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2022/10/30

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  • 黄昏の漁 文字数:1572

    黄昏の漁砂がまだ温もりを残しているうちに、彼は浜辺へと現れる。一本の竿と、ゆるやかな歩み。ただそれだけを連れてくる。彼は漁夫ではない。生活のためでもなければ、戦いでもない。──これは、遊びだ。だが、その“遊び”は、日々の何かを洗い流すように、黄昏の海へと吸い込まれていく。釣果は、ないに等しい。日によっては魚篭に一尾か二尾、あるいはボウズ。それでも彼は、海に背を向けない。沈む太陽が海面を染め、潮風が声を失いはじめるとき、彼はなおも、静かに竿を握っている。釣り糸の先にあるのは、魚ではないのかもしれない。それは、一日の終わりに自分を戻す場所であり、何も得なくても、すべてを受け取っているような時間。誰に見られるでもなく、何かを証明するでもなく。ただ、海と黄昏に身を預けて、今日という日を、すこしずつ手放していく。見...黄昏の漁文字数:1572

  • 風と打ち合う午後──ピンポンテニスの記憶 文字数:1722

    風と打ち合う午後──ピンポンテニスの記憶かつて、バリのビーチでは、ピンポンテニスが大流行だった。テニスボールの黄色が、砂のうえでひときわ鮮やかに跳ねる。卓球ラケットを一回り大きくしただけの、簡素なバットが風を切る音。でも、その音には、潮騒にも似た、土地の呼吸が混じっていた。ルールはない。審判もいない。あるのは、ひとつのボールと、ふたりの人間の“今”だけだ。追い風に乗せて、ぐっと振る。返されたボールが、夕陽を裂いて戻ってくる。それだけのことに、なぜか心がほどけていく。肩の力が抜け、笑い声がひとしずく、風に乗る。その声を聴いたカップルが、ふらりとラケットを手に取る。そうして、いつの間にかこの浜辺には、即興のコートがいくつも生まれていた。試合ではなく、対話。競技ではなく、戯れ。勝者のないスポーツ。あの頃のバリに...風と打ち合う午後──ピンポンテニスの記憶文字数:1722

  • 遊びのはじまり

    遊びのはじまりクタの夕暮れ。日が傾き、風がやさしくなると、砂はすこし冷たく、やわらかくなる。親たちは笑い、子供たちは沈黙する。──なぜなら、彼らはいま、“遊びのなかへ還って”いるから。手のひらで掬う感触、指のあいだからこぼれ落ちる粒子、湿った砂がかたちになり、くずれ、また、つくられていく。小さな子の熱中ぶりは、まるで宇宙の最初の粒子にふれているかのようだ。遊びは、彼らにとっての祈りであり、まだ言葉を持たぬ詩である。そこに、大人の時間はない。教える声も、急かす影もない。ただ、波打ち際に沈む太陽と、夢中の背中だけが残る。それは、どんな芸術よりも、静かで、美しく、強いものだと思った。遊びのはじまり

  • タナロットの緑と白 文字数:1322

    タナロットの緑と白タナロットへ向かったのは、陽がまだ傾ききらない午後だった。黒く削られた溶岩の岩盤に、ひそやかな命が息づいていた。──それは、緑のコケ。まるで記憶の上澄みだけがそこに降り積もったような、柔らかな光を帯びた緑。波が届かぬ一瞬の間にだけ、海の沈黙がそこに根を下ろす。その奥で、白い波が砕ける。激しさと清冽さをまとった飛沫が、空気を切り裂くように立ち上がる。緑と白。静と動。湿った祈りと、炸裂する怒り。それらが混じり合わず、けれども拮抗しながら、同じ画面のなかに息をひそめている。それが、タナロットの本当の姿だと思った。ここでは、すべてが“神聖である”というよりも──すべてが“均衡である”ということが、神聖なのだ。タナロットの緑と白文字数:1322

  • ありふれた蓮

    ありふれた蓮バリでは、蓮は珍しくない。寺院の脇、ホテルの池、道端の甕──どこにでも咲いている。だから人は、それを見ても足を止めない。香りを気に留めることもない。ただ背景のひとつとして、通り過ぎる。けれど、私はこの一輪を見たとき、何かが背中をつたって、立ち止まってしまった。白い花弁の内側で、黄金色の中心がまるで光をたたえている。葉に落ちた水の輪郭まで、まるで時間の底から浮かび上がったように澄んでいた。それは、信仰の名を借りない神聖だった。誰にも気づかれず、しかし揺らぐことなく、この場所に咲くためだけに存在していた。人にとってはありふれていても、この花には、「今ここで開いたこと」こそが奇跡なのだ。ありふれた蓮

  • 波の子たち 文字数:1827

    波の子たち沖から吹く風が、まだ濡れた耳をやさしくなでていく。遠くで波が崩れ、その音が空気のすみずみまで震わせる。私は立ち止まる。けれど、その海へ向かって、子供たちは迷いなく踏み出していく。誰に教わったのでもない、それは、血と骨に沁みこんだ呼吸のようなもの。この海とともに生まれ、この波とともに育った子らの動きには、ひとつの宗教にも似た厳かさがある。小さな体を引きずるようにして板を抱え、彼らは波に背を向けず、むしろ、波の奥に何かを見ている。それは遊びではない。ただの競技でもない。──それはきっと、まだ言葉を持たぬ祈りであり、まだ文字にならぬ航海日誌だ。波が迫る。白く、荒く、叫ぶように。だが彼らは逃げず、しなる。一瞬、波と少年の影がひとつになる。そこには、都市の子らにはない、自然の中に自分を沈める誇りがある。私...波の子たち文字数:1827

  • 凧を運ぶ少年たち 文字数:1044

    凧を運ぶ少年たち向こうから、少年たちが大きな凧を抱えてやってくる。風はまだ弱く、海は静かに光っている。それでも彼らの歩みに、ためらいはない。彼らの背中には、ただ凧があるのではない。バンジャール(共同体)の名誉が、小さな肩に乗せられているのだ。手作りの木枠と布。何日もかけて仕上げた戦いのしるし。その凧が、まもなく空に放たれる。声援と太鼓と、そして誇りとともに。凧揚げ大会とは、ただの遊びではない。これは彼らなりの“式典”であり、空に向かって何かを誓う、ささやかながら真剣な、祈りのかたちなのだ。凧を運ぶ少年たち文字数:1044

  • 雨の夜、木々が語る 文字数:1250

    雨の夜、木々が語る雨季は、やはり雨が降らなければ始まらない。ここ数日、ようやく本格的な雨が降り出した。ベランダの明かり越しに見える庭は、椰子の葉が濡れて重たく揺れ、ブーゲンビリアの赤がしっとりと深まり、キョウチクトウの白が闇の中でかすかに光っていた。ジュプンの枝先から、雨粒がぽとり、ぽとりと落ちる。その音が、まるで木々の小さな囁きのように響く。「よく、持ちこたえたね」「乾季の六ヶ月、長かったね」そんな声が、確かに聞こえてくる気がする。まだバケツをひっくり返すような豪雨ではない。それでもこの雨には、確かな“雨季の手触り”がある。しみ込んでいく大地。プールに満ちていく清水。あらゆるものが、待っていたものにようやく出会えたと告げている。写真を撮ったとき、私はカメラの奥にある音を聴いていた。──木々が静かに、けれ...雨の夜、木々が語る文字数:1250

  • 虹の予感 文字数:989

    虹の予感それはまるで、空がひとつの決意を固めたかのようだった。午後のバリ。屋根瓦を打ち鳴らすほどの激しい雨が、突然訪れ、そしてあっけなく去っていった。雨脚が遠のいたのと入れ替わるように、白い陽光が静かに壁を照らし出す。湿った空気はまだ地表にまとわりついているというのに、光はすでに次の景色を描きはじめていた。屋上にあがると、風がひとすじ、顔を撫でてゆく。見上げれば、そこには、──空のあいだにかかる一本の橋。それは七色などという安易な言葉では収まりきらない、見えそうで見えない、触れようとすれば消えてしまうような、**“記憶の向こう側”に通じる階(きざはし)**だった。虹は、ただそこに在った。言葉もなく、証明もなく。それでも、こちらに向かって、何かを告げているようだった。虹の予感文字数:989

  • 赤い背中の演者──スカーレットバック・フラワーペッカー 文字数:1489

    赤い背中の演者──スカーレットバック・フラワーペッカー彼はまるで、自らを見せに来たかのようだった。いつものようにカメラを構えて庭を眺めていた朝。ひときわ鮮やかな色彩が、葉陰からふいに現れた。小さな体、真っ赤な背中、黒い翼、白い腹。色彩のコントラストは強いはずなのに、姿勢と表情にはどこか静かな品格があった。フラワーペッカー。花をついばむ小鳥。けれどこの日は、彼の興味は花よりも、レンズの向こうにあったようだ。なんと、撮りやすい枝に10分もとどまり、右向き、左向き、時おりこちらを向く。ポーズも距離も、すべてが完璧だった。これはもはや、偶然ではない。**「撮ってもらうことをわかっていた」**としか思えない振る舞いだった。その赤い背中は、燃えているわけでも、誇っているわけでもない。ただ、その色でいることを引き受けて...赤い背中の演者──スカーレットバック・フラワーペッカー文字数:1489

  • 黄色い頭の訪問者 文字数:1485

    黄色い頭の訪問者今朝、庭の木に小さな鳥がやってきた。頭が黄色く、身体はややくすんだ茶色。百舌鳥ほどの大きさで、少し慎重に、けれども迷いなく枝にとまった。目が合ったような気がした。けれど、向こうはこちらなど気にも留めていなかったのかもしれない。しばらく葉のあいだを見渡して、何かを確かめて、あっけなく、飛び立っていった。この木には獲物がない。たぶんそう判断したのだろう。だが、こちらにとっては、十分に“獲物”だった。黄色い頭が緑のなかで瞬いたその一瞬、空の上から何かの判断が下されたような、そんな不思議な感覚が残った。たぶんあの鳥は、何百本もの木をまわるうちの一つとして、この庭の木にも立ち寄っただけだったのだろう。けれど、選ばれたような気がした。たった数秒でも、この木が誰かの足場になったこと。その事実が、なぜだか...黄色い頭の訪問者文字数:1485

  • アグンがくっきり見えた朝──乾季のはじまりに 文字数:1237

    アグンがくっきり見えた朝──乾季のはじまりに乾季が来る――そう確信できたのは、この朝のアグン山の輪郭を見たときだった。薄い朝焼けに包まれながら、アグン山はまるで墨絵のように輪郭を際立たせていた。霧もなく、雲も邪魔せず、ただそこに、静かに屹立していた。バリに長くいるとわかる。この山がここまではっきりと見える日は、そう多くはない。たいていは薄靄に隠れて、その存在を感じるだけの日がほとんどだ。けれど今朝は違った。空気の透明度が違う。風の乾き方が違う。葉の揺れ方までもが、昨日までとは違っている。この山は、ただの山ではない。季節の表情を、最もはっきりと顔に出す存在だ。そして今日、アグンは言っていた。「乾季が始まる」と。アグンがくっきり見えた朝──乾季のはじまりに文字数:1237

