chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
masao
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2022/10/30

arrow_drop_down
  • ロシア革命後のテロルを正当化した革命詩人たちの口癖 文字数:1224

    1922年3月、亡命ロシア人の政治集会の場で、自由主義を貫いた作家ウラディーミル・ナボコフ(ナボコフの父)が、ツァーリ体制を理想化する青年によって射殺された。悲劇的な事件である。その報に接したドイツのハリー・ケスラー伯爵は、日記に次のように記している。「ロシア文化と芸術の生産的な力は衰弱していない。殺人を許されるのは産むことのできる人間のみ」一読して驚く。これはまさしく、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のイワンの主題そのものであり、ロシア的知性が抱える倫理のパラドックスを、鋭く凝縮した言葉である。イワンは「神がいなければ、すべてが許される」と語り、無神論者の立場からキリスト教倫理を批判する。自由な理性によって世界を裁こうとしながらも、その自由が他者の命を奪う権利にまで及ぶことの危うさを、イワン自身は...ロシア革命後のテロルを正当化した革命詩人たちの口癖文字数:1224

  • 大審問官の語りは、現代のQAnon現象を考える補助線 文字数:2627

    陰謀論という言葉は、しばしば議論を打ち切るためのラベルとして使われる。相手に「おまえの言っていることは陰謀論だ」と一言投げつけることで、反論の余地を封じる。だがそれは、本来ディベートでは禁じ手とされている。ラベル貼りは議論の停止であり、対話を閉じる行為だからだ。したがって、陰謀論とはまず「仮説」として開かれた思考の対象と捉えるべきである。内容の荒唐無稽さではなく、その語り方、論理の組み立て、社会的影響の広がりによって判断すべきだ。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の中に、イワンが語る「大審問官」の挿話がある。これは陰謀論的構造を備えながらも、世界中の読者に深い思索を促してきた。つまり、陰謀論かどうかは内容ではなく、語られ方と受け取られ方にかかっている。「大審問官」の物語が尊重されるのは、それが人間の自...大審問官の語りは、現代のQAnon現象を考える補助線文字数:2627

  • 中国共産党と『カラマーゾフの兄弟』のイワン──「すべてが許される」という感覚の行き先 文字数:1577

    中国共産党と『カラマーゾフの兄弟』のイワン「すべてが許される」という感覚の行き先1カミュとカラマーゾフを補助線にコロナ禍が映し出した中国共産党の統治スタイル、それは「強権的な無神論国家がいかにして公共善を動員し、人々を献身へと駆り立てるのか」という問いを私たちに突きつけた。似た光景を描く文学は少なくない。たとえばカミュ『ペスト』。神を信じない医師リウーは、それでもなお患者を救うため献身し続ける。武漢で警鐘を鳴らした李文亮医師やアイ・フェン医師の行動を思い起こせば、無名の善意が独裁政権下でも消え得ないのは確かだ。同じく心の奥を透かし取る鏡として有効なのが、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のイワンである。彼は「神の存在は理性としては認めるが、その創った世界は断じて認めない」と宣言し、「賢い者は、真理を悟...中国共産党と『カラマーゾフの兄弟』のイワン──「すべてが許される」という感覚の行き先文字数:1577

  • アリョーシャの語るドストエフスキー 奇人と信仰の地平で 文字数:1950

    アリョーシャの語るドストエフスキー奇人と信仰の地平で「僕は書かれざる第二巻で、革命軍に身を投じ、そして皇帝によって処刑される運命にあったらしいんだよ。」そう呟く僕。アリョーシャ・カラマーゾフ。ドストエフスキーが彼に語らせたかった言葉は、完成することのなかった『カラマーゾフの兄弟』第二部に託されていた。読者の多くがいい子ちゃんとみなすアリョーシャ。その彼がなぜそんな過酷な結末を迎える構想の中にいたのか。おそらくドストエフスキー自身にしか答えはわからない。けれど一つの推測ができる。彼自身がかつて、死刑宣告ののちに寸前で助命された経験を持っていたこと。まさに死を目前にしながら、それを超えて生き延びた人間。そのとき、彼は一度死んだのだろう。そして同時に、あの瞬間を越えた者にしか見えない風景を見たのではないか。「処...アリョーシャの語るドストエフスキー奇人と信仰の地平で文字数:1950

  • 嫉妬の力学 『カラマーゾフの兄弟』と『源氏物語』における愛と誤解の連鎖 文字数:1150

    嫉妬の力学『カラマーゾフの兄弟』と『源氏物語』における愛と誤解の連鎖『カラマーゾフの兄弟』という小説は、父殺しの物語として読まれることが多いが、その底には複雑に絡み合う嫉妬の感情が深く横たわっている。とりわけ、登場する女性たちの感情の軋轢、すなわちグルーシェニカとカテリーナとの間に交わされる嫉妬の相剋は、物語の核心のひとつである。カテリーナは、心のどこかでミーチャ(ドミートリイ)への思慕を捨てきれずにいる。だがそのミーチャが、父フョードルに借金を申し出た動機としてグルーシェニカの名を口にしたと知ったとき、彼女のなかの嫉妬が疼き始める。そしてその嫉妬は、物語の転機となる。裁判における決定的な証言、つまりミーチャを罪に陥れる嘘を導き出す。この構造は、実は千年前の古典『源氏物語』においても、ほとんど同じ形で描か...嫉妬の力学『カラマーゾフの兄弟』と『源氏物語』における愛と誤解の連鎖文字数:1150

  • ハリー・ポッターにおける「父殺し」と影との和解 文字数:4138

    ハリー・ポッターにおける「父殺し」と影との和解『ハリー・ポッター』は一見、魔法と友情の物語に見えるが、その根底には神話的な主題が脈打っている。その一つが「父殺し」の変奏である。ハリーの実の父ジェームズ・ポッターは、既に故人である。しかし、ヴォルデモートという邪悪な父の化身とも呼ぶべき存在と対峙する構図は、神話的視座から見るときわめて典型的である。ヴォルデモートはただの敵ではない。彼はハリーと「同じ杖の核を持つ」存在であり、運命的に結びついている。さらには、彼の一部がハリー自身の中に入り込んでおり、ハリーは常にその“影”と共に生きている。これはユング的に言えば「シャドウ(影)」との葛藤であり、フロイト的に言えば「父なるものとの内的対決」である。ヴォルデモートを倒すことは、単なる善悪の戦いではなく、自分の中に...ハリー・ポッターにおける「父殺し」と影との和解文字数:4138

  • 私のドストエフスキー体験 イワン、ドミートリイ、奇人アリョーシャ 文字数:1969

    私のドストエフスキー体験:イワン、ドミートリイ、そして奇人アリョーシャ『カラマーゾフの兄弟』は、読むたびに新しい貌を見せる。読む者の年齢、環境、信条、そのすべてを試すようにして。私がこの作品に惹かれてやまないのは、その「冗長さ」すらも含めて、あまりに周到に仕掛けられた精神の迷宮だからである。イワンが発狂するまでの周到な描写は驚異的だ。臭い、味、視線、笑い。細部にわたる異常感覚の演出が、じわじわと読者の心を蝕んでいく。彼の内面の崩壊は、理性の敗北であり、「神なき世界ではすべてが許される」という悪魔の論理が、ついに彼自身を呑み込んでいく過程に他ならない。イワンの存在は、この小説全体の神経である。しかし彼の真の核心が現れるのは、彼が語る作中作『大審問官』においてである。これがなければ、『カラマーゾフの兄弟』はロ...私のドストエフスキー体験イワン、ドミートリイ、奇人アリョーシャ文字数:1969

  • 人物化した思想が動き出す 文字数:14054

    人物化した思想が動き出す椎名麟三とバフチンを手掛かりに読む『カラマーゾフの兄弟』「ドストエフスキーの人物は、一つの観念がそのまま生命をもった存在である」――椎名麟三「ドストエフスキーの作品構成についての瞥見」(1942)1椎名麟三が射抜いた“人物=イデー”という構図昭和17年、まだ無名だった椎名麟三は短い評論の中でドストエフスキーの特徴をこう要約した。主題は「人物化した思想」である。主題の数は人物の数と等しく、互いに完全には連関しない。つまりドストエフスキーの小説では、登場人物がただの性格ではなく「未解決の思想(イデー)」そのものとして舞台に立ち、互いにぶつかり合いながら物語を推進する、というわけだ。後年、この洞察がきわめて先駆的だったことを証明する学者が現れる――ロシアの文芸批評家ミハイル・バフチンであ...人物化した思想が動き出す文字数:14054

  • 物語の構造と越境 村上春樹・蓮實重彦・ドストエフスキーをめぐる断章 文字数:2050

    物語の構造と越境村上春樹・蓮實重彦・ドストエフスキーをめぐる断章小説にとって「物語性」とは何か。村上春樹は随筆『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』でこう述べている。小説の本質とは物語ることであり、人は夢を見続けるために物語を必要とするのだと。この言葉に私は強く惹かれた。だが、その「物語性」はどこまで新しいものたり得るのだろう。すでにある説話的構造をなぞるのではなく、物語性の「発見」にまで昇華できるか。それが私の小説に対する問いでもある。その問いを抱いて検索を続けていた折、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』という批評に出会った。リンクはすでに切れてしまっているが、その中身は鮮烈だった。そこでは村上春樹の『羊をめぐる冒険』を含む現代日本小説を一刀両断し、説話的物語構造に安住する小説に対して鋭い批判が加えられ...物語の構造と越境村上春樹・蓮實重彦・ドストエフスキーをめぐる断章文字数:2050

  • 「金とは、むずかしいものだ」 司馬遼太郎とドストエフスキーの交信

    「金とは、むずかしいものだ」──司馬遼太郎とドストエフスキーの交信司馬遼太郎とドストエフスキー。一見すると、あまりに異なる作風の二人である。前者は写実と歴史を語る日本の大河的語り部、後者は神と悪魔と魂の深淵を描くロシアの心理小説家。しかし私は、この二人の作品のあいだに、まるで遠く離れた電信線がふと同調するような、静かな交信を感じる一節に出会ったことがある。それは『竜馬がゆく』のなかの、竜馬と以蔵のやり取りである。あるとき以蔵は、老父の訃報を受けて江戸から急ぎ戻る途中、辻斬りをしてしまう。その理由を問う竜馬に、以蔵は正直に事情を話す。すると竜馬はこう言う。「ぜんぶで五十両ある。おれは幸い、金に不自由のない家に育った。これは天の運だ。天運は人に返さねばならぬという。おれのほうはあとで国もとに頼みさえすればいく...「金とは、むずかしいものだ」司馬遼太郎とドストエフスキーの交信

  • アリョーシャとフョードル 語られなかった「その後」の物語 文字数:1604

    アリョーシャとフョードル語られなかった「その後」の物語『カラマーゾフの兄弟』は、最終的に父フョードルが殺され、三兄弟のうち二人までが不幸な末路を辿る。そして、三男アリョーシャのみが、未来に向かって歩み出すかのような光の中で物語は閉じられる。長男ドミートリイ(ミーチャ)は父殺しの濡れ衣を着せられ、シベリア行きの刑に。次男イワンは理性の炎に焼かれ、狂気に沈む。異母弟スメルジャコフ、おそらくは兄弟なのだろう、は首をくくって自殺する。まさに呪われた一族としか言いようがない。だが、この物語はあくまで「第一部」であった。ドストエフスキーは『第二部』の構想を持っていた。だが、その完成を見ることなく亡くなってしまう。では、作者はなぜ唯一生き残ったアリョーシャを主人公に据え、「物語が進むにつれて彼が主人公であることがわかっ...アリョーシャとフョードル語られなかった「その後」の物語文字数:1604

  • 善と悪の境界に立つ ジェラシック・ワールドから荘子へ 文字数:2082

    善と悪の境界に立つジェラシック・ワールドから荘子へジェラシック・ワールドを観て以来、私はNetflixで恐竜ものの作品を次々と観ている。恐竜の巨大さ、鋭さ、野生の力。それらがもたらす映像美と暴力性のはざまで、ふと、こんな問いが湧いてきた。人類とは、この宇宙においてどんな存在なのだろうか。よく知られている「宇宙カレンダー」という思考実験がある。ビッグバンから今日までの138億年を一年に縮めた暦で、人類の登場はその大晦日の午後11時以降、つまり、最後の最後に現れた新参者という位置づけになる。つまり我々は、この宇宙においてほとんどいなかったのと同じなのだ。恐竜もまた、かつて地球に覇を唱えた存在だった。だが彼らもまた、いつの間にか消え去った。哺乳類の進化も、弱肉強食の掟に貫かれた野蛮な歴史の延長線上にある。我々人...善と悪の境界に立つジェラシック・ワールドから荘子へ文字数:2082

