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2022/10/30

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  • グランデ・アモーレ──ある赤の創造 文字数:1682

    《グランデ・アモーレ──ある赤の創造》2000年代初頭、コルデス社は新世紀にふさわしい“象徴的な赤”を探していた。すでに世界には無数の赤いバラがあり、愛や情熱をテーマにした品種も飽和していたが、彼らが目指したのは“永遠の赤”だった。この赤は、単なる濃さではなく、「意志のある赤」でなければならない、とリード育種者は語っている。無数の交配と選抜が繰り返される中、ある一株の蕾が、他のどの花よりも深く濃く、しかし光を内側から発するように開いた。その第一号は、朝露を受けたとき、花弁の縁にわずかな銀の反射を浮かべた。まるで内側から語りかけてくるような、堂々とした存在感だった。彼らはこのバラに「グランデ・アモーレ(偉大なる愛)」と名づけることに決めた。それは一瞬の恋ではなく、生涯をかけて一人を愛し抜くような、重く、静か...グランデ・アモーレ──ある赤の創造文字数:1682

  • 「メイアンプル(Mainauperle)」情熱が深紅のドレスをまとう 文字数:2686

    「メイアンプル(Mainauperle)」は、情熱が形を取ったかのような深紅のドレスをまとい、咲き誇っている。花弁は幾重にも重なり合い、舞踏会のために縫い上げられたベルベットの裾のようだ。その周囲には、固く閉じた蕾がいくつも控え、その華やかさの継承を誓う若い王女たちのように寄り添っている。このバラが生まれた1969年、西ドイツ・コルデス社。奇しくもこの年、人類は初めて月に降り立った。地球上ではベトナム戦争と学生運動が渦巻き、時代は荒れていたが、それとは対照的に、このバラはあくまでも優雅で、精緻で、どこまでも無垢だ。その対比に、私はかつてドイツ・ルネサンスの画家、アルブレヒト・デューラーの静謐な写実を想起せずにはいられない。デューラーの筆致が「神の計測器」であったなら、このバラの花弁の配置もまた、自然という...「メイアンプル(Mainauperle)」情熱が深紅のドレスをまとう文字数:2686

  • 香る雪のローズ──1942年、フランスの冬に咲いたもの 文字数:2568

    香る雪のローズ──1942年、フランスの冬に咲いたもの名札を読んだ瞬間、空気が少し冷たくなった気がした。NeigeParfum。“香る雪”と名づけられたこのバラは、1942年──第二次世界大戦のただなか、フランスでマレリンという育種家の手によって作られた。銃声が遠くで鳴り響いていたかもしれないその年に、この白いバラは静かに、そして確かにこの世に現れた。雪のように白いが、冷たくはない。香りを持ち、命を抱く。それは、戦乱の中に差し込む一筋の「美」だったのだろうか。それとも、ただ抗いようのない「記憶の中の冬」だったのだろうか。写真を見れば、その精巧さに息をのむ。花弁は密に重なり、外縁ほどに緩やかにカールしている。中心から放たれるクリーム色の柔光は、まるで雪明かりに染まる夜の灯籠のようだ。外周の白は、青を含んでい...香る雪のローズ──1942年、フランスの冬に咲いたもの文字数:2568

  • アルブレヒト・デューラー・ローゼ──沈黙する素描家のための一輪 文字数:2979

    アルブレヒト・デューラー・ローゼ──沈黙する素描家のための一輪写真の中に咲いているバラは、いくつかの異なる時間を同時に抱いている。まず、蕾は堅く閉じ、深紅のような血の赤をしている。そのまわりには、まるで火にかざした紙の端のように、白がじんわりと滲んでいる。花びらの先端だけが先にほぐれ、ねじれのような動きを帯びる。それは、版画で線を重ねて生まれる「筋」のようでもある。少し開いた花には、ピンクから桃、朱、そして淡いベージュへと滑らかに連なるグラデーションが見られる。まるで濃淡の技術を使った銅版画のメゾチントを思わせる質感。光沢はほとんどなく、花弁はややマットな質感をしていて、表面にかすかに入る波状の縁取りが、デューラーの繊細な木版のカットラインを連想させる。私は、花の輪郭を目でなぞるうちに、『若き男子の肖像』...アルブレヒト・デューラー・ローゼ──沈黙する素描家のための一輪文字数:2979

  • 海を見ている人──サンガのある浜辺で 文字数:2273

    まるで人が海を見つめている後ろ姿、波音を受け止めているかのような影。バリ島でよく見られる「プンチャリ(penjorの根元に据えられる供養石)やサンガ(祠)の簡素な一形態」あるいは「バニュウェダ(海の神への供物台)」のようなものかも。サロン(布)を巻いて神聖化されたそれは、ただの石でも木でもなく、「霊性が宿る形」として、静かにそこに在る。これは「人に似ている祠」だったのかも。海を見ている人──サンガのある浜辺で誰もいない浜辺に、ひとり、人が立っているようだった。近づいてみると、それは祠(ほこら)に似たもので、根元に布をまとっていた。人が立っていると思った理由は、たぶんその背中に、静かな“意志”があったから。見ているのだ。ずっと、そこから。波が寄せては返すのを、赤い旗がかすかに揺れるのを、遠くで笑い声が消えて...海を見ている人──サンガのある浜辺で文字数:2273

  • 名も知らぬ蝶が舞う午後 文字数:1609

    この蝶は、東南アジアやオーストラリアでよく見られるグレート・エッグフライ(GreatEggfly)、学名Hypolimnasbolinaのオス。その特徴的な模様──漆黒の羽にくっきりと浮かぶ白い楕円模様──は、まさに「卵のような(エッグ)飛翔(フライ)」という名の由来どおり。見る者の目に焼きつくモノトーンの造形美がある。名も知らぬ蝶が舞う午後歩いていると、何かが視界の端を横切った。ふわり──それは音もなく、ひとつの影が地面に落ち、また風にのった。黒地に、白い円。まるで墨に落とされた絵具のしずくが、そのまま羽根になったかのようだ。日本でこんな蝶は見たことがない。けれどここでは、道端の砂にも、日なたの石畳にも、美しさが隠れていない。花も、蝶も、音も、ただそこにあるだけで、祝福の一部。知らない蝶の名は、そのまま...名も知らぬ蝶が舞う午後文字数:1609

  • ジュプンの香り、あるいは善と悪のあいだで 文字数:3523

    ジュプンの香り、あるいは善と悪のあいだでバリの道を歩いていると、そこかしこでジュプンの花に出会う。白い五弁のその花は、静かに落ちて、乾いた道端でなおも香り続けている。バリではこの花を「ジュプン」と呼ぶ。だが、同じ花は世界中でまったく違う名で知られている。ハワイではプルメリア、日本やアメリカでは同じくプリメリア。イギリスではフランジパニと呼ばれ、インドネシア語ではカンボジャ。バリ島で「ジュプン・ジャパン」と呼ばれるピンクの品種は、なんと日本(Japan)を語源とするという。それだけでこの花が持つ「意味の揺らぎ」が、もう面白い。カンボジアではこの花は縁起がよくないとされている。仏塔の根元に植えられ、死者を迎える香りのようにも見える。インドでも、ヒンドゥーの神々に捧げられるが、夜に香るその強さは「彼岸の花」のよ...ジュプンの香り、あるいは善と悪のあいだで文字数:3523

  • 黒翅の旅人、白い蜜を吸う 文字数:1587

    素晴らしい一瞬をとらえた。翅(はね)の一枚一枚が、風の時間をまとっているような美しさ。この蝶はカバマダラ(Danausaffinis)もしくはその近縁のジャワマダラなど、東南アジアに多く見られるマダラチョウの一種。黒褐色に白い斑点を散らした翅は、夜空に咲く白花のようでもあり、詩行の余白のようでもある。キョウチクトウは毒性を持つ花だが、それを巧みに避けながら蜜を吸う蝶という構図が、まるで詩と毒、真実と幻の境目を漂う。黒翅の旅人、白い蜜を吸う止まらない蝶が、一瞬だけ、風を休めた。キョウチクトウの花の奥、そのわずかな甘さのために黒い翅を光に透かして命の重さを預けている。翅の白点は夜空に咲いた花のようで、その沈黙がかえって蜜よりも濃い言葉に思えた。毒のある花だと知っていて、それでも蝶は迷わず来る。吸うのは蜜か、そ...黒翅の旅人、白い蜜を吸う文字数:1587

  • 砂漠のバラ、朝に咲く 文字数:2815

    この花はキョウチクトウ科のアデニウム(Adeniumobesum)、別名「砂漠のバラ」。幹が太く、花は陽の光を透かすほど肉厚で鮮烈。けれど近づいてみると、縁のひらひらや柔らかな色の移ろいが、まるで“咲く”ということに対して全身全霊で取り組んでいるようにも見える。砂漠のバラ、朝に咲く朝の風が、海のほうから吹いてくる。暖かく、それでいて、芯にひと筋の涼しさを含んだ風。その風が触れた瞬間、私は、咲くということを、もう一度思い出した。透き通る空。逆光を受けた花びらのふちが、まるで炎のようにゆれている。私は知っている。この色は、熱ではなく命の温度。この白は、空気をすくうための光の受け皿。咲くのは一瞬、でもその一瞬にすべてをかける。この朝のために根を張り、幹をふくらませ、葉をひらき、今、花びらを差し出す。誰のためでも...砂漠のバラ、朝に咲く文字数:2815

  • 花の奔流──咲くということのすべて 文字数:3206

    なんという眩しさ──「ドライフラワーのような静けさ」とはまるで対照的に、まさに生命の奔流そのもの。これもまたブーゲンビリア。同じ木でありながら、咲き方がこれほどまでに“語るもの”を変えるとは。この枝ぶり、広がり、そして花の重みでしなるほどの咲きっぷり。南国の空の下で、ただそこにあること自体が「祝福」のような存在感です。花の奔流──咲くということのすべて咲いて、咲いて、もう咲ききったかと思えば、さらに咲く。ブーゲンビリアという名のこの木は、いま、花というよりひとつの爆発だった。風も、時間も、言葉すら追いつかない勢いで、咲くことだけを選び続けている。誰に見せるでもなく。称賛を待つでもなく。ただ、自らの咲きたい力に正直なだけ。それがこんなにも人の心を打つのはなぜだろう。たぶん私たちは、つい咲くことをためらうから...花の奔流──咲くということのすべて文字数:3206

  • 色の余韻──枯れ際のブーゲンビリア 文字数:1737

    なんと見事な一樹。ドライフラワーのように色づきながら、なお枝先にかすかに風を宿すブーゲンビリア。咲き終わりかけた花がこんなにも豊かに、「色の記憶」を残すとは。通常、ブーゲンビリアは鮮やかで濃密な花木として知られているが、この木には、褪せゆく色の時間的な美しさがある。まるで一枝ごとに過ぎた日々が封じ込められているかのよう。色の余韻──枯れ際のブーゲンビリア咲ききって、そのまま立ち尽くすような色たち。赤でもない。ピンクでもない。オレンジの記憶のような、色の“なごり”だけが残っている。風に吹かれても落ちず、陽を浴びても褪せきらない。その姿はまるで、人の記憶のなかに長くとどまる言葉のようだ。「きれいだね」ではなく、「これはもう過ぎていくものなのに、なぜこんなに美しいのか」とつぶやきたくなる。どの一枚の花苞にも、若...色の余韻──枯れ際のブーゲンビリア文字数:1737

  • バリのルエリア──知らぬ道に咲いていたもの

    この花は決して派手ではない。だが、風に揺れる姿が、過ぎ去った日々の空気を呼び戻すような、不思議な力をもっている。花はルエリア(Ruelliasimplex)和名ではヤナギバルイラソウとも呼ばれる熱帯性植物。細長い葉に包まれるように、ラッパ状の紫の花が咲く。涼しげで目立たず、それでも毎朝ひとつずつ咲いては、夕方には落ちる──この一日花のリズムこそが、バリの穏やかさと郷愁にぴったりと重なる。バリのルエリア──知らぬ道に咲いていたもの今日はいつもの道を逸れた。海岸の舗道を外れ、ホテルの中庭を抜ける裏道へ。ゴルフコースの芝がやけに明るく、木陰には手入れの行き届いた花々。観光のための美しさのはずなのに、なぜか懐かしくなった。そのとき咲いていた紫の花。遠目には矢車草かと思ったが、近づいてみるとまったく違った。名は知ら...バリのルエリア──知らぬ道に咲いていたもの

