常陸国戸崎城<トサキジョウ>別称城郭種別城郭縄張り丘城築城者戸崎大膳亮築城年応仁年間廃城年1602主な城主戸崎氏、菅谷氏、飯塚氏指定史跡市指定住所茨城県かすみがうら市戸崎[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要戸崎城は、出島半島の南西部、周辺の低地との比高差約20メートルの台地上に築かれた中世の城郭です。各所に堀と土塁が残されており、本丸を含む城跡全体の範囲は東西・南北ともにおよぞ900メートルと広域に及んでいます。そのため、戸崎地区には「館下」、「本丸」、「二の丸」、「中城」、「外城」、「御南屋敷」、「堀留」、「根小屋」等の城跡を示す小字が多く見られます。また、字山崎にも独立した縄張が存在しているほか、松学寺と八坂神社についても、それぞれ土塁や堀が確...常陸国戸崎城
下総国本佐倉城[モトサクラジョウ]別名将門山城城郭構造連郭式平山城築城者千葉輔胤築城年1469年~1487年年(年)廃城年1615年(元和1年)指定史跡国の史跡場所千葉県印旛郡酒々井町地図スタンプ設置場所国史跡本佐倉城跡案内所御城印販売場所国史跡本佐倉城跡案内所、京成佐倉駅前観光案内所、JR佐倉駅前観光情報センター、ふるさと広場売店「佐蘭花」概要本佐倉城は下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し、天正十八年(1590)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで関東有数の大名千葉氏の居城でした。千葉氏は享徳三年(1454)に始まる関東の戦乱によって千葉(現千葉市中央区)の城を捨て、新たな城を印旛沼に面した交通の拠点である「佐倉(現酒々井町本佐倉)」に移しました。16世紀前半には城下町も整い、本佐倉城は下総の政...下総国本佐倉城
武蔵国滝の城<タキノジョウ>別称本郷城城郭種別城郭縄張り平山城築城者大石定重築城年平安時代廃城年1590主な城主大石氏指定史跡県指定住所埼玉県所沢市城[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要滝の城は、狭山丘陵の一角が低地に向って落ちる急な崖を利用し、東南方を流れる柳瀬川を防御線とした平山城で、その敷地は約6万6千平方メートルである。現在でも本丸を中心とした遺構が良く保存されている。本丸は柳瀬川を眼下に見下す城の東南部に位置し、現在の社殿は櫓台跡の上にある。本丸の北西には、空堀へだてて二の郭的な曲輪があり、城はこの方向にいくつかの曲輪を配したようで、部分的に遺構が残存している。また、大手は、さらに北方に所在していたとみられている。この滝の城は、北条氏照の...武蔵国滝の城
常陸国玉造城<タマツクリジョウ>別称轟城城郭種別城郭縄張り丘城築城者玉造氏築城年室町時代中期廃城年1591主な城主玉造氏指定史跡なし/不明住所茨城県行方市玉造甲[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要常陸大掾氏の一族、行方宗幹(景幹)の四男四郎幹政が治承年間(1177~80年)に玉造に配され玉造氏を称する。天福元年(1133年)幹政は没するが、以後、子孫が歴代の城主となる。城が築かれたのは室町中期の寛正年間(1460~65年)で、戦国末期の永禄から天正年代に再構築したものとみられている。三方を低地(かつては水田)に囲まれた要害の地で、「中館(本丸)」・「搦」の三郭から成り、空堀や土塁が今も残る。天正19年(1591年)2月9日、城主玉造重幹が、「南方3...常陸国玉造城
武蔵国岩槻城<イワツキジョウ>別称岩付城、白鶴城、浮城城郭種別城郭縄張り平城築城者成田正等築城年不明廃城年1871主な城主成田氏、太田氏、後北条氏、大岡氏指定史跡なし/不明住所埼玉県さいたま市岩槻区太田[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物復元建造物概要岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力護大名の居城となりました。戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家...武蔵国岩槻城
常陸国取手館<トリデヤカタ>別称取手城城郭種別城郭縄張り平城築城者大掾貞国築城年不明廃城年不明主な城主不明指定史跡なし/不明住所茨城県取手市上高井[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ-現存建造物なし復元建造物なし概要この館は、玉里台地の最東端で、園部城のあった小川台地と相対しており、数多い館の中でも最も重要な位置を占め、幾度となく激闘を繰り返した歴史をもっている。取手館は、大掾貞国に命じて築かせたものであるが、天正16年4月末佐竹勢の猛攻に合い義国や栗又左近政清が兼務で守備したが、勇戦も空しく激戦の末陥落した。※現地看板より攻城記録国道355号線沿いの民家脇に細い通路がある。稲荷神社入口取手稲荷神社石柱看板この時期、藪すぎて入っていく気にはなれないので、ここで断念。2024/8訪...常陸国取手館
常陸国宍倉城<シシクラジョウ>別称城郭種別城郭縄張り丘城築城者不明築城年不明廃城年1602主な城主野田氏、菅谷氏、大山田氏指定史跡市指定住所茨城県かすみがうら市宍倉[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要この城は、堀と土塁で防備をかためる「掻上げ城」で、城郭は馬場、新宿、天王町に及び、周辺の低地を巧みに利用して築城されています。本丸の面積は約70アールで、宍倉城は永享(1429~1440)のころは野田遠江守の所管でしたが、その後菅谷氏の支配となり、文亀年間(1501~1503)には菅谷隠岐守貞次が城主でした。菅谷氏は小田氏の有力な武将で、当時出島の半分を領有していました。しかし、天正元年(1573)7月佐竹氏の攻撃をうけ、佐竹氏の家臣になったといわれて...常陸国宍倉城
常陸国芹沢城<セリザワジョウ>別称城郭種別城郭縄張り平城築城者芹沢秀幹築城年天文年間廃城年不明主な城主芹沢氏指定史跡なし/不明住所茨城県行方市芹沢[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要常陸大掾一族である芹沢氏は、吉田氏系(水戸地方からの別れ)の玉造氏とは違う大掾本家の多気氏の末裔にあたります。南北朝時代に芹沢氏の祖となる平竜太が相模国高座郡に所領を持ち芹沢の地に館を構えたとき氏を芹沢とし、成人後は幹文と改め、良幹、高幹、望幹四代にわたり鎌倉御所に仕えました。その後芹沢良忠が常陸へ戻り館を構え、秀幹の代天文年間(1532~54)に芹沢城が築かれたとされます。また、芹沢家は医薬の術を持つ豪族として戦国武将にも知られていました。相模国在住の時から医術と関わ...常陸国芹沢城
常陸国三村城<ミムラジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平山城築城者大掾常春築城年天正年間廃城年1574主な城主不明指定史跡なし/不明住所茨城県石岡市三村[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要三村城は府中城主大掾慶幹の次男常春の居城で、いまの三村小学校の敷地を中心とする一帯がその城跡である。府中の南方を防備するため、従来の館を中心に改修・拡張を重ね、周囲に土塁を築き、堀を構えて三村城とした。現在も城跡を中心に御城・城構内・諸士久保・根小屋といった地名が残されており、城郭の規模・形態をしのぶことができる。天正2年(1574)小田氏に攻められて落城し、城主常春も25年の短い生涯を閉じた。城跡の東南には菩提寺である曹洞宗萬隆山常春寺がある。※現地看板より攻城...常陸国三村城
常陸国飯塚館<イイヅカタテ>別称城郭種別城郭縄張り平山城築城者飯塚氏築城年不明廃城年1590主な城主飯塚氏指定史跡なし/不明住所茨城県小美玉市上玉里[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要平安時代の前期、常陸大掾平国香は府中(石岡)を中心に、広く常陸地方に強大な勢力を誇っていたが、その後裔の五郎衛門兼忠は玉里地方に領土を得て、飯塚の地に居館を構え飯塚氏を名乗り、府中外郭の守りと地域開発に努力した。この地一帯の要害に加えて、更に館の外郭を二重の濠、三重の土塁などをめぐらし、堅固に防備した跡が今も残されている。飯塚氏は永く繫栄し、一家にまつわる数数の伝説なども郷土に伝承されているが、天正年間の末(1590年頃)佐竹連合軍によって攻略され、大掾氏と運命を共に...常陸国飯塚館
