chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
庸晃
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2022/08/03

arrow_drop_down
  • 自然の中へ回帰しよう

    五人ほど居眠るための初夏の椅子庸晃(2006年5月15日記述)河川敷……ここはまるで時間が止まっているのかと思える時がある。この武庫川のほとりを歩いていると、なんとこんなにも自由がばら撒かれているのかと思う。人それぞれに思い思いのことがなされているのには全く現実臭さが無い。日常の生活の嫌な匂いなども無いのだ。生活の中に細かく刻まれたメニューなど忘れていた。そして限りない人間の優しさや美しさにも会えた。自然の中に回帰してゆけば人は悪意を感じなくなるのかもしれない。…そんなことを思いつつ河川敷を北より南へ下っていた。長椅子は初夏の真ん中にゆったりと置かれていた。散歩の途中の一休みにと腰を下ろしたのであろう。何時しか居眠るほどの心の安心を得て…。私の瞳に映ったものこそ癒しへの序奏であったのだ。この癒しを何回も味...自然の中へ回帰しよう

  • 日々の日常生活より心に残る句

    私の句集「風のあり」より抜粋 こころの風景①(平成20年6月8日記述)風音の足音に似て五月くるこの句は仕事と日々の生活に疲れ果てていた平成20年の句である。たまたま休日がとれた。神戸北野町へ心を安らげようと家を出る。阪神電車元町より北へ3キロ。坂を上り途中海を見る。神戸港が一面に。忽然と風が私へ寄ってくる。正に私の心を癒す五月の風。風音はリズムを奏でる。それは私の心を休める五月の風。また、新たな明日への力を貰って一歩一歩北野町の坂を下る。12年も前のことだが今も鮮明に頭に残る句である。枯野には舟のかたちの風のありこの句も平成20年の句である。残業が月に百時間を超える頃だった。とにかく私の身体を休めたくどうにかならないものかと思考する毎日だった。私の職場は神戸市垂水区施設の防災センター勤務であった。24時間...日々の日常生活より心に残る句

  • 上手な句なのに…感動できないのは何故なのか

    四角い箱に四角い蓋をしてはいけない…俳句理論児島庸晃上手な纏め方をしている句なのに、なるほどと納得も出来る句なのに、良い作品だとは思えない事がある。そして句会でも高点句になっているのに感動しないことがある。何故だろうかとずーっと私の心のなかで何時も疑問を感じ、随分長い期間悩みを持ち続けてきた。しかし本当は良い作品であるのかもしれないと思う事もある。一瞬の思いであったとしても、なんとなく良くない俳句だと思った事実には、それなりの理由があるのではと思い、思考してみることにした。日本人独特の感覚として自然や人間の営みには歴史がある。その歴史のなかにあって俳人は全ての心を開くとき、句そのものに蓋をしてしまったのではなかろうかとも思うのである。俳句全体を見せるために、自然や人間の営みを全て見せることをぜず人間の心ま...上手な句なのに…感動できないのは何故なのか

  • 昭和三五年当時の若者俳句の現実を探る

    俳句表現は理屈にならないこと…理屈で表現しない事である。感覚には理屈はない。人の心にも理屈はない。理屈は人間が考え出した勝手な思考。だから表現された言葉に好き嫌いが起こる。これは表現言葉が純粋でなければならない理由でもある。その純粋性の表現を趣旨として表現していた若者集団がいた。その若者集団を生み出すことに必死に専念し指導していた俳人がいた。伊丹三樹彦である。既成俳壇とは異なる思考を基本として日々研鑽していたのが俳句結社「青玄」であった。主宰者三樹彦は、その純粋性の俳句の基本を、当時の既成俳壇の中では当然とされていたその俳人の経歴重視の姿勢についての純粋な批判言葉を「青玄」129号に述べている。…例えば俳人間では「A誌で三年間いました」とか、「B誌に五年関係しました」とか、よく修業年期のことがやりとりされ...昭和三五年当時の若者俳句の現実を探る

  • 私の検証③

    野の菊の汚れぬ色を遠く見る庸晃(2006年9月2日記述)飢えは極度に達していた。何かを食べなければ死ぬ。ひたすら野や山を歩いた。敗戦の迫り来る村の毎日であった。幼い私は母の手を握り母の後を追う。そこここにある食べれそうな自然はかたっぱしから狩りとられてゆく。殆どの雑草は食料にかわってゆくのだ。そんなとき目の前にある6月の季節はずれの菊は実に美しく思えた。母は言う…この菊は食べないでおこうよね。見渡すかぎり何もない野に咲く菊。あまりにも美しかった。いま思うに心まで汚れきっている人々にこの汚れぬ色は大切であったのだ。そして傍にありながらも遠くに見るという存在でしかなかった。さてプロレタリアート俳句の最終回である。いろんな批判が高まる中、俳句は他の文芸ジャンルにも影響を及ぼし歌人たちとの動きにも密接に関連してゆ...私の検証③

  • 私の検証②

    あんな血色のジュース立ち飲む米兵いる庸晃(2006年8月30日記述)戦後の責任…それはひたすら働くこと。働くことによってのみ幸福になれると信じて生き抜くことが国民に課せられた義務でもあると思った時代。食べるものも着る物もない時代。村人は挙って畑を耕し山へ入り資材の大木を売ることに懸命であった。そんな敗戦の村にGIと呼ばれるアメリカ兵はやって来る。ジープに何人ものパンパンと呼称する女性を乗せ村中を走る。そしてガムを投げてみせる。「へーゆう」と言葉をはき棄てる。幼い私は無性に腹が立ち何回も睨み返していた。誇らしげにトマトジュースを飲むのだ。そのトマトジュースはやたらと血の色に見えていた。戦争に至る過程はいろいろあるにしても昭和5年ごろよりのプロレタりアートの作家たちはひたすら抵抗し続け階級闘争の武器になろうと...私の検証②