  • ヒューマニズムという両刃の剣 悟性と心情のあいだで

    ヒューマニズムという両刃の剣悟性と心情のあいだで立川武蔵は『空の思想史』のなかで、富の蓄積を肯定する背景に「ヒューマニズム」という思想が潜んでいることを指摘している。プロテスタンティズムが勤勉と富の蓄積を是としたように、ヒューマニズムという語もまた、結果的には人間による物質的蓄積を正当化する装置として機能してきた。しかし、両者の思考経路はおそらく異なる。プロテスタンティズムは神の前での勤労倫理を通じて富を意味づけたが、ヒューマニズムはむしろ「人間中心主義」のもとにそれを正当化したと考えられる。この「ヒューマニズム」という言葉に、私たちはしばしば無条件にポジティブな意味を与えてしまう。たとえば、「あの人はヒューマンな人だね」などといえば、たいていは「思いやりのある、温かい人」という意味になるし、「それはヒュ...ヒューマニズムという両刃の剣悟性と心情のあいだで

  • アニミズムへの回帰 大地を離れぬ知性の系譜 文字数:1963

    アニミズムへの回帰──大地を離れぬ知性の系譜このところ、自分が書き散らしてきたブログ記事を読み返してみた。すると、いくつかの断片が、予期せぬ形で呼応しはじめた。あれはこの一文から始まったのかもしれない。「大地という原点に戻って形而上の価値を認識することが、古今東西の英哲の共通項のようだ」私はなぜ「大地」という言葉を用いたのか。思えばその時はまだ、直感に近かった。しかし今、いくつかの読書体験が、これを「アニミズム回帰」と呼ぶにふさわしい思想の軸に変えつつある。たとえば、吉本隆明による鈴木大拙論には、次のような記述がある。「考えが『大地』を離れない、あるいは心が地面を離れないということを、浄土教における<慈悲>の根本に据えたのが大拙だった」私はこの言葉に深く頷いた。吉本の文脈では、それは「慈悲」の源泉として語...アニミズムへの回帰大地を離れぬ知性の系譜文字数:1963

  • アニミズムへの回帰 大地を離れぬ知性の系譜 文字数:1963

    アニミズムへの回帰──大地を離れぬ知性の系譜このところ、自分が書き散らしてきたブログ記事を読み返してみた。すると、いくつかの断片が、予期せぬ形で呼応しはじめた。あれはこの一文から始まったのかもしれない。「大地という原点に戻って形而上の価値を認識することが、古今東西の英哲の共通項のようだ」私はなぜ「大地」という言葉を用いたのか。思えばその時はまだ、直感に近かった。しかし今、いくつかの読書体験が、これを「アニミズム回帰」と呼ぶにふさわしい思想の軸に変えつつある。たとえば、吉本隆明による鈴木大拙論には、次のような記述がある。「考えが『大地』を離れない、あるいは心が地面を離れないということを、浄土教における慈悲の根本に据えたのが大拙だった」私はこの言葉に深く頷いた。吉本の文脈では、それは「慈悲」の源泉として語られ...アニミズムへの回帰大地を離れぬ知性の系譜文字数:1963

  • ドストエフスキーが〈カラマーゾフ〉に隠した私生活の負債 文字数:3808

    ドストエフスキーが〈カラマーゾフ〉に隠した“私生活の負債”1賭博と浪費「半端者」を三つに割るドストエフスキーが国外の賭博場で有り金を呑み込み、妻に〈愛してる、だから今すぐ送金を〉と縋りつくその屈辱と耽溺は、〈三兄弟〉それぞれの破れ目に細かく撒かれている。ミーチャにはルーレット卓で火がつく〈陶酔と自己嫌悪〉がそのまま写される。「そのためには全生涯を投げ打ってもいいと思うほどの美と調和に満ちた瞬間」と彼が呼ぶ絶頂は、癲癇患者に多いエクスタシー発作がもつ恍惚と酷似している。イワンは負債を数字で割り切る理知に逃げ込み、「すべてが許される」と〈倫理の帳簿〉を焼却する。アリョーシャは浪費も豪奢も抱きとめる受け皿となるが、その慈悲はどこまでも幼い。作者は己の「無節度」を三つに解体することで、ようやく語り得た。2癲癇あの...ドストエフスキーが〈カラマーゾフ〉に隠した私生活の負債文字数:3808

  • 〈すべての「赤子」への負い目〉 断片が訴えているもの 文字数:2433

    〈すべての「赤子」への負い目〉書き留めた断片が訴えているもの1ドミートリーの叫び──「汚らわしい虫けら」としての自己「わたしたちはみなの者を、母親や乳飲み子を泣かせています。…その中でもわたしが一番、汚らわしい虫けらです」物語の表層ではドミートリーは“冤罪”の被告だ。しかし彼は「親父を殺してはいない」が「殺そうと思った罪」を告白し、自ら運命の鞭を求める。ここであなたは「罪=行為」ではなく「罪=志向」としての深い責任を射抜こうとしている。ドミートリーは〈実行〉せずとも〈欲望〉した時点で世界の残酷に加担している、と悟るのだ。2夢に現れた「赤子」全人類的な連帯責任「誰もがすべての者に対して罪がある」「すべての『赤子』のためにおれは行く」ここでの「赤子」は、イワンが語る子どもの受難譚将軍が犬に子どもを噛み殺させる...〈すべての「赤子」への負い目〉断片が訴えているもの文字数:2433

  • 大地への回帰──アニミズムと霊性の源泉としての「地」文字数:1545

    大地への回帰──アニミズムと霊性の源泉としての「地」自分の過去のブログ記事をふと読み返していて、不意に腑に落ちるような気づきがあった。古今東西の宗教者や思想家、詩人や小説家たちは、実のところ共通の一点に向かって歩んでいるのではないか。それは「大地」という感覚への回帰である。いや、それを「アニミズム」と呼んでもよいだろう。自然と霊、物質と精神を分け隔てない感覚。大地をただの地面としてではなく、命の根源、感覚の基礎、思考の原点として捉える態度。そうした「地」の感覚に立ち戻ろうとする衝動が、どの思想にも、あるいはどの文学にも深く沈殿しているように思えてきたのだ。たとえば吉本隆明が鈴木大拙の親鸞解釈を引用して、「大地を離れた思考は抽象化され、抽象化は物と心を分離してしまう」と語るくだりがある。大拙は、日本の浄土教...大地への回帰──アニミズムと霊性の源泉としての「地」文字数:1545

  • 冤罪の設計図 『カラマーゾフの兄弟』における裁判の意味とスメルジャコフの謎 文字数:2579

    冤罪の設計図『カラマーゾフの兄弟』における裁判の意味とスメルジャコフの謎『カラマーゾフの兄弟』を読み進めてゆくと、終盤に差し掛かる頃、突然物語が一つの異様な密度を帯び始める。それはドミートリイの裁判と、その冤罪に至る過程が描かれるくだりである。裁判の場面は、原本でおよそ1000ページあるうちの100ページ以上、つまり全体の1割を占めている。作者ドストエフスキーはなぜここまで紙幅を割いて、裁判という「形式」に執拗なまでの関心を注いだのか。裁判とは、この作品において「人生そのものの再現」である。人は常に誤解され、弁明し、証言し、また誰かの証言によって運命を決定されていく。読者が気づかぬうちに、作者はこの構造を小説全体の中に緻密に組み込んでいる。そしてフィナーレに近づくこの裁判劇は、作品全体の主題を、神の不在、...冤罪の設計図『カラマーゾフの兄弟』における裁判の意味とスメルジャコフの謎文字数:2579

  • 祝福としての不幸 『1Q84』と『カラマーゾフの兄弟』の交差点 文字数:1411

    祝福としての不幸『1Q84』と『カラマーゾフの兄弟』の交差点村上春樹の『1Q84』の中で、主人公の一人である天吾は、青豆にこう問いかける。「『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは?」青豆は「あるわ。ずっと昔に一度だけ」と答える。天吾は続ける。「もう一度読むといいよ。あの本にはいろんなことが書いてある。小説の終りの方でアリョーシャがコーリャ・クラソートキンという若い学生にこう言うんだ。ねえコーリャ、君は将来とても不幸な人間になるよ。しかしぜんたいとしては人生を祝福しなさい」このやりとりに、私は『1Q84』と『カラマーゾフの兄弟』の深い地下水脈を見る。アリョーシャが語った「不幸を抱えつつも人生を祝福する」という態度こそ、村上春樹が描くこの世界の根幹の倫理ではないかと思う。『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシ...祝福としての不幸『1Q84』と『カラマーゾフの兄弟』の交差点文字数:1411

  • 涙と笑いのグルーシェンカ 文字数2722

    涙と笑いのグルーシェンカグルーシェンカという女は、誤解される運命にあった。彼女は娼婦だったかもしれない。あるいは、そうでなかったかもしれない。彼女は男たちを惑わせ、壊し、試し、突き放した。だがそのすべてを、「愛されたい」という欲望ひとつで説明してはならない。ドストエフスキーがこの女に込めたものは、もっと複雑で、もっと人間的で、もっと赦しに近い。ミーチャは彼女に惹かれ、彼女に傷つき、それでも彼女を愛した。というより、彼女のなかに自分自身の罪を見たのかもしれない。グルーシェンカは、笑いながら泣く女だった。嘲笑と祈り、誘惑と慈愛、その相反する感情が、彼女の声のなかにすべて同居していた。ある夜、彼女は告白する。昔、騙されて捨てられた男のことを。その男が戻ってきたとき、彼女は彼を赦すのか、罰するのか、自分でも分から...涙と笑いのグルーシェンカ文字数2722

  • 魂を投げる男、ミーチャ 4113文字

    魂を投げる男、ミーチャ人は、魂を投げるようにしてしか、生きられないことがある。それが正しいとか、間違っているとか、倫理に適うとか適わないとか、そんなことより先に、魂が先に投げ出されてしまうのだ。ミーチャ、ドミートリイ・カラマーゾフ。カラマーゾフの長男にして、もっとも激情に近く、もっとも救済に近かった男。父親を憎み、女を愛し、金に狂い、神を恐れ、そして何より、自分自身を赦せなかった者。だが、ドストエフスキーはその男に、愛される資格を与えた。ミーチャはすべてを壊したが、壊したものの前にひざまずいた。彼の言葉は常に破綻し、彼の行動は常に突飛だった。だが彼は、「赦されたい」とは言わなかった。そのかわり、「生きたい」と叫んだ。それは倫理ではなく、存在の欲求だった。村上春樹の作品にも、ミーチャのような者たちがいる。た...魂を投げる男、ミーチャ4113文字

  • 囁きと笑い 倫理の声なき声 2825

    第3章A:囁きと笑い倫理の声なき声人は、囁きと笑いのどちらに耳を傾けるだろうか。囁きは内面に沈む。笑いは外へと弾ける。だが、どちらもときに同じものを映し出す。語られなかった倫理。その“音”をめぐって、私はふたつの世界を思い浮かべていた。ひとつは、村上春樹の『1Q84』。そこに現れるリトルピープルは、命令も罰も与えない。ただ囁く。その声なき声が、世界の秩序を変える。天吾と青豆は、それを「悪」と呼ぶことも、「正義」と名指すこともせず、ただその囁きに耐えながら、自分の行動を決めていく。もうひとつは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。そこに現れるのは、スメルジャコフの笑いである。誰にも気づかれない場所で、ひとり笑っている男。その笑いは軽やかではない。それは、すべてをわかっていながらも、信じることを拒んだ者...囁きと笑い倫理の声なき声2825

  • われら影とともに生きる 7739

    われら影とともに生きる影は、光があるから生まれるのではない。光の届かない場所に、光の生まれる前から存在していたのだ。それに気づいたとき、人は孤独ではなくなる。自分という存在が、「私」と「私ではない何か」によって構成されていると、ただ静かに理解するだけでよい。村上春樹の小説には、この“影”がいつも登場する。それは時に「分身」として、時に「記憶」として、時に「世界そのもの」として描かれる。たとえば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。この物語において、主人公「私」は文字通り“影”と切り離される。影は自らの心臓を探し、私を探す。やがて「影」と「私」は再会するが、それは記憶の統合であり、人間の輪郭の回復であり、すべての終焉でもあった。影とは何か?それは、語られなかった記憶の形かもしれない。もしくは、他人...われら影とともに生きる7739

  • ゾシマの腐臭と神なき祈り 2482

    ゾシマの腐臭と神なき祈りゾシマ長老は死に、そして腐った。それはあまりにも早かった。聖人であれば、その肉体は清らかであるべきだと、人々はどこかで信じていた。だがゾシマは死の床で、はやくもその体を腐らせてしまった。「神が沈黙した」と信徒たちは思った。「神はここにいない」と嘲る者たちは囁いた。だが、本当にそうだろうか。腐るとは、自然に還ることだ。腐臭とは、生と死のあいだにある、唯一の真のにおいだ。それを「聖なる敗北」とみなすか、「人間の真実」とみなすかその選択こそが、祈りという行為の本質なのではないか。ゾシマは死によって語った。神の不在を恐れるなと。神秘とは、清らかさではなく、説明できない腐敗のなかに宿るのだ、と。あなたが今日読む村上春樹の物語もまた、神なき世界における祈りを扱っている。説明不能なこと世界の裂け...ゾシマの腐臭と神なき祈り2482

