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2021/07/23

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  • お休み

    本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み

  • 他人とは自分だから

    排除するより受け入れる方が長い目で見たら良いことだと思います。 生活する上で避けなければいけない人もいるものですが常識の範囲で考えて受け入れられるならば受け入れた方が良いと思います。 他人とは自分だからです。 常識で判断して受け入れられない人はしたかないですが、他人を排除するとはいつかの将来の自分を排除していることになると思います。 他人を受け入れられなくとも視線や心には相手を思いやる慈悲を持って見守ってあげたいものです。 他人にした慈悲はいつかの将来の自分へ帰ってくると思えてなりません。 今日を頑張りましょう。 ありがとうございます。他人とは自分だから

  • お休み

    本日の記事の更新はお休みです。 楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み

  • 過去の聖者たちも自分の心を見つめて探求していました

    過去の聖者たちも自分の心を見つめて真我で在りました。 その御方たちが 以下広告 ・ラマナマハルシ真我https://amzn.asia/d/6TXJ77a ・老子柔訳老子の言葉Kindle版https://amzn.asia/d/cbON91K ・釈尊柔訳釈尊の言葉第1巻https://amzn.asia/d/7Hyr9h6 ・ニサルガダッタ・マハラジニサルガダッタ・マハラジが指し示したものhttps://amzn.asia/d/hC0jmPo 以上の内容で真我の知識がわかると思います。 もっとも、自分で自分の心を探求する道ですから不要であります。 何か皆様の参考になれば、幸いです。 ありがとうございます。過去の聖者たちも自分の心を見つめて探求していました

  • 寂しいのも孤独なのも正常で人の正しい姿です

    心が飢えているといくらあっても足りなく感じられるものです。悟りの初期の瞬間の至福もやがて日常へ溶け込みます。つまり、退屈になるのです。退屈になると新しい刺激を希望し始めます。この希望し始めるとは「ちょっと足りない」くらいが幸福だということです。悟っても悟らなくても「ちょっと足りない」と感じるはどちらも究極の表れなのではないでしょうか?宇宙の広がりも同じかもしれません。ちょっとずつ拡大しているのかもしれません。私たちの感じる寂しさも孤独も自然なことです。誰もが孤独で寂しいものです。孤独感と寂しさが人によって感じ方の度合いが違うだけです。皆寂しいから、皆孤独だから。寂しいのも孤独なのも正常で人の正しい姿です。慌てずに今日を頑張りましょう。ありがとうございます。寂しいのも孤独なのも正常で人の正しい姿です

  • 苦しいのが当然ならば苦しみの中で楽しく生活すれば良いのです

    心に余裕がないときは大自然と溶け込みます。 大自然とは無言だからよいのです。 大自然は人格への対象がないので大自然全体に溶け込みます。 人生には何度かは話しかけられることすら苦痛に感じるときがあるものです。 そんな時は無理に他人に合わせることもないです。 生きているだけで良いのです。 時間が過ぎればやがて苦しみも過ぎ去ります。 苦しみも長くても寿命までで、長くても数十年くらいです。 いつか終わってしまうことだから慌てずに苦しんでいましょう。 苦しみから逃げられても、別の苦しみが来るものだから、苦しいのは当然です。 苦しいのが当然ならば苦しみの中で楽しく生活すれば良いのです。 これくらいの苦しみに抑えていただいてありがとうございます。苦しいのが当然ならば苦しみの中で楽しく生活すれば良いのです

  • 自灯明=自分の真我を頼りに生きてくんだよ

    人生の答えとは、自分の外側ではなくて、自分の内側、つまり心にあります。 他人を信じても不安がつきまといます。 物を信じても永遠ではありません。 お金を信じても死後まで持っていけません。 では、誰にでもあって、みんなが無料で気づけて、誰にでも感じれるものはなにか? それは真我です。 考えてもみますと赤ちゃんになにがなんでもという我(エゴ)はありませんし、死後に私が私がという我(エゴ)はありません。 私が生まれてくるずっと前にも「私」はいません。 私が死んだ後の100年後、500年後、1000年後には「私」の生きた形跡はないと思います。 個人ならなおさらです。 私(エゴ=肉体)ではなくて、ずっと宇宙にあって死後もあるものそれは 真我 です。 なぜ真我だと言い切れるのか? 「体験」として真我を知っているからです...自灯明=自分の真我を頼りに生きてくんだよ

  • それでも人生を笑ってやりましょう

    案ずるより産むが易しと言います。この諺の意味は、いろいろ考えるより行動した方が簡単だよということだと感じます。つまり、いろいろ悩んで答えがでないならば目を開いて悩みに関することで体を動かすんだよということです。しかし、理屈ではわかりますがなかなか行動ができないものです。それでも悩んだときどうしたらいいのか?私ならば笑いを意識します。読書や映画、漫才を観劇します。人生の滑稽なところを笑います。笑い飛ばすことがお祓いであり生きる活力です。それでも人生を笑ってやりましょう。ありがとうございます。それでも人生を笑ってやりましょう