  • 私の検証①

    作ってはつぶす机上の小さな革命旗庸晃(2006年8月27日記述)終戦、それも敗戦という昭和20年8月15日。その日から始まった過酷な日々との闘いは飢えとの戦いでもあった。終戦前の6月私達は別府港より宇和島港へ、宇和島港より疎開先へ向かうバスの始発駅へ。そこでのすさまじい食料の奪いやいは幼い私のおにぎりまでもとられることになる。そして疎開先の南宇和郡内海村須ノ川(今は愛南町)へ。そしてこの地における食料との戦いは飢えとの闘いでもあった。毎日、草を食べ、木々の皮を食べ、終戦を迎える。こんな田舎村に食料の配給などは届かなかったのだ。…以後復興への懸命な努力がなされてゆくたびに人々は心に小さな願望を持とうとした。何かを求め前進するために机上に小さな革命旗を立て、そして壊しまた作り続けねばならなかった。掲示の俳句は...私の検証①

  • 私個人のメモリアル⑳

     感動は俳句のこころである。街角やのっぽもちびも夏の草庸晃(2006年6月29日記述)感動するって…どんなことなのか?日々の生活や日常の出来事にどれだけの感動を覚えることがあるのだろうか。考えてみれば…ほとんど感動を知らない日々を過ごしている私になっていた。JR元町駅で下車し山側へなだらかな坂道を上って行くと山本通りに出る。この辺りにはビルのあちらやこちらには少しの空地がある。そしてここには元気な夏草が茂っていた。のほほんと育ったのっぽ。すこし拗ねたようにひっそりとしたちび。でもどれも夏の匂いをもつ草木なのだ。ここを更に坂道に沿って上ると北野町に至るのだが私にはここの風景が妙に頭の中に残る。この夏草、あの夏草と瞳に焼き付いてゆくのだが感動に至るに相当の時間を要した。何も感動しなくなった私はいったいなになん...私個人のメモリアル⑳

  • 私個人のメモリアル⑲

    極上の緑へ脱皮脱皮の森庸晃(2006年6月24日記述)「万緑」という言葉を知ったのはいつごろだったろうか。40年も前になるだろうか。季語となるに至った過程もこのときに知る。そして草田男主宰の俳句誌であることも知った。…そんな万緑を見たくて自宅を出る。阪神電車魚崎駅で下車、傍を流れる住吉川に沿って登る。ここは谷崎文学の舞台となったところでもあるが、今は公園となっていて人々も多くなっている。時々はイノシシや狸を見ることもある。六甲ライナーの住吉駅を越え更に国道2号線を過ぎ阪急電車の線路を跨ぐころになると、もうそこは山の裾野となる。住吉川は突然なくなり、川はそこで終る。山より流れる水は傾斜のままかたまりとなって落ちる。すると緑がいっきに目にとびこんでくるのだ。…私はここの草木を見たくて歩いて来た。薄い緑からやや...私個人のメモリアル⑲

  • 社会性俳句と前衛俳句の時代

    私には…ふと思うことがある。俳句を書いていて何のメリットがあるのだろうかと、時々思うことがある。もっと有意義な社会参加はないものかとも思ってしまう。俳句が書けなくなった時などに、今でも私は、そのように思う。そして全く作れなくなる。…そんなことを考えて数十年が過ぎた。俳句を書くと言うことはネガチブからポジチブへ変化する心の葛藤をどう捉えるのかであろうか。ネガチブは現実の現風景。ポジチブはこのように在りたいと願いを込めた風景。この二つの風景を行き来する心が彷徨う時に表出される情感ではないだろうかとも思う。俳句における感覚派と認識派。感覚→認識へ、認識→認識。だが、認識のままでは感性には至らない。共感するとは何か。認識のままでは共感などはしない。共感することは感性としての味がいるのだ。感性には人間的な魅力が反映...社会性俳句と前衛俳句の時代

  • 難 解 俳 句 を 紐 解 く

    俳句言葉のラッピングとは、難解俳句を考える句を何十年も作り続けていると、見るもの全てが有り溢れている句に思え、つまらない俳句に思えてくる。心で受け入れようとはしなくなる私。そんな毎日につまらなさを思う私。日々視る自然や物事にも興味が薄れてゆく私自身は青年時代への憧れが募る。なんとなく新鮮な句への望みを思うのだが、時には吃驚するような句との出あいがあると嬉しくもなる。その嬉しさとは俳句をラッピングすることの楽しさであった。ラッピングには透明感がいる。外側から見ても中が見えるようにすること。中が見えていること。これは俳句の難解性をなくすための手法でもある。難解俳句には二つの種類がある。俳句言葉自身が理解不能なもの。もう一つは意味そのものが理解不能なもの。このうちラッピングは意味そのものをわかりやすくする方法。...難解俳句を紐解く

  • 私個人のメモリアル⑱

    父の日の父の貧乏子に詫びる庸晃(2006年6月18日記述)毎年六月の第三日曜日は父の日である。長男の電話があるまでは全くこの日を忘れていた。プレゼントは何が良いかとの電話。取り立てて貰うものは何もない。考えてみれば…65歳になるまで働きずめであった。いまもそうなのだが働いておれる元気を嬉しいと思う。ただ働くことしか考えなければ生きてゆけない時代でもあった。長男が生まれ、そして妻と喜んだその時、町には「神田川」の歌がながれていた。そしてそしてあのチエリッシュの優しい澄みきった声の歌が耳の奥で鳴る。「白いギターにかえたのは何か理由があるのでしょうか」その歌は白いギター。昭和48年、長男二歳のとき。みんなみんな貧乏であった。誕生祝いに白いそれも殊更白いケーキを買い私は家路へ急いでいた。そして心の中で子に詫びてい...私個人のメモリアル⑱