  • 世界の終わりのマーロウたち 6185文字

    世界の終わりのマーロウたち「君はひとりなのか?」それは、ある夜、夢の中で誰かに問われた気がした。あるいは、読みかけの小説の中で主人公が誰かに投げかけられた問いだったかもしれない。いや、もしかすると、私自身が私に対して問うた言葉だったのかもしれない。村上春樹の小説を読んでいると、そうした声なき問いに出会うことがある。明確な主語もなく、動機もなく、それでいて奇妙に耳に残る。彼の登場人物たちは、多くを語らない。けれど、沈黙のなかに濃密な問いを孕んでいる。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」は、影と別れ、再び統合する。『1Q84』の天吾は、リトルピープルという不可視の存在と、世界のひずみに接続される。春樹作品の“彼”らは、探偵ではない。だが、彼らの行動はいつも、喪失の跡を辿る行為に見える。その姿...世界の終わりのマーロウたち6185文字

  • カラマーゾフnote 文字数:27814

    ##目次(章ごとの短い案内付き)1.**村上春樹の“イワン”たち**→『海辺のカフカ』を通じて浮かび上がる“カラマーゾフ的倫理”の現代的翻訳。2.**現代ロシアの影を踏むドストエフスキー**→プーチンの言葉に宿るイワンの理性。未完の続編とアリョーシャの予言。3.**イワン編──理性が倫理を食い尽くすとき**→「神なき世界」でも道徳は成立するか?その苦悩の果ての狂気。4.**アリョーシャ編──赦しと沈黙の倫理**→奇跡の崩壊を経て、地上の子供たちと結ぶ静かな希望。5.**ゾシマ編──腐臭と信仰の臨界**→奇跡と信仰は無関係?釈迦と重なる“崩壊する身体”の意味。6.**ミーチャ編──欲望と誇りの交錯**→「罪を引き受ける者」としてのミーチャのキリスト性。7.**スメルジャコフ編──影の主役**→実行者としての...カラマーゾフnote文字数:27814

  • キスと苦悩 大審問官から仏教へ 文字数:1960

    キスと苦悩大審問官から仏教へ『カラマーゾフの兄弟』の中でも、「大審問官」の章が持つ深さと説得力は際立っている。そこには、ドストエフスキー自身の信仰と不信の葛藤が、もっとも凝縮された形で表現されているように思える。この挿話は、イワンが弟アリョーシャに語る「物語」という形式をとる。キリストが15世紀スペインに現れたとき、大審問官によって捕らえられ、裁かれるという奇想天外なプロットだが、そのなかに人類と宗教に関する最も本質的な問いが託されている。奇跡・権威・神秘拒絶された「支配の論理」大審問官がキリストを批判する論点は、「荒野の三つの誘惑」と呼ばれる聖書の場面に由来する。石をパンに変える奇跡(物質的充足)神殿の上から飛び降りて神の力を示す(権威)世界の王となり支配する(神秘と権力)キリストはこれらをすべて拒んだ...キスと苦悩大審問官から仏教へ文字数:1960

  • 腐臭という試金石『カラマーゾフの兄弟』における信と不信の劇場 文字数:2029

    腐臭という試金石『カラマーゾフの兄弟』における信と不信の劇場ドストエフスキーは、ゾシマ長老の遺体が放つ腐臭と、イリューシャ少年の遺骸から立ち上らない芳香、この対照的なエピソードに、単なる奇譚以上の意味を織り込んでいる。両者は読者に〈信仰と不信の境界線〉を可視化させる鏡装置であり、作品全体を貫く問い「奇跡は信仰の条件なのか、それとも信仰を壊す毒なのか」を浮かび上がらせる。1腐臭の長老聖性の失敗か、信徒の幻滅か正教の伝統では、聖者の遺骸が腐敗を免れることが匂い立つ聖性の証拠とされる。ゆえにゾシマの腐臭は、修道士たちが密かに期待していた奇跡の不在を露わにし、信徒の心に動揺を走らせる。その場面でドストエフスキーが描くのは、奇跡待望の大衆心理期待が裏切られたときに噴き出す世俗的失望である。ここで腐臭は「俗に堕した証...腐臭という試金石『カラマーゾフの兄弟』における信と不信の劇場文字数:2029

  • 死を忘れた時代に 宗教・人間至上主義・イワンの問い 文字数:1801

    死を忘れた時代に宗教・人間至上主義・イワンの問い私たちは神を簡単に捨てられるようになった。科学は死を「修理可能な生体機能の停止」と定義し、テクノロジーは延命という名のサービスを提供する。死が、あるいは死後の運命が人生の意味を規定するという古い物語は、先進国の都市生活ではほとんど効力を失った。かわりに浮上したのが人間至上主義だ。人間至上主義は、人間の感情と欲望を最高裁判所に据え、宗教が担ってきた「究極的価値の裁定」を人間性そのものへ委譲する。ヒューマニズムが〈より良き人間のための理性〉を説いたのに対し、ここでは〈人間そのものの神格化〉が起きる。つまり「私がそう感じるから正しい」が、神託や啓示の代替になるのだ。この構図を二〇世紀前夜に先回りして告発したのが『カラマーゾフの兄弟』のイワンである。彼は神ではなく「...死を忘れた時代に宗教・人間至上主義・イワンの問い文字数:1801

  • 黙 過 「聞こえぬ声」をめぐる読書体験の往還 文字数:1451

    黙過「聞こえぬ声」をめぐる読書体験の往還一冊の翻訳書を人はどう読むのか。物語の筋を辿るだけではない。訳者の選んだ語の襞、その背後に透ける呼吸、さらには訳者自身が抱えてきた来歴まで、読みとる者は知らず知らず、行間に滲むもうひとつの物語に触れている。亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』をめぐる問い。亀山は「一貫して関心をひいたのは黙過だった」と語っている。イワンが父殺しを看過する沈黙神が幼児殺しを許容しているかのような沈黙ゾシマの遺体がにおいを放っても信徒は目をそむける沈黙どれも、声を上げれば変わるかもしれないのに口を閉ざす瞬間だ。ドストエフスキーは、この「見て見ぬふり」を突き刺すことで、読者の神経を逆撫でし続けた。亀山の訳もまた、静かな怒りを孕む。イワンの「わたしはこの入場券をお返しする」のひと言には、言葉を飲...黙過「聞こえぬ声」をめぐる読書体験の往還文字数:1451

  • 顔の見える距離、見えないつながり 『カラマーゾフの兄弟』とスマホ世代の午後に 文字数:1322

    顔の見える距離、見えないつながり『カラマーゾフの兄弟』とスマホ世代の午後にユニバーサル・スタジオ・ジャパンの午後、賑やかな園内で私は食事をとっていた。隣に座った若い女性の三人組は、テーブルにスマホを置いたかと思うと、誰からともなく画面を見つめはじめ、そのまま一言も交わさず、黙々とスクロールを続けた。顔は伏せられ、言葉は交わらず、ただ静かに指だけが動いていた。奇妙な沈黙だった。だが、その光景には、もはや誰も驚かない。彼女たちの姿を前にして、私はふと、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場するある告白の一節を思い出していた。「人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆく」これは、作中の宗教者が語る自己批判である。人類全体という観念には高揚するのに、...顔の見える距離、見えないつながり『カラマーゾフの兄弟』とスマホ世代の午後に文字数:1322

  • 「この世界の入場券をお返しする」 そこに潜む責任の所在 文字数:1688

    イワンが「この世界の入場券をお返しする」と叫ぶ、そこに潜む責任の所在。1.「誰がこの世界をつくったのか」という問いの重み一神教的枠組みでは、創造神が万物の起点になる。だからこそ、無辜の子どもが犬に噛み殺されるような理不尽に遭遇すると、怒りは作者へと矛先を向ける。イワンが返上したいのは「創造神が発行した入場券」だ。仏教的枠組みでは、世界は無始無終の因果の連鎖。苦しみは縁起(原因と条件)の結果であって、誰か単一の設計者を訴える舞台がそもそも存在しない。したがって、イワン型の激烈な憤怒は成立しにくい。向かう相手が外部ではなく、自らの無明(煩悩)へと内向する。2.文学的エネルギーの違い告発(イワン型)創造主vs.被造物の構図は、裁判劇のように劇的な対立を生む。『大審問官』でイワンは神を証人席に立たせ、悪魔を引きず...「この世界の入場券をお返しする」そこに潜む責任の所在文字数:1688

  • 奇跡・神秘・権威 三つで読み直す人類史と『カラマーゾフ』

    奇跡・神秘・権威三つの焦点で読み直す人類史と『カラマーゾフ』ホモ・サピエンスがネアンデルタールに勝った決定打は「奇跡・神秘・権威」を手にしたからではないか。そんな直感が胸に引っかかった。いま読み返すと、ドストエフスキーの大審問官が語る三つの力は、ハラリが描いたサピエンスの跳躍と呼応している。1奇跡と神秘──「見えたもの」と「見えるはずだと思わせるもの」大審問官の言い分では奇跡=眼前で起こる超常の事実神秘=その余韻が生む「次も起こるかもしれない」という期待同じ超自然でも質感が違う。奇跡は一点の閃光、神秘は余韻となって空間を満たす霧。サピエンスはこの霧を巧みに増幅させた種だった。洞窟壁画、埋葬儀礼、星空に貼った神話、皆「まだ見ていないが、必ずそこにあるはずの何か」を共同で信じ込む装置だ。狩猟採集民が十万年で全...奇跡・神秘・権威三つで読み直す人類史と『カラマーゾフ』

  • 腐臭と芳香 奇跡を裏返す仕掛け 文字数:1625

    腐臭と芳香「奇跡」を裏返す仕掛けゾシマの亡骸は悪臭を放ち、病死した少年イリューシャには香りすら漂う。ドストエフスキーは、読者が「長老=聖者=腐らない」という定型に飛びつく瞬間を待ち構え、あえて裏切った。奇跡は肩書きに宿らない。むしろ肩書きをもたない者のうちにひそむ。このねじれが示すのは、正教的奇跡観への静かな異議申し立てであり、同時に親鸞の「悪人こそ救いの手中にある」という倒立の論理と驚くほど響き合う。悪人成仏のロシア版ドミートリイという実験体親鸞が「悪人なおもて往生す」と喝破したのは、善を装う者ほど他力を忘れやすいという逆説だった。ドミートリイ・カラマーゾフは、放埒と暴力の権化として登場しながら、冤罪を「人類への借り」と受け取り、贖罪の歓喜に震える。ここにあるのは「罪を清算してから天国へ」という西欧的勘...腐臭と芳香奇跡を裏返す仕掛け文字数:1625

  • 腐臭と芳香 「奇跡」を裏返す仕掛け 文字数:1553

    腐臭と芳香「奇跡」を裏返す仕掛けゾシマの亡骸は悪臭を放ち、病死した少年イリューシャには香りすら漂う――ドストエフスキーは、読者が「長老=聖者=腐らない」という定型に飛びつく瞬間を待ち構え、あえて裏切った。奇跡は肩書きに宿らない。むしろ肩書きをもたない者のうちにひそむ。このねじれが示すのは、正教的奇跡観への静かな異議申し立てであり、同時に親鸞の「悪人こそ救いの手中にある」という倒立の論理と驚くほど響き合う。悪人成仏のロシア版ドミートリイという実験体親鸞が「悪人なおもて往生す」と喝破したのは、善を装う者ほど他力を忘れやすいという逆説だった。ドミートリイ・カラマーゾフは、放埒と暴力の権化として登場しながら、冤罪を「人類への借り」と受け取り、贖罪の歓喜に震える。ここにあるのは「罪を清算してから天国へ」という西欧的...腐臭と芳香「奇跡」を裏返す仕掛け文字数:1553

  • 小林秀雄は「ドストエフスキーはアリョーシャさえも堕落させるつもりだったらしい」

    若い修道士アリョーシャは、あの物語の終幕で石を抱きしめ、少年たちと「人生を祝福しよう」と誓った。そこまでを読んで、私たちは「清らかな魂の勝利」という額縁にはめ込んで本を閉じがちだ。ところがドストエフスキーの残した走り書きを覗くと、額縁はたちまち外れ、絵の下から別の暗い遠近が現れてくる。メモにはこうある。アリョーシャはリザと結婚する。だがグルーシェンカの妖しい微笑に心を攪乱され、妻を棄てる。放埒と犯罪の渦にのまれ、ついに僧院へ逃げ込み、子どもたちに囲まれて静かな晩年を送る。「最後の聖者」をわざわざ泥沼に突き落とし、もう一度救い直す。なぜそこまで?思えば作者自身、賭博の負債と恋愛の破綻を抱えた悪人だった。だからこそ、神に向けて胸を裂く物語を書くには、自分の等身大の影をアリョーシャの白衣に染み込ませるしかない。...小林秀雄は「ドストエフスキーはアリョーシャさえも堕落させるつもりだったらしい」

  • 二つの距離が開きすぎれば、人はどちらか一方に転ぶ。

    人は死んでどこへ行くのか?あっけらかんと「近くの山だよ」と答えてきたのが日本だった。祖先は山に坐し、春には里へ下り、盆が明ければまた稜線へ帰る。あの世は遠い十万億土ではなく、暮らしの背後に滲む薄青い稜線だった。だから極楽も地獄も、説教臭い絵解きより里帰りの感触で胸に落ちた。だが近代はデカルトから始まる。「われ思う、ゆえにわれ在り」と言った瞬間、魂は脳髄の奥へ押し込められ、天国と地獄は天球の外へ追放された。理性は疾走し、蒸気機関が吠え、顕微鏡の視野が世界のサイズを決める。神の居場所を失った都市には、やがて芥川の河童が造語した〈クエマラ教〉よく食い、よく交わる生活教が隆盛する。スマホの画面に昼夜点滅するグルメとAVは、その地下茎に咲いた花だ。ドストエフスキーはその花を見ていた。『カラマーゾフの兄弟』無神論者イ...二つの距離が開きすぎれば、人はどちらか一方に転ぶ。