  • 老子の言葉を知ることを推奨します

    頑張りすぎている人には手を抜きなさいということでしょう。 なまけすぎている人には頑張ることの大切さを説くでしょう。 頑張ること適度に手を抜いている人にはほどほどがいいね、このまま生きていきましょうと言います。 つまり悩みに対しての答えは個人には当てはまることがありますが、個人の答えが全体に当てはまることはなく、全体の答えが個人に当てはまることはないのです。 しかし、老子は全体に個人に宇宙に心に当てはまる内容を書き遺しました。 私は老子の言葉を知ることを推奨します。 できれば何度も再読することもできればいいなと思います。 それぞれのご家庭の予算や事情がありますので無理は不要です。 自分の気になることが最善を呼ぶ気がしてなりません。 今日を頑張りましょう。 ありがとうございます。老子の言葉を知ることを推奨します

  • 食品への懸念を思います。そして対策

    食品への懸念を思います。 添加物、農薬などが心配です。 ここ近年になり私は脱毛が増えました。 対策としては松葉とヨモギのサプリとそれらのブレンド茶を日常的に食しています。 プラス梅と乳酸菌とビタミンCのサプリも日常的に食しています。 すると体毛が増えて来ました。 頭髪の抜け毛も減りました。 やはり松葉とヨモギがよかったように想定します。 肌へのデキモノにはハトムギ茶で対応しています。 私は手指と足の裏にデキモノができました。 ハトムギ茶での対策のおかげかデキモノが減りました。 気になった方は「ハトムギアポトーシス」で調べてみてね。 まだ「目に見える形」で現れてくれているので対応しやすく幸運と幸福を感じます。 何か皆様の参考になれれば、幸いです。 ありがとうございます。食品への懸念を思います。そして対策

  • 相手に罪を犯させない配慮も大切です

    思いやりとは相手のしかたない背景を想像することだと思います。 間違いを犯してしまったしかたなかった背景。そう発言してしまってもしかたのない背景。 生活のストレス、親子関係、社会での理不尽、会社でのいじめ、兄弟問題、健康問題、借金の問題。 法的なことは淡々としいけば良いと思いますが、自分の視点には慈悲があると良いと思います。 いつまでも相手を恨んでいると自分の運勢が良くないです。 相手が悪いのはわかりますが、そのまま自分までその後の運勢を悪くすることはないと思います。 相手を恨まない、相手を忘れる、または、忘れはしないけど恨まない。 これが思いやり、慈悲、心の強さだと思います。 自分はたまたま罪を犯さなかったかもしれませんが、もし相手と同じ境遇、環境、同じ育ちならば自分が罪を犯していたのかもしれません。 相...相手に罪を犯させない配慮も大切です

  • 悟る前の直前が一番美味しい

    考えてみもみますとそのままとは難しいものです。 そのままでいようとしても周りとの関係から喜怒哀楽を繰り返します。 元気になったり、落ち込んだり、不安になったり、安心したり。 欲しいものは増え続けていきます。 では、これを釈尊をなんと言ったのか? 悟る前の直前が一番美味しい。 と言いました。 もしかしたら、感謝しながら喜怒哀楽を繰り返しながら、欲しいものがあるけれど質素倹約する生活とは一番美味しいということなのです。 悟る後というのは暇で退屈なのです。 悟りの初期の高揚感などほんの数日くらいです。 その後は、いつもの日常が続きます。 喜怒哀楽が続きます。 喜怒哀楽が続く=体験できる こう置き換えてみますと見えてくるものがあります。 つまり釈尊は 生きる=体験する と言いたかったのでしょう。 私の人生もまだま...悟る前の直前が一番美味しい

  • お休み

    本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み

  • どんな出来事も思い出になるだけです

    最近に心が辛いことがありました。 辛いことを体験できたことに感謝をしながら黙考していました。 あることを気づきました。 人からひどいことを言われたり、されたりしたら法的なことは淡々としつつ、やり返さずにそのまま生きていくということです。 何を言いたいのかというと、ひどいことを言われたら変に現実を否定せずに言われたままの自分で生きる、ひどいことをされたらされたことを否定せずにそのままの自分で生きるということです。 具体的に書くと 誰かにバカだと言われたら、バカな自分を否定せずにバカな自分で生きるということ。ひどいことをされたら、ひどいことを否定、曲解せずにひどいことをされたことがある自分として生きるということ。 つまり今の自分に起こったことは諦めるということです。 それならば起こったことの苦楽を楽しめるよう...どんな出来事も思い出になるだけです

