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2022/10/30

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  • イタリア紀行 12 ボローニャ ハム屋の記憶街の記憶

    ふと視線が古い建物のファサードに止まる。そこに刻まれているのは、威厳ある表情で前方を見据えるひげをたくわえた男性のレリーフ彫刻だ。石の中に永遠に閉じ込められたかのようなその顔は、静かな威圧感を放ちつつも、どこか物悲しさを漂わせている。この男性は誰だったのだろう。何世紀も前に生き、ここボローニャの街で重要な役割を果たした人物かもしれない。彼が見ていた世界は、今とはまったく異なるものであったに違いない。戦乱の時代にあって、人々の生活は常に不安定で、彼もまたその中で苦悩しながらも、自分の役割を全うしたのだろう。石に刻まれた彼の顔は、時の流れと共に風雨にさらされ、周りから少しずつ削られていく。彼のように何かを成し遂げ、誰かの心に何らかの影響を与えることができたなら、この場所に永遠に晒され続けていいのだろうか。石に...イタリア紀行12ボローニャハム屋の記憶街の記憶

  • イタリア紀行 11 マフィア発祥の地パレルモ

    パレルモの影18年前、ホテルの窓から見下ろしたこのスラム街の光景は、シチリア島の首都であるパレルモが抱える課題いやイタリアの課題を象徴している。崩れかけた建物、無造作に積み重ねられた廃材、荒れ果てた庭―これらは、長年にわたる貧困と無視されてきた地域の現状を物語る。18年前のパレルモは、まだ多くの地域で貧困が根強く残っていた。古い建物が立ち並ぶ地域は、長い間、都市開発の波に取り残されていた。このような地域では、犯罪率の高さや教育機会の限界が深刻な問題となり、地域の発展を阻む要因となっていた。それから18年が経過し、パレルモの一部地域では大きな変化が見られると聞く。観光業の発展やEUからの支援を受けた都市再生プロジェクトが進行し、かつてのスラム街が新たな命を吹き込まれつつあるという。荒廃していた建物が修復され...イタリア紀行11マフィア発祥の地パレルモ

  • イタリア紀行 10 アグリジェント 小さなホテルの主人はアーティストだった

    小さなホテル 巨大なシェパードの吠え声がするこのホテルの一角にはアグリジェントそのものを象徴する何かが感じられる。シチリア島の乾いた大地に立つこの街は、古代からの栄光と、歴史の荒波に耐え抜いた遺産を今に伝える場所であり、その背後には数千年にわたる壮絶な歴史が隠されている。アグリジェントの歴史は、紀元前580年に古代ギリシャ人によって築かれた植民都市アクラガスに遡る。この街は、マグナ・グラエキア(古代ギリシャの植民地)として、南イタリアやシチリア島一帯に広がるギリシャ文化の中心地の一つとして栄えた。特に、火・風・水・土の四元素説を提唱した哲学者エンペドクレスの出身地としても知られ、その時代には文化や知識が花開いた。しかし、紀元前406年、アグリジェントはカルタゴの攻撃によって破壊されることになる。第一次ポエ...イタリア紀行10アグリジェント小さなホテルの主人はアーティストだった

  • イタリア紀行 9 シチリア遺跡に根を張るオリーブの巨木

    巨大なオリーブ遺跡に生えるオリーブの巨木は蝋化したように見える幹と荒れ地に蟠る力強い根。見ているだけで生命の力が与えられる。シチリアの5月の太陽は、すでに真夏のような強烈さを帯びている。空には雲一つなく、照りつける光が大地を焼き付けるようだ。妻に借りて頭に巻いたスカーフでどうにかこの陽射しをしのぎながら乾いた地面を歩いていると、ふと目の前に現れるのが、一際存在感を放つ一本のオリーブの木だ。その幹の太さには驚かされる。通常見慣れたオリーブとは全く異なり、年輪を重ねた老木の幹はふしくれだってねじれ、曲がりくねり、大地と一体化するかのように根を張っている。オリーブの木は盤石のごとく屹立している。この厳しい大地は、人間にとっては過酷な環境だが、このオリーブにとっても同じだろう。この木は自然の力に屈するのではなく、...イタリア紀行9シチリア遺跡に根を張るオリーブの巨木