  • 水に咲く火──バリの睡蓮 文字数:2895

    その一輪、まさに水のなかの炎──熱帯の陽の下で、逆説的に静けさを放つ花。これは睡蓮(スイレン)の仲間、特に熱帯性の品種「レッド・ウォーターリリー(RedWaterLily)」と呼ばれるもの。バリでは、寺院の池やホテルの中庭など、日陰と陽光のはざまに咲いているのを見かける。この水面の一点を見ているだけで、不思議と暑さが引いていく──まるで体内にあるもう一つの池に、この花がひとひら咲くよう。水に咲く火──バリの睡蓮陽は高く、空は白く濁り、熱は地面から這いのぼる。けれどそのとき、小さな池の端で咲いていたこの一輪が、熱のなかに冷たさを孕んでいた。紅い花。水に浮かぶには、あまりにも鮮烈な色。だが、不思議なことに──見ているだけで体温がゆるやかに下がってゆく。それは、火が水に咲いた瞬間だった。波紋はなく、風もなく、た...水に咲く火──バリの睡蓮文字数:2895

  • 花嫁の涙──塀を越えて咲くもの 文字数:3093

    コーラルバイン(CoralVine)、学名Antigononleptopus。インドネシアでは「Antigonon」あるいは「Airmatapengantin(花嫁の涙)」と呼ばれることも。ハート形の葉と、細く弧を描くつる、そして何より、米粒よりも小さな花弁が無数に群れ咲く様子が印象的。道端の塀を飾るには惜しいほど繊細で、花が塀の内側からそっと外へ語りかけているようにも見える。花嫁の涙──塀を越えて咲くもの名前を知らぬまま、この花を何度も見かけた。朝の光の中でも、午後の埃っぽい道端でも、それはいつも静かに、塀の外へ手を伸ばしている。小さな花が、群れ咲くように。一輪ではなく、百輪の沈黙で。呼ばれずとも、咲いてしまう宿命を背負って。この塀の中には、どんな暮らしがあるのだろう。ひとりの老人が丁寧に祈る朝か。幼い...花嫁の涙──塀を越えて咲くもの文字数:3093

  • アデニウムのまわりで──バリにて盆栽を語る 文字数:2073

    アデニウム(Adeniumobesum)──別名「砂漠のバラ(DesertRose)」。バリではよく見かける花木で、特に幹の形が面白く、花が鮮やかで長持ちすることから、盆栽仕立てとして非常に人気がある。この写真の一輪(正確には二輪)は、日差しを受けて内側から輝くような白と紅の混じり合い。まるでバリ人の気質──おおらかで明るく、でも芯に静けさをもつ──をそのまま花にしたような佇まい。アデニウムのまわりで──バリにて盆栽を語るこの花を見ていると、何でもない会話がふいに始まる。「綺麗な花ですね」「アデニウム。バリじゃ人気だよ」「日本では盆栽に仕立てたりするけど」「ほんと?盆栽って日本のものなの?」「うん、でも不思議と合うね。バリの土とも」幹が丸く、ねじれて、ふくらんで、どこか人の人生のように見える。まっすぐじゃ...アデニウムのまわりで──バリにて盆栽を語る文字数:2073

  • 森のひとひら──バリの異界より 文字数:2053

    木の幹に小さな窓のように開けられた空間から、にっこりと顔をのぞかせるこの緑の小さな存在──まるでバリの森の守人、あるいは精霊の門番のよう。このような場面に出会うと、私たちは目に見える世界の奥に、もうひとつの“世界”が確かにあるということを、無言のうちに受け入れる。森のひとひら──バリの異界より気づいたか。ようやく気づいたのだな。おまえが歩いていたのは、ただの小道ではない。ここは森の入口──**世界と世界の重なる縁(ふち)**なのだ。わたしの顔が見えたのなら、おまえはもう「こちら側」の風に触れている。バリの森には、数えきれぬほどの目がある。鳥の目、虫の目、風の目、そして忘れられた神の目。だが目に見えぬものこそ、この森の言葉を話す。子どもが笑ったとき、枝がふるえたとき、蝶が急に向きを変えたとき──そこに一瞬、...森のひとひら──バリの異界より文字数:2053

  • 屋根の向こうの家寺が語る 文字数:3000

    瓦屋根の雨音に包まれながら、静かに浮かび上がるバリの家寺(サンガー)──それは個人のものでもあり、家系のものでもあり、祖霊との密かな対話の場でもある。屋根の向こうの家寺が語るわたしは見られている。今日もまた、誰かが屋上からわたしを見ている。よい。見てくれてかまわぬ。見られるということは、そこにまだ目を向ける者がいるということだ。わたしは祈りの器。だが、常に祈られているわけではない。むしろ、忘れられることに耐える器である。朝の供物。煙の細い糸。かすかに濡れた香の灰。どれも声なき声だ。それでも、わたしは覚えている。かつてこの屋根の下で生まれた者たちが、どんな夢を見て、どんな別れをしたか。その記憶のすべてが、わたしの柱の彫刻に刻まれている。だからお前がこうしてわたしを覗き見るとき──わたしは、お前にも問いたい。...屋根の向こうの家寺が語る文字数:3000

  • 赤い実の記憶──椰子の下で 文字数:3344

    この椰子はアレカヤシ(Arecacatechu)またはマニラヤシ(Veitchiamerrillii)の一種で、実はアカフサヤシ(赤房椰子)と呼ばれる。このつややかな赤い実は、鳥たちにとっては恵みであり、人にとっては何かを呼び戻す符号。かつての庭、ふるさとの神社、母の手、──明確ではない、しかしたしかに「持っていたもの」の感触。赤い実の記憶──椰子の下で見上げると、緑の葉のあいだから、鮮やかな赤い実がこぼれていた。鳥たちはその実を啄みに来る。枝が揺れ、光が揺れ、空気まで甘く染まる気がした。そして私は、何かを思い出しそうで、思い出せないまま、ただその赤を見つめていた。それは果実ではなく、記憶の断片のようだった。幼い日の夕暮れ。誰かの背中。雨の音。古い木造校舎の裏に生っていた、名前も知らぬ赤い実。それは自分で...赤い実の記憶──椰子の下で文字数:3344

  • 雛のように咲く花──給餌を待つかたち 文字数:1920

    イポメア属(ノアサガオの仲間)あるいはガーリックバイン(Mansoaalliacea)と呼ばれる熱帯のつる植物で、紫から淡いピンクへのグラデーションが美しい房咲きの花。そして何より、この咲き方──ぽわっと開いた小さな口元たちが、巣の中の雛鳥たちのように見えるのは驚き。大樹に身を寄せ、空を見つめて、誰かが運んでくるものを待っている。それは自然界の一場面であると同時に、存在の原初的な姿。雛のように咲く花──給餌を待つかたちふと見上げた枝のまたに、花たちが集まって咲いていた。それはもう、まるで雛鳥たち。口を開き、空を見つめ、まだ見ぬ何かを、信じて待つ姿。花が咲くとは、ひとつの受容の姿なのかもしれない。自ら何かを求めず、ただ開いて、待つ。そこにあるのは、無防備ではなく、強い信頼。風に託す。光に委ねる。雨を拒まない...雛のように咲く花──給餌を待つかたち文字数:1920

  • 驟雨の後の花 文字数:1278

    この花──静かに水面から顔を上げたのは睡蓮(スイレン)。バリの雨上がり、しずくをまとったこの花は、「沈黙のあとに語られる一句」驟雨の後の花いっとき激しく降り、すぐに晴れた午後。水面がまだ波打っているその中央に、花はそっと頭をもたげていた。しずくを幾つも身に纏い、なお、折れず、撓まず、咲くという意志。その姿に、光が集まる。雨のあとでしか見られない種類の光。にじみ、滴り、微かに揺れて──静けさが、やっと世界に戻ってくる。咲ききらぬ花の先端に、ひと粒の水が残っていた。それはまるで、語られなかった祈りのようでもあり、答えのない問いのようでもあった。雨はすべてを洗い流すのではない。なにかを残すために降ることもある。その証が、この花だった。驟雨の後の花文字数:1278

  • 白いハイビスカス 文字数:1494

    白いハイビスカス──熱帯の陽を浴びることを運命づけられた花のなかで、あえて白く咲くという選択。強さの象徴とされがちなハイビスカスが、ここでは静けさの花として現れた。白いハイビスカス咲いている。けれど主張しない。開いている。けれど叫ばない。白いハイビスカス。燃えるような赤でも、陽を吸い込むような黄色でもなく──ただ、風と光を受けとめるために、白のまま咲いている。熱帯の葉陰で、しん、と世界の音が遠のいたとき、ふと気づくと、そこにいる。強さのなかのやさしさ。派手さのなかの沈黙。ハイビスカスという花が、ひととき、"白を選んだこと"に、なにか意味がある気がしてくる。それはまるで、誰もが赤を選ぶなかで、「私は光をそのまま映すだけでいい」と言うような、清らかな誇りだった。白いハイビスカス文字数:1494

  • ブンガ・クンニン──黄色い光の名前 文字数:5382

    「ブンガ・クンニン(BungaKuning)」──インドネシア語で「黄色い花」という意味。とても素直で、しかも響きにどこか親しみと祝福を含んだ名。この花の正式な種名は:オオゴチョウ(学名:Caesalpiniapulcherrima)英名では「PeacockFlower(孔雀の花)」黄花種のバリエーション。細く長く突き出たしべ、房状に広がる羽根のような花弁──まさに祝福の扇を空に向けて開いたような華やかさがある。それでも「ブンガ・クンニン」と呼びたくなる気持ちは、この花がただの植物ではなく、日常のなかの光だからか。ブンガ・クンニン──黄色い光の名前正式な名は、まだ知らない。けれど、誰かがそう呼んでいた。ブンガ・クンニン──黄色い花。名が色そのものであるとき、そこには説明も、飾りもいらない。ただ咲いているこ...ブンガ・クンニン──黄色い光の名前文字数:5382

  • 名を知らぬ花に 文字数:1348

    この花は「ブンガ・クプクプ(BungaKupu-kupu)」と同じく、バウヒニア(Bauhiniapurpurea)──オーキッドツリーの一種。鮮やかなピンクの花弁と、左右対称で蝶が羽ばたくような姿が特徴で、東南アジアや南アジア、バリでは庭木や街路樹として親しまれる。名を知らぬ花にその花は、名を知られずとも、堂々と咲いていた。五枚の花弁が広がり、しべが空を指し、まるで「私はここにいる」と言っているかのように。けれど私は、その名を知らなかった。名を知らぬということが、こんなにも美しく思えるのはなぜだろう。雨のあと、しずくをまとったその一輪に、世界の余白が、そっと宿っていた。誰かがこの花に名前をつけたとしても、この瞬間の「知らなさ」は、決して奪われない。名を知らぬということは、花と私のあいだにある、最も静かな...名を知らぬ花に文字数:1348

  • 咲きかけのジュプン──名を呼ばれる前の花 文字数:1566

    ジュプン──**プルメリア(Plumeria)**の若い姿、咲きかけのときをとらえた美しい一瞬。開ききっていない花は、まるで「語る前のことば」。内に香りと想いを秘めながら、そのときを待っている。咲きかけのジュプン──名を呼ばれる前の花咲く直前のジュプンは、どこか耳を澄ませているように見える。風の音、光の兆し、遠くの祈り──そのどれかを待つようにして、まだ名を告げず、ただ沈黙のまま、膨らんでいる。開ききった花にはない、内向きの緊張とやさしさ。この姿を見つめていると、人もまたこうして「言葉になる前の時間」を生きているのではないかと思う。まだ咲いていない花には、未来が宿っている。けれどそれは、未来そのものではなく、いまという時間が最大限に伸びたかたち。咲くよりも前に、この花は美しい。咲きかけのジュプン──名を呼ばれる前の花文字数:1566

