本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方、申し訳ないです。休み
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
排除するより受け入れる方が長い目で見たら良いことだと思います。 生活する上で避けなければいけない人もいるものですが常識の範囲で考えて受け入れられるならば受け入れた方が良いと思います。 他人とは自分だからです。 常識で判断して受け入れられない人はしたかないですが、他人を排除するとはいつかの将来の自分を排除していることになると思います。 他人を受け入れられなくとも視線や心には相手を思いやる慈悲を持って見守ってあげたいものです。 他人にした慈悲はいつかの将来の自分へ帰ってくると思えてなりません。 今日を頑張りましょう。 ありがとうございます。他人とは自分だから
本日の記事の更新はお休みです。 楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
過去の聖者たちも自分の心を見つめて真我で在りました。 その御方たちが 以下広告 ・ラマナマハルシ真我https://amzn.asia/d/6TXJ77a ・老子柔訳老子の言葉Kindle版https://amzn.asia/d/cbON91K ・釈尊柔訳釈尊の言葉第1巻https://amzn.asia/d/7Hyr9h6 ・ニサルガダッタ・マハラジニサルガダッタ・マハラジが指し示したものhttps://amzn.asia/d/hC0jmPo 以上の内容で真我の知識がわかると思います。 もっとも、自分で自分の心を探求する道ですから不要であります。 何か皆様の参考になれば、幸いです。 ありがとうございます。過去の聖者たちも自分の心を見つめて探求していました
心が飢えているといくらあっても足りなく感じられるものです。悟りの初期の瞬間の至福もやがて日常へ溶け込みます。つまり、退屈になるのです。退屈になると新しい刺激を希望し始めます。この希望し始めるとは「ちょっと足りない」くらいが幸福だということです。悟っても悟らなくても「ちょっと足りない」と感じるはどちらも究極の表れなのではないでしょうか?宇宙の広がりも同じかもしれません。ちょっとずつ拡大しているのかもしれません。私たちの感じる寂しさも孤独も自然なことです。誰もが孤独で寂しいものです。孤独感と寂しさが人によって感じ方の度合いが違うだけです。皆寂しいから、皆孤独だから。寂しいのも孤独なのも正常で人の正しい姿です。慌てずに今日を頑張りましょう。ありがとうございます。寂しいのも孤独なのも正常で人の正しい姿です
心に余裕がないときは大自然と溶け込みます。 大自然とは無言だからよいのです。 大自然は人格への対象がないので大自然全体に溶け込みます。 人生には何度かは話しかけられることすら苦痛に感じるときがあるものです。 そんな時は無理に他人に合わせることもないです。 生きているだけで良いのです。 時間が過ぎればやがて苦しみも過ぎ去ります。 苦しみも長くても寿命までで、長くても数十年くらいです。 いつか終わってしまうことだから慌てずに苦しんでいましょう。 苦しみから逃げられても、別の苦しみが来るものだから、苦しいのは当然です。 苦しいのが当然ならば苦しみの中で楽しく生活すれば良いのです。 これくらいの苦しみに抑えていただいてありがとうございます。苦しいのが当然ならば苦しみの中で楽しく生活すれば良いのです
人生の答えとは、自分の外側ではなくて、自分の内側、つまり心にあります。 他人を信じても不安がつきまといます。 物を信じても永遠ではありません。 お金を信じても死後まで持っていけません。 では、誰にでもあって、みんなが無料で気づけて、誰にでも感じれるものはなにか? それは真我です。 考えてもみますと赤ちゃんになにがなんでもという我(エゴ)はありませんし、死後に私が私がという我(エゴ)はありません。 私が生まれてくるずっと前にも「私」はいません。 私が死んだ後の100年後、500年後、1000年後には「私」の生きた形跡はないと思います。 個人ならなおさらです。 私(エゴ=肉体)ではなくて、ずっと宇宙にあって死後もあるものそれは 真我 です。 なぜ真我だと言い切れるのか? 「体験」として真我を知っているからです...自灯明=自分の真我を頼りに生きてくんだよ
案ずるより産むが易しと言います。この諺の意味は、いろいろ考えるより行動した方が簡単だよということだと感じます。つまり、いろいろ悩んで答えがでないならば目を開いて悩みに関することで体を動かすんだよということです。しかし、理屈ではわかりますがなかなか行動ができないものです。それでも悩んだときどうしたらいいのか?私ならば笑いを意識します。読書や映画、漫才を観劇します。人生の滑稽なところを笑います。笑い飛ばすことがお祓いであり生きる活力です。それでも人生を笑ってやりましょう。ありがとうございます。それでも人生を笑ってやりましょう
頑張りすぎている人には手を抜きなさいということでしょう。 なまけすぎている人には頑張ることの大切さを説くでしょう。 頑張ること適度に手を抜いている人にはほどほどがいいね、このまま生きていきましょうと言います。 つまり悩みに対しての答えは個人には当てはまることがありますが、個人の答えが全体に当てはまることはなく、全体の答えが個人に当てはまることはないのです。 しかし、老子は全体に個人に宇宙に心に当てはまる内容を書き遺しました。 私は老子の言葉を知ることを推奨します。 できれば何度も再読することもできればいいなと思います。 それぞれのご家庭の予算や事情がありますので無理は不要です。 自分の気になることが最善を呼ぶ気がしてなりません。 今日を頑張りましょう。 ありがとうございます。老子の言葉を知ることを推奨します
