Ryo Daimonji Blog蜻蜒やとりつきかねし草の上 松尾芭蕉 一匹のとんぼが、草の葉に止まろうとするのだがその芒のような葉のしなりに止まりかねている様を写生している。それはとてもよく理解できるのだが、この句元禄三年1690年の作とある。つまり335年前の光景なのだ
Ryo Daimonji Blog蓮池や折らで其のまゝ玉まつり 芭蕉 玉まつりは魂祭とも表し、いわゆる先祖を祀る盆行事のことであった。池の蓮を折りとることなくそのまま盆の供花とすると言った意味で、蓮池に盆の風情が立ち込める初秋の句となっている。
Ryo Daimonji Blog生身魂ひよこひよこ歩き給ひけり 細川加賀 生身魂とは父母主人、親方などの目上の者、この方に子供や目下の者が饗応したり贈り物をするなどのお盆の行事である。その生身魂がひよこひよこ歩いておられた、と敬語こそ使うが揶揄しているのである。こ
Ryo Daimonji Blogすのこふめばはたと鳴きやむきりぎりす 虚子 すのことは、竹や板を間をすかせてはった床との、見事な定義を得た。そしてその下にいるキリギリスはギッチョともいい、それは大きくスイッチョと鳴く。そのキリギリスがすのこを踏むとはたと鳴きやんだ
Ryo Daimonji Blogはつ龝(あき)や海も青田の一みどり 芭蕉 はつ龝で初秋という意味であるらしい。龝これであきと読むとは、はじめての漢字であった、この字はさらに穐とも書き、いわゆる秋のこととなる。漢字の深さに改めて見入ることであった。初秋の海の青も広がる
Ryo Daimonji Blog暁や盥の中の秋の水 虚子 この句、盥の中の水に秋という季節を特に感じている。しかも宵、夜中に続く未明の刻、つまり暁どきをや切れで詠嘆して見せるに及んでなんとも不可解な俳句となっている。比較的大きな盥に汲み置かれた水は何のための水であ
Ryo Daimonji Blog巣を歩く蜂のあしおと秋の昼 宇佐美魚目 この句の蜂はカネバチ、スズメバチだろうと思う。大きな巣になるのでたいがい駆除されることが多い。数匹が、あるいはうじゃうじゃと巣を歩く景はすぐに目に浮かぶ。しかし足音となると聞いた気もするがそれ
Ryo Daimonji Blogよき家や雀よろこぶ背戸の粟 芭蕉 まことに良い家だ。家の裏には豊かに粟(あわ)が実り、雀たちも喜びついばんでいる。新宅を祝う挨拶句である。(明治書院 新芭蕉俳句大成)下五「背戸の秋」との説もあるようですが「背戸の粟」が具体的でいいよう
Ryo Daimonji Blog経箱の底に蟲なく清涼寺 虚子 元句には經箱とあったが経箱で、お経を入れておく箱のことだそうな。その経箱の底に蟲が鳴くとは、俳人への思はぬサービスで虚子さんがこれを見逃がすはずがない。清涼寺は嵯峨にある立派なお寺でまだ行ったことがない。
Ryo Daimonji Blog石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり 富澤赤黄男上五中七、「石の上に秋の鬼ゐて」作者の生活圏の石なのか全く観念上の石なのか、何故秋の鬼なのか冬や夏ではいけないのか。そしてその鬼は火をたいた。この石は日本国を意味し、秋の鬼はやがて来る太平洋戦
Ryo Daimonji Blog何事の見たてにも似ず三かの月 芭蕉 確かに三日月は、詩歌連俳にて舟・黛・弓など多くのものに喩えられてきた。しかし、どんなものよりも実際の三日月は美しい。(小学館 芭蕉全句)この句の下五の季語「三かの月」早速歳時記で確認するのだが、この
Ryo Daimonji Blog泥ながら露けき歯朶の山路かな 虚子 泥路ではあるけれど露おおい歯朶がおおう、山路であることだなあ。と訳してみた。泥に逆説の接続詞「ながら」を上述のようにかけて読み込んでみた。
Ryo Daimonji Blog糸電話古人の秋につながりぬ 摂津幸彦 糸電話で遊んでいるうちに、古人の秋につながったと言う。携帯電話の現代、世界中から電話がかかる時代である。あながち古人に電話がつながったとしても不思議ではないのかもしれない。糸電話と言うおもちゃの電