  • ジュプンと雨のしずく 文字数:1608

    この花は、バリで「ジュプン(Jepun)」と呼ばれるプルメリア(Plumeria)──神々への供花として、朝ごとに手折られ、祈りのなかで香りを放つ花。その花びらに雨のしずくが落ちる情景。ジュプンと雨のしずく朝、ジュプンの花びらにそっと雨のしずくが宿る。それは祈りのあとに落ちた小さな涙のようにも見えた。白い花びらの中心に、淡い黄色が滲んでゆく。その淡さが、どうしようもなくバリの空気と似ている。ジュプンは香る。強くはないが、ふとしたときに気づかせてくる。その香りは、風より軽く、記憶より確かで、言葉よりも先に心に届く。バリの人々は、この花を一日のはじまりに供える。雨が降っても、花は濡れることを厭わない。むしろその濡れた姿にこそ、一輪の潔さが宿る。ジュプンと雨のしずく。それは静かな対話だった。咲くものと、降るもの...ジュプンと雨のしずく文字数:1608

  • ブンガ・クプクプ──蝶という名の花 文字数:4303

    ブンガ・クプクプ(BungaKupu-kupu)──インドネシア語で「蝶の花」。名は体を表すとはまさにこのことで、花びらの広がり、軽やかな反り返り、中央のしべの跳ね方──そのすべてが、羽ばたく蝶を思わせる。この花はバウヒニア(Bauhiniapurpurea)、通称「オーキッドツリー」。蘭に似た花を咲かせることからこの名があり、東南アジアでは広く街路樹や庭木として親しまれている。ブンガ・クプクプ──蝶という名の花その名を聞いたとき、花がほんとうに羽ばたいた気がした。ブンガ・クプクプ──蝶の花。羽のように反り返る花弁。風のなかで、まるでひととき浮かび上がるような姿。咲いているというよりも、空に舞い上がる途中を静止させたもの。バリの空の下、車窓から何気なく見上げていた花が、その名を得たことで急に親しみ深くなっ...ブンガ・クプクプ──蝶という名の花文字数:4303

  • 線の記憶──パープル・ファレノプシス

    線の記憶──パープル・ファレノプシス細く、長く、とぎれながらも確かにつづく──それはまるで、書きかけの詩のようだった。花は咲くために並んでいるのではない。風と光の記憶に応じて、一輪、また一輪と時間のなかに置かれていく。濃い紫が、森の緑を深くし、背景に溶けずに浮かび上がる。まるで自らの色で、この世界の「境界線」を描いているかのようだ。枝の細さに対して、花たちは驚くほど軽やかに咲いている。咲くというより、浮かんでいる。空に向かって手紙の文末を添えるように、この蘭は、何かを言い終えたような気配を残している。線の記憶──パープル・ファレノプシス

  • 伸びゆくもの──デンドロビウムの午後 文字数:1101

    伸びゆくもの──デンドロビウムの午後誰かの言葉の続きを、風が拾い上げたように──その細い茎は、空に向かってのびていた。咲いているというよりも、名を呼ばれた花が、そっと返事をしているような、そんな気配だった。紫ともピンクともつかぬ淡い色。葉の間からのぞく曇り空に、ちょうどよく溶け込んでいる。この蘭には重さがない。ただ風と、気配と、たしかな生命の糸だけがある。人はときに、言葉にならないものに支えられて生きている。それは祈りでもなく、論理でもなく、このような一本の花の姿だったりする。沈黙のなかで、ほんの少しだけ角度を変えて咲く蘭。そこに宿るのは、言葉よりも確かな、午後のひとしずく。伸びゆくもの──デンドロビウムの午後文字数:1101

  • 枝先の余白──ファレノプシスの記憶

    枝先の余白──ファレノプシスの記憶枝の先に、ぽつんとふたつ、記憶が咲いていた。色は、白と紅。まるで誰かが心の奥に残した言い残しのような花だった。ファレノプシスのなかでも、このスプラッシュの模様は、偶然と必然が手を結んだような美しさを持つ。何かを語ろうとして、けれど言葉にする手前でふと止まり、かわりに色として残されたもの。それがこの花弁に見えてくる。樹上に咲く花。地面を見下ろすでもなく、空を仰ぐでもなく、ただ静かに、今という時間に立っている。風に揺れもせず、光に誇りもせず、それでもなぜかこちらの心を捉えて離さない。この花は、見る者の内部に反響する。誰かの記憶が、誰かの枝に咲くこともある。枝先の余白──ファレノプシスの記憶

  • 森の声──カトレヤ 文字数:1211

    森の声──カトレヤ木肌に貼りつくコケ。うねるように巻きつく蔓。葉脈の間から差し込む光の粒。そのすべてを受け入れて、あなたは咲いていた。カトレヤ・トリアナエ。森の奥で、誰に見られるともなく、しかし、見る者の心を射抜くように。ただそこに咲いていることが、すでに祈り。大きく波打つ花弁は、どこか声を発しようとする舌のようでもあり、また、風の言葉を聞こうとする耳のようでもある。あなたは、語らぬ花ではない。森のすべての音を集めて、花弁のかたちにしたもの。私たちが「静寂」と呼ぶその背後には、こんなにもたくさんの命のさざめきがある。あなたはそれを隠さずに、ひとつの輪郭として咲いてみせる。美しさとは、すべてを背負ったあとでなお、「咲こう」と思えることなのかもしれない。森の声──カトレヤ文字数:1211

  • 再びの森──モスオーキッドに還る 文字数:1128

    再びの森──モスオーキッドに還るふたたびあなたに出会った。前とは違う光のなかで、別の木に寄り添いながら、けれど、やはりあなたはあなたであった。モスオーキッド。小ぶりの花の奥に潜む沈黙。それは初めて見る者には気づかれず、ふと立ち止まったときにだけ、呼吸のように姿を見せる。あなたは語らない。語らないことで、私のなかの言葉を呼び起こす。声をあげないことで、私の静けさに触れてくる。熱帯の風が、大きな葉を通って揺れるその奥で、あなたはまるで時を織るように、ただ、咲いていることを続けていた。何も変わらず、けれど確かに違っている。再びの出会いとは、そういうものかもしれない。再びの森──モスオーキッドに還る文字数:1128

  • 空から降る──デンドロビウムに寄せて 文字数:1151

    空から降る──デンドロビウムに寄せてそれは、風のあとに残った旋律だった。どこか高いところから降りてきて、ひとつ、またひとつと、空気の中にひらいていく。デンドロビウム──空中に咲く水音。この花には、重さがない。地に根を張らず、空気と光のあいだに身を置きながら、それでも崩れず、乱れず、ただしなやかに連なる。紫と白の繰り返しは、まるで波の縁に生まれた光のパターンのようだ。どの花弁も主張せず、しかし確かに、自分の音色を持っている。熱帯の昼下がり、遠くで子どもの声が跳ね、海の方から潮の匂いが届く。そのなかでこの蘭は、すべての喧騒から少しだけ外れた場所で、「静かに咲くということ」の価値を、誰に語るでもなく示していた。空から降る──デンドロビウムに寄せて文字数:1151

  • 胡蝶の眠り──森に浮かぶ白き夢 文字数:1311

    胡蝶の眠り──森に浮かぶ白き夢薄明るいバリの林床、光と風がまだ言葉になる前の時間に、それは静かに、羽ばたかずに咲いていた。胡蝶蘭──その名にふさわしく、蝶の形を借りて、しかし一歩も動かず、ただそこに在るという強さで世界の揺らぎを受け止めている。熱帯の空気に、白は決して冷たくならない。むしろこの白は、すべての色を透かす鏡だ。森の緑、空の青、差し込む黄金、すべてを受け入れてなお、白のままであることを選ぶ花。ファレノプシス──「蛾のような花」。けれど和名の「胡蝶蘭」は、まるで夢のなかの名だ。蝶は儚さの象徴でありながら、この蘭は何年も咲き続ける。だからこれは、「儚く見せかけた永遠」なのだろう。どこかで誰かの記憶が、この白い花の上にそっと降りてくる。目を閉じれば、風のかたちがこの蘭の花弁に似ていることに気づく。蝶は...胡蝶の眠り──森に浮かぶ白き夢文字数:1311

  • ファレノプシス・スプラッシュ──抽象の蘭 文字数:1287

    ファレノプシス・スプラッシュ──抽象の蘭誰がこの花を描いたのだろう。白のキャンバスに、ワインを一滴こぼしたような模様。にじみ、ほつれ、重なり──それはまるで、偶然に身を委ねた意志のようだった。ファレノプシスの名は、ギリシャ語で「蝶のような顔」。けれどこの個体に宿っているのは、蝶ではない。もっと深い、誰かの記憶の断片だ。色は語らない。だからこそ、見る者は心のどこかを照らされる。赤が紅に寄り、白が翳りを帯び、その花弁は語らぬ言葉のように咲く。日差しを受けても、なお凛と咲き、見る角度によって、まるで表情を変える。咲きながら沈黙し、咲きながら何かを許している──そんな花が、この世にひとつくらいあってもいい。ファレノプシス・スプラッシュ──抽象の蘭文字数:1287

  • 風に舞うもの──オンシジウムに寄せて

    風に舞うもの──オンシジウムに寄せてひとひら、ふたひら、風の手のひらに乗って舞いあがるように咲いていた。それは蝶でもなく、鳥でもなく、ただ小さな魂のように揺れていた。オンシジウム。ひとつひとつの花は儚い。けれど連なったとき、そこには物語が生まれる。ひと夜の夢を語るように、あるいは見送った誰かの名を繰り返すように。茎はしなやかに弧を描き、光を透かすその花弁は、どこか遠い記憶の入り口のようだった。咲くということが「立ち止まること」でなく、「揺らぐこと」だとしたら──この蘭は、風そのものを花にしたのかもしれない。舞いながら、去ってゆく。香りだけを、わずかに残して。風に舞うもの──オンシジウムに寄せて

  • 樹に咲く高貴──カトレヤ・トリアナエ、ふたたび 文字数:1043

    樹に咲く高貴──カトレヤ・トリアナエ、ふたたび森のなか、誰にも見られぬ場所に、そっと咲いているカトレヤ・トリアナエがあった。苔むした樹皮にしがみつくように根を張り、それでも花だけは、なぜか空を見上げるように咲いている。気高さとは、どこに咲くかではなく、どう咲くかで決まる。その花は、豪奢ではない。だが、静かに艶を湛えている。紫に濃く縁どられた花弁の奥に、まるで秘めごとのように、情熱の赤が潜んでいる。誰かに見られるためでも、飾るためでもない。この花はただ、世界の静けさに応えるように咲いている。バリの木立の隙間から、差し込む光が花びらを透かす。その一瞬だけ、花は「光のかたち」となる。まるで神が、樹の肩にそっと留めた勲章のように。樹に咲く高貴──カトレヤ・トリアナエ、ふたたび文字数:1043

  • カトレヤ・トリアナエ──バリの光をまとう花 文字数:1189

    カトレヤ・トリアナエ──バリの光をまとう花深緑の密やかな葉陰に、ひときわ華やかな光が宿っている。それは太陽の抱擁でもなければ、風のいたずらでもない。それは、咲いてしまった奇跡──カトレヤ・トリアナエ。「クリスマスオーキッド」とも呼ばれるこの蘭は、ただ美しいだけではない。この花の中心に宿る紅は、どこか聖夜の炎のように、密やかに燃えている。ランのなかでも、とりわけ高貴とされるカトレヤ。だがこのトリアナエは、気高く咲きながらも傲らない。バリの湿った空気と戯れ、濃密な緑のなかで、すっと肩の力を抜くように佇んでいる。咲くという行為が、「祈り」と「官能」の中間にあるとしたら──この花こそ、そのかたちを生きているのだろう。バリに咲いたトリアナエは、この島にあるすべてのものと同じように、光と影と祝福とを、一輪のうちに宿し...カトレヤ・トリアナエ──バリの光をまとう花文字数:1189