  • 私個人のメモリアル⑰

    いっぱいの朱夏もつつんでいるブーケ庸晃(2006年7月14日記述) 「ブーケはすぐ壊れるので手で運ばなければならないのよ」「他の荷物と一緒に持って行けばいいのに」二階から娘と母親の会話が階下の私の耳へと届く。この16日の長女の結婚式当日の式場への持ち込みについての方法を話し合っているものであった。式場のものではなく長女の通っていたいけばな教室の先生に特別に作ってもらったものなので、心のこもったブーケなのである。いろんな色、そして真夏の燃えるような心は幸福な明日への色なのだろうと思う。その時ああ!っと、一瞬、私の中に一つの言葉が浮かんでいた。「ラッピング」「ラッピング」。そうなんだ。ブーケはいろんな形、色のなかから、選りすぐれたものばかりをラッピングしてあるのか。これは俳句を作る時と同じなのだ。平成元年の「...私個人のメモリアル⑰

  • 俳 句 の 表 記 革 命

    ――ワカチガキ考察――児島庸晃俳句実作者と読者先日「青玄」の19周年全国大会が200人近い参加者を得て神戸で行われたとき、伊丹三樹彦主幹は「私がワカチガキを始めて行ったとき、賛同者は三人しかいなかったが、いまは逆にワカチガキをしない人の方が三人ぐらいになってしまった」とユーモアをまじえて語られた。一週間後、詩を作っている若い仲間が、最近とくにふえているとの情報を聞きこんだ。僕は、さっそくその情報の主と、詩学研究サークルへ。すかさず、詩を作っている仲間たちへのアプローチを試みてみると、俳句は面白くないからという返事が返ってきた。とにかく現代詩の方が面白い存在なのだろう。俳句を作っているものにとってはきわめて不愉快な一日であった。ここでワカチガキを論ずる序文として、大正以後の俳句についての歴史的なことを考えて...俳句の表記革命

  • 純粋俳句を求めて④

    茫然と梅花の白をみつめゐる庸晃(2008年2月8日記述)人間の一生を考えていてふと思うことがある。幼年期、少年期、青年期、壮年期、晩年期と経てゆく過程で生まれたままの素直な心はその社会経験を得てどれ程変化してゆくものなのか。とてつもない過去に帰り私自身のことを考えてみる。純朴な精神は多くの競争社会の中でづたづたにされ、打ちのめされ、放り出されて最後には自分自身を見失っているのではないか。私はその中をくねくねと曲がりぶっつからずに避けては通り過ぎて来た。だがいまどれ程の純粋さを保って生きているのか。眼前の咲き始めた梅の白花を見ながらずーっと思っていた。自然はその寒暖の厳しさとも闘いながら毎年開花の季節を迎える。咲き誇る自信に溢れその純朴は人の目を吸い寄せる。真っ白な純粋はひたすらにひたすらに美しい。私は茫然...純粋俳句を求めて④

  • 俳句の散文化現象をどう理解するのか

      最近、私が思うことの一つに俳句の散文化がある。五・七・五の定形を踏まえていれば、全て俳句なのだと思っている俳人が多くなっているのではないか。…こんなことを私が思うようになったのには理由がある。俳句を作すのに言葉が先行して、それ故に意味だけの俳句が通常のことのように進行しているのではと思うことが多くなったからである。俳句における散文的という言葉は一般的には味気なく、情趣が薄いという意味で使われることでもあるのだ。俳句の現代化が、或は口語化が進むと当然のように日常的になり、心まで緩んでくるのだろうか。やはり俳句そのものは寄物陳思であり作者が物を見て、その物から受け取る心が大切だと私は思っている。この時に自己の確認が大切で作者自身の発想表現が可能になるのだろうとも思う。このことは俳句のコピー化現象を産んでい...俳句の散文化現象をどう理解するのか

  • 俳句は意味の示唆を変革させる文学なのか

        …戦後俳句を検証する…                           最近、気になる言葉がある。若者たちの間に流行している言葉。…それは「ヤバイ」の言葉。意味は最高に良い、ということなのだそうだ。本来の意味は「危険」なんだが、言葉の意味が変革されているのだ。それを可笑しいと思わない若者言葉である。このように日常の状況によって言葉は変革されてゆくものなのだろうか。このような生活意識を踏まえ、俳句の言葉はどのように変革されてきたのであろうか。今回の検証はこのことについて考えたい。今日までの戦後の俳句を調べていて分かったこと。それは言葉を最大限に広げる表現をしているにもかかわらず、俳句で使用する言葉は…殆んどが意味としての本来の役目を果たさず、その示唆は全く異なる意味に変革されていたのではないだろ...俳句は意味の示唆を変革させる文学なのか

  • 芭蕉の二物浸透論

    行く夏の水平線や白い船庸晃(2006年10月5日記述)JRの神戸線須磨駅を過ぎる頃になると海が広がる。車窓より目を遠くに向けると一面に開けた光景が遮ることはない。燦燦ときらめく反射はなくなり落ち着いた波の上を船舶が行き来していた。夏は過ぎ去っていた。通勤途上に殆ど見ているのに何故か気のつくこともなかった。それほどに季節の移りは微妙に変化していたのだ。波は平面に見えていて夏の力強さはない。だが俳人は僅かな変りにも敏感であらねばならない。そして私も必死な目を海面に向けて開く。するとそこには水平線があった。過去より今に至る間も俳人は作者の姿勢を大切にしてきた。いつも目の位置を何処に置くかによって作者の考えや思想まで表現しようとしてきた。古仏から噴出す千手遠くでテロ伊丹三樹彦千手観音を見ての実感だが、そこに佇む作...芭蕉の二物浸透論

  • 忘れじの一句④

    雲水の行きてもどらぬ橋や霧庸晃はっと驚き一瞬立ちすくんだのは私だけではなかった。何気なく前を見た瞬間だったのだが、そこには袈裟懸けの男が歩いていた。秋の夕暮れのことである。つるべ落としの夕べ、橋に灯が入りかけていたその僅かな輝きに照り浮くように男の姿はあった。これは雲水ではないか。武庫川大橋…ここは国道2号線上にあり西宮市と尼崎市つなぐ貴重な交通の要でもある。24時間長距離トラックや通勤車の途絶えることのない国道に架かる大橋である。いま男は車の行き交う橋の上を東へ向かっていた。前をしっかりと見据え一歩一歩地を踏みしめて歩く。裸足の動きには些かの戸惑いもないくらい規則正しく前進するのだ。「何故に…」に声をかける私に「すべてが狂ったのですよ」と。私は暫く同行することにして男に興味を持ったのだが、その昔のことを...忘れじの一句④

