光寺道」を歩こうかなと6月の例会で呟いたところ、5人の方々が当日の朝、偶然にも顔を見せて下さった。今...慶長の仮東海道を歩く

  • 慶長の仮東海道(1)

    本年1月の「おはようハイキング」で中央公園から矢倉山の道を歩いた。報告(『やまびこ』№274)で、江戸初期慶長9(1604)年の大井川氾濫により壊滅的な被害を受けた島田宿が、大津野田前(元島田)に移転し、同時に東海道も洪水後11年間、北側の山沿いを通る仮街道が設けられたことを記した。この「慶長の仮東海道」について、島田宿・金谷宿史跡保存会刊行の『東海道島田宿の歴史』(2016年・大塚淑夫)を拠り処として、もう少し詳しく紹介したい。「慶長九年秋七月大井川は未曾有の大洪水で沿岸の村落被害絶大と云う状態であった。先ず神座村の如き平地を流亡し、室谷、笹ヶ窪などこの水害に依って山裾まで流し浚われて終わった。向谷の堤防は根底から決潰されたので、本流は伊太口から旗指、野田の南端を浸し、又一筋は水神山鼻から分離して現在の...慶長の仮東海道(1)

  • 天狗岳西尾根

    立秋は過ぎても相変わらずの猛暑の最中、山の仲間二人と北八ヶ岳・唐沢鉱泉から天狗岳を周回してきました。山の日連休二日目のこの日は朝8時には唐沢鉱泉駐車場は満杯、600mも手前の林道路肩に駐車しました。久しぶりの八ヶ岳には大勢の登山者が登っていました。天気は晴れでも雲がかかりやすく眺望は今ひとつでしたが、休みの一日を元気に過ごせました。しゃくなげ橋を渡って西尾根登山道に入るワンピッチの上りで尾根に出た第二展望台から目指す西天狗岳を見上げる諏訪方面の展望巨石の積み重なった登山道を上っていく西天狗岳山頂に到着向かい側の東天狗岳山頂には大勢の登山者の姿東天狗岳山頂に到着稜線南側はガスに覆われがち稜線北側、蓼科山を望む岩がちの稜線を中山峠に向かう登ってきた東・西天狗岳の姿中山峠に到着黒百合平に到着苔むした滑りやすい道...天狗岳西尾根

  • 御塔処参りの道

    コロナ禍での帰省控えもあってのことなのか、いつもはごった返す盆の御塔処(おたっしょ)参り(墓参り)は、今夏(2020年)は静かなものだった。こうした盆の風習も、地域や宗派、寺によって異なっているようで、祖霊をお迎えに行くタイプとお送りするタイプがあるが、家(うち)のお寺さんは15日が恒例で、「ご先祖さんは家に帰っていてお墓は留守じゃないのか……?」と思えてしまう。以前、前の方丈(ほうじょう/住職)さんに伺ったら、「この寺は、元は街中にあったので檀家に商売屋が多く、盆休み明けにすぐ店ができるように一日前倒ししている」とのこと。七年前、老父が亡くなり墓所を旗指(はっさし)の法幢寺(ほうどうじ)とした。前住職が言うように、法幢寺は元々は本通一丁目北側の大村酒造の建つ場所にあって、現在地の旗指に移ったのは昭和50...御塔処参りの道

  • 南アルプスから(6)

    休みを利用して小河内岳まで縦走したようだ南アルプスの奥深い位置に立つ昔ながら高山裏小屋今夏からStarlinkの「山小屋Wi-Fi」が利用できるようになったのには時代の流れを感じる越えてきた荒川岳は大きい小河内岳からの富士山兜のような塩見岳蝙蝠岳から陽が昇る小河内岳は日本の3,000m峰が農鳥岳を除いて(塩見の陰)全て見える荒川岳に抱かれる荒川小屋今回歩いてきた縦走路荒川岳は大きい赤石岳では雷鳥の親子が南アルプスから(6)

  • 南アルプスから(5)

