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2024/02/21

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  • 道の駅しもつま

    下妻食堂「陽陽」納豆工場が併設されていて、無料で工場見学が出来ます。ガラス越しの見学になるのですが、見学は月・水・金の午前中。朝7時から開店しているので、朝食を食べに来ました。もちろん納豆を食べるが目的で。納豆ともつ煮が名物なのかな。何気に、メニューも豊富です。福よ来いしもつま納豆・もつ煮定食朝からがっつり!ごはんは大盛、納豆もひとつで二人前はあります。もつ煮も付いて、とても贅沢な朝食です。生板納豆/秋山納豆組み合わせ8個セット【生板納豆各1個】【秋山カップ納豆6個】【1個=45gx3】茨城県稲敷郡は生板(まないた)という場所で、半世紀以上納豆作りを続けてきた秋山食品の集大成が「生...(有)秋山食品つくば納豆製造本舗つくば納豆天日干し国産大豆110g入り×1個[tk1]納豆製造で70年以上の歴史を持つ「...道の駅しもつま

  • 道の駅いちごの里よしみ

    「いちごカレーうどん」なるものを食しました~吉見いちごを使用しているとのことで、写真ではわかりずらいのですがいちごソースがかかっています。なので、カレーの中で、ほのかに甘酸っぱさを感じます。怖いもの見たさと、話題性を求めていちごカレーうどんを注文してみましたが、普通のカレーうどんもあり、皆さんそっちを注文されていたので、たぶんそっちの方が美味しいのかなと思ってしまった😅そして、もう一品は相棒に食べてもらったのですが、こちらは吉見町産のトマトを使用した「吉見トマトのミートソースうどん」です。おすすめ!とはあったのですが、お昼時で混んでいる中、周囲を見渡しても同じものを食べている人がおらずちょっと不安になる・・・・。少しもらって食べてみたけど、パスタ風というのは見たままの味だと思います。今回は、ちょっとチャレ...道の駅いちごの里よしみ

  • 道の駅たばやま

    道の駅たばやまTABAテラス「鹿ばぁーがー」と「鹿ゴロッケ」なるものを食してみました。鹿?と言われてもよくわかりません。牛・豚・鳥と言ったら違いはわかりやすいのですが、臭みもなく普通に美味しかったです。カレーも何種類かあったので、「ブタダモンカレー」を食してみました。独特な味で、もしかしたら好みが分かれるかもしれないですが、個人的にはとても気に入りました。リピートありです。他にもオリジナルカレーが数種類あったので、他の味も期待してしまいます。次回はぜひ、他の味を食してみたいです!そして、目の前には丹波山城!この日は、城巡りの予定では無かったので登城しませんでした。ちなみに、見えているお城はローラーすべり台だそうです。というか、史跡ではないようで・・・😓危うく騙される⁉とこでした💦でもまあ、カレーは食べに行...道の駅たばやま

  • 道の駅 箱根峠

    箱根峠を越えて静岡方面へ。そこでお昼に立ち寄ったのが道の駅箱根峠です。そこで、名物「箱根峠そば」と「峠の大きなかき揚げそば」を注文。えびもプリプリ、かき揚げもボリュームがあって美味しかったです。てんぷらとそばは申し分ありません。が、好みは人それぞれと思いますが、つゆがいまいち好みと合わず・・・。(好みは人それぞれで、あくまでも個人的感想です)こんな景色を見ながら休憩できる。翌日は雪のため箱根峠越えは断念して、高速道路を使って帰りました。活動ベースはこちら「城犬のおいど」をよろしく😊黒ラベル箱根駅伝缶ギフト計12本(350ml×10本500ml×2本)[Amazon.co.jp限定お歳暮ギフト]【原材料】:麦芽(外国製造又は国内製造(5%未満))、ホップサッポロビールせんべいラボ富士山七変化富士山せんべい(...道の駅箱根峠

  • 柿の葉寿司

    奈良県にある、道の駅レスティ唐古・鍵で購入した柿の葉寿司です。お昼ご飯をいただこうかと寄ってみたのですが、お昼時だったこともあってめちゃ混みでした。二階のレストランは行列が出来ていたのでここでの昼食は断念😣柿の葉寿司とパスタデポンというキャラメル菓子を購入して天下一品でこってりラーメンを食することに。奈良では決まって柿の葉寿司を買ってしまいます。魚の種類がひとつだけでないところが好きですね。今回も定番どころの鯖と鮭を購入して来たのですが、次は鯛や穴子や海老などのネタも食べてみたいです。また、冬場は「炙り柿の葉寿司」にすると美味しいらしい。柿の葉に包んだままオーブントースターで3~4分焼き、柿の葉の表面が少し焦げてきたら食べ頃だそうで、これもやってみたいですね。今回は既に食べてしまったのだ😅なので、次回まで...柿の葉寿司

  • 軍馬は軽キャン!

    「城犬のおいど号」納車!というわけで、岡山県にあるキャンピングカー専門店より乗り出し、車中泊をしながら、1日目は岡山城へ。先月撮影しそびれた箇所を撮影しに行きました。岡山城月見櫓のこちらのアングルを撮りそびれていたのが心残りだったので、立ち寄りました。江戸城、大坂城、二条城にも見られるというこちらの銃眼石。塀や建物の壁にある鉄砲狭間は普通に見られるのですが、石垣の部分に設けられているというのが特徴です。先月訪れた時も見たのに写真に納めてなかったのが心残りだったので撮影して参りました。こんなそんなで、岡山より私共のもとにお嫁に来たキャンピングカーでのお城巡りの旅が始まりました!今後とも「城犬のおいど」サイトとドローン映像を配信している「城犬のおいどチャンネル」を宜しくお願い致します。活動ベースはこちら「城犬...軍馬は軽キャン!

  • 伊豆国 白水城

    伊豆国白水城<ハクスイジョウ>別称長津呂城城郭種別城郭縄張り山城築城者御簾氏築城年1590廃城年不明主な城主御簾氏指定史跡なし/不明住所静岡県南伊豆町石廊崎[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要白水城は、伊豆半島の最南端である石廊崎方面鍋浦山の山上に築かれた城である。白水城の築城年代や城主など不明なことが多いが、近年発掘調査も進み新たに解明されることも多い城です。遺構は主に山頂付近の主郭部から西側を除く三方に残り、土塁や堀切、井戸跡が良好な状態で残され、見ることができます。攻城記録石廊崎駐車場有料駐車場ですが、こちらの受付方から白水城の情報資料を戴けました。たまに地元の方が整備されているようですが、時期が悪く今回は藪漕ぎ...伊豆国白水城

  • 武蔵国 花園城

    武蔵国花園城<ハナゾノジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り連郭式山城築城者藤田政行築城年平安時代廃城年1590主な城主藤田氏指定史跡なし/不明住所埼玉県寄居町末野[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要当城址は標高208m中世期の蓮格式縄張による丘陵城郭の典型的山城で築城は室町末15世紀後半と推定される詰の城である。往昔武州藤沢郡藤田郷領主の本城で別名を藤田城と言う。新花園城主の系譜は皇統常代敏達帝二代小野妹子13代横山義孝弟猪俣時資四代の孫にて武蔵七党中始祖藤田玉郎政行が平安末久壽二年初めて当郷を領有し、以来累世18代嫡流相続し戦国時代迄約400年間北武蔵に武威を振い在城す。関東管領山内上杉憲政旗下攻城記録諏訪神社竪堀石積み虎口腰郭堀切二の郭堀切4本郭...武蔵国花園城

  • 常陸国 逆井城

    常陸国逆井城<サカサイジョウ>別称逆井古城・飯沼城城郭種別城郭縄張り梯郭式平城築城者逆井常宗築城年享徳年間廃城年1590主な城主逆井氏、後北条氏指定史跡県指定住所茨城県坂東市逆井[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ-現存建造物なし復元建造物ありDID・航空管制対象外・対象外概要逆井城は、飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していました。飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなりましたが、およそ幅1km・南北30kmにわたり、その名残を残しています。今から約410年前の戦国時代に、この飯沼が小田原の北条氏と佐竹氏・結城氏・多賀氏らの領国の境目でした。進攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正5年(1577)10月、北条氏繋(玉縄城主...常陸国逆井城

  • 下総国 山川綾戸城

    下総国山川綾戸城<ヤマカワアヤトジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者山川氏重築城年1565頃廃城年1639主な城主山川氏指定史跡なし/不明住所茨城県結城市大字山川新宿[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要山川綾戸城は、結城氏の一族である山川氏重の居城として築城されたと伝わるが、天慶の乱の時に平将門が砦を構えたという説もある。城は平城で堀や土塁及び山川沼に囲まれていた。攻城記録土塁2024/10最終登城周辺地図※当サイトの地図は、主郭等の城の中心部にロケーションを置いておりますのでご注意ください。※城址等は、私有地になっている場合もありますので、有権者の確認を行うなどをし他の人の迷惑になるような行為はやめましょう。...下総国山川綾戸城

  • 常陸国 多賀谷城

    常陸国多賀谷城<タガヤジョウ>別称下妻城城郭種別城郭縄張り平城築城者多賀谷氏家築城年1461廃城年1610主な城主多賀谷氏、徳川氏指定史跡なし/不明住所茨城県下妻市本城町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象・対象外概要多賀谷氏は、初代氏家が現在の多賀谷城跡公園の一部に本丸を構え、隣国豪族を攻めて、その勢力下に置くほか、小田原北条氏政勢の再来を撃退するなど、7代にわたり147年間下妻城主として常陸地方に栄えていた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起き、7代重経は佐竹氏とともに西軍に心を寄せ、徳川家康の再三の誘いにも出陣しなかった。この戦いで家康に憎まれ、石田三成にくみした理由で、慶長6年2月、城主追放のとき奥方はじめ奥女中達は行く...常陸国多賀谷城