食品への懸念を思います。 添加物、農薬などが心配です。 ここ近年になり私は脱毛が増えました。 対策としては松葉とヨモギのサプリとそれらのブレンド茶を日常的に食しています。 プラス梅と乳酸菌とビタミンCのサプリも日常的に食しています。 すると体毛が増えて来ました。 頭髪の抜け毛も減りました。 やはり松葉とヨモギがよかったように想定します。 肌へのデキモノにはハトムギ茶で対応しています。 私は手指と足の裏にデキモノができました。 ハトムギ茶での対策のおかげかデキモノが減りました。 気になった方は「ハトムギアポトーシス」で調べてみてね。 まだ「目に見える形」で現れてくれているので対応しやすく幸運と幸福を感じます。 何か皆様の参考になれれば、幸いです。 ありがとうございます。食品への懸念を思います。そして対策
思いやりとは相手のしかたない背景を想像することだと思います。 間違いを犯してしまったしかたなかった背景。そう発言してしまってもしかたのない背景。 生活のストレス、親子関係、社会での理不尽、会社でのいじめ、兄弟問題、健康問題、借金の問題。 法的なことは淡々としいけば良いと思いますが、自分の視点には慈悲があると良いと思います。 いつまでも相手を恨んでいると自分の運勢が良くないです。 相手が悪いのはわかりますが、そのまま自分までその後の運勢を悪くすることはないと思います。 相手を恨まない、相手を忘れる、または、忘れはしないけど恨まない。 これが思いやり、慈悲、心の強さだと思います。 自分はたまたま罪を犯さなかったかもしれませんが、もし相手と同じ境遇、環境、同じ育ちならば自分が罪を犯していたのかもしれません。 相...相手に罪を犯させない配慮も大切です
考えてみもみますとそのままとは難しいものです。 そのままでいようとしても周りとの関係から喜怒哀楽を繰り返します。 元気になったり、落ち込んだり、不安になったり、安心したり。 欲しいものは増え続けていきます。 では、これを釈尊をなんと言ったのか? 悟る前の直前が一番美味しい。 と言いました。 もしかしたら、感謝しながら喜怒哀楽を繰り返しながら、欲しいものがあるけれど質素倹約する生活とは一番美味しいということなのです。 悟る後というのは暇で退屈なのです。 悟りの初期の高揚感などほんの数日くらいです。 その後は、いつもの日常が続きます。 喜怒哀楽が続きます。 喜怒哀楽が続く=体験できる こう置き換えてみますと見えてくるものがあります。 つまり釈尊は 生きる=体験する と言いたかったのでしょう。 私の人生もまだま...悟る前の直前が一番美味しい
本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
最近に心が辛いことがありました。 辛いことを体験できたことに感謝をしながら黙考していました。 あることを気づきました。 人からひどいことを言われたり、されたりしたら法的なことは淡々としつつ、やり返さずにそのまま生きていくということです。 何を言いたいのかというと、ひどいことを言われたら変に現実を否定せずに言われたままの自分で生きる、ひどいことをされたらされたことを否定せずにそのままの自分で生きるということです。 具体的に書くと 誰かにバカだと言われたら、バカな自分を否定せずにバカな自分で生きるということ。ひどいことをされたら、ひどいことを否定、曲解せずにひどいことをされたことがある自分として生きるということ。 つまり今の自分に起こったことは諦めるということです。 それならば起こったことの苦楽を楽しめるよう...どんな出来事も思い出になるだけです
人生の問題とは生きている限り問題はやってきます。一つ解決してもまた次また次と手を変え品を変えてやってきます。ですから人生とは人生=問題の連続生きる=苦しみの連続生きている=不安の連続これが言えると思います。問題が消えないならばどうしたら良いでしょうか?問題を明るく諦めることで良いと思います。自分の能力で解決できない問題を解決しようとするから何ともないことが問題に変わります。つまり、人生の問題とは自分がどうしようもないことに対してどうにかしようとする(執着)するから何ともないことが問題になります。自分で作った問題に一人で騒いでいるのです。自分でどうにもならない問題を抱えているのならば明るく諦めてみる視点も良いと思います。新しい視点の参考になれれば幸いです。ありがとうございます。人生の問題とは生きている限り問題はやってきます
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされてした方申し訳ないです。お休み
本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
今日はネットで調べ物をしていたらリンガ信仰というものを見つけました。リンガ=男性性器考えてもみますと人を直立で立てば一本の柱です。リンガという神様なら人も神様なのです。男性だけでなく女性も神様です。リンガは、まるでそそりたつ男性のものに空間という母性が包み込んでいるようにも見えます。まるで陰陽のようです。私も清濁ある神様だと思えば自分の身体にも感謝がしたくなります。私も日々に自分の身体に感謝をしています。身体さん(神様)ありがとうございます。身体さん(神様)ありがとうございます