    21日に2回目のヘリが来ました今回は小屋前に荷物が降りましたが、風があったので屋根にぶつかるのでは!とびっくりしました水場の写真です写真では出てるか確認できないかもですけど…ちょろちょろ出ています古い登山地図には水場と記されてますが、今は立入禁止ですここを通ってタンクに溜めて小屋に揚げます今夏はタンクから溢れているので、現在では去年より心配無いかもです(7月初旬の雨が良かったのかも!?)KIMさんより、今回は山小屋のライフラインに関わる便りでした南アルプスから(5)

  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

    2007年11月20日講談社現代新書【見えない歴史】1965年まで、日本人はキツネに化かされていた。なぜか?かつては私たちの周りには“ヒトを化かす”たくさんの動物がいました。たとえばキツネ、タヌキ、ムジナ、イタチ……。そのような動物たちがヒトを化かすのは不思議でもなんでもなく、“普通の出来事”として語られていました。内山さんよると1965年頃を境にして日本の社会から「キツネにだまされたという話が発生しなくなった」そうです。なぜこのようなことが起きたのか、それはなにを意味しているのかを問いかけたのがこの本です。「なぜ一九六五年以降、人はキツネにだまされなくなったと思うか」と多くの人に訪ねたところいくつかの意見に集約されたそうです。1.高度成長期の人間の変化:経済が唯一の尺度となり非経済的なものに包まれて自分...日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

  • 森町 遠州山間地の道の交錯点

    森町に通じる県道以上の山間道路遠州森町というのは実は島田とは隣り合せの町だ。と言っても川根塩本から大日山の平松峠を越える県道が、太田川上流部(吉川)の大河内に抜けているのだから、平成の市町村合併を経て川根町が島田市となった後のことだ。それまでは間に金谷町、掛川市があって、東海道のルートからは北に外れていたから、私にとっては大日山や春埜山を訪れた以外は、もっぱら水窪など北遠の山々への往来で通過するだけの町だった。遠州森町は太田川の谷口にあって三方を山に囲まれた小さな町だが、遠江國一宮・小國神社をはじめとする多くの歴史ある寺社があり「遠州の小京都」と呼ばれる佇まいを今に残しているのは何故なのだろうか。それは平成の大合併の最中、周智郡中唯一の町制を守った気概の在り処とも通じているのだろうか。東海道(国一)のルー...森町遠州山間地の道の交錯点

  • 天方城跡

    15日、Chi、Ryoと一緒に車で森町・城ヶ平(天方城跡)へたかだか248mの端山だけど、よく整備された城跡をゆっくり巡れば、風に吹かれて少しは涼しいかな〜誰もいない櫓風の展望台は南西に開け、森町の市街、磐田原、遠くに浜松のアクトタワーが見える森町の城郭森町の山城(やまじろ)をめぐる戦いは1501年(文亀元年)の天方本城(あまがたほんじょう)(大鳥居)に始まる。城を守ったのは今川方の天方通季(みちすえ)軍、攻めたのは斯波(しば)・小笠原連合軍。通季は一時、城を奪われ、付近の山上に避難し、今川軍本隊の応援によってようやく城を奪還(だっかん)することができた。通季の孫にあたる通興(みちおき)は、徳川家康軍が遠江に侵攻してくることを予想して、1568年(永禄11年)ごろ、向天方に天方新城(しんじょう)(現在の天...天方城跡

  • 安倍奥と井川を結ぶ道

    井川峠安倍川と大井川の間には分水嶺として、南アルプス白峰南嶺から山伏を経て連なる山稜が横たわっていて、安倍と井川の集落とを結ぶには越えなければならない峠がいくつかあった。その内、2000年前後まで実際に使われていたのは、北から牛首(三尺峠)、井川峠、大日峠、富士見峠の四ルートである。牛首ルートは、井川最北集落の小河内に出る道で、西日影沢からの山伏周回ルートとして登山目的でも使われていたが、コンヤ沢トラバース部分の崩落で通行止めとなって久しい。井川峠は、安倍側の孫佐島や大代と井川の岩崎を結んでいる。岩崎は井川ダム建設前には大井川左岸の集落だったが、ダム建設による水没で対岸に移転した。ここに架かる井川大橋は、車の通れる吊橋として知られる。大日峠越えは、井川ダム建設以前、井川から静岡に出るための、また口坂本から...安倍奥と井川を結ぶ道

