「青群」六十号の秀句・青玉集より
近くの公園で蝉が鳴き始めた。夏の始まりである。…だが現実社会は暗いニュースばかり。心の壊れてゆかない事を願った。文芸人は心を正さねばならない。いま必要なのはパーパス(存在意義)である。私達は何故俳句を作っているのか。…私は三樹彦先生の「それぞれの俳句には何故がある」を思い出していた。踏み惑う森ぜんまいの手招きに伊丹啓子この句にあるものは、都会人の汚れちまった悲しみかも。…ふと、そんな気が。「踏み惑う森」とは、都会暮らしの作者が、眩しい光りの森に入ってゆけない時なのであろうか。「踏み惑う」時の踏み入る作者の純粋さを感じる。ここには私性の強さのパーパス(存在意義)がある。作者にとっての「何故」である。この句の「何故」は「踏み惑う森」の私性の強さである。振り返る間もなく歩き続ける秋瓜生八頼子この句は人生詠嘆の句...「青群」六十号の秀句・青玉集より
2023/02/28 20:42