  • 常陸国 駒城

    常陸国駒城<コマジョウ>別称駒館・駒楯城城郭種別城郭縄張り平城築城者藤原実寛築城年南北朝時代廃城年不明主な城主藤原氏指定史跡県指定住所茨城県下妻市黒駒[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要ここは東西120メートル、南北180メートルにわたる駒城跡の北西部にあたります。駒城は駒館ともいわれ、およそ670年前ここに中御門少将藤原実寛が城主としてたてこもりました。その頃は北畠親房らが南朝に、足利尊氏らは北朝にそれぞれの天皇をいただいたて争い、たいへん乱れたので南北朝時代といわれています。親房らはこの地方に勢力をのばそうとして延元3年・歴応元年(1338)小田治久の小田城(つくば市小田)に拠りました。関城(筑西市関館)の関宗祐、...常陸国駒城

  • 武蔵国 騎西城

    武蔵国騎西城<キサイジョウ>別称私市城、根古屋城城郭種別城郭縄張り平城築城者不明築城年1455廃城年1632主な城主指定史跡なし/不明住所埼玉県加須市根古屋[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物模擬天守概要騎西(私市)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。永禄6年(1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落としている。徳川家康が関東に入った天正18年(1590)、松平康重が二万石で城主となる。康重は大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている。その後、大久保忠常・忠職父子が城主となり、玉敷神社を現在地に遷座するなど、城下町騎...武蔵国騎西城

  • 武蔵国 滝山城

    武蔵国滝山城<タキヤマジョウ>別称武蔵滝山城・武州瀧山城・瀧山城・横山城・竹山城城郭種別城郭縄張り連郭式山城築城者大石定重築城年1521廃城年1580主な城主大石氏、北条氏指定史跡国指定住所東京都八王子市[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ滝山城跡中の丸広場八王子市加住市民センター09:00~21:30道の駅八王子滝山08:00~19:00現存建造物なし復元建造物木橋概要滝山城は、多摩川と秋川の合流点の南側に広がる丘陵にあり、都立滝山自然公園の一部です。標高160mの公園の北側には田園風景や多摩川の経過を臨むことができます。戦国時代中期に建てられた滝山城は、川沿いの絶壁を利用した典型的な山城で、今も本丸、二の丸、千畳敷、空堀などの貴重な遺構を見ることができます。滝山城跡は、195...武蔵国滝山城

  • 伊豆国 網代城

    伊豆国網代城<アジロジョウ>別称城郭種別城郭縄張り平山城築城者聞間七郎太夫築城年南北朝時代廃城年不明主な城主聞間氏指定史跡なし/不明住所静岡県熱海市網代[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要網代城は肥後の菊池氏の一族である聞間七郎太夫によって築かれたと伝わる。天正17年(1589)に、安房の里見義頼が攻め寄せた際、城主・岡本善左エ門が攻撃を防いだ記録が残っているが、伝承であって事実かどうかは定かではない。城址は「朝日山公園」に位置し、眺めは良い遺構はわずかに石積を確認できるのみで、近くには江戸城の石伐丁場がみられる。麓にある「教安寺」の参道(少し下る)に城址碑がある。攻城記録教安寺鐘楼城址碑顕彰碑網代朝日山公園案内城址碑...伊豆国網代城

  • 加賀国 金沢城

    加賀国金沢城<カナザワジョウ>別称金沢御坊、尾山城、尾山御坊城郭種別城郭縄張り梯郭式平山城築城者佐久間盛政築城年1580廃城年1871主な城主佐久間氏、前田氏指定史跡国指定住所石川県金沢市丸の内[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ二の丸案内所08:00-17:00石川門入口案内所08:00-17:00現存建造物石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫復元建造物菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、河北門、橋爪門二の門、枡形二重塀、鼠多門、鼠多門橋DID・航空管制対象・対象外概要天文15年(1546)金沢御堂がこの地に置かれ、加賀の一向一揆を指導したが、天正8年(1580)に佐久間盛政が加賀北部を支配し、金沢城の造営をはじめた。その後、天正11年(1583)前田利家が金沢城主となり、本格的な近...加賀国金沢城

  • 加賀国 鳥越城

    加賀国鳥越城<トリゴエジョウ>別称別宮城城郭種別城郭縄張り連郭式山城築城者鈴木出羽守築城年1573廃城年1582主な城主山内衆指定史跡国指定住所石川県白山市三坂町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ鳥越一向一揆歴史館09:00-17:00(月定休)鳥越市民サービスセンター鳥越一向一揆歴史館休館日のみ現存建造物なし復元建造物模擬門DID・航空管制対象外・対象外概要当城跡は、通称城山と呼ばれる尾根筋の一角にあたる標高312mを測る山上部に位置する。眼下には、東に手取川、西に大日川を望む場所にある。本城の城主は、紀伊雑賀一揆の首領鈴木孫一重秀の一族である鈴木出羽守といわれている。鈴木出羽守は、本願寺から派遣された武将とされ、「信長公記」には加賀一向一揆が解体された天正8年(1580)1...加賀国鳥越城

  • 美濃国 郡上八幡城

    美濃国郡上八幡城<グジョウハチマンジョウ>別称積翠城、郡城、八幡城、虞城城郭種別城郭縄張り山城築城者遠藤盛数築城年1559廃城年1871主な城主遠藤氏、青山氏、稲葉氏、井上氏指定史跡県指定住所岐阜県郡上市八幡町小野[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ郡上八幡城1階09:00-17:00現存建造物なし復元建造物天守、隅櫓、正門、塀DID・航空管制対象外・対象外概要永禄2(15559)年、遠藤盛数が現在の城山に陣営を敷いたことが城の創建とされています。3代城主格稲葉貞通は天正16(1588)年に山頂を本丸とし天守台を設け、山腹の平地を居館とし、二之丸としました。明治4(1871)年の廃藩置県により郡上藩は廃藩し、翌年から石垣を残して城は順次取壊されました。城の石垣は、古くは天正期、慶...美濃国郡上八幡城

  • 加賀国 小松城

    加賀国小松城<コマツジョウ>別称芦城、小松の浮城城郭種別城郭縄張り梯郭式平城築城者若林長門築城年1576廃城年1872主な城主前田利常指定史跡なし/不明住所石川県小松市丸内町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物移築門復元建造物なしDID・航空管制対象・小松飛行場概要小松城は、かつて梯川が南に向かって大きく蛇行した地点に築かれています。戦国時代に一向一揆が構えた砦が始まりで、天正8年(1580)に織田信長の家臣村上頼勝が、慶長3年(1598)には丹羽長重が城主となっています。そして、慶長5年(1600)の関ケ原の戦い以後、前田家の城となりました。寛永16年(1639)、加賀前田家三代利常公は隠居の地を小松と決め、江戸幕府から特別に許可を得て、小松城の大改修を始めました。全...加賀国小松城

  • 常陸国 府中城

    常陸国府中城<フチュウジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者大掾詮国築城年1346廃城年不明主な城主大掾氏、佐竹氏、六郷氏、皆川氏、松平氏指定史跡市指定住所茨城県石岡市総社[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要府中城は、正平年間(1346~1370)大掾詮国により築造されたといわれる。天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領した。その後元禄13年(1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。城の規模は東西約500メートル、南北約400メートル、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、...常陸国府中城

  • 武蔵国 菅谷館

    武蔵国菅谷館<スガヤヤカタ>別称菅谷城、重忠館城郭種別居館縄張り輪郭式平城築城者畠山重忠築城年鎌倉時代廃城年主な城主畠山氏指定史跡国指定住所埼玉県嵐山町大字菅谷[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ埼玉県立嵐山史跡博物館展示室受付09:00-1700現存建造物なし復元建造物なし概要菅谷城跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享2年(1488)に内山上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、死者700人、馬は数百匹が倒れたと記され、この菅谷城付近で激...武蔵国菅谷館

  • 動画一覧

    加賀国鳥越城出羽国脇本城常盤国笠間城動画一覧

  • 出羽国 脇本城

    出羽国脇本城[ワキモトジョウ]別称生鼻城・太平城城郭構造平山城築城年不明廃城年1602年指定史跡国指定住所男鹿市脇本字脇本[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要天正5年(1577)下国安東愛季が大規模に修築し居城とした城として知られる。愛季はもと檜山城主であり、元亀元年(1570)秋田湊城を総合して、小鹿島をも直轄地とし、ひのもと(蝦夷)将軍として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館までふくむ。もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎脩季の伝承を伴っている。天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名秋田実季の代には本格的修築は許されなかった。近世には大平城跡・生鼻城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地...出羽国脇本城

  • 登録済み城郭標高Top10

    順位城郭名標高1甲斐御坂城(ミサカジョウ)1,570.1m2武蔵水根の城(ミズノネジョウ)1,524.1m3駿河徳山城(トクヤマジョウ)1,105.8m4甲斐源太ヶ城(ゲンタガジョウ)1,092.8m5駿河清水砦(シミズトリデ)1,082.0m6大和国見城(クニミジョウ)1,077.9m7甲斐本栖城(モトスジョウ)1,045.9m8甲斐御岳山城(ミタケジョウ)1,038.8m9甲斐中野城(ナカノジョウ)1,019.9m10甲斐山中氏館(ヤマナカシヤカタ)988.0m現在、データー整理が終了している城郭2,135城のTop10になります。これらの城郭を攻城する際は、細心の注意を払ったうえで攻城を行うようにしてください。登録済み城郭標高Top10

  • 武蔵国 鉢形城

    武蔵国鉢形城<ハチガタジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り連郭式平山城築城者長尾景春築城年1476廃城年1590主な城主長尾氏、上杉氏、北条氏指定史跡国指定住所埼玉県寄居町大字鉢形[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ鉢形城歴史館受付09:30-16:30駐車場正門歴史館休刊日のみ現存建造物なし復元建造物門、塀、木橋概要鉢形城は、荒川に臨んだ絶崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害をなしています。文明8年(1476年)に長尾景春が築城し、その後上杉家の持城として栄えました。室町末期に至り、上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が、北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から上野へかけての拠点としました。城跡は、西南旧折原村を大手口とし、東の旧...武蔵国鉢形城