  • 私個人のメモリアル⑯

    春草の生身が茂り水の藍庸晃(2007年3月2日記述)我が家の天窓に漸くにして春日がそれらしく感じられるようになってきた。まだそれほど明るくはないか射光はそれなりにある。やっぱり春の雰囲気が眼に入ってくるようになった。心まで春になりきれていないのは人間であり私なのかもしれないと思う。日日の煩雑さと多忙の中で私は自分自身を見失っていたのだ。ふーと思い出したように足が郊外へ。そして気がついてみたら武庫川河川敷を歩いていた。そこに春の草花たちが芽を吹き出し私を呼んでいたのだ。立ち止まりゆっくりと眺める。ふきのとう、土筆、そして名を告げようとはしない春の草花たち。生きていることの実感を私に知らせて私への励ましを授けてくれるありがたさ。自然は暖かい心を力強く逞しく私に与えてくれる。その草はどの草も水の藍色をしていて地...私個人のメモリアル⑯

  • 私個人のメモリアル⑮

    百歳の母のほほ笑む冬鏡庸晃(2007年2月12日記述)能勢電鉄山下駅で下車、改札を出ると病院行きのマイクロバスはもう既に待っていた。乗客は僅かに3人。朝の10時祭日の病院に行くものなどはいない。私は俯きがちに頭を垂れ30分ばかりの時を経る。兵庫県川辺郡猪名川町。私の母の入棟している老人養護施設は丘の上にあった。受付を済ませ5号棟に案内される。3年ぶりに訪ねる母の顔は元気であった。だが、長い間訪ねられなかったのには理由があった。母は自宅に帰りたいとの主張を私は拒み続けたためだった。私をみても「どこのどなたでしたか?」と聞く。完全に呆けていて痴呆症状は更にすすんでいた。こんな状況にあっても自宅での生活を望む母である。その眼には涙すら浮かぶ。私はゆっくりと母を見てゆっくりと涙をぬぐった。母は100歳になった。い...私個人のメモリアル⑮

  • 青 玄 青 春 俳 句 群 像

                  青玄クラブという…存在  (2020年9月26日記述)ふぅーと思いつき家を飛び出していた。何時の日にかとも思っていたのだが、阪急電車塚口駅より南西へ歩いていた。…もしやそこに青春の何かがあり、心を揺り動かしてくれるものがあるのではと、私なりに思っていたのだ。歩くこと10分、そこで私は佇むことになる。青玄クラブ…伊丹三樹彦先生が成した偉業をもう一度この目で確認したかったからである。勿論いまはその場所の跡形もない。だが私の目の中にはある。クラブは塚口さんさんタウンから西へ五百メートルほど下った栗山というころにあった。文化住宅の二階で階段を上がってゆくと四畳半と六畳のふた間の部屋があり夜となく昼となく青玄人の誰かが何時も四、五人はいた。夜も昼も解放されていて誰彼となく集まれば句会が開...青玄青春俳句群像

  • 忘れじの一句③

     春や春坂の上には精神科庸晃(2007年4月14日記述)神戸電鉄大村駅…兵庫県三木市大村…ここは妻の生まれ故郷である。金物の町として全国でもそのことの程は知られている町でもある。まだその田舎らしさをすこし残しているここへ夫婦で墓参に帰った。駅は無人である。切符は運転手が受け取る。駅の周りには櫻が咲き誇り静かな中にもまだ汚れきっていないその純白に私は酔った。駅より墓地への道には春の草花が春風に揺れては私たちを迎えてくれるのだ。何年かぶりの夫婦ふたりでの墓参である。墓石の並ぶ周りには土筆がゆったりと立ちその存在のほどを主張。私たちはしばらく見とれていた。花を墓石に飾り合掌すると鶯が鳴いた。…嗚呼と私は声を出した。だがその方向へ目を向けたときだった。春の日差しの真っ只中に坂がありその登りきったところに白い建物が...忘れじの一句③

  • 私性の句体を再思考

    日々の生活の中で本来の人間の心を真に維持してゆくのが、どれほど大変なことなのか。春日が私に囁きかけてくる部屋の隅でその日差しを見詰めていた。そしてその傍に置かれた新聞を見詰めていた。その新聞の連日の見出しに心が縛られていることに、自分自身が壊れてゆかない事を願った。戦争は未だに終わってはいなかったのだ。昭和20年に戦争は終了している筈なのに…。かって観たイタリア映画の記憶が蘇る。その題名は「ひまわり」。第二次世界大戦後の心の傷が人間不信を呼び起こし男女の心が徐々に離れてゆく、そのような1970年のイタリアの反戦映画でした。大戦後のウクライナでの撮影であったことを思いだしての日々。多数の戦死者が埋葬された広大な土地、キーウより南へ50キロ、この土地にひまわりが一杯咲いているシーンから始まるこの映画。この映画...私性の句体を再思考

  • 句座って何なのだ?

       歳末の先のとがった風見たか  庸晃  午前6時に家を出て通勤のため電車の駅へ向かう。ふと見ると国道2号線の温度計は1度を示していた。やっぱり師走の月なのだと思い知らされる。体中が硬直して足が前には運ばない。腕に力を入れては身体を推し進めるのだが、もはや晩年の身体ゆえそう簡単にはゆかないのが現状。なんとも情けないわが身になってしもうたわい。信号待ちをしては何箇所かを抜けて駅へ。その間わが頬を風が殴打して行く。頬を風になされるまま前進も痛さが一層強く続くたびに完全に風の餌食になっていた。風の先っちょは刃物のように尖り私を戦死させている。ああ?そうなんだと思うことが脳裏にあった。耳がいたくて寒くて裏切りみたいな日暮伊丹公子「メキシコ貝」(昭和40年6月刊)55句のなかの一句である。…そうなんです。この句の...句座って何なのだ?