常陸国木田余城<キダマリジョウ>別称城郭種別城郭縄張り信太氏築城者不明築城年不明廃城年1578主な城主信太氏、菅谷氏、小田氏指定史跡市指定住所茨城県土浦市木田余[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要木田余城は標高約2メートルの霞ヶ浦湖畔の低地に築かれた平城で、推定される本丸跡は字中条(中城)にあり、本丸の外側に濠が回っていたと思われる。小田氏の重臣信太氏の居城であったが、永禄12年(1569)手這坂の戦いで小田氏治が佐竹・真壁氏に敗れた翌年、離反を疑われた城主信太伊勢守が氏治に謀殺され(異説あり)、その後氏治が居城とした。天正6年(1578)7月、佐竹氏配下の梶原政景が木田余城を攻略し、氏治は土浦城に移った。間もなく小田勢は木田余城を取り戻すが、9月...常陸国木田余城
常陸国大和田城<オオワダジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り丘城築城者不明築城年不明廃城年不明主な城主不明指定史跡なし/不明住所茨城県かすみがうら市大和田[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要大和田城は、一の瀬川左岸の標高約25mの台地上の、旧霞ヶ浦町役場に位置している。台地先端をふたつに区切る堀切があり、旧霞ヶ浦町役場側の曲輪は、南側に腰郭を造築している。ふたつの郭の間には、深さ5mに及ぶ堀と土塁が台地の地形に沿ってみられている。県道141号線を挟み、西側の集落の南側にも土塁や堀が明瞭に残されており、集落を含む一帯が城館と考えられる。16世紀末には佐竹氏の支配になったと考えられ、それまでは、周辺地域と同様に小田氏と関連した領主の存在があったものと思わ...常陸国大和田城
常陸国牛久城<ウシクジョウ>別称岡見城城郭種別城郭縄張り梯郭式平山城築城者岡見氏築城年1550廃城年1623主な城主岡見氏、由良氏指定史跡市指定住所茨城県牛久市城中町[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ-現存建造物なし復元建造物なし概要牛久城は城主の岡見氏によって1550年頃に築造された。この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守を持たない典型的な遺構を残している。ここは、小田原北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方をぬまに囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られた極めて頑強な城になっている。多賀谷氏によって岡見氏の有力支城である谷田部城と足高城は落城したが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高木氏などの援軍を得て守り切った。牛久城は1...常陸国牛久城
阿波国勝瑞城[ショウズイジョウ]別称阿波屋形・下屋形・勝瑞屋形・勝瑞城館城郭構造平城築城年室町時代廃城年1582年指定史跡国指定住所板野郡藍住町勝瑞字東勝地29-2[MAP]スタンプ設置場所勝瑞現場事務所内史跡勝瑞城館跡展示室・武田石油御城印販売場所概要勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。天文22年(1553)、家臣...阿波国勝瑞城
武蔵国高月城<タカツキジョウ>別称高槻城城郭種別城郭縄張り連郭式山城築城者大石顕重築城年1458廃城年1590主な城主大石氏、北条氏指定史跡なし/不明住所東京都八王子市高月町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要高月城は、永禄年間に、武蔵国守護代であった大石顕重が築いたといわれ、滝山城に大石定重が城を移すまで、代々大石氏が居城としていた城として知られている。加住丘陵の自然の要害を利用し、秋川と多摩川の合流点近くに位置した小高い台地上に築かれており、現在は空堀・土塁等が一部のこっています。高月城は、大きく蛇行する秋川と多摩川の合流点近くに位置し、流れに突き出るような形になった加住北丘陵の自然の要害を利用した平山城となっています。武蔵国守護代大石氏により...武蔵国高月城
伊予国宇和島城[ウワジマジョウ]別称鶴島城・板島城・丸串城城郭構造梯郭式海城築城年不明廃城年1871年指定史跡国指定住所宇和島市丸之内1[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要宇和島城は慶長元~6年(1596~1601)、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎によって戦国時代の山城から近世の海城へと生まれ変わりました。当時は大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張でした。石垣や天守、櫓は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されますが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲しています。堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分28万㎡は失われていますが、本丸・二之丸等の郭を含む約10万㎡の城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つとなる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち...伊予国宇和島城
武蔵国用土城<ヨウドジョウ>別称高城城郭種別城郭縄張り平城築城者藤田康邦築城年1546廃城年1590主な城主用土氏指定史跡なし/不明住所埼玉県寄居町用土[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要本城は戦国の昔北武蔵の豪族藤田右衛門佐康邦が優勢なので、相模国小田原城主北條氏康は関東制圧の為その子氏邦を養子として遣わした。康邦は天下の形勢を察知し天文15年用土に築城し従来の居城花園城と天神山城を養子北條氏邦に譲り用土新左衛門と称し用土城に隠退した。其の後天正18年鉢形城が攻略された時陥落し、以後廃城となった。敷地4町2反歩内堀外堀等存在し老松鬱蒼としていたが大正5年開墾され今は昔の面影もないので後世のため馬場曲輪一同で本碑を建立した。※現地城址碑より寄居町農...武蔵国用土城
武蔵国中城<ナカジョウ>別称猿尾城城郭種別城郭縄張り単郭式平山城築城者猿尾氏築城年鎌倉時代廃城年不明主な城主猿尾氏指定史跡町指定住所埼玉県小川町大塚[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板なしスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要中城は、中世の土豪、猿尾氏の居城で中城跡といわれている。城内には記念碑や慰霊碑、仙覚律師遺跡などがあるが、城についての詳細は分かっていない。土塁や空堀はきれいに残されている。横堀主郭仙覚律師遺跡仙覚は、鎌倉時代の僧侶(天台宗)で、建仁3年(1203)常陸国(茨城県)に生まれたが、没年は不明である。万葉学者として知られる仙覚は、万葉集解読に半生を捧げた人で、彼の著作した「万葉集註釈」は、以後の万葉集研究の基礎をなしているといわれている。この奥書には「武蔵国比企郡北方の麻...武蔵国中城