  • イタリア紀行 8 ジャルディーニ・ナクソス&タオルミナ 映画『太陽がいっぱい』

    ボローニャのボルゴ・パニガーレ空港からカターニアのフォンタナロッサ空港に着陸体制に入る前にエトナ山が姿を見せる。活火山で標高は3,326m富士に高さも姿も似ている。エトナ山が姿を現すと窓際にせりよって写真を撮る。その威厳ある姿はシチリアの守護者のよう。エトナ山のふもとに広がるジャルディーニ・ナクソスの町はシチリアの他の観光地とは一線を画する歴史と神話の場所だ。ジャルディーニ・ナクソスはギリシャのナクソスから名付けられた。テセウスに裏切られたアリアドネが、ディオニュソスと新たな愛を見つけたこの地で、私はナクソス神話が物語ではなく現実とどのように交錯するかを感じ取った。街を歩いていると、どこかに神々の足跡が残っている気さえする。アリアドネは、クレタ島の王ミノスの娘。アテナイの英雄テセウスがクレタ島にやってきた...イタリア紀行8ジャルディーニ・ナクソス&タオルミナ映画『太陽がいっぱい』

  • イタリア紀行 7 タオルミーナ古代劇場のアーチをくぐると

    古代ギリシャ劇場「胎内潜り」は日本の伝統的な宗教儀式の一つで、通常は神社や寺院にある洞窟や穴を潜り抜けることで、再生や浄化、そして新たな出発を象徴する。この儀式は、母親の胎内を再現し、それを潜り抜けることで新たな命を得る、という深い象徴性を持っている。タオルミーナの劇場を前にしたとき、この「胎内潜り」の儀式が頭をよぎった。古代のアーチをくぐるという行為は物理的な通過ではなく、精神的な再生をも意味しているのではないかと感じたのだ。この劇場のアーチをくぐることは、まるで一度死んで生まれ変わるような感覚を抱かせる。何世紀もの時を超えてこの場所に集った人々の魂が、このアーチの中で語り合い、訪れる者を浄化し、新たな視点を与えてくれる。タオルミーナの古代ギリシャ劇場にあるこのフリーズは、古代ローマの建築装飾の一例であ...イタリア紀行7タオルミーナ古代劇場のアーチをくぐると

  • イタリア紀行 6 イゾラ・ベッラとジャックマイヨール

    小さな島の頂上部にも別荘らしき建物が見える。イゾラ・ベッラ(IsolaBella)は、イタリア語で(Isola=島、Bella=美しい)イタリアにはこの名称の島は幾つかあるが、タオルミーナのイゾラ・ベッラは、フランス映画「グランブルーリュック・ベッソン監督1988年」のロケ地として使われた美しい小島。タオルミーナで開催されるフリーダイビング競技でエンゾ、ジャック、ジョアンナが出会う。主人公のジャックマイヨールもエンゾも実在のプロの素潜りダイバーだ。エンゾはダイブ浮上中に死亡した。この映画が作成されたあとジャックマイヨールはどこかの島で若い妻と結婚して暮らしていると聞いていたらその内自殺した。自殺の原因はいまだ分かっていない。以前に一度この映画は見ているが、ジャック・マイヨールが元気な時代のことだ。この映画...イタリア紀行6イゾラ・ベッラとジャックマイヨール

  • ウクライナ・ロシア戦闘動画とAIフェイク動画

    昼飯前にYouTubeで大谷翔平の活躍を見ることが楽しい習慣になっている。終了後に別の番組紹介画面に移り、ウクライナのロシアに対する反撃のシーンが動画が並ぶ。F16がロシア戦車や橋を破壊する映像が延々と続く。一昨日に娘が「それはAIフェイクだよ」と言った。「こんなリアルな動画だよ、AIフェイクなわけないだろう」「AIフェイクだよ、人物の動きが不自然だよ」娘の言うことが信じられないのでそのまま見続けることに。「そう言われてみるとちょっと不自然かなあ。でも画像を粗くするとこんな動きになるのかも」そう思い続けていたがふと気になってネットで調べてみることにした。するとAIフェイク動画の見分け方、戦闘場面のフェイク画像の見分け方などが目に飛び込んできた。でも一体何のためにAIフェイク動画を結構な費用をかけて流す必要...ウクライナ・ロシア戦闘動画とAIフェイク動画

  • イタリア紀行 5 フェラーリとフェラーラは違うの?