  • 曇天の子牛──バリ島、七時すぎの空 文字数:1454

    曇天の子牛──バリ島、七時すぎの空冷たい風が吹いていた。バリの朝とは思えないほど、空は重く、空気は冷えていた。まるで季節が、知らぬ間にひとつ余分に進んでしまったような感覚。午前七時をすぎたころ、厚い雲の向こうにぽっかりと穴が開いた。その形が妙にリアルだった。小さな角と、丸い胴。ふわふわとした子牛のかたちに、私は目を奪われた。ほんの束の間、水平線のうえがにわかに明るくなり、天から細い光の筋が降りた。それは劇的ではなかった。天啓というほどの輝きでもなかった。けれど、曇りつづけた日々のなかに射す“わずかな可能性”のような光だった。冷たさのなかにある、柔らかいユーモア。それを雲が、空が、示してくれたように思えた。バリの空はいつも明るいわけじゃない。ときにこうして、雲のあいだから笑いかけてくることもある。この朝の空...曇天の子牛──バリ島、七時すぎの空文字数:1454

  • 完璧に整った朝──サヌールのサンライズ 文字数:1629

    完璧に整った朝──サヌールのサンライズ朝の海に行こうと思ったのは、ただの気まぐれだった。まだ暗く、空には輪郭のない雲がいくつか浮かんでいた。コーヒーを飲み終えるころ、水平線のあたりがうっすらと染まり始めた。そのとき私はまだ知らなかった。この朝が、記憶に残る“整いすぎた夜明け”になることを。やがて、太陽はまるで合図に従うように、左右対称にひらいた雲の割れ目から顔を出した。雲は翼のようにひろがり、光は扇状に天を刺す。海はそのすべてを静かに受け止め、波音だけが規則正しく岸辺を打っていた。完璧だった。自然が設計図でも引いたかのように、すべての要素が「いまここにあるべき姿」で存在していた。朝焼けはつねに美しい。けれどここまで“整っている”と、それは美しさではなく、祝福のように感じられる。こんな朝に立ち会えたことが、...完璧に整った朝──サヌールのサンライズ文字数:1629

  • クタビーチが黄金色になるとき 文字数:1480

    クタビーチが黄金色になるときそれは毎日訪れるはずの時間なのに、なぜか一度も同じに見えたことがない。午後の終わり、太陽がゆっくりと海に近づいてくると、クタビーチは突然、金色の記憶のような風景に変わる。光は波に砕けて、無数の線となり、それがまた砂の上に映っては、静かに溶けていく。どこかの誰かの笑い声が遠くで聞こえる。けれどこの光の中では、それすらも波音と同化してしまう。海が黄金に変わるのではない。わたしたちの目が、心が、この瞬間だけ何かを赦しはじめるのだ。濡れた砂の上に映る光は、かつて自分が見逃した何かをそっと照らしているようで、言葉にすることをためらわせる。何もしていないのに、何かを終えたような安堵感がある。クタビーチが黄金色になるとき、人は誰でも、すこしだけ詩人に近づく。それは旅の魔法ではなく、ただ「光を...クタビーチが黄金色になるとき文字数:1480

  • 空に描かれた一本の線──バリの凧 文字数:1408

    空に描かれた一本の線──バリの凧見上げた空に、それはいた。白と黒のボーダーを纏い、細く、長く、ただそこに漂っていた。風を受けて動いているはずなのに、どこか「静止したまま」のようにも見える。そういう存在感の凧だった。凧というのは、空を切り裂くものかと思っていた。勢いよく、風を捉えて、上へ上へと昇っていくもの。けれどこの凧は違った。空の中に一筆を引くように、ただ、優美にそこに“在る”というふるまいだった。白と黒。単純な配色が、空の青さを引き立てている。奇抜さではなく、品のある静けさ。それはどこか、バリ島の祭りに使われる正装布「ポレン・チェッカ」にも似ていて、祝祭と祈りのあいだにある美意識のように思えた。この凧を見上げながら、風とたわむれるというより、風に敬意を払っていた気がした。人の手が放ったものでありながら...空に描かれた一本の線──バリの凧文字数:1408

  • オレンジ色の瞬間──クタビーチにて

    オレンジ色の瞬間──クタビーチにてこの瞬間を撮らせてくれて、ありがとう。バリ島のクタビーチ。ただの観光地だと割り切っていた場所に、こんなにも深い光が沈んでいくとは、知らなかった。陽が落ちる直前の太陽は、まるで「今この場にいるすべての人に均等に光を渡したい」とでも言うように、優しく、厚く、そして惜しみなく照らしていた。パラソルの下では、カップルが会話を交わし、家族連れが静かに砂を感じ、ある男が、肩に食器を掲げて歩いてゆく。誰もが沈黙しているように見えるのに、それぞれの物語が確かに進行している。この写真には、一日の終わりに訪れる“共有された沈黙”が写っている。それは決して悲しみではなく、ただ「今日が終わる」ということの受け入れのような、やわらかい感情だった。夕陽はただ沈むだけではない。人々の影を長くし、時間の...オレンジ色の瞬間──クタビーチにて

  • 空を渡る4羽の影──サヌール湾にて 文字数:1416

    空を渡る4羽の影──サヌール湾にてグンカンドリの名を初めて知ったとき、その響きがどこか軍艦のようでおかしかった。けれどその名は、彼らの飛ぶ姿を一度でも見れば、すぐに腑に落ちる。鋭くのびた翼、空気を切るような軌道、そしてどこか誇り高いような孤高さ。あれはたしかに、空の艦隊だった。以前に見たのは1羽だった。朝の静かな時間に、ふらりと現れて、しばらく旋回して、また去っていった。それだけの出来事が、なぜか強く印象に残っていた。けれど昨日は違った。なんと4羽が、連れ立って現れたのだ。風を測るように、空をなぞるように、彼らは長くサヌール湾を回遊していた。ときに間隔を広げ、ときに重なるようにして、まるで風の譜面を読むように空を描いていた。ただそれだけのことが、一日の記憶の中心になった。大きな鳥が、悠々と飛ぶ姿には、人の...空を渡る4羽の影──サヌール湾にて文字数:1416

  • 何も起こらない風景が好きだ

    何も起こらない風景が好きだこの写真を見返すたび、なぜだか心がほどけていく。地味で、色もくすんでいて、まるで湿った午前中の記憶のようだ。それなのに、何かがひっそりとここに宿っている。蓮の花が一輪だけ、迷いなく咲いている。ほかの花はまだ蕾か、あるいは終わったあとのようで、水面には静けさが満ちている。風もなく、音もない。背景のヤシの森は、視線を受け止めるのではなく、こちらの気配に気づかないまま、存在している。そんな他人のような無関心が、かえってこちらを安らかにする。この写真には「出来事」が写っていない。でもそれが、今の自分にとってはありがたい。何も起こらない風景は、心にとって、何かを整えるための静かな部屋なのだ。必要以上に語らない風景。何も起こらない風景が好きだ

  • バリで決まってるラン

    バリで決まってるランバリ島の庭先には、ときおり妙に「決まっている」花がある。このランもそのひとつだ。細い茎が、まるで意志をもって空間を選び取るように伸び、その先に、いくつもの花が軽やかに揺れている。色は派手すぎず、構えもせず、ただ自然に「ここに咲くべきだった」という顔で佇んでいる。決まっている、と思う。いや、決まってしまっている。周囲の木々や風の流れ、光のかすかなにじみ──すべてのバランスの中に、この花は「置かれている」のではなく「登場している」のだ。こういうランは、なにかを語るわけではない。目立とうともしない。ただその場の調和に寄り添いながら、見られることを知っている。ランは、飾られるときよりも、こうして自然に「決まっている」瞬間がいちばん美しいのかもしれない。バリには、そのことを静かに教えてくれる風景...バリで決まってるラン

  • 白い鳥の沈黙──バリ島にて、ジャラッ・プティと出会う 文字数:1841

    白い鳥の沈黙──バリ島にて、ジャラッ・プティと出会うその鳥を初めて見たのは、ある静かな午後だった。バリ島の奥深く、苔むした囲いのなかに彼はいた。全身が白い。目のまわりと尾の先だけ、青く染まっていた。あまりに静かで、あまりに小さく、あまりに美しかった。私はしばらく、その場から動けなかった。ジャラッ・プティ。現地ではそう呼ばれているらしい。正式にはカンムリ・シロムク(BaliStarling)。バリ島にしか生息しない、世界で最も希少な鳥のひとつ。目の縁にだけ青をたたえたその姿は、まるで「見ることを許された精霊」のようだった。決して大声で鳴かず、ただそこに“在る”ということだけで、風景に意味を加えていた。鳥を見ているはずなのに、私は「静けさ」を見ていた。20センチほどの身体は、まるでこの島が長い時間をかけて育ん...白い鳥の沈黙──バリ島にて、ジャラッ・プティと出会う文字数:1841

  • モーツァルトの朝──8月11日、6時20分 文字数:1078

    モーツァルトの朝──8月11日、6時20分夜の帳がほどけていく。空に、最初の一筆が差し込まれる。淡く、ためらいがちに、けれど確かな意志で。この朝の空には、音がある。聴こえてくるのは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲。たとえば第3番、第5番──そのどれでもよい。音は風に乗って、雲の色をすべらせていく。ピンクの旋律が、青の余韻の上を優しく舞う。木々は低音を響かせる通奏低音。空は独奏者。そのすべてがひとつの協奏になって、まだ誰も目覚めぬ世界をやわらかく起こしていく。これは偶然に出会えた協奏曲の、視覚による演奏だった。モーツァルトの朝──8月11日、6時20分文字数:1078

  • ワーグナーが鳴った空

    ワーグナーが鳴った空その瞬間、空がひとつの劇場になった。サヌールの空に、クタの方向から黄金の光が溢れ、重くうねる雲がゆっくりと舞台を変えてゆく。そのすべての動きに、あのワーグナーの序曲がぴたりと重なった。旋律は空を切り裂き、金管の高まりが雲の縁を照らし出す。弦はさざめくように風をなぞり、打楽器は遠雷のように胸の奥を震わせる。音は鳴っていなかった。けれど、空がそれを演奏していた。この日、この刻、この劇場でしか起こりえない、完璧な演出だった。ワーグナーが鳴った空

  • 兎が見えた夜 文字数:2650

    兎が見えた夜月を撮ろうとすると、いつも真っ白になる。見たままには、どうしてもならない。目には黄色く、兎が見えるのに、カメラはそれを知らない顔で、ただの白い光球を映し出す。けれどその夜、少し雲が流れた。薄くかかる雲が、光をやわらげてくれた。そしてそこに、兎がいた。雲は、月を撮るためにそこにいたのかもしれない。あるいは、兎の姿を見せるためだけに生まれてきたのかもしれない。人がどうにかしようとしてもできなかったものが、ふとした偶然によって叶えられる。自然がときおり見せてくれる、ささやかな奇跡。今夜の写真には、兎がいる。それだけで、満たされた気がする。兎が見えた夜文字数:2650