武蔵国福岡城<フクオカジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者不明築城年室町時代廃城年不明主な城主不明指定史跡なし/不明住所埼玉県ふじみ野市福岡[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要下福岡城山公園を含む一帯は城山と呼ばれ、江戸時代後期成立の「新編武蔵風土記稿」では、後北条氏家臣富永善左衛門の居館であろうと記載されています。また、「城山と富永善左衛門」/井田実著(市史調査報告書第7集)によると、現地には伝承地名として、「戸開き(大手門)」、「たかまま(高馬場)」、「いぬ(乾の方位)木戸」、「湯殿(屋号、地名)」、「屋敷」などが確認されています。また、寛政6年(1794)の絵図面では、新河岸川が下福岡地域を北・東・南と回り込むように流れており、富永善...武蔵国福岡城
武蔵国忍城<オシジョウ>別称忍の浮き城、亀城城郭種別城郭縄張り輪郭式平城築城者成田親泰築城年1490廃城年1871主な城主成田氏指定史跡なし/不明住所埼玉県行田市本丸[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ行田市郷土博物館09:00-16:30(月曜定休)現存建造物北谷門(移築)、城門(移築)、門(移築)復元建造物櫓、模擬門概要忍城は文明10年(1478)頃成田顕泰により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという。寛永16年(1639)時の老中阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手孫の正武の代にいたり忍城御三階櫓の建...武蔵国忍城
武蔵国片倉城<カタクラジョウ>別称八王子城城郭種別城郭縄張り平山城築城者長井時広築城年室町時代廃城年不明主な城主長井氏、大石氏、北条氏指定史跡なし/不明住所東京都八王子市片倉町[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要片倉城跡は、湯殿川と兵衛側の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城郭です。北・東・南の外周部は約30メートルの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切がなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や、櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。駐車場片倉城跡公...武蔵国片倉城
武蔵国平塚城<ヒラツカジョウ>別称豊島城城郭種別城郭縄張り平山城築城者豊島近義築城年平安時代廃城年1478主な城主豊島氏指定史跡なし/不明住所東京都北区上中里[Google][地理院地図]城址碑なし現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を収める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神並びに別当城官寺縁起絵巻の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくたとされている。駐車場平塚神社平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流近義という人物が平塚城という城館をつくります。...武蔵国平塚城
武蔵国葛西城<カサイジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者葛西氏築城年不明廃城年1590主な城主葛西氏指定史跡都指定住所東京都葛飾区青戸[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表で確認できる遺構は認められない。築造者と築造の年代については不明であるが、天文7年(1538)2月には、北条氏綱によって葛西城が落城されたという記録(快元僧都記)があり、この後、葛西城は後北條氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。後北條氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は、将軍の鷹狩の際の休憩・宿舎(青戸御殿)として利用されていた。この葛西城が再び注目されるようになったの...武蔵国葛西城
武蔵国中曽根城<ナカソネジョウ>別称城郭種別城郭縄張り平城築城者千葉氏築城年不明廃城年不明主な城主千葉氏、太田氏指定史跡なし/不明住所東京都足立区本木[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板不明スタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要中曽根城は、室町時代千葉次郎勝胤公によって築城された。周囲六町四方(三十六ヘクタール)でそとがまえに堀や土居をめぐらしていたと伝えられている。今も小宇に、出戸、小屋の内出などの名が残っている。当社の境内は城の一部で、一段と高く、千葉氏の信仰する妙見社がまつられていた。幾星霜の間に周辺は耕地となり、現在は都市化した。昭和七年、妙見社と興野の雷社と合せて中曽根神社とし、当地の氏神として祀ったものである。※現地石碑より中曽根神社入口境内中曽根神社軍神である妙見菩薩を信仰し...武蔵国中曽根城
武蔵国稲付城<イナツケジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平山城築城者太田道灌築城年不明廃城年不明主な城主太田氏指定史跡都指定住所東京都北区赤羽西[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯あたりに太田道灌が築城したといわれている戦国時代の砦跡です。1987年に静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、1582年頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する「静勝寺除地検地絵図(1687年)」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には、鎌倉時代から岩渕の宿が、室町時代には関が設けられて街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、エドジ...武蔵国稲付城
武蔵国左入城<サニュウジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平城築城者不明築城年不明廃城年不明主な城主中丸氏指定史跡なし/不明住所東京都八王子市左入町[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要往古この地に左入城があった。中丸淡路守の居城であったと伝えられている。左入城は東西約400米、南北175米の卵形をなし、東南及び西に幅4~50米、深さ9米の空堀を巡らして、周囲は凡そ2000米に及び、西南に鵯(ひよどり)山を望み、北に谷萩川を帯びた要害の城塞であったと古老の口碑により伝えられてきた。また、これより西方500米の所に淡路守居城のおり調馬の用に供した馬場の址がある。尚、近年発見された伊能忠敬の日本地図にもこの地を「左入村中」、馬場の址を「左入村馬場谷戸」と明...武蔵国左入城
武蔵国由木城<ユギジョウ>別称柚木城・由木氏館・大石氏館城郭種別城郭縄張り平山城築城者由木氏築城年不明廃城年不明主な城主由木氏、長井氏、大石氏指定史跡市指定住所東京都八王子市下柚木[Google][地理院地図]城址碑あり現地案内板ありスタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要武州滝山城主大石源左衛門尉定久の居館があったといわれ、由木城とも呼ばれてる。定久はのちに隠居し「心月斎(真月斎)」と名のり、この一帯100万㎡の広大な地を永林寺々領としたという。このあたり野猿峠までを殿ヶ谷戸というが、これは「往昔由木氏が旧跡なるゆえ、おのずから殿のあとという心にて殿ヶ谷戸と唱えて、村の小名に称すなり」と「武蔵名勝図会」に記されているとおり、由木氏の居住地でもあったと推定される。総門天文15年(1546年)建立。文禄4年...武蔵国由木城