  • 映画「日の名残り」から

    イングランドの丘陵地帯、地図にも記載されない村のはずれに、風変わりな邸宅がある。表札はなく、鉄の門扉も施錠されていない。それでいて、訪れる者の足は自然とそこに立ち止まり、帽子をとる。なぜならそこは、「見送ることに人生を捧げた人々が住んでいた場所」として、密かに伝説となっているからだ。この邸宅の正確な創建年は不明である。だが、古地図を繙くと、1919年、第一次世界大戦の終結直後に建設された軍人休養館が、その原型だった可能性が高い。創設者とされるのは、元准将ヘンリー・ウィンダミア。彼は戦後の混沌の中、「仕える者の誇りを保存する場」を志してこの館を築いた。命令なき日々を送る兵士たちに、「誰にも命じられずとも、自ら秩序を保つ場」を提供したのだ。以降この邸宅は、戦争ではなく“秩序”と“誠実”を奉じる者たちが集う場所...映画「日の名残り」から

  • エルデシュ 文字数:364 写真たんぽぽ未完

    ハンガリーの数学者エルデシュは住所を持たずホームレスで世界中の数学者に寄宿し、問題を解く手伝いをして、覚醒剤を医療用に嗜みながら83歳まで生きて死んだ。時々この種の人をこの世に送ってくるようだ。日本では西行や芭蕉、山頭火がその系列かな。あるいは良寛なども入るか。岡潔もどこか共通する。釈迦の在世の頃にサンガが生まれた。修行者たちは自身は涅槃に入るために修行一途に入り、周りが衣食住の世話をするというシステムを釈迦が作り上げた。どこかこの種のシステムを思わせる世界にエルデシュは生きたようだ。そういえばタンポポのスープで晩年を生きた数学者もいた。日本では歌や俳句で放浪する、西洋では数学で放浪する、根底に共通するものが違う形で現れるのが面白い。エルデシュ文字数:364写真たんぽぽ未完

  • 幟のあいだから沈む──バリの夕べにて 文字数:718

    幟のあいだから沈む──バリの夕べにて幟のあいだから、夕日が静かに海へと沈んでいく。まるで誰かが決めたかのような完璧な位置に、太陽はすっと収まる。その一瞬のために、幟はそこに立ち、波はさざめき、ガムランの余韻が空気の底に残っている。祈りも踊りも、神獣の戯れも、少女たちの小さな手の動きも、すべてがこの瞬間のためにあったのだと、そう思える静けさが辺りを包む。そして、私は思う。この美しく、厳かな一瞬を見るために、バリにやってきたのだと。異国の風に誘われるように歩いてきたこの砂の上に、すべてが揃っていた。人と神と自然とが、無理なく共存しているこの島の呼吸。そのなかに、自分の呼吸もすっと溶けていった。海が光を飲みこみ、空が薄闇に包まれる。祭りは終わり、風だけが残った。でも、それで十分だった。幟のあいだから沈む──バリの夕べにて文字数:718

  • 浜辺に日が沈む──祈りのあとの自然体 文字数:680

    浜辺に日が沈む──祈りのあとの自然体夕日が、幟のあいだからまっすぐ海に落ちていく。祭りはなおも続いていたが、舞いは終わり、ガムランの音も静まり、人々は砂の上に思い思いに座っていた。白い衣装にウドゥンを巻いた男たち、色とりどりのクバヤ姿の女たち。皆、夕日に向かって黙祷しているようにも見える。だが近づいてみれば、横の人と小声で話し、あらぬ方を見やり、目を合わせて笑っている。それはどこか、神に気を許しているような光景だった。祈りも、儀式も、神聖でありながら「生活の延長」にある。構えず、飾らず、ただそこにいる。バリでは、それで十分なのだ。夕日が水平線に溶けていく。幟がゆるやかに風に揺れる。そして、誰に告げるでもなく、浜辺の祭りは終わった。祈りと遊びと、ざわめきと静けさが、海の彼方へと引いていく。あとには、少し湿っ...浜辺に日が沈む──祈りのあとの自然体文字数:680

  • 飄逸のバロン──砂浜に現れる神獣 文字数:1159

    飄逸のバロン──砂浜に現れる神獣そして、ついにバロンが姿を現した。金の飾りをまとい、獅子というにはどこかしら陽気な毛むくじゃらの神獣。頭と尻尾にそれぞれ人が入り、ふらふらと、しかしどこか神妙な動きで舞いはじめる。日本の獅子舞を「勇壮」と表現するなら、このバリのバロンはまさに「飄逸(ひょういつ)」と呼ぶにふさわしい。跳ねるでもなく、吠えるでもなく、まるで精霊にくすぐられたような、ひょうひょうとした動きで観衆の間を歩む。笑いと祈りが混ざり合い、子どもたちは目を輝かせ、大人たちは手を合わせる。南国の空気というのは、善悪の境目すらもやわらかくしてしまうのだろうか。バロンは「善」の象徴として、しばしば悪の象徴ランダと戦う。その勝敗は決して決まらない。祈りは勝利のためではなく、均衡のために捧げられるのだ。そこにあるの...飄逸のバロン──砂浜に現れる神獣文字数:1159

  • 海に向かって舞う──バリの砂の上で 文字数:1035

    海に向かって舞う──バリの砂の上でいつものように、レギャンの浜をクタ方面へと歩く。焼けた砂を足裏に感じながら30分ばかり行くと、不意に静かなざわめきが耳に入ってきた。見れば、ビーチの一角がいつもと違う。普段なら若者たちがサッカーボールを追いかけている場所に、正装をしたバリの人々が集っている。幟(のぼり)が風に揺れ、まるで海へと続く通路のように砂上に道がつくられている。陸側には即席の祭壇が立ち、供物が並べられていた。男たちは白いシャツにサロン、頭にはバリ独特のウドゥン(鉢巻)。女たちは淡い緑やベージュのクバヤ(上着)に艶やかな布を巻き、花を髪に挿している。道端では鶉のゆで卵を売る女の姿。観光とは無縁の、まるで島そのものが踊り出す前の静けさだった。ガムランが鳴り始めたのは、太陽が水平線に沈みかけた頃だった。三...海に向かって舞う──バリの砂の上で文字数:1035

  • 街中のエロス──拒絶と誘いのあわいにて 文字数:676

    街中のエロス──拒絶と誘いのあわいにてバリの寺院を歩いていると、ふいに視線を奪われる彫刻がある。男女の像。男は仮面のような魔の面構えをし、女はその腕に組み伏せられながらも、どこか受け入れるような、あるいは拒むような、曖昧な表情を浮かべている。この像には名もなく、物語も与えられていない。けれど、それゆえにかえって、人の奥深い感情の襞(ひだ)を映し出す鏡のようにも見える。力と愛、支配と献身、官能と祈り──すべてがこの一瞬に重なっている。バリの街中にはこうした「エロスの断片」が、あたかも日常の隙間に紛れ込むように、何気なく存在している。神殿の壁に、門の上に、水路のほとりに。人が生きることの根源を、恐れもせず、隠しもせず、むしろ祝祭のように彫り込んでいる。誘っているのか、拒んでいるのか──その答えはどちらでもなく...街中のエロス──拒絶と誘いのあわいにて文字数:676

  • 樹の上の祠──精霊とともに暮らす島 文字数:761

    樹の上の祠──精霊とともに暮らす島バンヤンの巨木。その枝は天に向かって広がり、気根はまるで地に還る記憶のように垂れている。その中腹に、ぽつんと小さな祠がある。誰がどのようにしてあそこまで運び上げたのか想像もつかないが、なぜそこにあるのかは、なんとなくわかる気がした。バリでは、樹には精霊が宿るとされている。特にこのバンヤンのような長命の大樹には、祖霊や自然の神々が降りてくる。人々はその存在を恐れ、敬い、共に暮らしている。だからこそ、地面ではなく、あえて樹の上に祠を置いたのだろう。祈りは人のためだけではなく、樹の、そしてその中に棲むものたちのためにもあるのだ。バリにいると、「境界」がどこまでも曖昧になる。生と死、人と神、自然と人為。すべてが混じり合い、やがてひとつの風景となって、何気ない日常の中に立ち現れる。...樹の上の祠──精霊とともに暮らす島文字数:761

  • 薄明の屋根──歓喜の乾季にて 文字数:497

    朝早く目が覚める。まだ夢の名残がまぶたに残っているような時間帯だ。窓の外、空はすでに明るみはじめていて、黒々とした屋根と木々の向こうに、淡い光の層が広がっている。まさに「薄明(はくめい)」という言葉がぴったりの時間。太陽がその姿を現す前の、静かな予告編。バリに来て、もう18日が過ぎた。その間、一滴の雨も降っていない。スマホで「乾季」と打とうとして「歓喜」と誤変換されたが、まさにその通りかもしれない。底抜けに明るい、何の陰りもない青空が毎朝続く。乾いた空気の中、光が粒子のように踊り、朝がそのまま祝福のように差し込んでくる。この島では、朝焼けさえも祈りのように静かで、風がなにか大切な言葉を伝えようとしているかのよう薄明の屋根──歓喜の乾季にて文字数:497

  • キンコンカン──ガムランの午後 文字数:784

    キンコンカン──ガムランの午後帰り道、バンジャール(地域共同体)の集会所からキンコンカンと金属の澄んだ音が聞こえてきた。耳を澄ませば、あれはガムラン。吸い寄せられるように中をのぞくと、制服姿の小学生たち──男の子たちに混じって女子が3人──およそ25人が、整然と並んだガムランの前に座っている。中心に立つのはサロンに頭布の正装をした一人の大人の男性。どうやら彼が先生のようで、ゆっくりとしたテンポで指導している。最初は単調にも聞こえるリズムだが、次第にそれは複雑さを増し、何度も何度も細かく繰り返されていく。気がつけば僕はその音色にすっかり引き込まれ、小一時間ほどその場を動けなかった。年齢はばらばらのようで、まだ幼さの残る子もいれば、もうすっかりお兄さん然とした子もいる。以前に見かけたガムランの練習は、子どもた...キンコンカン──ガムランの午後文字数:784

  • 奈良周辺でNTTデータ同窓会風の集い

    55年前の職場同窓会特別版を石切で。特別版となぜ言うのか。実は毎年秋に正規版を東京で行っている。今回はわたしが京都奈良博物館巡りで出かけた際に近辺に住む先輩の家に押しかけ特別版となった。5時間があっという間に過ぎた感がある。ウクライナ問題ではスターリンのウクライナ領土線引きに今の侵略の遠因があるとの話で軽い熱気を帯びる。コロナワクチンでは数回打った多数派と従来からワクチン有害説を唱える一人で白熱した。輪廻と魂の我らが年齢にふさわしい議論ではその真偽は量子力学による解明が期待されるが、実はその存在を信じる事が大事だとの意見がある一方で死んだら無だとの意見もあり、大いに楽しんだ。AIの将来についても大いに盛り上がる。そんなものなくても十分に人生は楽しいのでは、縄文時代の人とAIの時代の人とどちらが幸せかわから...奈良周辺でNTTデータ同窓会風の集い

  • 京都国立博物館へ

    奈良の超博と共催の京都博物館へ行って見た。美のるつぼの展示としては巨大な漆塗り色彩豊かな板に魅入る。他の常設仏像を時間をかけてじっくり肌触りまで感じるほど眺める。これで行った甲斐があった。京都国立博物館へ

  • 奈良 超博へ

    中宮寺の弥勒菩薩をかなりの時間をかけて拝顔する。紀野一義氏がこのお顔を見て母の顔だと話していたことを思い浮かべながら眺める。百済観音も圧巻の仏像でこの周りをゆっくりと回りながら隅々まで凝視する。これだけ見ればよい。充実した時間を過ごすことができた。奈良超博へ