  • 人生の問題とは生きている限り問題はやってきます

    人生の問題とは生きている限り問題はやってきます。一つ解決してもまた次また次と手を変え品を変えてやってきます。ですから人生とは人生=問題の連続生きる=苦しみの連続生きている=不安の連続これが言えると思います。問題が消えないならばどうしたら良いでしょうか?問題を明るく諦めることで良いと思います。自分の能力で解決できない問題を解決しようとするから何ともないことが問題に変わります。つまり、人生の問題とは自分がどうしようもないことに対してどうにかしようとする(執着)するから何ともないことが問題になります。自分で作った問題に一人で騒いでいるのです。自分でどうにもならない問題を抱えているのならば明るく諦めてみる視点も良いと思います。新しい視点の参考になれれば幸いです。ありがとうございます。人生の問題とは生きている限り問題はやってきます

  • お休み

    本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされてした方申し訳ないです。お休み

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    本日の記事の更新は、お休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み

  • 身体さん(神様)ありがとうございます

    今日はネットで調べ物をしていたらリンガ信仰というものを見つけました。リンガ=男性性器考えてもみますと人を直立で立てば一本の柱です。リンガという神様なら人も神様なのです。男性だけでなく女性も神様です。リンガは、まるでそそりたつ男性のものに空間という母性が包み込んでいるようにも見えます。まるで陰陽のようです。私も清濁ある神様だと思えば自分の身体にも感謝がしたくなります。私も日々に自分の身体に感謝をしています。身体さん(神様)ありがとうございます。身体さん(神様)ありがとうございます

  • 劣等感の克服

    劣等感の克服について思うことがあります。劣等感なので自分と他人を比べて自分の方が劣っているという「感じ方」です。自分より優れている人と自分を比べれば優劣がつきます。自分より劣っている人と比べれば優劣がつきます。つまり、自分は普通だということです。理由は、自分より優れている人と比べたら自分は劣っているし、自分より劣っている人と自分を比べたら自分は優れています。つまり、優劣の真ん中の自分は普通なのです。普通で優れているし「自分だから」素晴らしいのです。生涯勝負で負け続けても気にすることはないです。「自分だから」優れているし「自分だから」素晴らしいのです。そんな優劣で自分のことを嫌いにならないで良いのです。細かい優劣を超えて「自分だから」自分が好きなのです。自分が人より劣っているところを認めても大丈夫なのです。...劣等感の克服

  • 嫌なことやトラブルがあって落ち込んだとしてもそれは幸運の前触れなのです

    江戸期の禅僧に良寛さんがおられました。 良寛さんの言葉に ちょうどいい というのがあったと思います。 これは自分に起こることは仕事、家族、友達、近所の人、身体、性別、収入、健康、幸運、幸福全てが自分にちょうどいいということです。 つまり避けようとしても避けられないことは、ダメでもいいし劣っていてもいいし不完全でもいいし無価値でもいいし無能でもいいし無意味でもいいのです。 それらを認めても自分に何か影響があるのでしょうか? 多少、一時的に影響があったとしても自分の生活は続きます。 他人に否定されて否定されたことを認めても大好きな自分のままです。 「人から否定されたな。これも何かの幸運の前触れかもしれない。このまま感謝を続けていよう」 ところで嫌なことやトラブルとは幸運の前触れです。 嫌なことやトラブルがあっ...嫌なことやトラブルがあって落ち込んだとしてもそれは幸運の前触れなのです

  • 努力を楽しんでもいいし、苦労をゲームをするように楽しんでもいいね

    釈尊、アインシュタインなどの言葉に共通するのは、人生を「楽しんでいい」ということです。 高校野球の球児やコーチの言葉を見ましても、オリンピック選手やそのコーチの言葉を見まして共通しているのが 目の前のことを「楽しむこと」 です。 人生に避けられない苦労も多いですが、苦労を気にせずに楽しんでもいいんだよということです。 世界的な経営者を見ていてもただ楽しむというより、仕事を遊ぶように楽しんでいるような感じも見受けられます。 時代の波動の変化でしょうか? 楽しいがきっと自分を最善へと導くことでしょう。 何か皆様の参考になれば幸いです。 努力を楽しんでもいいし、苦労をゲームをするように楽しんでもいいね。 ありがとうございます。努力を楽しんでもいいし、苦労をゲームをするように楽しんでもいいね