  • 奇跡・神秘・権威 いまカルトを考えるためのドストエフスキー 文字数:1848

    奇跡・神秘・権威いま〈カルト〉を考えるためのドストエフスキー新興宗教トップの死をめぐって、メディアは「賛否」を並べる。寄付金の行方、教団の世襲、政治との癒着。だが眺めていると、議論はいつも同じ円をぐるぐる回っているように見える。どうして私たちはカルトを語るたび、同じ問いの沼にはまり込むのか。ヒントは二百年前、ロシアの文豪がすでに差し出していた。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』――その核心に埋め込まれた挿話〈大審問官〉である。スペイン異端審問の時代。老いた枢機卿=大審問官の前に、ひそかに再臨したキリストが捕えられる。夜更けの牢獄で、大審問官は囁く――人間に必要なのは奇跡、神秘、権威この三つだけだ。なぜか?人は放っておかれれば自由に疲れ、パンと安全を求めて互いの喉笛を噛み合うからだ、と大審問官は言う。だ...奇跡・神秘・権威いまカルトを考えるためのドストエフスキー文字数:1848

  • 無明の星で、火をともす 文字数:1943

    無明の星で、火をともす深夜のニュースは、古びた寓話の朗読のように流れていく。ウクライナの砲煙、ガザの瓦礫、次々と映し出される「人が人を喰う」映像、私たちは文明という薄氷の上に立ちながら、相変わらず弱肉強食の物語を演じつづけているらしい。ドストエフスキーは一九世紀末、その薄氷のひび割れを誰よりも早く聞き取った作家だった。『カラマーゾフの兄弟』の次男イワンは、子どもが拷問される世界を神が創ったはずがないと叫び、神そのものを訴追しようとする。「入場券は返す」と言い放つあの激情は、今日のどこに投影されるか。モスクワのクレムリンの窓か、テルアビブの防空壕か。もしドストエフスキーが二〇二五年を生きていたなら、プーチンには手紙を書くだけでなく、地下組織の一角に身を置いていたかもしれない。彼の人生は、常に言葉と爆薬が隣り...無明の星で、火をともす文字数:1943

  • 真理は、円ではなく楕円として現れる 文字数:1151

    真理は、円ではなく楕円として現れる真理とは、どんなかたちをしているのだろう。かつて私は、それを円だと思っていた。中心がひとつで、どこから測っても等距離で成り立つ、完璧なかたち。だが、ドストエフスキーを読み進めるうちに、ある感覚が強くなった。真理はそんなに均整のとれたものではない。むしろ、焦点を二つ持つ楕円に似ているのではないか、と。楕円には中心がない。いや、中心はあるが、どこか曖昧だ。そのかわりに、焦点が二つある。どちらも真理を示す座標でありながら、互いに矛盾し、引き合い、距離を保つ。異端というのは、このうちの片方だけを絶対視することなのかもしれない。ドストエフスキーの登場人物たちは、常に「もう一つの焦点」に引き裂かれている。イワンの理性に対するアリョーシャの信仰、ミーチャの激情に対するイワンの懐疑、スメ...真理は、円ではなく楕円として現れる文字数:1151

  • 十字架と苔の舟 日本人の心にキリストが届かない理由について 文字数:1465

    十字架と苔の舟日本人の心にキリストが届かない理由についてキリスト教が日本に根を張らなかった理由は、一つではない。しかしその問いに触れるたび、私はどうしても一つの場面を思い出してしまう。それは、切腹する清水宗治の舟だ。戦国の末期、高松城に追い詰められた武将・宗治は、秀吉との和議の条件として、自らの命を差し出すことを選ぶ。舟の上に設けられた床几に座り、白装束に身を包み、辞世の歌を詠んだ。浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残してこの潔さ。誰かに頼まれてでもなく、ただ己の主君と家臣を救うために、静かに腹を切る。その姿には、どこか懐かしい美しさがある。では、磔刑のキリストはどうか。彼は人類の罪を背負い、十字架にかかったという。だがその「人類」という言葉が、どこか遠い。清水宗治の切腹には、土と血と空の匂いがするが...十字架と苔の舟日本人の心にキリストが届かない理由について文字数:1465

  • まだ語られていない『カラマーゾフの兄弟』の読み方 文字数:1710

    まだ語られていない『カラマーゾフの兄弟』の読み方「人物が思想を着る」物語の構造『カラマーゾフの兄弟』を読むとき、私たちはよく「この人物は何を象徴しているのか」「この思想は誰を通じて語られるのか」といった問いを立てる。イワンは無神論を、アリョーシャは信仰を、ドミートリイは欲望と良心の葛藤を。そうした「人物=思想」という構図で読み解くのが定番の読み方だ。しかし、物語をもう一歩深く見つめると、そこには少し違う動きが見えてくる。単に思想が人物を動かすのではなく、人物の行動や言葉が、むしろ思想そのものの形を歪めたり、ほぐしたりしているのだ。たとえば、イワンの語る「神なき正義」は、大審問官という強烈な寓話として語られたあと、突然、彼自身の妄想の中に現れる「悪魔」によって茶化されてしまう。真面目に語られた思想が、寸前で...まだ語られていない『カラマーゾフの兄弟』の読み方文字数:1710

  • 神の設計図をめぐる二重露光 文字数:2498

    神の設計図をめぐる二重露光アインシュタインがドストエフスキーに惹かれた理由を、量子以後の視界から読み直す試み1「非ユークリッド的調和」が突きつける裂け目クズネツォフは、アインシュタインとドストエフスキーが〈調和の追求〉という一点で「同じゲームを別ルールで戦った」と述べた。だが今日、量子力学を知る私たちは、二人が見つめた調和の内部に、すでに「裂け目」が走っていたことを知っている。アインシュタイン重力場を単一の幾何学で統べようとしつづけ、量子ゆらぎが持ち込む不確定性を「神はサイコロを振らない」と拒んだ。ドストエフスキーイワンの口を借りて「子どもを犬に食わせる世界」を許す神を断罪し、整合的摂理=ユークリッド的調和を叩き壊した。両者は閉じた体系を望みながら、目の前に超える亀裂を見てしまった人間だった。ここに改めて...神の設計図をめぐる二重露光文字数:2498

  • バリ島は変わり、子は育ち、国際政治は乱れ、揺れる 文字数:1549

    昼下がりのバリ。湿った潮の匂いとガムランの金属音が混ざり合う通りを歩きながら、胸のBabyBjörnには眠りかけた娘、耳にはソニー・ロリンズのテナー、手には『カラマーゾフの兄弟』。いま思えばずいぶん不釣り合いな取り合わせだ。だがこの奇妙な重層は、小説そのものの多声性とよく響き合っていた気がする。ロリンズのアドリブは主題を何度も分解し、飛躍し、戻り、新しい調子で再提示する。ドストエフスキーの長大な対位法も同じリズムをもつ。ゾシマの静かな独白が鳴ったかと思えば、すぐあとでイワンの悪魔的独創がジャズのブリッジのように割り込み、全体を混線させる。ページをめくる指の向こうで、ロリンズのソロがコルトレーン的スケールに滑り込む瞬間、その関係ははっきりと感覚になった。この小説は譜面でありながら演奏でもある、と。放蕩と聖性...バリ島は変わり、子は育ち、国際政治は乱れ、揺れる文字数:1549

  • ゾシマの声が響いた先 法華経とイワンの沈黙 文字数:1241

    ゾシマの声が響いた先法華経とイワンの沈黙ドストエフスキイの『カラマーゾフの兄弟』におけるゾシマの言葉を読んだとき、ふと頭に浮かんだのが『法華経・如来寿量品』の一節であった。「この地上においては、多くのものが人間から隠されているが、その代わりわれわれは他の世界──天上のより高い世界と生ける連結関係を有しているところの、神秘的な尊い感覚が与えられている」ゾシマのこの一節は、「近しと雖も而も見えざらしむ」「方便力を以って滅不滅有りと現ず」といった如来寿量品の教えに、驚くほど似た響きを持つ。人は自らの知覚の限界を超えた次元に何かを感得し、それに導かれて生きる。ゾシマもまた、人間の思想や感情の根源はこの地上にはなく、他界にあると信じていた。仏もまた、永遠に存在しつつ、それを方便によって一時的に滅したと見せることで、...ゾシマの声が響いた先法華経とイワンの沈黙文字数:1241

  • 献身は神なき場所にも芽吹く 文字数:1068

    献身は神なき場所にも芽吹くコロナ禍で露わになった中国社会を見つめながら、二つの小説が重なってきた。カミュの『ペスト』とドストエフスキイの『カラマーゾフの兄弟』である。どちらの物語も、巨大な不条理に直面したとき人は何に突き動かされ、どこでつまずくのかを凝視する。武漢の医師たちは、政権の圧力に抗いながら新型ウイルスの危険を告げ、懲戒や死を甘んじて受けた。彼らを動かしたのは、超越的な救済ではなく「目の前の命を守る」という即物的な倫理だった。カミュのリウー医師も同じ問いを投げられる。「神を信じないのになぜ献身するのか」。答えは簡素で、何の装飾もない。「僕は人々を守る」。イデオロギーや信仰を括弧に入れ、具体的な苦痛に手を差し伸べる。その素朴さがむしろ胸を衝く。対照的に、『カラマーゾフの兄弟』のイワンは世界の構造その...献身は神なき場所にも芽吹く文字数:1068

  • 断絶の深さを自覚したあとの最小の倫理 文字数:1189

    埴谷雄高『死霊』第七章「最後の審判」は聖典への訴状に近い。イエスと釈迦、東西の救済者を法廷に立たせ、彼らが見落とした「原罪」を突きつける。証拠として掲げられるのは人間史でも神話でもない。草食と肉食の際限なき連鎖、食うものと食われるものの相互浸透、それ自体が祝祭と惨劇を併せ呑む生の構造だ。埴谷の言う原罪は、楽園の木の実に手を伸ばした瞬間などではない。単一細胞が分裂をはじめ、多様な「複数の生」が互いの肉をエネルギー源に変えた時点で刻印されている。食われる悲哀、食う悲哀、そして「食わざるを得ない生の生たる悲哀」。この三層が重なりあう芯部こそ、神学が見逃してきた闇だという。イエスは互いに愛し合えと説き、釈迦は一切殺生を戒めた。だが後者が禁じた「生物殺し」は動物止まりで、他を食わずに光と水を吸い上げる草木は眼中にな...断絶の深さを自覚したあとの最小の倫理文字数:1189

  • 「あなたにも光がある」と言い切る大胆な肯定 文字数:1014

    法華経に登場する常不軽菩薩は、生涯「あなたがたを決して軽んじない。ゆえに礼拝する」と繰り返し、石を投げつけられても逃げながら同じ言葉を叫びつづけた。その極端な姿は、人の胸の奥に巣食う侮蔑や嫉妬をまるごと照らし出す鏡である。もしドストエフスキーがこの菩薩譚を知っていたなら、『カラマーゾフの兄弟』の中核に据えただろう、と松岡正剛は書いた。しかし実際には、作者は知らずに同じ像を掘り当てていた。三男アリョーシャがそうだ。アリョーシャは物語の脇で微笑み、兄たちの激情も父の下卑た欲望も、少年たちの残酷な遊びも、ひそかに引き受けていく。罵声に身を縮める代わりに「君を忘れない」と抱きとめる。イリューシャの棺を前にしたあの演説「たとえ偉くなっても、今日のこの気持ちを忘れるな」は、常不軽が合掌して叫ぶ姿をそっくり裏返したもの...「あなたにも光がある」と言い切る大胆な肯定文字数:1014

  • 産み落とすことと、奪い去ること ハリー・ケスラーの呟きからドストエフスキーへ 文字数:1665

    産み落とすことと、奪い去ることハリー・ケスラーの呟きからドストエフスキーへ「殺人を許されるのは産むことのできる人間のみ」ハリー・ケスラー伯爵が日記に残したこの一行は、一見すると冷酷で傲慢な宣告に映るかもしれません。ロシア系ドイツ人の作家ウラディーミル・ナボコフが暗殺された報を聞き、ケスラーは思わずこう記した。凶弾に倒れたのは自由主義の論客、引き金を引いたのは帝政回帰を夢見る若者。死をめぐって置き去りにされたのは、つねにそうであるように、誰よりも「文化」でした。1「産むこと」が先にある世界観ケスラーの言葉には、芸術と暴力の根深い皮肉が折りたたまれています。創造する者(産む者)は、生の側の人間だ。破壊する者(殺す者)は、死の側の人間だ。ところが奇妙なことに、人間が歴史に名を刻むとき、その名は「産む力」と「壊す...産み落とすことと、奪い去ることハリー・ケスラーの呟きからドストエフスキーへ文字数:1665