劣等感の克服について思うことがあります。劣等感なので自分と他人を比べて自分の方が劣っているという「感じ方」です。自分より優れている人と自分を比べれば優劣がつきます。自分より劣っている人と比べれば優劣がつきます。つまり、自分は普通だということです。理由は、自分より優れている人と比べたら自分は劣っているし、自分より劣っている人と自分を比べたら自分は優れています。つまり、優劣の真ん中の自分は普通なのです。普通で優れているし「自分だから」素晴らしいのです。生涯勝負で負け続けても気にすることはないです。「自分だから」優れているし「自分だから」素晴らしいのです。そんな優劣で自分のことを嫌いにならないで良いのです。細かい優劣を超えて「自分だから」自分が好きなのです。自分が人より劣っているところを認めても大丈夫なのです。...劣等感の克服
嫌なことやトラブルがあって落ち込んだとしてもそれは幸運の前触れなのです
江戸期の禅僧に良寛さんがおられました。 良寛さんの言葉に ちょうどいい というのがあったと思います。 これは自分に起こることは仕事、家族、友達、近所の人、身体、性別、収入、健康、幸運、幸福全てが自分にちょうどいいということです。 つまり避けようとしても避けられないことは、ダメでもいいし劣っていてもいいし不完全でもいいし無価値でもいいし無能でもいいし無意味でもいいのです。 それらを認めても自分に何か影響があるのでしょうか? 多少、一時的に影響があったとしても自分の生活は続きます。 他人に否定されて否定されたことを認めても大好きな自分のままです。 「人から否定されたな。これも何かの幸運の前触れかもしれない。このまま感謝を続けていよう」 ところで嫌なことやトラブルとは幸運の前触れです。 嫌なことやトラブルがあっ...嫌なことやトラブルがあって落ち込んだとしてもそれは幸運の前触れなのです
努力を楽しんでもいいし、苦労をゲームをするように楽しんでもいいね
釈尊、アインシュタインなどの言葉に共通するのは、人生を「楽しんでいい」ということです。 高校野球の球児やコーチの言葉を見ましても、オリンピック選手やそのコーチの言葉を見まして共通しているのが 目の前のことを「楽しむこと」 です。 人生に避けられない苦労も多いですが、苦労を気にせずに楽しんでもいいんだよということです。 世界的な経営者を見ていてもただ楽しむというより、仕事を遊ぶように楽しんでいるような感じも見受けられます。 時代の波動の変化でしょうか? 楽しいがきっと自分を最善へと導くことでしょう。 何か皆様の参考になれば幸いです。 努力を楽しんでもいいし、苦労をゲームをするように楽しんでもいいね。 ありがとうございます。努力を楽しんでもいいし、苦労をゲームをするように楽しんでもいいね
他人との因縁、縁起の重なりが今の喜怒哀楽を作っています。 自分の喜怒哀楽とは因縁、縁起の結果なのです。 自分の肉体も因果の集まりです。 一時的に現れているだけなのです。 喜怒哀楽も自分の肉体も永遠ではなく、未来には消えている存在です。 今の一時的な表れ(喜怒哀楽、肉体)は永遠ではないのです。 不幸もやがて消えれば、幸福もやがて消えていくのです。 慌てることなく不幸にも幸福にも感謝して味わえばいいのです。 不幸も幸福も因縁、縁起の昇華なのです。 けど、現在に新しい因縁、縁起も作っている最中なのです。 つまり、現在の生き方で不幸も幸福を作り続けているのです。 これが未来は白紙という意味です。 自分を諦めずに頑張っていきましょう。 白紙の未来を知った今人生は始まったばかりです。 ありがとうございます。自分を諦めずに頑張っていきましょう
釈尊の言葉を思い出していました。私なりに釈尊の言葉を訳しますと過去も今も未来も白紙だから自分の生き方次第で変えられると訳します。喜怒哀楽とは自分と他者との因縁の重なりなのだからそんな因縁はない。理由は、元々私たちは自我がないからです。ないものはないのです。名前があるからいつの間には名前に実態があるように感じられます。だから私たちが感じている罪悪感の罪もない。ないものはないからです。理由は、過去も今も未来も白紙だからです。私たちは、ただの因縁の集まりです。因縁が起こっているとは因縁が昇華されているということでもあります。この世は善のみだったのです。ありがとうございます。過去も今も未来も白紙だから自分の生き方次第で変えられる
今日は釈尊の言葉をネットで調べていました。 釈尊のことは好きとかそう言うのを超えています。 言葉や理屈でなく、と言う感じなのです。 釈尊の言葉を調べていくにつれて懐かしい、温かい気持ちになります。 不思議と気持ち良いのです。 とそのような感想ですが、では調べてみた釈尊の言葉どうだったか? 釈尊は一言でいうと 「執着するな」 だと感じました。 これをさらに言いますと、この世という一時的なモノにこだわるのではなく、自分の真我(自灯明)を頼りに生きるんだよ。 と感じます。 また、この世の一時的なことに執着(こだわる)のではなく、すべては因縁の重なりなのだから過去のことは今の自分に関係ない、未来の自分もいずれ消えていくのが約束されているから、過去にも未来に執着するな、自分にも執着するな、ただ生きるだけだよ。 と私...釈尊は、とても気持ち良い気持ちになります
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
良寛さんの遺した言葉に災難に逢う時には災難に逢うがよく候死ぬ時節には死ぬがよく候これはこれ災難をのがるる妙法にて候があります。これを私なりの言葉で訳すると来てしまったものはしかたない。嫌がってもしかたないから受け入れた方がお徳だなあ。明るく諦めよう。です。つまり肩の力を抜いて、気持ちを楽にして脱力しているということです。アホでいるということです。これが現代の私たちにも最善を呼ぶことでしょう。アホになりきれないのは人によくみられたいからかもしれません。ダメで御の字だね。ありがとうございます。ダメで御の字だね