  • 俳句における知覚語と観念語の相違

    ずーと昔のことだが、何故、俳句を作るのかと考えたたことがある。まだ私が二十歳の頃だった。そのもやもやは何日も答えの出ないものだった。長い苦悶の日々が続いた。…思い詰めた末の結論が、その頃「歯車」の指導者として大変なご苦労をされていた鈴木石夫先生に直接会って話を伺おうと思ったのである。大晦日の最終夜行汽車に乗り東京へ、その頃活躍していた荒池利治を誘って向かっていたのを今思い出している。東京駅に着いたのは朝の5時過ぎだった。まだ真っ暗の都会に立ち喫茶店を探した。その喫茶店で疲れていたのか熟睡してしまい従業員に起こされた思い出がある。午前10時、当時先生の住んでおられた駒込千駄木町に到着。一月一日元朝だった。玄関で出迎えていただいたのが先生の娘さん(小柚子さん)だった。小学2年生の頃だったと思う。正月早々失礼な...俳句における知覚語と観念語の相違

  • 俳句の感情表現とは…

                       心を無にするこころの大切さ児島庸晃  日常語は物事を遂行する言語で、ニュアンスは含まない。従って詩語にはなりぬくいのである。日常の生活は会話を正確に伝えなければ物事が前へと進まない。だが、このことが、詩情を深めるのには邪魔になる。心の在りよう、つまり人の感情を阻害してしまう。多くの人々は物事を伝達するのに誰にでも理解出来る言葉を選ぶ。これは感情や雰囲気の含まない言葉。だから社会の中で行き違いや衝突が起こる。例えばだが物事を処理するのに人間性を排除するかの如きマイナンバーカードを国民に義務付けようとする、このような数字で物事を処理、感情を無視する行為。だから人々は何かの救いを求めて心を広げようとする。この時に心を広げることの出来る感情が欲しくなる。それは文章やエッセイを...俳句の感情表現とは…

  • 老 人 養 護 施 設 に て

    施設は丘の上にあった。白い壁であったろう三階建ての壁は灰色に汚れ風雨にも耐え続けた事を思わせる。国道から逸れ坂道を登ると行き止まりになる。そのまま歩めば、ぶっつかるような位置に施設の玄関はあった。私は扉の前に立ち、改めて地を踏みなおす。些か遅く開かれた扉を抜け一階の受付カウンターへと急ぐ。応対の男性職員は優しい笑顔で迎えた。入棟している母を訪ねると部屋は五号棟だとのこと。入棟者の中で一番しっかりしていますよ、との職員の声。母は生きていたのだ…私は三年ぶりに老人養護施設を尋ねたのであった。あれは、やたらと雨の多い年だった。七月も終わろうかと言うに梅雨が明けず、その日も雨の日であった。県立病院のベットの上には呼吸が乱れ儘成らぬ顔の母がある。医師と兄と私の言葉のやりとりが始まっていた。落ちついた会話を交わす医師...老人養護施設にて

  • 私個人のメモリアル⑭

    5月の風仲間(2006年5月18日記述)シンフォニー青葉渡りの風仲間庸晃このところ雨ばかりで気分は優れず、また私の咳はより一層激しい。会社での勤務中も咳はやむことはなく辛い。それにしても防災に関わる施設の勤務はどうしても24時間の緊張を強いられるのだ。そこにオプションまで付く。施設内での怪我や喧嘩、それにトラブル事故など。救急車の要請までも付く。防災・防犯に関わる者の緊張はたえない。防災センター要員という国家資格を得ての勤務とは言え辛い24時間である。…そのハードな勤務を終え今朝帰宅このブログを書いている。JRの須磨駅を過ぎる頃よりすこし空が明るくはなってきたとは言え小雨状態。全く鬱は消えない。車内より見える風景は私の心を遠くへと誘ってくれる。緑より青さを増してきた樹木は快く風を受け入れていた。左右に揺れ...私個人のメモリアル⑭

  • 現代俳句の表現

    コマ重ね・コマ割り…について児島庸晃文明とは、文化とはいったい何なのか。…そう思って俳句の事を考えていた。俳句も立派な文明や文化のひとつではないかと思えるようになったのは最近である。長い間に渡り俳句は文芸の一部で趣味的な私的なものに過ぎないと思う日々であった。先日読んだ書物には世界の各地で盛んになりつつある俳句の話が紹介され、しかも世界の文学になろうとしているという。こうなると、もう文化である。既成概念だけでの句作りは出来ない。改めて俳句を根本から見直したいと思うようになった。そこで工夫や苦心ともいえる思考を怠ると俳句作りの俳句になって単一化してきてつまらないものになる。例えば句会の席での最高点句といわれる類のものである。最大公約数的人気を得て最高点句になる工夫のない句などからは何も生まれはしないからだ。...現代俳句の表現

  • 忘れじの俳句②

    樹樹も初夏ひとつ色して天も地も庸晃(2007年5月22日記述)小満の日も過ぎて朝夕の感覚が人の心を刺激する頃ともなりそれぞれの生活にも潤いが増したかにも思えるようになった。朝は4時半ごろには少しあたりが明るくなり、もう5時半ごろには太陽が東の空に出る。時間の感覚が一気に早くなって街は活気をおびてきた。だが曙は廻りにうすぼんやりとした雰囲気を醸し出しファンタジックな幻想を作り出す。樹も街も海も山も全てを幻想の中に置く。ゆっくりとした時間の中にあらゆるものの全景をほのぼのと置く。この時期の特徴は今の小満の時にこそ味わえるファンタジックなのだと思う。この感覚を会得しようと須磨浦海岸に足を運んだ私であった。暗い世界から徐々にうすぼんやりとあたりの全景が浮かびあがってくる。この雰囲気この感覚…これなんだこれなんだ、...忘れじの俳句②