  • 〈復讐〉という炎が照らす暗がり イワンと大審問官をめぐる覚え書き 文字数:3017

    〈復讐〉という炎が照らす暗がりイワンと大審問官をめぐる覚え書きドストエフスキーはことさら説明しなくともいつも「赦し」の小説ではなく「復讐」の小説を書きたがった作家である。赦しは結末として登場するが、そこへ至る長い道にはかならず復讐の焔がゆらめいている。『カラマーゾフ』でその火を最も高く掲げるのがイワンだ。「調和なんていらない」という決定的な咆哮は、神学でも倫理学でもなく、不条理ゆえの復讐譚として読むのがいちばん手応えがある。1「入場券を返す」怒りは理屈を餌に育つイワンは〈神の存在〉を肯定しながら〈神の創った世界〉だけを否定する。この跳ね返りは論理のトリックというより、世界への侮蔑をきれいに維持するための方便だろう。なぜなら、完全否定に踏み切れば怒りの拠点は崩れてしまう。世界を呪い続けるには、舞台そのものを...〈復讐〉という炎が照らす暗がりイワンと大審問官をめぐる覚え書き文字数:3017

  • 一粒の麦が落ちて 『カラマーゾフの兄弟』を貫く連鎖のドラマ 文字数:1926

    一粒の麦が落ちて『カラマーゾフの兄弟』を貫く連鎖のドラマヨハネ福音書の一句、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」。ドストエフスキーはこのエピグラフを巻頭に据え、全篇を種子の物語へと変貌させた。麦は撒かれ、腐り、芽吹き、やがて別の場所へ飛んでゆく。登場人物たちは皆、先人の残した殻を抱えながら自分自身の種子を次の土壌へ撃ち込もうとあがく。ここには、血縁的な遺伝もあれば、魂の感染もある。善と悪のどちらを発芽させるかは、土の湿り気と陽ざし、つまり出会いと選択に委ねられる。1「悪徳もまた実を結ぶ」二重らせんの相続父フョードル→三兄弟吝嗇・好色・放埒という毒麦は、ドミートリイの激情、イワンの冷酷な論理、アリョーシャの潜在的官能へと姿を変える。父を拒むほど、父の影は濃く芽吹く。ゾシマの兄→ゾシマ→アリョーシャ兄の幼い信...一粒の麦が落ちて『カラマーゾフの兄弟』を貫く連鎖のドラマ文字数:1926

  • 聖と俗のあいだでうごめく「人間」という謎 『カラマーゾフの兄弟』を読み返すたび私に蘇る感触 文字数:2017

    聖と俗のあいだでうごめく「人間」という謎『カラマーゾフの兄弟』を読み返すたび私に蘇る感触ページを繰るたびに胸の底へ沈殿していく不快な澱、それは、人が誰であれ聖人だけではいられないという、つきつめて言えば当たり前の事実だ。ドストエフスキーはその当たり前を、残酷なほど鮮明に、しかも愉快なほど滑稽に描き抜く。だから読者である私も、気づけば自分の俗悪さを撫でさすりながら、なおかつ登場人物の一瞬の聖性に涙ぐんでいる。犬と子ども──理屈を超えて棲みつく不条理作品中、イワンが語る「領主が犬に子どもを噛み殺させた実話」は、予定調和への信仰を木っ端みじんに破壊する残虐な小粒である。領主の残酷さ以上に私を震撼させるのは、母親が我が子の最期を見届けるしかなかったという突き放された構図だ。悲劇の核心は〈どうしようもなさ〉にある、...聖と俗のあいだでうごめく「人間」という謎『カラマーゾフの兄弟』を読み返すたび私に蘇る感触文字数:2017

  • 謎を残すという贈与 『カラマーゾフの兄弟』をめぐる読書の設計図 文字数:1422

    謎を残すという贈与『カラマーゾフの兄弟』をめぐる読書体験の設計図読了後に突き刺さる「わからなさ」こそ、この小説が読者の内部に長期滞在する仕掛けである。ドストエフスキーは、意図的に空白を残す。意味の断片をバラ撒き、回収の鍵を渡さず立ち去る。その空白へ読み手の経験や記憶が流れ込み、物語は一冊の本から個々の人生へと棲み替わる。以下、その代表的な〈謎〉の配置法を三層に整理してみる。Ⅰプロットのほつれ「事件」そのものを解かせない父殺しの扉は開いていたのか、閉じていたのか。証言を歪めたのは単なる頑固さか、それとも血の情か。スメルジャコフの自殺は罪悪感か、誰かの言葉か。作者は決定的な動機を一句も示さない。だから読者は〈血縁〉という古典的動機と〈階級〉という近代的対立を行き来し、グリゴーリーとスメルジャコフの親子説、フョ...謎を残すという贈与『カラマーゾフの兄弟』をめぐる読書の設計図文字数:1422

  • 傷口を直視しようとする挑発的な人物 文字数:1076

    雨上がりの舗道に転がる折れた傘の骨を見て、ふとタイムラインに流れてくる「自己責任」という言葉を思い出した。誰かの不幸が速報で届くたび、画面の向こうでは見知らぬ指先が猛スピードで因果の糸を撚り合わせ、「きっとあの人にも落ち度があったのだ」と首尾よく帳尻を合わせる。善は報われ悪は罰せられる、そんな予定調和で世界を包帯のように巻き直せば、私たちはとりあえず今日も安心して眠れる。だが、包帯の下で滲む血はどこへ行くのか。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、包帯を剝がして傷口を直視しようとする挑発的な人物がいる。知性の結晶のような次男イワンだ。彼は「未来に調和が訪れる」という甘美な説得に耳を貸さず、神が用意したとされる入場券を突き返す。「子どもが犬に食い裂かれる世界を赦すなら、その券などいらない」と。未来の...傷口を直視しようとする挑発的な人物文字数:1076

  • 「四重奏」の闇と光 バディ小説として読む『カラマーゾフの兄弟』の多声的深層 文字数:2095

    「四重奏」の闇と光バディ小説として読む『カラマーゾフの兄弟』の多声的深層ドストエフスキーは、フョードルという怪物的触媒を中心に四人の「バディ」を組み直しながら、〈聖/俗〉〈神/無神〉〈愛/暴力〉を偏心的に旋回させた。ここには単線的な「善悪の対立」など存在しない。むしろ各人物が相互に〈負の鏡〉となり、欠落や過剰を透かし込むことでしか輪郭を得られない、その多面的照応こそが物語を駆動する。1バディの対極配置プラスを掘り当てるためのマイナスアリョーシャ×フョードルアリョーシャの柔らかな光は、フョードルの不潔で饒舌な闇があって初めて映える。父が「俗」の極北であればあるほど、息子の聖性は引力を増す。ドストエフスキーは「引き立て役」に甘んじないフョードルへも血肉を与え、〈人間臭さの肯定〉を執拗に描き込むことで、聖の輪郭...「四重奏」の闇と光バディ小説として読む『カラマーゾフの兄弟』の多声的深層文字数:2095

  • 予定調和という仮面を剥ぎ取るとき 文字数:1317

    予定調和という仮面を剥ぎ取るとき子どもの頃、世界は光で満ちていた。転んで膝を擦りむいても、夕焼けの赤が痛みを包み込み、次の朝には忘れてしまえるほどに世界は優しかった。あのとき私は、傷口が自然に塞がるように、世界もまた正しく塞がっていくと信じていた。これこそが〈公正世界仮説〉という名の柔らかな包帯であり、予定調和という安堵の揺籃であった。だが長い旅路の果て、私はイワン・カラマーゾフの怒号に耳を塞ぎ切れなくなった。「おれが受け入れないのは、神の世界だ」。世界は裂け目を隠すために罪なき者の血を見えない場所へ流し込み、裂け目の縁で私たちは甘い悪魔のささやきを聞く。「もしも悪魔が存在しないなら、人間が自分に似せて悪魔を拵えたのだ」と。イワンの不協和は、私の深層意識に潜む黒い斑点を鮮烈に照らす。被虐と加虐が曖昧に絡み...予定調和という仮面を剥ぎ取るとき文字数:1317

  • イワンと宗教 理性と神のはざまで 文字数:1383

    イワンと宗教理性と神のはざまでイワンが語るひとつの挿話がある。フランスで実際にあったという話だ。無知で貧しく、冷酷な羊飼いによって奴隷のように育てられた少年が、空腹のあまり豚の餌を盗んだことで折檻され続け、やがて成長して強盗殺人を犯し、ついには捕まる。周囲のカトリック市民たちは、彼に洗礼を施し、その無邪気な祝福とともに、彼を死刑台へと送り出す、神の名のもとに。この話には、二重三重の批判が込められている。イワンの口を通じて語られるこの物語は、カトリックの偽善、信仰の形式主義、そして弱者への冷酷さを浮き彫りにするが、同時に、それを正義とする市民たちへの嘲笑もにじむ。科学が教会の権威を否定した近代ヨーロッパ、その反動としての無信仰社会が生んだ倫理の空白を、ドストエフスキーは看破しようとしたのだろう。イワンの語る...イワンと宗教理性と神のはざまで文字数:1383

  • 壊れた家族の子どもたち 『カラマーゾフの兄弟』と家庭環境の宿痾 文字数:1277

    壊れた家族の子どもたち──『カラマーゾフの兄弟』と家庭環境の宿痾『カラマーゾフの兄弟』を読むたび、私はいつも三兄弟とスメルジャコフの「出自」に引き寄せられてしまう。彼らの誰一人として、まともな家庭環境で育った者はいない。父フョードル・カラマーゾフに至っては、居候同然で成り上がった男であり、養育者としての資質など初めから期待できるはずもなかった。イワンとアリョーシャの母親は神がかりの女であり、スメルジャコフの母も精神的に不安定な「聖女」だったとされる。そしてドミトリーの母親は、父を腕力で制し、若い男と駆け落ちした末に餓死したという。すべての母が、常軌を逸した情動や破綻した行動によって、その子らに何らかの「陰」を残している。なかでもアリョーシャの信仰心は一見純粋に見えるが、その根には危うさが潜んでいる。彼の信...壊れた家族の子どもたち『カラマーゾフの兄弟』と家庭環境の宿痾文字数:1277

  • こにどんな暴力が埋め込まれているのか 文字数:1002

    『カラマーゾフの兄弟』をめぐる読書と省察の中で、私は何度も「現代の私たちがこの作品に何を読み取るべきか」という問いに立ち返らざるを得なかった。兄弟たちの宗教的葛藤や、父殺しという象徴的事件、そして女性たちの劇的な登場。それらは古典としての重量を保ちつつ、いま読むとどこかに時代的なひずみや語りの暴力を感じる箇所がある。たとえば、物語における語り手は明らかに偏っている。カテリーナやグルーシェニカが情緒不安定であることは、登場人物としての“事実”ではなく、語り手がそう見ている、あるいは語りたがっているだけかもしれない。そう疑って読むことで初めて、作品世界に漂う「ヒステリー」という語の乱用が、19世紀の医学的・社会的偏見を映していると気づく。そこには明確なスティグマがある。アリョーシャについても、再読するうちに別...こにどんな暴力が埋め込まれているのか文字数:1002

  • 「カラマーゾフの兄弟」女たち 文字数:1677

    「カラマーゾフの兄弟」といえば、「神は存在するか」というテーマが掲げられることが多い。だが実際には、この神というのはキリスト教における人格神というよりも、もっと曖昧な存在であるように思える。亀山訳でのメモから、原卓也訳での読書メモに移るにつれ、その曖昧さが浮き彫りになってきた。たとえば、カテリーナとグルーシェニカという女性たちは、いずれもヒステリックであり、唐突に相手を裏切る。彼女たちが本当にドミトリーを愛していたのかさえ定かではない。グルーシェニカは当初からかっただけだと言い、ドミトリーが逮捕された場で初めて彼への愛を語るが、それも一時の激情と感じられる。複数の男を競わせ、もてあそぶことで快感を得る一方、初恋のポーランド人や老人のパトロンには純情を見せる。まるで破綻寸前の両極端な女性像だが、同時にこれは...「カラマーゾフの兄弟」女たち文字数:1677

  • 『カラマーゾフの兄弟』は行列で読むべき物語である 文字数:3447

    『カラマーゾフの兄弟』は行列で読むべき物語である登場人物の関係を「相関図」で整理するのは、物語を理解するうえでの一つの方法である。しかし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に関していえば、それはまったく不十分だ。この作品における人物の配置、思考の交錯、事件の連鎖は、単なる線的な構造では捉えきれない。むしろ、それは多次元的に構成されたマトリクス(行列)であり、読者自身がその中に放り込まれることで初めて見えてくるものがある。三人の兄弟――激情型のドミトリー、理知的なイワン、信仰の体現者アリョーシャ。そして、従僕として育てられた謎の存在、スメルジャコフ。彼ら四人の共通点は、父フョードル・カラマーゾフのもとで「見守られずに」育ったということだ。だがその「見守られなさ」はそれぞれ異なり、それゆえに彼らの人格形...『カラマーゾフの兄弟』は行列で読むべき物語である文字数:3447