感謝の継続とはどういうことでしょうか? いいことがあった時も嫌なことがあった時も淡々と感謝を神様に奉納していくということだと思います。 いいことがあったから感謝するのではなくて、嫌なことがあった時でも「いつも通り」感謝していくのです。 けど、これが人には難しいことがあります。 とても感謝できるような気持ちではなないからです。 けど、それでも感謝ができるとはなんと稀有なことでしょうか。 日常で感謝をしながらご先祖様、仏様、地球、太陽にも感謝を奉納します。 いろいろありながらも感謝ができる生活とはどれほど稀有なことでしょうか。 感謝を継続するとは見返りを求めずにするのが良いのです。 感謝をして何もないことが最上なのです。 感謝をして神秘体験をしました、というのは危険です。 感謝をするとは何事もなくそれでも過ご...老子も、何事もないことを最上としています
自分と向き合うとはどういうことかを書いてみたいと思います。私は一言でいうと自分に素直になるということだと思います。悟りの話ではなくて人間としての幸福、心の話です。素直になれないの逆は自分が自分に抑圧していることに気づくことです。自分の認めたくないことを否認していませんか?別の言い方でいうともし自分の人生がうまく行っていないなら逆が正しいということです。少しは見えてきたでしょうか?また、別の言い方をすると「私は〇〇の能力がある」「私は〇〇である」と〇〇に自分の望ましい評価を入れて自分を認めるということです。これを逆にいうと自分を低く評価しないことであり、自分を悪く言わなくてもいいんだよということです。自分の感じ方は現状のダメな自分、劣っている自分、不完全な自分で優秀であり、優秀なのだからすごい自分という感じ...自分を嫌うな
「ブログリーダー」を活用して、ゆるい遊びさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方、申し訳ないです。休み
人生の法則として、自分がしたことが自分に帰ることです。よく言われるのが因果の法則です。自分がした良いことも悪いことも自分に返るということです。今日は、これを応用します。生活するときも勝ちを相手に譲ってあげたら、やがて自分が勝つ縁を作っていた。自分が真剣に戦って負けてあげたとき、やがて自分が祝福される縁を作っていた。自分が他人を褒めたからいつかの世で自分が祝福を受ける縁を作っていた。自分から愛したから将来に自分が愛される縁、豊かになる縁を作っていた。この全ての共通点は、求める前に、自分から提供したことです。何か皆様の参考になれれば、幸いです。ありがとうございます。負けても良いよ。勝ちを譲ってあげても良いよ
本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方、申し訳ないです。お休み
生きるとは苦しみであるby釈尊 幸福になっても幸福が消えていく苦しみがあります。 物を手に入れても失くしたり盗られる苦しみがつきまといます。 異性と付き合えてもけんか別れや死別の苦しみがあります。 つまり、いいことがあったとしてもいいことがなくなっていく苦しみがあるのです。 では、必ず苦しみが来るいいこととは本当にいいことだろうか? 初めから持っていないとは幸福かもしれない。 それならば、プラスとマイナスの相殺の上である日常とはありがたいではないですか。 喜怒哀楽があり、それでも生活できること。 究極の下から目線の生かされている上で起こる喜怒哀楽。 生かされている原点への感謝とは、それだけでOKということです。 罪があるけど生かされている、これが答えです。 自分が罪を犯したとしても、生きている限り、罪を償...生きているからブログも読めるし、甘いおやつも食べられるし、スマホやPCで動画も見れるし、お昼寝をすることもできます
いつの世でもあるのは男女の恋愛関係の問題です。 男女の問題も根っ子を見て行けば性欲というサガ(性)です。 では、なぜ性欲が起こるのか? ラマナマハルシはこれを、お互いの形(性器など)の形が違うから性欲が起こると話しています。 なんということでしょう。 性欲とはお互いの体の形の違いから起こっていたのでした。 しかし、これは厳密にいえば性欲はあっても良いのです。 理由は、性欲がないと子孫が残らないからです。 子孫が残るから人類は存続してきました。 男女の恋愛問題からなにをいいたのかと言うと、性欲もほどほどで良いのです。 極端になりすぎるから問題が起こるものです。 人は極端になりやすいサガ(性)なのです。 いつの時代も男女の問題はあるものです。 問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょ...問題があるのを当然として最悪を想定して虎視眈々と楽しんで行きましょう
最近は、若者言葉で「すぐにキレる」人が多いです。 生活する上では「すぐにキレる人」を想定していることが大切です。 同じように自分も怒ったり、すぐにイライラしないことがより大切です。 イライラが怒りの火種になることはよくあることです。 では、釈尊は怒りについてどう話しているか? 怒りを制する者は輪廻転生を終わらせることができると話しています。 怒りの根っこの部分とは自分の妄想である可能性です。 修行をして悟らなくても怒りを制するだけでもよかったのです。 やはり釈尊の言葉には、大自然に溶け込むような気持ちになるものばかりです。 自分の怒りを水に流して行きましょう。 ありがとうございます。自分の怒りを水に流して行きましょう
長所も短所も良いもの悪いも時代や国や立場が変わっていけばその内容も変わっていきます。そんな時は淡々と自分のやるべきことをしていけば良いです。仕事に合わせながら真我をお守りすれば良いです。大切は自分の真我の思いです。真面目に生きていれば大丈夫になります。生きるという期間だけではなく、長い死後の世界もあります。死後を忘れない、いつか自分他人も死んでしまう存在なのを忘れなければ大きな罪は起こしにくいものです。恐れるは真我です。死後に公平な視点から見られるのが真我です。ダメダメでも失敗ばかりでも大丈夫です。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です。今日も感謝して努力を続けて行きましょう。ありがとうございます。感謝して努力を続けていけば大丈夫な世界です