  • 「12月の花」から火焔樹へ──名前のなかの記憶 文字数:1498

    「12月の花」から火焔樹へ──名前のなかの記憶バリでの滞在を始めたころ、赤く咲き誇る大樹を見上げて「これは何の花か」と尋ねた。バリ人は少し考えてから、穏やかに言った。「12月の花だよ」なんと詩的な名だろうと思った。その言葉には、植物の分類や種名ではなく、季節の体感としての名付けがある。私はそれ以来、この赤い花を「12月の花」と心の中で呼び続けてきた。けれど昨日、プールサイドで偶然その正体を知った。「これは火焔樹だよ」と。ああ、知っている。名前だけはずっと昔から記憶にあった。物語のなかで、あるいは詩の行間で、その名は何度も現れていた。ただ、それがこの花だったとは知らなかった。私の中で、「火焔樹」はずっと抽象のままだったのだ。12月の花。火焔樹。名が違えば、記憶のかたちも違う。ひとつの木にふたつの名前があり、...「12月の花」から火焔樹へ──名前のなかの記憶文字数:1498

  • 残照の輪郭 文字数:942

    残照の輪郭日が沈みきったあとの空には、まだ、色が残っている。昼と夜のあいだに滞留する光、それを人は「残照」と呼ぶけれど、その名のとおり、何かが“残っている”気がする。輪郭を失いはじめた空に、大木たちは静かに浮かびあがる。風も、音も、言葉もないが、その黒いシルエットは何かを伝えようとしている。それは記憶かもしれないし、まだ語られていない物語の入り口かもしれない。けれど、それに近づくには、ただ、黙って、見るしかない。残照の輪郭文字数:942

  • 夜にだけ咲く香り──セダップ・マラムと朝の気配 文字数:1420 写真未完

    夜にだけ咲く香り──セダップ・マラムと朝の気配早朝、まだ空に光が満ちきらぬうちに目覚めて窓を開ける。空気はひんやりとしていて、そこに何かが混じっている。言葉にしにくい、でもたしかに感じる香り。柔らかく、淡く、どこか懐かしいような薫香が漂ってくる。花の匂いにちがいない。けれど、どの花かはわからない。その香りは、朝日が昇りきる前にふと消えてしまう。光が空を染めるころには、もはや空気はただの空気に戻っている。もしかすると、香りそのものが夜の間だけ放たれているのかもしれない。あるいは、人が活動を始めるとき、わたしの感覚がその微細な変化に気づかなくなるのかもしれない。香りが消えるのではなく、わたしがもう感じられなくなるだけ――そんな気さえする。バリではときおり「セダップ・マラム」と呼ばれる白い花を買ってテーブルに挿...夜にだけ咲く香り──セダップ・マラムと朝の気配文字数:1420写真未完

  • 曇天のあとに笑う空──バリ、11月の帳尻 文字数:1175

    曇天のあとに笑う空──バリ、11月の帳尻2013年11月27日。バリの空は朝から重かった。湿気を含んだ雲が垂れこめ、まるで日本の梅雨が南国に迷い込んだような一日だった。外に出る気にもなれず、薄暗い部屋でぼんやりと時間が過ぎていく。バリにもこんな日があるのだ。晴れ渡る空ばかりがこの島の顔じゃない。けれど、ずっとこの空のまま終わるのか――と、ふと窓の外に目をやったとき、それは起こっていた。空がいきなり、機嫌を直した。分厚い雲の向こうから、火を灯したような夕焼けが現れた。オレンジとピンクが、灰色の空を内側から焦がしてゆく。沈む太陽の気まぐれに、空が思い出したように笑いだしたのだ。この夕焼けは、一日じゅう感じていた不快感を一瞬で打ち消すようにして、美しかった。まるで「今日も悪くなかっただろう?」と空が肩を叩いてく...曇天のあとに笑う空──バリ、11月の帳尻文字数:1175

  • 車の「後ろ姿」文字数:3127

    バリ島を旅していて、私が好きなのは車の「後ろ姿」だ。道路の脇に咲くプルメリアも、海に沈む夕陽も、それはそれで美しい。けれどバリの道路を面白くしているのは、走る車たちの「お尻」に貼られた言葉たちである。たとえばこの一台。観光バスの名は《Die9.Symphonie》。そう、あの「第九交響曲」である。ドイツ語のまま。もう堂々と、間違いようのないクラシック。「なぜバリ島の観光バスがベートーヴェン第九なのか?」と問うこと自体が野暮だろう。たぶん名付けた人は、かつて「歓喜の歌」に人生の何かを重ねたのだ。あるいは、高尚な響きにうっとりしていただけかもしれない。だがその背後に張られた「Mercedes-Benz」のエンブレムと、「adiputro」という車体メーカーのロゴが並ぶ姿は、どこかシュールで、神々の島における音...車の「後ろ姿」文字数:3127

  • 白昼の月──バリにて 文字数:717

    白昼の月──バリにて午後1時半。太陽は中天を過ぎ、空は青さを深めていた。その青のただなかに、気づかれまいとするかのように、月がひっそりと浮かんでいた。白雲に身を紛らせ、声もなく。日本で見たことのある月とは、何かがちがっていた。それは旅の空にだけあらわれる、記憶と呼べぬほどの感情の、輪郭だった。白昼の月──バリにて文字数:717

  • 一瞬の美しさ 文字数:601

    一瞬の美しさ日が沈むというより、空が静かに色を変えるだけの日だった。屋根と木々が黙って見守るなか、空は、誰にも気づかれないほど優しく染まっていく。時計の針とは別の速度で流れる時間のなかに、美しさは、ほんの一瞬だけとどまった。それに気づける人だけが、きっと何かを受け取っている。一瞬の美しさ文字数:601

  • アグンに沈む──父と息子の時間 文字数:719

    アグンに沈む──父と息子の時間言葉は交わされていなかった。ただ、三つの背中が並び、アグン山にゆっくりと視線を注いでいた。夕なずむ空の下で、山は沈黙のまま、彼らを包みこんでいた。父の背中を真似るように、小さな肩が海を見ていた。その瞬間、山は、何かを伝えていた気がする。遠く声にはならないものを、たしかに。アグンに沈む──父と息子の時間文字数:719

  • ロンボク遠く、秋のかけら──乾季の朝に 文字数:609

    ロンボク遠く、秋のかけら──乾季の朝に夜の名残をわずかに抱きながら、朝が静かに森の向こうから立ち上がる。バリにはないはずの秋の気配が、高い雲に滲んでいた。黄金色に染まる水平線の、その先に、ロンボクの島影がかすかに揺れている。それは、遠くの季節がほんのひととき差し込んだ光だったのかもしれない。ロンボク遠く、秋のかけら──乾季の朝に文字数:609

  • 沈んだあとに──クタの青の記憶 文字数:487

    沈んだあとに──クタの青の記憶沈む太陽を見逃した代わりに、そのあとに残る静かな青を見つけた。街の灯が海面に滲み、砂は空を映す鏡になる。日が沈んだあとの海こそ、言葉を持たない祈りのように美しい。沈んだあとに──クタの青の記憶文字数:487

  • 鳥の眠る椰子──バリ、夕刻の習わし 文字数:731

    鳥の眠る椰子──バリ、夕刻の習わし夕暮れが近づくと、椰子の影に鳥たちが波のように押し寄せる。群れは静かに増殖し、まるで空が黒く染まってゆくようだ。音に驚いて舞い上がり、またすぐに舞い戻る。同じ行動をするということ、それがこの小さき者たちの、夜を生きのびる術。やがて静寂が下りてくる。数千の羽音が消え、椰子の葉陰に眠りが根をおろす。鳥の眠る椰子──バリ、夕刻の習わし文字数:731

  • 偶然の羽音──サヌールの朝に 文字数:571

    偶然の羽音──サヌールの朝に目覚めとともに、窓辺に見知らぬ気配。鶯色の、森の奥から来たかのような鳥。透明なアクリルに気づかず、空を信じて羽ばたく。世間を知らぬその無垢さに、手のひらでそっと包んだ羽は、まだあたたかい。もう一羽、スズメが冷蔵庫の後ろから。こんな偶然が重なることもあるのか。一日が始まる前に、小さな命が、部屋を通り過ぎていった。偶然の羽音──サヌールの朝に文字数:571

  • 風の声と朝の輪郭 ──サヌール屋上にて 文字数:425

    風の声と朝の輪郭──サヌール屋上にて夜の温もりがまだ空に残るころ、屋上に出ると椰子の葉が風を孕んで揺れていた。その影はまるで海辺の祈りのように、静かに、けれど確かに空に書きつけられていた。朝焼けは誰のために始まるのか。まだ名もない一日が、輪郭だけを持ってそこにあった。風の声と朝の輪郭──サヌール屋上にて文字数:425

  • 水墨のバリ──ミンピの夕暮れに 文字数:771

    水墨のバリ──ミンピの夕暮れにバリといえば、陽の色が濃い島だと思い込んでいた。金色に灼けた砂、青さの際立つ空、緑の棚田を彩るカラフルな衣装の少女たち──。だが、このミンピ・リゾートで迎えた夕暮れは、そんな先入観をやさしくほどいてくれた。あたりには声がない。風も、鳥も、波音さえも遠慮がちで、ただ静けさが空から降ってくるようだった。水面に映る山の稜線は、滲んだ筆のあと。水墨画のように、濃淡だけで語ろうとする風景。色ではなく、気配で満たされている。その向こうに浮かぶ山影は、どこか遠い記憶を揺さぶる。日本の奥山に見た風景に似ているのかもしれないし、あるいはまだ見ぬ夢の中の風景なのかもしれない。山が山のまま、語らず、ただ在る。そこに詩が宿る。ミンピとは「夢」という意味だという。まさに、夢のなかに一歩踏み入れたような...水墨のバリ──ミンピの夕暮れに文字数:771

  • 月の川、サヌールにて 文字数:803

    月の川、サヌールにて満月の夜、静まりかえったサヌールの浜辺にひとすじの光が差し込む。月はすでに高く、木々の枝の間を縫うようにして、海面にその姿を映していた。金色の帯が波打ち際まで伸び、まるで天と地をつなぐ橋のようでもあり、あるいは遠く誰かが流した涙が、時をこえて水路となったようにも思える。ムーンリバー。あの歌の旋律が自然と心に浮かんでくる。「ふたりで渡ろう」とはいうが、今夜はひとりで眺めているこの光景に、なぜか満たされた静けさを感じる。風もない。鳥も眠っている。けれど、この光の道だけが、ゆっくりと揺れて、何かを運んできそうな気配をまとっている。木の幹越しに見る光は、現実よりもむしろ夢のようで、この世とあの世の境目がわからなくなる。バリの夜は、不思議とそういう感覚を呼び起こすことがある。音ではなく、匂いでも...月の川、サヌールにて文字数:803

  • 島へ運ばれる日常──サヌールの朝の積荷 文字数:1138

    島へ運ばれる日常──サヌールの朝の積荷波がまだ柔らかい光を受けてきらめく朝、私はホテルのテラスからその風景を眺めている。ここサヌールの浜辺には、護岸された遊歩道がのび、日中は地元の人々が商いをし、夜になると若者たちが語らいに訪れる。だが、最もこの道が息づくのは、朝。そこには都市の裏側とも言える営みがある。歩道の一角、ひっそりと階段が設けられた一画に、男たちが集まり始める。肩に担いだ荷、頭に載せた重そうな包み。彼らは、コンクリートと石が混じる足場をためらいなく降りていく。波がひざに達する頃、ようやく小型のジュクンにたどり着く。エンジン付きとはいえ、その構造は伝統的な木造で、両脇に張り出したアウトリガーが、まるでバリの海を支える両腕のように広がっている。今朝の荷は、スチール製の椅子。おそらくはレンボガン島での...島へ運ばれる日常──サヌールの朝の積荷文字数:1138