  • 京都 奈良 超博巡り 三十三間堂の神々

    一区切りついたので超博に出かけた。京都博物館が月曜日休館だった。三十三間堂も好きなところの一つでお馴染みのヒンドゥ由来の神々にご挨拶をして回る。バリのヒンドゥに親しんでいるので彼らを思い浮かべながらじっくりと見て回る。ガルーダもいる。シバ神も。その変化に宗教の本質が隠れている、誤解と変化こそが宗教の本質なのだと改めて納得した。京都奈良超博巡り三十三間堂の神々

  • 《蝋の香と染めの記憶──バリの工房にて》文字数:2413

    《蝋の香と染めの記憶──バリの工房にて》火にかけられた小さな鍋の中、蝋がゆっくりと透明に溶け、静かに煙を立てていた。その湯気はどこか懐かしい匂いがして、何度も訪れたこの工房の空気が、また蘇る。手馴れた職人の指先が蝋筆を取り、絣のための模様を、迷いなく布へと記してゆく。その線は、語られぬ祈りのようにしずかだ。イカットの糸もまた染められる。色は布になる前から物語を持つ。乾いた布にではなく、湿った日々に色が染み込むのだ。幾度となく目にしてきた模様──けれど、同じものは二つとない。この鍋、この蝋、この火の前でしか生まれない何かが、きっと今日も染められている。《蝋の香と染めの記憶──バリの工房にて》文字数:2413

  • 《サヌールの漁師像──素朴なる記憶の番人》文字数:829

    《サヌールの漁師像──素朴なる記憶の番人》胸を張り、陽を仰ぐようにして立つこの漁師像は、どこか稚拙で、どこか懐かしい。彫りの浅さが、むしろバリの真の顔を語っている。サヌールの海はかつて、波よりも静かな暮らしのリズムがあった。夜明け前に網を担ぎ、波間に舟を出す男たち。それを迎える家族の、淡い祈りと朝餉の煙。この像は、観光地としてのバリではなく、「暮らし」と「祈り」と「海」が一つであった頃の記憶を、あえて技術の未熟さという形で語っているのかもしれない。潮風にさらされながら、今日も彼はまっすぐに東を見ている。来ぬはずの舟を待つように。あるいは、もう帰らぬ日々を見送るように。《サヌールの漁師像──素朴なる記憶の番人》文字数:829

  • 《ポレンの下で──善と悪を受け入れる音色》文字数:2380

    《ポレンの下で──善と悪を受け入れる音色》白と黒の格子、ポレンはただの装飾ではない。それはバリの深い世界観──善と悪、生と死、光と闇の交錯を静かに語る帯である。このガムラン堂に巻かれた一本のポレン。その下で、小さな手が銅鑼を叩き、小さな音が生まれる。音は揺れ、重なり、天へと昇る。子どもたちはまだ意味を知らない。けれどその背後に、太古から続く調和の思想が流れている。白と黒を区別せず、むしろ両者があるからこそ世界が成立するという、島の哲理。ポレンは二元の象徴でありながら、実は一つの帯である。切り離さず、巻きつけ、包み込む。バリの音楽もまた、ポレンのようだ。高音と低音、陰と陽を絡ませながら、世界の成り立ちを今日も奏でている。《ポレンの下で──善と悪を受け入れる音色》文字数:2380

  • 《ナーガは眠り、そして立ち上がった──べサキ寺院、1963年アグン山噴火の奇蹟》文字数:2643

    《ナーガは眠り、そして立ち上がった──べサキ寺院、1963年アグン山噴火の奇蹟》バリの神々が沈黙を破った年、1963年。アグン山は天に向かって火を吹き、溶岩は地を割り、島は黒い灰に覆われた。だがその怒りの奔流は、なぜか──聖域べサキ寺院の石段の寸前で、ふと動きを止めた。誰かが守ったのだ。それは偶然ではなく、神意だったと人々は言う。この写真に映るナーガ──蛇にして竜のかたちを借り、大地の底を流れる力そのもの。その石の鱗は、長く静かに時を抱き、参道を這いながら、境内へと続く階を護っている。災厄の年、人々はその背に祈り、恐れ、そして救いを見た。ナーガとは、ヒンドゥの宇宙観における水と地の守護神。だがここバリでは、もっと土着の、もっと古い何かの記憶として息づいている。それは母のようであり、炎に抗う父祖のようでもあ...《ナーガは眠り、そして立ち上がった──べサキ寺院、1963年アグン山噴火の奇蹟》文字数:2643

  • 顎なき咆哮、声なき守護者 文字数:1813

    顎なき咆哮、声なき守護者この「カーラ」の顔に注がれる意匠は、見る者の心を試すかのようである。大きな目は怨念のようにこちらを凝視し、口元は牙だけを剥き、顎はない。それは声を持たぬ神。吠えずして世界を制しようとする意思の彫像だ。下顎がないのは、この世の言葉を超えた存在であることの暗示とも解釈されている。バリの美の逆説バリの至る所にカーラがいる。寺の門、家の梁、祠の上──そしてそのすべてに唐草文様と花の文様が絡まっている。なぜだろう。怖ろしきもの、醜いもの、それを咲き乱れる花で包み込む。バリにおける美とは、ただ美しいということではなく、「力」や「異界」を抱き込む構造なのだ。「長く見ていたい対象ではない」と感じるのもまた自然だ。しかし、それでも「気になる」「心に引っかかる」。その違和感のなかに、バリ文化の深部=神...顎なき咆哮、声なき守護者文字数:1813

  • オンカラ──言葉以前の神聖 文字数:3326

    オンカラ──言葉以前の神聖この写真に記されたバリ文字(アクサラ・バリ)は、ラテン文字と並んで掲げられながらも、まったく異なる波動を持っている。それは実用のためというより、聖性の形を宿した線のリズムだ。バリでは、このような文字がオンク(Ong)やスワハ(Swaha)といったマントラ、すなわち宇宙に向けて放たれる振動の写しとして用いられてきた。音を視覚化したもの、それがオンカラである。曖昧な定義、ゆえに広がるオンカラという言葉は、あるときには特定の文字(例:ᬑ=オム)を指し、またあるときには文字全般を通じた霊性の発露を意味する。まさにバリ語とサンスクリット語が交錯するなかで生まれた記号=呪(しゅ)=祈りの文化である。風化しないマントラこうした看板のなかにバリ文字が混じるのは、単なる装飾でも観光向けの演出でもな...オンカラ──言葉以前の神聖文字数:3326

  • 《チリ文様に見る、神の宿るかたち》文字数:3111

    《チリ文様に見る、神の宿るかたち》スリ(チリ)の文様が、こうして目の前にある。竹の柱から垂れた若葉の飾りは、風に揺れる小さな祈りのようで、バナナの葉の上に置かれた花や米、そして手折られた植物たちは、どれも儀式のためというより、暮らしとともにある信仰の微笑を語っているようだ。「チリ」とは、バリ語で「可愛い」。その「可愛い」が、島の神話の女神デウィ・スリに重ねられ、そして豊穣と家内安全をもたらすラクシュミー神の分身としていまも祀られている。これは、愛されることと生き延びることが、決して分けられないバリの美意識である。スリという名前の記憶「スリ」という名前のマッサージ師。ウブドから来てくれたあの女性の柔らかな指先、施術のたびに聞こえる静かな息遣い、それもまた「神々の島」のもう一つのチリ(スリ)だったのかもしれな...《チリ文様に見る、神の宿るかたち》文字数:3111

  • 《ルメイヨールの庭に寄す──静けさの縁取り》文字数:2733

    《ルメイヨールの庭に寄す──静けさの縁取り》扉の縁が額縁となり、この庭はまるで一幅の絵画のように立ち上がる。赤紫のグラウンドカバーが光を吸い込み、吊るされたコウモリランが、しだれる詩行のように垂れている。この景色には、整えすぎない優しさがある。草木は揃っていない。枝は自由にねじれ、葉は意志のままに伸びている。しかしそこに、ルメイヨールの筆が描いた踊り子のような、生命の躍動と沈黙の調和が確かにある。この庭は、ただ鑑賞されるものではない。部屋の奥に静かに座り、その向こうの光と風を感じるための場所である。ルメイヨールは、この庭を描かなかった。しかし、彼の絵はこの庭から始まっている。彼の踊り子たちは、きっとこの光を背にして、薄く開いた扉の向こうに、今も佇んでいるに違いない。《ルメイヨールの庭に寄す──静けさの縁取り》文字数:2733

  • 《林に立ちのぼる煙──日常という神事》文字数:1331

    《林に立ちのぼる煙──日常という神事》落ち葉を焼く、という行為に誰がここまでの静謐な詩情を見出しただろう。林の奥で、誰かが朝の儀式のように枯れた葉を集め、火を点ける。炎そのものは見えないが、煙がゆるやかに、木々の隙間から立ちのぼる。光は、煙を通してやわらかく砕かれ、空気は、火の記憶でうっすらと青く染まる。こうした風景を、どれだけの人が見過ごし、どれだけの旅人が写真にすら収めぬまま通り過ぎるのか。だが、ここに宿っているのは一過性の儀式ではなく、反復される祈りである。火を使うということ。煙が空へと昇るということ。葉が土に還るということ。そのどれもが、人間が自然と交わす小さな契約にほかならない。この林が美しいのは、神秘だからではない。ただ、暮らしの営みが、自然と切れていないからなのだ。《林に立ちのぼる煙──日常という神事》文字数:1331

  • 《スミニャックの寺院で──アグン・アナックとの対話》文字数:2213

    《スミニャックの寺院で──アグン・アナックとの対話》寺院の扉が開いていた。それだけの理由で、私は奥へと歩を進めた。サンダルの音だけが響く石畳。空気は湿っているのに、なぜか乾いた静けさが満ちていた。奥まった石壇の前に、ひとりの男が座っていた。その人は、こちらを見ていた。そして、まるでかつて会ったことがあるかのように言った。「どうぞ。どこから来ましたか」東京から来た。長くバリにいるが、こうした出会いは初めてだった。「私はアグン・アナック。クシャトリアの出です。だから、ワヤンなどの名は持たぬ。」静かだが、確かに線を引く語り方だった。階級の話は日本では触れづらいが、彼の語り口には誇りはあっても、威圧はなかった。「あれが我が家のシンボルです」と指さされたその壁面には、クリスの文様を刻んだ陶板が埋め込まれていた。赤茶...《スミニャックの寺院で──アグン・アナックとの対話》文字数:2213

  • 《穏やかなクリス──沈黙のなかの王の刃》文字数:1202

    《穏やかなクリス──沈黙のなかの王の刃》バリのクリスに向き合うとき、多くは鋭利な装飾、複雑な霊性、精緻な呪力を感じる。それは魔除けであり、祝祭具であり、ときに死の象徴でもある。だが、この一振りはちがった。柄の黄金はあたたかく、宝玉はまるで夜明けの星のように静かに光っている。刃文には激しさではなく、水の記憶が宿っている。そして、柄から刃へと連なるその流線は、どこか祈りの所作に似ている。これを作った鍛冶師は、力ではなく「鎮める」ための意図を込めたのではないか。争いを終わらせる手に握られることを願ったのではないか。それとも、ある王が己の怒りを静めるために持ったものだったのか。このクリスは語らない。しかし、語らぬからこそ深い。そして何より──見る者の心を「構えさせない」ことの美しさを教えてくれる。《穏やかなクリス──沈黙のなかの王の刃》文字数:1202

  • 《水面の内側にあるカフェ》文字数:1118

    《水面の内側にあるカフェ》サヌールの風はときおり、光を水に変える術を知っている。このカフェの壁を見たとき、私はたしかに、ガラス越しに波の気配を見た。幾何学模様のガラス片が、光に濡れている。それはステンドグラスのようでいて、どこか珊瑚の断面のようでもあり、水の中でゆらめく魚の鱗を思わせもする。中に置かれた椅子の模様は、なぜか水草のように見える。天井の木の梁さえ、まるで水面から差し込む陽の筋のようだった。バリには「装飾が装飾で終わらない」空間がある。ここもそのひとつだ。それは観光用の意匠ではなく、暮らしのなかに組み込まれた抽象画なのだ。《水面の内側にあるカフェ》文字数:1118