  • 「取り合わせ」の妙味

           六月や余白なきまで文字詰まる庸晃 (2006年6月15日記述)六月…このなんとなく嫌な雰囲気は避けては通れない。雨が多いと言うだけのことではない。⑥という数字は③と⑨の系列にある真ん中の数字。私はここ10年ほどシンクロ二ティなる研究をしているのだが、何かの事が起こるときは全てふたつ以上のものが同時に発生しなければ起こらない。だだのひとつでは起こらないと言う理論の実証である。即ちシンクロ(偶発による)によって起こると言う現象。九星…1白~9紫までの古代中国の考えを基に数字化して理論化する。ちなみに⑤は②と⑧系列の真ん中。①は④と⑦系列の真ん中。それぞれことが起こるときはこの系列によって起こるということ。六月の⑥は安定を意味し③の生成に対し⑨の発展を調整してプラスやマイナスに導くことをする。この...「取り合わせ」の妙味

  • 依光陽子さんの言葉

              点景の花火をまいている絵筆庸晃  ただ見ているだけなれば…どうってことはないのだがそこに美意識をもつまでには時間と忍耐を要する花火であった。これはスカイマークスタジアムより打ち上げられる花火を8キロほど離れたビルの13階より見た光景である。巡回という仕事中のこと。広島対オリックスの5回終了時のグランド整備中のイベント。私は全てを承知し、ひそかな期待をもってのことである。  ところがこの花火の風景を見たその時それほどの感激を受けなかったのだ。何故なのだろう。二日ばかりもやもやとすっきりしない心が続いていた。そして心をとめる文章に出会うまでは…。依光陽子さんは「私の季語の現場」のなかで必死に訴えて語りかけている。「新しいリアリティを顕現できるか」言葉が機能していなければ現場があってもそれは...依光陽子さんの言葉

  • 俳句は情感伝達の文芸である

                    「伝える」と「伝わる」について                          児島庸晃私がネットで参加している俳句の勉強の場に、浦川聡子さん主催の「リレー俳句」がある。ここでは誰かが作った俳句の言葉の一部分を使って句を繋いでゆくという、ユニークな場なのだが、なかなか思いの心が伝わりにくい。…そのような意味において、凄く勉強になる場所。ここで私が初めて知ったことは「伝える」と「伝わる」と言うことの本当の意味と意義を考えるようになったことである。言葉の一部分を繋いでゆくということは、前の人が作った句の一部分から受けて、次の人へ「伝える」ことであり、受けた人は「伝わる」こを考えなければならないのである。このようにして「伝える」ことと「伝わる」ことを繰り返してゆくのである。正に...俳句は情感伝達の文芸である

  • 良い俳句の基準とは…

                        俳句における誇張表現を考える                                     児島庸晃よく聞かれる言葉に、良い俳句を作る基準とは何ですか、と唐突に話しかけてくる人がいる。当然のことのように必死で聞いてくるのだが、私としては、一度もこれだと確かな答えをしたことはない。これから俳句を作り真剣にことをなしてゆこうとする人ほど、その気持ちは強い。もっとものことだが…。どの結社誌や同人誌、仲間誌を見ても、これだという定義は見たことがない。一つ一つの句の解説において、ここが良いという説明らしき言葉はある。いったい、俳句の良い作品、良くない作品の基準はあるのだろうかというのが、何時も私の心の奥にあった疑問である。一般的に思われているのは、新鮮で目新しい感性...良い俳句の基準とは…

  • 俳句の伝達性とは何なのか

              作者の意思を伝えるためには工夫が要る児島庸晃句会の席で…よく聞く言葉がある。披講の時間がきて最高点句が発表されると、その句についての合評で、問題視されるのが、伝達性の有無である。伝達性は知識や体験、それに句そのものの表現方法によって鑑賞の相違を生むものだが、はっきりしていることは、言葉だけでは作者以外の人に分からせるように思って作っても伝達は出来ていないということなのである。私が、俳句の伝達性について検証をしておかなければならないと思ったのは、「歯車」355号の…短い手紙…に書かれていた栗林浩さんの次の言葉であった。「私の検証⑪」を楽しく読ませて頂きました。やはり俳句の作り手に「感動」が必要なのでしょうね。感動して作った句があまり成功しない私なので疑問を持っています。大切なのは作者の感...俳句の伝達性とは何なのか

  • 俳 句 言 葉 の 魔 法…

                 昭和ロマンを求めて児島庸晃昭和は遠い昔の時代になってしまったのであろうか。時々懐かしむほどに時代はいろんな思いを残し過ぎ去ろうとするのだろう。思えば思うほどに時代はいろんなものを残してゆく。昭和は言葉の引き出しをいっぱい保持出来た時代であった。それだけに人間の心が豊かな時代であったと言えるのだろう。精神的なものが取り残され物質だけが進んだ歪んだ日本の姿。世の中に批判的な心をもって生活している人には生きるのが大変な思いをする。アウトサイダーな人間をつくっていく時代。それが今の日本の姿である。そして平成の俳句も…。昭和の俳人は心の何処かに、すこしでも持つ事の出来る楽しみを託した夢を魔法にしていたのかもしれない。昭和は未来へ向かって俳句を革新させる俳人たちでいっぱいだった。ここには生活...俳句言葉の魔法…

  • 俳句の原点…純粋

    梅雨最中海の彼方が明るくて庸晃妙な気持ちが私を急きたてていた。何故か朝からいらいらとして落ち着けないのだ。このところ仕事や家のことで疲れきっていた。…こんなときは家を脱出。私自身の自由な時間を求めて歩くことになる。そこが武庫川河畔の散策なのだ。武庫川を下流へと歩くとその河口は大阪湾に出る。この河口部分には川の魚と海の魚の共存がある。そしてその先には大きく開けた海原があり、その先は明るく盛り上がる未来が見えているかの望みを感じさせてくれる。その未来を見ていると現在へ繋がる私の原点がそこにあった。昭和43年7月2日…この日ぼくは重大な決意をした。俳誌「青玄」主幹伊丹三樹彦と出会って以来はじめての体験だった。主幹の俳句に対する心意気と、真髄に接し弟子になろうと思ったのがこの日である。これは青玄評論賞をいただいた...俳句の原点…純粋