  • 彩色された風を縫う──バリの浜辺にて 文字数:1128

    彩色された風を縫う──バリの浜辺にてサヌールの浜辺で、ある朝、見慣れぬ風景に足が止まった。砂の上に広げられた巨大な布地。緑、黄、赤、青。まるで大地に置かれた虹のかけらのような原色が、静かに朝の日差しを受けて光っている。その周囲に、男たちが円陣を組むように座り込んでいる。皆、素足。指先には太い針と糸。重たそうな竹に、慎重に、しかし手慣れた様子で帆布を縫い留めていく。まるで海の風を捕まえるために、布地を神聖なものに仕立てているようにも見えた。それは、ジュクンの帆だった。バリの伝統的なアウトリガー船、ジュクン。波に揺れながらも力強く進むその船には、決まってこうした色彩の帆が掲げられている。原色の青と赤と黄。日本の海辺で見かける帆とはまるで違う。目に突き刺さるような強さを持ち、しかもバリの陽光と空と海の青に、驚く...彩色された風を縫う──バリの浜辺にて文字数:1128

  • オランウータンのまなざし 文字数:1316

    ライオンの咆哮とオランウータンのまなざし──バリ・サファリにてバリ島に長く滞在していると、観光客の目線から少し距離を置いた場所にも、もう一度足を運びたくなる。そんな折、家族の誕生日や訪問がきっかけとなり、私は三たびバリ・サファリを訪れた。ギャニャールの田園地帯を抜け、竹林の風をくぐり抜けると、そこは熱帯の草原に変貌していた。ジュクンの揺れる浜辺からわずか1時間足らずの距離に、ライオンの咆哮が響く。テラスからはシマウマ、ヌー、バッファロー、そして何より印象的だったのは犀の姿が見えた。想像していたよりもはるかに巨大で、アジア象と見紛うほどの質量をたたえている。その犀が、6頭のシマウマに囲まれ、あっけなく餌場を譲ってしまう場面に遭遇したとき、私は自然界の社会性というものを垣間見たような気がした。力の論理だけでは...オランウータンのまなざし文字数:1316

  • 雨季の音楽──バリの庭にて 文字数:1127

    雨季の音楽──バリの庭にて雨季がやってきた。驟雨のようにして始まり、驟雨のようにして終わる、まるで気まぐれな詩人が一節ごとに筆を置くような雨だ。この島に長く暮らすようになってから、私はバリの雨の気配を少しずつ読めるようになったつもりでいたが、ある日、近くの友人を訪ねると「猛烈な雨で動けない」と言われて面喰った。ここからわずか数キロしか離れていないのに、空は晴れていたのだ。局地雨という言葉を体で知ることになる。午後から雷鳴をともなう豪雨が来て、夕方には雲が切れ、夜には月が昇る。ある夜などは満月のまばゆい光の中を、風に追われた雲が駆け抜けていた。そんな夜の散歩は、まるで映画のワンシーンのように静謐で、濡れた地面が月光を吸い込み、吐き出す呼吸音まで聞こえてきそうだった。朝、目が覚めると鳥の声にまじって、落雷の残...雨季の音楽──バリの庭にて文字数:1127

  • 時間を瞬間冷凍したかのような、クタの夕暮れ 文字数:583

    まるで時間を瞬間冷凍したかのような、クタの夕暮れ。赤く低く沈む太陽は、まるで地平線のすぐ上に指先で置いたビー玉のように、微動だにせず、波の向こうでじっとこちらを見ている。海に浮かぶ人影はまるでシルエットの彫像。水面は静かに、しかし確かに、光を抱いて揺れている。クタの夕暮れは、時間そのものの輪郭を滲ませる。喧騒も、予定も、言葉も、意味も──すべてはこの一瞬のなかで薄まっていく。時間よとまれ、と願うのではなく、「もう止まっているのだ」と感じる瞬間がここにはある。熱帯の空は、ただ静かに色を失いながら、今日という一日を、美しい余韻に変えていく。それはたった数分の出来事。だがそれを目にした者の中では、永遠と呼ぶにふさわしい記憶となって、深く、静かに、灯をともしてくれる。クタのサンセットとは、誰の心にも一つ、「とまっ...時間を瞬間冷凍したかのような、クタの夕暮れ文字数:583

  • ラタンで編まれたオートバイ 文字数:3880

    ラタンで編まれたオートバイ──それはバリの職人の、遊び心と技巧の結晶だ。この街角の一隅に、誰にも見せびらかすことなく、静かに置かれている。あたかも「疾走しないこと」を美徳とするかのように、ラタンのバイクはどこにも行かず、ただこの場所で時を受け止めている。乾いた風、歩道の赤いレンガ、軒先の木漏れ日がその編み目に影を落とす。編まれたハンドル、ペダル、サドル、タイヤ──そのすべてが優しさでできている。金属の冷たさではなく、籐の温もりがここにはある。走らないことを前提にしたバイク。けれど、かつてどこかで見たハーレーのようでもあり、どこか夢のなかの乗り物のようでもある。バリという場所は、機能ではなく「物語」に価値があるということを、こうした何気ない品々で教えてくれる。きっとこのバイクにも名前がある。名前のないものは...ラタンで編まれたオートバイ文字数:3880

  • 雨期あけの朝──バリ、アメッドにて 文字数:2038

    雨期あけの朝──バリ、アメッドにて満月を二日すぎた月が、まだ夜をしっかりと照らしていた。青黒く澄んだ空に、星がこぼれるように瞬いている。この光の粒がいまも生きていて、誰かの夢のなかを漂っているのかもしれないと思うと、空が夜をやめる前の、そのわずかな時間が愛おしくてならなかった。わたしはこの浜で夜明けを迎えるのが好きだった。風はほとんどなく、ジュクン(漁船)の帆が静かにたたまれている。月の反射が海面に金と銀のあわい線を描き、海岸の砂には月明かりが落とした椰子の影が長く伸びている。やがて、はじめの一隻のジュクンが、ぎぎ、と音を立てながら砂をすべる。肩に網を担いだ漁師が二人、無言で船を押している。空がわずかに明るくなるころ、浜に並んでいたジュクンたちが、一斉に海へと漕ぎ出してゆく──音もなく、それはまるで、遠い...雨期あけの朝──バリ、アメッドにて文字数:2038

  • 大型トラックの横転 文字数:564

    これはかなり衝撃的な光景だ。スミニャックの道路で見かけたこのISUZUの大型トラックの横転は、ただの交通事故というより、構造的・運転的な問題の縮図のように見える。写真から判断すると、荷台から溢れた砂が舗道に散らばっており、おそらく相当量を積んでいたのだろう。重心が高くなる原因として、砂の偏った積載や、過剰な積み込みが考えられる。さらにこのような幹線道路のカーブで急ブレーキあるいは急ハンドルを切れば、遠心力で車体がバランスを失い、このような横転に至ってしまう。またバリ島の一部地域では、交通量の割に道路整備が十分でない場所もあり、段差や傾斜も事故の引き金になりうる。この写真にはもう一つ印象的なものがある。事故車のすぐ横を、まるで何事もなかったかのように通り過ぎる青い車。バリの混沌とした日常のなかに、不意に立ち...大型トラックの横転文字数:564

  • 初めて素潜りで水中散歩 文字数:477

    メンジャンガンの青い海に、ひとりの小さな探検者が潜った。5歳2か月の娘が、初めて素潜りで水中散歩をした日。赤いゴーグルの奥にきらめく眼差しは、魚たちと同じ目線でこの海を眺めていた。波のリズムに合わせて息を整え、水面と水中のあわいを行き来する姿は、小さな生命の逞しさそのものだ。スノーケルを嫌がったのも、この子らしい。道具に頼らず、自分の呼吸と体だけで海と対話していた。1時間。彼女はその間、バリ島のメンジャンガンという自然の楽園を、まるで自分の庭のように歩いた。珊瑚の影に魚が隠れ、陽の光が水面で踊る。その一つひとつを身体いっぱいに受け止めていた。大人になっても覚えているだろうか。あの時の波の音、身体を包んだ透明な水の肌ざわり。そして海の中で、確かに「世界とひとつになった」あの感覚を。初めて素潜りで水中散歩文字数:477

  • 心が名残惜しい 文字数:372

    「まもなく日が沈む」バリの夕日は、海と空とをまるごと溶かしてしまうようだ。波の合間に浮かぶ幾つかの影。バリっ子たちは、最後の一本を逃すまいと海と戯れている。黄金色の光が波間に揺れ、サーフボードの軌跡をきらりと照らす。まるで光そのものを滑っているように。夕暮れの海は言葉を必要としない。太陽が沈むというただそれだけの出来事が、どうしてこれほど胸を打つのか。海を背にして帰るには、まだ心が名残惜しい。ひとつの波が砕け、また次の波が生まれる。その循環のなかに、彼らの自由と祈りがある。心が名残惜しい文字数:372

  • 「波としぶき」文字数:374

    「波としぶき」バリ島の海はいつだって本気だ。ただの観光地の笑顔ではなく、ときに牙をむくその波が、見ているこちらの胸をざわつかせる。遠く水平線を背負って立ち上がる波の壁。その頂から立ちのぼる細いしぶきは、風のかたちを見せてくれる。波の中にぽつんと浮かぶサーファーの頭。人間の小ささがいっそう際立つ。それでも彼は逃げない。ただ波を待ち、身をゆだね、立とうとしている。あの波のうねりのなかで一瞬だけ世界とつながる感覚。バリの海は、それをくれる。見る者にも、いつか飛び込めとささやきながら。「波としぶき」文字数:374

  • バリ島の洗練PAUL ROPP 文字数:424

    レギャンにあった懐かしいブランドショップの看板──PAULROPP。レギャン通りを歩いていたころ、鮮やかなファブリックと独特の色彩感覚に誘われてこの店の前で何度も足を止めた。バリ島の土と空の色に調和しながらも、どこか都会的な洗練をまとっていたこのブランド。ヨーロッパでもアジアでもない、ここにしかない異国のエレガンスがあった。ガラス越しに見えるマネキンの衣装や、陽の光に透けるシルクのスカーフ、壁面のグラフィック──どれもが旅人の目を引き、そして記憶に残った。今もこの看板の女性は、レギャンのどこかでふと振り返るようにして立っている気がする。旅が終わっても、こうして写真一枚から時間の扉は静かに開く。バリ島の洗練PAULROPP文字数:424

  • シルエットの先にサヌールの朝焼けが 文字数:464

    シルエットの先にサヌールの朝焼けが輝いている。ジュクンが海の静けさに身をゆだね、まだ夢の続きを見ているようだ。波音はほとんどなく、空と海とがわずかに色の違いだけで分かれているこの時間帯──夜の気配がまだ残る浜辺に、光がゆっくりと流れ込んでくる。漁に出る前の準備だろうか、それともすでに戻ってきたのか。船影のひとつひとつが生活の気配をまとって、黙って佇んでいる。バリの朝は、騒がしくもあり、静かでもある。目を凝らせば、海の向こうから何かがやってくるような気がするのだ──それは風か、光か、あるいは記憶か。旅とは、こういう一瞬に出会うためにあるのだと思う。サヌールの夜明けは、今日も美しく、どこか懐かしい。シルエットの先にサヌールの朝焼けが文字数:464