仕事をしていればうまくいかないことがあります。いえ、仕事でなくても家庭でも勉強でもうまくいかないことがあります。つまり、仕事も家庭も勉強もうまくいかないのが自然な姿なのです。だから、慌てずに努力をすれば良いと思います。努力してうまくいくわけではないです。けど、努力を続けます。脱力しながら結果はおまかせで良いです。死ぬときに全てを置いてこの世を去るのですから、うまくいったことうまくいかないことも捨てて逝きます。だからうまくいってもうまくいかなくても問題はないです。最後には捨てていくことだからです。大切は、努力していることです。病気で布団の上にいても感謝できることを探したり療養する努力をする。治療努力する。これならば布団の上で動けなくても努力できます。うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう...うまくいかなくて元々なので、ダメで元々なので挑戦しましょう
本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方、申し訳ないです。お休み
真我をお守りするのは? 日々の生活への注意。 食事への配慮。 防犯への注意です。 ところで近年は凶悪犯罪もありますから、女性の一人暮らしには注意です。 いろんな趣向の人がいますから、女性の一人暮らしは監視されていると思っても間違いではないと思います。 けど、心配過多になってはいけないです。 おおいに心配したら防犯を意識しながら自分の生活を楽しめば良いです。 帰宅時にドアを開けて、そのまま不審者に突進されてそのまま〇イプもある話なので注意です。 帰宅のときは、周囲に人がいないかの確認が良いです。 日中でもです。 これからは自分の身は自分で守ることが大切だと思います。 真我をお守りしましょう。 女性は男性以上に警戒心が大切です。 ありがとうございます。女性は男性以上に警戒心が大切です
本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方、申し訳ないです。お休み
人生も河の流れのようです。 上流では水は清いが生き物が少ないです。 中流になり河の曲がり角が多く、水は角にぶつかりながら、緩急つけて、時には停滞して母性の海を目指します。 下流の海になるといろいろな多くの生物がおり、魚(人)豊富です。 もし、社会から、家庭から、逃げようと思えばそれは海にいる豊富な魚がいるところから逃げるということです。 海があるから幸運があります。 海があるから幸福がります。 どこに逃げても同じような苦しみが来るものです。 それならば今いる場所の苦しみの真ん中で安心して楽しめば良いです。 けど暴力や逃げなければいけない場合もあるから臨機応変に対応です。 苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか。 いっそ苦しいならば、苦しみのど真ん中で安心して居よう、楽しんで居よう。...苦しいのが当たり前だから今さら苦しくてもいつものことじゃないか
押してダメなら引いてみな。人生にもこれくらいのゆとりがあるといいものです。しかし、渦中ではどうしても押す一方になりがちです。そんな時は、それが「必要な期間」だったと言えそうです。では、押しても引いてもダメな場合はどうしたらいいのか?自分が出来る努力を継続しながら、忘れていることです。無駄に力が入っているよりも脱力している方が、無意識の力も働きやすいです。押してダメなら引いてみな、心に力を入れてダメなら脱力してみな、にも言えそうです。これならば努力にも言えそうです。努力してもダメなら脱力してみな。今日も最高の努力を真我に見せていきましょう。ありがとうございます。努力してもダメなら脱力してみな
下から目線で生きる、つまり生かされているだけでもありがたいという視点です。 生かされている=幸福だから=幸運だから嫌なことも不運なことも苦しいこともある。 だから今のままの自分で幸福であり幸運であった。 では、なぜ自分はもっと満たされないのか?なぜ不幸なのか?と思うのか。 それは今ある幸福と幸運に感謝をせずに「もっともっと」と求めているからだと思います。 けど、確かに生き地獄もあるのが事実です。 では、幸福、幸運を感じるにはどうしたら良いのか? ・それでも生活できることを感謝すること。 ・感謝の先祖供養をすること。 ・月に一度でいいから感謝のみの奉納する神社参拝をすること。 以上を参考にされてください。 幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます。 あわてないあわてない。 一...幸福や幸運を期待するだけではなく、幸福や幸運を自分の努力で創っていきます
本日の記事の更新は、お休みです。 楽しみにされていた方、申し訳ないです。お休み
義務でやっていると息が詰まるものです。やらされているよりも「やっている」「楽しんでいる」視点があれば最高です。せっかく生きているのですから、仕事も勉強も家事も楽しめたら良いですね。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです。一度きりの人生を楽しんで行きましょう。ありがとうございます。人生を楽しんではいけないとは誰も言ってないです