  • 南アルプスから(4)

    梅雨が明けて夏山シーズン本番へ富士山とハクサンシャクナゲ7/17(2564.4三等三角点「奥槙沢」より)夕暮れの赤石岳富士山、手前右に笊ヶ岳・布引山7/19(2701標高点辺り、赤い屋根の小屋も見える)聖岳方面荒川岳方面おまけ山小屋の夕食生姜焼きと具だくさんの味噌汁が売り南アルプスから(4)

  • 静岡の一等三角点

    一等三角点「坂部村」(坂部高根山)師走の「おはようハイク」は、坂部高根山に行った。担当の河野君お薦めの展望所からは、高草山の上に富士山が、また北には大井川筋の山々と申し分無い眺望だった。目的地の坂部高根山頂には白山神社の祠があり、藤枝蔵田の高根白山神社との関連も窺えて興味が湧くと共に、もう一つここには一等三角点(点名:坂部村)と、県内ではここだけという天測点(かつて三角測量の位置座標を補正するための天文測量に用いられた測量標、全国で48点)が埋設されている。現在は木立に囲まれ山頂からの展望は望めないが、この場所が地図測量において重要な地点だったと推測される。三角測量の原理は、三角形の2点間の長さと内角が分れば、もう1点の位置(残り2辺の長さ)が分るというものだが、ここで必要になるのは正確な2点間の距離(基...静岡の一等三角点

  • 南アルプスから(3)

    小屋開けを迎えたが生憎の天候が続く「昨日、今日(7/11)と風が強くて雨もありで…嵐みたいな時もあります」「夕方4時、小屋前気温11℃」「今朝(7/12)6時頃の小屋裏から」赤石岳聖岳荒川・悪沢岳方面裏の展望台への道ハクサンシャクナゲ2564.4m三等三角点『奥槙沢』、名なしではありません小屋裏の小ピーク2564.4m三等三角点「奥槙沢」の名前が出ましたので、南アルプス南部の三角点について少々。三伏峠から光岳までの南アルプス南部主稜線のピークで一等三角点は盟主・赤石岳(3120.5m「赤石岳」)だけで、範囲を南アルプス全域に拡げても甲斐駒ヶ岳(2965.5m「甲駒ケ嶽」)と二峰しかありません。二等三角点は南部主稜線では小河内岳(2802.0m「小河内」)と上河内岳(2803.4m「上河内岳」)。三等三角点...南アルプスから(3)

  • 井川への峠越え

    井川は静岡最北部の山村であり、大井川最上流部の南アルプスによって遮断された閉塞谷、つまり行き止まりの谷である。車道が整えられた今でこそ、大井川の平野部への出口となる島田から二時間程で行けるが、戦後も暫くまでは、峠の山道を越える以外にない文字どおりの離れ里だった。井川へ越える車道が入るのは1957年の井川ダム完成の後であり、1958年、富士見峠を越える大日林道(現・県道南アルプス公園線/県道60号)、大井川筋では1971年、林道閑蔵線の完成を待ってのことであった。また、大井川鉄道井川線の前身は、戦前より電源開発(ダム建設)のための軌道としてあったが、旅客営業を開始するのはやはり井川ダム完成後の1959年であった。こうした閉塞谷の秘境にあって、外へと通ずるルートは、主要には川に沿って縦に移動するものではなく、...井川への峠越え

  • 南アルプスから(2)

    知人からの南アルプス便り、小屋開け前の準備に忙しい絶好の布団(毛布)干し日和コーヒーブレイクやっと荷揚げのヘリが来る南アルプスから(2)