  • 雲の厚みの中に眠る記憶 文字数:732

    この一枚の風景には、神が筆をふるったかのような劇的な構図がある。水平線の彼方、ぽっかりと浮かぶ巨大な積雲。しかもその雲は、まるで大地から湧き上がったかのように、海面にその姿をくっきりと映している。あたりの雲が灰色に染まりかけるなか、この雲だけが光を湛え、静かに、しかし確固としてそこにある。バリの空と海が、こんなにも明確な輪郭をもって交わる瞬間を、これまで見逃していたのだろうか。長く滞在していたからこそ、こうした風景には出会わないと錯覚していた。だが自然は、常に“初めて”を用意してくれる。思いがけない天気のいたずらが、こんなふうに心の深い場所に触れる。写真を眺めていると、目に見える光景の奥に、何か語りかけてくるものがある気がする。雲の厚みの中に眠る記憶。海の静けさのなかに浮かぶ予兆。誰かの歩いたあとの足跡も...雲の厚みの中に眠る記憶文字数:732

  • カシューナッツは漆科 文字数:889

    ビラの庭先にひっそりと実るカシューナッツの樹──その姿を初めて目にしたとき、人は少なからず驚く。なじみ深いナッツのあの形が、こうも奇妙な果実の上にちょこんと乗っているとは、誰が想像しただろう。下の膨らんだ果肉部分は、ピーマンのような形をしており、朱色に熟れるにつれて思わず手を伸ばしたくなる。香りもほんのり甘く、熟したトロピカルフルーツのようで、その芳香は夜明けの庭全体を満たしていた。だがこの誘惑には裏がある。そう──カシューナッツは漆科、つまり人によっては「かぶれ」を引き起こす植物なのだ。手で触れたときは何事もなかったが、一階の子どもが顔を真っ赤に腫らし、かゆみに悶えていたのを見て、あれはやはり「メンテ(インドネシア語でカシューナッツ)」のしわざだと気づいた。鼻を近づけたことすら、今思えば危うかったかもし...カシューナッツは漆科文字数:889

  • ビリンバウを抱えた女 文字数:822

    浜辺に立ち尽くすように、弓を抱えた女がいた。最初は弓かと思った。なにやら危なっかしい、と近くの子ども連れの目が心なしか警戒していた。だが弦を引き絞る様子はなく、彼女はただ、弓のような道具を静かにはじき、かすかなリズムを刻みはじめる。丸い石のようなものを指先で当てては離し、その音に合わせて、女の口から歌がこぼれた。ビリンバウ──ブラジルの民族楽器だという。カポエイラの伴奏に使われるあれだ。だが彼女が弾くビリンバウは、跳ねるような音ではなく、遠い波音のように滲んでいる。サヌールの海岸、暑くもなく寒くもなく、ただ時がゆるやかに過ぎていく午後の浜辺に、まるで夢のように重なるその旋律。どこかで聴いたような、しかしどこでもない土地の記憶を呼び起こすような切なさがあった。そばにいた男が、タンブリンで淡く拍子を添える。二...ビリンバウを抱えた女文字数:822

  • チェス盤の上で交差する視線 文字数:527

    この一枚には、バリの海風とともに流れる「もう一つの時間」が写っている。チェス盤の上で交差する視線。言葉は交わされずとも、白と黒の駒がすべてを語る。グレイと赤のフーディに身を包んだふたりが、波音のBGMを背に、時の流れを一時的にせき止めている。これは単なる遊びではない。日々の忙しさや喧騒から解き放たれた大人たちが、自らのペースで知恵を競う、静かな贅沢だ。隣のサマーベッドに脱ぎ捨てられたタオルが、そこにあったであろう日中の喧騒を物語る。今はもう、沈みかけた太陽が海を薄紅に染め、風が少し肌寒さを運ぶ頃。観光でも日常でもない、ただの「夕暮れ」の中に宿る精神の静寂。チェスは、その象徴だ。ここにきて、盤面を眺めるふたりの背中が、人生そのもののようにも見えてくる。──こいつ、いい手指しやがったな。どうだ、まいったか──...チェス盤の上で交差する視線文字数:527

  • 浜に立つカタパンの木々 文字数:623

    浜に立つカタパンの木々が、ただの木陰をつくる存在でないことを、この話が教えてくれる。かつて、ここサヌールの浜辺に2本のカタパンの樹があった。昼は人々に木陰を、夜はそっと人の姿になって寄り添う恋人たち。誰にも知られず、風のなかで肩を寄せ合い、朝が来るとまた黙って木に戻った。だがある日、激しい嵐が海を引き裂き、2本のカタパンの樹は倒され、そのまま波にさらわれてしまう。浜はむき出しの白い砂だけとなり、サヌールの人々は強い陽射しのなか、あの木陰のぬくもりを思い出すばかりだった。そして50年が過ぎ、もう誰もあの恋人たちのことを語らなくなった頃、再び嵐がやってきた。夜が明けると、波打ち際には2体の石像が寄せられていた。誰が彫ったのでもなく、誰が置いたのでもない。人々はそれが、あのカタパンの化身だと悟る。静かに浜に安置...浜に立つカタパンの木々文字数:623

  • ビーチでチェス

    こいつ、いい手指しやがったなどうだまいったか赤とグレイのジャージを着込んだ二人がビーチの時間を止めている少し涼しくなった夕暮れ時のサヌール35075377684_3dbd701f5d_o-(1).jpgビーチでチェス

  • カツオ節もどき

    これは見事な“カツオ節もどき”。バリでここまでの仕上がりを見せるとは、まさに執念の逸品である。炭火でじっくり低温乾燥させたその手間に、ただの保存食以上の意味が宿る。バリの熱と湿気と戦いながら、カビ付けもせず、まっすぐな陽と火で仕上げる。湿度と時間の読みが命で、もはや気象と対話しながらの創作だ。日本では当たり前のカツオ節も、異国の地ではその一歩一歩が試行錯誤となる。しかもこの“もどき”は、もはや「もどき」ではない。バリの太陽と空気を吸い込み、土地の個性と融合した新しい旨味の片鱗を湛えている。そしてこの光景は、単なる食材を越えた記憶の風景でもある。炭火の香りと、午後の斜陽、編み籠の影。そのすべてが「手でつくる」「待つ」という、どこか懐かしい時間の尊さを思い出させてくれる。この節から取った出汁を飲むとき、あなた...カツオ節もどき

  • スバックは国の制度よりも古く 文字数:2195

    平地に広がるこの田は、山間の険しさを避けて、穏やかに人の営みを受け入れている。水は静かに流れ、等しく分け与えられ、その秩序の根にあるのがスバックと呼ばれる水利組合である。バリの村落制度であるバンジャールとは別に、稲作という命の循環を支えるために結成されたこのスバックは、国家の制度よりも古く、より生活に根ざした自治の形を今も保っている。水は高きから低きへ流れる。その自然の理に、祈りと共に生きてきた人々が調和を与えた。誰にどれだけの水が必要か、いつ田に入れるべきか、それらを争いでなく話し合いで決める仕組み。人間の知恵と信頼が土台となるその姿は、現代社会が忘れかけた「分かち合い」のかたちでもある。向こうに小さく見える茅葺きの棟──ジナン──には稲の女神デウィ・スリが祀られている。稲の成長を見守るためにここにとど...スバックは国の制度よりも古く文字数:2195

  • 棚田の風景 文字数:599

    この棚田の風景には、人の営みと信仰が静かに編み込まれている。緑の層が折り重なるように連なるその姿は、ただの景観ではない。水を引く知恵、土を掘る労力、祈りを込める手、すべてが織りなしてきた時間の記憶である。バリの棚田を訪れると、そこに必ずといっていいほど小さな祠がある。それは稲の女神デウィ・スリに捧げられたもので、豊穣と平安を願うバリの人々のまなざしがそこにある。日本の農村にも神はいた。名もなき山の祠や、田の神送りの祭り。その記憶と共鳴するものが、バリの棚田にもある。だから、故郷に棚田がなかったとしても、この風景は懐かしく、胸の奥に届いてくる。等高線のように刻まれた棚田のライン。人が自然を傷つけずに曲線を描くことを知っていた証である。そこには土と水と太陽、そして人の「間」があった。文明ではなく、文化と呼ぶべ...棚田の風景文字数:599

  • あの世と現世の交換のドラマ 文字数:1780

    「この荘厳さはあの世と現世の交換のドラマと言ってみたい瞬間だ。」その言葉にふさわしく、この一枚の写真には、ただの夕焼けでは捉えきれない深さがある。たなびく雲の群れはまるで現世の意志のように形を変え、沈みゆく光が天と地の境をゆっくりと溶かしていく。あの世と呼ばれる彼方が、ほんの少しだけ現れてはまた引いていくような、そのわずかな綻びの時間。すべての色がいったん解かれて、無音のやりとりが行われている。旅人がこの空の下に立つなら、帰る場所が二つあることに気づくだろう。ひとつはこの地上の家、もうひとつは、遠く呼びかけてくるあの光の彼方。それがバリの黄昏というものだ──生と死の、語られぬ交差点。あの世と現世の交換のドラマ文字数:1780

  • バリの朝は、静かに始まる 文字数:2324

    バリの朝は、静かに始まるこの朝焼けを、わたしは滞在していたヴィラのテラスから毎朝眺めていた。まだ薄闇の残る空が、ゆっくりと金色にほどけてゆく。椰子の葉が風もなくたわむれて、鳥の声だけが先に目を覚ます。そんな光の変化を見逃したくなくて、自然と早起きになった。時計を見ればまだ6時にもなっていない。日本にいるときには考えられなかった時間に、体が素直に目覚めるのは、この朝の美しさが確かにここにあるからだった。日本で「早起きは三文の徳」と言うけれど、バリの朝は、その徳がはっきりと目に見える形で現れる。木々の輪郭、雲の切れ目、そして海から昇る光の粒子たち。あらゆるものが、新しい一日の始まりを祝っているようだった。この風景を思い出すと、バリでの生活は夢ではなく、たしかに「わたしの時間」であったのだと感じる。朝のひととき...バリの朝は、静かに始まる文字数:2324

  • アグン山を望むその朝焼け 文字数:1926

    バリの朝が持つ独特の静けさと、言葉にできない懐かしさが滲んでいる。アグン山を望むその朝焼けは、まるで“世界が新しく生まれる直前”のような時間の色をしていた。神の息吹が山頂に触れ、空に朱を溶かし込む──そんな瞬間を目の前にして、わたしはただ静かに立ち尽くしていた。人はなぜ風景に懐かしさを感じるのだろうか。それは、景色が時間ではなく、感情の奥の方に触れてくるからなのかもしれない。バリの夜明けは、そうした「記憶のふるさと」をほんのひととき、見せてくれる。アグン山を望むその朝焼け文字数:1926