下から目線でいれば、人生は感謝することばかりです。生かされているから心配、苦しみ、不安も体験できるのです。そう思うと心配も苦しみも不安も人生の一部であり、人生からのプレゼントだと思えませんか?うまくいかないことも不幸も不運も人生の一部です。生かされているから体験できることです。これも人生の一部なんだと明るく諦めたら良いです。人生に苦しいこともありますが、苦しみを深くしているのは、もっともっとと言う欲心です。なにがなんでも手に入れようとか、絶対になくてはならないと思うと苦しいものです。仕事では厳しく言われるかもしれませんが、厳しく言われるのも仕事の内だと思い、自分なりに努力をすれば良いです。明るく諦めて脱力している方がいい仕事ができるものです。もっともっとと欲しいときも体に余計な力が入っているものです。軽く...日常での感謝の継続は最強です
最近は、肌や体内の常在菌が気になります。 腸内細菌=免疫 これが気になります。 肌や体内の菌を育てることに私は興味があります。 南方熊楠も粘菌への積極的な姿勢がありました。 熊楠は粘菌を守る=日本の森林を守るという活動をされていました。 つまり神社を守る活動をされていました。 肌や体内の常在菌とは宇宙とも言えそうです。 少し前には脳内フローラと言って脳内にも善玉菌のフローラ=菌のお花畑のような絨毯があるとも言われていました。 話はそれましたがこれからは腸内細菌が重要だと思います。 乳酸菌のサプリもありますから臨機応変に飲んでいけたら良いと思います。 食品から摂る乳酸菌も参考にしたいものです。 寝る前の乳酸菌の歯磨き粉も参考にしちあものです。 つまり、今日の言いたいことは、寝ても覚めても菌だ~~ と言うこと...これからは腸内細菌が重要だと思います
努力すること、頑張ることは大切です。しかし、苦しむほどしなくて良いと思います。そうではなくて、脱力していれば良いです。結果だけにこだわらずに、最高の努力をしたら結果は自然な流れにまかせれば良いです。そんなにすごいことをしなくて良いよ。今のままの自分の努力や頑張りを認めてあげたら自然と肩の力が抜けるものです。すごい人にならなくても、今のままですごい私です。私は、今のままですごい、と思って良いよ。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです。自分にはあると思って良いですよ。外側でなく内側のあるからです。ありがとうございます。自信とはあると思えるかないと思ったままかと言うことです
過去の自分や未来の自分に、「もう大丈夫だよ。安心していいよ」と心中で思うことは大切です。今を起点として、自分が過去と未来の自分に大丈夫だよ、安心していいよと心中で思うことにより、過去から未来から今の自分に安心の思いが届きます。「今は苦しいかもしれないけど、未来はああなってこうなって今は安心だよ」と心中で過去の自分に声をかけます。これを何度かしますと、過去の不安だった自分が癒やされて嫌な過去を思い出さなくなることもあります。過去=今=未来だとも言えます。ありがとうございます。過去=今=未来
今日は、親戚一同が自宅に集まっていました。子供の頃から親戚が集まるのが子供時代の私の楽しみ出した。しかし、大人の中ではいろいろあったみたいです。それでも今年もこうやって親戚一同なんとか集まれたことに感謝します。もし、それぞれに都合やなにかありましても一同が会えないものです。家系の深い繋がりを思います。お昼に一緒に食事をしました。いろいろと話で盛り上がりました。食事をいただけるご縁と歓談で笑顔になれる幸運に感謝しました。近代の聖者ラマナマハルシも叔父を自分の住まいに呼んで一緒に生活していたと思います。私の叔父は数年前に亡くなりました。優しい叔父でした。亡くなった叔父は穏やか性格の人でした。大切な叔父であり今でも感謝しています。私は家庭的な愛情は薄いですが人に恵まれてました。今日は書きたいことがあるというより...これからは若い人の時代
釈尊、老子、ラマナマハルシ、マハラジ。 彼らは自己への探究で覚醒しました。 ですから釈尊は自灯明と発言し、マハルシは「私は誰か?」と探究し、マハラジも老子も同じです。 正しい自己への探究は物も他人も必要ありません。 自分一人でできます。 だから私のブログも本来は不要なのです。 けどこれからも書かせてね笑 書かなければいけないような気がするのです。 自己への探究は、自分の家系の先祖に向かうのも正しいです。 日々の先祖供養と感謝の継続が覚醒へ導きます。 物や他人に依存することはないです。 身一つで十分です。 今日も感謝を継続して行きましょう。 ありがとうございます。真我に目覚めるとは自分の身一つで十分です。
人生に答えない。 しかし、真我を思い出し、感謝を継続するという答えがあります。 この答えは、全ての人に共通することだと思います。 「私」という夢を見ています。 私とは=時間の経過、空間の拡大 です。 私という夢はいつ始まるのか? これを探求してみたいと思います。 大人になった今、大人になるまでの御蔭様がありました。 誰もに共通するのは、自分が赤ちゃんの頃です。 赤ちゃんの頃は完全に周りの環境の流れに身をまかせています。 母乳(粉ミルク)をいただきました。 オムツを替えていただきました。 入浴をして心身を生活にしていただきました。 泣いたときにはあやしていただきました。 一緒に遊んでいただきました。 数えればまだまだありそうです。 これらをしてくれた大人がいるのです。 赤ちゃんの頃の自分が求めればしてくれた...御蔭様のおかげで今まで生きてくることができました。
本日の記事の更新はお休みです。 楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