Ryo Daimonji Blogあの雲は稲妻を待たより哉 芭蕉 豊作を告げる稲妻を待つ人へ、あの雲は稲妻が来るよとの便りなんだなあ。この句は、雲をたよりと例えている。稲妻を誰が待ち、誰への便りだというのか、その省略が乱暴に感じる。とはいえ、稲妻が豊作をもたらすと今
Ryo Daimonji Blogけさの秋もの静かなる端位かな 虚子 家にいてできるだけ涼しい窓辺や縁側に身を寄せている。そういえば今日は立秋で秋の始まりだ。そう思うだけであたりにも静けさが広がるようだ。夏の季語「端位」秋の季語「けさの秋」、季重なりを使い夏から秋
Ryo Daimonji Blog頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋 確かに立秋を過ぎた夏野は朱色ぽいし、初夏の夏野は光に溢れ白色にちかい、これは僕の夏野のイメージだ。 この句は頭の中で夏野をイメージして白いという。具体的に何を詠んでいるのかわからないが、 観念
Ryo Daimonji Blogたびにあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風 芭蕉 旅に飽きを感じるようになってから幾日経ったことだろう、秋の風が吹くようになった。連日の猛暑でうんざりする夏日であるが、今日(8/7)立秋と聞くと何やら日差しも弱く風も爽やかに感じる。この句、た
Ryo Daimonji Blog手も足もおしうづむ砂の清水かな 虚子 砂に横たわりその上から砂をかける温泉を何かで見たことがある。そう言うことの一種であろうと思うのだが、砂の清水とあって何がしかの説明がないと意味がわからない。手も足もおしうづむほどに砂の清水をかけら
Ryo Daimonji Blogかほ洗ふ水の凹凸揚羽くる 杉山久子 この句のポイントは中七「水の凹凸」である。つまり顔を洗っているのだが、その場所である。私は作者の家周りの清水流れる裏手の手洗い場と解した。洗濯場を兼ねる小さな流れでもいい。その凹凸で顔を洗っていると
Ryo Daimonji Blog灌仏の日に生まれあふ鹿の子哉 芭蕉 因みにこの句の季語、「灌仏・灌仏会」は、講談社 新日本大歳時記、角川俳句大歳時記に春。「鹿の子」も共に夏。小学館 芭蕉全句は季語を「鹿の子」として夏とする。鹿の子が主季語、灌仏の日が従季語と納得する
Ryo Daimonji Blog常盤木の落葉ふみうき別れかな 虚子 常盤木の落葉、すなわち常緑樹の落葉をふみで夏を言うのだが難しい季感である。その別れに人間の感情が具体的に読めない。率直にうっとおしい別れであったなあ、と詠嘆していると解するほかない。
Ryo Daimonji Blog耳は葉に葉は耳になり青葉闇 堀本祐樹 昼でも暗い青葉の茂みで耳は葉になり葉は耳になる。と青葉闇を介して植物と同化する感覚を詠んでいる、と解した。確かに何某の葉は形状が耳に似ていてこの例えは理解できる。互いの存在を聴覚で感じようとする若
Ryo Daimonji Blog一ッぬひで後に負ぬ衣がへ 芭蕉 旅の途中であろうか、重ね着の一枚を脱いで背におうた。そう言えば衣更の季節であった。これで、私の衣替えとしよう。何気ない所作に衣更と言う季感を思う。俳人の俳人たる所以のところである。素敵なウイットとい
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Ryo Daimonji Blog蜻蜒やとりつきかねし草の上 松尾芭蕉 一匹のとんぼが、草の葉に止まろうとするのだがその芒のような葉のしなりに止まりかねている様を写生している。それはとてもよく理解できるのだが、この句元禄三年1690年の作とある。つまり335年前の光景なのだ