  • バリの聖なる時間 文字数:497

    これは一見どこか場所がわからない1枚の写真、ヨーロッパ、モロッコ?、ターナーの描く絵画風に霞んだこの写真よくみるとヤシの木が数本見えるのでバリだとわかる。昇りゆく朝日に樹々のシルエットが浮かび上がり徐々に陰影と虹彩の落差を深めていく、時刻は6時すぎだろう。一番鶏が啼いた後に樹に宿った鳥が目覚めて鳴き始める、犬が遠くで吠えている、クタやサヌールなら定刻のアザーンが聞こえる頃だがこの地はバリの東部の村でヒンドゥの神々を驚かす音は聞こえない。ゆっくりとゆっくりとこの豪華な朝の饗宴が始まる、素朴にして絢爛、天然にして豪華なこのひととき、すでに我々はこうした聖なる時間をバケーションや旅などと金でしか得られなくなっている事を不思議とも思わなくなって久しいが、バリの人々は朝飯前にこうしたひとときに接している。バリの聖なる時間文字数:497

  • 吾に向かいて光る星 〜バリの夜にて〜 文字数:3096

    吾に向かいて光る星〜バリの夜にて〜バリの乾期がようやく戻ってきた。一日じゅう空は晴れわたり、海岸を歩いても、プールで泳いでも、身体がこの島の空気に馴染んでいくのがわかる。湿気が引き、あらゆるものの輪郭がくっきりと立ち上がって見えるのだ。夕方、家族でプールに入った。遠くにジュクンの帆がゆるく揺れていて、空には三日月が鋭く、冴え冴えと浮かんでいた。ベビは空を見上げ、「おちゅきしゃま、おちゅきしゃま」と何度も指さす。よほど嬉しいらしい。まだ言葉をつなげられない年齢なのに、月だけは誰に教わったでもなく、毎晩呼びかける。やがて空がゆっくりと藍に染まり、星がひとつ、またひとつと増えていく。そのときだった。不意にそのうちの一つが、まっすぐこちらを見ているように思えた。真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり――正...吾に向かいて光る星〜バリの夜にて〜文字数:3096

  • なぜイルカはジャンプするのか──ロヴィナの朝にて 文字数:1238 写真未完

    なぜイルカはジャンプするのか──ロヴィナの朝にてロヴィナの水平線がようやく白んでくるころ、波間を切って小舟が進む。その静けさを破るように、海面から弧を描いてイルカが跳ねる。長く、「イルカは遊び心でジャンプする」と思っていた。それはそれで詩的な解釈だし、バリの海に似合うとも思っていた。けれどある時、ある動画で知った。イルカのジャンプは、呼吸のためなのだと。イルカは哺乳類。肺で呼吸する。高速で泳ぐとき、水面に浮上して息継ぎするにはどうしても「減速」しなくてはならない。しかし、ジャンプならば減速せずに呼吸できる。空中で一気に息を吸い、着水と同時にまた加速。無駄のない、そして優雅な生命の合理。「ジャンプ=遊び」ではなく「ジャンプ=生存の技術」と知ったとき、私は、一本の線が引かれたような気がした。自然の“芸術”は、...なぜイルカはジャンプするのか──ロヴィナの朝にて文字数:1238写真未完

  • バリビーチの黄昏にて 文字数:2507

    バリビーチの黄昏にてこの時間帯のバリのビーチには、特別な色が差す。金とも銀ともつかぬ、湿った光。まるで波が空を吸い込みながら、「今日一日、ありがとう」とでも言っているかのような静けさが広がる。ウエイトレスの手元には、飲み残されたグラス。それすら風景の一部になる。観光客ではない日常の気配が、ここにはある。奥で話すふたりのシルエットは、もはや言葉を要さない関係なのか。または、言葉を探している旅の途中かもしれない。手前の木製の椅子と籐のプレースマットが、その空間に“生活の重み”を添えてくれる。パラソルは、空に向かって祈るようにも見える。ジュクンが海を離れて戻る姿は、太陽の勤務終了に伴う小舟たちのタイムカードのよう。バリビーチの黄昏にて文字数:2507

  • クタ・スミニャックの光と記憶

    クタ・スミニャックの光と記憶10数年前、クタの夜をさまよっていてふと足を止めたショーウィンドー。そのときは何気なくシャッターを切っただけだった。けれどいま見返すと、そこには“バリそのもの”が鮮やかに封じ込められている。熱帯の夜が生む色。光沢と反射、そして玉虫色の空気。グリーンのトルソーは生命の塊のようにうねり、マネキンの鏡面は誰かの記憶を弾き返す。ビー玉のようなランプが呼吸し、アースカラーの編み細工が、光ではなく“時間”を織り込んでいるようにすら見える。バリの色は派手ではない。いや、たしかに派手なのだが、「下品にならないギリギリの線」で踏みとどまっている。その微妙なセンス。まるで湿った夜の空気に似ている。どこかエジプトの土産屋に似た装飾、中国の雑貨にも似た人形、しかしどれも“バリの中にあるバリ”に還元され...クタ・スミニャックの光と記憶

  • サヌールの午後に帰る 文字数:1094

    サヌールの午後に帰るこのビーチは、特別なものではなかった。宿から歩いて数分、夕飯までの手持ち無沙汰を埋める場所。夕方になると、近所の家から子どもたちが出てきて、お母さんの手に引かれ、あるいは一人で水辺を歩いた。いま改めて見ると、その何気ない風景がこんなにもいとおしく思える。親子連れが笑い、波のない浅瀬にただ浮かび、シャツを着たまま水に入る少年がいて、ふと立ち止まるカップルがいる。誰もがそこにいた。それぞれのかたちで、幸福の一瞬に触れていた。何も持たず、何も目指さず、ただ海の音を聞いていた。GDPなんて関係ない。数字じゃ測れない豊かさが、ここには確かにあった。――そしていま、その風景を恋しく思う自身が、かつてこのビーチの一部だった。サヌールの午後に帰る文字数:1094

  • サヌールの水は、記憶のかけらのように 文字数:1132

    サヌールの水は、記憶のかけらのようにあの年の8月、サヌールの朝は、とびきり静かだった。潮が引いて、裸足で歩いた波打ち際。海水は信じられないほど澄んでいて、砂の一粒一粒が光を抱き、踊っていた。まるで、時間までも透けて見えるようだった。娘はしゃがみ込んで、小さな手ですくった波と遊んでいた。「波って持てないね」ふいにそう言って笑った顔を、今も忘れられない。波は持てない。けれど、その言葉だけが、胸に残っている。水の中に差し入れた足の感触。きらめく砂。こぼれる笑い声。あれは、ただの記録ではない。今も、記憶のなかでいちばん澄んだ水のかたちとして、あの朝のサヌールは心の底で揺れている。サヌールの水は、記憶のかけらのように文字数:1132

  • 落日を見届けて

    落日を見届けて海に落ちる夕陽を、ただ黙って見ていた。赤くなり、橙になり、やがて一筋の金に変わるその光を。露店の布が風にゆれ、椰子の影が少しずつ伸びる。子どもが泣き止み、大人たちの声もやわらかくなる。バリの夕暮れは、人の気持ちまで静めてしまうようだ。わたしはそれを「見届ける者」としてそこに立ち、陽が水平線の奥へ沈む瞬間に、心の中でひとつのページを閉じた。今日のことは、今日のまま、明日には持ち越さない。そんな感覚を、バリの夕暮れは教えてくれる。落日を見届けて

  • いつでも撮れると思っていた──スミニャック、2009年の夕焼け 文字数:1021

    いつでも撮れると思っていた──スミニャック、2009年の夕焼けこの写真は、2009年にスミニャックで撮ったものだ。当時はこんな夕焼けなど、いくらでも見られると思っていた。鉄骨がむき出しになった町の小径も、照らされたパームの影も、ごくありふれた「日常」のひとこまだった。だから、たいして印象にも残らず、パソコンの片隅で埋もれていた。けれど、いまこうして見返してみると、あの夕焼けは、ただの夕焼けではなかったと思う。鉄骨の無骨さと、空の朱が妙に似合っていた。完成しないままの建物と、暮れなずむ光が溶け合っていた。あの一瞬、街も、空も、そして自分も、未完成のまま、美しかった。ありふれたものは、時が経つと、唯一のものになる。いつでも撮れると思っていた──スミニャック、2009年の夕焼け文字数:1021

  • 夜が明けきる一歩手前「みめいこんとん」文字数:2476

    坂村真民の「みめいこんとん」を読んだあとで見る、バリの夜明け。この写真は、まさにその詩の最後の行──ああわたしがいちにちのうちでいちばんいきがいをかんずるのはこのみめいこんとんのひとときである──そのままの情景である。夜が明けきる一歩手前、すべてが溶け合って輪郭がまだあいまいな時刻。天と地と、神と人と、喜びと悲しみがまだきちんと整理されていない「混沌」に、何か“ほんとう”が宿っているように感じられる。それは理屈ではなく、ただ目と肌でわかる何かだ。バリでの夜明けは、まさにこの「みめいこんとん」の時間を日々体験できる貴重な場だったのだと強く感じる。写真に写る光線は、雲を割って放たれる祝福のようでもあり、沈黙の祈りのようでもある。あのみめいこんとんのひとときである夜が明けきる一歩手前「みめいこんとん」文字数:2476

  • バリの祈り 文字数:492 写真未完

    バリの祈り朝起きて窓に昇る太陽に夜明けの光の残滓を見る。アグン山は輝く超新星のように爆発の予兆を秘め溶岩の筋を描いている。風に心を許したヤシはゆったりと揺れ葉は雛たちを抱く。海岸の石垣沿いにひっそりと目配せを交わす白い花が。古代の秘密のマントラを記した家寺で祈りをささげる女性が背筋を伸ばす。遠くの浅瀬に座礁した船を見て海底に沈む忘れられたアンカーの存在が。サヌールの海辺を歩いて愛する人と潮の香りをかごう。サヌールの海辺を歩いて愛する人と潮騒の音を聞こう。夕に屋上で夕焼けの残照を吸いこみ、家屋の下の暮らしを眺める。ヨタカの下でプールに浮かび、星と月の饗宴を無数の鳥と待つ。部屋の窓に灯と人影が映り、夕餉の匂いが運ばれてくる。屋上に出て暗闇の中で天の河銀河の輝きを眺める。人生の大切な一日が終わり再び朝日が昇るま...バリの祈り文字数:492写真未完

  • クタビーチの夕べ 文字数:825

    クタビーチの夕べ黄金にかがやく砂浜のなかに隕鉄で作られたダヤックの剣のようにわたしは柔らかい手を差し込んだ。海辺の最も子宮にちかいところに一連の顔が海の子どもたちのように輝く。クタビーチの夕べ文字数:825

  • サヌールに住んでいた 文字数:1276

    サヌールに住んでいた。海辺があり寺院がありたくさんの樹があった。市場には、浜で上がった魚が並び陸でとれた野菜や果物が並び豚や鶏に、牛肉がほのかな湯気を立てて並んだ。暑い陽の射す屋根の上にスカルノのホテルがあたりをはらう。クタからスミニャックスミニャックからサヌールへと空の雲に乗るように街々と人々の中でわたしは住んだ。着いたかと思えばまた別れを告げて乾季がきて雨季がやってくる中で何回も穂がやってくるなかサヌールに住んでいた。サヌールに住んでいた文字数:1276

