Ryo Daimonji Blog蜻蜒やとりつきかねし草の上 松尾芭蕉 一匹のとんぼが、草の葉に止まろうとするのだがその芒のような葉のしなりに止まりかねている様を写生している。それはとてもよく理解できるのだが、この句元禄三年1690年の作とある。つまり335年前の光景なのだ
Ryo Daimonji Blog蝸牛葉裏に雨の三日ほど 虚子 三日ほど雨の続く日である、葉裏に蝸牛が居ると蝸牛に雨がちな初夏を代弁させている。その上この蝸牛もまだ小さいのであろう、葉裏にいると遠慮気味に出すあたり、虚子先生のさすがと言える渋さである。反面今日的には
Ryo Daimonji Blog腹這へば乳房あふれてあたたかし 土肥あき子 あき子氏は昭和三十八年静岡県生まれとある。女性にとって乳房は年代にもよるだろうが、結構なテーマであろうと思う。あふれてあたたかい、とは多くの同性の羨望ともなろう。その響きに自己への肯定感がい
Ryo Daimonji Blog船足も休む時あり浜の桃 芭蕉 歳時記に梅の花が終わってまだ桜には早い頃の花。とあるが、私は近くで桃の花をしっかりと見るということがない。梅が咲いたと思うとすぐに桜が満開となる。そして早くも葉桜である。 貞享ニ(1685)年作。東海道の宿駅
Ryo Daimonji Blog爐塞いで此夕ぐれをいかん僧 虚子 爐塞、ようやく寒さも遠のいてきたので、冬のうち親しんできた囲炉裏や茶炉を塞ぐのであるが火がないと何やら広々とするこの夕ぐれが、手持ち無沙汰である、と嘆く僧であった。この「僧」自分のことと読んだが、他を
Ryo Daimonji Blog涅槃図にまやぶにんとぞ読まれける 後藤夜半 この句の核は「まやぶにん」。涅槃図に毛筆でそう書いてあるものがあるようだ。「まやぶにん」は「摩耶夫人」である。釈迦の母であって、産後七日目で亡くなってしまわれたとか(『名句の所以』著 小澤實)
Ryo Daimonji Blog命二ツの中に生たる桜哉 芭蕉 貞享ニ(1685)年の作『野ざらし紀行』。前書きに「水口にてニ十年を経て故人に逢ふ」とある。「命二ツ」とは芭蕉と土芳のことである。その再会の感激を水口の桜に託しているのだ。この時代に二十年を超えて逢うということ
Ryo Daimonji Blog夕暮の汐干淋しやうつせ貝 虚子 明治27年3月20日「小日本」とある。この頃虚子は碧梧桐と行動を共にしていたようだ。虚子二十歳の作品である。夕暮のしおひ狩り(と解する)に空の貝があつた淋しいことだと、虚子若き日のノスタルジーと読んだ。
Ryo Daimonji Blogはりつけにあらず寝釈迦は寝給へり 及川貞 キリスト教の尊師キリストは磔で死んだ、多方仏教の尊師釈迦は寝るように死んだ。いずれがという評価を言っているのではない、その違いを俳句に詠んだのだ。そしてその穏やかな寝姿にお釈迦さまへの敬愛の念
Ryo Daimonji Blog菜畠に花見皃なる雀哉 芭蕉 菜の花畑で、人が花見をしているような顔で飛び回っている雀だよ、ほどの意味であろうか。菜の花の美しさ、可愛さを俳句にするのは意外と難しい。その上に鳥類の中でも可愛い雀を擬人化で付け加えるのも可愛さのつきすぎの
Ryo Daimonji Blog行春や心もとなき京便 虚子 この句の中七「こころもとな・し」は①待ち遠しくて心がいらいらしている。が一番ピッタリくる。下五、京からの便りと、もじどおり読む。しかし誰からの、どういう便りなのかさっぱりわからない、京からのということでその
Ryo Daimonji Blog崇徳院しづもる讃岐西行忌 上﨑暮潮 崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)の争いは崇徳上皇の讃岐への遠流で終わる(1156年 保元の乱)。この時の崇徳院の恨みは日本三大怨霊の一人として知られるげな。この霊をしづめたのが西行とも言われ、西行の陰徳が偲ば