Ryo Daimonji Blog藺の花の上漕ぐ船や五月雨 高浜虚子 藺の花はイグサ科の多年草で山野、湿地に自生するが水田でも栽培されるそうである。そういう川か湿地を、船で巡るところがあってそこで詠まれたようである。完全に水没している藺の花ということでなく、藺の
Ryo Daimonji Blog島の教会かとりせんかう置くあはれ 小澤實 前書に長崎とある一連の一句である。多勢の人がお参りされていたのかどうか、定かではないが蚊取り線香が置かれている。下五「あはれ」喜び、悲しみ、同情など心にジーンとくる情感とある。お参りする人への
Ryo Daimonji Blog玉祭りけふも焼場のけぶり哉 松尾芭蕉 玉祭りと、一気に秋へ飛んでしまう。盆の義仲寺内の無名庵の竜が丘墓地での一句のようだ。こういう場面で思い出すのはネット動画のガンジス川の河畔での荼毘のシーンだ。河畔であっても荼毘に付されるのはまだ
Ryo Daimonji Blog三味弾いて銭乞ふ船や涼み舟 高浜虚子 例えば川下りの屋形舟なぞに三味線弾きが乗り込み掲句のような巡りになったのかもしれない。わずかな銭、とは言えプロの技には憧れてしまうものである。私ごとで言えば、京都三条木屋町の高瀬川あたりで長渕剛を
Ryo Daimonji Blog花冷えや都電と都電すれちがふ 小澤實 都電は1972年(昭和47年)末までに、荒川線以外の全路線が廃止されたそうですが、その都電が花冷えの頃すれちがった、という俳句です。私の京都でも昭和五十三年に廃止されたようですが、北大路を市電で移動する
Ryo Daimonji Blog我に似るなふたつにわれし真桑瓜 松尾芭蕉 この一句、まづは上五「我に似るな」で俳句を志す若者に「私に似るな」と言っている、とわかるか。次に中七下五「ふたつにわれし真桑瓜」を「瓜を二つに割りたる如し」つまりうり二つにによく似ているとの俚
Ryo Daimonji Blog薮入のすこし覚えし京言葉 高浜虚子 私のような田舎に暮らす者は異文化にはとても敏感である。特に関東圏に暮らす人がペラペラと東京弁で仰ると殺される前の猫のようにじっと目をみはり聞いてしまうのである。薮入ですこし身についた京言葉で挨拶
Ryo Daimonji Blog即死以外は死者に数へず御柱 小澤實 私を必要と思われるなら生かし、不必要と思われるなら殺してください。と、行に仕立てた人為がある。それが「行」なのだから致し方ないのである。こういう境地で人は死への恐怖を超えるのかもしれない。しかし、人
Ryo Daimonji Blog京にても京なつかしやほととぎす 松尾芭蕉 ふるさとの原風景ってどこだろう、母なのか、父なのか竹馬の友なのか、というふうに自分の心の中の核心というものは、はっきりと掴めないものだ。この句にしても京にいるのに京が懐かしいとはなんぞ。そこに
Ryo Daimonji Blog薔薇剪つて短き詩をぞ作りける 高浜虚子 存分に薔薇を見て、さらには剪りとっても見て俳句にされたのであろう。俳句と言わず短き詩と遠回しに言って美しすぎる語感をおさえられたのであろう、「をぞ」と意図してリズムに不調を入れるあたりさすがであ
Ryo Daimonji Blog鳥海に田水張ればやはやさざなみ 小澤實 鳥海という姓の方が色々な分野に活躍されていることをネットで知った。なんとも素敵な姓名で羨ましく思う。が、この句の場合は地名のことと解する。山形県と秋田県を跨ぐ山に鳥海山があるが、秋田県南部に旧町
Ryo Daimonji Blog橘やいつの野中の郭公 松尾芭蕉 こういう俳句は今日的にはどうなのだろうか。つまり、花橘も郭公もいつの野中のことであったことであろうか、と記憶をただ詠嘆して見せている。つまりはっきりしないのである。このはっきりしないところが、句会などで
Ryo Daimonji Blog夕歩き宿の団扇を背にして 高浜虚子 俳人というものはとにかく見なければいけない。上から下へ下から上へ、さらには背ろ、斜めといった具合である。この句は己の背景を気にしている。正確には「腰にして」であろうが背にしたごとくに詠んでいる。