  • レギャンビーチにて──娘の記憶 文字数:1329

    レギャンビーチにて──娘の記憶レギャンビーチの夕暮れ。遠くから娘が駆けてくる。手にはお気に入りのぬいぐるみ。波も光も、まるでこの一瞬のために調えられていたかのようだった。どこからともなく音楽が聞こえてくるような気がした。けれど、それは波の音だったかもしれないし、胸の奥で何かがふっと揺れたせいかもしれない。この子が今、何を考えているのか、いつかこの日のことを覚えているのか。それはわからない。だが、私のなかには確かに残る。この一歩一歩、走る音、砂に残った足跡。そして、振り返ればそこにいた自分の姿も。子育ての時間は、長くはない。けれど確かに、豊かで、深い。レギャンの浜辺にその一頁があったことを、私はずっと忘れない。レギャンビーチにて──娘の記憶文字数:1329

  • 枯葉と海と、サヌールにて 文字数:3382

    枯葉と海と、サヌールにてサヌールビーチを歩いていると、一枚の枯葉に目がとまった。鋭く細長く、艶を失いながらも、どこか火照ったような赤褐色を湛えていた。その葉は、時間を生き終えたのではなく、時間と共にまだそこにあった。珊瑚のかけらに囲まれ、乾いた砂のうえで、静かに横たわっていた。この日、ビーチの少し先では散骨の儀式が行われていた。白装束の人々が木陰に集まり、祈りの声が潮の音に混じって響いていた。香と花と、精霊の言葉が風に乗り、やがて海へと消えていく。バリでは死は終わりではない。魂は流れ、還るものとされる。海は、その“還り”を受け入れる場所であり、見送る場でもある。一枚の枯葉と、ひとつの儀式が、同じ海辺にあった。どちらも、終わりのようで、そうではなかった。命の通り道に置かれた、自然の印しのように思えた。このビ...枯葉と海と、サヌールにて文字数:3382

  • ヌサペニダの夜明け 文字数:1577

    ヌサペニダの夜明けヌサペニダの夜明けは、バリの中でも格別である──と、密かに自惚れている。いや、誰に言われたわけでもない。ただ、自分の目で何度も見て、何度も心がふるえたという事実が、それを支えている。まだ空が明けきらぬ時間。海辺には漁に出るジュクン(伝統漁船)が静かに並んでいる。その影が、まるで星の見えなくなった夜空の下で眠っているかのように、やわらかな海風に溶けている。空は東のほうから、藍、紫、赤、そして金へと層を変えていく。一瞬一瞬が違う表情を見せ、どこか演劇の幕がゆっくり上がっていくような気配がある。それを誰かと共有しようという気には、なぜかあまりならない。この夜明けは、できれば独りで受け取りたい類のものだ。水平線に一筋の光が走り、波の間から鳥の声が届く。海に浮かぶ小舟が、黒い切り絵のように一枚、光...ヌサペニダの夜明け文字数:1577

  • サヌールの影絵 文字数:1573

    サヌールの影絵サヌールビーチの夕暮れ。陽はすでに海面に溶けかかり、あたりは宵闇の気配を孕みはじめていた。その時間帯、光は直線ではなく、柔らかな膜のように風景にかかる。すべての輪郭がぼやけ、そして浮かび上がる。ふと見上げると、二人の人影がくっきりと海を背にして立っていた。一人は帽子をかぶった女性。もう一人はスマートフォンを手にしている男。その姿が、木とテーブルと並んで、まるで影絵のような構図をつくり出していた。影絵──ワヤン・クリット。バリの伝統的な影絵芝居である。透かし彫りの人形を光の前に立て、白い布に映して演じられる神話劇。だが今、演者も人形もいないこの夕暮れの浜辺で、偶然の瞬間が一幕の舞台になっていた。物語は語られない。だが確かに、そこには関係性が、気配が、余白があった。影は、光があるから生まれる。そ...サヌールの影絵文字数:1573

  • サヌールの面と、バリ人はどこから来たのか 文字数:1982

    サヌールの面と、バリ人はどこから来たのかサヌールの鋪道の一角に、不意にそれは置かれていた。ココナツの殻を彫った、民俗的な“面”。笑っているのか、嘆いているのか、わからない表情をしている。髪は繊維、目は裂け、口は大きく開かれている。だが、そこにただならぬ記憶の深さが宿っていた。それを見た瞬間、ふと「バリ人はどこから来たのか」と考えていた。民族のルーツについて、学術的にはオーストロネシア語族に属し、台湾や中国南部から船で南下してきた人々の末裔だと言われている。それは紀元前の大航海。波と風を読む航海術が、彼らの血に刻まれている。しかし、それだけでは語り尽くせない“何か”がある。この面のように、笑いと恐れが重なり合った表情の中にある“記憶”のようなもの。それは神話であり、演劇であり、あるいは日常に溶けた儀礼である...サヌールの面と、バリ人はどこから来たのか文字数:1982

  • サヌールの集会所で、空をつくる 文字数:3043

    サヌールの集会所で、空をつくるサヌールの村の集会所、バンジャールに足を踏み入れると、床いっぱいに赤い帆布と竹骨が広がっていた。巨大な凧である。まるで船か、舞台装置のような迫力だった。これは、空へと浮かぶために造られている。軽やかな遊びの道具ではない。風に挑み、空を支配し、村の名をかけて競い合う、誇りと魂の結晶である。このサイズである。上げるには風の読み、腕の力、そしてチームワークが要る。時には命懸けの真剣勝負となる。実際、凧が落ちて事故になることもある。それでも彼らはやめない。空に何かを託すという行為は、単なる遊びでは済まされない“理由”があるのだ。骨組みを担っていた男たちが、午後の陽を浴びながら黙々と作業をしていた。語らずとも、そこに「技」と「伝統」が流れていた。一瞬、風が吹き抜けた。竹の骨がわずかに鳴...サヌールの集会所で、空をつくる文字数:3043

  • バリ人のユーモアはこんなところに見て取れる 文字数:1668

    バリ人のユーモアはこんなところに見て取れる朝の通りを歩いていたら、いきなり目の前に舌を出した魔物が現れた。赤い顔にぎょろっとした目。大きく開いた口。その正体は、三輪の乗り物、トゥクトゥクだった。これはもう完全にジョークである。しかも、“見た者を一発で笑わせる”という一点において、見事に成功している。仏頂面で歩いていた観光客の顔が、これを見た瞬間にほころぶ。それこそが、バリ的ユーモアの真骨頂だ。この手の顔は、寺の門前や祭礼の仮面にもしばしば登場する。神と悪魔の区別がはっきりしないのもバリの特徴だが、それをこんなふうに交通手段にまで応用してしまうあたり、この島の人々はほんとうに遊び心がある。宗教、伝統、笑い、デザイン──すべてが「日常」に溶け込んでいる。バリの人々はそれを特別だとは思っていない。だが、私たち外...バリ人のユーモアはこんなところに見て取れる文字数:1668

  • ジンバランの夕暮れ 文字数:1481

    ジンバランの夕暮れジンバランの夕暮れが、見事だった。燃えるような朱が、海と空のあいだに滲み出し、まるで地球そのものが静かに赤らんでいるようだった。その中心に、一人の男が立っていた。波打ち際に膝まで入って、夕陽の方角をじっと見つめている。釣りをしているわけでもない。泳いでいるわけでもない。ただ、そこに立っていた。その背中は、語っているようで、語っていなかった。何かを手放そうとしているようで、受け取ろうとしているようでもある。沈黙のなかに、幾通りもの意味が浮かんでは沈んでいった。夕陽が海に沈みきる直前、その光はあたりのすべてを金色に染めた。濡れた砂が鏡のように空を映し、男の影がゆっくりと長くのびていく。ジンバランの海は、観光地の喧騒を少しだけ背中に置いた場所にある。だがこの景色の前では、すべてがひとつの“静寂...ジンバランの夕暮れ文字数:1481

  • いつ見てもいい庭 文字数:1421

    いつ見てもいい庭サヌールビーチに来るたびに、ここで立ち止まる。言葉にならないまま、それでも毎回、こう思う──「いつ見ても、いい庭だな」と。飾り立てるわけでもない。奇をてらうわけでもない。ただ、必要なものが、必要な場所に、必要なかたちである。芝生は均され、陽が斜めから差し、木々は風に身をゆだねている。奥には茅葺きの屋根、低い平屋のシルエット、光を受けるガラスの輪郭。すべてが呼吸を揃えているように見える。何もしていない庭だが、何もしていないということが、これほど難しいとは思わなかった。手を入れすぎてもだめ。放っておきすぎてもだめ。“自然のふりをした人の手”が、絶妙なところでとどまっている。旅人は立ち止まり、地元の人も通り過ぎる。しかしこの庭は、誰のものでもなく、誰の記憶にも少しずつ棲みついていく。今日もまた立...いつ見てもいい庭文字数:1421

  • 変わる、月の色 文字数:1153

    変わる、月の色馴染みのイカンバカールの店で、ただ何気なくイスにもたれて空を見上げた。すると、そこに月が出ていた。淡く、やわらかく、どこか不確かで──雲のせいか、空気の具合か。色が刻々と変わっていく。変わる。変わる。変わる。変わる──。その光は、決して劇的ではない。ほんのわずかずつ、にじむように、沈むように、そしていつの間にか、見慣れたいつもの月へと戻っていった。だが、その数分間、私は月の色に心を預けていた。シルエットが濃くなり、空が音を失い、時間だけが残る。今日は、ことさら美しかった。誰に言うでもなく、ただそう思った。変わる、月の色文字数:1153

  • 海鳥のいる日 文字数:1058

    海鳥のいる日今日は、海鳥とよく出会う。浜辺を歩いていると、ふと視界の隅に白いものが留まっているのが見えた。それは一羽のサギだった。剥き出しになった珊瑚礁の上で、じっと海を見ていた。この島に何度も来ているが、海鳥とこうしてゆっくり顔を合わせる日は少ない。いてもすぐに飛び去る。影のように現れて、風のように去っていくのが常だ。だが今日は違った。マストに長くとどまり、岩場に静かに佇み、まるで「ここにいるぞ」とでも言いたげに、しっかりと存在していた。風の具合か、潮の満ち引きか。あるいは私の気配が静かだったせいか。そういったすべての要素が、今日はちょうどよく合っていたのだろう。鳥が動かずにいてくれるとき、人間の方もなぜか動きたくなくなる。ただ眺めていたい、という気持ちが心の底から湧いてくる。鳥と出会うのではない。鳥の...海鳥のいる日文字数:1058

  • バリ人のユーモア傑作フレーズを二つ紹介しよう 文字数:1749

    バリ人のユーモア傑作フレーズを二つ紹介しよう旅先で出会う英語フレーズには、その土地の空気が詰まっている。特にバリ島では、看板やステッカーにふと笑わせられることがある。今回はその中でも、傑作とも言える二つをご紹介したい。ひとつ目は、「NOPAINNOGAIN」。言わずと知れた“痛みなくして得るものなし”の鉄板フレーズであるが、これが掲げられていたのはなんとタトゥーショップの店先。意味合いが直球すぎて潔い。「刺青を入れるのが怖い?痛い?──じゃあ、帰りな」そんな店主の声が聞こえてきそうな強気な構図である。ちなみに店名は「BIGROCK」。痛みもロックに乗せて、ということだろうか。ふたつ目は、ある車のフロントガラスに貼られていた**「NoMoneyNoHoney」**。これには思わず吹き出してしまった。“金がな...バリ人のユーモア傑作フレーズを二つ紹介しよう文字数:1749