  • 武蔵国 小山田城

    武蔵国小山田城<オヤマダジョウ>別称小山田要害、扇谷要害城郭種別城郭縄張り平山城築城者小山田有重築城年1171廃城年1590主な城主小山田氏、扇谷上杉氏、北条氏指定史跡なし/不明住所東京都町田市下小山田町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要桓武平氏の流れを汲む小山田別当有重承安元年(1171年)この地に城を築いて、小山田の庄を領した。源平争乱の時代に小山田一族は源頼朝の家人として活躍し、平氏滅亡のあと建久元年(1190年)頼朝初の京都入洛に際して有重の子三郎重成、四郎重朝、五郎行重は畠山重忠らとともに先陣の隋兵として従った。頼朝亡きあと北條時政の誹りを受け、元久2年(1202年)三郎重成、四郎重朝とその子等、将軍実朝に...武蔵国小山田城

  • 武蔵国 澁谷城

    武蔵国澁谷城<シブヤジョウ>別称金王丸城城郭種別城郭縄張り平山城築城者澁谷重家築城年平安時代廃城年1524主な城主澁谷氏指定史跡なし/不明住所東京都渋谷区渋谷[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要この辺り一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道(現八幡通り)、西に渋谷川が流れ、北東には黒鍬谷を有し、さらに数か所に湧水があるという好条件を備えていました。しかし、澁谷城は1524年に北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦い(現品川区高輪付近)のときに、澁谷氏が交戦中だった北条氏の別動隊により襲われ焼き払われてしまいました。金王八幡宮御嶽神社御嶽神社は、開運・商売繁昌の神として、特に客商売を営む人々の信仰を広く集めており、御本社は武州御嶽神...武蔵国澁谷城

  • 常陸国 小河城

    常陸国小河城<オガワジョウ>別称小川城、薗部城城郭種別城郭縄張り平山城築城者下河辺政平築城年建久年間廃城年不明主な城主小川氏、小田氏、薗部氏、佐竹氏、戸沢氏指定史跡なし/不明住所茨城県小美玉市小川[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要小河城は、園部川左岸に所在する標高20mの台地上に占地し、東西を園部川が開析した北西方向の谷津に面している。城の規模は南北250m、東西300mの範囲に及ぶと想定される。元和8年(1622)に廃城となった後には、水戸藩御殿、運送方役所および小川稽医館などに利用されてきたことにより、大部分が破壊され、消失している。特に城郭の中心である主郭部分は明治6年に小川小学校敷地となり、校庭拡張工事の際に一部が削平されたため、その痕跡...常陸国小河城

  • 常陸国 石岡城

    常陸国石岡城<イシオカジョウ>別称外城城郭種別城郭縄張り平山城築城者大掾資幹築城年1214廃城年1590主な城主大掾氏、石岡氏、札掛氏、田島氏指定史跡なし/不明住所茨城県石岡市貝地[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要健保2年(1214)常陸大掾を継承して、常陸国衙において政務をとっていた大掾資幹は、鎌倉幕府から府中の地頭職をあたえられ、この地に居館をかまえた。これが石岡城の起こりといわれる。その後、大掾氏の拠点として、城郭が整備され、「税所文書」には、南北朝動乱期の大掾高幹の居城として、「府中石岡城」の名前が書かれている。高幹の子詮国の代には、大掾氏は常陸国衙を拡張して府中城を築き、本拠をそこに移したため、石岡城は「外城」と呼ばれたという。近世後期...常陸国石岡城

  • 陸奥国 船岡城

    陸奥国船岡城<フナオカジョウ>別称芝田城・柴田城・船岡要害・四保館城郭構造山城築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所柴田郡柴田町船岡館山19[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要ここ船岡の地は、江戸時代の初め頃(慶長初期1600年頃)までは四保村とよばれ、領主四保氏の居館四保館のあったこの舘山も四保山であった。四保山は、奥州街道と白石川を挟むかたちで韮神山と対峙し、軍事上の要衝だった。この丘陵上に築かれた四保館は、沼や堀・川に峻険な地勢と相まって、天然の要塞というべき山城である。鎌倉時代に、この地域を治めた一族は、御家人小山氏の一族だったが、この地名を採り四保氏を名乗ったとされる。16世紀の初め、柴田家の祖四保但馬定朝がここに住み、二代宗義の時、四保姓を柴田に改めた。柴田氏は、文禄2年(1593)...陸奥国船岡城

  • 武蔵国 難波田城

    武蔵国難波田城<ナンバタジョウ>別称南畑城、難波田氏館城郭種別城郭縄張り平城築城者難波田高範築城年鎌倉時代廃城年1590主な城主難波田氏、上田氏指定史跡なし/不明住所埼玉県富士見市南畑[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活動していました。その一つの村山党の中心に、金子氏がいました。金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討ち死にしました。その恩賞として幕府から、高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。南北朝時代には、羽祢蔵合戦で高麗経澄の軍勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀が扇谷上杉氏の重臣として活躍しました。...武蔵国難波田城

  • 伊豆国 伊東館

    伊豆国伊東館<イトウヤカタ>別称城郭種別居館縄張り平山城築城者伊東祐親築城年平安時代廃城年不明主な城主伊東氏指定史跡なし/不明住所静岡県伊東市大原[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住み着いた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで、長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。この高台の一角にある物見等に、物見の松と伝承される老松があり、この場所は伊東家館跡と伝承されて来ました。現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が...伊豆国伊東館

  • 伊豆国 一色陣屋

    伊豆国一色陣屋<イッシキジンヤ>別称城郭種別陣屋縄張り平城築城者沼津藩築城年天保年間廃城年不明主な城主沼津藩指定史跡なし/不明住所静岡県下田市白浜[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要白浜板戸の一色の海岸沿いに天保年間(1830~44)に建てられたという沼津清水藩の陣屋があったと伝わる。弘化4年(1847)に作られた白浜村絵図には御役所・御屋鋪・兵粮蔵・武器蔵・焔硝蔵などが記され、常時7~8人の役人が詰めていたという。また、沼津清水藩は伊豆東海岸に飛地を賜り、四ヶ所の台場を構築している。攻城記録近所の小屋内に当時の井戸が残り、今も水が湧き出ているという。2024/8最終訪問周辺地図※当サイトの地図は、主郭等の城の中心部に...伊豆国一色陣屋

  • 伊豆国 丸山城

    伊豆国丸山城<マルヤマジョウ>別称城郭種別城郭縄張り海山城築城者富永三郎左衛門尉築城年1491廃城年1590主な城主富永氏指定史跡なし/不明住所静岡県伊豆市八木沢[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要丸山城の原型は、海岸に独立する丸山だけで完結した小さな海賊城であったと推定されているが、その築城年代は不詳である。室町時代中期、土肥高谷城主富永氏が西伊豆一帯に勢力を伸張するにおよび、丸山城も高谷城の支城となり、同氏の水軍基地の一つとなった。延徳3年(1491年)、富永氏は北条早雲に服属、以降北条水軍の中核的存在となって、駿河湾・相模湾・江戸湾を舞台に活躍した。天正年間にいたり、小田原の北条氏政は、対岸の敵である武田水軍に備...伊豆国丸山城

  • 伊豆国 下田城

    伊豆国下田城<シモダジョウ>別称鵜島城城郭種別城郭縄張り海城築城者北条氏築城年不明廃城年1590主な城主北条氏指定史跡なし/不明住所静岡県下田市[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象外・対象外概要天下統一を進める豊臣秀吉と小田原北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)北条方の水軍の拠点として下田城が取り立てられ、清水上野介康英が城将となった。海に落ちる断崖に囲まれた天然の要害を利用して築かれた海賊城である。天守跡と伝えられる城山の頂きから四方にのびる尾根の要所に曲輪が設けられ、延々と続く深い空堀の遺構は現在もよく残されている。天正17年(1589)12月から翌年にかけて籠城の準備が行われ、雲見の高橋氏、妻良の村田氏等の南伊豆...伊豆国下田城

  • 讃岐国 丸亀城

    讃岐国丸亀城[マルガメジョウ]別称亀山城・蓬莱城城郭構造輪郭式平山城築城年不明廃城年1871年指定史跡国指定住所丸亀市一番丁[MAP]スタンプ設置場所丸亀城天守内および資料館御城印販売場所概要丸亀城は、生駒氏が慶長2年(1597)から5年をかけて西讃岐の支配のため築城したが、一国一城令により廃城となった。その後、生駒氏の転封により讃岐は東西に二分され、西讃の拠点として山崎氏がその城跡に、寛永20年(1643)より築城を開始した。山崎氏絶家後は京極氏が入封し、明治維新を迎える。天守は全国で最小ながら現存する木造天守12城のひとつであり、大手門や御殿門も現存している点は貴重である。標高66mの自然の岩山である亀山を利用し、それを取り囲むように四方に3段の石垣を巡らせ、山下部から三の丸、二の丸、本丸へと登って行...讃岐国丸亀城

  • 武蔵国 高幡城

    武蔵国高幡城<タカハタジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り山城築城者平山氏築城年不明廃城年不明主な城主平山氏、高幡氏指定史跡なし/不明住所東京都日野市高幡[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象・対象外概要不動ヶ丘一帯に中世高幡城が築かれました。頂上の広場は本丸跡と伝えられています。麓には根小屋陣川戸等、城址ゆかりの地名が残っています。※現地看板より攻城記録高幡山金剛寺金剛寺(高幡不動尊)は、新選組副長の土方歳三の菩提寺で知られている。その裏山が高幡城跡と伝わる。五重塔水琴窟山門五部権現社大日堂お鼻井戸建武2年(1335年)8月4日夜の台風の為、不動堂が倒れた折、不動尊像が落ちて鼻をついた所と伝えられている。※現地看板より二の郭虎口二の郭...武蔵国高幡城