Ryo Daimonji Blog眠るなり囲炉裏に太き薪よこたへ 小澤實 冬の季語囲炉裏は知っているがこの句のように生活に根ざして使ったことはない。囲炉裏のそばに横たわったものか、座って居眠っているのかいずれにしてもこんな安息はなかなか得難い。その囲炉裏の中にふとい薪
Ryo Daimonji Blog日の道や葵傾くさ月あめ 松尾芭蕉 上五、日の道とは、地球を中心に描く大円状の太陽の位置のことだそうな。その方向に葵の花が傾いている不思議。五月雨降る初夏のことである。
Ryo Daimonji Blog蚤や蚊やわれ貧にして且つやめり 高浜虚子 明治に入ってホトトギスも順調でこの句にあるほど氏が貧していたとは思えないのだが、実際のところはわからない。どの程度に病んでいたのかも略年譜ではわからないのだが、貧乏の病気ぐらしに蚤や蚊が堪えた
Ryo Daimonji Blog箱眼鏡流れに押すやすべてみどり 小澤實 腰から腹に水が来る渓流である。鮎、山女などを採るために箱眼鏡を覗き続けている。そこそこの深さがあるので箱眼鏡を押し続けなければ流されてしまう。箱眼鏡は流れを切っているので覗くと時折水泡が見えるが
Ryo Daimonji Blog猪もともに吹るゝ野分かな 松尾芭蕉 老年期とは言え家族とともにいるわたにしても、秋も台風に直撃されると心細く気弱になってしまうものである。一人暮らしの芭蕉翁にしてみればその侘しさも一入であるのであろう。ついつい強風に煽られているであ
Ryo Daimonji Blog宮柱太しく立ちて神無月 高浜虚子 ときは神無月、出雲へ行かれて神様はいらっしゃらない。そんな社の柱は変わらず太く堂々と立っている。静寂が逆に神の存在を感じさせることもある。清い世界である。
Ryo Daimonji Blog短夜や盗みて写す書三巻 大須賀乙字 この句の背景として、作者に師にまだ早いと読むことを禁じられていた芸道の秘伝書があったこと。そして師の書架から盗み出し、徹夜覚悟で写そうとしたこと。そしてそれは乙字の直接経験を詠んだものではなく、浪漫
Ryo Daimonji Blog夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉 小学館『芭蕉全句』の解説によると九か月間もの長旅を終えて草庵に身を休めているが、道中で移された虱もまだそのままだとあるが、九か月の長旅をこの句から読み取ることは難しかろう。また、取り尽くせていない
Ryo Daimonji Blog木曽に入りて十里は來たり栗の花 虚子 木曽は長野県木曽郡の中央部にある町。そこに入って十里は来た、よく来たもんだと感慨をこめている。上五を入りで切らず、て止め上六の破調にしている。たしかにこれで十里は来たとのたっぷり感がでる。さらに来
159 『名句の所以』(著:小澤實)から
Ryo Daimonji Blog山賎のおとがい閉るむぐらかな 芭蕉(やまがつのおとがいとづるむぐらかな) 山賎(やまがつ:きこりのこと)。おとがい:顎、転じて口のこと。むぐら:葎(蔓性雑草)。甲斐(山梨県)の山は深く、葎がおおい繁り道ばかりか木樵の口までも閉ざしているようで、
Ryo Daimonji Blog諏訪近し桑の山畑ところどころ 虚子 明治二十七年6/24『小日本』とある。虚子二十歳の作である。諏訪に近づくとところどころに桑畑が山裾に見られるようになった、とその風土を写生して見せている。下五に「ところどころ」と具体的に景を絞らず流
Ryo Daimonji Blog花こぼるる棕櫚の下掃くさびしさよ 村山たか女 たか女は明治三十七年生まれで大正十五年、わずか二十一歳で逝去している。たか女は女学校を退学して母の看護に勤めてきた。しかし、棕櫚が花を咲かせる六月頃、看護の甲斐もなく母は亡くなってしまった