武蔵国滝野川城<タキノガワジョウ>別称なし城郭種別城郭縄張り平山城築城者滝野川氏築城年文明年間廃城年1477主な城主滝野川氏指定史跡なし/不明住所東京都北区滝野川[Google][地理院地図]城址碑不明現地案内板不明スタンプ現存建造物なし復元建造物なし概要石神井川沿いの金剛寺付近を中心に、この地の名族豊島氏の平塚城の支城であったと考えられる。文明9年(1477)太田道灌と戦い、本家豊島氏とともに滅亡し、廃城となる。また、源頼朝がかつて鎌倉へ向かう途中、この地に布陣したという伝承がのこっている。金剛寺源頼朝の布陣伝承地治承4年(1180)8月、源頼朝の三男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れ安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、墨田川・板橋を経て、府中...武蔵国滝野川城
伊予国大洲城[オオズジョウ]別称比志城・地蔵ヶ嶽城・大津城・亀城城郭構造梯郭式平山城築城年1331年廃城年1871年指定史跡県指定住所大洲市大洲903[MAP]スタンプ設置場所台所櫓入口(大洲城内入口)御城印販売場所概要大洲城は、鎌倉時代の末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近代城郭に整備されたのではないかと考えられます。元和3年(1617年)米子から加藤貞泰が入城しました。以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されまし...伊予国大洲城
甲府城[コウフジョウ]別名舞鶴城、一条小山城城郭構造梯郭式平山城築城者豊臣秀吉、徳川家康築城年1583年(天正11年)廃城年1873年(明治6年)指定史跡国の史跡場所山梨県甲府市地図スタンプ設置場所舞鶴城公園管理事務所、甲府城稲荷櫓御城印販売場所甲府市観光案内所概要甲府城は、天正10年(1582)の武田家の滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長5年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川一門が城主となり城番・城代制がしかれました。宝永元年(1704)以降には、柳沢吉...甲斐国甲府城
土佐国高知城[コウチジョウ]別称鷹城・大高坂山城・大高坂城・河中山城・高智山城城郭構造梯郭式平山城築城年1603年廃城年1871年指定史跡国指定住所高知市丸の内1-2-1[MAP]スタンプ設置場所高知城天守窓口御城印販売場所概要高知城はもと大高坂城といい、南北朝時代には大高坂松王丸がここに砦を築いて南朝方に味方して戦った記録がある。戦国時代の天正16(1588)年、土佐の国主であった長宗我部元親が岡豊城(南国市)から移ったが、豊臣秀吉が行った朝鮮へ出兵に備えるため、浦戸城(高知市浦戸)に居城を移した。期間が短く、その規模や構造は明らかでない。現在の高知城は、慶長5(1600)年の関ケ原の功績を認められて、土佐の初代藩主となった山内一豊によって慶長6(1601)年から築城され、本丸、二ノ丸が慶長8(1603...土佐国高知城
讃岐国高松城[タカマツジョウ]別称玉藻城城郭構造輪郭式海城築城年1590年廃城年1869年指定史跡国指定住所高松市玉藻町2-1[MAP]スタンプ設置場所玉藻公園管理事務所御城印販売場所概要天正15(1587)年に讃岐1国を与えられた生駒親正は、翌16年「野原」と呼ばれていた当地を「高松」と改め、高松城の築城を開始しました。天守も生駒時代に造られており、天守石垣からは生駒家の家紋が彫られた石材が見つかっています。生駒氏の治世は寛永17(1640)年の生駒騒動による転封まで4代54年間にわたりました。その後の寛永19(1642)年に松平頼重が入封し、寛文10(1670)年から天守の改築、東ノ丸・北ノ丸の新造といった事業を実施しました。2代藩主頼常の代には、月見櫓や艮櫓などの建造、大手の付け替え等が行われ、概ね...讃岐国高松城
摂津国安威城[アイジョウ]別称安威館ComingSoon城郭構造平城築城年永正間年廃城年1586年指定史跡指定なし住所大阪府茨木市安威[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要安威城は、土豪の安威氏によって築かれた城で、北の花園山にある砦と一対の城郭と考えられています。安威氏の記録は、「六波羅蜜寺文書(1363年)」の中に記されていることから、鎌倉時代の終わり頃には在地領主として居かれたと考えられ、城郭もこの頃に築かれたのではないかと考えられている。城の規模は、「大阪府全志」によると東西百間(約180メートル)、南北百五十間(約272メートル)とされ、また「東摂城址図誌」には、小字城垣内とされる南北五十五間半(約100メートル)、東西二十二間余(約22メートル)の地域に御殿台と呼ばれる土檀の存在を伝えて...摂津国安威城
阿波国一宮城[イチノミヤジョウ]別称阿波一宮城城郭構造梯郭式山城築城年1338年廃城年1638年指定史跡県指定住所徳島市一宮町[MAP]スタンプ設置場所一宮城登山口説明板横御城印販売場所概要一宮城は、前方に鮎喰川、後方に険しい山々がそびえ立つ自然の要害に築かれた大規模な山城であった。現在では、標高144メートルの本丸跡に石塁が残っており、その他、明神丸、才蔵丸、水手丸、小倉丸、椎丸、倉庫跡の遺構も明らかで、貯水池といわれるくぼ地もその跡をとどめている。この城は、南北朝時代、南朝に味方していた山岳武士の拠点であり、一宮氏が長年居城としていたが、成祐のとき土佐の長宗我部氏に占拠された。その後、豊臣秀吉が四国を平定し、天正13年(1585)、蜂須賀氏が最初入城したのが、一宮城であった。翌年、蜂須賀氏が徳島城に移...阿波国一宮城
伊予国湯築城[ユヅキジョウ]別称なし城郭構造梯郭式平山城築城年不明廃城年1587年指定史跡国指定住所松山市道後町[MAP]スタンプ設置場所湯築城資料館内御城印販売場所湯築城資料館内概要湯築城跡は、室町時代伊予国守護であった河野氏の城跡で、当時伊予国の政治の中心でした。河野氏は、風早郡河野郷(松山市北部)を本拠とした豪族で、12世紀末の源平合戦で源氏方として活躍し、鎌倉時代には伊予国で最も有力な武士になりました。河野氏が湯築城に本拠を移したのは、14世紀前半河野通盛の時といわれています。当時の道後は、道後温泉に古くから天皇が来湯するなど人々の往来が多く、伊予国内では経済的、文化的な要地でした。その後、河野氏の歴代当主が伊予国守護に任命されるようになると、この地は政治的な中心としても栄えるようになりました。河...伊予国湯築城
土佐国岡豊城[オコウジョウ]別称なし城郭構造連郭式山城築城年不明廃城年1591年指定史跡国指定住所南国市岡豊町八幡[MAP]スタンプ設置場所高知県立歴史民俗資料館御城印販売場所概要岡豊城跡は、長宗我部氏の居城跡として知られる中世の城跡で、平成20年(2008)7月28日に国の指定史跡となりました。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐へ入国したと伝えられており、それ以降、長岡郡を中心に勢力を拡げ、戦国大名へと成長していきました。岡豊城が築城された明確な時期は、不明ですが、長宗我部氏が岡豊城に拠点を構えたのは15世紀ころと考えられ、16世紀初頭に一度落城したとされています。後に再興され、大高坂城に移転する天正15・16年(1587・88)ころまで機能した山城と考えられています。※現地看板より高知県立歴史民俗資...土佐国岡豊城
阿波国徳島城[トクシマジョウ]別称渭山城・渭津城城郭構造梯郭式平山城築城年不明廃城年1869年指定史跡国指定住所徳島市徳島町城内1[MAP]スタンプ設置場所徳島市立徳島城博・都市整備部公園緑地課管理担当物館御城印販売場所概要徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石)の領主となった蜂須賀家政(1588~1638)によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力しました。徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西...阿波国徳島城
