近くの公園で蝉が鳴き始めた。夏の始まりである。…だが現実社会は暗いニュースばかり。心の壊れてゆかない事を願った。文芸人は心を正さねばならない。いま必要なのはパーパス(存在意義)である。私達は何故俳句を作っているのか。…私は三樹彦先生の「それぞれの俳句には何故がある」を思い出していた。踏み惑う森ぜんまいの手招きに伊丹啓子この句にあるものは、都会人の汚れちまった悲しみかも。…ふと、そんな気が。「踏み惑う森」とは、都会暮らしの作者が、眩しい光りの森に入ってゆけない時なのであろうか。「踏み惑う」時の踏み入る作者の純粋さを感じる。ここには私性の強さのパーパス(存在意義)がある。作者にとっての「何故」である。この句の「何故」は「踏み惑う森」の私性の強さである。振り返る間もなく歩き続ける秋瓜生八頼子この句は人生詠嘆の句...「青群」六十号の秀句・青玉集より
よく聞く言葉に、発想が新しい、とか、発想が良い、とか、俳人は批評をするが、この考えは正しくはないのである。私は偏った思考であまりにも一元的であるようにも思う。書き手と読み手のコミニュケーションギャップと言う事を考えていて、ふと思ったのが俳句の思考方法には、必ずと言っていいほど発想における作者と読者の基本にポイントのずれが起こっているのではないかとの疑問を感じる或る日の私がいた。発想にはもともと個人差があって似たものや同じものはないのである。だからどの句も新しい発想の句なのである。山の端に足掛けてオリオンどこへ行く政成一行「青群」第31号より。この句が読者を惹きつけるのは自己主張の表現が、発想の仕方や発想の着想として、これまでの句とは違うところにポイントが置かれている流れの部分にある。その俳句言葉とは「オリ...言葉が意味のままでは俳句にはならない
毎日の生活のなかで他人の言葉に傷つき、社会から疎外された時、私たちはどうして自分自身を復旧回復させているのだろうか。ときどき思うことがある。私たちの青春はフォークソングに身を投じ音楽喫茶に群がっていた。いまでは喜多郎のシルクロードのテーマ―音楽に惹かれ、姫神や富田勲の演奏に我を忘れて浸る。ここには安らぎと癒しの心が強くあり、…そうして自分自身を慰めているのであろうか。このようなとき、俳句することの意義や意味はいったいなになんだろうと思う。もっと素晴らしい社会参加があるのではないかとも。もっと良い生き方があるのではないかとも。その癒しを自分自身に言い聞かせながら心を奏でる俳人がいる。心の痛みを治療するには、薬では良くすることの出来ない意味を、この俳人からは知ることがが出来よう。生国を捨てた男といる花野岩渕真...癒しは「ああ」と思う感動の心を持ったとき……俳句する心
俳句言葉は作者自身が自分自身へ向かって確認して心を浄化させている言葉なのである。ここには人間としてのあるべき生活意識態度が汚れてはいないこと、そのこと故に「大丈夫」であると自己発見しているソロピース(個体)言葉の浄化がある。俳人作者は現実社会の中で常に自分自身を浄化させつつ自分自身の心を磨いて生きてきた。俳句の純粋性が俳句を長く作り続けてゆくことに如何に大切であるかを思わせてくれる句でなければならない。…だが自分自身を俳人の心として保持してゆくことの難しさは、作者本人が一番よく知っている。大変なことことなのだ。人間に生まれたことを花に告ぐ和田悟朗句集『人間率』(平成17年8月)より。この句は作者自身が自分自身に向かって素直になれる心の程を句に作したのだと私は思った。いろんな場でいろんな句を求めてきた過去に...ソロピース(個体)言葉の浄化…それが現代俳句