Ryo Daimonji Blogつゝじいけて其陰に干鱈さく女 芭蕉 この句上六中五下八の破調句である。この言葉の流れに「女」の無骨な性格をいいとめている『高柳芭蕉』。との解釈もあるとする。貞享ニ(1685)年『野ざらし紀行』である。「旅店に腰を懸けて」。の前書きがあるよ
Ryo Daimonji Blog湯婆の都の夢のほのぼのと 虚子 上五「たんぽ」で冬の季語であるが、ここは「ゆたんぽ」と読んで良いと解する。このゆたんぽから、みやこの夢をほのぼのと思う。との俳意とするならいくら虚子さんとはいえあまりに甘い一句であると思う。出典は俳句全
Ryo Daimonji Blog火に乗せて草のにほひす初諸子 森澄雄 諸子のおいしい食べ方は、炭火でこんがり焼き上げ酢味噌、生姜醤油でいただくのがいいらしい。ところがこの句その時に草の匂いがする、という。水中にすむ諸子が焼き始めると草の匂いがするげな、こんどそんな機
Ryo Daimonji Blog辛崎の松は花より朧にて 芭蕉 辛崎は滋賀県大津市、唐崎あたりのことのようだ。琵琶湖に向かって立つ松が詠まれている。曖昧さをよしとする美感で、花よりもぼやけて見える夜の松の情趣を繊細に捉えている。琵琶湖に向かう松もさることながら、私は丹
Ryo Daimonji Blog花吹雪狂女の袖に亂れけり 虚子 和装の女性が桜吹雪の中を袖を振って舞っている。そしてその女性は狂女だという。桜の根元には死体を埋めたり、狂う女性を踊らせたり、さまざまにその美の表現がこころみられる。美しさに怪しさが漂うとき、狂い踊る女
Ryo Daimonji Blog生別もいづれ死別や春の水 山本紫黄 この作者、生別死別といった大変重い事を俳句でさらりと詠まれた。他の句にも〈来ぬ女こそわが女冬日の浜〉とか、〈てめえの靴はてめえで探せ忘年会〉とかあった。 生き死にを俳句にすることはいいのだが、その
Ryo Daimonji Blog山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 この句の命は中七の「ゆかし」であった。辞書をみると、①何となく知りたい、見たい、聞きたい。と好奇心をさす。②何となくなつかしい。何となくしたわしい。心がひかれる。③上品ですぐれている。とある。貞享
Ryo Daimonji Blog朝櫻一度に露をこぼしけり 虚子 俳句で一瞬を詠むのは常套である。風が吹いたのか鳥が飛び立ったものか、ともあれ一度に葉についた露が落ちたのであるしかも朝のことである。「こぼしたことだよ」と軽く一瞬の過去を詠嘆して見せる、これもまた19歳の
Ryo Daimonji Blog山笑ふ胎動ときにへその裏 仙田洋子 まるで中学生に戻ったかのように女性の身体図を見てみた。「へその裏」と言えば当然子宮のあたりだ、妊娠中の胎動の感覚を具体的に自分の体で詠んだ。そしてそれが俳句になっている。「胎動」の具象化に成功して
Ryo Daimonji Blog我がきぬにふしみの桃の雫せよ 芭蕉 貞享二年(1685)『野ざらし紀行』。京都市伏見西岸寺の盛りの桃の花を任口の高徳になぞらえて、私が着ている衣に桃花の雫を滴らせて欲しい(高徳に浴したい)と当時八十歳の老僧任口上人への挨拶句としたもの。(『新
Ryo Daimonji Blog更けゆくや花に降りこむ雨の音 虚子 1893(明治26)年虚子19歳作とある。この花はわが邦にあり、そこへ雨が降り込むという。がしかし、降り込んでいるのは音だという。この表現になるほど虚子19歳の非凡な感覚表現の若さを感じる。
Ryo Daimonji Blog東山三十六峰みな笑ふ 清水基吉 清水 基吉は、俳人、小説家で東京都渋谷区に1918(大正7)年に生まれている。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間
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Ryo Daimonji Blog蜻蜒やとりつきかねし草の上 松尾芭蕉 一匹のとんぼが、草の葉に止まろうとするのだがその芒のような葉のしなりに止まりかねている様を写生している。それはとてもよく理解できるのだが、この句元禄三年1690年の作とある。つまり335年前の光景なのだ