仁井屋城[ニイヤジョウ]別名白倉城城郭構造梯郭式丘城築城者白倉氏築城年戦国時代初期年(年)廃城年1590年(天正18年)指定史跡なし場所群馬県甘楽郡甘楽町地図スタンプ設置場所なし御城印販売場所なし概要上州八家のひとつ白倉氏の居城として築かれたと伝わります。東にある仁井屋城と西にある麻場城は別城一郭で、合わせて白倉城と呼ばれる。白倉氏は、小幡氏と並んで関東管領上杉氏の重鎮として、また四宿老(長尾、大石、小幡、白倉)の一人として活躍していました。関東の名城を歩く北関東編:茨城・栃木・群馬峰岸純夫吉川弘文館群馬のうまいラーメン2023-2024株式会社NLG株式会社ニューズ・ライン上野国仁井屋城(群馬県)
要害山城[ヨウガイサンジョウ]別名要害城、積翠山城城郭構造連郭式山城築城者武田信虎築城年1520年(永正17年)廃城年1600年(慶長5年)指定史跡国の史跡場所山梨県甲府市地図スタンプ設置場所甲府市藤村記念館御城印販売場所甲府市観光案内所概要要害城は、永正17年(1520)に武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急時に立てこもる詰の城としての役割を担っていました。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって利用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されました。城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、枡形虎口や郭が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪堀や堀切を要所に設けて防御を固めています。山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したものと推定されます。南東尾根上には支城の熊城があり、深い堀切で区切られ...甲斐国要害山城
越中国増山城[マスヤマジョウ]別称和田城城郭構造連郭式山城築城年1363年廃城年1615年指定史跡国指定住所砺波市増山[MAP]スタンプ設置場所砺波市埋蔵文化財センター09:30~17:00御上院販売場所砺波市埋蔵文化財センター09:30~17:00概要城は、立地条件によって平城、平山城、山城に分類されますが、増山城は典型的な山城です。山城は、山そのものに普請(土木工事)を加え、郭や堀などの防御施設を作り出すタイプのお城です。富山県内には大小400以上の城があるといわれますが、増山城は規模や歴史的重要性などから”越中三大山城”(増山城・森山城(高岡市)・松倉城(魚津市))に数えられています。増山城の歴史は古く、南北朝時代の14世紀後半に「和田城」として登場します。17世紀初頭の廃城までの約250年の間、越...越中国増山城
陸奥国浪岡城[ナミオカジョウ]別称浪岡御所城郭構造平城築城年不明廃城年1578指定史跡国指定住所青森市浪岡大字浪岡五所14?1[MAP]スタンプ設置場所浪岡城跡案内所御城印販売場所概要浪岡城は、南北朝時代に後醍醐天皇を助けた、北畠親房、顕家の子孫が居住したといわれています。城ができたのは応仁の乱(1467-77)ころ、最盛期は天文年間(1532-55)ころと思われます。永禄5年(1562)に親族間の争い(川原御所の乱)が起こり、城主が殺され浪岡北畠氏の勢力も衰え、天正6年(1578)、大浦(津軽)為信に攻められ、浪岡城は落城しました。※現地案内板より城跡公園昭和15年に青森県初の国史跡指定を受け、一部が公園、ほかは農地として利用されてきました。その後史跡公園にするため、昭和44年から49年までで、約8割の...陸奥国浪岡城
二俣城[フタマタジョウ]別名蜷原城城郭構造連郭式山城築城者二俣昌長築城年16世紀年(年)廃城年1600年(慶長5年)指定史跡国の史跡場所静岡県浜松市地図スタンプ設置場所なし御城印販売場所天竜区観光協会概要天竜川と二俣川が合流する天然の要害に築かれた城跡です。元亀3年(1572)から天正3年(1575)のあいだ、武田信玄・勝頼と徳川家康による争奪戦が繰り広げられました。徳川家康が領有していた天正7年(1579)、織田信長の嫌疑にかけられた家康の長男、信康は、この城に幽閉され自刃しました。信康の生母である築山殿は、井伊直平の孫であり、直平の曾孫である井伊直虎とは親戚筋にあたります。※現地看板より二俣城は、信州や三河等へ通ずる所として物資や人の往来、又軍事面でも重要な場所でありました。武田軍と徳川軍との攻防の末...遠江国二俣城
越中国富山城[トヤマジョウ]別称安住城・浮城城郭構造梯郭式平城築城年1543年廃城年1871年指定史跡指定なし住所富山市本丸1-62[MAP]スタンプ設置場所富山市郷土博物館09:00~16:30御上院販売場所富山市まちなか観光案内所09:00~17:30概要昭和29年、富山城址一帯で富山産業博覧会が開催されました。これは、昭和20年8月2日未明の空襲によって、壊滅的な被害を受けた富山市街の復興事業完了を機に開催されたものです。その際、記念の恒久建築物として建設されたのが富山市郷土博物館(富山城)です。旧本丸鉄門跡の石垣上に建てられた、鉄筋コンクリート造りの建物で、望楼を乗せた三重四階の天守、二重二階の小天守など、城郭の意匠でまとめられています。その外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計されてお...越中国富山城
出羽国久保田城[クボタジョウ]別称窪田城・矢留城・葛根城・秋田城城郭構造平山城築城年1604年廃城年1880年指定史跡市指定住所秋田市千秋公園1-39[MAP]スタンプ設置場所久保田城御隅櫓開館時間:9:00~16:30御城印販売場所概要久保田城は、秋田二十万石佐竹氏の居城である。秋田初代義宣(よしのぶ)が慶長七年(1602)入部し、翌八年現在地に築城した。天守と石垣のない城として知られている。本丸は明治十三年公園として開放されその後千秋公園と称し現在に至っている。※現地看板より二の丸跡本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊り...出羽国久保田城
武蔵国江戸城[エドジョウ]別称千代田城城郭構造輪郭式平城築城年1457年廃城年1868年指定史跡特別史跡住所千代田区千代田1?1[MAP]スタンプ設置場所渋沢×北区飛鳥山おみやげ館御城印販売場所楠公休憩場、和田倉休憩場、北の丸休憩場概要江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。この江戸城跡は、3百年近くにわたる将軍の居所として、また...武蔵国江戸城
蝦夷国大野口台場[オオノグチダイバ]別称なしComingSoon城郭構造台場築城年1869廃城年不明指定史跡指定なし住所北斗市村山[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要大野口台場は、戸切地平野の北のはずれにある中山峠を背にする要害の地で、土方歳三を隊長とする榎本軍(約300人)が台場を構築し、下二股川の崖を挟んで二股口の戦いとなる。矢不来の戦いで榎本軍が敗れ、陣を撤退することとなった。五稜星形(23m×20m)と台形(14m×13m)のふたつの台場があったが、開墾にともなう土取りで消滅した。ブラタモリ3函館川越奈良仙台NHK「ブラタモリ」制作班KADOKAWA函館グルメ開発課の草壁君お弁当は鮭のおにぎらず(宝島社文庫)森崎緩宝島社蝦夷国大野口台場
出羽国秋田城[アキタジョウ]別称出羽柵城郭構造柵築城年733年廃城年不明指定史跡指定なし住所秋田市寺内大畑4-1[MAP]スタンプ設置場所・秋田市立秋田城跡歴史資料館・史跡公園管理棟(無料で押印可)御城印販売場所概要秋田城は奈良時代から平安時代にわたっておかれた、日本最北端の大規模な役所で政治、軍事、文化の中心地でした。天平5年(733)に、秋田村高清水岡に造られた当初は「出羽柵」と呼ばれ、やがて天平宝字4年(760)年ころ秋田城と呼ばれるようになりました。秋田城跡は、昭和14年(1939)9月に90ヘクタールが国の史跡に指定されました。昭和47年(1972)から発掘調査を開始し、現在も継続中です。※現地案内板より駐車場城内東西大路この道路は、政庁から外郭東門に至り外郭外側までほぼ真っすぐに延びていました...出羽国秋田城