    フェラーリとフェラーラフェラーリ「こんにちは、フェラーラ!僕はフェラーリ、イタリアが誇るスピードの王者だよ。君も名前が似ているけど、もしかして僕と何か関係があるのかい?」フェラーラ「あら、フェラーリさん!残念ながらわたしたちは全然関係ないのよ。わたしはエミリア=ロマーニャ州の歴史ある街、フェラーラ。自転車が大好きで、街の人々は毎日サイクリングを楽しんでいるわ。」フェラーリ「え、自転車?あの、スピードゼロのやつ?僕は最高時速340kmで走れるんだけど、君の街はせいぜい何キロ出せるんだい?」フェラーラ「確かにスピードでは君に勝てないけど、わたしの街ではみんなのんびりとした生活を楽しんでいるのよ。それに、フェラーラの街を自転車で走れば、古い城壁や美しい大聖堂を見ながら風を感じることができるわ。フェラーリで通り過...イタリア紀行5フェラーリとフェラーラは違うの?

  • イタリア紀行 4 円形闘技場の血の臭い

    古代の闘技場に足を踏み入れたとき、胸の内に奇妙な感覚を抱いた。この場所はかつて、熱狂と血の匂いに満ちていたはずだった。しかし今はただの静寂が支配している。陽光が石柱の隙間から差し込み、草の匂いがかすかに漂っていた。回廊を抜け、大体育場へと進むと、彼は自分が遥か昔の人々と同じ道を辿っていることに気づいた。彼らもまた、期待と不安を胸に、戦士たちの命を賭けた戦いを見届けるためにここを歩いたのだろう。古代の観客たちは、興奮と歓声でこの場を満たし、今日の彼が感じることのない熱量を共有していたに違いない。目に映る遺跡は、ただの石と化した過去の残骸だが、その裏には生きた人々の物語が詰まっていた。ローマ帝国の威光の下、この場所は支配者と市民が一体となる場所であり、血が流れることで統治が正当化される場でもあったのだ。ローマ...イタリア紀行4円形闘技場の血の臭い

  • イタリア紀行 3 ベローナの遺跡幻想

    アディジェ川を渡り、ベローナの古代遺跡を訪れたときのこと。石造りの階段が私を誘うように、その先へと導いていた。階段を登るたびに、背後に広がる街の喧騒が徐々に遠ざかり、目の前には遺跡と自然が織りなす静かな空間が広がっていた。階段の両側には、古代ローマ時代の建築物の残骸が無造作に積み上げられ、まるで歴史そのものが生き続けているかのような錯覚に陥った。緑豊かな木々と植物が、崩れかけた石碑や壁と絡み合い、自然と人工の境界が曖昧になっている。その様子は、時代を超えて存在する場所のようで、異世界に足を踏み入れたような不思議な感覚を覚えた。階段を上り切ると、小さな広場にたどり着いた。そこには、古い邸宅が立っており、その外観はまるで堅固な城のように見えた。この建物が現代のものであることは明らかだったが、古代の遺跡と見事に...イタリア紀行3ベローナの遺跡幻想

  • イタリア紀行 2 ピッティ宮殿の調子の良いガイド

    若い元気なガイドが案内してくれる。22歳くらいかな。ちょっと軽いけどまあいいか。さあ、アルノ川を左手に、いよいよピッティ宮殿に到着だね!ここ、地元でも人気の観光スポットだけど、そんじょそこらの観光地じゃないんだ。歴史好きにはたまらない場所なんだ。フィレンツェっ子の僕らにとっても、メディチ家の物語を思い起こさせてくれる特別な場所なんだ。え、メディチ家って何だって。ううん、こいつを話し出すととんでもなく長くなるからね。実は僕もあんまり深く知らないんだ。さあ、行こう行こう。見てごらん、この石の外壁!でっかくてゴツゴツした石が積み重なっていて、まさに「力」を感じるだろ?日本にこんな建物ある?え、お城の石垣にあるって。へえ、日本てすごいんだね。一度行ってみたいもんだね。この宮殿、15世紀に建てられて、後にメディチ家...イタリア紀行2ピッティ宮殿の調子の良いガイド