私は食事をいただく時には、食前に食材と神様と先祖への感謝が日課です。 今では日課ですが私は忘れっぽいのでいただきますとご馳走様です、が定着するまで数年かかりました。 御蔭様で外食するといただきますとご馳走様をするのは私くらいなものです笑 それだけ無意識にしてしまうくらいに定着していました。 私は継続に神を見ます。 感謝をすると何も起きませんが、「無言」だから良いのです。 もし感謝をして自分と会話する存在があればそれは注意です。 奇異がないのが神がかりです。 ですから私は祈願、占い、霊能にはノータッチです。 この話が皆様の参考になれば幸いです。 ありがとうございます。食事をいただけるご縁に感謝です。
人生を楽しむということを考えてみました。 誰にでもあって、どんな時にも楽しめるもの。 それは感情や、他人を喜ばせるために使っている行動、時間。 人を思い遣っている行動、時間。 などだと思いました。 苦しい時間もあれば安らぎの時間もあります。 心配している時間もあれば不安な時間もあります。 怖がっている時間もあれば安心している時間もあります。 苦しい感情のときもあれば安らぎの感情のときもあります。 心配している感情の時間もあれば不安な感情のときもあります。 怖がっている感情のときもあれば安心しているときの感情のときもあります。 これらの時間を、感情をプレゼントしていただいています。 これを楽しめば良いのだと思います。 怖いときは怖がれば良いのです。 心配しているときは心配すれば良いのです。 楽しいときは楽し...時間を、感情を、それらは人生からのプレゼントだからです。
自分や他人へのイメージというのはコロコロ変わるものです。 自分へのイメージが変わるということは、他人にならなおさらです。 自分が自他にする善悪の評価もコロコロ変わるものです。 だから自分が変わるときは一瞬です。 きっと前触れもなく一瞬で変わることでしょう。 真我への目覚めも同じです。 いつの間にか一瞬で真我に目覚めているものです。 今日は、自分が人から悪い評価をつけられることを必要以上に怖がらなくていいよということを書きたいと思います。 他人は自分への善悪の評価を「その時の気分」で付けて、変えていくものです。 自分が気にしている他人から得た善悪の評価も、他人は評価したことを忘れているものです。 つまり、評価とはそれだけ曖昧なものなのです。 子供の頃に欲しかったおもちゃは欲しいおもちゃですが、大人になってか...自分が変わるときは一瞬です。
明日捨ててしまう生ゴミなのに誰が前日に生ゴミの中身を確認するでしょうか?そう発言する聖者が過去におられました。生ゴミとは自我(エゴ)のことです。つまり、対象の私のことです。私も人類は最後にはみな自我を明け渡して、真我に気づくと信じています。ところで私と言う対象とは誰のことでしょうか?それは真我が私という個性を想像したときに出来上がる「私とは〇〇である」という自分像です。夢の私です。このイメージは簡変わります。子供の頃に思っていた自分というイメージは、大人になった今の自分イメージは違います。今、流行りの自己評価や自己肯定感は変わりやすくあり、自分で変えて良いのです。周りからの評価はコロコロ変わるし、変わっていって良いので自分への評価を肯定して良いのです。つまり、自分を信じるということです。自分は、価値ある評...自分というイメージはすぐに変わります。だから自分を信じて上げましょう。
人生の喜びと苦しみもプレゼントだと私は思っています。これが深くわかりだしますと、人は黙るのではないでしょうか?地獄を見ても人は黙ります。あれ?喜びも苦しみもいただいても地獄を見ても黙るのです。行き着く先は同じだったのです。これでいい、ちょうどいいというのがわかるのです。そんなに人生をあせらなくても今の自分にちょうどよいのです。ならば、この地獄に肩までつかっていればよいのです。地獄まで共に参ります、で良いのです。意外とこの方が早く地獄から抜け出せるかもしれませんよ?喜びにも苦しみにも感謝していましょう。行き着く先はみな感謝です。ありがとうございます。行き着く先は同じだったのです
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
ここ数年間ほぼ毎日ある男性の意識に変わります。 良い思いならば良いのですが、嫌な印象が残る意識なのです笑 相手の方は、事情のある方なので相手が死ぬまで続くと思っています。 しかし、よくよく考えてみますと、人類も大自然もせっかく地球が作って残してくれたものです。 生きているから体験できることを思えば感謝ができそうなものです。 「いや、あの人はとんでもない人で私は感謝できないです」 という人もおられると思います。 私は、それでも良いと思います。 感謝をするか、しないかは個人の自由に思うからです。 感謝できなくても良いので相手の悲しい背景、寂しい生活環境を思いやってはどうでしょうか? 物理的な距離は置くけれども心は相手への慈悲を向けます。 私は、勉強をするのも、当たり前の感謝に気づくためだと考えています。 同じ...今日という日常を一緒に頑張りましょう
たまには音楽を聞いてみてもいいね。 動画サイトで無料の音楽があるので、自分に合った音楽もいいね。 私は日常的に音楽を聞きますが、音楽を聞くのが日々の楽しみです。 ショパン、バッハ、モーツァルトを聞きます。 その時の気分に合わせて洋楽、邦楽、アニソンなども聞きます。 特に最近聞くのがライアーとシタールの楽器の曲です。 これは心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます。 本来の静寂を思い出させます。 あわてないあわてない。一休み一休み。 ありがとうございます。音楽は、心にポツンと音が落ちて静かになるのが好きで好んで聞きます