  • 井川に見る様々な「日本」

    一面に花が咲いたソバ畑=静岡市葵区小河内(2014年)9月22日付静岡新聞に〝焼き畑復活3年目静岡・井川の「在来ソバ」根付く〟という記事が掲載されていた。静岡市葵区井川地域で伝統の焼き畑農業を復活させ、在来ソバのブランド化を目指す取り組みが3年目を迎えた。ことしは近隣の民家を改装し、そば打ち体験など交流拠点としての活用も始まった。県外からの移住者も受入れ、集落に活気が生まれ始めている。として、2012年、井川小河内で約50年ぶりに焼き畑を実施し、井川地区の村起こしの一つとなりつつあることが紹介されていた。井川において焼畑が行われていたのは、遠い昔のことではない。戦後しばらく、場所によっては昭和50年代まで続けられ、山間(やまあい)の集落という地理的条件に即した農法であり、生活の基盤であった。井川の昭和28...井川に見る様々な「日本」

  • 続・山名の読み方

    先の会報に『山名の読み方』と題する小文を載せた。さっそくにA・Hさんが手紙の中で触れて下さり、また幾人かの会員からも反応があって気を良くした。今回は文末に記した「○○ノ頭」の頭について、無い頭(あたま)で考えてみた。A・Hさんは「私は頭(かしら)の呼び名が好きです。」と述べられ、また山の話をしていると、他の多くの人も[かしら]と呼んでいるようである。なるほど語感的には[かしら]の方が、すっきりと納まる気がする。ところで一般に使われている[あたま]と[かしら]の区別は、おおよそ以下のように思う。まず、体の部位としての区別は、[あたま]は頂点そのものであるのに対し、[かしら]は首(肩)から上の全てと範囲が広くなる。「おかしら付き」は顔のついた状態であり(魚に首や肩は無いが)、「かしら右!」の号令では首から上を...続・山名の読み方

  • 南アルプスから(1)

    奥山に入っている知人から山の便りが届く7/2聖岳と兎岳7/5三等三角点「奥槙沢」(2564.4)から朝の富士山南アルプスから(1)

  • 山名の読み方

    1997年・岩波新書山名、地名の読みというのは甚だ難しく、いつも苦労させられる。それは、こうした固有名詞には、それぞれの歴史的、地誌的な意味、つまりはそれぞれの地域の文化があって名付けられているからであり、また、長い時間の営為の中や、その土地土地の風土によって名前が変化(訛ったり、省略化されたり)してきている場合もある。さらに、後付けによって特殊な意味合いを付与されるなどということもあるので、一層複雑になってくる。そのような事情もあって、およそ当てられている漢字にのみ囚われていると、頓珍漢な方向に行ってしまったりすることもあるのだ。山名(地名)というのは、読みから辿らなければならないのである。逆に言えば、名前と、その変化してきた経緯(当てられた漢字を含めて)から、その土地の時間の流れ、風土などを垣間見るこ...山名の読み方

  • ランドマークとしての粟ヶ岳

    山頂下の「茶」の字で知られる粟ヶ岳我が家から外に出ると、ほぼ真西の方角に粟ヶ岳(あわんたけ)の「茶」の字を見ることができる。振り返って真東を見ると白岩寺山で、この両山と我が家は東西線上に並んでいることが分かる。もう少し広い地域のことを言うと、志太平野は東端の高草山と西端の粟ヶ岳の両ランドマークに挟まれた地域であり、この両山を目印に新旧の東海道が越えているのだ。高草山塊を越える古東海道の峠が「日本坂」であるのに対して、粟ヶ岳から牧之原台地へと続くこの山塊を西から越える道は「日坂」で、いずれ劣らぬ難所であったことが窺えるが、大井川と共に駿河・遠江の境として存在する粟ヶ岳の方が、より東西文化を分かつ面が強かったのではないかと思える。高草山塊が白峰南嶺から続く大井川左岸尾根の最末端であるのに対して、粟ヶ岳は赤石山...ランドマークとしての粟ヶ岳