91 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)
Ryo Daimonji Blog裏山の紫つゝじ色薄し 虚子 場所は「裏山」、感想は紫つつじの色が薄い、とのみ。このつつじが見えるでなく、そんなツツジもあるやろなあぐらいのインパクト。まあしかし初学であれば写生句はこれぐらいで手練手管な師匠には取ってもらえるかもしれな
Ryo Daimonji Blog夜的の灯草のはるかに置かれけり 上川井梨葉 この夜的は屋台などにある射的屋の灯のことであろうか。ところで、夜的は季語とされた時代があるようだが今私の歳時記では見当たらない。私は名のある歳時記にあるなしで季語の有効性を決めているが、一体本
Ryo Daimonji Blog鳥さしも竿や捨てけんほとゝぎす 芭蕉 一読、「鳥さし」とはなにかと思う。鳥を刺す猟師のことのようである。次に竿やの「や」の品詞は何か,係助詞と解して「けん」と連体形で受けているので良いように思うが、係助詞やの疑問、反語のニュアンスでは
Ryo Daimonji Blog大木の五月雨の谷に横たはる 虚子 この句も前回の《五月雨の和田の古道馬もなし》と同じく明治27年6月24日『小日本』とある。この五月雨の谷も長野県飯田市南信濃和田のいわゆる秋葉古道のことではないか。いわゆる杉などの大木は意外と雨風に弱く
Ryo Daimonji三枚におろされている薄暑かな 橋閒石 「三枚におろす」とは魚の調理方法のことである。この句、薄暑がおろされているように読めるが、私は、なにがしかの魚が三枚におろされているところを見て詠んでいるのだと、解した。魚によってはあるいは包丁に
Ryo Daimonji Blog牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉 芭蕉 蜂が牡丹の花蘂のふかくから分け出でて、即飛び立つのではなく一瞬の間をおいて飛び立つのである。そのふかくにより牡丹の大輪が見えるのであり、名残により蜂の動きの微細が見えるのである。
Ryo Daimonji Blog五月雨の和田の古道馬もなし 虚子 この作品は明治27年6月24日『小日本』とある。この頃虚子さんは木曽路を経て京都に帰り、6月には『木曽路の記』を執筆されている『定本 高浜虚子全集 別巻 虚子研究年表(毎日新聞社)』。この和田の古道は、長野
Ryo Daimonji葉桜の中の無数の空騒ぐ 篠原 梵 葉桜の葉の間に見える空を無数の空と表現した。葉桜の量感を小さい隙間にの空に託したわけだ。その上に騒ぐ葉桜を空が騒ぐと転化して見せたところ、こういう表現は明喩と言っていいのか。無数の空が騒いで「いるようだ
Ryo Daimonji Blogおもひ立木曽や四月のさくら狩 芭蕉 貞享ニ(1685)年四月、『野ざらし紀行』の旅をおえ、尾張から木曽路を経て江戸に帰る際、熱田で巻いた連句の立句「明治書院『新芭蕉俳句大成』」。 江戸へ帰る途中であるが、折しも少し遅いが木曽の春も遅いの
Ryo Daimonji Blog家二軒笠取山の時鳥 芭蕉 笠取山(かさとりやま)は、埼玉県秩父市と山梨県甲州市の境、奥秩父山塊の主脈に位置する標高1,953 mの山。秩父多摩甲斐国立公園に含まれる(ウキペディア)。ネットで見る限り周辺に人家があるような気配はない。山裾へ降りて
Ryo Daimonji Blog葉ざくらや人に知られぬ昼あそび 永井荷風 いきなりこの句、淫靡な気配を放つ。永井荷風をネットで見てみたが窮乏したり、病気になったりもしておられるが、基本裕福な育ちの人らしい。後年文化勲章も受賞してをられる。若い頃の遊興三昧も芸の肥や
Ryo Daimonji Blog白げしにはねもぐ蝶の形見哉 芭蕉 この句は隠喩を用いた句である。即ち白げしが杜国、はねもぐ蝶が芭蕉を意味している。その前提として空米取引で罪を問われている杜国との会うに会えない不遇への哀感があると思われる。白げしに潜っていた蝶が飛ぶ