Ryo Daimonji Blog藺の花の上漕ぐ船や五月雨 高浜虚子 藺の花はイグサ科の多年草で山野、湿地に自生するが水田でも栽培されるそうである。そういう川か湿地を、船で巡るところがあってそこで詠まれたようである。完全に水没している藺の花ということでなく、藺の
Ryo Daimonji Blog島の教会かとりせんかう置くあはれ 小澤實 前書に長崎とある一連の一句である。多勢の人がお参りされていたのかどうか、定かではないが蚊取り線香が置かれている。下五「あはれ」喜び、悲しみ、同情など心にジーンとくる情感とある。お参りする人への
Ryo Daimonji Blog玉祭りけふも焼場のけぶり哉 松尾芭蕉 玉祭りと、一気に秋へ飛んでしまう。盆の義仲寺内の無名庵の竜が丘墓地での一句のようだ。こういう場面で思い出すのはネット動画のガンジス川の河畔での荼毘のシーンだ。河畔であっても荼毘に付されるのはまだ
Ryo Daimonji Blog三味弾いて銭乞ふ船や涼み舟 高浜虚子 例えば川下りの屋形舟なぞに三味線弾きが乗り込み掲句のような巡りになったのかもしれない。わずかな銭、とは言えプロの技には憧れてしまうものである。私ごとで言えば、京都三条木屋町の高瀬川あたりで長渕剛を
Ryo Daimonji Blog花冷えや都電と都電すれちがふ 小澤實 都電は1972年(昭和47年)末までに、荒川線以外の全路線が廃止されたそうですが、その都電が花冷えの頃すれちがった、という俳句です。私の京都でも昭和五十三年に廃止されたようですが、北大路を市電で移動する
Ryo Daimonji Blog我に似るなふたつにわれし真桑瓜 松尾芭蕉 この一句、まづは上五「我に似るな」で俳句を志す若者に「私に似るな」と言っている、とわかるか。次に中七下五「ふたつにわれし真桑瓜」を「瓜を二つに割りたる如し」つまりうり二つにによく似ているとの俚
Ryo Daimonji Blog薮入のすこし覚えし京言葉 高浜虚子 私のような田舎に暮らす者は異文化にはとても敏感である。特に関東圏に暮らす人がペラペラと東京弁で仰ると殺される前の猫のようにじっと目をみはり聞いてしまうのである。薮入ですこし身についた京言葉で挨拶
Ryo Daimonji Blog即死以外は死者に数へず御柱 小澤實 私を必要と思われるなら生かし、不必要と思われるなら殺してください。と、行に仕立てた人為がある。それが「行」なのだから致し方ないのである。こういう境地で人は死への恐怖を超えるのかもしれない。しかし、人
Ryo Daimonji Blog京にても京なつかしやほととぎす 松尾芭蕉 ふるさとの原風景ってどこだろう、母なのか、父なのか竹馬の友なのか、というふうに自分の心の中の核心というものは、はっきりと掴めないものだ。この句にしても京にいるのに京が懐かしいとはなんぞ。そこに
Ryo Daimonji Blog薔薇剪つて短き詩をぞ作りける 高浜虚子 存分に薔薇を見て、さらには剪りとっても見て俳句にされたのであろう。俳句と言わず短き詩と遠回しに言って美しすぎる語感をおさえられたのであろう、「をぞ」と意図してリズムに不調を入れるあたりさすがであ
Ryo Daimonji Blog鳥海に田水張ればやはやさざなみ 小澤實 鳥海という姓の方が色々な分野に活躍されていることをネットで知った。なんとも素敵な姓名で羨ましく思う。が、この句の場合は地名のことと解する。山形県と秋田県を跨ぐ山に鳥海山があるが、秋田県南部に旧町
Ryo Daimonji Blog橘やいつの野中の郭公 松尾芭蕉 こういう俳句は今日的にはどうなのだろうか。つまり、花橘も郭公もいつの野中のことであったことであろうか、と記憶をただ詠嘆して見せている。つまりはっきりしないのである。このはっきりしないところが、句会などで
