chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar

金生遺跡は縄文時代の天文台 縄紋土器の突起は太陽暦と太陰暦の完成を示す 金生遺跡では朔旦立春を観測して二十四節気の暦を作成していた

世界遺産にしよう会
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2021/11/13

arrow_drop_down
  • 数詞の発生は何時からなのだろか

    数詞の発生は何時からと考えることが出来るのだろか持ち物を数えるOvermannは2013年の研究11で、現代の世界各地に分布する33の狩猟採集社会に関する人類学的データを分析した。その結果、上限が「4」程度の単純な記数法を持つ社会では、武器や道具や宝飾品などの所有物がほとんどないことが多いことが分かった。これに対して、上限が「4」よりもはるかに大きい精密な記数法を持つ社会は、常に所有物が多かった。このことから彼女は、社会が精密な記数法を発展させるためにはさまざまな物を所有している必要があるのではないかと考えるようになった。複雑な記数法を持つ社会には、記数法の発達過程を解き明かすのに役立つ手掛かりがあった。Overmannは、そうした社会の多くが、5進法、10進法、20進法のいずれかを用いていることに気付い...数詞の発生は何時からなのだろか

  • 「計算する」という意味 は小石から

    「計算する」という意味の英語calculateは、小石を意味するラテン語calculusから来ているという  図縄文遺跡からは小石のようなものが出ています。これは何に使われたものなのか不明とされています。 図ところで、シュメールでは、大きさは3~5センチメールで、形は球、円盤、円柱、三角錐、円錐などいろいろなものが出ていて、形の違いは数える対象が違うからだと考えられていた。現在ではシュメール地方の遺跡の研究が進み、出土したシュメールの小石が実際に計算に使われていたことが明らかにされています。また、「計算する」という意味の英語calculateは小石を意味するラテン語calculusから来ているそうです。この類推から縄文時代に見付かる小石も、同様に計算に使われたものでは無いでしょうか。縄文時代にはカレンダー...「計算する」という意味は小石から

  • 「偉大な発明・発見は一回きりだ」という

    「偉大な発明・発見は一回きりだ」という説がありますここで、古代の人々が「数」をどのように捉えていたかを考えてみましょう。ストーン・サークルにはピタゴラスの定理※が隠されている、という説があります。これは、ファン・デル・ヴェルデンという有名な数学者が唱えた説です。彼は大学で広く用いられた数学の教科書を書いていますが、『古代文明の数学』という本も書きました。その中で彼は「偉大な発明・発見は一回きりだ」と述べています。このこと自体は納得できるのですが、これを根拠に「ピタゴラスの定理はヨーロッパのストーン・サークルが源泉で、そこから中国やバビロニアに伝わり、さらにギリシアに伝わった」と主張します。しかし、この説は成り立つとは思えません。一番大きな障害は、新石器時代には文字がなかったことです。文字(記号)がないと、...「偉大な発明・発見は一回きりだ」という

  • 「立冬の日の出」を見よう会

    今年は天気が曇りや雨が多く、日の出を期日に見ることがなかなか出来ませんでした。快晴でしたらお出かけください。縄文遺跡で「立冬の日の出」を見よう会ご案内金生遺跡は北杜市全域を太陽観測の天文台として、金生遺跡の配石は太陽暦観測施設であることが分ってきました。朝活は立冬11月7日6時頃から7時まで遺跡現地です主催金生遺跡を世界遺産にしよう会これまでの観測記録の内容は、ブログにありますjohmonkinseistarとして検索していただけば、「金生遺跡を世界遺産にしよう会」というブログがご覧いただけます。縄文人達は定住して、太陽が出る位置を毎日変えることを知り6000年ほど掛けて数を理解して、カレンダーを作り出したものと思います。縄文人と同じ立地に立ち、茅が岳の峰からの日の出をワクワクしながら待ちたいと思います。...「立冬の日の出」を見よう会

  • 両面加工尖頭器、両面加工技術の進展

    両面加工石器技術の進展については図1.石材のロスが大きいので原産地で作ることが必要だったのでは無いか、大きな原石から利用するのは石材の中心部のみ2.両面加工尖頭器製作には粗く形を作ってから細かく削るような作業が続き、手が掛かり、時間が掛かる製作だったので、製作には専業者がいたものでは無いか。3.それまでの旧石器時代の石刃法に比べて、槍先がバランスが取れているので、耐久性が大幅に向上したものと考える。4.石刃技法の槍と比べて、両面加工尖頭器は機能的には大差なかった。サケ漁では繰り返し使用するので、耐久性の高い両面加工尖頭器は効果大だったと考える。図5.両面加工石器技術の進展で、各種の道具の分化に効果的だったものと考える。細石器から石鏃への進化、各種の道具の分化に機能していた。石匙と呼ばれるものでは、用途に応...両面加工尖頭器、両面加工技術の進展

  • 数認識の始まりはどこからなのか

    数認識の始まり数認識の必要性とは何だったのか原始時代の数認識に関しては次のような話がされている。図「縄文土器の研究」に述べられた小林達雄などに依れば原始からの数認識は1~3まで程度、せいぜい5までなどのレベルとされている。指は1-5まで、両手で10それに足指を加えて10+1020その他にも色々加えてと言う考え方もあるが50とか100にはとても達し得ない。月が変化する日数は30となるから、30まで数えることは必要性がある。この30と言う数は必要となる目安となるのでは無いか。しかしこのレベルでは数の必要性はそれなりに止まってしまう。それ以上の大きな数が必要とされることは、一年の日数である。 図30を遙かに超えて、大きな数を必要とする数認識の目安は一年の日数だったのでは無いかとはいっても、一度で365日を数え上...数認識の始まりはどこからなのか