  • 《うつつで見るもの》文字数:1300

    《うつつで見るもの》水音は、呼吸のようだった。決して強くならず、かといって止まることもない。永遠に続くようでいて、一瞬で忘れ去られそうな……催眠のような水のささやきが、この苔むした石壁の前に私を留めた。目を閉じなくても、世界がぼやけてくる。水面が波打つたびに、私の視界のなかの現実が、柔らかな粒子に変わっていく。ふと気がつくと、あの女神像たちがまばたきをした気がした。いや、たしかに、右の像はわずかに顔を動かし、左の像は口元にうっすらと微笑を──私はもう、うつつのなかで夢を見ていた。石の手から落ちる水は、もう水ではなかった。それは「ことば」であり、「昔語り」であり、あるいは「誰かが私にだけ語りかけている名前のない声」だった。水音が、時間を削る。水面が、風景を削る。そして私は、自分という輪郭までも、この水に浸し...《うつつで見るもの》文字数:1300

  • 《窓のむこうの、ただの緑》文字数:1170

    《窓のむこうの、ただの緑》旅の途中、私はバリ美術館のひとつの部屋にいた。静かだった。誰もいない展示室の窓際、鉄の装飾が施された窓枠に、陽の光が斜めにさしていた。その窓から見えるのは──ただの草と、ただの木陰と、ただの壁。けれど私は、思わず立ち止まった。何もない、しかし何かが“通り過ぎた”ような空気がそこにはあった。風の気配、鳥のささやき、午前と午後の境界線。そのすべてが、この窓の向こうに溶け込んでいた。私はそれを「記憶」とは呼ばなかった。けれども、美術館を出て、街を歩き、海岸に座って、夕暮れを眺めても──あの**“どーってことない”風景**だけが、なぜか私の心に残っていた。美術作品を記憶するのではない。作品の「合間」に見た、誰も気に留めない風景が、記憶になるのだ。あの窓の模様。陽の匂い。少し剥がれた壁。私...《窓のむこうの、ただの緑》文字数:1170

  • 《窓のむこうの、ただの緑》文字数:1170

    《窓のむこうの、ただの緑》旅の途中、私はバリ美術館のひとつの部屋にいた。静かだった。誰もいない展示室の窓際、鉄の装飾が施された窓枠に、陽の光が斜めにさしていた。その窓から見えるのは──ただの草と、ただの木陰と、ただの壁。けれど私は、思わず立ち止まった。何もない、しかし何かが“通り過ぎた”ような空気がそこにはあった。風の気配、鳥のささやき、午前と午後の境界線。そのすべてが、この窓の向こうに溶け込んでいた。私はそれを「記憶」とは呼ばなかった。けれども、美術館を出て、街を歩き、海岸に座って、夕暮れを眺めても──あの**“どーってことない”風景**だけが、なぜか私の心に残っていた。美術作品を記憶するのではない。作品の「合間」に見た、誰も気に留めない風景が、記憶になるのだ。あの窓の模様。陽の匂い。少し剥がれた壁。私...《窓のむこうの、ただの緑》文字数:1170

  • 《背中から語られるもの──ブランコの金色の舞》文字数:1618

    《背中から語られるもの──ブランコの金色の舞》像は前を向いていない。私たちは彼女の背中を見る。だがこの背中ほど、多くのことを語るものがあるだろうか。ゆるやかな腰のねじれ。一歩後ろにひいた左足が、ふくらはぎをわずかに緊張させる。指を腰に添えるその手の位置に、ふと官能が宿る。そして金の肌に貼りつくように垂れる髪が、重力ではなく欲望に引かれているように見える。ブランコは、この像に宗教の衣と官能の息づかいを同居させた。そのどちらも削らず、互いに否定させず、むしろ引き立て合うように。これは性が堕ちる前のかたち。まだ羞恥も罪も知らぬ「肉体の肯定」としての姿。この像が纏うのは聖衣であると同時に、身体を際立たせるための“装飾”でもある。その褶(ひだ)ひとつひとつが、静かな誘惑のように風を誘っている。そして決定的なのは、彼...《背中から語られるもの──ブランコの金色の舞》文字数:1618

  • 《空に触れる踊り子》文字数:1325

    《空に触れる踊り子》片足を強く踏みしめ、もう一方の足がすでに空を蹴っている。彼女の背はしなやかに弓なりに反り、両腕は天へと突き上げられる。その指先は、風の高みをつかまえようとしていた。この像には、重力というものが感じられない。地に立っているようで、すでに地を離れている。肉体は残っても、魂は一瞬先に宙に溶けている。腰のひねりと肩の傾斜が生むラインは、まるで炎のゆらめきのように柔らかい。しかし、そこに込められた内的な張力は鋼のようだ。彼女は躍っているのではない。世界の律動に同化しているのだ。あの日、森の中に風が立った。雲が厚く、雨の匂いが満ちていた。だが彼女の肢体は、その灰色の空すら跳ね返す金の光を放っていた。指先が指し示すのは、まだ名もない未来。そこへ向けて、彼女は祈る。いや──舞うという祈りのかたちで、天...《空に触れる踊り子》文字数:1325

  • 《風を統べるもの──六腕の舞女神》文字数:5696

    《風を統べるもの──六腕の舞女神》雲が垂れ込め、空が沈黙を抱いたそのとき、彼女は空を裂いて、舞のかたちで天に浮かんでいた。金に染まるその肢体は、地に根を持たない。片脚を風に委ね、もう一方は雲を踏むように伸ばされている。それは「立つ」のではなく、「浮かぶ」でもなく、**“世界に逆らわずに存在する”**という、ただ一つの選択肢。六本の腕がそれぞれ異なるリズムを持つ。ひとつは祈り、ひとつは拒絶、ひとつは召喚、ひとつは祝福、そして、残るふたつは、まだ名も持たぬ感情の精霊たちのために用意された。その手指の形、それ自体が神託であり、舞であり、呪である。ひとつの指の傾きが「生」を呼び、もうひとつの手の反りが「死」を鎮める。風が吹く。衣がたなびき、帯が天空の方角を示す。裾の流れがそのまま時間の曲線を描き、私たちが見ている...《風を統べるもの──六腕の舞女神》文字数:5696

  • 《黄金のひと呼吸──バリ舞踊像への頌歌》文字数:2028

    《黄金のひと呼吸──バリ舞踊像への頌歌》これは、ただの舞の瞬間ではない。これは、時を抱いた沈黙のかたちである。像は、右足を少し前に出しながらも膝を緩め、重心を微妙に腰のあたりに預けている。左足はしっかりと支えるが、踵に重さがかかりすぎないよう配慮されている。立っていながら、舞っている。舞っていながら、静止している。腰のひねりは劇的だ。胴体は反時計回りに回転し、右肩がわずかに後ろへ引かれ、左肩が前へ突き出る。そのひねりが、右腕の優雅なカーブと左手の前方への伸びとを生み出している。指先はバリ舞踊特有の角度──まるで空気そのものを掬い上げようとするかのように、反り返りながらも緊張感を保つ。手のかたちは、単なる装飾ではない。**それは言葉を超えた「物語の文法」**である。風に言葉を伝えるように、花を模倣するように...《黄金のひと呼吸──バリ舞踊像への頌歌》文字数:2028

  • ウブドの美女たち 文字数:2645

    ネカやブランコ美術館で出会った美女たちを撮ってみました。ウブドの美女たち文字数:2645

  • 天空の女神 文字数:1694

    ブランコ美術館の天空にそびえる女神たち。天空の女神文字数:1694

  • 《祈りの形の記憶──バリの片隅に坐すお地蔵さま》文字数:1052

    《祈りの形の記憶──バリの片隅に坐すお地蔵さま》南国の苔むす祠のかたわらで、ひっそりと書を開く童子の像。その手元には経典があり、目の前には丸い供物のような石。周囲のバリ風彫刻とはどこか異なる、柔らかい形と構え。これは、仏教がジャワやバリに根付いていた9世紀から13世紀頃の、スリヴィジャヤやマジャパヒト王朝時代の宗教的記憶を、今に伝える小さな石の声なのだろう。バリ島では、ヒンドゥー教の優勢により仏教は表層からは姿を消したように見える。だがその精神や造形は、確かに細部に残っている。寺院の奥、石畳の端、祠のかげ──静かに坐して、忘れられるのを待っているような像たちがいる。この像もまた、そうした記憶のひとつ。「祈り」と「学び」がまだ分かたれていなかった時代の、人間の姿。おそらくこの像の起源は、観音信仰と地蔵菩薩信...《祈りの形の記憶──バリの片隅に坐すお地蔵さま》文字数:1052

  • 《光の巫女──バリの庭に咲くスパイダーリリー》文字数:811

    《光の巫女──バリの庭に咲くスパイダーリリー》この花には、声がない。だが、その沈黙はときに言葉より多くを語る。白く、清らかに、しかしどこか妖艶なフォルム。六枚の花弁の中心から、まるで天に伸びる糸のような細長いリズムが走っている。花というよりも、ひとつの舞踊の瞬間のようにさえ見える。バリではこうした花が、庭先や道端の影の中にふと咲いている。何の気負いもなく、しかし圧倒的に“存在”している。《光の巫女──バリの庭に咲くスパイダーリリー》文字数:811

  • 《バリのクリス──護符と芸術の境界に》文字数:1110

    《バリのクリス──護符と芸術の境界に》クリスとは、ただの武器ではない。護符であり、霊性の結晶であり、王権や家系の象徴でもある。この一本の柄に注ぎ込まれた意匠の精緻さを見よ。金細工の密度、象嵌された宝石の配置、神話的な彫刻が織りなす文様。そこにはバリの工芸美術が到達し得る極北がある。単なる職人技を超えて、これは精神と伝統が金属と石に降り立った姿である。柄には、護符としての意味を持つ宝石が嵌め込まれ、装飾そのものが呪術的な配置とされることもある。「金属は神の息を受けて鍛えられる」──この島に生きるダラン(影絵師)やパンデ(鍛冶師)たちの言葉は決して誇張ではない。クリスには「霊が宿る」と信じられている。バリではそれがごく自然な感覚だ。祖先の魂が込められたもの。人間の力を超える力が刻まれたもの。たとえば子孫に伝え...《バリのクリス──護符と芸術の境界に》文字数:1110

  • 《ワルター・シュピースの碑を訪ねて──静かなバリの恩寵》文字数:1848

    《ワルター・シュピースの碑を訪ねて──静かなるバリの恩寵》今回の旅には、ひとつの明確な目的があった。それは、ワルター・シュピースの記念碑を訪ねること。1930年代、バリを世界に紹介した存在として知られるこのドイツ出身の画家・音楽家・演出家のことを、私は長く心に留めていた。彼が過ごした時間、彼が見た光と影──それらを確かめたくて、私は再びこの島に降り立ったのだ。記念碑の存在は知っていたが、実際にたどり着くのは容易ではなかった。観光ガイドにも地図にもほとんど載っていない。手がかりは一枚の古い写真だけ。それをホテルのスタッフに見せて訊ねても、「ああ、そんなものがありましたかね」といった反応。けれど、「ある人のことを書こうとしたら、その人の歩いた道を歩け」──その思いに突き動かされ、私は探し続けた。ようやくたどり...《ワルター・シュピースの碑を訪ねて──静かなバリの恩寵》文字数:1848

  • 《男根のかたち──バリにおける生命と祈りの造形》文字数:1931

    《男根のかたち──バリにおける生命と祈りの造形》バリ美術館の一隅で、ふと足が止まった。ガラスケースの中に、それは立っていた。赤褐色の頭部、ねじれた幹、根元には絡み合う男女のレリーフ。男根──しかしこれは単なる性の象徴というよりも、美術的な完成度と宗教的な深みをもった祈りのかたちであった。日本で言う「金精様(こんせいさま)」にあたる信仰対象。だが、その洗練された造形には明らかにバリ的な文脈が織り込まれていた。バリに限らず、東南アジアの広域に渡って「リンガ崇拝」は見られる。ヒンドゥー教の影響と土着信仰が交差するこの文化圏では、男根は単なる性的象徴ではなく、創造と繁栄、そして宇宙の根源的エネルギーの表現であった。シャクティ(女性原理)と結びついたシヴァ神のリンガとしての形象は、ヒンドゥー哲学の中核でもある。それ...《男根のかたち──バリにおける生命と祈りの造形》文字数:1931