陸奥国亘理城[ワタリジョウ]別称亘理要害・臥牛城城郭構造平山城築城年天正年間年廃城年1870年指定史跡指定なし住所亘理郡亘理町亘理[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要この地に居を構えた亘理氏が天正19年(1591年)涌谷に移った後、片倉小十郎景綱がここに入った。慶長7年(1602年)片倉氏は白石城に移り、居城を引き継いだ伊達成実は亘理要害の改修を行い又城下町を建設し、亘理郡と相馬郡の一部を治めた。通称の臥牛城は賀名であって、地形が牛の臥せた形に似ているのがこの名のおこりともいわれている。※現地看板より亘理神社鳥居亘理要害(臥牛城)図裏門方面道路の向こう側に見える平地も本丸の一部です。道路で分断されています。詰門方面ここより更に東側にあるヨークベニマル亘理店のある場所が二の丸跡です。本丸跡ここは、江...陸奥国亘理城
陸奥国陸奥小堤城[コヅツミジョウ]別称大雄寺館城郭構造平山城築城年1302年廃城年不明指定史跡指定なし住所亘理郡亘理町泉ケ入91[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要中世の亘理を治めた亘理氏(武石氏)の居城と伝えられる。城の範囲は大雄寺敷地の大部分を占め、寺の敷地を囲むように土塁があり、中世城郭の面影を残している。また、東南の突き出た一角は曲輪(くるわ)だったと考えられる。※現地標柱より大雄寺山門江戸時代後期のもので亘理町指定文化財の山門(楼門)です。本堂慶長9年(1604)伊達成実が福島県信夫郡小倉村(福島県福島市)にあった伊達家菩提寺陽林寺から父実元の位牌を奉じ、萬松山雄山寺を開創した。亘理伊達家霊屋と歴代墓所伊達成実霊屋成実は慶長7年(1602)35歳で領主となり、正保3年(1646)79歳で...陸奥国小堤城
陸奥国若林城[ワカバヤシジョウ]別称小泉古城ComingSoon城郭構造単郭式平城築城年1628年廃城年1636年指定史跡指定なし住所仙台市若林区古城2丁目3[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要仙台藩祖伊達政宗の晩年の居城である。当地は戦国時代の領主である国分氏の城があったとされ、城の北側では同時期の屋敷跡が発掘されており、薬師堂(陸奥国分寺跡の地)門前の町場とともに、一帯は政治的・経済的拠点の一つであり交通の要衝であった。城の位置の選定にあたってはこれらの利点を考慮したと考えられる。現在の「若林区」の区名はこの若林城に由来している。この城は広瀬川の自然堤防上の微高地に立地する平城である。寛永4年(1627)築城が開始され、翌年に完成した。城の規模は東西約400m、南北約350mである。緑辺には土...陸奥国若林城
陸奥国千石城[センゴクジョウ]別称千石館・松山城・松山館・文覚館ComingSoon城郭構造山城築城年1401年廃城年不明指定史跡指定なし住所大崎市松山千石本丸6[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要千石城は千石村に所在したのでその名称がつきました。「茂庭家記録」によると文覚館といわれ、文覚上人が築いたとありますが明確な築城年代はわかりません。しかし初期の居館が鎌倉時代には存在したともいわれます。城を築いたとされる文覚上人の後裔が遠藤氏であったと伝えられており、盛継が鎌倉公方足利満兼から志田・玉造・加美の三郡奉行に任ぜられ、応永8年(1401)に関東より長世保に下向したとされます。以後、遠藤氏は天正19年(1591)登米郡石森に移されるまで千石城に居住し、松山郷全域を支配しました。千石城が本格的に整...陸奥国千石城
陸奥国仙台城[センダイジョウ]別称青葉城・五城楼城郭構造連郭式平山城築城年1601年廃城年1871年指定史跡国指定住所仙台市青葉区川内[MAP]スタンプ設置場所仙台城見聞館9時~17時御城印販売場所青葉城本丸会館概要伊達政宗によって築かれた伊達氏の居城跡です。建設地の青葉山はかつて霊場であった場所で、そこに自然地形を活かし、高い石垣をもつ城郭を築きました。関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)12月に城の縄張が行われ、翌年1月から普請に着工。工事は慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。二の丸は2代藩主忠宗によって造営され、以降藩政の中心となりました。※現地看板より五色沼明治中期、外国人たちがこの場所でスケートを始め、明治42年(1909)頃に第二高等学校生がドイツ語教師ウィルヘルから...陸奥国仙台城
陸奥国角田城[カクダジョウ]別称角田館・角田要害・金鶏館城郭構造平山城築城年永禄年間年廃城年1874年指定史跡指定なし住所角田市角田牛館[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要角田城は、臥牛舘・金鶏館とも呼ばれ、伊達氏の居城でした。白石城、亘理城と並んで南からの敵に対する防衛の拠点として、仙台藩の重要な要害の城でした。永禄年間には、伊達市の庶流である田手氏が、天正19年(1591)には伊達成実(伊達政宗の父の従兄弟)が居城したと伝わります。慶長3年(1598)伊達家御一門石川照光が1万石を与えられた志田郡松山より移封、以後明治維新に到るまで約270年間、石川氏の居城となった。城跡碑城跡は現在角田高校、角田中学校になっているため、これより先に進むのは遠慮しました。城跡碑と、その背後に土塁が見える。案内看...陸奥国角田城
陸奥国多賀城[タガジョウ]別称多賀柵城郭構造柵築城年724年廃城年不明指定史跡特別史跡住所多賀城市市川字城前[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていました。多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。多賀城の平面形は、不正方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。※現地看板より外郭南門跡総瓦葺の重層八脚門があったと推定されています。多賀城碑多賀城碑は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)とともに、日本三古碑のひとつに数えられています。西多賀城去京一千五百里去蝦夷國界一...陸奥国多賀城
陸奥国盛岡城[モリオカジョウ]別称不来方城城郭構造連郭式平山城築城年1598年廃城年1871年指定史跡国指定住所盛岡市内丸1?37[MAP]スタンプ設置場所もりおか歴史文化館御城印販売場所概要盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。城の縄張は豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を...陸奥国盛岡城
陸奥国白石城[シロイシジョウ]別称益岡城・桝岡城・枡岡城城郭構造梯郭式平山城築城年不明廃城年1875年指定史跡指定なし住所白石市益岡町1-16[MAP]スタンプ設置場所白石城天守閣(入場料必要)御城印販売場所白石城管理事務所概要天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門氏成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。慶長3年(1598)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。※現地看板より駐車場横綱像馬場跡井戸屋形(復元)...陸奥国白石城
陸奥国藤崎城[フジサキジョウ]別称なし城郭構造平城築城年1092年廃城年1585年指定史跡指定なし住所南津軽郡藤崎町大字藤崎梨ノ木[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要藤崎城は、安東氏の発祥の地です。東北地方の大豪族安倍氏が前九年の役で戦死した、安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、後に安東氏を称して藤崎城を築き、領国経営の重要な拠点としていました。安東氏は、土着の豪族として室町時代の15世紀半ばまでの350年あまり津軽で勢力をふるいました。15世紀の半ばから、津軽に進出した南部氏の津軽支配の拠点として使われ、同時期に大浦為信の軍勢が、石川城の南部高信を急襲して津軽統一に出ると、藤崎城は大浦氏の支配となり、廃城になりました。国道7号線バイパス藤崎城土塁の跡八幡宮前九年...陸奥国藤崎城