  • イタリア紀行 1 ギベルティとブルネレスキの確執

    2006年のイタリア旅行を回想し紀行文にまとめました。58歳の時に行ったイタリア、スペイン、モロッコ、東南アジア、パタゴニア、マチュピチュなどの紀行はそのうち書けるだろうとたかを括って伸ばし伸ばしにしていたが既に76歳になってしまった。ブログとして写真中心のまとめは一応していたのだがやはり文章が少なすぎる。性根を入れて書かねばと決意しています。そしてアマゾンで電子出版を計画しています。長期にわたって連載の予定ですのでお付き合いしていただければ嬉しいです。ギベルティとブルネレスキのライバル意識が歴史に残る名作を生むことになる。ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキは、ルネサンス期のフィレンツェで活躍した二人の天才芸術家であり、そのライバル関係は美術史における重要なエピソードとして知られている。ロレ...イタリア紀行1ギベルティとブルネレスキの確執

  • 樹木の声を聞く

    「聖なる木の囁き」(フィクションです)バリ島のとある小さな村には、古くから「聖なる木」として知られる一本の大木があった。この木は村の入り口にそびえ立ち、太くねじれた根が大地をしっかりと捉えている。幹には白黒のボレンが巻かれ、村人たちはこの木に宿るとされる霊を深く敬っていた。この木には一つの伝説がある。かつて村を襲った洪水の際、木の根がまるで村を抱きしめるかのように隆起し、村人たちを守ったという。それ以来、木は村の守護神とされ、村人たちは日々、木の前で祈りを捧げ、花や果物を供えるようになった。木に巻かれたボレンは、善と悪、光と闇の象徴であり、木の神聖さを示すためのものだ。ある日、都会から訪れた若い旅人がこの村を訪れた。都会の喧騒から離れたくてバリ島を訪れた彼は、村人たちの優しさに触れ、この木の話に興味を持っ...樹木の声を聞く

  • バリ島の何気ない面白さ

    泊まった宿のプールサイドにあった陶器のパネル。これは確かテーブルを上から見た思わぬ図柄。サヌールの宿に向かう路地の角で。さりげなく上手い。お世話になった陶芸店の壁にかかっていた。陶芸窯1600度を覗き見ると。大人気の魚料理マクベンに仕入れの冷凍魚が到着。サヌール南端の宿近くに入った店で。バリ島の何気ない面白さ

  • バリならではのショップ ハングドラムを見かけた

    この画像に写っているショップは、バリにある「PANSASIA」という名前のお店でウィンドウには「432Hz」「440Hz」「HEALINGSOUND」といった文字が書かれており、思わず写真に撮った。440Hzは一般的に現代の標準音高(A=440Hz)でA4(ラの音)の周波数として知られている。一方で、432Hzは「癒しの音」として知られており、一部の音楽療法やスピリチュアルなコミュニティで使われ自然界の調和と共鳴するとされ、リラックス効果や精神的な安定感をもたらすと信じられている。ウィンドウ越しにハングドラムが陳列されている。この基準は、1939年に国際会議で採用され、その後、1955年に国際標準化機構(ISO)によって正式に標準音高として認められオーケストラや楽器製作において統一された音高が確立された。...バリならではのショップハングドラムを見かけた

  • 2024年チャンティック・ベスト5

    サヌールの浜辺で(読み人知らず)静かな波が寄せるサヌールの砂に足跡を刻む柔らかな風が髪を揺らし静けさの中に溶けていく海の向こうに広がる青遠くの島影が霞む心の波も穏やかにただ、今この瞬間を感じる砂に残る小さな貝殻時の流れを見つめていた過去も未来も溶けて今だけが優しく包み込むバリの風、サヌールの光ここにあるのはただの平和歩み寄る足音が消えていく潮騒の音が心に響くウブドの祈り(読み人知らず)静寂の中に響く心の声ウブドの古い寺院の前で一輪の花のように膝をつき祈りを捧げるその姿は、風のように優しい香の煙がゆらめき空へと溶けてゆく色とりどりの供物が神々へと届けられる石の彫刻が見守る中時は止まり、ただ祈りだけが流れる永遠の瞬間に包まれて心の安らぎが広がるウブドの地に響く祈り自然と一つになり心の深淵へと沈み込む祈りの静か...2024年チャンティック・ベスト5

  • ヴィジュアルなガラス窓に惹かれるらしい

    バリサヌールビーチにて。神戸異人館にて。神戸異人館にて。東京国立博物館にて神戸異人館にて。旅先にて。場所を忘れた。ヴィジュアルなガラス窓に惹かれるらしい

  • バリの人々

    ウブド近郊の滝で。デンパサールの葬儀で。ウブド近郊の奥深い滝で魚をつる少年。船の帆をつくろうおじさん。長く伸びた髪でバイクに乗るマンクー。サヌールビーチで坐禅する少年。バリの人々