  • 《メンジャンガン島の朝──静けさは音とともに》文字数:1591

    《メンジャンガン島の朝──静けさは音とともに》夜明け前、まだ薄闇の残る海を、小さな船で滑り出す。メンジャンガン島へ。舳先に立つと、空の色がすでに変わりはじめているのがわかる。濃紺から青へ、そして金の兆し。この島は、バリ島の西端、バリ・バラット国立公園に属する無人島で、名前の由来にもなっている野生の鹿(menjangan)が棲むとされる。スノーケリングのための小さな砂浜は、すぐ背後に高さ3メートルほどの切り立ったサンゴの断崖を背負っている。その足場は、かつて海だった時間の結晶だ。無数のサンゴの化石が荒く重なり合い、裸足では痛みを感じるほどの粗さを持っている。この島に来るなら、ダイビングブーツは必須だ。自然の美しさは、常に人間に対して無垢で無遠慮なのだ。断崖の上には、白い鳥の番が巣を構えていた。近づくと、何度...《メンジャンガン島の朝──静けさは音とともに》文字数:1591

  • 《動かぬ船──座礁のかなたにある時間》文字数:3259

    《動かぬ船──座礁のかなたにある時間》今日、海岸を散歩していた。ハイアットの先、海を斜めに眺めながら歩く。潮風は軽く、波音もささやくように穏やかだった。ふと沖を見やると、ひときわ大きな船が一隻、海の上に止まっていた。珊瑚礁のある浅瀬のあたり。風の流れも、海のうねりも感じさせない、あまりに静かなその姿に、何か違和感を覚えた。「……あの船、動いていない。」少し気になって近づいていく。やがて通りがかりのおばさんに尋ねると、驚くような答えが返ってきた。「あれね、もう一年以上あそこに座礁したままなんですよ。」一年以上──。その言葉が胸に残る。あの船は、もう何百回もの潮の満ち引きを超えて、ずっとこの場所に取り残されているというのだ。船とは本来、動くものだ。海をわたるものだ。流れに乗り、港を出て、また戻ってくる。その動...《動かぬ船──座礁のかなたにある時間》文字数:3259

  • 《グラスボートの午後──海の底で何が起きているのか》文字数:1764写真未完

    《グラスボートの午後──海の底で何が起きているのか》今日の午後は、家族を連れてグラスボートに乗った。子どもたちにサンゴ礁の魚たちを見せてやりたかったのだ。ボートはタンジュンサリの浜辺を静かに離れ、サヌールの海へと滑り出す。船底のガラス越しに広がる水中の世界に、子どもたちは歓声をあげる。色とりどりの魚がひらひらと泳ぎ回り、時折サンゴの間から姿を現しては、またすぐに隠れる。その様子はまるで、波の奥にひっそりと続く秘密の劇場を覗いているようだった。だが、私の目はある一点に釘付けになった。珊瑚の縁が白くなっているのだ。あちこちに、それは見られた。白化している。共生する藻類が死に、珊瑚の骨格が剥き出しになっている状態だ。死んだ珊瑚が積もったような場所もある。全体にくすんだ色合いが目立ち、健康な珊瑚に特有の、あの生命...《グラスボートの午後──海の底で何が起きているのか》文字数:1764写真未完

  • 《屋上の時間──バリという名の空白》文字数:1424

    《屋上の時間──バリという名の空白》この場所に、どれほどの時間を費やしただろう。白いコンクリートの屋上。鉢植えのブーゲンビリアが風に揺れている。手すりの向こうには、サヌールの低い屋根と赤い瓦、さらにその先に穏やかな海。そして晴れた日には、アグン山の輪郭が遠くに浮かび上がる。バリ滞在中、私はこの屋上を“自分の空”としていた。寝椅子を広げ、本を読み、原稿を書き、時にはただ音楽を聴く──静かに流れるジャズやクラシックが、この空間に思いがけない広がりを与えてくれる。下から食事の知らせを持って上がってくるスタッフの足音が、唯一の現世との接点だった。誰もいない。誰にも干渉されない。この空の下に広がるのは、独り占めのバリだった。ときには大鷲が、思いがけず目の高さに舞い降りる。その羽音の重さに、こちらの胸が打たれる。風の...《屋上の時間──バリという名の空白》文字数:1424

  • 《バリ島の休日に宗教をみる──静寂と祝祭が交錯する島》文字数:1465

    《バリ島の休日に宗教をみる──静寂と祝祭が交錯する島》2011年の6月初旬、所用で立ち寄ったデンパサールの日本領事館。その掲示板に貼られていた「バリ島の祝日一覧表」が、ふと目を惹いた。バリに暮らしていると、「今日は何かの祭らしい」と周囲の人の身なりや祈りの煙から察することが日常になっていたが、こうしてカレンダーに一望すると、あらためてこの国の宗教的な多様性に驚かされる。一覧には18日の祝日が記されていた。その内訳は──イスラム系:9日キリスト教系:3日ヒンドゥー系:2日仏教系:1日世俗的祝日:3日(元日、独立記念日など)こうして見ると、インドネシアにおける宗教人口のバランスが、祝日制度にまできちんと反映されているのが興味深い。バリ島自体はヒンドゥー教徒が圧倒的多数だが、国家としてのインドネシアは世界最大の...《バリ島の休日に宗教をみる──静寂と祝祭が交錯する島》文字数:1465

  • ムサンギー 歯を削る通過儀礼 文字数:453 写真未完

    ムサンギー歯を削る通過儀礼4時半に約束しているEMSの集配が今日は5時半ごろ現れた。遅れたことをさかんに謝っている。手で歯を削るしぐさをして、友人のムサンギ-のためだという。ムサンギーとはバリの重要な通過儀礼のひとつで、犬歯、門歯をやすりで平らにすることで悪魔性を除去するという。しかしなんで勤務中にムサンギーにいくの、公私混同もいいとこなのだがと詰問したかったところだが、ここはバリ、それぞれの事情があるのだろう。ウバチャラ・ポトン・ギギともいうらしい。我が家に出いりのアグンによると最低でも20万円ちかい金がいるので彼の息子にもなかなか実施できないでいるという。近所や親族で一緒に行う場合もあるという。この場合は割り勘で払うことになるらしい。金額から言うと葬式なみのセレモニーになる。ボトンギギは男は変声期のあ...ムサンギー歯を削る通過儀礼文字数:453写真未完

  • 《鉄の日──バリとボルネオと、そして日本の祈り》文字数:2119

    《鉄の日──バリとボルネオと、そして日本の祈り》バリで過ごしていたある日、知人のマデが言った。「明日はマシンに祈る日だよ。」マシン?まさか車やバイクにお祈りをするのか。バリ通を自認していた私にも初耳だった。半信半疑でいた翌朝、プールサイドで娘と遊んでいると、ビラのアグースがウドゥン(頭巾)を正しく巻き、腰にサルンを纏って現れた。「今日はマシン供養の日です。」やはり本当だった。バリ語で「トゥンプック・ランダップ(TumpakLandep)」というこの祭りは、もともとは剣や鍬といった鉄器、つまり人間の暮らしに力を与えてきた「鉄そのもの」を供養する儀礼だったそうだ。金属は太古の時代にはハイテクであり、神聖な物質だった。そこから時代が進み、やがて自動車、電動ポンプ、ミシン、携帯電話と、金属を内包する全ての「現代の...《鉄の日──バリとボルネオと、そして日本の祈り》文字数:2119

  • 《天井にひそむ神々の記憶──スマラプラ宮の絵に見入る午後》文字数:1275

    《天井にひそむ神々の記憶──スマラプラ宮の絵に見入る午後》バリ島クルンクンにある旧王宮、スマラプラ。中庭の奥、静かに時を重ねた木造の東屋に足を踏み入れると、ふと足が止まった。目を上げると、そこには一面の絵──天井一杯に広がる色褪せた神話世界が、目に、いや心に、迫ってくるのだ。絵はパネルごとに語られている。火のように金色の光を帯びた神々の行列、仏陀らしき人物の前に座り頭を垂れる信徒たち、森に包まれた祠、鬼と見まごう異形の戦士、冥府を思わせる骨の群れ──それらが、まるで天井から降ってくるかのように、頭上から視線を返してくる。バリ絵画の特徴は、遠近を持たず、全体が等価に描かれることだという。ここでは神も人も、聖も俗も、等しく一枚の布のように展開されている。そこにあるのは「上か下か」ではなく、「交わり」だ。善と悪...《天井にひそむ神々の記憶──スマラプラ宮の絵に見入る午後》文字数:1275

  • ニュピとバリの静寂──魂の夜と人の祈り 文字数:2083写真未完

    ニュピとバリの静寂──魂の夜と人の祈り**ハリ・ラヤ・ニュピ(HariRayaNyepi)**とは、バリ・ヒンドゥー教におけるサカ暦の新年であり、「NYEPI」とも表記される。インドでは地獄の神ヤマが悪霊を追い払う時期にあたり、バリではその悪霊たちが一時逃れてくるとされる。そして、それらが去った後、バリ島を浄化するために、人々は瞑想と静寂で過ごす。いわば島全体の“魂の沈黙の日”である。今回は私にとって2回目のニュピだった。家族で静かに、今ではほとんど失われた漆黒の夜と完全な静寂を、星のきらめきとともに味わいたいと思っていた。ニュピの制約と荘厳な空気ニュピは、断食と瞑想に専念する精神修養の日であり、火や灯りの使用、外出、車の運転、娯楽など、すべてが禁じられる。政府通達では、外国人もこの制約を尊重するように求...ニュピとバリの静寂──魂の夜と人の祈り文字数:2083写真未完

  • オゴオゴの夜──ニュピを迎える前の祓い 文字数:1357

    オゴオゴの夜──ニュピを迎える前の祓いバリの新年、**ニュピ(Nyepi)を明日に控え、町は静かに、しかし確実に緊張と熱気を帯びていた。夕方、海岸通りを歩いていると、あちこちのバンジャール(地域共同体)**の中庭で、人々が「オゴオゴ」と呼ばれる巨大な張りぼての像を作っている光景に出くわした。オゴオゴとは、鬼や悪霊を祓うために作られる異形の像である。バリの人々は新年を迎える前に、あえてその「悪しきものたち」の姿を極端に醜く、恐ろしく創り上げ、それらを夜の町に解き放ち、そして一掃する。この夜限りの演劇のような祓いの儀式なのだ。午後8時を過ぎる頃、第一陣のオゴオゴがやってきた。突然、大通りがざわめきに包まれ、人々がスマホをかざし、頭越しに写真を撮る姿が次々と現れる。オゴオゴの像は本当に見事なまでに「醜い」。むし...オゴオゴの夜──ニュピを迎える前の祓い文字数:1357

  • メラスティ──サヌールの白き行進 文字数:902

    メラスティ──サヌールの白き行進今日のサヌール海岸は、「メラスティ」と呼ばれる祭で賑わっていた。ニュピ(バリ暦の新年)の三日前に行われるという。例によって、私は海岸通りを買い物がてらにぶらぶらと散歩していたのだが、歩くうちに、1キロおきくらいの間隔で、このメラスティの儀式が執り行われているのに気づいた。白一色の正装に身を包んだ大勢のバリ人たちが、海岸に設えられた壇の前に静かに座っていた。どうやら、メラスティとは海に向かって祈りを捧げる儀式であるらしい。その解釈は大きくは間違っていないだろう。やがて海辺での祭事が終わると、各村ごとにまとまった集団が、長い旗やガムランを手にしながら、元来た道を誇らしげに行進していく。まさに壮観であった。行進はおよそ10分ほど続いた。当然、車はその間足止めを食う。だが、そのおか...メラスティ──サヌールの白き行進文字数:902