  • 忘れじの一句②

    彩雲のこころあるかに梅雨の空庸晃(2007年6月24日記述)私にはすこし変な癖があり考えごとや物事に悩まされるときまって空を見る。何時ごろからかそうなったのかは思い出せないがいつものことで気づいたら何時も空を見ているのだ。歩いているときや座っているときならまだしも車道の真ん中でも歩きながら空を見る。今は梅雨空だがそれでも顔を上げ空を見ながら歩く。こんなとき何かの驚きや思考が授かりまた新しい心や気持ちを持ち直しては生きている。…だからか雲の微妙な変化に気づいたのかも知れないが雲には赤や青の彩色があるではないか。なんなのだろうと心がときめく。見事なまでに雲は色雲になっていて私の暗い心は晴れていた。或る幾許かの悩みが解決されぬ心が晴れた瞬間であった。六甲山の山並みのその上に色雲はあった。翌日新聞は「彩雲」の詳細...忘れじの一句②

  • 一句の成否を決める連想言葉とは何なのか

    徹底して物を見尽くさねば…児島庸晃俳句は連想言葉の集合体である。またパーツ言語の集合体でもある。それぞれのパーツがいくつか組み合わさって完成されているもの。それぞれのパーツを組み合わせるには、それぞれの言葉と言葉のパーツを合わせる接着剤がいる。この接着剤が上手く機能しなけば、俳句は完成品にはならない。接着剤は心である。感覚の基本とも言える心情でもある。では、その心、心情は、どのようにして生み出すのだろうか。生み出すといっても思考の積み重ねによってではない。それらはしっかりと、物を見ていれば、そこに一つのヒントを得ることが出来る。徹底して物を見尽くさねばならない。例えばだが、卓上に置かれた「林檎」を見て、みなさんは何を感じるのだろうか。…その味を感じる人。色を眼に呼びこむ人。その形の特徴を受け入れる人。まだ...一句の成否を決める連想言葉とは何なのか

  • 文体改革のパイオニア

    春霧のときすぎ海の見えてくる庸晃春林は坂の上にて真昼なる庸晃神戸は坂の街である。元町より下山手通り、中山手通り、山本通りを斜めに横切るとこのあたりより坂の道に出る。更に先へと坂を上ると北野町に出る。洋風建築のテラスがまぶしく輝く。風見鶏のある館が目に届く。かって私はここへ何回も鬱を棄てに来た。はるかぜにとびのる構え風見鶏庸晃人間関係に疲れ果て現実の社会にもついて行けず、身も心もボロボロになったとき一人きりの時間を求めて佇んでいた。20代後半の青春期をこの坂道を歩くことによって心を癒していたのだった。この思い出の坂道を今ゆっくりと上り、眼前の海原を見ている。今しがたまで覆われていた霧はいつか姿を消していた。青い海が、そして坂の上に暖かくある春林が私をかっての青春へと誘う。死んでもいいなど云い合う霧笛のおおん...文体改革のパイオニア

  • 純粋俳句を求めて(3)

         見てるのは水面上の冬日向庸晃   (2007年1月29日記述)大寒の最中なのに菜の花はほぼ咲きそろいミツバチが花集めに急がしい。季節の狂いは人間社会の動きの速さすら思ってしまう。日々のうつろいの中にあり走馬灯のように毎日が過ぎてしまう。しなければならないことの半分も出来やしないのだ。社会は辛らつな言葉や行動に溢れかえり心の休まる隙もないほど緊張を強いられる。殺人事件、強盗、詐欺、汚職とたえまなく報道されてくる社会。俳句を作っていったい何の価値があるのか考えてしまう。…武庫川河川敷を散策しながら思考をめぐらせていた。社会への貢献。地域への貢献の方がもっと充実感があるのではないか。ふと…そんなことを考えていたのだが。心のぽっかりと空いた部分を埋めるため、今日は或る男に会うためここに来たのである。河川...純粋俳句を求めて(3)

  • : 純粋俳句を求めて(2)

         たとえれば寒の最中の海白し庸晃(2007年1月21日記述)24時間勤務のためJR甲子園口駅を朝6時に乗る。何時もと同じようにきまった時間にきまった仕草をする。そしてそのことを別に不思議とも考えない日々が続いていた。私達が生活している、その一日の出来事の中で心の中に飛び込んでくるような感動の一瞬はいったい一生のうちに何回あるのだろうか考えてみた。心をときめかして現実にぶつかっていった純粋さは、もう私の心の中にはないのかもしれない。…そう思いつつ最近話題になっているアニメーション監督の言葉を思い出していた。神山健治氏(40才)。「精霊の守り人」のアニメーションを作った監督である。「刃物の錆は砥石で落とす。人の錆は対話で落とす」。氏のデスクの傍に格言のように張られている言葉である。対話することによって...:純粋俳句を求めて(2)

  • 純粋俳句を求めて(1)

        見ておれば純度濃くなる寒の水庸晃(2007年1月18日記述)1月17日は朝から雨である。阪神大震災から13年目を迎えるこの日私はJR三宮駅を通過勤務地の垂水駅へ向かっていた。車窓には雨が降りかかり粒をなして流れる。沢山の雨ではないがやはりそれは寒の水には変わりはないのだ。追悼の行われている神戸市役所横の東公園へ顔を向け追悼。当時を回想する。人々が絆で結ばれ合い助けあったあの頃の純粋さは何処へいったのだろうと回想していた。もはや人間の心を失ったかの昨今の索漠とし事件ばかり。雨の流れる車窓にその純粋さを求めていた。よく見れば殆どは汚れの混じった水滴だが中には透き通った水滴もある。この僅かの純粋に救いを求めねばならないほど私自身も汚れているのかもしれない。もう純粋を求める若き日のその心はないのか。再び問...純粋俳句を求めて(1)