  • 自分を諦めずに頑張っていきましょう

    他人との因縁、縁起の重なりが今の喜怒哀楽を作っています。 自分の喜怒哀楽とは因縁、縁起の結果なのです。 自分の肉体も因果の集まりです。 一時的に現れているだけなのです。 喜怒哀楽も自分の肉体も永遠ではなく、未来には消えている存在です。 今の一時的な表れ(喜怒哀楽、肉体)は永遠ではないのです。 不幸もやがて消えれば、幸福もやがて消えていくのです。 慌てることなく不幸にも幸福にも感謝して味わえばいいのです。 不幸も幸福も因縁、縁起の昇華なのです。 けど、現在に新しい因縁、縁起も作っている最中なのです。 つまり、現在の生き方で不幸も幸福を作り続けているのです。 これが未来は白紙という意味です。 自分を諦めずに頑張っていきましょう。 白紙の未来を知った今人生は始まったばかりです。 ありがとうございます。自分を諦めずに頑張っていきましょう

  • 過去も今も未来も白紙だから自分の生き方次第で変えられる

    釈尊の言葉を思い出していました。私なりに釈尊の言葉を訳しますと過去も今も未来も白紙だから自分の生き方次第で変えられると訳します。喜怒哀楽とは自分と他者との因縁の重なりなのだからそんな因縁はない。理由は、元々私たちは自我がないからです。ないものはないのです。名前があるからいつの間には名前に実態があるように感じられます。だから私たちが感じている罪悪感の罪もない。ないものはないからです。理由は、過去も今も未来も白紙だからです。私たちは、ただの因縁の集まりです。因縁が起こっているとは因縁が昇華されているということでもあります。この世は善のみだったのです。ありがとうございます。過去も今も未来も白紙だから自分の生き方次第で変えられる

  • 釈尊は、とても気持ち良い気持ちになります

    今日は釈尊の言葉をネットで調べていました。 釈尊のことは好きとかそう言うのを超えています。 言葉や理屈でなく、と言う感じなのです。 釈尊の言葉を調べていくにつれて懐かしい、温かい気持ちになります。 不思議と気持ち良いのです。 とそのような感想ですが、では調べてみた釈尊の言葉どうだったか? 釈尊は一言でいうと 「執着するな」 だと感じました。 これをさらに言いますと、この世という一時的なモノにこだわるのではなく、自分の真我(自灯明)を頼りに生きるんだよ。 と感じます。 また、この世の一時的なことに執着(こだわる)のではなく、すべては因縁の重なりなのだから過去のことは今の自分に関係ない、未来の自分もいずれ消えていくのが約束されているから、過去にも未来に執着するな、自分にも執着するな、ただ生きるだけだよ。 と私...釈尊は、とても気持ち良い気持ちになります

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  • ダメで御の字だね

    良寛さんの遺した言葉に災難に逢う時には災難に逢うがよく候死ぬ時節には死ぬがよく候これはこれ災難をのがるる妙法にて候があります。これを私なりの言葉で訳すると来てしまったものはしかたない。嫌がってもしかたないから受け入れた方がお徳だなあ。明るく諦めよう。です。つまり肩の力を抜いて、気持ちを楽にして脱力しているということです。アホでいるということです。これが現代の私たちにも最善を呼ぶことでしょう。アホになりきれないのは人によくみられたいからかもしれません。ダメで御の字だね。ありがとうございます。ダメで御の字だね

  • 老子も、何事もないことを最上としています

    感謝の継続とはどういうことでしょうか? いいことがあった時も嫌なことがあった時も淡々と感謝を神様に奉納していくということだと思います。 いいことがあったから感謝するのではなくて、嫌なことがあった時でも「いつも通り」感謝していくのです。 けど、これが人には難しいことがあります。 とても感謝できるような気持ちではなないからです。 けど、それでも感謝ができるとはなんと稀有なことでしょうか。 日常で感謝をしながらご先祖様、仏様、地球、太陽にも感謝を奉納します。 いろいろありながらも感謝ができる生活とはどれほど稀有なことでしょうか。 感謝を継続するとは見返りを求めずにするのが良いのです。 感謝をして何もないことが最上なのです。 感謝をして神秘体験をしました、というのは危険です。 感謝をするとは何事もなくそれでも過ご...老子も、何事もないことを最上としています

  • 自分を嫌うな

    自分と向き合うとはどういうことかを書いてみたいと思います。私は一言でいうと自分に素直になるということだと思います。悟りの話ではなくて人間としての幸福、心の話です。素直になれないの逆は自分が自分に抑圧していることに気づくことです。自分の認めたくないことを否認していませんか?別の言い方でいうともし自分の人生がうまく行っていないなら逆が正しいということです。少しは見えてきたでしょうか?また、別の言い方をすると「私は〇〇の能力がある」「私は〇〇である」と〇〇に自分の望ましい評価を入れて自分を認めるということです。これを逆にいうと自分を低く評価しないことであり、自分を悪く言わなくてもいいんだよということです。自分の感じ方は現状のダメな自分、劣っている自分、不完全な自分で優秀であり、優秀なのだからすごい自分という感じ...自分を嫌うな

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