Ryo Daimonji Blog夕歩き宿の団扇を背にして 高浜虚子 俳人というものはとにかく見なければいけない。上から下へ下から上へ、さらには背ろ、斜めといった具合である。この句は己の背景を気にしている。正確には「腰にして」であろうが背にしたごとくに詠んでいる。
Ryo Daimonji Blog眠るなり囲炉裏に太き薪よこたへ 小澤實 冬の季語囲炉裏は知っているがこの句のように生活に根ざして使ったことはない。囲炉裏のそばに横たわったものか、座って居眠っているのかいずれにしてもこんな安息はなかなか得難い。その囲炉裏の中にふとい薪
Ryo Daimonji Blog日の道や葵傾くさ月あめ 松尾芭蕉 上五、日の道とは、地球を中心に描く大円状の太陽の位置のことだそうな。その方向に葵の花が傾いている不思議。五月雨降る初夏のことである。
Ryo Daimonji Blog蚤や蚊やわれ貧にして且つやめり 高浜虚子 明治に入ってホトトギスも順調でこの句にあるほど氏が貧していたとは思えないのだが、実際のところはわからない。どの程度に病んでいたのかも略年譜ではわからないのだが、貧乏の病気ぐらしに蚤や蚊が堪えた
Ryo Daimonji Blog箱眼鏡流れに押すやすべてみどり 小澤實 腰から腹に水が来る渓流である。鮎、山女などを採るために箱眼鏡を覗き続けている。そこそこの深さがあるので箱眼鏡を押し続けなければ流されてしまう。箱眼鏡は流れを切っているので覗くと時折水泡が見えるが
Ryo Daimonji Blog猪もともに吹るゝ野分かな 松尾芭蕉 老年期とは言え家族とともにいるわたにしても、秋も台風に直撃されると心細く気弱になってしまうものである。一人暮らしの芭蕉翁にしてみればその侘しさも一入であるのであろう。ついつい強風に煽られているであ
Ryo Daimonji Blog宮柱太しく立ちて神無月 高浜虚子 ときは神無月、出雲へ行かれて神様はいらっしゃらない。そんな社の柱は変わらず太く堂々と立っている。静寂が逆に神の存在を感じさせることもある。清い世界である。
Ryo Daimonji Blog短夜や盗みて写す書三巻 大須賀乙字 この句の背景として、作者に師にまだ早いと読むことを禁じられていた芸道の秘伝書があったこと。そして師の書架から盗み出し、徹夜覚悟で写そうとしたこと。そしてそれは乙字の直接経験を詠んだものではなく、浪漫
Ryo Daimonji Blog夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉 小学館『芭蕉全句』の解説によると九か月間もの長旅を終えて草庵に身を休めているが、道中で移された虱もまだそのままだとあるが、九か月の長旅をこの句から読み取ることは難しかろう。また、取り尽くせていない
Ryo Daimonji Blog木曽に入りて十里は來たり栗の花 虚子 木曽は長野県木曽郡の中央部にある町。そこに入って十里は来た、よく来たもんだと感慨をこめている。上五を入りで切らず、て止め上六の破調にしている。たしかにこれで十里は来たとのたっぷり感がでる。さらに来
159 『名句の所以』(著:小澤實)から
Ryo Daimonji Blog山賎のおとがい閉るむぐらかな 芭蕉(やまがつのおとがいとづるむぐらかな) 山賎(やまがつ:きこりのこと)。おとがい:顎、転じて口のこと。むぐら:葎(蔓性雑草)。甲斐(山梨県)の山は深く、葎がおおい繁り道ばかりか木樵の口までも閉ざしているようで、
Ryo Daimonji Blog諏訪近し桑の山畑ところどころ 虚子 明治二十七年6/24『小日本』とある。虚子二十歳の作である。諏訪に近づくとところどころに桑畑が山裾に見られるようになった、とその風土を写生して見せている。下五に「ところどころ」と具体的に景を絞らず流
Ryo Daimonji Blog花こぼるる棕櫚の下掃くさびしさよ 村山たか女 たか女は明治三十七年生まれで大正十五年、わずか二十一歳で逝去している。たか女は女学校を退学して母の看護に勤めてきた。しかし、棕櫚が花を咲かせる六月頃、看護の甲斐もなく母は亡くなってしまった