陸奥国堀越城[ホリコシジョウ]別称なし城郭構造平城築城年1336年廃城年1615年指定史跡国指定住所弘前市堀越柏田[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要堀越城は、戦国時代末期、のちの弘前藩初代藩主津軽為信により、津軽統治の拠点として整備されました。為信は元禄3年(1594)に本拠を大浦城から堀越城へと移し、慶長12年(1607)に京で死去するが、後に二代藩主信枚が弘前城築城するまでの津軽氏の居城として堀越城が使用されていました。城址は国指定史跡となり、平成の発掘調査により史跡公園として整備され、公開されています。本丸東門跡本丸本丸御殿跡熊野宮土塁本丸西門跡内堀二の丸二の丸虎口外堀二重堀三の丸三の丸南門跡内堀外構旧石戸谷家住宅2018/5訪問陸奥国堀越城
陸奥国弘前城[ヒロサキジョウ]別称鷹岡城・鷹ヶ岡城・高岡城城郭構造梯郭式平山城築城年1611年廃城年1871年指定史跡国指定住所弘前市下白銀町1[MAP]スタンプ設置場所弘前城情報館09:00~17:00御城印販売場所弘前城情報館09:00~17:00概要弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。面積約49万2千平方メートル(約14万9千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓三棟、城門五棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。※現地案内板より外堀追手口未申櫓中堀東内門下乗橋亀石本丸天守本丸未申櫓跡蓮池鷹丘橋北の丸北門口ライトアッ...陸奥国弘前城
陸奥国三戸城[サンノヘジョウ]別称留ヶ崎城・御古城ComingSoon城郭構造山城築城年永禄年間年廃城年不明指定史跡国指定住所三戸郡三戸町梅内城ノ下34?2[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国三戸城
陸奥国佐々木館[ササキダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所三戸郡田子町相米相米向[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国佐々木館
陸奥国剣吉城[ケンヨシジョウ]別称剣吉館・大館ComingSoon城郭構造平山城築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所三戸郡南部町剣吉大館[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国剣吉城
陸奥国浅水城[アサミズジョウ]別称四戸城ComingSoon城郭構造平山城築城年不明廃城年1631年指定史跡指定なし住所三戸郡五戸町浅水浅水70[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国浅水城
陸奥国中野不動館[ナカノフドウダテ]別称不動館城ComingSoon城郭構造居館築城年天正年間年廃城年不明指定史跡指定なし住所黒石市南中野家岸[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国中野不動館
陸奥国黒石城[クロイシジョウ]別称黒石陣屋・烏城ComingSoon城郭構造陣屋築城年1656年廃城年不明指定史跡指定なし住所黒石市内町[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国黒石城
陸奥国浅瀬石城[アセイシジョウ]別称汗石城・浅石城ComingSoon城郭構造平山城築城年1240年廃城年不明指定史跡指定なし住所黒石市高賀野他[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国浅瀬石城
陸奥国大和沢館[オオワサワダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所弘前市大和沢里見[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国大和沢館
陸奥国小栗山館[コグリヤマダテ]別称小栗山楯ComingSoon城郭構造居館築城年鎌倉時代後期年廃城年不明指定史跡指定なし住所弘前市小栗山沢部[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国小栗山館
陸奥国笹森館[ササモリダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所弘前市独狐石田[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国笹森館
陸奥国三世寺館[サンゼジダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所弘前市三世寺色吉5[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国三世寺館
陸奥国福島城[フクシマジョウ]別称なしComingSoon城郭構造平城築城年正和年間年廃城年1443年指定史跡国指定住所五所川原市相内露草[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国福島城
陸奥国乳井城[ニュウイジョウ]別称大隅館・大館ComingSoon城郭構造平山城築城年室町時代後期年廃城年不明指定史跡指定なし住所弘前市薬師堂舘ノ平9?3[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国乳井城
陸奥国乳井茶臼館[ニュウイチャウスダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所弘前市乳井[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国乳井茶臼館
陸奥国和徳城[ワットクジョウ]別称なしComingSoon城郭構造平城築城年弘和年間年廃城年不明指定史跡指定なし住所弘前市和徳町210-3[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon陸奥国和徳城
武蔵国大丸城[オオマルジョウ]別称なし城郭構造円郭式山城築城年14世紀年廃城年16世紀年指定史跡指定なし住所稲城市大丸[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所概要大丸城は、多摩ニュータウンの造成に先立って、昭和55年から61年にかけて三次の発掘調査が行われた。この調査により、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合遺跡であることが判明し、さらに中世の城郭跡と武蔵国分寺や国府とも関係の深い奈良時代の瓦窯跡が発見され、貴重な成果が得られた。中世時代に築かれた大丸城は、山頂部に主郭を置く山城である。主郭の上には小建物跡と柵列跡があり、主郭のまわりには深さ2メートル~3メートルの空堀と土塁状の腰郭(第二郭)がめぐっていた。この結果、見張り台程度の規模の山城で、南北朝時代から戦国時代(14世紀~16世紀)頃に使わ...武蔵大丸城
越後国高田城[タカダジョウ]別称鮫ヶ城・関城・高陽城城郭構造輪郭式平城築城年1614年廃城年1871年指定史跡指定なし住所上越市本城町[MAP]スタンプ設置場所高田城三重櫓09:00~17:00御上院販売場所上越市立歴史博物館09:00~17:00概要高田城は慶長19年(1614)に越後太守松平忠輝の居城として築城されたもので、石垣や天守はなく、御殿を中心に広大な城郭で構成されている平城です。築城は、幕府の命により国役普請で、仙台藩主伊達政宗ら13大名によって行われ、関川・青田川・儀明川の流路を変え、天然の地形を効果的に利用して築城されました。陸軍第十三師団が入城する際、土塁の大半を崩して堀を埋める工事が行われたことによって改変されているものの、三重櫓や極楽橋など復元され、現在は高田城址公園として市民の散...高田城(新潟県)