  • 『カラマーゾフの兄弟』は行列で読むべき

    『カラマーゾフの兄弟』は行列で読むべき物語である登場人物の関係を「相関図」で整理するのは、物語を理解するうえでの一つの方法である。しかし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に関していえば、それはまったく不十分だ。この作品における人物の配置、思考の交錯、事件の連鎖は、単なる線的な構造では捉えきれない。むしろ、それは多次元的に構成されたマトリクス(行列)であり、読者自身がその中に放り込まれることで初めて見えてくるものがある。三人の兄弟、激情型のドミトリー、理知的なイワン、信仰の体現者アリョーシャ。そして、従僕として育てられた謎の存在、スメルジャコフ。彼ら四人の共通点は、父フョードル・カラマーゾフのもとで「見守られずに」育ったということだ。だがその「見守られなさ」はそれぞれ異なり、それゆえに彼らの人格形成...『カラマーゾフの兄弟』は行列で読むべき

  • 悲劇と喜劇の交差点に吉本新喜劇風会話 文字数:841

    ドストエフスキーは、悲劇と喜劇の交差点に絶妙な会話を置く作家である。『カラマーゾフの兄弟』の中でも、長男ドミトリーとホフラコーワ夫人の金の話は、ほとんど漫才の域に達している。三千ルーブル今すぐどうしても必要だ。切羽詰まったドミトリーが、最後の望みをかけて訪れたのが、あの世間離れした上流未亡人・ホフラコーワ夫人だった。開口一番、「お願いです、三千ルーブル、どうかお貸しください!」と詰め寄るドミトリー。しかし夫人は、彼の真剣な懇願をどこ吹く風と受け流し、「あなたのような情熱的な青年にぜひ投資してほしいビジネスがあるの」とにこやかに語りはじめる。ドミトリーには、最初それが借金の了承に聞こえた。「つまり貸してくださるのですね!ありがとうございます!神のご加護を!」と、早合点して感謝しはじめるドミトリーに、夫人はあ...悲劇と喜劇の交差点に吉本新喜劇風会話文字数:841

  • 理性は人を救うか イワンとスメルジャコフのあいだで揺れたもの 文字数:1751

    理性は人を救うか──イワンとスメルジャコフのあいだで揺れたもの五度目の通読に入っている。四度は亀山訳、そして今、ようやく原訳を読み進めている。途中、木下氏の「連絡船」というブログにたどり着いた。これは亀山訳に対する手厳しい批判だが、同時に「カラマーゾフの兄弟」そのものの読み解きとして、深く、強烈で、魅力的だった。特に印象に残っているのは、キルケゴールの『死に至る病』などを引き合いに出しながら、イワンの思想と病を重ねるくだり。そこに、読書を通して生まれる「執念」のようなものを感じた。まるで宗教論争のような、静かで熱い火の気配。木下氏は亀山訳の読みやすさに疑義を呈し、それを「逸脱」と呼ぶ。村上春樹がこの訳を擁護したことにすら怒りを感じているという。その批判の核心は、アリョーシャの台詞「あなたじゃない」にある。...理性は人を救うかイワンとスメルジャコフのあいだで揺れたもの文字数:1751

  • 理性は人を救うか イワンとスメルジャコフのあいだで揺れたもの 文字数:2039

    理性は人を救うかイワンとスメルジャコフのあいだで揺れたもの「すべては許されている」。かつてイワン・カラマーゾフが口にしたこの言葉は、単なる思想実験だったのか、それとも預言のような何かだったのか。理性と倫理、言葉と現実の関係が、第四巻の終盤で急速に崩れてゆく。ミーチャの書いた手紙を読んだイワンは、犯人は兄だと「確信」する。しかし、それは一度疑ったスメルジャコフの可能性を否定するための、あまりにも切実な“数学的証明”だったようにも思える。自分ではない、あいつでもない、ならば……と。だがこの“確信”はすぐに揺らぐ。イワンの内面では、理性が作り出す構図と、良心が語りかける声とが、せめぎ合いを始める。「心のなかでは、おれもまた同じような人殺しだからじゃないのか?」と、イワン自身が問いかける。そこに差し込まれる「焼け...理性は人を救うかイワンとスメルジャコフのあいだで揺れたもの文字数:2039

  • 『カラマーゾフの兄弟』第三巻 失望、屈辱、そして回心の夜 文字数:1209

    『カラマーゾフの兄弟』第三巻失望、屈辱、そして回心の夜信仰はいつも、何かを信じることから始まる。しかしそれは、裏切られることを前提としている。第三巻を貫く主題は、信じたものが実現しないとき、人は何を思い、どこへ向かうのかという問いである。冒頭、ゾシマ長老の死後に奇跡が起こることを期待した群衆の熱狂が描かれる。「聖人は腐臭を放たない」その迷信めいた信仰は、すでにイワンが語った「悪魔の三つの力」の筆頭たる奇跡への欲望に他ならない。信仰の純粋性はいつの間にか期待される現象の強迫にすり替えられ、パイーシー神父でさえ、魂の奥底では「何か」を望んでしまっている。腐臭は実際に立ち上がり、奇跡は起こらなかった。アリョーシャの投げた視線は、その失望の深さを物語っている。彼は静かに傷つき、信仰の最も危うい地点に立たされる。や...『カラマーゾフの兄弟』第三巻失望、屈辱、そして回心の夜文字数:1209

  • 『カラマーゾフの兄弟』第二巻 奇跡、赦し、そして拒絶の思想 文字数:1259

    『カラマーゾフの兄弟』第二巻を読む——奇跡、赦し、そして拒絶の思想信仰とは、受け入れることだろうか。それとも、受け入れられないときにこそ現れるものだろうか。『カラマーゾフの兄弟』第二巻を読み返すとき、私は常にこの問いに引き戻される。ゾシマ長老の予知が的中する場面において、人々が「奇跡」を信じたがる心情は、決して愚かではない。だが、すでにこの時点で、イワンが否定した“奇跡・神秘・権威”の三位一体が、教会という制度に深く根を下ろしていることが露見する。信じるとは、なにを?そしてなぜか?奇跡は起こることもあれば起こらないこともある。神の沈黙と、腐臭の現実。ホフラコーワ夫人やアリョーシャが密かに願った“奇跡”が現実に裏切られるとき、その裏切りは神への冒涜か、それとも成熟への第一歩なのか。アリョーシャが「僕は神を信...『カラマーゾフの兄弟』第二巻奇跡、赦し、そして拒絶の思想文字数:1259

  • 『カラマーゾフの兄弟』第三巻メモ 文字数:1233

    『カラマーゾフの兄弟』第三巻メモ奇跡待望の熱気とパイーシイの葛藤[p.12]信者たちの過剰な期待は、パイーシイ自身の内奥にも潜む「奇跡待望」を炙り出す。聖人の遺体は腐臭を放たないはず――この俗信が、イワンの言う「悪魔的な奇跡思想」として教会深部まで染み込んでいる。棺から立つ腐臭[p.18]午後三時、棺の腐臭が誰の鼻にも明白となり、群衆の期待は完全に崩れ去る。奇跡に失望するアリョーシャ[p.37]群衆にまぎれるアリョーシャの視線は落胆を隠せず、彼自身も奇跡を待ち望んでいたことが露呈する。「世界を認めない」――イワンの思想の浸透[p.48]「神に反乱するわけではない。ただ神が創った世界を認めない」――イワンの言葉がアリョーシャの内部に入り込みつつある。屈辱を愛するグルーシェニカ[p.90]「涙と屈辱こそが好き...『カラマーゾフの兄弟』第三巻メモ文字数:1233

  • 創作ノート『カラマーゾフの兄弟』第二巻 文字数:3762

    創作ノート『カラマーゾフの兄弟』第二巻第1章ゾシマ長老の予知と神秘①彼女の息子のワーシャは無事生きている…(p16)ゾシマの予知能力を示すエピソード。単なる偶然ではなく、「神と共にある者」への民衆の信仰が強く反映されている。②フェラポイント神父の悪魔譚(p27)ゾシマと対立する側の語る「悪魔」の話。聖霊・精霊・ツバメなどとの混交は民間信仰の土着性を感じさせる。⑤神を信じていないかもしれない…(p177)アリョーシャの内面にも疑念が兆す。後の信仰的飛躍の伏線。25来世の予感にふるえる魂…(p377)キリスト教的な死後世界ではなく、魂の再生的なものとして語られる。輪廻に近い感覚。26世界とのつながりと異界の感覚…ゾシマが語る世界観。「異界に根をもつ」感覚は東洋的宗教観とも共鳴する。第2章歪んだ愛の構造③カテリ...創作ノート『カラマーゾフの兄弟』第二巻文字数:3762

  • 『カラマーゾフの兄弟』読書抜粋と思想コラージュ

    『カラマーゾフの兄弟』読書抜粋と思想コラージュ◉視点構造の整理(亀山郁夫による三層構造)物語層:アリョーシャが担う。全体の語りの器。自伝層:イワンが担う。作者の内的思想の投影。象徴層:イワンとゾシマ。神の問題がここに集中する。※米国ドラマ『24』を想起させるような「共時的」なパラレル構成も特徴。◉登場人物に関する考察アリョーシャ人をさげすんだことがない。奇人でありながら清廉な魂。「未完の第二部」での変貌の予感。信仰者から革命家へ?ゾシマとの出会いが人生を導くが、その母親似の描写が象徴的(P.321)イワン自伝層の中心。無神論者でありながら苦悩し、悪魔との対話へ。「不死がなければ善など無い」という名言を残す(ゾシマとの対比)フョードルから「イワンが恐いんだ」と言わしめる存在(P.379)ミーチャ「美」と「憎...『カラマーゾフの兄弟』読書抜粋と思想コラージュ

  • 創作ノート:死後をめぐる思想の交差点

    創作ノート:死後をめぐる思想の交差点―ホーキングとドストエフスキー、そして“私”の信――【1】モチーフの原型(引用と文脈)①スティーヴン・ホーキング(近代科学の終着点に立つ知性)「壊れたコンピューターには天国も死後の世界もない。それは暗闇を恐れる人々のためのおとぎ話だ。」視点:物理学者/唯物論的自然観/思考=生体ハードウェアの現象動機:死を恐れず、認識と宇宙の関係を物理的に閉じる立場機能:死後世界の否定による知性の完結②ホフラコーワ夫人(ドストエフスキーの多声構造の一声)「来世も何もないって主張する人もいます。」視点:民衆の不安/世俗的神学論争への懐疑/作中人物の言葉として配置動機:苦しみからの救いを求めるが、それが空論では困るという痛切な問い機能:他者の死生観の紹介を通じて、読者に“自らの信”を問いかけ...創作ノート:死後をめぐる思想の交差点

  • 創作ノート『カラマーゾフの兄弟』読了メモ

    創作ノート:―『カラマーゾフの兄弟』読了メモ1.三層構造(物語/自伝/象徴)骨組みとして転用する層原作での担い手クリエイティブ応用ヒント試作プロンプト例物語層アリョーシャ(外的筋を前へ押す)・読者が追える“視点カメラ”を1人に集約・他層の情報を受け身で浴びる役とする「路地裏探偵」を立て、事件の渦を移動させる自伝層イワン(作者の内的苦悶)・作者自身の懊悩/時事ネタを“仮想日記”で注入・語りの信頼度を意図的に揺らす作家志望のハッカーが断片的モノローグで登場象徴層ゾシマvs.イワン(神・無神の思想)・“イデオロギーバトル用キャラ”を二極化配置・言葉だけでなく儀礼・行為で思想を可視化宗教家AIとディストピア企業CEOの公開討論技法活かし方メモリアルタイム/刻限〈24時間〉〈72時間〉と決め、章見出しにタイムスタン...創作ノート『カラマーゾフの兄弟』読了メモ

  • 『カラマーゾフの兄弟』素材メモ

    『カラマーゾフの兄弟』素材メモ#キーワード/引用(記憶ベース)含意→クリエイティブに使える観点関連タグ1「マイナスがあって世界が輝く」(イワンとアリョーシャの料亭対話か)-“負の存在”が他者を浮かび上がらせる照明装置になる。-対照配置:・フョードル⇄アリョーシャ/ゾシマ・大審問官⇄キリスト-光と影の書き分けに必須の理念。#対照#陰影#倫理2ドストエフスキー晩年のミーチャ像(ワイルド+高潔)-“激情と高潔”の合成キャラは物語の推進力。-近代日本なら〈破天荒なラグビー主将〉等に換装可。#アンビバレント#主人公原型3イワンの「悪魔」幻視-超常か精神病理かを曖昧に描く手法。-村上春樹『海辺のカフカ』“サンダース”へ継承。-読者が〈解釈の椅子〉を選ぶ構造は現代でも有効。#幻覚#信頼できない語り手#二重底4ポリフォニ...『カラマーゾフの兄弟』素材メモ