91 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)
Ryo Daimonji Blog裏山の紫つゝじ色薄し 虚子 場所は「裏山」、感想は紫つつじの色が薄い、とのみ。このつつじが見えるでなく、そんなツツジもあるやろなあぐらいのインパクト。まあしかし初学であれば写生句はこれぐらいで手練手管な師匠には取ってもらえるかもしれな
Ryo Daimonji Blog夜的の灯草のはるかに置かれけり 上川井梨葉 この夜的は屋台などにある射的屋の灯のことであろうか。ところで、夜的は季語とされた時代があるようだが今私の歳時記では見当たらない。私は名のある歳時記にあるなしで季語の有効性を決めているが、一体本
Ryo Daimonji Blog鳥さしも竿や捨てけんほとゝぎす 芭蕉 一読、「鳥さし」とはなにかと思う。鳥を刺す猟師のことのようである。次に竿やの「や」の品詞は何か,係助詞と解して「けん」と連体形で受けているので良いように思うが、係助詞やの疑問、反語のニュアンスでは
Ryo Daimonji Blog大木の五月雨の谷に横たはる 虚子 この句も前回の《五月雨の和田の古道馬もなし》と同じく明治27年6月24日『小日本』とある。この五月雨の谷も長野県飯田市南信濃和田のいわゆる秋葉古道のことではないか。いわゆる杉などの大木は意外と雨風に弱く
Ryo Daimonji三枚におろされている薄暑かな 橋閒石 「三枚におろす」とは魚の調理方法のことである。この句、薄暑がおろされているように読めるが、私は、なにがしかの魚が三枚におろされているところを見て詠んでいるのだと、解した。魚によってはあるいは包丁に
Ryo Daimonji Blog牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉 芭蕉 蜂が牡丹の花蘂のふかくから分け出でて、即飛び立つのではなく一瞬の間をおいて飛び立つのである。そのふかくにより牡丹の大輪が見えるのであり、名残により蜂の動きの微細が見えるのである。
Ryo Daimonji Blog五月雨の和田の古道馬もなし 虚子 この作品は明治27年6月24日『小日本』とある。この頃虚子さんは木曽路を経て京都に帰り、6月には『木曽路の記』を執筆されている『定本 高浜虚子全集 別巻 虚子研究年表(毎日新聞社)』。この和田の古道は、長野
Ryo Daimonji葉桜の中の無数の空騒ぐ 篠原 梵 葉桜の葉の間に見える空を無数の空と表現した。葉桜の量感を小さい隙間にの空に託したわけだ。その上に騒ぐ葉桜を空が騒ぐと転化して見せたところ、こういう表現は明喩と言っていいのか。無数の空が騒いで「いるようだ
Ryo Daimonji Blogおもひ立木曽や四月のさくら狩 芭蕉 貞享ニ(1685)年四月、『野ざらし紀行』の旅をおえ、尾張から木曽路を経て江戸に帰る際、熱田で巻いた連句の立句「明治書院『新芭蕉俳句大成』」。 江戸へ帰る途中であるが、折しも少し遅いが木曽の春も遅いの
Ryo Daimonji Blog家二軒笠取山の時鳥 芭蕉 笠取山(かさとりやま)は、埼玉県秩父市と山梨県甲州市の境、奥秩父山塊の主脈に位置する標高1,953 mの山。秩父多摩甲斐国立公園に含まれる(ウキペディア)。ネットで見る限り周辺に人家があるような気配はない。山裾へ降りて
Ryo Daimonji Blog葉ざくらや人に知られぬ昼あそび 永井荷風 いきなりこの句、淫靡な気配を放つ。永井荷風をネットで見てみたが窮乏したり、病気になったりもしておられるが、基本裕福な育ちの人らしい。後年文化勲章も受賞してをられる。若い頃の遊興三昧も芸の肥や
Ryo Daimonji Blog白げしにはねもぐ蝶の形見哉 芭蕉 この句は隠喩を用いた句である。即ち白げしが杜国、はねもぐ蝶が芭蕉を意味している。その前提として空米取引で罪を問われている杜国との会うに会えない不遇への哀感があると思われる。白げしに潜っていた蝶が飛ぶ