俳句は十七音律の特異スタイルだが、ことほどに言葉選びを適確にしなければならない短詩形文芸は他にないだろう。一語一音たりともおろそかには出来ない句体なのである。それ故に従来より技巧が重んじられてきた。そして多くの俳人が上手な句を作ろうと努力してきた。いろんな形を試み実行してきた。だがことごとくこの試みは形骸化して、本当に良い俳句とは何かを、いま再び俳人は思考し始めている。ここで区別しておきたいのは技術と技巧は違うのである。技術とは、その手法だったり手段のこと。技巧とは、技術にさらなる工夫をして職人技とでも言える吃驚してしまうような技のこと。ここでこの技巧が問題になるのは職人技のことである。なるほど、とか、やっぱり、とか思わせる、この職人技は画一化すると実感を壊してしまうのである。作者の真実の実感が、何時の間...俳句表現では技術と技巧は違う
それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある。上記の言葉は「青玄」主宰、伊丹三樹彦が私に語った言葉である。この言葉は私が社会へ飛び出した20代前期の頃である。現実社会の中で、その現実についてゆけず悩んでいた趣旨の句に対しての時の文言であった。私の悩みを悟っていたのであろう。…その苦しみと闘っている心を大切にしなさい。その心を一番に表現しなさい。と。…一つの俳句には『何故』がいると言うものだった。作ろうと思う本心の必死さが緊張感を生むのだと教わったのである。俳句開眼の一歩であった。その時の私の句は次のようなものである。しびれだす正座生きるを思案してる刻児島庸晃枯木に対面考えていて歩いていて児島庸晃つめたい鍵穴都会の目つきはよしたのに児島庸晃作ってはつぶす机上の小さな革命旗児島庸晃正に私の主張とい...その俳句は…何故そこに存在するのか
私性の文体(句体)は…見えていないものまで表現出来る句集「あきる野」ありがとうございます。何よりも句集の装幀が素晴らしいのには感動しました。この本の感覚は句集とは思わないでしょう。タイトルの書体も細アンチック体ですっきりとしていてとても繊細な思考を思わせる理知的な引き締まったものですね。本の表紙は本全体を象徴するもの。読者に読む意欲を喚起するもの。そしてこの装幀は…私性の主張の濃ゆい俳句を奏でるものともなっていますよね。さて、その私性とは、月蝕にわが身削れてゆくような伊丹啓子作者の目視の中に読者を引き込む感性は何を誰に向かって語りかけているかを、直感として知らせていて、この句の存在感を示しているのではないかと私には感じられました。その俳句言葉は「わが身削れて」。この俳句言葉にはパーパス(存在意義)がありま...私性の文体(句体)は…
物を目視する、その時見えている姿・形はその存在を主張して作者の目に飛び込んでくる。それをそのまま表現するのを写実と言うのだが、これは可視の世界を作者の目で実写することにすぎないのである。つきつめると見えているままなのである。本来の寄物陳思とは作者独自の思考が、物を見ることにより、新しく、これまでになかった姿・形を作者独自のものとして作りだすことではなかろうか。この時に見えてはいない物が見えるように表現され、可視化されるのだろうと私は思う。いまの俳句はあまりにも俳句言葉そのものが、キャッチコピーに似てきて詩語としての深みや重さが希薄になっているのではなかろうか。俳句の原点が寄物陳思の心表現であることを忘れてしまっているのだろうか…などといろいろと思考の幅を広げ視野を広げて思うのではあるが、やはりその俳句作品...俳句の原点は寄物陳思の心表現
本日9号をお届けします。毎号皆様にお読みいただけるだけの温かい内容をとの思いで何時も編集をしています。その都度私の心をお届けしたくての個人誌ですので少しでも、ほーっと心を休ませる瞬間が、皆様にあればとの私の思いです。どうか気軽に読んでお心を休めて下さい。…いまは昭和の時代とは異なり、生きているいることが困難な時代。生きていることに全神経を集中していなければ自分自身が壊れる時代。社会が壊れ、人間が壊れ、文化が壊れ、人々はパーパス(存在意義)が問われる時代。若者たちは自分自身の置かれている環境から抜け出そうと必死の希望を求める。自分たちの理想とする住みやすい場所を求め、現実では不可能な部分を可能にする場所を心に持ちたいと動き出したのだ。自分の居住空間までメタバース(三次元の仮想空間)に置き換えての思考へと変革...こころの散歩⑨