  • ヴェネツィアングラスの記憶

     イタリア紀行の思い出の中にベネツィアのグラスがある。当時買い求めたものの一つはグリーンの取っ手がついた素敵なものだったが取っ手が折れてしまった。どうやって折れたものか記憶にないのだが、どうも都合の悪い記憶は遠くなるものらしい。ムラーノ島に渡り工房で手品のような吹きガラスの技を見せられた。中世のベネツィア共和国は、ガラス製造の技術が非常に貴重であったため、ムラーノ島にすべてのガラス工房を集中させた。ガラス職人たちは島から出ることを禁じられており、技術の流出を防ぐために厳重な管理が行われた。まるで鍋島の陶器みたいだ。職人たちは事実上、島に閉じ込められていたが、その技術を持つ者は高い地位を与えられ、家族にも特権が与えられたが技術を外部に持ち出そうとした者は厳しく処罰された。このため、ムラーノ島は「秘密の島」と...ヴェネツィアングラスの記憶

  • ティベリウスがカプリ島のヴィラ・ヨヴィスで遠隔統治を続けた理由

    ティベリウスはローマ帝国の2代皇帝だ。不思議なことにローマから遠く離れたカプリ島のヴィラ・ヨヴィスで統治を続けた。18年前にカプリ島を訪れて以来なぜそのような複雑な統治を行ったのかとの疑問が居座り続けた。現代的な視点から推測してみると面白い。ティベリウスがローマから遠く離れたカプリ島のヴィラ・ヨヴィスで統治を続けた理由は、いくつかの背景や要因が推測される。ティベリウスはローマ皇帝として権力を握っていたが、彼の治世には多くの政治的陰謀や暗殺の企てがあった。彼がローマを離れてカプリ島に移った一因は、こうした不安定な政治環境から自分を守るためであった可能性がありカプリ島は海に囲まれた孤立した場所であり、外敵や反乱者からの攻撃を防ぐには理想的だったとの解説を見ることが多い。またローマを離れることは、ある意味でティ...ティベリウスがカプリ島のヴィラ・ヨヴィスで遠隔統治を続けた理由

  • 日本では大理石の見事な建築物がないのはなぜだろう、異常な暑さが続く昨今、答えはすぐにわかった

    イタリアで何が印象に残っているか。なんといっても大理石の見事な建築物が磁力のようにわたしを惹きつける。しかし東南アジアや日本では石の文化はお城の城壁にはあれど、天守閣に至るまでは木造だ。なぜだろうとイタリア紀行をまとめるにあたって考えてみた。 昨今の暑さからすぐに答えはわかった。木造の家は、呼吸するように湿気を調整するので湿気を排する。これだけは日本やアジア特有であり、石の家では夏の湿気と暑さに耐えられない。バリでかつてエアーコンディションのない時代に石の家に住むなんて狂気の沙汰であり、竹や木造以外に考えられなかったに違いない。和辻哲郎の著書「風土」で半世紀も前に読んだ記憶が微かにある。和辻哲郎は「風土」で、日本の高温多湿について「高熱という温度の高さに対しては耐えることはできるけれども、湿度に対しては耐...日本では大理石の見事な建築物がないのはなぜだろう、異常な暑さが続く昨今、答えはすぐにわかった

  • シェイクスピアはヴェローナとギブアンドテイクの関係だとようやく納得

    ロメオとジュリエットのジュリエット邸の門に集まる観光客。右上のジュリエットの家のバルコニーはご丁寧にシェークスピアの悲劇の舞台とは関係がないとの注釈があった。18年前にイタリアのヴェローナを訪れ、ロメオとジュリエットのジュリエット邸がなぜイタリアのヴェローナにあるのかがわからずにそのまま年月が経った。ヴェローナの中心部にある「ジュリエットの家」は、13世紀から14世紀にかけて建てられた中世の邸宅で、この家にはバルコニーがあり、ジュリエットがロミオに愛を語る有名なシーンを連想させるため、多くの観光客が訪れ今ではヴェローナの重要な観光収入資源となっている。シェークスピアはヴェローナからインスパイアされヴェローナから恩恵を受けている。その恩返しにヴェローナに観光資源をお返ししたと考えるとギブアンドテイクの歴史的...シェイクスピアはヴェローナとギブアンドテイクの関係だとようやく納得