  • 『カラマーゾフの兄弟』読書メモ──素材整理シート

    『カラマーゾフの兄弟』読書メモ──素材整理シート(4巻終了時点・亀山郁夫訳)ラベル抜粋・要点気づき/クリエイティブ・フック読書のきっかけ-ハードカバーは敬遠→文庫+軽い装丁で再挑戦-村上春樹が影響を受けた作家という“業界推し”-子守×仕事の隙間読書(抱っこ紐+ソニー・ロリンズ)*「二宮金次郎読書」*というセルフイメージがユーモラスでエッセイ向き。読みにくさ1.ロシア名の長さ2.正教用語・神学議論(去勢派/大審問など)3.過度な饒舌(名作ゆえの引用洪水)・「俳句体質の日本人には饒舌が苦行」という対比は語りの核になる。・“翻訳による距離”そのものをネタ化できる。作品テーマ(暫定)-破綻:家族・信仰・倫理がことごとく壊れている-饒舌vs.削ぎ落とし:西洋長文と日本的簡潔さの衝突「破綻者列伝」を日本的ミニマリズム...『カラマーゾフの兄弟』読書メモ──素材整理シート

  • 「二つの夢の行方──『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』読後ノート」

    「二つの夢の行方──『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』読後ノート」本を読了するのに、ちょうど一週間かかったことになる。かつて読んだときは分厚いハードカバーで、いかにも“難解な大作”の風格だったが、今回は文庫本。上下に分かれ、薄く見えるぶん、気軽にリュックに放り込んで街に出ることができた。空き時間に少しずつ読む、それが、むしろ正しい読み方だったかもしれない。前に読んだときには、正直なところ、さして面白いとは思えなかった。ただ不思議だ、不思議だ、とそればかりが印象に残った。そして今回、ようやく腑に落ちた。完全に理解したとは言わない。むしろ多くの謎は謎のまま残っている。だが、読後に感じる手応えのようなものが、以前とはまるで違うのだ。交差する二つの世界ストーリーは、全く異なるふたつの世界が、まるで交互...「二つの夢の行方──『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』読後ノート」

  • 一角獣(ユニコーン)の記号性と両作の共鳴

    村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年初版、文庫は1988年)と、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(1980年、邦訳は1983年〜)を並べてみると、いくつかの興味深い符合が浮かび上がってくる。特に「一角獣(ユニコーン)」というモチーフの登場に注目すると、前者が後者の影響を少なからず受けた可能性も否定できない。■一角獣(ユニコーン)の記号性と両作の共鳴『薔薇の名前』下巻のp.102では、一角獣が「虚構」「写本」「禁書」などの文脈とともに語られる。エーコは中世修道院の迷宮のような図書館を舞台に、知識の制限や言葉の力、記号の暴走に絡む謎解きを描いた。ユニコーンはその中で「存在しないものをいかに人は信じ、語り、記録してきたか」という象徴のひとつである。一方、村上春樹の『世界の終り~...一角獣(ユニコーン)の記号性と両作の共鳴

  • 「青豆の復讐」と幸ちゃんの怒り──六十五年前の田舎で起きたこと

    「青豆の復讐」と幸ちゃんの怒り──六十五年前の田舎で起きたこと村上春樹の『1Q84』を読むたび、どうしてもある記憶が頭をもたげてくる。あの物語のなかで、青豆という女が、自殺に追い込まれた親友の敵を討つ。その親友を支配し、痛めつけていたDV夫を、青豆は静かに、冷たく、計画的に殺す。彼女は正義の名のもとに、法の及ばぬところで自らの手を汚す。暴力にさらされた弱き者のために、法を超えて裁きをくだす、この復讐の場面が、僕の中のある風景とどうしても重なってしまうのだ。それは、もう六十五年も前の話になる。僕の幼なじみ、幸ちゃんの家で起きた出来事だ。幸ちゃんの家は八百屋をやっていた。十二歳年上のお姉さんがいて、店番の横で本を読んでいることもあった。あるとき店にしばしば顔を出していた男が、その姉に縁談を持ちかけてきた。素性...「青豆の復讐」と幸ちゃんの怒り──六十五年前の田舎で起きたこと

  • 『グレート・ギャツビー』を二度観るということ 幻想のなかの美と夢

    『グレート・ギャツビー』を二度観るということ幻想のなかの美と夢『グレート・ギャツビー』を最初に観たとき、正直に言えばつまらないと思った。村上春樹訳の原作を読んでいたこともあり、小説が描き出す繊細なイメージや抑制された心理の動きが、映画の華やかな映像とどうにも噛み合わなかった。とりわけ失望したのは、パーティーの場面の演出だった。過剰で、けばけばしく、どこかコミカルでさえあり、僕のなかで構築された1920年代の退廃と気品の混じった空気とはまるで違っていた。キャラウェイを演じる俳優も違和感があった。彼はもっと冷静で、観察者としての距離を保ち続ける人物だと思っていたし、デイジーにしても、小説のなかでギャツビーが勝手に神聖化したあの女のイメージとはまるで別人のようだった。トム・ブキャナンもしかり。結局、小説の映画化...『グレート・ギャツビー』を二度観るということ幻想のなかの美と夢

  • 音楽の周縁に降る雨 村上春樹とジャズの小道を歩く

    音楽の周縁に降る雨村上春樹とジャズの小道を歩くシダー・ウォルトンを語るくだりで、村上春樹は彼を「パ・リーグの下位チームで六番を打っている二塁手」と形容する。なるほど、シダーは確かに申し分のない実力を備えている。しかしスポットライトの中央には立たず、堅実なまなざしでバンドを支え続けていた。野球にたとえるその比喩に、私は思わず笑ってしまった。パ・リーグファンには少し申し訳ないが、たしかに言い得て妙ではある。彼はその夜、ウォルトンの演奏を「真摯で誠実な、気骨のあるマイナー・ポエット」と受け取ったという。マイナーであることは、決して侮蔑でも損失でもない。むしろそこには、声高ではないが深く染み入るような、美しい重みがある。村上は続けて、「人の心に届く音や言葉は、その物理的な大きさで計量できるものではない」と書く。た...音楽の周縁に降る雨村上春樹とジャズの小道を歩く

  • 黄泉の国の口──村上春樹と古事記の暗黒生成 文字数:1209

    黄泉の国の口──村上春樹と古事記の暗黒生成村上春樹の小説には、ときおり人を不意に沈黙させるような場面がある。たとえば、『1Q84』において、殺された女性の口からリトル・ピープルと呼ばれる小さな存在が這い出てくる場面や、『海辺のカフカ』でナカタさんの死体から這い出てくる得体の知れない生物。死体から、口から、異界からの何かが出てくる。それは単なるホラー的演出ではない。この描写に私は、日本最古の物語である『古事記』のある一節を思い出すのだ。死んだイザナミの身体が腐り果て、そこから八体の雷神が生まれ出るというあの描写である。死と腐敗、そして神の生成。光ではなく、闇からの誕生。それは「生命の暗黒面」であり、日本神話における極めて根源的な創造の形だ。古事記では、イザナミが黄泉の国で変わり果てた姿で眠っている。「そのべ...黄泉の国の口──村上春樹と古事記の暗黒生成文字数:1209

  • 地下二階から来なかったもの──村上春樹と「語られなかった戦争」文字数:1903

    地下二階から来なかったもの──村上春樹と「語られなかった戦争」村上春樹の小説を読んできた読者として、私は彼の「地下二階」からやってくる声に魅せられてきた。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「影」、『スプートニクの恋人』の「ドッペルゲンガー」あの世とこの世、見えるものと見えないものの狭間で、作家は一貫して語りえぬものに耳を澄ましてきた。だが、その「耳」が、なぜある歴史的出来事にだけ開かれて、他には閉じられているのか。『騎士団長殺し』を読んで、私は強い違和感を覚えた。作中で、南京事件についてこう語られる。「南京入城」と私は言った。「そうです。いわゆる南京虐殺事件です。…正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが…中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人...地下二階から来なかったもの──村上春樹と「語られなかった戦争」文字数:1903

  • 井戸の底で星を仰ぐ 文字数:2244

    井戸の底で星を仰ぐ『ねじまき鳥クロニクル』を読み切ってわかった〈輪廻・闇・再生〉の回路三か月、通勤列車のつり革で揺れながら、週末の深夜にページをめくりながら、私は何度も物語の井戸に降りては地上へ戻された。閉じた瞬間、現実がひと筋ずれて感じられるあの読後感。ようやく本書を締めた今、頭の中には三つのキーワードが澱のように残っている。輪廻転生/地下の闇/再生の光。それらは互いにねじれ合いながら、主人公・岡田トオルの旅路を推し進めていた。1アザという“カルマの郵便ラベル”頬の大きな痣を共有する岡田と獣医。痣がうっすら光り、痛むたび、読者は「ここに業(カルマ)の継ぎ目がある」と気付かされる。「あれが光るたびに、あんたはちょっとずつ別の人間になっているんだよ」三島由紀夫『豊饒の海』のほくろに似た転生のシグナルだが、村...井戸の底で星を仰ぐ文字数:2244

  • 目覚めたあとで夢をみる──通勤電車で出会った村上春樹という「修行」文字数:1712

    目覚めたあとで夢をみる──通勤電車で出会った村上春樹という「修行」通勤電車に揺られながら村上春樹を読む、こんな習慣が身につくとは思ってもみなかった。出社前のわずかな時間が、いつの間にか地下二階へ潜る降下装置になり、気付けば降車駅を通り過ぎる。原因ははっきりしている。物語が自分の外側で完結せず、いまだ言語化されていない謎を抱えたまま私の内側へ潜り込むからだ。■「謎」が残る必然村上作品を読み終えるたびに、私はいつも読後の空洞を抱える。ところが作家本人は「自分にも謎のままだ」と平然と言う。韜晦でも戯れでもない。この宣言のおかげで、謎を抱えて終わること自体が作品の機構だと腑に落ちた。むしろ未解決の問いこそが読者を物語の共犯者にする。■地図のない旅と「目覚めた夢見」春樹はまず単一のイメージ、たとえば〈スパゲティを茹...目覚めたあとで夢をみる──通勤電車で出会った村上春樹という「修行」文字数:1712

  • 〈影法師〉が呼び出すもう一つの軌道

    〈影法師〉が呼び出すもう一つの軌道シューベルト、ハイネ、そして『スプートニクの恋人』1ハイネの詩「帰郷」の終章では、月光の下でぼくが自分の影法師(ドッペルゲンガー)に出会い、失恋の痛みをそっくり写し取られたまま凍りつく。シューベルトはその場面を絶望的な低音と凍てついた和声で歌曲《DerDoppelgänger》に封じ込めた。影は声を持たない。ただ「存在そのもの」が、言葉を奪う。2クラシック通の村上春樹がこの曲を知らぬはずはない。『スプートニクの恋人』に現れる〈あちら側〉は、《影法師》が示す月光の異界を思わせる。観覧車の密室でミュウが見たもう一人の自分、ロードス島の夜に〈僕〉が聴いたありえない演奏──いずれも「現実」と「鏡像」の接点で時間がひび割れ、人格が二分される瞬間だ。村上はハイネ/シューベルトの主題、...〈影法師〉が呼び出すもう一つの軌道

  • 千葉という異界への裂け目 文字数:1352

    千葉という異界への裂け目静かなる変容の地としての千葉電車に揺られて、千葉県の小さな町へと向かう。そこにあるのは、ごく普通の郊外の風景でしかない。けれども、岡田にとってこの移動は、ただの移動ではなかった。「でも電車に乗ってその千葉県の小さな町にいって、そして又電車に乗って帰ってくるあいだに、僕はある意味では別の人格に変わってしまっていた。」(2巻P118)変化は静かに起こる。電車のレールは異界の門をまたぎ、岡田は気づかぬうちに「別の何か」に組み替えられていた。千葉という場所は、物語上では何の特別さも持たされていない。だが逆に、それがこの土地に〈裂け目〉としての性質をもたらしているのかもしれない。■なぜ千葉なのか?千葉は東京に隣接する、けれど東京ではない場所だ。都市のきらびやかさでもなく、田舎の素朴さでもなく...千葉という異界への裂け目文字数:1352

  • 闇の底で啓示は何を語るのか

    闇の底で啓示は何を語るのかねじまき鳥クロニクルにおける「啓示」の行方村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の深層にあるのは、井戸という象徴空間である。それは単なる比喩ではない。読者をじっと見つめ返す暗い瞳のようにして、作品の中心に口を開けている。あの井戸の底で、間宮中尉は一度だけ「世界と一つになる」ような啓示を受け取る。しかしその直後から、彼の人生は空虚な“抜け殻”へと反転してしまう。彼は言う。「私はあの光の中で、生命の核のようなものを焼き尽くしてしまったような気がするのです。」その体験がなぜ「恩寵」ではなく「呪い」として働いたのか。その謎の鍵を握るのが、後に同じ井戸の闇に身を投じる主人公・岡田である。■啓示の受け取り損ね間宮中尉は、ノモンハンの井戸の底で、偶然に射し込んだ強烈な光に全存在を貫かれる。だが彼はそ...闇の底で啓示は何を語るのか

  • 一瞬の「恩寵」が残すもの

    一瞬の「恩寵」が残すもの《ねじまき鳥》の井戸で燃え尽きた光「圧倒的な光の至福のなかでなら死んでもいいと思いました。そこにあるのは“一つになった”という感覚でした」ノモンハンの井戸を照らす十数秒の太陽光それは間宮中尉にとって、人生でただ一度訪れた“宇宙的な合一”の瞬間だった。だが村上春樹はこの《至福体験》を単なる救済としては描かない。強烈な光は主人公の〈生命の核〉を「焼き尽くし」、以後の人生を抜け殻へと反転させる。1恩寵としての光ほこりと腐臭の井戸底に射し込む白い束光。時間にして十秒ほど、しかし当事者には永遠に伸びる啓示。光と自己の境界が溶け、「このまま死んでもいい」と感じるほどの甘美。ドストエフスキーのアリョーシャが“大地に口づけ”した狂おしい合一体験とも響き合う。両者に共通するのは、神秘の強度があまりに...一瞬の「恩寵」が残すもの