その昔、昭和35年頃、金子兜太の「造形俳句」論と言うのがあった。この論は社会性俳句の基礎基準としての論であったように思う。この当時は日米協定の改定としての安保改定の時期、各都市では学生を中心に安保反対のデモが日々盛んな時、俳句界でも社会性俳句が活況を呈してくる。湾曲し火傷し爆心地のマラソン金子兜太上記の句は社会情勢を踏まえての大変な人気を得た句であった。だが、この句には…私…の存在がない。この俳句は観念の先行した言葉で作られたものである。心にあたたかい驚きのない句である。作者の目視の中に俳人独特の心の感じられない句である。この句が、どうして何故注目されたのか、未だに私には理解出来ないのである。この俳人の目視の中には観念言葉が一杯である。心の中にあたたかい驚きのない句である。やはり一句の中には俳人一人一人の...俳句におけるメタバース(三次元の仮想空間)とは
俳句の感覚表現の優れた作品にはどのように作者の心情が織りこまれているかとも思う時がある。また細かい神経の施しがある。それらは作者のメッセージなのである。私が一行のコピーであるにも関わらず感銘を貰った句が飯田龍太作品であった。一月の川一月の谷の中飯田龍太現代俳句「データーベース」より。この句は、たった一行のコピーである。例えば一月のカレンダーの見出しコピーにもなるだけの注目度の高いもの。でもこれは俳句である。その俳句たる所以は私性の文体、いや句体とも言えるに充分な施しが表現の中に組み込まれているからである。句の構成は上・下の組み合わせ、リフレインの形式ではあるが、しっかりとしたメッセージの発信である。作者自身の目視の目の素晴らしさでもあろうとも私は思う。「一月の谷の中」にある「一月の川」である。一月の寒気の...俳句は一過性の共鳴であってはならない
私の少年時代の俳句の師匠、伊丹三樹彦は、私達に俳句を作ることの意義や目的を、克明に示し続けた俳人だった。その目的とは俳句で私を語る、私の思いを詩情で奏でる純粋性を多くの若者に示す人であった。極限した言い方をすれば作者個々人の思考をはっきりと示すことであったように思う。謂わば生活俳句の実践であり、作者本人の思考に純粋性の方向性をもたすことであった。…これら一連の私の心を純粋に導く方向性を分かり易くすること、そのことそのものを私性の句体と言えるのだろう。「青玄」100号で主宰者・伊丹三樹彦としての立場での発言、その中で次のように明記されていた。隠れているものまで見えたように書くこれは従来からの見えているものを見えたままに書くと言う素朴リアリズムの思考に対しての発言であったのだ。つまり従来からの写実主義に対して...隠れているものまで見えたように書く俳句
2020年の神戸新聞文芸短歌5月・6月・7月・8月の入選歌を紹介させていただきます。児島庸晃★5月入選歌(2020年5月18日朝刊掲載)はるかぜの一号連れて現在地いま里山へまだまだ歩く★6月入選歌(2020年6月1日朝刊掲載)かろやかに心臓無休五月行く里山の風食べに行きます★7月入選歌(2020年7月15日朝刊掲載)猿人かいいえぼくたちは原人…喧騒嫌で青野が好きで★8月入選歌(2020年8月3日朝刊掲載)フルートの風の快音青野行く右の左の風はおしゃべり短歌・俳句などの短詩形文芸にとっては言葉その一つ一つに最新の心籠もりがいる。どれだけ新鮮であるかに心配りがいる。そのとき作者の目視のポイントがすこしでも崩れていれば、誰も、その作者には寄り添ってくれない。詩語とは貴重な心の置き場所なのかもしれない。神戸新聞文芸短歌入選歌(2020年)
