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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑦ 「永正三年の大乱」能登・越中を席巻する一向一揆

    1506年、実如の呼びかけにより一斉に蜂起した一向一揆。近畿近国一円がこの争いに巻き込まれることになるが、主戦場は何といっても北陸である。 北陸における一揆を指導したのは、本泉寺の蓮悟(蓮如第7男・実如の実弟)だ。大本営にあたる山科本願寺にいる実如が、越中の門徒たちに対して蓮悟の命に従うよう書簡を発していることから分かるように、彼こそが加賀一向一揆の、ひいては北陸における一向一揆の最高司令官なのである。 その蓮悟が各地の一揆指導者に送った、3月16日付の檄文が残っている。内容を紹介してみよう――「能登の畠山義元と越後の長尾能景(よしかげ)は、長年一向宗を滅ぼさんと企てており、このたび遂に動き出…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑥ 実如に対するクーデター未遂事件「大阪一乱」

    1505年1月に実如より2度に渡って発せられた、一向一揆蜂起指令。しかし摂津・河内の門徒たちは、これをはっきりと断ったのであった。これについてもう少し深堀りしてみよう。 実のところ、摂津・河内の門徒たちは大阪にある石山御坊の強い影響下にあった。この頃の石山御坊は、蓮如の最後の妻・蓮能尼(れんのうに)が住んでおり、またその息子である蓮如9男・実賢が住持を務めていた。そして蓮能尼はよりにもよって、能登畠山氏の出身だったのである。 元将軍・義稙が北陸に逃げてきたこともあって、能登畠山氏(当時は重臣たちに擁立された、畠山慶致・よしむねが当主)は一貫して反政元派であった。一方、河内は総州畠山氏の領国であ…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑤ 教えのために戦うのか、教団のために戦うのか?

    1493年4月、将軍・義稙(よしたね)と畠山政長が不在の隙に仕掛けた「明応の政変」により、新たに第11代将軍・義澄(よしずみ)を擁立した細川政元。政元の政治力はかなりのもので、彼の呼びかけに応じ、総州畠山家攻めのため河内に軍を勧めていた諸大名たちは、両者を見限って次々と帰洛してしまったのである。 2万の兵はあっという間に8000程度に減ってしまう。政長らは正覚寺を城塞化してここに籠城することにする。政元は4万の軍を動員し、これを包囲した。 政長の希望は、領国・紀州からの援軍にあった。紀州で動員した畠山軍に、同盟関係にあった根来寺の兵を加え、約1万の兵がこれを救わんと北上を試みたのである。しかし…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その④ 中央政権と結びつく本願寺

    富樫政親を滅ぼした一向一揆勢。これに激怒したのが時の将軍・足利義尚(よしひさ)である。そりゃそうである。荘園横領しまくっていた六角氏を成敗するために行われた「鈎(まがり)の陣」は、「応仁の乱」のち弱まってしまった将軍権力の威信回復を目的としたものだ。 そんな中、無理を押して駆けつけてくれたのが富樫政親であったのに、その不在の隙をついて加賀で蜂起し、あろうことか急いで戻った政親を討って滅ぼしてしまったわけで、義尚にしてみれば己の手足をもがれたのも同然なのである。 怒れる将軍は蓮如に対し、加賀一向一揆に関わった本願寺門徒の「総破門」を命じたのである。蓮如は急ぎ加賀で指導的地位にいた息子たち4人を呼…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その③ 加賀一向一揆の成功と、それを陰ながら援護していた蓮如

    さて高尾城に籠る富樫政親に対する攻撃は、6月5日に始まったようだ。初日は小競り合いで終わっている。まずは様子見というところであろうか。 なおこの前後に、越中から畠山政長軍が、能登からは畠山義統(よしずみ)軍、越前からは朝倉貞景軍が富樫氏の救援に赴いたが、それぞれ国境であえなく撃退されてしまっている。これについては後述する。 7日早朝、一揆軍の攻撃が始まる。「官地論」によると、高尾城を攻めたのは5万ほどであったらしい。対する富樫方は、籠城当初は1万ほど集まっていたのだが、「形勢利非ず」ということで、大分減っていたようだ。反撃してきたのが2000ほど、とある。いずれにしても城方は大敗して、本郷修理…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その② 遂に蜂起した一向一揆「長享の一揆」

    越中にて、石黒氏と医王山惣海寺を滅ぼしてしまった本願寺勢。隣国加賀の富樫利親にしてみれば、藪をつついて蛇を出してしまったようなものである。領内においても本願寺勢力は未だ健在、予断を許さない状況にあった。 さて時計の針をぐっと戻して、加賀における富樫氏の成り立ちを見てみたい。もともと富樫氏は、平安時代後期から朝廷の在庁官人として加賀に勢力を張っていた在地領主であり、南北朝の動乱の際に北朝方として功をあげ、室町幕府から守護に任命された一族である。 しかし加賀国内には臨済宗・五山の寺領や、幕府奉行衆の領地が多数存在しており、富樫氏の加賀に対する掌握力は弱かった。 また大作家の司馬遼太郎氏が、別の観点…

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