  • 武蔵国 関戸城

    武蔵国関戸城<セキドジョウ>別称天守台城郭種別城郭縄張り山城築城者不明築城年不明廃城年佐伯氏主な城主不明指定史跡なし/不明住所東京都多摩市桜ケ丘[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象・対象外概要桜ヶ丘1丁目の金毘羅宮(琴平社)付近を「天守台」などといい、一帯の山を「城山」ともいう。多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる絶勝の地であることから、鎌倉幕府以来の物見台的城塞として敵を察知したり、急変を狼煙などで知らせる通信拠点であったとも考えられる。一帯は関戸城跡とされているが、今はわずかにその一部を留めるのみで、山頂は削られ地形も変わっている。※現地標柱より攻城記録金毘羅宮(琴平社)文政年間に関戸の紺屋の井上林蔵が四国より勧請したものとされ...武蔵国関戸城

  • 武蔵国 瀬田城

    武蔵国瀬田城<セタジョウ>別称長崎館、瀬田砦城郭種別城郭縄張り丘城築城者長崎重光築城年天文年間廃城年1590主な城主長崎氏指定史跡なし/不明住所東京都世田谷区瀬田[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要行善寺の歴史は古く、その前身は1529年に芳蓮社印誉伝公上人をかいざんとして建てられた小庵であった。この地を拠点とする小田原北条氏の家臣の長崎氏は、その小庵へ小田原から長崎氏建立の堂栄寺を移して、西光院行善寺と改めた。行善寺が立地する台地からはいくつかの遺跡・遺構が見つかっている。2003年に行った発掘調査では、瀬田遺跡(弥生時代)の環濠と、長崎氏の拠点であった瀬田城(砦)のものと思われる段切遺構、掘立建物跡が確認されている。攻城記録Sublime(サブ...武蔵国瀬田城

  • 武蔵国 深沢城

    武蔵国深沢城<フカザワジョウ>別称兎々呂城、小谷岡城城郭種別城郭縄張り丘城築城者南条重長築城年1564廃城年1590主な城主南条氏指定史跡なし/不明住所東京都世田谷区中町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要深沢村の名主の谷岡氏の祖と伝わる南条右京重長は、永禄7年に下総国府台合戦で武功をあげ、北条氏康から兎々呂城を賜った。南条氏は深沢村の東端に掻き揚げの本城を築き、出丸には兎々呂城を置いた。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城を攻略されると、北条氏滅亡と共に重長は城を破壊し、平地にするとそのまま蟄居した。城の位置は都立園芸高校付近と伝わる。攻城記録都立園芸高校入口に石柱がある。2024/8最終訪問周辺地図※当サイトの地図は、主郭等の城の...武蔵国深沢城

  • 常陸国 土浦城

    常陸国土浦城<ツチウラジョウ>別称亀城城郭種別城郭縄張り輪郭式平城築城者若泉三郎築城年永享年間廃城年1873主な城主松平氏・西尾氏・朽木氏・土屋氏指定史跡県指定住所茨城県土浦市中央[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ土浦城東櫓09:00-16:30(月曜休み)現存建造物太鼓櫓門、霞門復元建造物東櫓・西櫓概要土浦城は別名「亀城」とも呼ばれています。室町時代頃に築かれ、戦国時代には小田氏と佐竹氏の戦いの舞台となりました。江戸時代前期の(藤井)松平氏・西尾氏・朽木氏の時におおむね整備され、17世紀終わり頃(大河内)松平氏の時に近世軍学による大規模な改修が行われました。なお土浦藩は江戸時代中期以降に城主となった土屋家の時に藩領9万5千石となり、常陸国内では水戸藩に次ぐ領地の広さを誇りまし...常陸国土浦城

  • 武蔵国 世田谷城

    武蔵国世田谷城<セタガヤジョウ>別称吉良御所・世田谷御所城郭種別城郭縄張り平城築城者吉良氏築城年応永年間廃城年1590主な城主吉良氏指定史跡都指定住所東京都世田谷区豪徳寺[Google][地理院地図]城址碑不明現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居城したのに始まると伝える。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが...武蔵国世田谷城

  • 武蔵国 八王子城

    武蔵国八王子城<ハチオウジジョウ>別称武州八王寺城城郭種別城郭縄張り連郭式山城築城者北条氏照築城年1587廃城年1590主な城主北条氏指定史跡国指定住所東京都八王子市元八王子町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ八王子城跡ガイダンス施設09:00~17:00現存建造物なし復元建造物なし概要八王子城跡は、戦国時代の終わり頃(16世紀後半)、北条氏照によって築かれた山城です。広大な産地、その山麓、そして城山川に沿った谷間など変化に富んだ地形を巧みに利用し築城されています。主要部は山頂部に本丸を構え、東を城の大手(表口)、北を搦手(裏口)としています。八王子城は、戦国時代を代表する城跡として、現在訳158haの範囲が国の史跡に指定され、保護されています。※現地看板より攻城記録大手の門跡...武蔵国八王子城

  • 武蔵国 杉山城

    武蔵国杉山城<スギヤマジョウ>別称初雁城、雁城城郭種別城郭縄張り階郭式山城築城者山内上杉氏築城年1505廃城年1590主な城主山内上杉氏、杉山氏指定史跡国指定住所埼玉県嵐山町大字杉山[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ嵐山町役場庁舎08:30-17:15現存建造物なし復元建造物なし概要この城跡は、戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。総面積は、訳8haにも及び、山の高低差を巧みに利用し10あまりの郭を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも屈指の名城と評価されています現存する遺構の保存状態も非常によく、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出」や「桝形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛かり」の多用...武蔵国杉山城

  • 武蔵国 二宮城

    武蔵国二宮城<ニノミヤジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平山城築城者二宮氏築城年文明年間廃城年不明主な城主不明指定史跡都指定住所東京都あきる野市二宮[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なしDID・航空管制対象・対象外概要神社境域及びその周辺は、室町時代にこの地域に勢力をもつ豪族であった、大石氏の城館跡の可能性が考えられています。そのことを裏付けるように、昭和58年(1983)の秋川市教育委員会(当時)による発掘調査では、神社東側段丘上の「御屋敷」と呼ばれる地点から、14世紀の豪族居館跡が発見されました。※現地看板より攻城記録参拝者駐車場社務所筒粥の篠竹境内二宮神社改修工事記念碑拝殿本殿諏訪神社2024/8最終訪問周辺地図※当サイトの地図は、主郭等の城の中心...武蔵国二宮城

  • 常陸国 戸崎城

    常陸国戸崎城<トサキジョウ>別称城郭種別城郭縄張り丘城築城者戸崎大膳亮築城年応仁年間廃城年1602主な城主戸崎氏、菅谷氏、飯塚氏指定史跡市指定住所茨城県かすみがうら市戸崎[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要戸崎城は、出島半島の南西部、周辺の低地との比高差約20メートルの台地上に築かれた中世の城郭です。各所に堀と土塁が残されており、本丸を含む城跡全体の範囲は東西・南北ともにおよぞ900メートルと広域に及んでいます。そのため、戸崎地区には「館下」、「本丸」、「二の丸」、「中城」、「外城」、「御南屋敷」、「堀留」、「根小屋」等の城跡を示す小字が多く見られます。また、字山崎にも独立した縄張が存在しているほか、松学寺と八坂神社についても、それぞれ土塁や堀が確...常陸国戸崎城

  • 下総国 本佐倉城

    下総国本佐倉城[モトサクラジョウ]別名将門山城城郭構造連郭式平山城築城者千葉輔胤築城年1469年~1487年年(年)廃城年1615年(元和1年)指定史跡国の史跡場所千葉県印旛郡酒々井町地図スタンプ設置場所国史跡本佐倉城跡案内所御城印販売場所国史跡本佐倉城跡案内所、京成佐倉駅前観光案内所、JR佐倉駅前観光情報センター、ふるさと広場売店「佐蘭花」概要本佐倉城は下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し、天正十八年(1590)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで関東有数の大名千葉氏の居城でした。千葉氏は享徳三年(1454)に始まる関東の戦乱によって千葉(現千葉市中央区)の城を捨て、新たな城を印旛沼に面した交通の拠点である「佐倉(現酒々井町本佐倉)」に移しました。16世紀前半には城下町も整い、本佐倉城は下総の政...下総国本佐倉城

  • 武蔵国 滝の城

    武蔵国滝の城<タキノジョウ>別称本郷城城郭種別城郭縄張り平山城築城者大石定重築城年平安時代廃城年1590主な城主大石氏指定史跡県指定住所埼玉県所沢市城[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向って落ちる急な崖を利用し、東南方を流れる柳瀬川を防御線とした平山城で、その敷地は約6万6千平方メートルである。現在でも本丸を中心とした遺構が良く保存されている。本丸は柳瀬川を眼下に見下す城の東南部に位置し、現在の社殿は櫓台跡の上にある。本丸の北西には、空堀へだてて二の郭的な曲輪があり、城はこの方向にいくつかの曲輪を配したようで、部分的に遺構が残存している。また、大手は、さらに北方に所在していたとみられている。この滝の城は、北条氏照の...武蔵国滝の城

  • 常陸国 玉造城

    常陸国玉造城<タマツクリジョウ>別称轟城城郭種別城郭縄張り丘城築城者玉造氏築城年室町時代中期廃城年1591主な城主玉造氏指定史跡なし/不明住所茨城県行方市玉造甲[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要常陸大掾氏の一族、行方宗幹(景幹)の四男四郎幹政が治承年間(1177~80年)に玉造に配され玉造氏を称する。天福元年(1133年)幹政は没するが、以後、子孫が歴代の城主となる。城が築かれたのは室町中期の寛正年間(1460~65年)で、戦国末期の永禄から天正年代に再構築したものとみられている。三方を低地(かつては水田)に囲まれた要害の地で、「中館(本丸)」・「搦」の三郭から成り、空堀や土塁が今も残る。天正19年(1591年)2月9日、城主玉造重幹が、「南方3...常陸国玉造城