2016年の神戸新聞文芸短歌1月・2月・3月・4月・5月・6月・7月・8月・9月・11月・12月の入選歌を紹介させていただきます。児島庸晃★1月入選歌(2016年1月4日朝刊掲載)冬蝶の浮上たしかに垂直に燦燦とある凛凛とある★2月入選歌(2016年2月1日朝刊掲載)風たちの水面ころげて遊ぶ秋ころころころと音してあそぶ★3月入選歌(2016年3月14日朝刊掲載)開くとき寒天突っ張り大き傘その軸握りまっすぐに歩く★4月入選歌(2016年4月25日朝刊掲載)春水の碧に両手を乗せている母百二歳口に紅して★5月入選歌(2016年5月16日朝刊掲載)春月の半切カヌー往く時刻ふくらむようにいま影法師★6月入選歌(2016年6月27日朝刊掲載)一枚の空を流れて鳥帰る神戸大空夕べを西へ★7月入選歌(2016年7月26日朝刊...神戸新聞文芸短歌入選歌(2016年)
ずーっと考えていて未だに納得の出来ない事がある。感覚は鋭く新しい感覚なのに、その一句に共感出来ない時がある。どう考えてみても心が動かないのだ。そんなある日のことである。もっと単純な形に詩形を置き換えようと思ったときだった。主義主張を考えないで思ったままの心を述べようと気軽に気を抜くと自分自身が愉快に落ち着いた。そして思いついたのが次の句であった。梅雨風の私語にぎやかに喋り行く庸晃この私の句は素直な一句である。否、素直と言ううよりも純粋に私自身がなりきれていた心の句かもしれない。私性の強い句かもしれない。純粋な状態の心になりきれていたからこそ実感出来たのだろう。または純粋に心を保持していたから実感したのであろう。俳句の一句には感覚が、その多くの部分を含むが、心での実感がなければならない。しかもその心には作者...俳句には実感がなければ…それも純粋な心
2022年神戸新聞文芸川柳1月・4月・6月・8月入選句を紹介させていただきます。児島庸晃★1月入選句(2022年1月3日朝刊掲載)題…「レンタル」)特選風借りて風のかたちの紋白蝶選者…八上桐子さんの選評「レンタル」というおよそ詩とは遠い言葉から、よくぞ詩的な情景を発想されました。風借りてなので風のかたちをしているのは飛んでいる蝶の姿なのでしょう。ふわふわと浮き沈みながら舞うさまは、ひとつかみの光のような軽やかさです。蝶が返した風は、花を揺らし、私の髪をなびかせます。かりそめの出会い、ふれあいには、所有し合わないからこその美しさがあることに気づかされました。★4月入選句(2022年4月4日朝刊掲載題…「そっと」春風のそっと乗るパントマイムの木★6月入選句(2022年6月7日朝刊掲載題…「残る」噴水の起承転結...神戸新聞文芸川柳部門入選作品(2022年)
人と人の触れ合いが、どれほど大切であったのかを物語る俳句は、昭和俳句の心の温かさそのものだった。次の俳句はそれを物語る俳句である。死にたれば人来て大根煮きはじむ下村槐太『下村槐太全句集』(昭和五〇年)に収録されている句である。この心のつながりを暖かくして、隣同士が楽しく生活してゆく素晴らしさ…ここにも昭和ロマンの香りを感じることが出来る。一生を清貧の積み重ねであった下村槐太にとって、この心の温もりは近隣の暖かさをじっくりと見届ける時間に浸りきる優しさであったのだろう。まるで「三丁目の夕日」の原作者…西岸良平の下町の風情を感じさせるものだった。人と人が触れ合い温め合う心の溶け合う人間の生きていることの素晴らしさは、そこに人間のいることの素晴らしさでもあった。昭和の心は人情の細やかな生活の機微の中に、それぞれ...昭和の俳句は小津安二郎の生活文化の世界