  • 俳句におけるパーパスとは…

                   その俳句は…何故そこに存在するのか            児島庸晃最近になって世の中を賑やかにする言葉がある。その言葉に私は緊張した。パーパス(存在意義)と呼ばれる言葉である。もともとは企業の人々によって生み出された言葉なのだが、大変重要なこと。その企業の存在理由を明示して社員の存在する理由を問うものであった。その社員の価値感として働く意欲を盛りあげるものでもあった。「何のために、我社は存在するのか」という問いの答えが、パーパスなのである。それでは私達文芸人はこのパーパスをどのようにとらえればいいのか、と思考する私の存在があった。何のために俳句を作っているのだろうかであると私は考える。それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある。上記の言葉は「青玄」主宰、伊丹三樹...俳句におけるパーパスとは…

  • 黎明の彼方から

               黎明に至るひかりの森の夏庸晃  JR神戸線より見える須磨浦公園は緑の森に変身しようとしていた。この公園は海からの風を受けて日々色を変えようとした時期があり、それより一年が過ぎようとしていたのだ。塩害のため葉っぱを枯らせ木々の寿命を全うさせることの出来ない森でもあった。だがいまは色を濃くして万緑に変わろうとしている。この森に黎明の光がみなぎりはじめている。  一時見つめていた私だが…ふと過去がよぎった。俳句の結社やグループといった存在の価値なるものは?。ああ、やっぱりひとつの過程を経ては終ってゆくものなのかと。この森のように、誕生期、黎明期、熟盛期、そして死亡期、とひとつの時代をおわる。その後を引き繋いで蘇生誕生、黎明へ、と思考は永遠に残されてゆくのだろうかと。鈴木六林男の「花曜」終刊...黎明の彼方から

  • 忘れじの俳句①

     コスモスの中へふたりの老いる旅庸晃神戸三宮に最近オープンした「ミント神戸」の一階部分よりJR高速バスに乗る。妻とふたりの一日旅への始まりは何十年ぶりかのものである。別に取り立ててのことでもないのだがこれまではあまりにも忙しすぎたため、こんなひと時などなかったのだ。そう言えば何処かに出かけようと私は声もかけなかった。毎日の生活のなかで心のゆとりなどもなかった。妻の方より以前に約束していた場所に行こうとの言葉があり、淡路島・「夢舞台」への一日旅となった。明石海峡大橋を渡り島の高速道路を快適な秋の日差しを浴びて走る。そこは正に夢のような舞台そのものだった。山の斜面を舞台に見立て石段が並ぶそこに秋の花々が咲きほこる。眼下は海峡の広がる平面に水平線が浮き上がる。私達ふたりはふたりだけの時間を持っていた。二人の子供...忘れじの俳句①

  • 私個人のメモリアル⑬

    5月の風仲間(2006年5月18日記述)シンフォニー青葉渡りの風仲間庸晃このところ雨ばかりで気分は優れず、また私の咳はより一層激しい。会社での勤務中も咳はやむことはなく辛い。それにしても防災に関わる施設の勤務はどうしても24時間の緊張を強いられるのだ。そこにオプションまで付く。施設内での怪我や喧嘩、それにトラブル事故など。救急車の要請までも付く。防災・防犯に関わる者の緊張はたえない。防災センター要員という国家資格を得ての勤務とは言え辛い24時間である。…そのハードな勤務を終え今朝帰宅このブログを書いている。JRの須磨駅を過ぎる頃よりすこし空が明るくはなってきたとは言え小雨状態。全く鬱は消えない。車内より見える風景は私の心を遠くへと誘ってくれる。緑より青さを増してきた樹木は快く風を受け入れていた。左右に揺れ...私個人のメモリアル⑬

  • 私個人のメモリアル⑫

     奇物陳思と言うものは…(2006年3月10日記述)立冬やひとはぬくみを目に灯す庸晃ときどきではあるが俳句の出来る場とか瞬間のようなものははたして何なのだろうか…そんなことを真剣に考えてみる。奇物陳思と言う俳句の基本は発句が俳句として独立独歩を始めたときから変わりはない。しかし今「奇物」ではない俳句のなんと多い事よ。そしてそれらが大きな顔をして本物俳句であるかの登場はなんとも軽々しい。昨年のことであったか。この「奇物」のもつ素晴らしさに出会ったことがあった。日暮れが少し短くなりかけた玄関先でのこと。玄関のドアホーンが鳴り出てみるとそこには老女が立っていて、話をするや涙を流し止ることのない状況になる。私は老女の目をじっと見つめていた。「ありがとうございました」と言い、また涙の目の顔になった。ゆっくりと話を聞...私個人のメモリアル⑫

  • 俳句はソロピース(個体)言葉の集合体である

               心の浄化された句…それを純粋俳句という 児島庸晃  なにゆえにいまも俳句を作すのであろうか。…そう思ってひとり静かに珈琲を飲んでいた。真昼の我が家。秋の日差しが部屋に置かれる午後。私の心が最も純粋になれる時間でもある。身も心もばらばらになってゆく私を、私なりに、それも密かに私を取り戻す。すべての心が浄化されてゆく時間である。謂わば句を作るに一番相応しい私になれている時間なのである。そして私は、畳に置かれた秋日を瞳に入れながら、亡母を思い出していた。けしきが  あかるくなってきた  母をつれて  てくてくあるきたくなった  母はきっと  重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろうこれは八木重吉の詩である。この詩のタイトルは「母をおもう」。そのときである。私には思ってみたこともない或る思...俳句はソロピース(個体)言葉の集合体である

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、庸晃さんをフォローしませんか?

ハンドル名
庸晃さん
ブログタイトル
こころの散歩
フォロー
こころの散歩

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用