  • 栽培種の成立

    栽培種成立までの各地域比較栽培種成立までの要した時間はこよみの存在が影響を与えていたのでは無いか「500万年のオデッセイ」からの情報を元に考えて見た縄文時代は無文土器から始まった無文土器は原種マメ類の採集のため目漏れしない容器を必要としたことから17000年前頃から土器が作られることになったものと推定しているその後マメ類を栽培する方法を自然観察から会得して原種マメ類の栽培を始めたものと思うこれは画期的な事柄であり、栽培がある程度分かりその事を豆粒文土器として記録していたこの時期が15000年前頃の事ではないかと考える。図土器の記録から早期にはカレンダーが成立していて栽培種は縄文前期には成立することで集団居住の拡大や土器文化が変化したその間早期末には鬼海カルデラ噴火などが起こり列島は大変動が起こった図そして...栽培種の成立

  • 環太平洋の両面調整尖頭器

    環太平洋の両面調整尖頭器の存在を俯瞰する図石刃から両面加工尖頭器への変遷日本列島に於いては新潟県の信濃川流域において両面加工尖頭器はその加工法の変遷経過が見えていて25000年前後に開発されていたようだ図石器の変遷両面加工技法は尖頭器が先ず作られて次に有茎尖頭器、投げ槍の穂先とされている続いて石鏃が作られるようになる石鏃が作られるようになるまでには土器の開発が行われていた図オーストラリアからの出土オーストラリアでは両面加工尖頭器が出ているようなのであるが単独にそれだけが出ているので、周りにもそれに類する石器は出ていないので何故これがあるのか理解出来ないようである年代的にも議論がされていて、確定していないようである図ティンカユの両面加工石器またマレーシアのティンカユで図のような両面加工尖頭器が出ているこれも...環太平洋の両面調整尖頭器

  • 農耕の起源は何処か

    農耕の起源は何処か、これは今でも問題である1.エジプトは栽培植物の起源地では無い図500万年のオデツセイから引用2.エジプトへはメソポタミアから伝わったというのが現在の共通認識である様だ。3.メソポタミアは栽培植物の原種の存在から見て起源地の一つであるとされる。4.農耕に必要なメソポタミアのカレンダーは春分を基準として、それをカペラの出を観測することにより知っていた。太陽観測をしていた根拠は無い。5.この時期にカレンダーを持っていたのは、縄文文化のみ太陽観測は石棒と山により、その記録は土器に突起として遺されていた図縄文土器から見える生業開発とこよみ開発の歴史経過 6.縄文時代後期には二十四節気の暦を完成していたと推定出来るそれを観測する天文台として、金生遺跡の太陽暦観測施設が現存してある図太陽暦観測点 7...農耕の起源は何処か

  • アンラーン

    アンラーンの必要性これまでの縄文文化観のアンラーンが必要では無いか土器は情報記録のメディアであり、土器が作られると共に歴史が記録され残されていた。 図土器に記録されている狩猟、漁労の技術開発の記録 図土器に記録されている農耕開始までの記録 図土器に記録されている数字観念の記録 図カレンダー開発の年表1.古代から数観念はどのようにして認識してきたのか縄文時代が古代文明の中で最も早くから数の認識を示していたのでは無いか 図突起土器の歴史年表縄文時代の突起土器の歴史は、数観念の歴史を示しているのでは無いのかこれは世界的に、最も早くからの数観念の歴史記録である。数字としては1,2、6、4、12,8、5、7と言う数列が見えこれは太陽暦、太陰暦、カレンダーに繋がるものでは無いか。アンラーニングは後期旧石器時代から始め...アンラーン

  • 新石器時代の社会とはどんなものか

    新石器時代の社会とはどんなものかそれは磨製石斧、両面調整尖頭器、石鏃のある社会となるのではないか石鏃や両面調整尖頭器は、製作には大変な時間が掛かるため、石刃技法の槍と比べて、両面調整尖頭器が狩猟効果を特別高めるとは考えにくく、狩猟者がそんな石器を作っていたとは考えにくく専門技術者が作っていたものと推定するそして刃部磨製石斧は、磨く作業にそれほど時間を要するとは思えないが、大きさに規格があった様子から、これも専門製作者の存在が想定できるこのような石器を必要とする社会は、専門製作の分業が始まり、それまでの原始社会とは一線を画する社会になっていたと判断できるので、ここから新石器時代に入ったとして良いのでは無いか。 図諏訪湖の曽根湖底遺跡ここでは石鏃が大量に発見されていて、組成から見て専門製作工房で、石鏃は原石の...新石器時代の社会とはどんなものか

  • 石鏃は何処で何時 開発されたのか

    細石器から石鏃への進化 図石鏃開発時期の年表図はお借りして補足しています弓矢猟は20000年前頃から15000年前頃までに開発されたのでは無いか。年代は資料により異なるので正確では無い。 図両面調整尖頭器と細石器信濃川流域では、ナイフ型尖頭器から両面調整尖頭器が開発されてサケ漁が効率的に行われるようになった。信濃川より北の地域にはサケ漁のためにこの両面調整尖頭器が広がったものと思う。この地域ではその後、有茎尖頭器が作られるようになり、さらに小型の有茎尖頭器が作られていて、投げ槍さらには投げ槍具が使われるようになったのでは無いか。  信濃川より南の地域では、サケ漁とは異なる小型動物の狩猟が主に行われ弓矢の開発が始まっていたものではないか。初めは矢の先には、矢出川技法の細石器の鏃が付けられていたのでは無いか。...石鏃は何処で何時開発されたのか

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、世界遺産にしよう会さんをフォローしませんか?

ハンドル名
世界遺産にしよう会さん
ブログタイトル
金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた
フォロー
金生遺跡は天文台 縄文人は太陽暦も太陰暦も作っていた

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用