実生活の日々、物事が強く細かく見えている時はほとんどない。普段の日常生活の慣らされた習慣の中で物事をよく見届けるのは、よほど心の中を純白していなけば見えてはこないし、物事が心には飛び込んではこないもの。俳句の感情表現は心が無で白くなけれは、本心は表面には出てきにくいもの。それらは直情表現になり、全ては説明言葉になる。俳人個々の信条は私言葉になり、真実感がない、詩にはならないで作り言葉になる。内心が無色透明だからこそ、すべてを目にする俳人の心に受け入れられるのである。俳句言葉は作者自身の存在感を正面で受け止めた瞬間の純粋感である。ここには感覚としての無色透明な気持ちを感じさせてもくれる。だが、疲れた心を真っ白の心へと変革する過程で心を磨き損ねると作者自身、自分自身を見失ってしまうこともある事を考えねばならな...俳句の感情表現を考える
そこにあるのだけれど見ようとしなければ見えてはこないもの…それを不可視という。人の心は不可視の中にこそ潜むもの。日常の出来事だけが五・七・五の定形であってはならない。…つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いてはいない花の中までわかるように表現しなければならんのや。俳句で表現出きるかね。上記の文言は今は亡き現代俳人伊丹三樹彦の私への問い掛けだった。私は一瞬とまどった。びっくりしたというよりも考えるところがあってのことであった。見えていないものまで見えるように表現する。これは批判的リアリズムの基本理念ではなかったか。見方を変えれば、俳句の基本とされている寄物陳思なのではないかとも思った。寄物陳思とは物に寄せて心の在りようとしての思いを述べることなのだが、句を作るときは、どうしても目で見えてい...俳句の思考は寄物陳思が基本である
俳句を多くの読者に伝え、多くの人々に求めても、俳句言葉は伝達されないことの方が多い。それは作られた俳句の大多数は言葉として表現されてはいなくて切り捨てられている言葉の部分が多いからである。それ故に情報をいっぱい詰め込んで言いたいことを大きな声で喋っても、その聞く立場の人が聞く姿勢になっていなければ、何も言いたいことは伝わらないのである。これは商品販売の広告と同じである。私たちは俳句を作る時に、作者は自分自身の主張ばかりを繰り返し鑑賞者に、その主張を押し付けてばかりいたのではないかと考えるようになった。「伝える」ことは、即ち全てが「伝わる」ことではないのである。改めて俳句は情感伝達の文芸なのではないかと思うようになった。同齢の青杉立てり急斜面津田清子平成十七年の俳句総合誌「俳句」より。この誌の「俳句開眼の一...俳句は心の伝達…即ち情感伝達の文芸
私は時計を見ていてふと思うことがある。世の出来事が走馬灯のように移り変わってゆくとき人間の感情はとどまることもなく、刻一刻の出来事へと進んでしまう。これは忙しいということでもなく、世の移り変わりが速いということでもないのだ。人間の心中にある記憶と言うものの存在がすこしの価値感もないということにほかならない。これは不安への警鐘なのかもしれないが、いまだに二つの時計の存在を思ってしまう。一方が針のある時計であり、もう一方が針のない時計である。前者がアナログであり、後者がデジタルである。これはわれわれの生活のなかにあって常に物事を変化させてゆくものの二つの現象がアナログとデジタルだからなのだ。この二つの関係を俳句へ取り入れて考えるとき、その現象や存在価値感の面から考えて或ることを考えてしまう。日野草城と伊丹三樹...俳句にはデジタル句とアナログ句がある
いろいろと脳裏にへばりつき離れない言葉がある。それは何かと言えば…長年俳句を作り続けているとだんだん句が悪くなってきたような感じがする…。そして長年経験を積み重ねてゆけば良い俳句にならなければとも思っていた。しかし私自身も、現実にはそれほど優れた秀作とは言える句にはなってはいないのだ。さて、と思いが募る日々となり、私の悩みが始まっていた。私は十七歳の高校生の頃、俳句への入門となりもうかはりの年数が経ているのである。だが少年時代の、しかも俳句そのもを殆ど知ってはいな時の句には、未だに魅力を感じ、その当時の俳句の方が、なんとなく惹かれるものが存在しているようにも思える。日々思考の渦の中でさ迷い、やっとその結論らしきものに出会えたような気持ちが、現在の私の心境である。そこで得た答えは俳句を作るときの大切な心得が...俳句は心を咲かせ尽くした個性