  • 武蔵国 岩槻城

    武蔵国岩槻城<イワツキジョウ>別称岩付城、白鶴城、浮城城郭種別城郭縄張り平城築城者成田正等築城年不明廃城年1871主な城主成田氏、太田氏、後北条氏、大岡氏指定史跡なし/不明住所埼玉県さいたま市岩槻区太田[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物復元建造物概要岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力護大名の居城となりました。戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家...武蔵国岩槻城

  • 常陸国 取手館

    常陸国取手館<トリデヤカタ>別称取手城城郭種別城郭縄張り平城築城者大掾貞国築城年不明廃城年不明主な城主不明指定史跡なし/不明住所茨城県取手市上高井[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ-現存建造物なし復元建造物なし概要この館は、玉里台地の最東端で、園部城のあった小川台地と相対しており、数多い館の中でも最も重要な位置を占め、幾度となく激闘を繰り返した歴史をもっている。取手館は、大掾貞国に命じて築かせたものであるが、天正16年4月末佐竹勢の猛攻に合い義国や栗又左近政清が兼務で守備したが、勇戦も空しく激戦の末陥落した。※現地看板より攻城記録国道355号線沿いの民家脇に細い通路がある。稲荷神社入口取手稲荷神社石柱看板この時期、藪すぎて入っていく気にはなれないので、ここで断念。2024/8訪...常陸国取手館

  • 常陸国 宍倉城

    常陸国宍倉城<シシクラジョウ>別称城郭種別城郭縄張り丘城築城者不明築城年不明廃城年1602主な城主野田氏、菅谷氏、大山田氏指定史跡市指定住所茨城県かすみがうら市宍倉[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要この城は、堀と土塁で防備をかためる「掻上げ城」で、城郭は馬場、新宿、天王町に及び、周辺の低地を巧みに利用して築城されています。本丸の面積は約70アールで、宍倉城は永享(1429~1440)のころは野田遠江守の所管でしたが、その後菅谷氏の支配となり、文亀年間(1501~1503)には菅谷隠岐守貞次が城主でした。菅谷氏は小田氏の有力な武将で、当時出島の半分を領有していました。しかし、天正元年(1573)7月佐竹氏の攻撃をうけ、佐竹氏の家臣になったといわれて...常陸国宍倉城

  • 常陸国 芹沢城

    常陸国芹沢城<セリザワジョウ>別称城郭種別城郭縄張り平城築城者芹沢秀幹築城年天文年間廃城年不明主な城主芹沢氏指定史跡なし/不明住所茨城県行方市芹沢[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要常陸大掾一族である芹沢氏は、吉田氏系(水戸地方からの別れ)の玉造氏とは違う大掾本家の多気氏の末裔にあたります。南北朝時代に芹沢氏の祖となる平竜太が相模国高座郡に所領を持ち芹沢の地に館を構えたとき氏を芹沢とし、成人後は幹文と改め、良幹、高幹、望幹四代にわたり鎌倉御所に仕えました。その後芹沢良忠が常陸へ戻り館を構え、秀幹の代天文年間(1532~54)に芹沢城が築かれたとされます。また、芹沢家は医薬の術を持つ豪族として戦国武将にも知られていました。相模国在住の時から医術と関わ...常陸国芹沢城

  • 常陸国 三村城

    常陸国三村城<ミムラジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平山城築城者大掾常春築城年天正年間廃城年1574主な城主不明指定史跡なし/不明住所茨城県石岡市三村[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要三村城は府中城主大掾慶幹の次男常春の居城で、いまの三村小学校の敷地を中心とする一帯がその城跡である。府中の南方を防備するため、従来の館を中心に改修・拡張を重ね、周囲に土塁を築き、堀を構えて三村城とした。現在も城跡を中心に御城・城構内・諸士久保・根小屋といった地名が残されており、城郭の規模・形態をしのぶことができる。天正2年(1574)小田氏に攻められて落城し、城主常春も25年の短い生涯を閉じた。城跡の東南には菩提寺である曹洞宗萬隆山常春寺がある。※現地看板より攻城...常陸国三村城

  • 常陸国 飯塚館

    常陸国飯塚館<イイヅカタテ>別称城郭種別城郭縄張り平山城築城者飯塚氏築城年不明廃城年1590主な城主飯塚氏指定史跡なし/不明住所茨城県小美玉市上玉里[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要平安時代の前期、常陸大掾平国香は府中(石岡)を中心に、広く常陸地方に強大な勢力を誇っていたが、その後裔の五郎衛門兼忠は玉里地方に領土を得て、飯塚の地に居館を構え飯塚氏を名乗り、府中外郭の守りと地域開発に努力した。この地一帯の要害に加えて、更に館の外郭を二重の濠、三重の土塁などをめぐらし、堅固に防備した跡が今も残されている。飯塚氏は永く繫栄し、一家にまつわる数数の伝説なども郷土に伝承されているが、天正年間の末(1590年頃)佐竹連合軍によって攻略され、大掾氏と運命を共に...常陸国飯塚館

  • 常陸国 木田余城

    常陸国木田余城<キダマリジョウ>別称城郭種別城郭縄張り信太氏築城者不明築城年不明廃城年1578主な城主信太氏、菅谷氏、小田氏指定史跡市指定住所茨城県土浦市木田余[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要木田余城は標高約2メートルの霞ヶ浦湖畔の低地に築かれた平城で、推定される本丸跡は字中条(中城)にあり、本丸の外側に濠が回っていたと思われる。小田氏の重臣信太氏の居城であったが、永禄12年(1569)手這坂の戦いで小田氏治が佐竹・真壁氏に敗れた翌年、離反を疑われた城主信太伊勢守が氏治に謀殺され(異説あり)、その後氏治が居城とした。天正6年(1578)7月、佐竹氏配下の梶原政景が木田余城を攻略し、氏治は土浦城に移った。間もなく小田勢は木田余城を取り戻すが、9月...常陸国木田余城

  • 常陸国 大和田城

    常陸国大和田城<オオワダジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り丘城築城者不明築城年不明廃城年不明主な城主不明指定史跡なし/不明住所茨城県かすみがうら市大和田[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要大和田城は、一の瀬川左岸の標高約25mの台地上の、旧霞ヶ浦町役場に位置している。台地先端をふたつに区切る堀切があり、旧霞ヶ浦町役場側の曲輪は、南側に腰郭を造築している。ふたつの郭の間には、深さ5mに及ぶ堀と土塁が台地の地形に沿ってみられている。県道141号線を挟み、西側の集落の南側にも土塁や堀が明瞭に残されており、集落を含む一帯が城館と考えられる。16世紀末には佐竹氏の支配になったと考えられ、それまでは、周辺地域と同様に小田氏と関連した領主の存在があったものと思わ...常陸国大和田城

  • 常陸国 牛久城

    常陸国牛久城<ウシクジョウ>別称岡見城城郭種別城郭縄張り梯郭式平山城築城者岡見氏築城年1550廃城年1623主な城主岡見氏、由良氏指定史跡市指定住所茨城県牛久市城中町[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ-現存建造物なし復元建造物なし概要牛久城は城主の岡見氏によって1550年頃に築造された。この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守を持たない典型的な遺構を残している。ここは、小田原北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方をぬまに囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られた極めて頑強な城になっている。多賀谷氏によって岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城したが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高木氏などの援軍を得て守り切った。牛久城は1...常陸国牛久城

  • 阿波国 勝瑞城

    阿波国勝瑞城[ショウズイジョウ]別称阿波屋形・下屋形・勝瑞屋形・勝瑞城館城郭構造平城築城年室町時代廃城年1582年指定史跡国指定住所板野郡藍住町勝瑞字東勝地29-2[MAP]スタンプ設置場所勝瑞現場事務所内史跡勝瑞城館跡展示室・武田石油御城印販売場所概要勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。天文22年(1553)、家臣...阿波国勝瑞城

  • 武蔵国 高月城

    武蔵国高月城<タカツキジョウ>別称高槻城城郭種別城郭縄張り連郭式山城築城者大石顕重築城年1458廃城年1590主な城主大石氏、北条氏指定史跡なし/不明住所東京都八王子市高月町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要高月城は、永禄年間に、武蔵国守護代であった大石顕重が築いたといわれ、滝山城に大石定重が城を移すまで、代々大石氏が居城としていた城として知られている。加住丘陵の自然の要害を利用し、秋川と多摩川の合流点近くに位置した小高い台地上に築かれており、現在は空堀・土塁等が一部のこっています。高月城は、大きく蛇行する秋川と多摩川の合流点近くに位置し、流れに突き出るような形になった加住北丘陵の自然の要害を利用した平山城となっています。武蔵国守護代大石氏により...武蔵国高月城

  • 伊予国 宇和島城

    伊予国宇和島城[ウワジマジョウ]別称鶴島城・板島城・丸串城城郭構造梯郭式海城築城年不明廃城年1871年指定史跡国指定住所宇和島市丸之内1[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要宇和島城は慶長元~6年(1596~1601)、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎によって戦国時代の山城から近世の海城へと生まれ変わりました。当時は大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張でした。石垣や天守、櫓は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されますが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲しています。堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分28万㎡は失われていますが、本丸・二之丸等の郭を含む約10万㎡の城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つとなる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち...伊予国宇和島城