最近に思いますのは、幸福にせよ、不幸にせよ現在の体験が2度と来ないことを私たちは知っているのではないでしょう。 だから幸福には感謝して喜びます。 不幸には因果の精算がこれで済んだと泣いて喜ぶのでしょう。 物質的に恵まれても、心が安心していても、いつも考えているのは地球のことであり他人のことです。 この世には自分一人だけしかいないのが真実です。 しかし、それでも地球や他人のことを考えてしまうのです。 あれほど自分のことばっかりだったのに欲望の対象が変わるだけで人はころっと変わってしまいます。 その人にはその人の人生のテーマがあると思います。 感謝をするテーマだったり、素直になることだったり、謝ることだったり、因果を精算のするテーマだったり。 私はすべてに共通する人生のテーマが感謝の継続だと思っています。 仕...2度とない現在を転げ回って生きてやりましょう。
本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み
どんなことも思い出になります。 苦しみは、渦中は苦しいですがやがて思い出になります。喜びは、最中は嬉しいですがやがて思い出になります。 つまり、現在、苦しいということは、喜んでいるということは、思い出になることが決まっているのです。 喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。 けど、苦しみはすぐには忘れないし、時間の経過と共にただの苦しみに色がついて余計苦しくなることがあります。 けど、いつか思い出になることが決まっています。 ですから、受け取ってしまった苦しみならば、苦しみを体験できることに感謝すれば良いのだと思います。 せっかく受け取ってしまった苦しみが「有る」のですから感謝していただきましょう。 有るものだから体験して行きましょう。 この世は、苦しみと言います。 喜びもやがて苦...喜びはすぐに忘れてしまうので感謝の継続がをすれば良いと思います。
人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。 歴史の教科書では、人類の初期はほら穴での生活でした。 寿命で死ぬのも30代頃だと推測されています。 つまり、悲しめるのも苦しめるのも損したり、失っているように感じますが、逆に悲しみも、苦しみも得ているといえないでしょうか? 悲しみも苦しみも逆の感情を知っているからこその悲しみであり苦しみです。 つまり私たちは自分なりの幸福を知っているのです。 あの人のような幸福でなくても自分なりの幸せがあります。 それは悲しみを体験する人生かもしれませんし、苦しみを体験する人生かもしれません。 楽しい人生もあるかもしませんが、楽しみの裏では幸運を使って減らしているかもしません。 今が楽しい人は、感謝の継続です。 これが幸運を減らさない生き方です。 今が不幸だ、苦しい人は、現在に幸...人は、裸で生まれて、裸で死んで行きます。
本日の記事の更新はお休みです。楽しまにされていた方申し訳です。お休み
渦中の最中は、辛く、苦しくて、余裕もなく感じることもあるものです。渦中を過ぎて、何年も立つとあの時まだまだ頑張れたな、もっと頑張ればよかったな、と思う時があります。これは死後に誰も思うことだと思います。家族のためや、会社のため、友達のため、人類のためにいろいろ頑張るけど結果が良くないこともあります。そんな時は「〜ために」ではなく自分でやりたいからやっているという、自分の行動の見返りを求めない、相手の反応を期待しない心の態度が良いと思います。人は受け取ると心が弱くなります。ですから、与える一方で良いのです。お喜びいただけるだけで十分です。お喜びいただけるとは、相手が笑顔になるだけではないです。中には感情のはけ口として、ひどいことを言われることもあります。けど、それで良いのです。人の嫌な部分も含めてお喜びいた...逃げられない、、、それならば今日も善意も悪意も受け切ってやりましょう。
執着はするな、とは釈尊の御言葉です。 私も同意します。 けど、自分の人生は簡単に諦めてはいけないと思います。 自分とは真我を預かることで人生を生きることが可能であり、真我をお守りすることも大切だからです。 つまり、 ・結果に執着はしないけれど、最高の努力をします・病気で布団から出られない時は布団の中で養生という最高の努力をします と言うことだと思います。 あの人のように努力できないものだし、思うほど成果が上がらないかもしれません。 けど、不自由な世界に生きているのですから、うまくいかないのが自然だからこれで良いのです。 昔の人も、未来の人も、現在の人もうまくいかない中を生きています。 私たちもうまくいかない中を感謝して生きれればそれで良いのです。 この現実を右往左往しながら生き抜いてやりましょう。 うまく...結果に執着はしないけど、最高の努力をします。
考えてもみましても、自分の体験とは、2度とできない体験なのでしょう。 笑うことも、泣くことも、怒ることも、悲しむことも2度とない体験です。 それを思うと今のうちから、もっと体験してやろうと思えるかもしれません。 老子は、全ては逆であるとします。 ・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです ・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです これが言えると思います。 では、幸運を無くさない、不運を幸運にして貯めるにはどうしたら良いか? 私は感謝の継続だと思います。 気づかない幸運を取りこぼしてしまうこともありますが、ご先祖様への感謝で良いと思います。 ご先祖様への感謝の継続=幸運の継続 が言えると思います。 ならば、もうちょっと苦労して感謝してやりましょう。 ありがとうございます。・幸運の時は、逆に幸運を使っていたのです・不運の時は、逆に幸運を貯めていたのです