俳句はその本物感を如何に強められるかが問われている。俳句に求められている課題はその本物感でもあろうか。俳句の醍醐味は今までに感じたことのない満足感を、それぞれの作品より得ることがどのように出来るかに尽きることであるようにも私には思われる。伝統俳句より現代俳句へ。そしていまや未来への門出ともなろうかとも思える俳句までも出現してきた。本当の俳句性が何であるのかと、問いかけられている昨今である。…私はその一端を第17回現代俳句大賞受賞の安西篤さんの受賞作品に接すことで味合うことが出来た。存在や三尺高い木に梟安西篤「現代俳句」平成29年7月号より。まず考えられるのは作品以前の心のあり方が、現実的であること。しっかりとした目視があっての作者の態度が確認されていることである。作品をなすのに言葉から作りはじめてはいない...俳句における…自己確認とは
生きてゆくためには心の浄化がなされなければならない。社会の現実に埋まり鬱になる。心の純白は俳人の一句の中にも出せる。俳人と俳人の交流はお互いの心の繋ぎ合いでもある。現代俳句は、この感情表現の成否により、読者への受け入れを素直にする。それには心の浄化が最も大切なのである。山又山山桜又山桜阿波野青畝総合誌「俳句」平成15年5月号より。物事を目視する、その瞬間、この句ほど心を無にして、無心にして接すことに徹した句を、これまで私は見たことはない。この句は、私がこの句を知った時からなのだが自然詠ではないようにも思っていた。「山又山」と目視のそこに見たものは自然そのもの。何の汚れもない色彩の姿である。だが、作者の心が無でなければ、この自然の美景は見えてはいなかっただろうと私は思った。ここには作者の心の純白にして無心の...心を無にするこころの大切さ
時間を要しても何も感動しなくなった私はいったいなになんだろう。もう何にも心のときめきを覚えない私。もう何十年も前には…感動は次々と湧いていたのに。でも何十年も前に知った句だけは覚えている。「夏草や兵どもが夢の跡」芭蕉。「夏草に汽罐車の車輪来て止る」山口誓子。誓子は「俳句・その作り方」において書いている。一部抜粋。「感動が先立たねばならぬ。感動は『ああ』という叫びである。事物と出会って、思わず『ああ』と叫ぶその叫びから、俳句は生まれる。俳句の感動は事物の上にではなく、事物と事物との結合の上に成立する。」ここには『感動』がなければいくら上手い結合がなされていても、それは報告にすぎない。『寄物』の心がなされていても『感動』の心が伝わらなければ俳句作品にはならない。これゆえに『寄物陳思』を誓子は諭している。そして...山口誓子著「俳句・その作り方」における思考
人の心はロマンを生む。それは何ゆえにというのが下記の句である。しぐるるや駅に西口東口安住敦この句は昭和二一年の作品。句集『古暦』に収められている。「田園調布」と前書がある。昭和二一年と言えば終戦の翌年である。人々の胸中には鬱々とした虚しさと寂しさ、そしてどうすることも出来ない虚脱感が漂った社会であった。…このような社会情勢の中での作品である。降り出した時雨に戸惑う人たち。電車から降り立った人々はすこし寒くなってきたのであろう、コートの衿を立て足早に歩み去る。または傘を持って迎えに来た人。改札口を出てともに別れを告げる人たち。電車から降りてくる人を待ちながら時雨を見上げる人。駅は様々な人が集まり、また分かれてゆく人の出会いの場所なのであった。この作品は昭和二八年に公開された小津安二郎監督「東京物語」を思い出...「小津調」と言われる美意識を追求する俳人安住敦