  • サヴォナローラ、ルター、「薔薇の名前」のパスカビルで学ぶ「急ぎすぎる」ことの危険性

    18年前のイタリア紀行をまとめていると心に残る思い出が蘇る。今回はサヴォナローラについて。エステンセ城の前にあるサヴォナローラ像(StatuadiSavonarola)。ジロラモ・サヴォナローラはフェラーラ生まれのドミニコ会修道士でフィレンツェで23歳にして神権政治を行った。しかし1498年4月8日サン・マルコ修道院に市民が押し寄せ、共和国もサヴォナローラを拘束する。彼は激しい拷問を受け火刑に処された。賛同する市民の熱狂に支えられ、持ち上げられて梯子を外されたとも見ることができる。(現代でもよく見ることができる熱狂的人間の悲劇の共通パターンとも見えてくる。ロシアでもあった。)サヴォナローラが火炙りに至るまでの経緯を眺めてみる。1494年にフランスのシャルル8世軍がナポリに進軍しフィレンツェにもせまってきた...サヴォナローラ、ルター、「薔薇の名前」のパスカビルで学ぶ「急ぎすぎる」ことの危険性

  • エステ家「ウーゴとパリジーナの悲劇」と光源氏と藤壺の差

    「ウーゴとパリジーナの悲劇」は、フェラーラのエステ家の歴史における非常に悲劇的な出来事であり、陰惨な結末を迎えた愛憎劇として知られている。この事件は、中世の政治と家庭内の複雑な関係を浮き彫りにし、当時の権力者たちがどのように家族内の問題に対処したかを示している。源氏物語での光源氏と藤壺の関係を思い浮かべる。ニッコロ3世はフェラーラの統治者であり、エステ家のマルケス(侯爵)として知られるニッコロ3世・デステはは数回結婚し、多くの子供をもうけた。ウーゴはニッコロ3世の庶出の息子であり、彼の継母であるパリジーナ・マラテスタと不倫関係に陥った。パリジーナはニッコロ3世の2番目の妻で、年齢も若く、当時21歳でウーゴは20歳であり、二人は年齢的にも近かったため親密な関係に発展した。二人の関係は1425年に発覚し、ニッ...エステ家「ウーゴとパリジーナの悲劇」と光源氏と藤壺の差

  • 2024/08/03

    このところヨーロッパやイギリスの大学それもとびっきり古い大学に何かと縁がある。18年前に訪れたイタリアの紀行をまとめている最中だがボローニャには11世紀ともいわれるボローニャ大学があって時折散歩コースとして訪れ往古のまま保存された図書館などに感銘を受けたことを思い出している。その場に佇むと歴史の時空を飛び越えてしまうような感に捉えられた。今現在高2の娘がオックスフォード大学サマースクールで10日ほどの雰囲気を味わっている。毎日追跡アプリで構内を観察しているが実に広大で歴史的建築に囲まれているのが推しはかれる。このオックスフォード大学もケンブリッジも12世紀ごろに設立というから実に気が遠くなる歴史を背負っている。鎌倉室町に設立されたという感じだが想像を絶する。古いから良いわけでは無いが10世紀などの歴史性と...2024/08/03

  • 関西空港準備会社出向がご破産の記憶 万事塞翁が馬を深く思う

    関西国際空港の建設案が浮上したのは、1960年代後半から1970年代初頭にかけてです。当時、大阪国際空港(伊丹空港)の騒音問題や混雑が深刻化しており、新たな国際空港の必要性が議論されるようになりました。その結果、1970年代後半には新空港建設の具体的な計画が進み、1987年に建設が正式に開始されました1985年はわたしが38歳で転機になりかけた年ですがそうはなりませんでした。なぜご破産になったのかはいまだに知らずじまいです。この年電電公社データ通信本部の課長職になったがそれは関西国際空港準備会社に出向する話が進んでいた頃です。ところが突然その話は無かったことになった、しかし理由はいまだにわかりません。1985年は、関西国際空港の建設が具体化し、いよいよ実現に向けた重要な準備段階に入った年でした。もしトラで...関西空港準備会社出向がご破産の記憶万事塞翁が馬を深く思う

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