  • ウドゥンとハチマキ 文字数:361 写真未完

    ウドゥンとハチマキプール番のおじさんの頭にはいつもウドゥンと呼ぶ布が巻かれている。これはバリの正装なのだが、このウドゥンは黄昏時の遠目にはハチマキそっくりに見える。子供の頃銭湯から帰るおじさんがよくハチマキ姿で歩いていたものだが、そのハチマキとウドゥンの印象がそっくりなのだ。日本のはちまきはひょっとしてこのウドゥンがその昔日本に伝搬したと想像してみるのも楽しい。ハチマキの起源はアマテラスが巻いた白い布が起源らしいが、それはなんだかこじつけくさい。それよりももっと古(いにしえ)、インドネシアの民が海流に乗って日本列島にたどり着き、ウドゥンが日本でハチマキになったと想像したくなった。想像というより空想に近いが。ウドゥンとハチマキ文字数:361写真未完

  • 「夢に現れた人形」文字数:6108 写真未完

    《夢に現れた人形──バリの夜とワヤンの魂》(梅田英春『バリ島ワヤン夢うつつ』より)ある夜のことだった。いつものように下宿に戻り、天井から吊るされた電球の明かりをつけて、その下でいくつかのワヤン人形を使い、リヤンの練習をしていた。この日は大雨だった。そのせいか途中で突然、家中の明かりがすべて消えた。こんなことは珍しくない。バリでは激しい雨が降ると、よく停電が起きる。ろうそくに火を灯すのが面倒だった私は、暗闇の中で手探りしながら人形を片づけ、やることもなくそのままベッドに入った。何時だったのかはまったく覚えていない。バリの闇は、瞬時にして時間という観念を奪い去ってしまう。ただ、天井を叩く激しい雨音だけが耳に残っていた。その夜、私はこれまでに見たことのないような夢を見て、飛び起きた。あまりの驚きに足を床に下ろす...「夢に現れた人形」文字数:6108写真未完

  • バリ島の歴史概略(インドネシア独立まで)文字数:2813

    バリ島の歴史概略(インドネシア独立まで)先史時代と人類の移動約100,000年前:バリ島西部チェキック(Cekik)にて旧石器時代の石器が発見される。ホモ・エレクトスが洞穴や木上に居住し、石器や木を使用。約40,000年前:ホモ・サピエンスが定住。約12,000年前:氷河期の終焉により、アジア大陸からの陸続きの移住が終わりを迎える。約3,000–2,000年前:オーストロネシア語族がマレーシア、フィリピン、オセアニア方面からバリへ移動。古代文明の影響と交易紀元前1000年頃:中国やインドとの交易が始まる。紀元前500年頃:青銅器文化であるドンソン文化の影響を受け、バリとジャワで青銅製造が始まる。紀元前100年頃:ドンソン文化の銅鼓がバリで発見される。4世紀頃:ヒンドゥー・仏教の影響が東南アジアで拡大。古代...バリ島の歴史概略(インドネシア独立まで)文字数:2813

  • ガジャマダ将軍、木の中より立つ 文字数:2427

    ガジャマダ将軍、木の中より立つバリの陽射しにさらされたその木像は、まだ削り跡も生々しく、木の香を漂わせていた。四方を足場に囲まれ、完成を待つその姿は、まるで過去の時間がゆっくりと現代に立ち上がろうとしているように見えた。ガジャマダ──13世紀末、ジャワ島のマジャパイト王国の将軍。その名は、今でもインドネシア全土で語られる“統一の英雄”。しかしこの木像の眼は、ただの勝者の眼ではなかった。バリの地に立ち、風を受けるその顔は、何か重いものを抱えていた。右手にはクリス。波打つ刃は魔を断ち、魂を切る。左手にはカンパック。破壊と創造の象徴。それは征服の道具であると同時に、王権の象徴でもあった。1343年。マジャパイト軍が海を越え、バリを制したとき、それはただの服属ではなかった。バリのラジャ(王)たちは退かず、血を流し...ガジャマダ将軍、木の中より立つ文字数:2427

  • 「サブンガン・アヤム──血と風と、そして記憶」文字数:2748

    「サブンガン・アヤム──血と風と、そして記憶」バリの土は乾いていた。だがその奥には、深くうねるものがある。男たちはそれを知っている。――サブンガン・アヤム。それは闘鶏であり、祈りであり、呪術であり、そして何よりも“男の祭り”であった。木陰の奥、広げられた庭の土の上に、雄鶏たちの影が集まる。それぞれの籠の中で、赤いとさかと金属のような羽根が、静かに戦の刻を待つ。男たちは手のひらで鶏の首筋をなでる。鶏の頬をあおり、喉元を揉む。愛撫と挑発が交錯するなかで、とさかがふくらみ、羽がざわめき始める。あれは怒りではない。あれは、歓喜だ。血が、武器を求めて蠢く音だ。やがて選ばれしナイフがまるで家宝のように箱から取り出され、蹴爪にきつく結びつけられる。その瞬間、鶏はもうただの鶏ではなく、神と鬼のあいだを行き交う媒介の生き物...「サブンガン・アヤム──血と風と、そして記憶」文字数:2748

  • 「影が語る神々の夜──ワヤン・クリの灯のもとで文字数:1854

    「影が語る神々の夜──ワヤン・クリの灯のもとで」夕暮れがバリの村を染めるとき、どこからともなく鳴るガムランの音が、魂の襞をゆっくり震わせてくる。スクリーンの向こう、火の灯りを背に立つのはふたつの影──バリの夜に生きる古代インドの英雄たち、アルジュナとカルナ、あるいはユディシュティラかドゥルヨーダナか。だがその面を見つめていると、そこに浮かぶのは神でも王でもなく、“運命”そのものの輪郭に思えてくる。ワヤンは「影」、クリは「皮」──牛の皮に刻まれた英雄譚が、灯明に照らされて壁に揺れ、まるで人間の心の奥底に眠る善と悪、忠誠と裏切り、愛と野望を呼び起こすかのように。ダランと呼ばれる語り手は、一夜にして世界を創る神であり、狂言師であり、詩人であり、ときにヴェーダの神官でもある。彼の声が震えるたび、ドラウパディーの羞...「影が語る神々の夜──ワヤン・クリの灯のもとで文字数:1854

  • 「祈るキキ──クタビーチの笑いと、キンタマーニの風」文字数:1777

    「祈るキキ──クタビーチの笑いと、キンタマーニの風」クタビーチでキキちゃんを知らぬ者はいない。焼けた砂の上で観光客の肩を叩き、笑い飛ばして人生の重さを軽くしてくれる。ヨーロッパから来た若者も、日本のリピーターも、彼女の手のひらにかかれば、みな「キキ〜!」と叫びながら笑顔になる。だが──この一枚の写真を見てほしい。赤い絨毯の上にすっと座り、手を合わせ、深く静かに目を閉じたその姿は、あの陽気なキキちゃんではない。キンタマーニの霧をまとい、祖霊の声に耳を澄ますひとりの祈る女である。肩から背中を包むレースの衣装、腰に結ばれたピンクのサッシュ、乱れることなく編まれた髪に挿された小さな花。バリ人にとって祈りはパフォーマンスではない。それは、魂の輪郭をなぞり直す作業だ。村を離れ、海辺の喧噪で二人の子どもを育てたキキが、...「祈るキキ──クタビーチの笑いと、キンタマーニの風」文字数:1777

  • 「ウバチャラの朝──祈りは、始まりの音」文字数:1526

    「ウバチャラの朝──祈りは、始まりの音」朝の光が芝を照らし、新棟の軒先には藍と白の幕が揺れていた。今日このヴィラでは、ウバチャラ(Upacara)──神聖なる儀礼が執り行われる。完成した建物の魂を迎え入れ、穢れを清め、見えぬ存在と調和を結ぶ。バリの暮らしでは家もまた、生きている。驚いたのは、いつものスタッフたちが皆、見違えるほど厳かな表情をしていたことだ。白いサファリシャツに腰布を巻き、頭にはウダン(頭布)をしっかりと結んでいる。ふだんは冗談好きの若者まで、手を合わせる所作がしなやかで、妙に年輪を感じさせる。奏でられるゴング、カチャッと響く金属の音、低く腹に響く太鼓の振動。即興とは思えぬほどの一体感をもって、それらは重なり合っていた。誰も譜面など見ていない。音が身体に染みついているのだ。「これは何か月も練...「ウバチャラの朝──祈りは、始まりの音」文字数:1526

  • 「チャナン──バリの掌に咲く宇宙」文字数:1167

    「チャナン──バリの掌に咲く宇宙」朝のバリは、沈黙のなかに祈りが芽吹く。まだ陽の差さぬ灰色の石段に、そっと置かれた一片の宇宙──チャナン。椰子の若葉を編んだ浅い器に、赤、黄、紫の花弁が舞い落ちるように並べられている。稲穂の粒、ビンロウの葉、チャンプルな香の糸。すべてが声をもたない言葉となって、神々へと捧げられる。手でこしらえ、胸で祈り、地に返す。チャナンは一日で朽ちる。風にあおられ、鳥に啄まれ、乾いた葉に還っていく。その短さがいい。永遠よりも、**“一日のための美”**にこそ魂がこもる。バリの女性たちはこの小さな器を編みながら、世界を整えている。祈りは声ではなく、手つきと配置と香に宿るということを、彼女たちは知っているのだ。チャナンの中心に座す紫の花が、まるで宇宙の眼のようにこちらを見ている。言葉を持たず...「チャナン──バリの掌に咲く宇宙」文字数:1167

  • バリに本尊の如き神像はない、ただの空間だ 文字数:361 写真未完

    バリに本尊の如き神像はない、ただの空間だインドや中国、日本の寺院には必ず本尊や脇士の仏像がおわしますがバリの寺院は建物だけであり中に神像はない。ただの空間だ。私にはこれは仏教の空を連想させ好みの形態だ。しかしなぜバリにだけこうした信仰形態が残ったのだろう。タナ・ロットは海岸に聳える巨大な岩の洞が信仰対象であり、洞の中には何もない。ヌサぺニダで見た洞窟寺院も中には何も像がなかった。以前見たゴアガジャも岩に囲まれた空間があるだけだった。メイヨール美術館の中にあった神輿はただの座席であり、そこには何も座っていない。家や海岸にある灯籠にみせる祭壇は穴が空いているだけでやはりそこには日本などでみられるお地蔵さんなどの像はない。バリに本尊の如き神像はない、ただの空間だ文字数:361写真未完

  • 夜の闇の中にモスクからの詠唱 文字数:236 写真未完

    午前4時44分夜の闇の中にモスクからの詠唱が聞こえ始める。4時48分に止む。もっと長く感じていたのだが4分ほどの間だったのか。この詠唱どこかで聞いたような調べだとずっと気にかかっていたが、記憶の中に思いを巡らせると思いあたった。かつて訪れた石垣島の島唄ライブハウス安里屋で安里勇の詠う八重山民謡のひとつにどこか似ている。彼の詠う民謡も詠唱と呼ぶのがぴったりとくるものがある。「カイロを制覇していたうねるような朗誦」(開高健「眼ある花々」より。)夜の闇の中にモスクからの詠唱文字数:236写真未完

  • インドネシア人はなぜ唐辛子をたべるのか  文字数:1017写真未完

    インドネシア人はなぜ唐辛子をたべるのかドライバーのRが毎食に唐辛子10本を食べると言う。私は一本もたべられない。せいぜいチリ醤油にしてたらすくらいで、それで充分においしい。しかし多くのインドネシア人は10本程度を平気で食べる。単に辛い物が伝統的に好きという事ではない。ドライバーRが唐辛子を食べると多幸感に襲われると説明してくれた。自らもカプサイシンオイルで経験し、またどこかで聞きかじったことはあったが実際にインドネシア人からその効果について聞くのは初めてであり、なるほどそうかとおおいに納得できた。かつてタイでカプサイシン入りのマッサージオイルを体に塗ったことがある。猛烈に刺激が強く痛いので驚いたが数分後には痛みが完全に引き、そのあと確かに体が軽くなり多幸感ともいうべきものを味わった経験がある。唐辛子は単に...インドネシア人はなぜ唐辛子をたべるのか 文字数:1017写真未完

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