「小鳥来るここに静かな場所がある」田中裕明…この句が私の右脳にあった。田中裕明さんの言葉に私は啓蒙された日々があった。俳句の詩情を大事にしたい。理屈や意味のない世界が、詩の本来の世界です。これは「ゆう」の主宰であったころの言葉。俳人は物を見る以前にその人なりの思考があり、それが物を見るときの邪魔にもなります。全く厄介なことですが、これが純粋に物を見ることを出来なくしているのでしょう。所謂俗にいう観念という奴なのでしょう。ですがこれをすてさらなければ物の本質は見えないものと思っています。純粋に物が見えるときとはこのようなときなのではないのかとも。田中裕明さんの俳句には透明な澄み切った心を感じます。傷ついた経験を持ったものしか知りえないもの。俳人が個人としてその人にだけ持っている、それが俳句を作る時、邪魔にな...俳人が目視物を見るとき邪魔になるもの
こ数日私は、このなんとも漠然としていて、どうにも訳のわからぬ思考にとりつかれていた。考えても思慮深く思い巡らしても、一向に考えが前進しなかった。ところがである。ある日だった。思いもしてはいなかったのだが、それが見事にその思考を解く機会に恵まれるこになる。それは…「現代俳句」9月号に目を通したときだった。そこには次の文章が書かれていた。句会で全く振るわなかった日。しょぼりしている私に「貴方は貴方らしい句を書けばいいのよ」と言って下さった先輩がいて救われた気持ちになった。「自分らしい句とは何か?」という命題を突き付けられていることに気が付いたのだった。それは「自分とはなにか?」という根源を問われている事に他ならない。この文章は第三十六回現代俳句新人賞受賞者のなつはづきさんのことばである。以下の文章は省略するが...句を作ることの意味や意義は何なんだろう
人体冷えて東北白い花盛り金子兜太昭和46年のこの作品。私はこのときまでこれ程素朴に純粋に人間の心を捉えた金子兜太作品を見たことがなかった。当時社会性俳句のリーダー的存在の作品が多くてやや難解な作品ばかりを見てきた私には考えられなかったからであった。この頃より「平明」「本格」「新鮮」の三つの言葉が度々聴かれるようになった頃の作品である。やはり俳句は理解出来るもの、しかも重くパーパス(存在意義)を持たなければならないもの、そして新鮮でなければならないもの。だがこの社会性論は本格を打ち出す基本理論でもあった。その原点は「人間の心奥と天然の接触点を季節感だけに捉えることは狭くそれを含む物象感として捉えるべし」。これが当時の根本理論であった。当時社会性へ向いた多くの俳人は内面への道と外への道とにわかれ社会の中へ問題...素朴に純粋に人間の心を捉えた金子兜太作品
本物感を強めることは私性に徹すること。俳句は三人称、二人称では書かないのです。我々、私達でもなく、あなた、君でもない、常に私もしくは僕なのである。そして起承転結でもなく、導入部、展開部、終結部という五・七・五の俳句的展開の表現である。これは知的興奮を引き出すにもっとも良い表現であるから…。次の句を見ていただきたい。野に詩の無き日よ凧を買ひもどる今瀬剛一「俳句」平成17年2月号より。私の周りを克明に語り、探し出してゆく事により「私」を語る…これは映画やテレビのシナリオにおける基本である。ここに佇む作者の一抹の空虚感は、たた単に寂しく虚しいだけではなかったのだ。喧騒の都市を離れて野原へ癒しの心を求めて旅に出たのであろうか。それらは「野に詩の無き日よ」の俳句言葉で理解できる。今瀬剛一さんの自句自解が私の心を誘っ...現代俳句は一人称の表現が最も相応しい
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