  • 武蔵国 用土城

    武蔵国用土城<ヨウドジョウ>別称高城城郭種別城郭縄張り平城築城者藤田康邦築城年1546廃城年1590主な城主用土氏指定史跡なし/不明住所埼玉県寄居町用土[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要本城は戦国の昔北武蔵の豪族藤田右衛門佐康邦が優勢なので、相模国小田原城主北條氏康は関東制圧の為その子氏邦を養子として遣わした。康邦は天下の形勢を察知し天文15年用土に築城し従来の居城花園城と天神山城を養子北條氏邦に譲り用土新左衛門と称し用土城に隠退した。其の後天正18年鉢形城が攻略された時陥落し、以後廃城となった。敷地4町2反歩内堀外堀等存在し老松鬱蒼としていたが大正5年開墾され今は昔の面影もないので後世のため馬場曲輪一同で本碑を建立した。※現地城址碑より寄居町農...武蔵国用土城

  • 武蔵国 中城

    武蔵国中城<ナカジョウ>別称猿尾城城郭種別城郭縄張り単郭式平山城築城者猿尾氏築城年鎌倉時代廃城年不明主な城主猿尾氏指定史跡町指定住所埼玉県小川町大塚[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要中城は、中世の土豪、猿尾氏の居城で中城跡といわれている。城内には記念碑や慰霊碑、仙覚律師遺跡などがあるが、城についての詳細は分かっていない。土塁や空堀はきれいに残されている。横堀主郭仙覚律師遺跡仙覚は、鎌倉時代の僧侶(天台宗)で、建仁3年(1203)常陸国(茨城県)に生まれたが、没年は不明である。万葉学者として知られる仙覚は、万葉集解読に半生を捧げた人で、彼の著作した「万葉集註釈」は、以後の万葉集研究の基礎をなしているといわれている。この奥書には「武蔵国比企郡北方の麻...武蔵国中城

  • 武蔵国 福岡城

    武蔵国福岡城<フクオカジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者不明築城年室町時代廃城年不明主な城主不明指定史跡なし/不明住所埼玉県ふじみ野市福岡[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要下福岡城山公園を含む一帯は城山と呼ばれ、江戸時代後期成立の「新編武蔵風土記稿」では、後北条氏家臣富永善左衛門の居館であろうと記載されています。また、「城山と富永善左衛門」/井田実著(市史調査報告書第7集)によると、現地には伝承地名として、「戸開き(大手門)」、「たかまま(高馬場)」、「いぬ(乾の方位)木戸」、「湯殿(屋号、地名)」、「屋敷」などが確認されています。また、寛政6年(1794)の絵図面では、新河岸川が下福岡地域を北・東・南と回り込むように流れており、富永善...武蔵国福岡城

  • 武蔵国 忍城

    武蔵国忍城<オシジョウ>別称忍の浮き城、亀城城郭種別城郭縄張り輪郭式平城築城者成田親泰築城年1490廃城年1871主な城主成田氏指定史跡なし/不明住所埼玉県行田市本丸[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ行田市郷土博物館09:00-16:30(月曜定休)現存建造物北谷門(移築)、城門(移築)、門(移築)復元建造物櫓、模擬門概要忍城は文明10年(1478)頃成田顕泰により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手孫の正武の代にいたり忍城御三階櫓の建...武蔵国忍城

  • 武蔵国 片倉城

    武蔵国片倉城<カタクラジョウ>別称八王子城城郭種別城郭縄張り平山城築城者長井時広築城年室町時代廃城年不明主な城主長井氏、大石氏、北条氏指定史跡なし/不明住所東京都八王子市片倉町[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要片倉城跡は、湯殿川と兵衛側の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城郭です。北・東・南の外周部は約30メートルの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切がなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や、櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。駐車場片倉城跡公...武蔵国片倉城

  • 武蔵国 平塚城

    武蔵国平塚城<ヒラツカジョウ>別称豊島城城郭種別城郭縄張り平山城築城者豊島近義築城年平安時代廃城年1478主な城主豊島氏指定史跡なし/不明住所東京都北区上中里[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を収める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神並びに別当城官寺縁起絵巻の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくたとされている。駐車場平塚神社平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流近義という人物が平塚城という城館をつくります。...武蔵国平塚城

  • 武蔵国 葛西城

    武蔵国葛西城<カサイジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者葛西氏築城年不明廃城年1590主な城主葛西氏指定史跡都指定住所東京都葛飾区青戸[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録(快元僧都記)があり、この後、葛西城は後北條氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。後北條氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。この葛西城が再び注目されるようになったの...武蔵国葛西城

  • 武蔵国 中曽根城

    武蔵国中曽根城<ナカソネジョウ>別称城郭種別城郭縄張り平城築城者千葉氏築城年不明廃城年不明主な城主千葉氏、太田氏指定史跡なし/不明住所東京都足立区本木[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板不明スタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要中曽根城は、室町時代千葉次郎勝胤公によって築城された。周囲六町四方(三十六ヘクタール)でそとがまえに堀や土居をめぐらしていたと伝えられている。今も小宇に、出戸、小屋の内出などの名が残っている。当社の境内は城の一部で、一段と高く、千葉氏の信仰する妙見社がまつられていた。幾星霜の間に周辺は耕地となり、現在は都市化した。昭和七年、妙見社と興野の雷社と合せて中曽根神社とし、当地の氏神として祀ったものである。※現地石碑より中曽根神社入口境内中曽根神社軍神である妙見菩薩を信仰し...武蔵国中曽根城

  • 武蔵国 稲付城

    武蔵国稲付城<イナツケジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平山城築城者太田道灌築城年不明廃城年不明主な城主太田氏指定史跡都指定住所東京都北区赤羽西[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯あたりに太田道灌が築城したといわれている戦国時代の砦跡です。1987年に静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、1582年頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する「静勝寺除地検地絵図(1687年)」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には、鎌倉時代から岩渕の宿が、室町時代には関が設けられて街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、エドジ...武蔵国稲付城

  • 武蔵国 左入城

    武蔵国左入城<サニュウジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者不明築城年不明廃城年不明主な城主中丸氏指定史跡なし/不明住所東京都八王子市左入町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要往古この地に左入城があった。中丸淡路守の居城であったと伝えられている。左入城は東西約400米、南北175米の卵形をなし、東南及び西に幅4~50米、深さ9米の空堀を巡らして、周囲は凡そ2000米に及び、西南に鵯(ひよどり)山を望み、北に谷萩川を帯びた要害の城塞であったと古老の口碑により伝えられてきた。また、これより西方500米の所に淡路守居城のおり調馬の用に供した馬場の址がある。尚、近年発見された伊能忠敬の日本地図にもこの地を「左入村中」、馬場の址を「左入村馬場谷戸」と明...武蔵国左入城

  • 武蔵国 由木城

    武蔵国由木城<ユギジョウ>別称柚木城・由木氏館・大石氏館城郭種別城郭縄張り平山城築城者由木氏築城年不明廃城年不明主な城主由木氏、長井氏、大石氏指定史跡市指定住所東京都八王子市下柚木[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要武州滝山城主大石源左衛門尉定久の居館があったといわれ、由木城とも呼ばれてる。定久はのちに隠居し「心月斎(真月斎)」と名のり、この一帯100万㎡の広大な地を永林寺々領としたという。このあたり野猿峠までを殿ヶ谷戸というが、これは「往昔由木氏が旧跡なるゆえ、おのずから殿のあとという心にて殿ヶ谷戸と唱えて、村の小名に称すなり」と「武蔵名勝図会」に記されているとおり、由木氏の居住地でもあったと推定される。総門天文15年(1546年)建立。文禄4年...武蔵国由木城

  • 武蔵国 滝野川城

    武蔵国滝野川城<タキノガワジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平山城築城者滝野川氏築城年文明年間廃城年1477主な城主滝野川氏指定史跡なし/不明住所東京都北区滝野川[Google][地理院地図]城址碑不明現地案内板不明スタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要石神井川沿いの金剛寺付近を中心に、この地の名族豊島氏の平塚城の支城であったと考えられる。文明9年(1477)太田道灌と戦い、本家豊島氏とともに滅亡し、廃城となる。また、源頼朝がかつて鎌倉へ向かう途中、この地に布陣したという伝承がのこっている。金剛寺源頼朝の布陣伝承地治承4年(1180)8月、源頼朝の三男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れ安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、墨田川・板橋を経て、府中...武蔵国滝野川城

  • 伊予国 大洲城

    伊予国大洲城[オオズジョウ]別称比志城・地蔵ヶ嶽城・大津城・亀城城郭構造梯郭式平山城築城年1331年廃城年1871年指定史跡県指定住所大洲市大洲903[MAP]スタンプ設置場所台所櫓入口(大洲城内入口)御城印販売場所概要大洲城は、鎌倉時代の末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近代城郭に整備されたのではないかと考えられます。元和3年(1617年)米子から加藤貞泰が入城しました。以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されまし...伊予国大洲城

  • 甲斐国 甲府城

    甲府城[コウフジョウ]別名舞鶴城、一条小山城城郭構造梯郭式平山城築城者豊臣秀吉、徳川家康築城年1583年(天正11年)廃城年1873年(明治6年)指定史跡国の史跡場所山梨県甲府市地図スタンプ設置場所舞鶴城公園管理事務所、甲府城稲荷櫓御城印販売場所甲府市観光案内所概要甲府城は、天正10年(1582)の武田家の滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉...甲斐国甲府城

  • 土佐国 高知城

    土佐国高知城[コウチジョウ]別称鷹城・大高坂山城・大高坂城・河中山城・高智山城城郭構造梯郭式平山城築城年1603年廃城年1871年指定史跡国指定住所高知市丸の内1-2-1[MAP]スタンプ設置場所高知城天守窓口御城印販売場所概要高知城はもと大高坂城といい、南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦を築いて南朝方に味方して戦った記録がある。戦国時代の天正16(1588)年、土佐の国主であった長宗我部元親が岡豊城(南国市)から移ったが、豊臣秀吉が行った朝鮮へ出兵に備えるため、浦戸城(高知市浦戸)に居城を移した。期間が短く、その規模や構造は明らかでない。現在の高知城は、慶長5(1600)年の関ケ原の功績を認められて、土佐の初代藩主となった山内一豊によって慶長6(1601)年から築城され、本丸、二ノ丸が慶長8(1603...土佐国高知城