  • ねじまき鳥の〈予言装置〉

    ねじまき鳥の〈予言装置〉井戸の底で響く「未来の残響」を読む村上春樹の長篇には、真っ赤な「預言者」も、水晶も出てこない。それでも登場人物たちはそして読者もつねに未来のほのかな震えをどこかで感じ取っている。『ねじまき鳥クロニクル』でその震源になるのが、本田伍長の素っ気ない言い当てと、井戸の闇から滲み出す微かな雑音だ。1“わかる”だけの男本田伍長ノモンハンで生き延びた本田は、「霊感ではない。ただそう《わかる》のだ」と言い切る。・間宮中尉は長生きする・岡田は水に用心しろ彼の予告は占いめいたドラマ性を拒むほど淡々としている。のちに読者が知るように、間宮は抜け殻のような長寿を送り、岡田は井戸で溺死寸前に達する。言葉は的確だが、未来を「変える」活劇にはならない。むしろ未来はすでに回路に組み込まれており、通電を待つだけと...ねじまき鳥の〈予言装置〉

  • 地下へ 村上春樹と〈井戸〉の哲学

    地下へ――村上春樹と〈井戸〉の哲学村上春樹の作品世界には、時折、ぽっかりと〈地下〉が口を開ける。それはトンネルであり、井戸であり、夢の中の通路であり、異界である。そしてその地下は、読者の無意識に静かに手を伸ばしてくる。1枯れ井戸に降りていく者たち『ねじまき鳥クロニクル』の主人公・岡田は、東京郊外の住宅地にある宮脇さんの家の裏庭の井戸に引き寄せられる。それは単なる廃井戸ではなく、ノモンハンの戦場に口を開けていたもうひとつの井戸と地下でつながっている。その深い闇の底に巣くっているものは、間宮中尉がかつて見た悪であり、岡田がこれから直面すべき自分の中の闇でもある。「ところが深い暗闇の中にいると、自分の今感じている感覚が本当に正しい感覚なのかどうか、それがよくわからなくなってくるのです。」(『ねじまき鳥クロニクル...地下へ村上春樹と〈井戸〉の哲学

  • ねじを巻く者 『ねじまき鳥クロニクル』に潜む〈因果エンジン〉

    ねじを巻く者『ねじまき鳥クロニクル』に潜む〈因果エンジン〉朝の藍色がほどける頃、聞こえてくる鳥の声。それは「世界に対する善意」に満ちているけれど善意だけでは歯車は動かない。だれかが〈ねじ〉を巻かなくては。1鳥の声は祝福と警告の二重奏作中でオカダは二種類の鳴き声を聴く。ひとつは夏の朝を祝福する軽やかな声。もうひとつは「ギギ…ギギ…」とゼンマイを締め直すような、機械じみた声。祝福は世界の与えられた善であり、ねじを巻く音は善を持続させる義務を告げるアラームだ。鳥は、宇宙が傾かないよう絶えず力を注ぎ込む〈因果エンジン〉の歯車を鳴らしている。2巻き手不在の戦場赤坂ナツメグは満洲の動物園で「ねじまき鳥を見た」と語るが、実際には見ておらず、ただ声だけが彼女の記憶を汚す。銃弾の届かない檻の奥で、虎もラクダも殺され、若い兵...ねじを巻く者『ねじまき鳥クロニクル』に潜む〈因果エンジン〉

  • 「ぐしゃぐしゃ」の手ざわり――笠原メイが嗅ぎ取った〈死〉の実感

    「ぐしゃぐしゃ」の手ざわり――笠原メイが嗅ぎ取った〈死〉の実感『ねじまき鳥クロニクル』で十七歳の笠原メイは、井戸の底で“白いぐしゃぐしゃした脂肪のかたまり”を感じとり、「世界は空っぽでインチキだが、そのぐしゃぐしゃだけは本物だ」と言い切る。彼女が触れたのは、比喩ではなくむしろ比喩がはがれ落ちた後に残る“素の物質”だった。1死は「記号」ではなく「塊」だふつう私たちは死を語るとき、美しい抽象語追悼、浄化、永遠で包み込もうとする。だがメイが井戸で遭遇したのは、そうした言語層をすり抜けて手に貼りつく生々しい脂肪である。それは腐敗の匂いを放ち、組織と組織の境界を溶かし、やがて土へ戻る。「私という人間は、そのぐしゃぐしゃに乗っ取られそう」と彼女が言うとき、死は遠い彼岸ではなく、自我に侵食してくる肉体の“現実”として迫...「ぐしゃぐしゃ」の手ざわり――笠原メイが嗅ぎ取った〈死〉の実感

  • 「我」という通り道――『ねじまき鳥クロニクル』でほどける自己

    「我」という通り道――『ねじまき鳥クロニクル』でほどける自己井戸の底で岡田亨が悟るのは、からだは「たまたま手渡された殻」にすぎないという事実だ。染色体という暗号をくみ替えて得た肉体は、意識の仮宿にすぎず、〈世界の外側〉から訪れた何か仏教でいう阿頼耶識、あるいは「非我」が五蘊に一時的に棲みついているだけだと彼は感じとる。作品の中盤、クミコの幻影は「あなたは“よそ”でつくられた」と囁く。ここで言う“よそ”は因果関係の網目、すなわち縁起そのものだ。自己を作り替えようとする意志でさえ、その網目の産物にすぎず、岡田個人の自由意思という手触りは幻想に近い。彼はついに「自分は〈ぼく〉という人間の“通り道”にすぎない」と言い切る。通り道を吹き抜ける風こそが“輪廻する意識”であり、風が去れば殻は静かに空洞へ戻る。もうひとつ...「我」という通り道――『ねじまき鳥クロニクル』でほどける自己

  • 井戸の底で交差するもの 『ねじまき鳥クロニクル』に潜む“生霊”と“転生”のロジック

    井戸の底で交差するもの『ねじまき鳥クロニクル』に潜む“生霊”と“転生”のロジック村上春樹の長篇のなかでも、『ねじまき鳥クロニクル』は読者をとりわけ当惑させる。路地裏の電話、乾いた井戸、戦場の拷問、青黒いあざ。いくつもの時空がずれ込みながら物語を織りあげ、気づけば主人公・岡田亨の私生活はノモンハンの戦場と地続きになっている。その“不思議ワールド”を貫く軸として、私は〈生霊〉(現世に漂う魂)と〈転生〉(過去の業を受け継ぐ回路)という二つの観念に注目した。1電話線を伝う“生霊”物語冒頭、岡田は見知らぬ女から突然“体を撫でてほしい”という電話を受ける。のちにそれが失踪した妻・クミコの“もう一つの声”であったらしいと知れるとき、読者は《生霊》という古典的モチーフの現代的アップデートを悟る。電話線は現代の霊媒であり、...井戸の底で交差するもの『ねじまき鳥クロニクル』に潜む“生霊”と“転生”のロジック

  • 虚数としての物語――村上春樹がオカルトを拒む理由 文字数:1943

    虚数としての物語――村上春樹がオカルトを拒む理由「オカルトには興味がない」。村上春樹が折に触れてこう断言するたびに、私は違和感を覚えた。ふしぎな預言者、不在の都市、並行世界彼の小説が差し出す光景は、むしろ“不可思議”で満ちているからだ。ところが最近、その違和感がすっと解けた。鍵になったのは、高校以来おそるおそる扱ってきた“虚数”という概念だった。1虚数はオカルトではない実数が日常の座標軸だとすれば、虚数はそこに直交するもう一本の軸である。複素平面においては、実と虚は同一の方眼紙上に共存し、ともに方程式を完成させる。村上春樹の物語構造もこれに似ている。「現実」(実数軸)と「物語の向こう側」(虚数軸)は交わらないまま一枚の平面を形成し、両者がカップリングしたとき初めて小説という方程式が解を持つ。ところが“オカ...虚数としての物語――村上春樹がオカルトを拒む理由文字数:1943

  • アリョーシャの眼差し、そして村上春樹の祈り 文字数:1221

    アリョーシャの眼差し、そして村上春樹の祈り村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読みながら、私は時折、アリョーシャの視線を感じる。『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャである。彼はドストエフスキーの世界にあって、もっとも無垢で、もっとも苦悩する魂だ。だがその視線は、善悪を分ける天使のものではなく、善と悪の境界が融解した湿地帯に立ち尽くす人間のものだ。村上春樹は作中でアリョーシャに言及する。「限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ」と。その言葉には、どこか宗教的なあきらめと、同時にあたたかな信仰が宿っているように感じられる。それはフョードル・ドストエフスキーが与えた問いを、21世紀の都市の底にたゆたう心が、ふたたび受け止めた瞬間なのだ。村上の小説に登場する“記号士”たちは、ホログ...アリョーシャの眼差し、そして村上春樹の祈り文字数:1221

  • 工場地区自体がほとんど見捨てられてしまったような淋しい場所なのだ 文字数:555

    下記の風景をバリで見たことがある。もちろんそっくりではない。しかし汚い川が流れ、バラック建の染色工房が隠れるように並び、その中で腰まで使った職人が染色していた。彼女の家は職工地区にあった。職工地区は工場地区の南西部の一郭にあるさびれた場所だ。工場地区自体がほとんど見捨てられてしまったような淋しい場所なのだ。かつては美しい水をたたえ荷船やランチが往き来した大運河も今はその水門を閉ざし、ところどころでは水が干あがって底が露出していた。白くこわばった泥が、巨大な古代生物のしわだらけの死体のように浮き上がっている。河岸には荷を積み下ろすための広い石段がついていたが、今はもう使うものもなく、丈の高い雑草が石のすきまにしっかりと根を下ろしていた。古い瓶や錆びた機械の部品が泥の上に首を出し、そのとなりでは平甲板の木造船...工場地区自体がほとんど見捨てられてしまったような淋しい場所なのだ文字数:555

  • 輪廻の脱出 死んだあとくらいは、静かにそっと寝かせておいてほしかった

    下記のフレーズ、実に輪廻とその脱出を目指す原始仏教的な考えだと思わないか。ウィリアム・シェイクスピアが言っているように、今年死ねば来年はもう死なないのだ。死んだあとまで、自分の中から何かをひっぱりだされることを考えただけで私の気は滅入った。生きることは決して容易なことではないけれど、それは私が私自身の裁量でやりくりしていることなのだ。だからそれはそれでかまわない。『ワーロック』のヘンリー・フォンダと同じだ。しかし死んだあとくらいは、静かにそっと寝かせておいてほしかった。私は大昔のエジプトの王様が死んだあとでピラミッドの中に閉じこもりたがった理由がよくわかるような気がした。輪廻の脱出死んだあとくらいは、静かにそっと寝かせておいてほしかった

  • 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド&AI 無価値なハルシネーションかも

    「シャフリング・システム」という言葉を初めて見たとき、僕はまるで宝箱の蓋を開けたような気持ちになった。それは、歴史の漏れ方に隠された、ほとんど誰も気づいていない機械の樹の花のようなことばだった。映画『ブレードランナー2049』には「記憶は誰のものでもない、誰のためのものだ」という名言があるが、映画がこう言語にする前から、映画よりもずっと早く、村上春樹はそれを実に文字のかたちで描いていた。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の前半部では、「消された記憶」が残る。それも、一人の「記号士」の頭内における、記憶のエンコードとデコードのような操作の中に、「人間AI」のような体系が生まれている。たとえばここに記された「ブレーン・ウォッシュ」。右腕では数値を入力し、左腕ではそれを異なる記号に置換し、最後にまた...世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド&AI無価値なハルシネーションかも

  • ワンダーランドとニュース わけのわからん夢 文字数:1310

    ともかく私はその長い廊下を彼女のあとにしたがって歩いた。ほんとうに長い廊下だった。何度か角を曲り、五段か六段ほどの短かい階段を上ったり下りたりした。普通のビルなら五つか六つぶんは歩いたかもしれない。あるいは我々はエッシャーのだまし絵のようなところをただ往ったり来たりしていたのかもしれない。いずれにせよどれだけ歩いてもまわりの風景はまったく変化しなかった。2018年5月16日12時04分地下街初の斜行エレベーター名古屋・栄に名古屋・栄の地下街「サカエチカ」の北通路と、市営地下鉄東山線の栄駅をつなぐ連絡階段に、高齢者や障害者らに便利な斜行エレベーター(9人乗り)1基が完成し、16日から利用できるようになった。製造会社によると、全国で4例目。過去3件は佐賀駅などJR駅への設置で、地下街は全国初という。この階段は...ワンダーランドとニュースわけのわからん夢文字数:1310

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、masaoさんをフォローしませんか?

ハンドル名
masaoさん
ブログタイトル
団塊亭日常
フォロー
団塊亭日常

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用