  • 樹木を友人だと考えたことがありますか 文字数:1831

    樹木を友人だと考えたことがありますかサヌールビーチ沿いのホテルで、一本の樹に目を奪われた。幹の根元にはさりげなくお供え台が置かれていた。誰も強調することなく、自然の流れのように。そういうものを見るたびに思う──この島では、樹はただの植物ではなく、敬意を向けられる存在なのだと。私は、樹の「気根」によく魅入ってしまう。幹から垂れ下がる無数の根。まるで空中から地上へ、もう一度生まれようとしているかのようだ。そのたくましさに、生命の意思を感じる。高く伸びて、広く枝を張り、木陰をつくるその姿は、まさに“地上の友人”である。ある朝、祈る女性の姿が朝陽の中に浮かび上がった。樹の前に立ち、両手を合わせている。その光景が、どんな言葉よりもこの島の信仰と自然の交わりを語っていた。葉を落としたあと、すでに新芽が顔を出している。...樹木を友人だと考えたことがありますか文字数:1831

  • 雨のバイパス通りで 文字数:1926

    雨のバイパス通りでその日は突然のどしゃ降りだった。南国特有のスコール。乾いた空気が一気に濁流のような水に変わる。バイパス通りの交差点で信号が赤に変わり、車が列をなし、バイクが身を寄せて停まる。そこに現れたのは、まだ五、六歳と思しき女の子だった。小さな身体にレインコートを羽織り、濡れながらバイクの間を縫うように歩いてくる。その手には差し出す掌。信号待ちの一瞬を見計らって、物乞いをする。背後には、きっと親か胴元がいる。姿は見えないが、見ているはずだ。雨の冷たさよりも、こうした“見えない視線”の方が、はるかに重たく感じられる。これはバリに限った話ではない。戦後の日本にも、そういう光景はあった。浅田次郎の『降霊会の夜』に描かれた、父親に当たり屋に仕立てられた少年の話を思い出す。金と家族と、暴力の構図が、雨の中で重...雨のバイパス通りで文字数:1926

  • クタの夕映、淡さの中に 文字数:962

    クタの夕映、淡さの中にクタの夕映は、淡いほどに美しい。空は溶けた桃色に染まり、波は静かにそれを映し返す。音はあるのに、すべてが消音されたかのような感覚に包まれる。この時間は長くは続かない。ほんの数分、もしかしたら数十秒。眺めているうちに、空はみるみる色を失い、海と陸と空の境界がゆっくりとほどけていく。夕暮れとは、光が静かに退いていく儀式である。そしてこの淡い夕映は、壮大な幕が下りる直前の、観客にさえ気づかれぬほどの静かな合図である。目を逸らせば、もう戻らない。この色は二度と見られない。そう思わせるからこそ、この時間は胸を打つのだ。瞬く間に闇が訪れる。だが、それでいい。この夕映を見たという記憶は、光ではなく、静けさの中に残っている。クタの夕映、淡さの中に文字数:962

  • クタの夕刻、沈黙とことばのあわいにて

    クタの夕刻、沈黙とことばのあわいにてクタの浜に立ち、沈みゆく太陽を見ていた。潮が引き、広がった砂の鏡が空の光を映している。人々の影がそのなかを歩き、まるで光のなかを歩いているようにも見える。ただ、黙って見ているだけでいい——そんな気持ちと、どうしてもこの美しさに言葉を与えたいという衝動が、胸の中でせめぎあう。風はほとんどなく、海は大きく呼吸しているだけ。波音がゆっくりとした拍子で打ち寄せる。まるで時間そのものが、ひとつ深呼吸したかのようだった。誰もがそれぞれの静けさを抱えながら、夕陽の方へ向かって歩いている。それは祈りに近い動作であり、別れに似た姿でもあった。クタの夕刻は、特別なことをしなくても、すでに満ちている。だからこそ、その美しさを受け取るこちらの側が、どれだけ余白を持てるかが問われるのだろう。言葉...クタの夕刻、沈黙とことばのあわいにて

  • バリのエロスも実は文化の目玉 文字数:1051

    バリのエロスも実は文化の目玉浜辺の道を歩いていると、ふと目に入った一本の木彫。どう見てもそれは男根である。しかも堂々と、誇らしげに、陽の光を浴びていた。バリではこうした“象徴”が街のあちこちにさりげなく現れる。露骨だが不快ではない。なぜなら、これは単なる悪ふざけではなく、信仰と儀礼のなかに根ざした文化的存在だからだ。バリの伝統儀礼において、生命の象徴としてのリンガ(男根)とヨニ(女陰)は、自然と宇宙の力を司る大いなる対極として語られる。そこには恥じらいや伏し目ではなく、むしろ祝福と畏敬がある。農耕文化において、豊穣とは性であり、性とはすなわち命の循環であった。そう考えれば、浜辺に据えられたこの木彫も、単なる笑い話では終わらない。観光客の目を引くためだけのものだとしても、そこに宿る“からかい半分の神聖”こそ...バリのエロスも実は文化の目玉文字数:1051

  • 鷺、曇り空をゆく 文字数:900

    鷺、曇り空をゆく鷺の群れが、曇り空を飛んでいく。音もなく、声もなく、ただ一直線に。編隊をなして、空のひだを縫うように。雲は低く、光は鈍い。しかし、その鈍さのなかにこそ、輪郭のはっきりとした一瞬がある。鷺たちはそれを知っているのか、ためらいもなく雲の層へと吸い込まれていった。風の重さも、空気の密度も、彼らの翼は読みとっているのだろう。一羽だけでは見えなかった空の形が、群れのかたちを通してこちらにも伝わってくる。見送るこちらの足もとは、稲の田か、畦道か。湿った大地と、乾かぬ空のあいだに、鷺たちの一筆書きが走る。ただそれだけの光景。だがそれだけで、ひとつの一日が確かなものになったように思う。鷺、曇り空をゆく文字数:900

  • 緑とパワーの層を歩く 文字数:1882

    緑とパワーの層を歩く今日は宿の周辺を、ただ歩くことにした。まだ見ぬライステラスの一段、まだ出会っていない木の影、そういうものに導かれるように。田んぼではすでに収穫が始まっていた。実りきった稲穂と、まだ青い若穂が、段ごとに違う色で折り重なっている。バリの三毛作という稲作リズムが、視覚的にも現れているのが面白い。遠くに藁屋根の家々。その背後には椰子とバナナと雑木の森。植物が交互に役割を変えながら立っている。一人の女性が脱穀後の籾殻を手篩でふるっていた。淡々とした動きの中に、技と日常と祈りが一体になっている。歩いていくと、門に賑やかな飾り付け。中をのぞくと、結婚式の真っ最中だった。花婿が少し緊張した面持ちで何かを待っている。たぶん花嫁の到着。手作りの門飾りが風に揺れ、儀式が生活に根ざしていることを感じさせた。さ...緑とパワーの層を歩く文字数:1882

  • テンガランへ導かれて──椰子と棚田とちいさな花たち 文字数:1605

    テンガランへ導かれて──椰子と棚田とちいさな花たち洗濯ものをおばさんに預けた朝、ひと息つこうと思っていたら、「テンガランとタンパクシリンへ行ってきなさい」と言われた。命令でもなく、勧誘でもない、あれは“お告げ”のような響きだった。ゴジェックを呼んで、言われるがままにテンガランへ向かう。特に予定もなかったから、こういう流れも旅の醍醐味である。テンガランで目に飛び込んできたのは、見事なライステラスだった。斜面に幾層にも積み重なった稲の段々。その緑が、まるで呼吸しているかのようだった。椰子の木がすっくと立っている。まるで水田を守る番人のように、谷を挟んで並び立つ姿が美しい。見下ろせば、水路が静かに流れており、棚田に命を送っていた。水と緑、そして椰子。バリ島の“原風景”とでも言いたくなる構図がそこにあった。その足...テンガランへ導かれて──椰子と棚田とちいさな花たち文字数:1605

  • テグヌンガンの滝で過ごす午後 文字数:2023

    テグヌンガンの滝で過ごす午後宿からバイクで十五分。遠出というほどでもなく、散歩の延長のような距離感が心地よい。辿りついたのは、テグヌンガンの滝。ここまでくると風が変わる。水の音が辺りを支配し、空気はしっとりと涼やかになる。身体にまとわりついていた熱気が、少しずつ剥がれていく。滝のふもとには「PINDEKAN」という木の風鈴のようなものが吊られていた。端が折られており、風が吹くとパタンパタンと軽やかな音が鳴る。手づくりのような素朴な造りだが、音には不思議な品がある。この風景に馴染んでいるのだ。赤い葉が彩りを添え、小さな花が足もとに咲いている。どんな名も知らぬ花にも、私はつい「こんにちは」と心の中で挨拶する癖がある。これも旅先で身についた習慣かもしれない。巨石が転がり、渓流が音を立てて走る。上流から見下ろすと...テグヌンガンの滝で過ごす午後文字数:2023

  • 一瞬の交響楽 文字数:1060

    一瞬の交響楽夕暮れ時、ふと宿を出る。そこにあったのは、空と祈りと暮らしが織りなすシルエットの交響楽だった。民家の家寺の屋根が、ひっそりと天に向かって線を描く。その背後には、紫と桃色が溶け合った空。一つの星が、迷わずそこに灯っていた。人間の技を超えた美。狙って撮れるものではない。ただ、その瞬間に、たまたまそこにいた者だけに与えられる風景である。この宿で、ちょうどこの時間に外に出たこと。この宿の敷地、この角度、この空。すべてがぴたりと重なっていた。一期一会という言葉を、旅先では何度も耳にするが──この光と闇の交わる一瞬こそ、まさにその言葉が宿る場所であった。感謝。それしかない。レンズを向け、シャッターを切りながら、心の中で何度もそうつぶやいた。一瞬の交響楽文字数:1060

  • ジョーク看板の図像学 文字数:3479

    ジョーク看板の図像学──バリの滝で見つけた、笑えるけどちょっと深いものバリの聖なる滝──水は清らか、空気もしっとり。沐浴してる人もいるし、お祈りの場でもある。そんな場所の、ほんのわきっちょにぶら下がっていたのが、これ。「BLOWJOBorNOJOB」「1+1=3IFYOUDON'TUSECONDOM」「EAT/WORK/SLEEP/HOLIDAY/SEX」いや、どんなチョイスよそれ。何度見てもニヤッとしてしまう。でも一瞬後に「ここ、滝だよな…」と我に返る。聖なる空間に、俗なる冗談。よく見ると他にもいっぱいある。石段に並んだ木札たちは、ほぼ下ネタと金の話と人生の真理でできている。最初は「ちょっとふざけすぎだろ」と思ったけれど、だんだん「これはこれで、なんかバリっぽいな」と思い直した。バリって、ほんとに不思議...ジョーク看板の図像学文字数:3479

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