  • 讃岐国 高松城

    讃岐国高松城[タカマツジョウ]別称玉藻城城郭構造輪郭式海城築城年1590年廃城年1869年指定史跡国指定住所高松市玉藻町2-1[MAP]スタンプ設置場所玉藻公園管理事務所御城印販売場所概要天正15(1587)年に讃岐1国を与えられた生駒親正は、翌16年「野原」と呼ばれていた当地を「高松」と改め、高松城の築城を開始しました。天守も生駒時代に造られており、天守石垣からは生駒家の家紋が彫られた石材が見つかっています。生駒氏の治世は寛永17(1640)年の生駒騒動による転封まで4代54年間にわたりました。その後の寛永19(1642)年に松平頼重が入封し、寛文10(1670)年から天守の改築、東ノ丸・北ノ丸の新造といった事業を実施しました。2代藩主頼常の代には、月見櫓や艮櫓などの建造、大手の付け替え等が行われ、概ね...讃岐国高松城

  • 摂津国 安威城

    摂津国安威城[アイジョウ]別称安威館ComingSoon城郭構造平城築城年永正間年廃城年1586年指定史跡指定なし住所大阪府茨木市安威[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要安威城は、土豪の安威氏によって築かれた城で、北の花園山にある砦と一対の城郭と考えられています。安威氏の記録は、「六波羅蜜寺文書(1363年)」の中に記されていることから、鎌倉時代の終わり頃には在地領主として居かれたと考えられ、城郭もこの頃に築かれたのではないかと考えられている。城の規模は、「大阪府全志」によると東西百間(約180メートル)、南北百五十間(約272メートル)とされ、また「東摂城址図誌」には、小字城垣内とされる南北五十五間半(約100メートル)、東西二十二間余(約22メートル)の地域に御殿台と呼ばれる土檀の存在を伝えて...摂津国安威城

  • 阿波国 一宮城

    阿波国一宮城[イチノミヤジョウ]別称阿波一宮城城郭構造梯郭式山城築城年1338年廃城年1638年指定史跡県指定住所徳島市一宮町[MAP]スタンプ設置場所一宮城登山口説明板横御城印販売場所概要一宮城は、前方に鮎喰川、後方に険しい山々がそびえ立つ自然の要害に築かれた大規模な山城であった。現在では、標高144メートルの本丸跡に石塁が残っており、その他、明神丸、才蔵丸、水手丸、小倉丸、椎丸、倉庫跡の遺構も明らかで、貯水池といわれるくぼ地もその跡をとどめている。この城は、南北朝時代、南朝に味方していた山岳武士の拠点であり、一宮氏が長年居城としていたが、成祐のとき土佐の長宗我部氏に占拠された。その後、豊臣秀吉が四国を平定し、天正13年(1585)、蜂須賀氏が最初入城したのが、一宮城であった。翌年、蜂須賀氏が徳島城に移...阿波国一宮城

  • 伊予国 湯築城

    伊予国湯築城[ユヅキジョウ]別称なし城郭構造梯郭式平山城築城年不明廃城年1587年指定史跡国指定住所松山市道後町[MAP]スタンプ設置場所湯築城資料館内御城印販売場所湯築城資料館内概要湯築城跡は、室町時代伊予国守護であった河野氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心でした。河野氏は、風早郡河野郷(松山市北部)を本拠とした豪族で、12世紀末の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏が湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛の時といわれています。当時の道後は、道後温泉に古くから天皇が来湯するなど人々の往来が多く、伊予国内では経済的、文化的な要地でした。その後、河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるようになると、この地は政治的な中心としても栄えるようになりました。河...伊予国湯築城

  • 土佐国 岡豊城

    土佐国岡豊城[オコウジョウ]別称なし城郭構造連郭式山城築城年不明廃城年1591年指定史跡国指定住所南国市岡豊町八幡[MAP]スタンプ設置場所高知県立歴史民俗資料館御城印販売場所概要岡豊城跡は、長宗我部氏の居城跡として知られる中世の城跡で、平成20年(2008)7月28日に国の指定史跡となりました。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐へ入国したと伝えられており、それ以降、長岡郡を中心に勢力を拡げ、戦国大名へと成長していきました。岡豊城が築城された明確な時期は、不明ですが、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えたのは15世紀ころと考えられ、16世紀初頭に一度落城したとされています。後に再興され、大高坂城に移転する天正15・16年(1587・88)ころまで機能した山城と考えられています。※現地看板より高知県立歴史民俗資...土佐国岡豊城

  • 阿波国 徳島城

    阿波国徳島城[トクシマジョウ]別称渭山城・渭津城城郭構造梯郭式平山城築城年不明廃城年1869年指定史跡国指定住所徳島市徳島町城内1[MAP]スタンプ設置場所徳島市立徳島城博・都市整備部公園緑地課管理担当物館御城印販売場所概要徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政(1588~1638)によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西...阿波国徳島城

  • 上野国 仁井屋城(群馬県)

    仁井屋城[ニイヤジョウ]別名白倉城城郭構造梯郭式丘城築城者白倉氏築城年戦国時代初期年(年)廃城年1590年(天正18年)指定史跡なし場所群馬県甘楽郡甘楽町地図スタンプ設置場所なし御城印販売場所なし概要上州八家のひとつ白倉氏の居城として築かれたと伝わります。東にある仁井屋城と西にある麻場城は別城一郭で、合わせて白倉城と呼ばれる。白倉氏は、小幡氏と並んで関東管領上杉氏の重鎮として、また四宿老(長尾、大石、小幡、白倉)の一人として活躍していました。関東の名城を歩く北関東編:茨城・栃木・群馬峰岸純夫吉川弘文館群馬のうまいラーメン2023-2024株式会社NLG株式会社ニューズ・ライン上野国仁井屋城(群馬県)

  • 甲斐国 要害山城

    要害山城[ヨウガイサンジョウ]別名要害城、積翠山城城郭構造連郭式山城築城者武田信虎築城年1520年(永正17年)廃城年1600年(慶長5年)指定史跡国の史跡場所山梨県甲府市地図スタンプ設置場所甲府市藤村記念館御城印販売場所甲府市観光案内所概要要害城は、永正17年(1520)に武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急時に立てこもる詰の城としての役割を担っていました。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって利用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されました。城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、枡形虎口や郭が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪堀や堀切を要所に設けて防御を固めています。山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したものと推定されます。南東尾根上には支城の熊城があり、深い堀切で区切られ...甲斐国要害山城

  • 越中国 増山城

    越中国増山城[マスヤマジョウ]別称和田城城郭構造連郭式山城築城年1363年廃城年1615年指定史跡国指定住所砺波市増山[MAP]スタンプ設置場所砺波市埋蔵文化財センター09:30~17:00御上院販売場所砺波市埋蔵文化財センター09:30~17:00概要城は、立地条件によって平城、平山城、山城に分類されますが、増山城は典型的な山城です。山城は、山そのものに普請(土木工事)を加え、郭や堀などの防御施設を作り出すタイプのお城です。富山県内には大小400以上の城があるといわれますが、増山城は規模や歴史的重要性などから”越中三大山城”(増山城・森山城(高岡市)・松倉城(魚津市))に数えられています。増山城の歴史は古く、南北朝時代の14世紀後半に「和田城」として登場します。17世紀初頭の廃城までの約250年の間、越...越中国増山城

  • 陸奥国 浪岡城

    陸奥国浪岡城[ナミオカジョウ]別称浪岡御所城郭構造平城築城年不明廃城年1578指定史跡国指定住所青森市浪岡大字浪岡五所14?1[MAP]スタンプ設置場所浪岡城跡案内所御城印販売場所概要浪岡城は、南北朝時代に後醍醐天皇を助けた、北畠親房、顕家の子孫が居住したといわれています。城ができたのは応仁の乱(1467-77)ころ、最盛期は天文年間(1532-55)ころと思われます。永禄5年(1562)に親族間の争い(川原御所の乱)が起こり、城主が殺され浪岡北畠氏の勢力も衰え、天正6年(1578)、大浦(津軽)為信に攻められ、浪岡城は落城しました。※現地案内板より城跡公園昭和15年に青森県初の国史跡指定を受け、一部が公園、ほかは農地として利用されてきました。その後史跡公園にするため、昭和44年から49年までで、約8割の...陸奥国浪岡城

  • 遠江国 二俣城

    二俣城[フタマタジョウ]別名蜷原城城郭構造連郭式山城築城者二俣昌長築城年16世紀年(年)廃城年1600年(慶長5年)指定史跡国の史跡場所静岡県浜松市地図スタンプ設置場所なし御城印販売場所天竜区観光協会概要天竜川と二俣川が合流する天然の要害に築かれた城跡です。元亀3年(1572)から天正3年(1575)のあいだ、武田信玄・勝頼と徳川家康による争奪戦が繰り広げられました。徳川家康が領有していた天正7年(1579)、織田信長の嫌疑にかけられた家康の長男、信康は、この城に幽閉され自刃しました。信康の生母である築山殿は、井伊直平の孫であり、直平の曾孫である井伊直虎とは親戚筋にあたります。※現地看板より二俣城は、信州や三河等へ通ずる所として物資や人の往来、又軍事面でも重要な場所でありました。武田軍と徳川軍との攻防の末...遠江国二俣城