  • 吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

    金谷牧の原鳥瞰図を眺めるコロナ禍の最中にあって、近隣歩きのネタを求めた『古地図で楽しむ駿河・遠江』(加藤理文編著・2018年風媒社)の冒頭に、吉田初三郎の鳥瞰図がいくつか掲げられていた。吉田初三郎という鳥瞰図絵師の名を聞いたのは、『やまびこ』245号(2017年9月)「地図は物語る」と題した鈴木雅春さんの巻頭エッセイで、その時、大いに興味を覚えた。――描かれている情報は、その場所に人を誘う目的でデェフォルメされており、ある物語を伝えてくれている感さえある。――全ての任意の地点が、どの方角からも同様に同等に、すなわち等距離に描かれる地形図とは全く逆に、鳥瞰図には主観的な視点(目的)が存在するから、図の中心にはその視線の先、すなわち目的の核心が描かれることになる。そこから眺められるストーリー性が面白いのである...吉田初三郎『金谷牧の原鳥瞰図』

  • 天地耕作 初源への道行き

    左/何やら巨大な鳥の巣のような(生?)右/枝を積み重ねた塚・墓のような(死?)2024年上半期で面白かったことのひとつ、2月12日、静岡県立美術館とその裏山で天地耕作(あまつちこうさく)を観た。観るというより民俗学的に体験したということか。24日には村上誠氏と赤坂憲雄氏との対談「円環が産まれ、壊れるとき」聴講にも再訪したのだった。天地耕作は旧引佐郡出身の村上誠、渡兄弟と山本裕司によって1980年代から2003年まで続けられた、同地域を主な舞台としたアート活動。その場の立木や斜面の傾斜、水の流れなどをそのまま取り入れた作品は、〝縄文〟のようなエネルギーに充ちていた。「彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマ...天地耕作初源への道行き

  • 野本寛一『大井川―その風土と文化―』

    歩き続ける人今までに何度か触れてきたことだが、私が山歩きへ誘(いざな)われたきっかけの一つに『大井川―その風土と文化―』(文・野本寛一/写真・八木洋行昭和54年7月26日・静岡新聞社)がある。――この本は、文を野本寛一先生、現近畿大学名誉教授で一昨年(平成27年)文化功労者顕彰を受けられた環境民俗学の大家ですが、やはりご出身は地元の相良で当時はまだ静岡の高校の先生だったと思います。南アルプスに発する大井川の遮断性、また流通性、そして野本先生の主要なテーマ「焼畑文化論」などが展開されていて、本を読んで私は大井川という私たちの郷土そのものの大河と、この上流には何があるのかということに大変興味を持ちました。言ってみれば私の山歩きへの関心と、大井川流域の山々という地元山域への拘りは、ここから始まったといっても過言...野本寛一『大井川―その風土と文化―』

  • アカクボ沢のトチノキ

    山住古道とアカクボ沢の栃巨木○期日:2003年12月10日(快晴)○コース:浜松市天竜区水窪町・山住河内浦(8:20〜40)…鳥居橋…〈山住古道〉…二合目(9:08)…六合目(9:50)…山住峠(10:25〜30)…常光神…1108三等三角点「山住峠」(10:42)…山住峠(10:56〜11:22)…山住神社(11:25〜40)…鳥居橋(12:37)…河内浦・山住家(12:42)…駐車地(12:52)=〈車移動〉=アカクボ沢下降点(13:05)…アカクボ沢栃巨木(13:17〜27)…アカクボ沢下降点(13:40)○メンバー:6名山住古道(山住神社旧参道)入口山住(やまずみ)古道は県道・水窪森線開通以前に歩かれていた参道で、河内浦(こうちうれ)と山住神社を結ぶ距離約2キロ・標高差約550メートルの山道が、水...アカクボ沢のトチノキ