蝦夷国矢不来館[ヤフライダテ]別称なしComingSoon城郭構造単郭式居館築城年室町時代年廃城年不明指定史跡指定なし住所北斗市字矢不来[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国矢不来館
蝦夷国フゴッペチャシ[フゴッペチャシ]別称なしComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所余市郡余市町栄町[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国フゴッペチャシ
蝦夷国上之国館[カツヤマダテ]別称勝山館ComingSoon城郭構造居館築城年1443年廃城年不明指定史跡国指定住所檜山郡上ノ国町勝山427[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国上之国館
蝦夷国国分館[コクブンダテ]別称なしComingSoon城郭構造山城築城年1869年廃城年不明指定史跡指定なし住所檜山郡厚沢部町新栄269[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国国分館
蝦夷国洲崎館[スザキダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所檜山郡上ノ国町勝山[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国洲崎館
蝦夷国館城[タテジョウ]別称新城・館村御立退所ComingSoon城郭構造平山城築城年1868年廃城年不明指定史跡指定なし住所檜山郡厚沢部町城丘[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国館城
蝦夷国花沢館[ハナザワダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所檜山郡上ノ国町勝山[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国花沢館
蝦夷国比石館[ヒイシダテ]別称なしComingSoon城郭構造居館築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所檜山郡上ノ国町館野[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国比石館
蝦夷国ウライケチャシ[ウライケチャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市富士見3丁目6?30[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国ウライケチャシ
蝦夷国桂恋チャシ[カツラコイチャシ]別称なしComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市桂恋140[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国桂恋チャシ
蝦夷国桂恋フシココタンチャシ[カツラコイフシココタンチャシ]別称なしComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市桂恋[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国桂恋フシココタンチャシ
蝦夷国桂恋方形チャシ[カツラコイホウケイチャシ]別称なしComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市桂恋[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国桂恋方形チャシ
蝦夷国知人岬チャシ[シリトミサキチャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市米町2丁目9[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国知人岬チャシ
蝦夷国チューカツナイチャシ[チューカツナイチャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市春採1丁目5[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国チューカツナイチャシ
蝦夷国幣舞チャシ[ヌサマイチャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市幣舞町4[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国幣舞チャシ
蝦夷国ハルトルチャランケチャシ[ハルトルチャランケチャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市春湖台1[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国ハルトルチャランケチャシ
蝦夷国モシリヤチャシ[モシリヤチャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路市城山1丁目10?34[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon蝦夷国モシリヤチャシ
蝦夷国天寧南チャシ[テンネイエキチャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路郡釧路町中央10丁目[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon天寧南チャシ
蝦夷国テンネル第1チャシ[テンネル第1チャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路郡釧路町中央8丁目[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoonテンネル第1チャシ
蝦夷国遠矢第1チャシ[トオヤダイ1チャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路郡釧路町南陽台2丁目1[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon遠矢第1チャシ
蝦夷国遠矢第2チャシ[トオヤダイ2チャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路郡釧路町遠矢1丁目18[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon遠矢第2チャシ
蝦夷国遠矢第3チャシ[トオヤダイ3チャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路郡釧路町遠矢1丁目[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon遠矢第3チャシ
蝦夷国太櫓チャシ[フトロチャシ]別称なしComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所久遠郡せたな町[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon太櫓チャシ
蝦夷国床丹1チャシ[トコタン1チャシ]別称釧路川流域チャシ群ComingSoon城郭構造チャシ築城年不明廃城年不明指定史跡指定なし住所釧路郡釧路町別保原野南19線[MAP]スタンプ設置場所御城印販売場所ComingSoon床丹1チャシ
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