  • 越中国 富山城

    越中国富山城[トヤマジョウ]別称安住城・浮城城郭構造梯郭式平城築城年1543年廃城年1871年指定史跡指定なし住所富山市本丸1-62[MAP]スタンプ設置場所富山市郷土博物館09:00~16:30御上院販売場所富山市まちなか観光案内所09:00~17:30概要昭和29年、富山城址一帯で富山産業博覧会が開催されました。これは、昭和20年8月2日未明の空襲によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に開催されたものです。その際、記念の恒久建築物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。旧本丸鉄門跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられています。その外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計されてお...越中国富山城

  • 出羽国 久保田城

    出羽国久保田城[クボタジョウ]別称窪田城・矢留城・葛根城・秋田城城郭構造平山城築城年1604年廃城年1880年指定史跡市指定住所秋田市千秋公園1-39[MAP]スタンプ設置場所久保田城御隅櫓開館時間:9:00~16:30御城印販売場所概要久保田城は、秋田二十万石佐竹氏の居城である。秋田初代義宣(よしのぶ)が慶長七年(1602)入部し、翌八年現在地に築城した。天守と石垣のない城として知られている。本丸は明治十三年公園として開放されその後千秋公園と称し現在に至っている。※現地看板より二の丸跡本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊り...出羽国久保田城

  • 武蔵国 江戸城

    武蔵国江戸城[エドジョウ]別称千代田城城郭構造輪郭式平城築城年1457年廃城年1868年指定史跡特別史跡住所千代田区千代田1?1[MAP]スタンプ設置場所渋沢×北区飛鳥山おみやげ館御城印販売場所楠公休憩場、和田倉休憩場、北の丸休憩場概要江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城跡は、3百年近くにわたる将軍の居所として、また...武蔵国江戸城

  • 蝦夷国 大野口台場

    蝦夷国大野口台場[オオノグチダイバ]別称なしComingSoon城郭構造台場築城年1869廃城年不明指定史跡指定なし住所北斗市村山[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要大野口台場は、戸切地平野の北のはずれにある中山峠を背にする要害の地で、土方歳三を隊長とする榎本軍(約300人)が台場を構築し、下二股川の崖を挟んで二股口の戦いとなる。矢不来の戦いで榎本軍が敗れ、陣を撤退することとなった。五稜星形(23m×20m)と台形(14m×13m)のふたつの台場があったが、開墾にともなう土取りで消滅した。ブラタモリ3函館川越奈良仙台NHK「ブラタモリ」制作班KADOKAWA函館グルメ開発課の草壁君お弁当は鮭のおにぎらず(宝島社文庫)森崎緩宝島社蝦夷国大野口台場

  • 出羽国 秋田城

    出羽国秋田城[アキタジョウ]別称出羽柵城郭構造柵築城年733年廃城年不明指定史跡指定なし住所秋田市寺内大畑4-1[MAP]スタンプ設置場所・秋田市立秋田城跡歴史資料館・史跡公園管理棟(無料で押印可)御城印販売場所概要秋田城は奈良時代から平安時代にわたっておかれた、日本最北端の大規模な役所で政治、軍事、文化の中心地でした。天平5年(733)に、秋田村高清水岡に造られた当初は「出羽柵」と呼ばれ、やがて天平宝字4年(760)年ころ秋田城と呼ばれるようになりました。秋田城跡は、昭和14年(1939)9月に90ヘクタールが国の史跡に指定されました。昭和47年(1972)から発掘調査を開始し、現在も継続中です。※現地案内板より駐車場城内東西大路この道路は、政庁から外郭東門に至り外郭外側までほぼ真っすぐに延びていました...出羽国秋田城

  • 陸奥国 亘理城

    陸奥国亘理城[ワタリジョウ]別称亘理要害・臥牛城城郭構造平山城築城年天正年間年廃城年1870年指定史跡指定なし住所亘理郡亘理町亘理[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要この地に居を構えた亘理氏が天正19年(1591年)涌谷に移った後、片倉小十郎景綱がここに入った。慶長7年(1602年)片倉氏は白石城に移り、居城を引き継いだ伊達成実は亘理要害の改修を行い又城下町を建設し、亘理郡と相馬郡の一部を治めた。通称の臥牛城は賀名であって、地形が牛の臥せた形に似ているのがこの名のおこりともいわれている。※現地看板より亘理神社鳥居亘理要害(臥牛城)図裏門方面道路の向こう側に見える平地も本丸の一部です。道路で分断されています。詰門方面ここより更に東側にあるヨークベニマル亘理店のある場所が二の丸跡です。本丸跡ここは、江...陸奥国亘理城

  • 陸奥国 小堤城

    陸奥国陸奥小堤城[コヅツミジョウ]別称大雄寺館城郭構造平山城築城年1302年廃城年不明指定史跡指定なし住所亘理郡亘理町泉ケ入91[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要中世の亘理を治めた亘理氏(武石氏)の居城と伝えられる。城の範囲は大雄寺敷地の大部分を占め、寺の敷地を囲むように土塁があり、中世城郭の面影を残している。また、東南の突き出た一角は曲輪(くるわ)だったと考えられる。※現地標柱より大雄寺山門江戸時代後期のもので亘理町指定文化財の山門(楼門)です。本堂慶長9年(1604)伊達成実が福島県信夫郡小倉村(福島県福島市)にあった伊達家菩提寺陽林寺から父実元の位牌を奉じ、萬松山雄山寺を開創した。亘理伊達家霊屋と歴代墓所伊達成実霊屋成実は慶長7年(1602)35歳で領主となり、正保3年(1646)79歳で...陸奥国小堤城

  • 陸奥国 若林城

    陸奥国若林城[ワカバヤシジョウ]別称小泉古城ComingSoon城郭構造単郭式平城築城年1628年廃城年1636年指定史跡指定なし住所仙台市若林区古城2丁目3[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要仙台藩祖伊達政宗の晩年の居城である。当地は戦国時代の領主である国分氏の城があったとされ、城の北側では同時期の屋敷跡が発掘されており、薬師堂(陸奥国分寺跡の地)門前の町場とともに、一帯は政治的・経済的拠点の一つであり交通の要衝であった。城の位置の選定にあたってはこれらの利点を考慮したと考えられる。現在の「若林区」の区名はこの若林城に由来している。この城は広瀬川の自然堤防上の微高地に立地する平城である。寛永4年(1627)築城が開始され、翌年に完成した。城の規模は東西約400m、南北約350mである。緑辺には土...陸奥国若林城

  • 陸奥国 千石城

    陸奥国千石城[センゴクジョウ]別称千石館・松山城・松山館・文覚館ComingSoon城郭構造山城築城年1401年廃城年不明指定史跡指定なし住所大崎市松山千石本丸6[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要千石城は千石村に所在したのでその名称がつきました。「茂庭家記録」によると文覚館といわれ、文覚上人が築いたとありますが明確な築城年代はわかりません。しかし初期の居館が鎌倉時代には存在したともいわれます。城を築いたとされる文覚上人の後裔が遠藤氏であったと伝えられており、盛継が鎌倉公方足利満兼から志田・玉造・加美の三郡奉行に任ぜられ、応永8年(1401)に関東より長世保に下向したとされます。以後、遠藤氏は天正19年(1591)登米郡石森に移されるまで千石城に居住し、松山郷全域を支配しました。千石城が本格的に整...陸奥国千石城

  • 陸奥国 仙台城

    陸奥国仙台城[センダイジョウ]別称青葉城・五城楼城郭構造連郭式平山城築城年1601年廃城年1871年指定史跡国指定住所仙台市青葉区川内[MAP]スタンプ設置場所仙台城見聞館9時~17時御城印販売場所青葉城本丸会館概要伊達政宗によって築かれた伊達氏の居城跡です。建設地の青葉山はかつて霊場であった場所で、そこに自然地形を活かし、高い石垣をもつ城郭を築きました。関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)12月に城の縄張が行われ、翌年1月から普請に着工。工事は慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。二の丸は2代藩主忠宗によって造営され、以降藩政の中心となりました。※現地看板より五色沼明治中期、外国人たちがこの場所でスケートを始め、明治42年(1909)頃に第二高等学校生がドイツ語教師ウィルヘルから...陸奥国仙台城

  • 陸奥国 角田城

    陸奥国角田城[カクダジョウ]別称角田館・角田要害・金鶏館城郭構造平山城築城年永禄年間年廃城年1874年指定史跡指定なし住所角田市角田牛館[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要角田城は、臥牛舘・金鶏館とも呼ばれ、伊達氏の居城でした。白石城、亘理城と並んで南からの敵に対する防衛の拠点として、仙台藩の重要な要害の城でした。永禄年間には、伊達市の庶流である田手氏が、天正19年(1591)には伊達成実(伊達政宗の父の従兄弟)が居城したと伝わります。慶長3年(1598)伊達家御一門石川照光が1万石を与えられた志田郡松山より移封、以後明治維新に到るまで約270年間、石川氏の居城となった。城跡碑城跡は現在角田高校、角田中学校になっているため、これより先に進むのは遠慮しました。城跡碑と、その背後に土塁が見える。案内看...陸奥国角田城

  • 陸奥国 多賀城

    陸奥国多賀城[タガジョウ]別称多賀柵城郭構造柵築城年724年廃城年不明指定史跡特別史跡住所多賀城市市川字城前[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていました。多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。多賀城の平面形は、不正方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。※現地看板より外郭南門跡総瓦葺の重層八脚門があったと推定されています。多賀城碑多賀城碑は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)とともに、日本三古碑のひとつに数えられています。西多賀城去京一千五百里去蝦夷國界一...陸奥国多賀城

  • 陸奥国 盛岡城

    陸奥国盛岡城[モリオカジョウ]別称不来方城城郭構造連郭式平山城築城年1598年廃城年1871年指定史跡国指定住所盛岡市内丸1?37[MAP]スタンプ設置場所もりおか歴史文化館御城印販売場所概要盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。城の縄張は豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を...陸奥国盛岡城

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