  • 伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

    前記事の参考資料です。旧下田街道■旧天城街道を開削――板垣仙蔵(いたがき・せんぞう)豆州梨本村(現河津町梨本)に生まれた板垣仙蔵は、旧天城(下田)街道を開削した。生年は不詳。家は代々名主を務めた家柄で、屋号は新家[にいえ]と言う。名主当時(1810年前後)、田方郡と賀茂郡を隔てる天城連山は、昔から南北の交通を妨げてきた。江戸時代になると河津梨本の宗太郎から沢を登って中間業[ちゅうけんぎょう]峠を越え、湯ケ島の大川端へ下っていたらしい。仙蔵は新しい道を造ることを思い立ち、韮山代官・江川英毅(坦庵の父)に願い出た。韮山代官の許可は下りたが、補助金は一切出なかった。仙蔵が計画した新道は、宗太郎から中間業峠へ抜ける道よりもう一つ西側の沢に沿い、二本杉峠を越えて湯ケ島の大川端に通じるというものである。最短コースだが...伊豆・二本杉歩道(旧下田街道)

  • 伊豆・二本杉歩道の補修

    二本杉峠(旧天城峠)山の仲間がラインで「河津側の二本杉歩道は少しづつ整備されそうですね。」と情報を届けてくれた。こちらにリンク↓吉田松陰も通った古道“通行禁止の道”復活へ一歩【河津・二本杉歩道】(『テレしずWasabee』2024年6月15日)峠の名の由来となった二本杉歴史的な街道である旧下田街道を今に伝える二本杉峠の河津側は、大雨被害によって10年余に亘り「閉鎖」されたままであったが、歩道の復活に向けて地元の有志たちが登山道整備を始めたとのことだった。二本杉歩道の荒廃は河津側だけでなく、北側の伊豆市(湯ヶ島)側も同様で、先日の伊豆山稜線歩道山行の際にも感じられたことだった。「天城遊々の森(旧大川端野営場)」の上部にあたるが、歩道の管理者すらおらず勝手に手が付けられない状況のようで、こうした歩道の保全には...伊豆・二本杉歩道の補修

  • 花菖蒲

    いつもより大回りの散歩から長谷川家長屋門前の花菖蒲長谷川家長屋門(はせがわけながやもん)前の花畑では、季節毎の花が見られる。今は花菖蒲がみごとに咲いている。*長谷川家は、慶長元(1596)年頃から島田代官であった長谷川藤兵衛長盛の弟、三郎兵衛長通が先祖になります。長通は、兄の長谷川七左衛門長綱に随い相模国に赴き、代官職を務めた後、ここに居を移し、代々三郎兵衛を名乗り庄屋を務めました。この長屋門は、その庄屋宅の門で、棟札には「維時元治元龍舎甲子臘月吉日・野田村・大工棟梁・栄次郎」と記されており、元治元(1864)年に建てられたことが分ります。茅葺入母屋造り、間口5間半(約10メートル)、奥行2間(約3.6メートル)で、市内に唯一残る茅葺長屋門です。(島田市ホームページより)立石稲荷(たていしいなり)こちら側...花菖蒲

  • 高桑信一編『森と水の恵み』

    ――生を取り戻す舞台2005年8月発行・みすず書房みすず書房から今夏(*2005年)刊行されたシリーズ「達人の山旅2」と銘打たれた16篇からなるアンソロジー。編者の高桑信一氏は、元浦和浪漫山岳会の代表で、ベテランの山旅派(?)の沢屋。会報11月号の編集後記で「登山者が山麓の風景を見なくなった。」という氏の言葉を紹介したが、消えゆく山里の文化や失われた径などを記録し、活発に著述や発言をしている。私が「山」を見ようとする時、大きな示唆を得ている一人である。高桑氏は本書「編者あとがき」の中で、本書を編むにあたって心がけたのは登山者の視点を捨て去ることだった。そこには登山という行為を基軸としながら、自然との共存をわが事のように慈しむ生がある。(中略)登山という領域に終始しながらも、山は主体ではなく、日々を暮らす者...高桑信一編『森と水の恵み』

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、たこぼさんをフォローしませんか?

ハンドル名
たこぼさん
ブログタイトル
山の雑記帳
フォロー
山の雑記帳

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用